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プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 3 『裁判官の仕事』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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目次

信念を貫く為には

これを聞かれたアテナイ人諸君は、私に対して『そんな恨みを買い、自分を死に追い込む可能性が有る職業を続ける事を恥とは思わないのか』と思われる方もいるだろう。
だが、私はそれを恥だと思わない。とし、ギリシャ神話のトロイア戦争でのアキレスの取った行動を挙げる。
アキレスは、自分の母親から、先の人生で親友が殺されることを予言され、その仇討をすると自分も死んでしまうという予言を受けていた。

では彼は、自分が生き延びたいがために、親友の仇を討たずにじっとしていたのかというと、そんな事はしていない。
自分が死ぬと分かっていても、親友を弔うために敵に向かっていった。 この様な行動をとったアキレスは、愚かな人間なのだろうか。
人には、どの様な環境に置かれようとも、絶対に貫かなければならない信念がある。

私は、自分が属する国の指導者の指示に従って、3つの戦場に赴いて命をかけて戦った。
そんな私が、自分の命惜しさに神からの神託を無視する事が出来るだろうか。 そんな事をすれば、それこそが神の冒涜であり、私は不敬罪で裁判所に引きずり出されることになるだろう。

『死』は恐ろしいものなのか

また、皆が恐れる『死』というものは、本当に恐ろしいものなのかも疑問だ。
この世には、一度死んで戻ってきた人間などはおらず、死んだ状態がどの様な常態化を経験してい知る人間は1人も居ない。
つまり、死が恐ろしいといっているのは生きているものが行う予測でしかないわけだが…

その生きている者の中で賢者と呼ばれている人達は、誰一人として、真理をしらないし、自分が真理を知らないということすら知らないような者達ばかりだ。
そんな者達が『死ぬのは悪いことだ』と主張したとして、信じるに値するだろうか。
私はあの世が良いところだと信じているわけではない。 ただ、知りもしないのに悪いところだと決めつけることはしないということだ。

私のスタンスは一貫していて、知らないものに対しては知らないという態度で挑む。
死ぬという現象が良いことか悪いことなのかが判明していない為、私はその行為に対して喜ぶことも恐れることもしない。

裁判官の仕事

アテナイ人諸君には、これまでの事を踏まえた上で考えて、判決を出して欲しい。
私が悪いと思うのであれば、私を死刑にするべきだし、濡れ衣を着せられた哀れな存在だと思うのであれば、無罪で放免すべきだろう。

決して、双方の意見を汲み取った上で、『アニュトスの主張には無理があるが、君も誤解を受けるような行動を取ったのだから、これからは、科学に没頭するなんてことや、人の知識を吟味するといったことはせずに、おとなしくしておきなさい。』といった曖昧な判決は出さないで欲しい。
何故なら私は、神の意志を尊重して、この様な行動をとっている。 その行動を、人間が下した判決によって阻止されるような事があれば、それこそ、神に対して申し訳がたたない。
私は裁判官やアテナイ市民を尊敬して入るが、それ以上に神々を信仰しているので、どちらかの意見を聞かなければならない状態に追い込まれれば、私は神々の意見を聞く方を選ぶ。

君たち市民は、お金儲けをしたりそれを溜め込んだり、名声を高めることばかりに熱心になり、真理の追求や、自分の魂を良い方向へ導くために必要なことなどに関しては無頓着だが…
その様な自分の欲望を優先する行為に没頭することこそが、恥ずべき行為なのではないのか?

私は、この裁判でどの様な判決がくだされようとも、私自身の行動を変えるつもりはまったくない。
それを踏まえた上で、私を無罪放免にするなり死刑にするなりすれば良い。

夢の中の住人

ただその前に、これだけは聞いて欲しい。
私を訴えて、裁判の場まで連れてきたのはアニュトス達だが、双方の主張を聞いて実際に判決を下すのは、アテナイ人諸君である。
先程から主張している通り、彼らの証言は嘘ばかりで、私は神々を信仰し、その神託を実行するために行動をしている善人である。

