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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 5 『死の恐怖 < 好奇心』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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目次

死を受け入れるソクラテス

その腹いせに、彼らは『秩序を守る法律』ではなく、感情に任せて死刑を宣告するという不正を行った。
私は彼らから不正を受けて死刑になったが、彼らは彼らで、神の定めた秩序に反する不正を行ったのだから、真理からは遠く離れることになってしまった。
(真理こそが、人を幸福に導く為、不正を働いた彼らが幸福になる事は永遠にない。)

私は、この死刑判決を受け入れよう、だがこれは、彼らにも当てはまる事で、不正を犯した彼らはその運命を受け入れざるを得ない。
人は、残りの人生が僅かになった時に未来を予知する能力が高まるというが、死刑宣告された私は正にその状態であるため、一つ予言をしておこう。
君たちが私を死刑にしたのは、口やかましい老人に自分の無知を暴かれたくなかったからだろう。

殺人の代償

しかし今回の君たちの行動によって、君たちは更に多くの弁明を求められることになるだろう。
何故なら、私を慕ってくれていた青年たちは、君たちの判断が本当に正しかったのかを問いただしに来るからだ。 若くて元気のある彼らの責めは、老人である私よりも遥かにキツいだろう。
自分が無知であるという正体を暴かれたくないという思いから、人殺しをするような人間は、その行為によって生活がマシになるなんて事はありえない。

最も立派で簡単なことは、他人の行動を権力によって抑圧する事では無く、自分自身が良くなるように努力することだ。
この言葉を最後に、君たちとは別れを告げることにする。(死刑に投票した人間は法廷を出ていく。)

死は一種の救済

次に、私に無罪票を投じてくれた裁判官諸君。 私は、死刑囚として投獄されるまでに少し時間があるので、その時間を使って、君たちと語らい合いたいと思う。
裁判中にも語ったが、私は小さい頃から、自分の行動によって、自身に禍が降りかかろうとする際には、どこからともなく声が聞こえてきて、その行動を制止させられてきた。
たとえ討論中であろうとも、言ってはならないことを言おうと思った際には、その言葉によって発言をやめるといった事もあった。

しかし今回。 私は裁判によって死刑判決を下されたわけだが、私は朝から、その声を一度も聴いては居ない。
死ぬという、普通であれば最大の禍と呼べるものを突きつけられたにも関わらず、その声が聞こえなかったということは、死とはみんなが考えているようなものではなく、善いものなのかもしれない。
そして、私達の中で死が禍であると決めつけて信じているものは、その考えを改める必要がある。

この世には、一度死んで戻ってきた人間はいないので、死後の世界は想像することしか出来ないが、思うに2通りのパターンが考えられる。
1つは、全くの無に帰る状態。 そしてもう一つが、魂となってハデスが治めるあの世に旅立てることだ。

仮に死というのが前者であれば、これほど心地よいことはないだろう。
人間というのは寝た際に、夢なども一切見る事無く熟睡することがあるが、その時に人は、どの様な感想を得るだろうか。
とても心地よく、この様な質の高い眠りにずっと浸っていたいと思うのではないだろうか。

死後の探求

人は死んだ後に無に帰らず、霊になってハデスの領域に行くとする後者の場合、これほど楽しみな事はないだろう。
あの世では、人が行う不完全な裁判ではなく、神々が直々に裁きを与えてくれるし、あの世があるということは、既に亡くなっている偉人たちとも意見交換が出来るというものだ。
私と同じ様に不当な裁判によって殺されたものも多くいるだろうから、どちらが不当な裁判だったかと言った対話で楽しむということも出来るだろう。

また、現世では絶対に出来ない、既に亡くなっている賢者との対話も行うことが出来る。
現世では、伝説上の話となっているような偉人を捕まえて、彼らが本当に優れた人物かどうかを存分に吟味するといった対話を楽しむことも出来る。
またあの世では、他人を吟味したという言いがかりをつけられて、再び死刑に処せられることもないだろう。 私には、これほどの幸福は無いと思われる。

どちらにしても、死ぬという行動はそれほど悪いものとは言えない。

もっとも、私に対して死刑判決を下した者たちは、そんな事を考えて私に死を与えるわけではなく、単純に、憂さ晴らしの為に私に危害を加えたかっただけなんだろうが。
その動機で動いたという一点で、彼らは責められるべきだとは思う。

死の恐怖 < 好奇心

この様に私は、死ぬということに対しては恐れを抱いてはいないし、むしろ、死ぬことを楽しみにすらしている。私に今回与えられた死は、何らかの偶然によってもたらされたものではないと思う。(神の御業?)
この世でこうして生きながらえるよりも、むしろ死ぬ事でこの世から開放される方が幸せだと思うからだ。その為、私が間違った道に行こうとすれば警告してくる、例のあの声は、今回に限っては聞こえてこなかったのだろう。

裁判官諸君には、最後に一つ、願い事を聞いてもらいたいと思う。
私には子供がいるが、もしその子供が、物事について何も知らないにも関わらず、知ったふうな態度をとったとしたら、私が市民たちにしたように叱咤し、無知であることを気づかせて欲しい。
また、徳というモノについて考えることもなく、財産を溜め込むと言った行動をとった際にも、その行動について責めて追求して欲しい。

もし、私の子どもたちにその様に接してくれるのであれば、その時初めて、私や、その子どもたちは、諸君らによって正当な扱いを受けたことになるのだから。

もう時間が迫ってきたので、話は終わりにしよう。
私は死ぬために、そして諸君らは生きるために、この場を去ることにしよう。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 4 『判決』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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最期の訴え

この様に私は、良いと思う道を歩み続けてきた。
また、自分が無知であることを自覚しているが故に、弟子を取るといったこともしていない。
ただ、賢者だと思いこんでいる人間に対して、賢者ではないことを気づかせるという行動に興味を示す者たちは少なからずいた。

私は、他人が対話を見物する事を止めるようなことはしなかったので、その様な見物人の中には私に興味をしす者たちもいた。
彼らのことを弟子とは思ったことはないが、同じ善の道を追求する仲間として接する事はした。

仮に、メレトスが主張する通り、私が彼らを悪の道に引きずり込んだとしたら、私はその仲間たちから恨まれているだろうし、悪くなった仲間から害悪を受けていることだろう。
彼らそのものは、私によって洗脳されているから、恨むことも訴えることも害悪を与えることもしなかったという主張もあるだろうが、では、彼らの家族はどうだろうか。
私は彼らの家族には接触していない。 そして、仮に私と接することで身内が悪くなったのであれば、その身内がクレームを入れてくるのではないだろうか。
(私に騙されたのが少年ばかりだから、身内に相談する知恵もないという言いがかりもあるかもしれないが、私はこの活動を数十年行っている。 当時少年だったものは、とっくに大人になっている為、その理屈も通じないだろう。)

しかし実際には、私の仲間や、その家族は、極貧生活を私の手助けをしてくれている。 仮に私が証人として出廷を頼めば、彼らは喜んで協力してくれるだろう。
その一方でメレトスは、私によって悪の道に引きずり込まれ、被害を受けたという証人を誰一人として連れてくることは出来ないでいる。
(もし、そのようなものが本当にいれば、彼を連れてくれば、私の罪は決定的になるのに)

アテナイ人諸君の中には、私が泣き叫んで叙情酌量を求める姿を見たいと思っていた者もいるかも知れないが、私はそんなことはしない。
私には子供が2人いるが、、諸君らの同情を得るために、その子達を連れてきて親の命乞いをさせるなんてことも行わない。
何故なら、そんな行動が裁判の結果に影響を与えてはいけないからだ。

私にかけられた疑いは、その事のみで裁かれなければならず、他の事情が入るのは不正な行いとなる。
(暗に、ソクラテスの恨みだけで有罪認定する人間を避難している?)

