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プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 4 『判決』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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目次

最期の訴え

この様に私は、良いと思う道を歩み続けてきた。
また、自分が無知であることを自覚しているが故に、弟子を取るといったこともしていない。
ただ、賢者だと思いこんでいる人間に対して、賢者ではないことを気づかせるという行動に興味を示す者たちは少なからずいた。

私は、他人が対話を見物する事を止めるようなことはしなかったので、その様な見物人の中には私に興味をしす者たちもいた。
彼らのことを弟子とは思ったことはないが、同じ善の道を追求する仲間として接する事はした。

仮に、メレトスが主張する通り、私が彼らを悪の道に引きずり込んだとしたら、私はその仲間たちから恨まれているだろうし、悪くなった仲間から害悪を受けていることだろう。
彼らそのものは、私によって洗脳されているから、恨むことも訴えることも害悪を与えることもしなかったという主張もあるだろうが、では、彼らの家族はどうだろうか。
私は彼らの家族には接触していない。 そして、仮に私と接することで身内が悪くなったのであれば、その身内がクレームを入れてくるのではないだろうか。
(私に騙されたのが少年ばかりだから、身内に相談する知恵もないという言いがかりもあるかもしれないが、私はこの活動を数十年行っている。 当時少年だったものは、とっくに大人になっている為、その理屈も通じないだろう。)

しかし実際には、私の仲間や、その家族は、極貧生活を私の手助けをしてくれている。 仮に私が証人として出廷を頼めば、彼らは喜んで協力してくれるだろう。
その一方でメレトスは、私によって悪の道に引きずり込まれ、被害を受けたという証人を誰一人として連れてくることは出来ないでいる。
(もし、そのようなものが本当にいれば、彼を連れてくれば、私の罪は決定的になるのに)

アテナイ人諸君の中には、私が泣き叫んで叙情酌量を求める姿を見たいと思っていた者もいるかも知れないが、私はそんなことはしない。
私には子供が2人いるが、、諸君らの同情を得るために、その子達を連れてきて親の命乞いをさせるなんてことも行わない。
何故なら、そんな行動が裁判の結果に影響を与えてはいけないからだ。

私にかけられた疑いは、その事のみで裁かれなければならず、他の事情が入るのは不正な行いとなる。
(暗に、ソクラテスの恨みだけで有罪認定する人間を避難している?)

裁判による罪は感情ではなく、国の法律によって裁かれるべきであって、そこに不純物でしかないモノを持ち込んではいけない。
もし私が、アテナイ人諸君に媚を売ったり同情を求めたことで判決が揺らぐのであれば、それこそが、神の定めた秩序に逆らう行為であり、罰せられなければならない。

判決

有罪判決後 次は、刑罰を決める裁判となり、告発者と被告が、それぞれ自分に見合った罰を主張して、どちらの罰が相応しいかを投票によって決める。

裁判結果については、私の思った通りとなった。 というよりも、もっと大差がついて判決が下されると思っていた。
僅か30人が心変わりするだけで、無罪放免になる程の僅差に成るとは思ってもいなかった。
とはいっても、訴えたのがメレトスだけで、アニュトスやリュコンといった後ろ盾がなければ、彼を指示する者はもっと少なかっただろうが…

さて、私の有罪が確定し、次は私の刑罰を決めることになるが、メレトスは刑罰として死刑を望んでいるが、私が妥当だと思う刑罰は、迎賓館での食事だ。
何故なら私は、神の意志に従って国を良くする為に生涯をかけて奔走した。
その代償として、それぐらいのものは貰っても良いはずだ。

この様な発言をすれば、アテナイ人諸君らは、私が我儘でこんな発言をしていると思うかもしれない。
中には、有罪が既に確定しているのだから、自分の命が助かる為にも、妥当だと思われる罪を提示すべきだと思われるかもしれない。
しかし、私は何を恐れて、ありもしない罪に対する刑罰を考えて提示しなければならないのだろうか。 (ソクラテスは死ぬことが悪い事とは思っておらず、死の善悪を知らないとしている)