もし仮に、アニュトス達の主張を信じて私を死刑にする場合、アテナイ人諸君らは自らの判断によって、悪人を信じて善人を殺すという判断を行うものとなる。
仮に、悪人の口車に乗って善人を殺してしまうなんて事が起こったとしたら、それは、神がもたらした秩序に反することではないだろうか。
裁判官の中には、いま私が、国外追放や投獄、酷い場合には死刑になるかもしれないとして怯えていると思っているものもいるかも知れない。

しかし、私はそんな事に怯えるなんてことはしない。 もし、怯える事があるとすれば、神がもたらした秩序が破壊されてしまうという事柄に対してだけだ。

私とこの国の市民たちとの関係は、言ってみれば、巨大な馬と虻の様な関係だ。
巨大な馬は、その巨大さ故に脳に血が回らずに眠りこけている。 その眠っている馬を必死で起こそうと、私は身体のいたる所を突き刺して不快感を与えている。
馬は、睡眠を妨害されるのが不愉快なので、鬱陶しそうに私を手で追い払ったり殺そうとしている。

馬は、何も真実を知ること無く、ただ眠りほうけている方が幸せだと勘違いし、眠りを邪魔する私という虻を退治しようとするが、それが本当に達成されてしまえば、馬は二度と目覚めることはない。
真実を知ることなく、この世の真理が分からないままに眠り続けるだけだ。 神が第2の私をこの世に送り出さない限りは。

神に与えられた試練

そして、私のこれまでの行動を観てみれば、私が神によって使命を帯びて尽力してきた人間という事がよく分かるはずだ。
私は、それこそ様々な場所で多くの人たちと、『良い事とは何か』といった事について対話をし続けてきたが、その行動によって、1度たりとも報酬を受け取ったことはない。
その事は、私の極貧生活を観てもらえれば一目瞭然だが、こうして私を訴えているメレトスが、証人として『私に授業料を払った』という者を連れてこれなかったことからも明らかだ。

もし私が、授業料と称して金を受け取っていたとするならば、メレトスの訴えに理解を示すという者も出てくるかもしれないが、私は何も受け取っていない。
では何故、一文の得にもならないような事をわざわざするのかといえば、それは、神が与えた使命だからだ。

ここまで私の弁明を聞いた方は、私の活動が何故、市民一人一人を訪ね歩いて対話するという方法かというのに疑問を持つものいるかも知れない。
それ程までに国や市民を良い方向へと導くために尽力しているのなら、人を統治する政治家を目指し、その立場から言ったほうが良いではないかと。
しかし私は、そうはしなかった。 何故なら、私は子供の頃から、重要な決断に迫られて、間違った方向へ進みそうになると、『その行動はやめろ』と、どこからともなく声が聞こえてきてきた。

メレトスの訴えの中には、国の定めた神々を信仰せず、独自の神霊を信仰しているというものが有るが、彼がそう思い込んで訴えたのは、この事が関係している。
そしてその声は、私が政治の世界に入ることを止めさせようとしてきたのだ。

信念を貫くためには私人であるべき

それは何故かというと、一人の個人として善良であろうと思う人間が国の政治に関わった場合は、長生きできず、信念も全うできないからだ。

私は、自らが政治家を志したことはないが、過去にその役職を与えられたことはある。
その時に私が実際に経験したことを例に出すと、国が戦争に負けた際には、兵士の亡骸や生存者は連れ帰らなければならないという決まりがある。
しかし、ある海戦で負けた際に、嵐で海が荒れているという理由で、海に投げ出された者たちを収容せずに帰国した10人の将軍が裁判にかけられた。

私以外の他の全員が、彼らは有罪だとしたが、私だけは、やむを得ない事情があった為に無罪とすべきだと訴えたが、その事によって、他の政治家たちから大いに恨まれる事になった。
彼らは怒りに任せて私を訴えようとしたが、私は良いと思われる行動を取り続ける為に、意見を変え無かった。
幸いにも、私は短い期間で公職からは開放されたので、今でも生きているが、あのまま政治家を続けていれば、死ぬか、不正に手を染めるかのどちらかを選ばされていただろう。
(つづく)
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参考書籍