裁判による罪は感情ではなく、国の法律によって裁かれるべきであって、そこに不純物でしかないモノを持ち込んではいけない。
もし私が、アテナイ人諸君に媚を売ったり同情を求めたことで判決が揺らぐのであれば、それこそが、神の定めた秩序に逆らう行為であり、罰せられなければならない。

判決

有罪判決後 次は、刑罰を決める裁判となり、告発者と被告が、それぞれ自分に見合った罰を主張して、どちらの罰が相応しいかを投票によって決める。

裁判結果については、私の思った通りとなった。 というよりも、もっと大差がついて判決が下されると思っていた。
僅か30人が心変わりするだけで、無罪放免になる程の僅差に成るとは思ってもいなかった。
とはいっても、訴えたのがメレトスだけで、アニュトスやリュコンといった後ろ盾がなければ、彼を指示する者はもっと少なかっただろうが…

さて、私の有罪が確定し、次は私の刑罰を決めることになるが、メレトスは刑罰として死刑を望んでいるが、私が妥当だと思う刑罰は、迎賓館での食事だ。
何故なら私は、神の意志に従って国を良くする為に生涯をかけて奔走した。
その代償として、それぐらいのものは貰っても良いはずだ。

この様な発言をすれば、アテナイ人諸君らは、私が我儘でこんな発言をしていると思うかもしれない。
中には、有罪が既に確定しているのだから、自分の命が助かる為にも、妥当だと思われる罪を提示すべきだと思われるかもしれない。
しかし、私は何を恐れて、ありもしない罪に対する刑罰を考えて提示しなければならないのだろうか。 (ソクラテスは死ぬことが悪い事とは思っておらず、死の善悪を知らないとしている)

判決後も信念を曲げないソクラテス

では、具体的にどの様な刑罰が妥当かを考えてみよう。
諸君らの多くが、国外追放が妥当なのではないかと考えるかもしれない。
だが、アテナイを追い出されるということは、私はどこかの国に移住するということになるが、私が今までと同じ様な活動を続けていると、私を慕って多くの青年がついて来る事になるだろう。

そうなれば、同じ様にその国でも訴えを起こされる事になってしまう。
では、訴えられない為に青年と距離をとったとしたらどうだろうか。 今回の裁判は、私が何か不正を犯したということで罪に問われているわけではない。単に、人々の機嫌を損ねたことで訴えられている。
であるなら、青年を遠ざけるような行動を取れば、青年は不機嫌になるわけだから、今度は青年の方から訴えられることになるだろう。

こうして、不正は全く行っていないにも関わらず、誰かの期限を損ねた事で訴えられて有罪になり、その罰として国外追放にされるのであれば、私は次の移住先でも同じ様に訴えられて、国外追放になるだろう。
それとも諸君らは、自分たちは、この私と話すのも議論するのも嫌で、この国を追い出したいと思っているにも関わらず、他の国の人間であれば、私を受け入れてくれるはずだと、そう思っているのだろうか?

死なない為に生きたくはない

これを聴いたアテナイ人諸君の中には、誰とも関わらず、静かに暮らすことは出来ないのかと思われる人もいるだろう。
しかし、私の人生における最大の幸福は、アレテーを追求することであり、その為に研究し、他のものと対話をする事が生き甲斐である。
最大の幸福を禁じてまで、この世にしがみついている意味はあるのだろうか?

別のものは、それ相応の金額を罰金として支払ってはどうかと思うかもしれない。
確かに、私にとって金は無意味なものだし、それを取られたとしても、私の人生においては何の損失もない。
しかし私は無一文である。 ただ、私には仲間がいて、もしかしたら、その仲間は私を助ける為に、罰金を支払う保証人になってくれるかもしれない。

彼らが保証人になってくれれば、30ナムの罰金は支払えるかもしれない。
その為、私は30ナムの罰金刑が妥当だと主張する。

刑罰

結果、ソクラテスは更に80票の差が開いて死刑になる。

私の死刑に投票したアテナイ人諸君。 君たちは、僅かな辛抱が足りないために、国の腐敗を叫ぶ者たちから、賢者を殺したという罪で責め立てられることになるだろう。
何故なら、諸君らの決断が間違っているとして誹謗中傷するものは、私のことを賢者だとして持ち上げるのだから。 実際には、そうではないとしても。

私は既に高齢で、放って置いても勝手にすぐに死んだだろう。
諸君らの中には、私の弁論の時間が足りなかったから、死ぬ事になったんだと言い訳するものもいるだろう。 もっと丁寧に時間をかけて説明されてさえいれば、私は納得したんだと。
確かに、私が死刑になるのには、なにかが足りなかったわけだが、しかしそれは、弁明する時間などではない。

私に足りなかったのは、厚顔無恥な態度で、どんな醜態を晒そうとも生き延びたいという意思だ。
単純に生き延びたいと思うのであれば、誇りを捨てて、惨めに泣き叫んで、数多を下げて懇願し続ければ、相手の優越感が満たされて、生き延びれる可能性は高くなる。
殺し合いの場である戦場ですらも、武器を捨てて土下座し続ければ、相手は見逃してくれるかもしれない。

この様に、目先の死から逃れることは、それほど難しい事ではない。 プライドを捨てて惨めに懇願し続ければ、目先の死は回避できるかもしれない。
だが、死よりも回避するのが困難なことは、不正を犯さないことだ。
自分が信じる者の命令を無視し、自分の利益の為だけに不正を犯すという行動から逃れられる人間は少ない。

私に対して死刑を望んだ者たちは、裁判官という自分の身分は、被告の命を左右できる権限を持つ偉いもので、その裁判官である自分は偉いと思っている。
だから、有罪となったものは、出来るだけ軽い刑罰に成るように自分に懇願すべきだし、裁判官という偉い職業についている私を崇めるべきだと思い込んでいる。
そんな彼らの前に、私のように媚びず屈しない人間が現れて、堂々と答弁したとすれば、彼らはさぞ、面白くなかっただろう。
(つづく
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参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 3 『裁判官の仕事』

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目次

信念を貫く為には

これを聞かれたアテナイ人諸君は、私に対して『そんな恨みを買い、自分を死に追い込む可能性が有る職業を続ける事を恥とは思わないのか』と思われる方もいるだろう。
だが、私はそれを恥だと思わない。とし、ギリシャ神話のトロイア戦争でのアキレスの取った行動を挙げる。
アキレスは、自分の母親から、先の人生で親友が殺されることを予言され、その仇討をすると自分も死んでしまうという予言を受けていた。

では彼は、自分が生き延びたいがために、親友の仇を討たずにじっとしていたのかというと、そんな事はしていない。
自分が死ぬと分かっていても、親友を弔うために敵に向かっていった。 この様な行動をとったアキレスは、愚かな人間なのだろうか。
人には、どの様な環境に置かれようとも、絶対に貫かなければならない信念がある。

私は、自分が属する国の指導者の指示に従って、3つの戦場に赴いて命をかけて戦った。
そんな私が、自分の命惜しさに神からの神託を無視する事が出来るだろうか。 そんな事をすれば、それこそが神の冒涜であり、私は不敬罪で裁判所に引きずり出されることになるだろう。

