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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast原稿】第64回【プロタゴラス】人を支配するのは知識か感情か 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

善悪を正しく見定める技術

例えば、どれぐらい距離が離れれば、物体はどれぐらい小さく見えるのかと行った知識や、それを測る技術を身に着けることで、それぞれのメリットとデメリットの大きさを正しく把握することが出来るようになります。
正しく見極める知識を持ってさえいれば、近くに転がっているメリットに目が眩んで、欲望に支配されるなんて事は起こらないでしょう。
仮に、欲望に目がくらんだとしたら、それはその者に知識が足りなかったという証拠であり、正しい知識を身に着けた者にそのような事は決して起こらないといえます。

ソフィストとは、それを見極める技術を持ち、他人に教える教師のことです。
しかし民衆は、この事を理解せずに、進むべき『善い道』とは、教える事が出来ない様な、知識とは別のものだと思い込み、結果として、自身がソフィストに学ぼうともせず、自分の子供に習わせようとも思わない。
民衆自身は、正しい見極めが出来るような知識を持たないのに、その事を重要視することもなく、目先の損得にとらわれて感情的になってしまうような人間という事になります。

自分自身の無知を認め、お金さえ払えば自分の知らない知識を与えれくれるソフィストを頼ることもしない。
ソフィストは胡散臭い技術を教えていると誤解して、自身の金の心配をしてソフィストから距離を取ろうとする民衆は、仮に自滅したとしても自業自得という事なのでしょう。

理性的な人間とは善い道だけを選ぶ

という事で、物事には流れというものがあり、その前後も踏まえて考えなければ、事の善悪を決めることが出来ないという主張を、ソクラテスがプロタゴラスに寄り添う形で話し、プロタゴラスは、その主張に足りない部分を付け足したわけですが…
これまでの話を踏まえた上で、もう一度、『快い事』であるとか『悪い事』について、考えを巡らせていこうと思います。

ソクラテスの推測によると、プロタゴラスが教える知識とは、先の未来まで見通した上でメリットやデメリットを把握し、それらを比べる事で最良の道を進むことが出来るというものでした。
もし仮に、このようなことが実現した場合、人は数多くの選択肢を突きつけられた際に、常に正解を選択できるでしょうし、もし、何らかの事情で悪い道を歩かざるを得ない状況に追い込まれても、機会を伺って別の道に変えるでしょう。

正しい知識を得た者は、自分自身から湧き出た一時的な感情に支配される事はなく、既に持っている知識によって理性的に動くことが出来て、結果として最良の道を選ぶことになります。 つまり、本能を抑え込んで理性のみで動けるという事です。
今、自分が歩んでいる道よりも更に良い道が見つかれば、自身の実力や環境を踏まえた上で道を乗り換えるでしょうし、悪い道を選ばざるを得ない場合は、もっとマシな道を見つけるように行動し、自分自身をより良い状態にしようとするでしょう。
正しく知識を収める者は、自らの意思でデメリットに飛び込んでいくような真似はしないという事になります。

つまり、この道を進むと恐怖が待ち受けているという道があった場合、知識がある人間はそれを正しく認識し、その恐怖を避ける道を選ぶために、そもそも恐怖といったものに遭遇しない。
これは、恐怖以外の不安など、マイナスの感情を含む事柄も同じで、知識があり、マイナスの事柄を見分けられる人間は、自ら、自分のマイナスになるような選択肢に飛び込むなんて事はしないという事です。

究極の護身術は危険に遭遇しないこと

これを漫画の例で例えるなら、グラップラー刃牙という漫画の中に、合気道を極めた渋川剛気という人物が登場します。
渋川剛気という人物は、強く優れた人間になる為に、合気道という武術を習って、自分自身でも過酷な鍛錬を行って、かなり強い実力者に成長します。
そして、自分が身に着けた力を試したいという感情に押されて、他の武術をおさめた強いものや、自分を育ててくれた師匠に挑戦をしたりもする様な人物なのですが…

