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第65回【プロタゴラス】勇気と臆病は恐怖に対する知識の差? 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると、ソフィスト達は、自分たちの元で勉強をしてアレテーを身につけることが出来れば、人を支配する能力を手に入れることができると主張していました。
しかし、大衆の方に聞いてみると、みんなが口々に、人を支配するのは怒りや欲望や恐怖といった感情であって、知識にはそんな能力はないと言い出しました。
ここでソクラテスは、プロタゴラスに寄り添う形で、『良い人生を歩む』という目的の為には、何よりも知識が必要だというスタンスで、理論を展開させていきました。

簡単に説明すると、『最終的に良かった』と思える道を選ぶ為には、その道中に転がっているメリットとデメリットを把握し、どちらの方が多いのかを比べる必要が出てきます。その能力こそが知恵というわけです。
しかし、プロタゴラスはその説明だけでは不十分として、メリットとデメリットの計測の難しさを説き始めます。
人間は、直近の未来で起こることを重要視し、遠くの未来で起こることを軽視しがちなので、正しく判断をする為には、それなりの技術が必要になってくると補足します。

そして、この対話を続ける内に、ソクラテスプロタゴラスは、正しい知識を得ることが出来れば、本能や一時的な感情にも負けない理性を獲得できて、常に『良い』とされる正解の道を選択することが出来るように成るという事に同意しました。

勇気について(再)

この、『正しい知識と知恵を得れば、理性的に行動ができて、常に正解を選べる』という同意を踏まえた上で、もう一度、勇気について考えてみる事にしましょう。
プロタゴラスは、徳を構成するとされている5つの要素の中で、勇気だけが、他の4つの知恵・節度・正義・敬虔とは別の性質を持っていると主張していました。
その理由として、知恵も節度も敬虔もなく、正義もないのに勇気だけ持ち合わせているような輩がいるからです。

ですが、これまでの議論を振り返ってみると、プロタゴラスの主張としては、知恵や知識を持たないのに、ただ大胆な性格であるがゆえに危険の中に身を投じる様な人間は『勇気ある者』とは言わないと考えている事が分かりました。
では、対象に対する知識を深めればどうなるのかというと、知識を深める程にリスクは少なくなっていきます。
ここでいうリスクとは、危険性のことではなくて、不確実性のことです。

不確実性のリスクとは、どの様な結果になるのかが予測できない時にリスクが高いとして、逆に、結果がわかりきっている時には低いとする指標のようなものです。
例を出すと、2mの脚立から転落するのはリスクが高い事故ですが、高さ600mのビルから飛び降りるときの死ぬリスクはゼロとなります。
何故、このようなことになるのかというと、2mの高さというのは、打ち所が悪ければ死ぬという高さなので、転落した時に無事なのか怪我をするのか、それとも死んでしまうのかが分かりません。

一方で、高さ600mの高さから飛び降りると確実に死んでしまう為、不確実性という点ではリスクはゼロとなります。

恐怖や危険とされているモノは、その対象についての情報が不足しているからこそ、恐怖の対象であったり危険とされている場合が多いです。
その、恐怖の対象となっているものの情報をできる限り集めて分析することが出来れば、その対象に近づいてよいのか、それとも距離を取り続けたほうが良いのかというのが、自ずと分かってきます。
つまり、恐怖とされているモノの情報を集めれば集める程、その出来事に関わった際の結果が予測しやすくなるわけですから、不確実性という意味でのリスクは低下していく事になります。

勇気と臆病の違い

先ほど議論された『知識を持つものは、理性的に、良い結果に結びつく道を選ぶ』という同意に従えば、知識ある理性的な人間というのは、物事を正しく見定めて判断できるわけですから、危険な状態に飛び込むという事はありません。
仮に飛び込むという判断をした場合は、その対象が危険である可能性が低いと分かっているから飛び込む為、大胆さは必要がない事になります。
物事を正しく認識する理性的な人間は、危険だという判断をした物事に対しては、その対象には近づかずに距離を取るという方法を選びます。 

この距離を取るというのを、別の言い方をすれば『逃げる』という事になるわけですが、では、知識を持つものが逃げた場合は勇気がある事になり、知識がない人間が得体の知れない恐怖のために逃げた場合は臆病ということになるのでしょうか。
これに対してプロタゴラスは、臆病なものが勇気のあるものと同じ『逃げる』という行動を取った場合でも、その動機が違う為に、臆病なものの事を勇気あるものとは言わないと否定します。
つまり、プロタゴラスの主張によると、重要なのは正解を選んだという結果ではなく、そのプロセスにあるという事です。

例えば、当時では戦場に向かう事は立派な事だとされていますが、確実な負け戦で、出陣すれば死ぬ事が分かっている戦場に赴くのは、先程の同意からすれば、悪い事という事になります。
その為、戦争に参加しない、もしくは逃げるという選択が理性的な考え方という事になるわけですが、単に臆病な人間が同じ決断をしたとしても、それは動機が違う為に、立派な行動とは言えないというわけです。
勇気あるものの決断は、例えその判断の中に恐怖から逃げるという理由をはらんでいたとしても、立派な決断として褒め称えられるべきだが、臆病なものが出した決断は、みっともないものだというわけです。

勇気と臆病は恐怖に対する知識の差?

しかし、この理屈に沿って考えていくと、勇気とは、恐怖の対象への知識の差ということになります。
戦場に行くという行為に対して、無知のまま怖がれば、それはみっともない事になり、臆病者になってしまいますが、正しい知識を持った上で『絶対に勝てない』と判断して撤退すれば、それは立派な行為ということになります。
知識のない人間が偶然によって選択した結果、正解を引き当てても『みっともない行為』となり、知識がある人間が確信を持って選択すれば、例え、選択した結果が無知な者が判断したものと同じであったとしても勇気ある立派な行動と呼ぶ。

臆病なものは、臆病であるが故に、常に安全な道を選ぼうとしますが、勇気ある者は、その者が備えている知識によって、向かうべき道が安全だと分かっているから、その道を進んでいく。
どちらも、安全な道を選択して進んでいる事に違いは無いわけですが、これは同じ様に評価はされないという事です。

これらの事をまとめると、勇気という概念は、恐怖の対象に対する知識をどれだけ持っているのかという事になります。
このようにソクラテスは、同意が得られた事をまとめる事によって、勇気とは知識や知恵のようなものだという結果にたどり着いたのですが、プロタゴラスは、どうも納得がいきません。
しかし、プロタゴラス自身も同意した内容によって出た答えなので、彼はソクラテスの主張に渋しぶ同意します。

プロタゴラスの主張では、勇気は知識とは性質が違うという主張でしたが、一つづつ分解して考えていくと、勇気と知識は同じもので、恐怖や不安などの特定のマイナスの感情に対する知識の有無が、勇気の有無ということになってしまいました。
つまり臆病者と勇気ある者との差は、向かっていく対象に対する知識の差ということです。
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