『死』は恐ろしいものなのか

また、皆が恐れる『死』というものは、本当に恐ろしいものなのかも疑問だ。
この世には、一度死んで戻ってきた人間などはおらず、死んだ状態がどの様な常態化を経験してい知る人間は1人も居ない。
つまり、死が恐ろしいといっているのは生きているものが行う予測でしかないわけだが…

その生きている者の中で賢者と呼ばれている人達は、誰一人として、真理をしらないし、自分が真理を知らないということすら知らないような者達ばかりだ。
そんな者達が『死ぬのは悪いことだ』と主張したとして、信じるに値するだろうか。
私はあの世が良いところだと信じているわけではない。 ただ、知りもしないのに悪いところだと決めつけることはしないということだ。

私のスタンスは一貫していて、知らないものに対しては知らないという態度で挑む。
死ぬという現象が良いことか悪いことなのかが判明していない為、私はその行為に対して喜ぶことも恐れることもしない。

裁判官の仕事

アテナイ人諸君には、これまでの事を踏まえた上で考えて、判決を出して欲しい。
私が悪いと思うのであれば、私を死刑にするべきだし、濡れ衣を着せられた哀れな存在だと思うのであれば、無罪で放免すべきだろう。

決して、双方の意見を汲み取った上で、『アニュトスの主張には無理があるが、君も誤解を受けるような行動を取ったのだから、これからは、科学に没頭するなんてことや、人の知識を吟味するといったことはせずに、おとなしくしておきなさい。』といった曖昧な判決は出さないで欲しい。
何故なら私は、神の意志を尊重して、この様な行動をとっている。 その行動を、人間が下した判決によって阻止されるような事があれば、それこそ、神に対して申し訳がたたない。
私は裁判官やアテナイ市民を尊敬して入るが、それ以上に神々を信仰しているので、どちらかの意見を聞かなければならない状態に追い込まれれば、私は神々の意見を聞く方を選ぶ。

君たち市民は、お金儲けをしたりそれを溜め込んだり、名声を高めることばかりに熱心になり、真理の追求や、自分の魂を良い方向へ導くために必要なことなどに関しては無頓着だが…
その様な自分の欲望を優先する行為に没頭することこそが、恥ずべき行為なのではないのか?

私は、この裁判でどの様な判決がくだされようとも、私自身の行動を変えるつもりはまったくない。
それを踏まえた上で、私を無罪放免にするなり死刑にするなりすれば良い。

夢の中の住人

ただその前に、これだけは聞いて欲しい。
私を訴えて、裁判の場まで連れてきたのはアニュトス達だが、双方の主張を聞いて実際に判決を下すのは、アテナイ人諸君である。
先程から主張している通り、彼らの証言は嘘ばかりで、私は神々を信仰し、その神託を実行するために行動をしている善人である。

もし仮に、アニュトス達の主張を信じて私を死刑にする場合、アテナイ人諸君らは自らの判断によって、悪人を信じて善人を殺すという判断を行うものとなる。
仮に、悪人の口車に乗って善人を殺してしまうなんて事が起こったとしたら、それは、神がもたらした秩序に反することではないだろうか。
裁判官の中には、いま私が、国外追放や投獄、酷い場合には死刑になるかもしれないとして怯えていると思っているものもいるかも知れない。

しかし、私はそんな事に怯えるなんてことはしない。 もし、怯える事があるとすれば、神がもたらした秩序が破壊されてしまうという事柄に対してだけだ。

私とこの国の市民たちとの関係は、言ってみれば、巨大な馬と虻の様な関係だ。
巨大な馬は、その巨大さ故に脳に血が回らずに眠りこけている。 その眠っている馬を必死で起こそうと、私は身体のいたる所を突き刺して不快感を与えている。
馬は、睡眠を妨害されるのが不愉快なので、鬱陶しそうに私を手で追い払ったり殺そうとしている。

馬は、何も真実を知ること無く、ただ眠りほうけている方が幸せだと勘違いし、眠りを邪魔する私という虻を退治しようとするが、それが本当に達成されてしまえば、馬は二度と目覚めることはない。
真実を知ることなく、この世の真理が分からないままに眠り続けるだけだ。 神が第2の私をこの世に送り出さない限りは。

神に与えられた試練

そして、私のこれまでの行動を観てみれば、私が神によって使命を帯びて尽力してきた人間という事がよく分かるはずだ。
私は、それこそ様々な場所で多くの人たちと、『良い事とは何か』といった事について対話をし続けてきたが、その行動によって、1度たりとも報酬を受け取ったことはない。
その事は、私の極貧生活を観てもらえれば一目瞭然だが、こうして私を訴えているメレトスが、証人として『私に授業料を払った』という者を連れてこれなかったことからも明らかだ。

もし私が、授業料と称して金を受け取っていたとするならば、メレトスの訴えに理解を示すという者も出てくるかもしれないが、私は何も受け取っていない。
では何故、一文の得にもならないような事をわざわざするのかといえば、それは、神が与えた使命だからだ。

ここまで私の弁明を聞いた方は、私の活動が何故、市民一人一人を訪ね歩いて対話するという方法かというのに疑問を持つものいるかも知れない。
それ程までに国や市民を良い方向へと導くために尽力しているのなら、人を統治する政治家を目指し、その立場から言ったほうが良いではないかと。
しかし私は、そうはしなかった。 何故なら、私は子供の頃から、重要な決断に迫られて、間違った方向へ進みそうになると、『その行動はやめろ』と、どこからともなく声が聞こえてきてきた。

メレトスの訴えの中には、国の定めた神々を信仰せず、独自の神霊を信仰しているというものが有るが、彼がそう思い込んで訴えたのは、この事が関係している。
そしてその声は、私が政治の世界に入ることを止めさせようとしてきたのだ。

信念を貫くためには私人であるべき

それは何故かというと、一人の個人として善良であろうと思う人間が国の政治に関わった場合は、長生きできず、信念も全うできないからだ。

私は、自らが政治家を志したことはないが、過去にその役職を与えられたことはある。
その時に私が実際に経験したことを例に出すと、国が戦争に負けた際には、兵士の亡骸や生存者は連れ帰らなければならないという決まりがある。
しかし、ある海戦で負けた際に、嵐で海が荒れているという理由で、海に投げ出された者たちを収容せずに帰国した10人の将軍が裁判にかけられた。

私以外の他の全員が、彼らは有罪だとしたが、私だけは、やむを得ない事情があった為に無罪とすべきだと訴えたが、その事によって、他の政治家たちから大いに恨まれる事になった。
彼らは怒りに任せて私を訴えようとしたが、私は良いと思われる行動を取り続ける為に、意見を変え無かった。
幸いにも、私は短い期間で公職からは開放されたので、今でも生きているが、あのまま政治家を続けていれば、死ぬか、不正に手を染めるかのどちらかを選ばされていただろう。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 その2 『嘘つきなメレトス』

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二分するソクラテスの評価

だが、私は何か教える事が出来るような知識を持っているわけではないので、賢者を訪ねては対話を行うという活動を続けていた。
賢者と私の対話を観続けた弟子の青年たちは、何度も観続けているうちに、『自分も賢者と対話できるのではないか。』と思うようになり、実行に移し始めた。
結果として多くの賢者が、私のそばにいた青年たちに討論で負けることになり、その自称『賢者』たちは、青年達の師匠である私に憎しみを抱くようになった。