判決後も信念を曲げないソクラテス

では、具体的にどの様な刑罰が妥当かを考えてみよう。
諸君らの多くが、国外追放が妥当なのではないかと考えるかもしれない。
だが、アテナイを追い出されるということは、私はどこかの国に移住するということになるが、私が今までと同じ様な活動を続けていると、私を慕って多くの青年がついて来る事になるだろう。

そうなれば、同じ様にその国でも訴えを起こされる事になってしまう。
では、訴えられない為に青年と距離をとったとしたらどうだろうか。 今回の裁判は、私が何か不正を犯したということで罪に問われているわけではない。単に、人々の機嫌を損ねたことで訴えられている。
であるなら、青年を遠ざけるような行動を取れば、青年は不機嫌になるわけだから、今度は青年の方から訴えられることになるだろう。

こうして、不正は全く行っていないにも関わらず、誰かの期限を損ねた事で訴えられて有罪になり、その罰として国外追放にされるのであれば、私は次の移住先でも同じ様に訴えられて、国外追放になるだろう。
それとも諸君らは、自分たちは、この私と話すのも議論するのも嫌で、この国を追い出したいと思っているにも関わらず、他の国の人間であれば、私を受け入れてくれるはずだと、そう思っているのだろうか?

死なない為に生きたくはない

これを聴いたアテナイ人諸君の中には、誰とも関わらず、静かに暮らすことは出来ないのかと思われる人もいるだろう。
しかし、私の人生における最大の幸福は、アテレーを追求することであり、その為に研究し、他のものと対話をする事が生き甲斐である。
最大の幸福を禁じてまで、この世にしがみついている意味はあるのだろうか?

別のものは、それ相応の金額を罰金として支払ってはどうかと思うかもしれない。
確かに、私にとって金は無意味なものだし、それを取られたとしても、私の人生においては何の損失もない。
しかし私は無一文である。 ただ、私には仲間がいて、もしかしたら、その仲間は私を助ける為に、罰金を支払う保証人になってくれるかもしれない。

彼らが保証人になってくれれば、30ナムの罰金は支払えるかもしれない。
その為、私は30ナムの罰金刑が妥当だと主張する。

刑罰

結果、ソクラテスは更に80票の差が開いて死刑になる。

私の死刑に投票したアテナイ人諸君。 君たちは、僅かな辛抱が足りないために、国の腐敗を叫ぶ者たちから、賢者を殺したという罪で責め立てられることになるだろう。
何故なら、諸君らの決断が間違っているとして誹謗中傷するものは、私のことを賢者だとして持ち上げるのだから。 実際には、そうではないとしても。

私は既に高齢で、放って置いても勝手にすぐに死んだだろう。
諸君らの中には、私の弁論の時間が足りなかったから、死ぬ事になったんだと言い訳するものもいるだろう。 もっと丁寧に時間をかけて説明されてさえいれば、私は納得したんだと。
確かに、私が死刑になるのには、なにかが足りなかったわけだが、しかしそれは、弁明する時間などではない。

私に足りなかったのは、厚顔無恥な態度で、どんな醜態を晒そうとも生き延びたいという意思だ。
単純に生き延びたいと思うのであれば、誇りを捨てて、惨めに泣き叫んで、数多を下げて懇願し続ければ、相手の優越感が満たされて、生き延びれる可能性は高くなる。
殺し合いの場である戦場ですらも、武器を捨てて土下座し続ければ、相手は見逃してくれるかもしれない。

この様に、目先の死から逃れることは、それほど難しい事ではない。 プライドを捨てて惨めに懇願し続ければ、目先の死は回避できるかもしれない。
だが、死よりも回避するのが困難なことは、不正を犯さないことだ。
自分が信じる者の命令を無視し、自分の利益の為だけに不正を犯すという行動から逃れられる人間は少ない。

私に対して死刑を望んだ者たちは、裁判官という自分の身分は、被告の命を左右できる権限を持つ偉いもので、その裁判官である自分は偉いと思っている。
だから、有罪となったものは、出来るだけ軽い刑罰に成るように自分に懇願すべきだし、裁判官という偉い職業についている私を崇めるべきだと思い込んでいる。
そんな彼らの前に、私のように媚びず屈しない人間が現れて、堂々と答弁したとすれば、彼らはさぞ、面白くなかっただろう。
(つづく
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