この渋川剛気は、ある日、師匠と強さについて対話を行います。
渋川剛気の師匠によると、敵が右手で突いてきたら、この様にかわして反撃し、相手がそれに反応したら、こちらは、その攻撃を否して… などと考えているうちは、武術を極めるには程遠いと断言します。
武術。特に、渋川剛気が極めようと思っている合気道は、単に相手を倒す為の格闘技ではなく、自分が不意に襲われた際に、自分の身を守るための技術である護身術です。

その護身術である合気道を、本当の意味で極めたとするなら、敵と対峙した際の体の使い方をどうするのかといった以前の話として、そもそも、驚異となる存在に出会う事がないと主張します。
つまり、自分の身を危険から守る為の最強の方法というのは、危険に対処する為の技術ではなく、危険に遭遇しない技術というわけです。
そもそも危険に遭遇しなければ、相手が責めてくるという事もなく、相手が責めてくる事のない人生であるなら、強敵を相手にする技術を使う必要も、それを学ぶ必要すらも無くなる。

本当の意味で、完全な護身術を身につければ、その場の雰囲気を直感的に読むことが出来て、先に待ち構えている危険を察知することが出来る、それを自然と避ける事も出来る為、そもそも危険と遭遇することが無いという事です。
つまり、護身術の本質とは、体をどの様に動かせば良いとか、体を思い通りに動かせるように鍛錬すると言ったことではなく、自分の周りを取り囲む環境の変化を注意深く読み取る能力という事になります。

先を見据えて動けるものは最終目標である幸福を目指す

これと同じ様に、本当の意味で、メリットとデメリットを正しく測る知識や知恵を身に着けた人間は、そもそも苦痛や恐怖を伴うような出来事に遭遇しないという事です。
メリットとデメリットを正しく計測して、自分のメリットになる道を的確に選んで、最終的に快いと感じる事が出来る正解の道を選び続けることが出来ます。

自分が行く先に、プラスとマイナスがある場合、知識がある人はプラスを選ぶでしょうし、小さなマイナスと大きなマイナスがある場合は、知識がある人は、考えるまでもなく小さなマイナスを選ぶでしょう。
分岐点に差し掛かった時に、今まで歩いていた道とは別の道に、今よりも より大きなプラスがある場合には、理性的な人は当然のように、そちらの道に乗り換えます。
例え、自分が今まで進んできた道に愛着があったとしても、知識を持つ人間は、その感情に打ち勝って理性的な判断を行う事によって、より良い道に移ることが出来るはずです。

これまでの話を簡単にまとめると、理性的な人間は、どんな時であっても、善い道を歩むことを優先し、目の前に善悪につづくそれぞれの道があった場合には、悪に到達する道を選ぶようなことはしません。
この『マイナス』という言葉の部分に恐怖という言葉を当てはめても、これはそのまま通用して、目の前に小さな恐怖と大きな恐怖がある場合、正しい知識を持つものは敢えて大きな恐怖に向かって行くという行動は行わないことになります。

人を支配するのは感情ではなく知識

つまり、人を支配するのは、正しい知識と、知識をうまい具合に使いこなす知恵であって、一時的な感情や本能的なものではないという事です。
民衆がこの事を理解せずに、知識を軽視しているのは、民衆が無知であるが故に、この理屈が分からないからです。
仮に、人間を突き動かすものが知性ではなく、感情や本能のようなものであるなら、人間は動物と何の変わりもない事になってしまいます。

しかし、人間は動物とは決定的に違っていて、それが、知識を身に着けることによって、感情や本能を抑え込んで、理性的に良い方向を探し出す能力です。
その理性を育てる為にも知識は重要で、常に学び続けなければならないというのが、この対話によるプロタゴラスとソクラテスの同意です。

次回は、この同意を前提にして、再び、勇気について考えていきます。
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