こうして私は、賢者だと持て囃される一方で、多くの賢者と呼ばれてきた人達から憎まれることになってしまった。
私を憎むものは、私を悪者のように扱うが、では、彼らに『ソクラテスの、どの部分が悪いのか?』と聞いても、『不正を犯した』といった抽象的なことしか言わず、具体的な理由は何一つ出てこない。
何故なら、彼らはプライドを傷つけられて怒っているだけだから。

しかし彼らは自分たちを正当化して、私を悪者にしたい一心で、学者に対してよく用いられる言いがかりを主張する。
それが『自然や物理について論理的に考えて研究し、神々を信仰しようとしない。 また、よく分からない理屈を使って間違ったことを正当化しようとする。』といった批判である。
論破されて無知だと明らかにされた者達によって、同じ様な批判が彼方此方で主張され、その勢いに乗る形で、詩人の代表としてメレトスが、政治家と職人の代表としてアニュトスが、弁論家の代表としてリュコンが今回の訴えを起こした。

これで、何故、私が多くのものから賢者と呼ばれる一方で非難されてきたのかが分かると思う。
次は、実際に私を訴えた者たちがかけた容疑に対する弁明を行っていく。

善導者

詩人の代表として私を訴えたメレトスは、『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』と主張するが…
では、この罪状の一つ一つについて反論していくことにする。
先ず、『青年に良からぬことを吹き込んで堕落させた罪がある』といった部分だが、私に言わせれば、メレトスこそが罪人と言われるべき存在だと主張する。
何故なら彼は、普段はこのようなことを考えたこともないのに、私を陥れたいが為だけに、ありもしない罪で人を訴える様な人物だからだ。

人を裁判にかけるというのは深刻なことだが、そんな事を冗談のように行ってしまう彼は、罪深いと言える。

では、それを証明するために、メレトスに対して質問を行う。
君は、私が青少年を悪い道へと導いているといって非難するが、では逆に、どの様な人物が青少年を良い方向へと導くのか、それを教えて欲しい。

この質問に対してメレトスは『国の法律』だと答える。 しかし、誰かと聞いているのに法律と答えるのでは、答えになっていない。
ソクラテスはもう一度、どんな『人物』なのかと聞き、メレトスは『ここにいる裁判官全員だ。』と答える。(裁判官は法の番人)

ソクラテスは続いて、『では、裁判官以外の傍聴人は? 国の仕事をしている役人は? 政治家たちは? 彼らには、青年を良い道へと導く力はないのか?』と聞くと、メレトスは『それら全員に、青年を良い方向へと導く力がある。』と答える。
つまり、ソクラテス以外の全員が、青年を良い方向へと導く力がある一方で、ソクラテスだけがその力がなく、悪い道へと導くと主張する。
これを聴いたソクラテスは、『それは、普通に考えておかしくないか? 例えば、家畜を調教する調教師というのがいるが、優れた調教師というのは、沢山いるのだろうか? それとも、少数しかいないのだろうか?』と聞き返す。

家畜の調教は、優れた調教師1人に任せるほうが良いのか、それとも、全ての国民が『ああでもないこうでもない』と色んな意見を言いながら育てる方が良いのか、どちらだろうか。
考えるまでもなく、優れた調教師に任せる方が結果は良くなる。 馬や牛に限らず、人間以外のすべての動物は、その動物の特性をよく知る少数の優れた調教師に任せるほうが上手くいくが、人間だけは違っていて、大勢で『ああでもないこうでもない』と育てるほうが良いのだろうか?
メレトス、君は、私を訴えたい一心で罪状を考えたにすぎず、青年を良い方向へと導くにはどうすれば良いかなんて事は、考えたこともないだろう?

このやり取りによって、君が青少年の教育について如何に何も考えていないかという事が、明らかになってしまった。

悪人と生活したい人間はいるか

次に、もう一つ質問をさせてもらおう。
善人というのは、接する人に良いことをして幸福にする存在だと思うし、逆に悪人というのは、接する人に害悪を撒き散らして、不幸にするものだと思う。
もし、善人と悪人のどちらかと人間関係を続けなければならない状態になった場合、悪人と仲良くなりたいという人がいるだろうか? 大抵の人は、善人と親しくなりたいと思うのではないだろうか?どちらだろう。

これに対してメレトスは、『善人と親しくなりたいに決まっている』と即答する。
次にソクラテスは、『君は、私が接する人を悪人にしているというが、それは、私が知らず知らずのうちに、相手を悪の道に引きずり込んでしまっているのか、それとも、悪意を持って意図的に行っているのか、どちらだと思うのか?』と質問をし、『わざとに決まっている!』という返答を得る。

この返答を聴いたソクラテスは、君は、私が関わり合いになる青年たちに良からぬことを吹き込んで、ワザと悪の道に引きずり込んでいるというが…
そんな事をしてしまえば、私の周りは悪人で固められてしまって、一番損をするのは悪人に囲まれている私という事になるのではないだろうか?
何故私が、自分の周りを悪人で固めて、自分から不幸になろうと努力しなければならないのだろうか? そんな事をして、私に何の得があるというのだろうか。

私が私自身のことを考えて行動するのであれば、青年を悪い方向ではなく、良い方向へと導こうと頑張るのではないだろうか。 そうすれば、私は善人に囲まれて幸福になれる為、努力しがいもあるというもの。
仮に君の主張する通り、私が青年たちを悪い道へと誘導しているのだとすれば、それは知らず知らずのうちにやっているという事にはならないだろうか?
つまり、君が主張する『ソクラテスは意図的に青年を悪い方向へと導いている』というのは、明らかな嘘ということになる。

信仰心

次に、君は私に『国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』と難癖をつけるが…
君は、私が無神論者と言いたいのだろうか。それとも、神は信仰しているけれども、その神は国が指定した神ではないから違法と言いたいのだろうか?
空に浮かぶ太陽や月は神々ではなく、別の何かだと主張しているとでもいうのだろうか?

この質問に対してメレトスは、『ソクラテスは神々を信じてはいない。 太陽はアポロンではなく、灼熱する岩だというし、月はアルテミスではなく、ただの土だと主張している!』と返答する。

これを聴いたソクラテスは、『君は、ここにいるアテナイ人たちを馬鹿にしているのか? 太陽が灼熱する岩だと答えたのは私ではなく、アナクサゴラスではないか。
アナクサゴラスが唱えた説は有名で、どこの本屋に行っても僅かな金で彼の書いた本が買える。 一般常識と言って良いレベルの有名な話だが、君はその説を、アナクサゴラスではなく私が考え出したと、本当に思っているのか?
そんな話をでっち上げてまで、君は私が神々を信じていないことにしたいのか?』と反論し、メレトスは『そうだ』と答える。

ソクラテスは『メレトス、君は、馬鹿げた冗談をいって、その冗談で私やアテナイ人諸君を騙せるか、それとも騙せないのかを試しているのではないか?
君の主張には明らかな矛盾があるが、その矛盾を言葉の演出で誤魔化せるかといった遊びでもやっているのか?』と言い、矛盾を追求する。
その矛盾する部分とは、ソクラテスは神の存在を信じておらず、一方で神霊の存在を信じているといっている点である。

家の存在を認めるのに大工の存在は認めない?

