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プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 5 『死の恐怖 < 好奇心』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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目次

死を受け入れるソクラテス

その腹いせに、彼らは『秩序を守る法律』ではなく、感情に任せて死刑を宣告するという不正を行った。
私は彼らから不正を受けて死刑になったが、彼らは彼らで、神の定めた秩序に反する不正を行ったのだから、真理からは遠く離れることになってしまった。
(真理こそが、人を幸福に導く為、不正を働いた彼らが幸福になる事は永遠にない。)

私は、この死刑判決を受け入れよう、だがこれは、彼らにも当てはまる事で、不正を犯した彼らはその運命を受け入れざるを得ない。
人は、残りの人生が僅かになった時に未来を予知する能力が高まるというが、死刑宣告された私は正にその状態であるため、一つ予言をしておこう。
君たちが私を死刑にしたのは、口やかましい老人に自分の無知を暴かれたくなかったからだろう。

殺人の代償

しかし今回の君たちの行動によって、君たちは更に多くの弁明を求められることになるだろう。
何故なら、私を慕ってくれていた青年たちは、君たちの判断が本当に正しかったのかを問いただしに来るからだ。 若くて元気のある彼らの責めは、老人である私よりも遥かにキツいだろう。
自分が無知であるという正体を暴かれたくないという思いから、人殺しをするような人間は、その行為によって生活がマシになるなんて事はありえない。

最も立派で簡単なことは、他人の行動を権力によって抑圧する事では無く、自分自身が良くなるように努力することだ。
この言葉を最後に、君たちとは別れを告げることにする。(死刑に投票した人間は法廷を出ていく。)

死は一種の救済

次に、私に無罪票を投じてくれた裁判官諸君。 私は、死刑囚として投獄されるまでに少し時間があるので、その時間を使って、君たちと語らい合いたいと思う。
裁判中にも語ったが、私は小さい頃から、自分の行動によって、自身に禍が降りかかろうとする際には、どこからともなく声が聞こえてきて、その行動を制止させられてきた。
たとえ討論中であろうとも、言ってはならないことを言おうと思った際には、その言葉によって発言をやめるといった事もあった。

しかし今回。 私は裁判によって死刑判決を下されたわけだが、私は朝から、その声を一度も聴いては居ない。
死ぬという、普通であれば最大の禍と呼べるものを突きつけられたにも関わらず、その声が聞こえなかったということは、死とはみんなが考えているようなものではなく、善いものなのかもしれない。
そして、私達の中で死が禍であると決めつけて信じているものは、その考えを改める必要がある。

この世には、一度死んで戻ってきた人間はいないので、死後の世界は想像することしか出来ないが、思うに2通りのパターンが考えられる。
1つは、全くの無に帰る状態。 そしてもう一つが、魂となってハデスが治めるあの世に旅立てることだ。

仮に死というのが前者であれば、これほど心地よいことはないだろう。
人間というのは寝た際に、夢なども一切見る事無く熟睡することがあるが、その時に人は、どの様な感想を得るだろうか。
とても心地よく、この様な質の高い眠りにずっと浸っていたいと思うのではないだろうか。

死後の探求

人は死んだ後に無に帰らず、霊になってハデスの領域に行くとする後者の場合、これほど楽しみな事はないだろう。
あの世では、人が行う不完全な裁判ではなく、神々が直々に裁きを与えてくれるし、あの世があるということは、既に亡くなっている偉人たちとも意見交換が出来るというものだ。
私と同じ様に不当な裁判によって殺されたものも多くいるだろうから、どちらが不当な裁判だったかと言った対話で楽しむということも出来るだろう。

また、現世では絶対に出来ない、既に亡くなっている賢者との対話も行うことが出来る。
現世では、伝説上の話となっているような偉人を捕まえて、彼らが本当に優れた人物かどうかを存分に吟味するといった対話を楽しむことも出来る。
またあの世では、他人を吟味したという言いがかりをつけられて、再び死刑に処せられることもないだろう。 私には、これほどの幸福は無いと思われる。

どちらにしても、死ぬという行動はそれほど悪いものとは言えない。

もっとも、私に対して死刑判決を下した者たちは、そんな事を考えて私に死を与えるわけではなく、単純に、憂さ晴らしの為に私に危害を加えたかっただけなんだろうが。
その動機で動いたという一点で、彼らは責められるべきだとは思う。

死の恐怖 < 好奇心

この様に私は、死ぬということに対しては恐れを抱いてはいないし、むしろ、死ぬことを楽しみにすらしている。私に今回与えられた死は、何らかの偶然によってもたらされたものではないと思う。(神の御業?)
この世でこうして生きながらえるよりも、むしろ死ぬ事でこの世から開放される方が幸せだと思うからだ。その為、私が間違った道に行こうとすれば警告してくる、例のあの声は、今回に限っては聞こえてこなかったのだろう。

裁判官諸君には、最後に一つ、願い事を聞いてもらいたいと思う。
私には子供がいるが、もしその子供が、物事について何も知らないにも関わらず、知ったふうな態度をとったとしたら、私が市民たちにしたように叱咤し、無知であることを気づかせて欲しい。
また、徳というモノについて考えることもなく、財産を溜め込むと言った行動をとった際にも、その行動について責めて追求して欲しい。

もし、私の子どもたちにその様に接してくれるのであれば、その時初めて、私や、その子どもたちは、諸君らによって正当な扱いを受けたことになるのだから。

もう時間が迫ってきたので、話は終わりにしよう。
私は死ぬために、そして諸君らは生きるために、この場を去ることにしよう。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