分かりやすく例え話をいうなら、人間の存在を信じないのに、人間の所業を信じるという輩はいるだろうか。
それは例えば、この世に人間なんていないと思っているのに、人間が住む村があると信じているような人間のことであり…
また、誰かが吹いた笛の音を確かに耳で聞き、その音を楽しみながら、『笛の音は存在するが、笛を吹く者は存在しない』という人間のことである。

同じことを神霊に当てはめるのであれば、神霊の働きを認めるのに神霊の存在を認めない人間がこのようにいるだろうか?
そんな者は一人も居ない。

では、神霊とは一体何なんだろうか? それは、神の子ではないのか。
(饗宴によれば神霊は、神と人間の間を取り持つメッセンジャー
メレトスの主張によれば、私は神霊を信じているそうだが、神霊は神々の子である。 神々の子の存在を信じて信仰する人間が、その親である神々の存在を認めないなんて事があるだろうか?

これにより、メレトスが主張する『ソクラテスは、青年に良からぬことを吹き込んで堕落させ、国家で定めた神々を信仰せずに、独自のダイモニア(半神)を信仰している。』という私にかけられた罪状は、全て嘘だという事が明らかになった。
つまりメレトスは、プライドを傷つけられた悔しい思いをしたから、罪をでっち上げて私を吊し上げて憂さ晴らしをしようとしているだけなのだ。
この様な状態で、なお、私が罪に問われて罰を課されるとするのなら、それは私が不正を犯したという理由ではなく、大衆達による恨みによってである。
参考書籍

プラトン著【ソクラテスの弁明】私的解釈 その1 『一番賢いソクラテス』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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目次

訴えられたソクラテス

物語は、ソクラテスが訴えられ、告発した側が、彼はどの様な罪を犯したのかを演説し終わった直後から始まる。
ソクラテスは、告発者の演説に対して反論を始める。

彼らは私のことを雄弁家(弁論家?)と語り、他の市民に近づかないように注意を促したが、そもそもそれが間違っている。
私は雄弁家ではないし、そもそも告発者は、何一つ真実を述べていない。

しかし、私が主張を行えば、それは明らかになるが、私が放つ言葉は、告発者が行ったような演出を一切行わなわず、本心を垂れ流すだけなので、聞き苦しいかもしれない。
だが、私は自分が放つ言葉が正論だと信じている。
最初に注意として言っておくけれども、私は言葉の扱いが丁寧な方ではないので、聞き苦しい点もあるかもしれない。
しかし、言葉の綺麗さや聞き心地の良さなどは度外視して、その内容だけに焦点を当てて聞いて欲しい。 それが、裁判官の本文で、その見極めができることこそが、裁判官のアレテーなのだから。

ソクラテスのを訴えた人達

ソクラテスは、自らが訴えられた理由と弁明を行う。
先ず、私を訴えたアニュトスと、その支持者たちは、嘘しか話していない。
またアニュトスは、まだ幼く知識もない少年や青年に近づいて、私が如何にも悪い人物かというのを吹き込んで、洗脳している。

アニュトス曰く、ソクラテスという人物は、自然学をはじめとした哲学を学び、悪いことを正しいことのように偽装する方法を編み出し、その技術を使って嘘を真実のようにして広めている。
ソクラテスのように科学に没頭するものは、神々を信仰することもしない。 その様な敬虔な態度を持たないことは、嘘を真実と偽って平気で広める。』と主張する。
この噂は幅広く広まり、少年や青年の耳にも入り、彼らはその噂を疑うこと無く信じてしまう。

更に驚くことは、今回の訴えは、私を交えない形で秘密裏に話し合われた後にいきなり訴えられた。

私に罪があると主張する人達は、2種類いる。
1つは、一人の喜劇作家を除いては、よく知らない人達ばかりで、彼らは私を馬鹿にして笑いものにしている。(ソクラテスを愚か者扱いする喜劇が作られて、人気だった。)
彼らをここに1人ずつ呼びつけて反論したいところだが、そんな事は出来ないし、彼らは私を馬鹿者扱いして楽しんでいるだけなので、この場に出廷もしないだろう。

そしてもう1つの告発者たちは、私を古くから知る者達で、彼らが、この裁判を開いた。
その彼らの主張に対しては、弁明しなければならない。
それと同時に、アテナイ人諸君(裁判官に対して媚びへつらっていない。)が私に持つ疑念も、短時間のうちに(水時計)晴らさなければならない。(ソクラテスの悪名は、アテナイ中に轟いていた?)

そうする事が、私自身にとっても、ここにいる人達みんなの為にとっても、良いことであるのならば。
私は不正を犯さず、法律に則った形で弁明を行う。

人を馬鹿にして楽しむ人達

ソクラテスは先ず、多くの人達が自分を賢者と呼び、一方で犯罪者だとして罪をでっち上げて非難している理由を説明する。
私を避難するもの達がでっち上げた罪とは『ソクラテスは不正を行ない、神々を信仰せずに科学に没頭し、真実を曲げて嘘を真実のように演出して広めている。』というもの。
喜劇作家のアリストファネスは、私が屁理屈を捏ねて、空を飛べるだとか奇想天外な事を出来ると、面白おかしく喜劇を使って馬鹿にする。

この言いがかりに対して、この場にいる人達みんなを証人として、今一度確認したい。
私はこれまでの人生で、様々なところで演説をしたり会話をしてきたりしていたが、そんな奇想天外なことが出来ると嘘をついたことが有っただろうか。
その発言をその耳で聞いたというものが、1人でもいるのだろうか?

これらの事は事実無根である、私は一度たりともそんな事は言っていない。
また告発者は、私が無知な青年に近寄っていって、報酬と引き替えに嘘を教えているというが…
私は今まで関わってきた人に、会話をしただけで報酬を受け取ったことなどは1度もない。

人に物事を教えて報酬を受け取るというのは、別に悪いことではない。 プロタゴラスゴルギアスといった人物たちは、弟子をとって教えを授けることで、多額の報酬を得ている。
金額に見合ったものを与えることが出来るのであれば、それは正当なことだし。悪いなんて事は何もない。
しかし私自身は、言葉で伝えるだけで人を善い存在に変える様な知識は持ち合わせていないので、そもそも、他人に物を教えるという行為が出来ない。

この弁明を聞かれた方は、では、私は何を生業にして生きているのかと疑問を持たれるだろう。
そして、何もしていないにも関わらず、ここまでの悪評が立っているというのは、やはり、何かしらの原因があるのではないかと思われるだろう。(火のないところに煙は立たない)
という事で、ソクラテスは説明を始める。

一番賢いソクラテス

ソクラテス自身は、人に教えられるような知識は、何も持ち合わせていない。 その様な知識を得るために、彼は日々、必死に様々なことを学ぼうとしていた。
しかしある日、ソクラテスの親友のカイレフォンが、デルフォイの神殿に赴いて、巫女に『一番、知識のあるものは誰か。』を訪ねに行った。
彼は、私の近くにいて苦悩をよく分かっていたので、国で一番の賢者の名前を聞くことができれば、ソクラテスが知りたいと思っている真理を教えてくれると思ったのだろう。

しかし帰ってきた答えは意外にも、『国で一番賢いのはソクラテスだ』という答えだった。
この答えに、当然の事ながらソクラテスは納得が出来ない。 必死になって真理を求めているのに、その尻尾すらつかめずに苦悩しているのに、そんなソクラテスが一番賢いと言われても、納得できるはずがない。
彼は、その予言が間違っていることを証明するために、自分よりも賢いとされる賢者の元へ訪れては、対話を行って、自分よりも賢いことを証明しようとする。

何も知らない賢者たち

賢者たちは、最初のうちはわざわざ訪ねてくれたソクラテスに対して丁寧に答えてくれていたが、議論がアレテーの本質に近づいていくと、その答えを誰も答えてくれない。
ソクラテスは、様々な人の元を訪ねては、アレテーについて質問するも、それを構成していると思われる『正義』や『美しさ』といった概念を正確に説明できるものは、一人としていなかった。
更に驚くべきことは、その賢者たちは、ソクラテスが深く追求するまでは、アレテーやそれを構成するもののことについて、知っていると思いこんでいた点。

しかし、ソクラテスとの対話によって、それが単なる思い込みだった事を思い知らされた彼らは、私を罵り、追い出すといった行動をとった。
賢者と呼ばれる殆どの人が、知らないものを知っていると思いこんで、他人に自分も知らないことを教えていたのである。
一方で、一般人ほど、知らない事柄については素直に知らないと認めており、賢者よりも一般人の方が自分に対する認識がしっかりできていることに驚かされた。

それでも諦められないソクラテスは、過去の詩人達が書いた有名な詩を持ち出して、詩に詳しい人達に、その解釈などを訪ね歩くという行動に出たが、ここでも意外なことが起こった。
というのも、詩の愛好家は、おそらく詩を書いた本人ですら想像もしていないような詳細な情報をスラスラと言い出したのだ。
詩の作者よりも詩について詳しいなんて、これは、何かしらの神からの託宣を受けているとしか思えない。

(例えば、熱心なガンダムファンは、その世界観の説明やキャラクターの心境について、原作者の富野さんすら想像していないような情報をスラスラと言うだろう。)

『美』を知らない芸術家

次にソクラテスは、職人の元を訪れた。 職人は学者ではないので、学問のことを論理的に理解しているとは思えないが、技術に関する事にかけては他の者達よりも優れた知識を持っているだろうと思われたので、話を聞きに行った。
この推測は正しく、彼らは私の知らないような事を教えてくれたが、根本的な事柄にテーマが移ると、彼らもまた、自分自身はその事を知っていると思いこんでいるだけの者たちだった。
例えば、彫刻家たちは、その技術と作品を生み出すセンスにより、自分自身は『美しさ』という概念を理解しているつもりでいるが、実際に話を聞いて吟味してみると、彼らは『美しさ』について何も知らなかった。

様々な賢者や詩人、職人たちの元を訪れて分かったことは、この世で本当に賢者と呼べるのは神という存在だけで、人間が持つ知識なんてものは、ほんの僅か、または、全くの無価値ではないのかという事だけだ。
人間が等しく無知なのであれば、その中で誰かが一番という順位付けは意味を成さない。
神が、『人間の中でソクラテスが一番賢い』と敢えていったのは物の例えで、『人間の知識なんてたかが知れている』という事を知っているソクラテスが、一番マシだと言いたいだけだったのではないだろうか。

私は、それが理解できた後も、賢者に出逢えば質問を投げかけ、神の言葉の真意を確かめる活動を続けた。 そんな活動で金銭が稼げることもなく、私は極貧生活を送っている。
そして多くの賢者と呼ばれるものが、自分は賢者だと思い込んでいるだけの無知なものであることを明らかにしてきた。
その活動により、私は多くの自称『賢者』たちから恨まれる事になったけれども、その討論を傍から観ていたものは、私に対して別の印象を抱いたようだ。

それは、賢者と呼ばれるものを論破した、真の賢者というふうに。
そして自分自身も賢者になりたいと、私の元へ弟子入りを志願してくる青年も出てくるようになった。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍

【Podcast原稿】第62回【プロタゴラス】勇気は打算の産物なのか 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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勇気とは何か

プロタゴラスの主張では、勇気だけが全く別の性質を備えているという事なので、どの辺りが特別なのかを吟味していく事になります。
ではまず、プロタゴラスが考える勇気の定義とは何なのかというと、それは、『誰もが恐れて立ち向かわないようなものに立ち向かっていく気持ちのこと。』です。
漫画で『覚悟のススメ』という作品がありますが、その中では、苦痛を回避しようとする本能にも勝る精神力の事が覚悟と定義されているので、勇気という概念に、この様なイメージを持つというのは珍しくはないのでしょう。

この主張を吟味する為に、ソクラテスは様々な考えを巡らせて質問や主張をします。
まずソクラテスは、『勇気』とは別の『大胆さ』というワードを出し、『勇気とはつまり、大胆さを持ち合わせた行動ということなのですか?』と質問をします。
これは、仮に、相手の脅威や恐ろしさなどを知らない人間が、つまり、相手に対する知識を持たない人間が、その大胆さ故に無謀にも挑んでいく行為は、勇気と呼べるのでしょうかという質問です。

つまり、蛮勇は勇気と呼べるのかという質問なのですが、これに対してプロタゴラスは、勇気には大胆さが含まれるが、知識が無い者が大胆な行動をとったとしても、それは勇気とは呼ばないと否定します。
相手がどれ程の脅威で、それに立ち向かうことが、どれほど困難かという事を一切知らずに、大胆さだけで勢いで突っ走って立ち向かう行為は、プロタゴラスの定義では、勇気とは呼べないということです。

漫画家の荒木飛呂彦さんの著書に、ジョジョの奇妙な冒険という作品があります。
この作品の第1部では、非力な人間という存在が、強大な力を持つ吸血鬼と戦うストーリーなのですが、この作品に登場するツェペリ男爵というキャラクターの口から、勇気とは何かが語られます。

非力なものが、強大なものに対して向かっていくという構図は、私達の身の回りでも結構ありますよね。
例えば、ノミという生き物がいます。 彼らは、自分よりも遥かに大きな人間や動物に対して向かっていき、取り付いて血を吸い取るといった感じで、強大な者に挑むような生き方をしているわけですが、彼れらには、勇気があるのでしょうか。
人間が手で叩いたり、取り付いた動物が寝返りをうつだけで、自分が死んでしまう可能性があるのに、その危険を顧みずに向かっていく彼れは、勇気の化身なのでしょうか。

漫画の中でツェペリ男爵は、ノミには勇気がないと断言します。何故なら、ノミは恐怖を感じず、それ故に、強大なものに対しても躊躇なく向かっていくことが出来ているだけだからです。
勇気とは、『怖さ』を知り、『恐怖』を自分のものにする事であって、知恵もなく、恐怖も感じない状態で、単純に強いものに向かっていく行為では断じて無いと主張します。
自分が良いと思う方向に向かって進み、その方向に強大な敵が立ちふさがるなら、その恐怖を乗り越えて、それでも突き進む行為が勇気であり、人間の素晴らしさとは、その勇気を備えている事だと主張します。

ソフィストが考える勇気

恐怖を感じる為には、相手の力量を知る必要があり、相手の力量と自分の力量を正確に見定めて比べ、相手の方が遥かに勝っていると分かっても、それでも立ち向かうのが、ツェペリ男爵の主張する勇気なのでしょう。
多くの方が、この、勇気の定義については納得されると思うのですが、プロタゴラスの主張は、ツェペリ男爵の主張とは少し違ったりします。
というのも、何故、アレテーが求められ、それを教えるソフィストが重宝されているのかを思い出して欲しいのですが… アレテーが求められたのは、優れた人間になって皆に認められて、社会的に成功するためですよね。

その為に必要なのは、死なない事。 つまり、生き残った上で実績を残して、卓越した人物である事を皆に知らしめて、出世する事が最終目標であって、求めているアレテーは、それを実現する手段に過ぎないんです。
敵が大人数で攻め込んできた時に、少人数で迎え撃たなければならない状態になった場合、恐怖を克服して相手に向かっていって討ち死にすれば、英雄的な死を迎えることが出来るかもしれませんが、それは極力避けるべきことなんです。
その様な状況に追い込まれたら、勇気ある撤退をすべきですし、そもそも、その様な状態に陥らないような戦略を練ることが重要だったりします。

成功体験というのは、生きている状態でしか味わうことが出来ない為に、基本的には、自分が生き残ることを優先的に考えて、その上で、自分が卓越した人物である事を他人に示す事がソフィストには求められたんでしょう。
この考えを前提として置くならば、眼の前の脅威と自分の力量を比べた際に、自分の力量の方が勝っている時にだけ、行動を起こす事になり、自分の力量が足りない時には、勇気ある撤退を行わなければならないことになります。
最優先すべきは生き残ることなので、当然といえば当然ですよね。 仮に不利な状況で討ち死にしてしまえば、無謀な戦いを挑んだとして、自分の力量も測れないヤツと思われてしまう可能性があるので、それは成功とは言えません。

ですが、このプロタゴラスの主張では、勇気とは知識に依存したものという事になってしまいます。 何故なら、行動を起こす起こさないの判断は、知識に委ねられるからです。
先程の主張では、知識や正義や節制などは似通った性質を持っているが、勇気だけは違うというものでしたが、その全く違う性質を持つ勇気は、知識に依存するものだというのは、シモニデスの詩の解釈ではないですが、矛盾があるようにも思えます。
また新たな問題として、勇気には知識が必須だという事は、知識があるが故に、その渦中に飛び込んだ際にどれだけの危険が潜んでいるのかという事が分かっていて、安全だと確信を持って突入していくケースは、勇気ある行動といえるのかという問題もあります。

勇気は打算の産物?

例えば、他人からみれば危険で無謀な事だけれども、その出来事に飛び込んでいって成功して帰ってくれば英雄と成るような事件が起こったとします。
誰もが行動を起こすのに躊躇している場面で、自分には、その出来事で全く危険な目に合わずに解決するだけの知恵があった場合、その出来事に飛び込むのに大胆さは必要がありません。
大胆さも心の葛藤も全く無く、ノーリスクで渦中に飛び込んで物事を解決して帰ってくるという行為は、勇気ある行為と呼ぶのでしょうか。

また、その対象に対する知識や知恵を身に着けている人間は、自分の身の安全を確保した状態で、ギリギリのラインを攻めるということも出来てしまいます。
この場合、より大胆な行動をとっている者の動機は、知識に先導されている事になる為、結果として、勇気の有る無しというのは、知識の有る無しとも言い変えることが可能となります。

別の表現をするなら、例えば、燃えている炭の上を歩くという儀式があります。 『火渡り』と呼ばれる儀式で、京都でも狸谷山火渡り祭(たぬきだにさんひわたりさい)というものがあるそうですが、ここに限らず、全国で神事として有ると思います。
この儀式は、燃え盛る炭の上を歩くわけですから、普通に考えれば、そんな事を行えば足の裏を火傷してしまって、大変なことになる為に、そんな事をしようとも思いません。
しかし、絶対に火傷をしないという事が分かったとすれば、神聖な儀式を経験してみるという好奇心から、やってみようと思う人も出てきます。

この様に、無知であるが故に、もしかすると、大火傷を負ってしまうかもしれない可能性を払拭できない内は、火傷をしたくないという思いから行動が出来ない人間でも、絶対に大丈夫だという知識を手に入れた途端、行動を起こせたりします。
この際の、行動を起こす起こさないという基準は、火傷をしないという知識を持っているのか持っていないのかに依存する為、仮に、火渡りをする事を勇気ある行為とするならば…
勇気ある行動を起こす基準というのは、知識の有る無しという事になります。 ですが、絶対に大丈夫だという事を知った状態で行う行為は、果たして、勇気ある行動なのでしょうか。

勇気とは知識のようなもの

まとめると、勇気というモノを分析した結果、知恵と大胆さを足し合わせた様な存在と分かってきたわけですが、この両者には主従関係のようなものが存在し、『知識』が『大胆さ』を服従させている関係ともいえます。
知識がある状態であれば、大胆さが発揮されるけれども、知識がない状態では大胆さは発揮されないという具合で、判断基準になるのは知識や知恵ということです。

勇気という存在を支配しているのは『知恵』や『知識』といった類のものなので、広い視野で観れば、知識と勇気は同じものとも考えられなくもありません。
様々な考察の結果、プロタゴラスは当初、アレテーを構成するものの中で知識・節度・正義・敬虔は似通った性質を持つが、勇気だけは違うと主張していましたが、勇気は似ていないどころか、知識と同じものかもしれないという可能性が出てきてしまいました。

この分析に対して、プロタゴラスは異論を唱えるわけですが、その話は次回にしていこうと思います。

【Podcast原稿】第62回【プロタゴラス】勇気は打算の産物なのか 前編

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目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の簡単な内容を振り返ると、ソクラテスが、現在ではソクラテスメソッドと呼ばれているルールを対話に持ち込み、渋々、了解をしたプロタゴラスが、テーマをシモニデスの詩の解釈にしようと言い出して、このテーマについて対話をしました。
前回の更新分では、ソクラテスに寄り添うような形での読み解き方をしたので、プロタゴラスの方が惨めな感じになってしまってましたが、実際の本では、もう少し中立的な書かれ方をしていたりもします。
その辺りを詳しく知りたい方は、岩波文庫などから出ている本を読む事をお勧めします。

簡単なまとめとしては、プロタゴラスが、自己矛盾をはらんでいる作品は劣っているという同意を、ソクラテスから取り付けた上で、シモニデスの書いた詩を持ち出して、この作品が優れているかどうかを聴くところから始まります。
ソクラテスは、優れていると回答するわけですが、その詩には前半部分で、『立派な人になる事こそは難しい』と書いていながら、後半部分で『立派な事である事は難しい。』と書かれており、前半と後半で矛盾した事が書かれています。
プロタゴラスは、この点についてソクラテスを攻めるのですが、ソクラテスがそれを乗り切るというのが前回の内容でした。

他人の作品の考察は議論にふさわしくない

一連の主張が終わったところで、ソクラテスは他人が書いた詩に対する解釈をやめようと言い出します。
というのも、ソクラテスプロタゴラスが、自分が考え出したそれぞれの主張をブツケ合って対話を行う場合、自分が疑問に思ったことは、その疑問を相手にぶつけることで解消することが出来るかもしれません。
仮に相手が、その答えを持っていなかったとしても、一緒に考えるという事が出来るでしょう。

しかし、他人が書いた詩を、外野が解釈合戦するという行為は、その真偽を確かめることが出来ません。
というのも、実際に詩を書いたシモニデスが同席していない為、外野であるソクラテスプロタゴラスの主張は、憶測の域を出ることが出来ないからです。
もし、シモニデスが同席している場合は、シモニデスに対して『どの様な気持ちを込めて書いたのですか?』と聞けば良いわけですが、本人が居ない状態ではそれも出来ない為、シモニデスの気持ちを確かめようがありません。

ソクラテス自身が本を書き残さなかったのも、この事が原因として大きかったからでしょう。
ソクラテス自身は、自分は無知だと公言しているわけですが、それでも、様々な賢者に話を聞いたり、自分自身で考えた理論はあるでしょうから、それを書き残せば、後世に対して何らかの貢献は出来るはずです。
しかし、仮に書き残したとしても、その本を読んだ人間が解釈を間違っては意味がありません。 読み手の解釈が正しいのか間違っているのかは、結局、書き手であるソクラテスとの対話によって確かめなければならない為、意味がない行為だと思ったのでしょう。

作品を読むという行為では作者の考えは分からない

これは現在の日本でも、国語のテストなどを取り上げて、よく言われている事なので、理解がしやすいと思います。
国語のテストなどでは、この時の作者の気持ちを答えなさいという質問に対して、結構なツッコミがされたりもしますし、仮に、その問に回答したとして、教師が答えが間違っているとしてバツを付けるのはどうなんだという主張もあります。
その教師が、作者と対話した結果、生徒の答えが間違えているとしているならまだしも、教師はそんな事をしているはずもないですよね。

作者の考えなんていうのは主観でしか無い為、他人が考えたところで絶対に分かるはずもありません。
これが、作者が亡くなられているような昔の小説などでは、実際に聞いて確かめるすべもない為に、その教師が正しいと思う答えが合っているかどうかも、実際のところはわかりません。
結局の所、作者の主観を教師が知ることも出来ない為、教師が定めた答えは、教師個人の主観か、予め学校側が用意した答えという事になり、実際の作者がどの様な思いを込めたのかは分かりません。

またソクラテスは、他人の作品の解釈を巡る対話そのものが、低レベルな対話だとも主張します。
例えば酒の席などで、遊びとして、映画や小説やアニメやゲームなどの作品の解釈や考察について語り合うのは、良い暇つぶしになるかもしれないですし、その遊びは否定すべき事ではありません。
でもそれが、学問や研究としての議論としてはどうなんだって事なんです。

何故なら、学問や研究の基本は、自分の頭で考えて、自分の言葉で話す事が基本となるからです。
今の学問でも、他人が書いた論文を参考文献として取り上げたり、物事を考えるきっかけやベースにする事はありますが、それらの材料を利用して最終的に行うことは、自分なりの理論を考えた上で発表するという事ですよね。
人が考えた論文を読んで、『この人間は、何故、この様な論文を書いたのだろうか。 論文の筆者が、この文章を書いた時の気持ちはなんだろう。』といった事を、書いた本人抜きの他人同士で議論する事は、本来の目的からは外れます。

ソフィストが、アレテーについて研究し、それを教えているというのであれば、他人のポエムの読み解き方などを話し合ってる場合ではなく、自分の言葉で対話をすべきなんじゃないのか。というのが、ソクラテスの主張です。
そして、彼はもう一度、『相手を打ち負かす為の議論』ではなく、共に協力して、真理に到達しようとプロタゴラスに呼びかけます。

アレテーについて(再)

こうして、議論は再び、アレテーについての考察に戻ります。 プロタゴラスが主張するアレテーとは、徳目と呼ばれるものの集合体のようなものです。
人の顔に、目や耳や鼻といった別々の器官が存在して、総合的に顔と呼ぶように、正義・節制・勇気・知恵といったそれぞれの徳目が集まったものの概念がアレテーだと主張します。
四角い豆腐のように、豆腐の上面・側面といった感じで、本質そのものは全く同じだけれども、観る観点の違いによって言い方を変えているといったものではなく、それぞれの徳目は別のものだという主張でした。

この主張に対して、ソクラテスが疑問を投げかけたところ、プロタゴラスがヘソを曲げてしまった為、シモニデスが書いた詩の解釈といった他の話題に移ったのが前回でした。
議論は再び、メインテーマであるアレテーを解明していくという方向に進んでいきます。
正義や節制や勇気といったアレテーを構成するモノたちは、全く別の属性を持つものなのか、それとも、似通った性質を持っているのかといった、議論の続きが行われます。

プロタゴラスは、知恵・節度・正義・敬虔・勇気の内、勇気を除く4つの性質はよく似ているけれども、勇気だけは違うと主張します。
何故なら、知恵も節度も、人を敬うことも無く、不正であるにも関わらず、勇気だけは持ち合わせている輩がいるように思えるからです。
(つづく)
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【Podcast原稿】第61回【プロタゴラス】立派な状態を維持する事は難しい 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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スパルタ人の対話術

ソクラテスによると、この事は、スパルタ人と対話する事でよく理解できるようです。
スパルタ人の中でも、特に優れたところのない平凡な人間を連れてきて議論をした場合、通常時のスパルタ人の返答は平凡なものが返ってくるだけですが、議論が重要な部分に差し掛かると、短く鋭い言葉でもって核心をついてくるそうです。
議論を長々と引き伸ばして、今現在、何の議論をしているのかもわからないようにして煙に巻く事もなく、短く、力強く、誰にでも分かるような言葉で核心をついてくる。

この様な返答ができるのは、本当の意味で立派な教育を受けた人間だけで、このスパルタ式の教育を受けた人間の中には、ミレトスのタレスやピッタコスがいる。
そして、そのピッタコスが生み出した言葉の中に『立派な人である事は困難だ』という言葉が有り、シモニデスは、この言葉を引用したのだと主張します。

ただ、この引用も、尊敬を込めての引用ではなく、この言葉を生み出したピッタコスへの挑戦の意味を込めて引用したのではないかと推測します。
詩の解釈とは直接関係のない話が続き、やっと、シモニデスの名前が出てきたわけですが、ソクラテスは、一番最初に主張した『困難』という言葉の解釈を『悪い』というものから通常で使う意味合いでの困難へと戻します。

一方的な話で主導権を握る弁論術

では、今までの長い話は何だったのかというと、プロタゴラスに対して、ソクラテスなりの反撃だったのかもしれません。
『困難だ』という言葉の意味を、特定の地域では『悪い』という意味合いで使うというところから、スパルタの戦略というスケールの大きな話に超展開をし、結局、今何を話しているのかが分からない状態に陥れることで、聞き手は、ただ聴くことしか出来ません。
利き手側としては、一見、テーマに何の関係もなさそうな事だったとしても、後々、関係が出てくるかもしれないわけですから、変に口を挟んで中断も出来ません。

現にソクラテスは、話の導入部分では、シモニデスの詩の解釈について話し始め、そこから徐々に話題を変えていってます。
言葉というのは、人間同士がコミュニケーションをとる為に生み出された道具なのですが、当然のことながら、地域が変われば意味合いも言葉そのものも変わってしまいます。 人によって意味が変わるという点では、相対主義的なものという見方も出来ます。
言葉には絶対的な意味がなく、その地域で意味が通じるなら、同じ単語であっても意味が変わる場合はあります。 ソクラテスはこれを利用して、現在議論している詩の意味そのものを変えてしまいます。

関係がありそうでなさそうな話をされると、聞き手は、ただ聴く事しか出来ないわけですが、その対話を傍から見ている人は、聞き手がまるで説得されたかのような錯覚に陥ってしまったりもします。
また、口を挟む場合、相手の話が超展開して良く分からない状態になってると、何に対して口を挟んでよいのかも分からない状態になります。
ソクラテスが、ソクラテスメソッドを持ちかける前に、私は記憶力が悪いので、長話されると議論の全体像が分からなくなると言って、ルールを持ちかけましたが、ソクラテスは正に、詭弁化が作り出すその様な状態を再現したのでしょう。

つまり、プロタゴラスソクラテスが使った手法を使ってソクラテスを追い詰めようとしたわけですが、ソクラテスの方は、ソフィスト達が発展させた詭弁を使って、話を煙に巻いてみせたとも読み解けます。
これは一種の、ソフィストたちに対する批判を込めた行動なのかもしれません。

脳あるたかは爪がミサイル

そして、シモニデスの詩の解釈の話は、いつの間にかスパルタの教育方針へと変わります。
一見すると関係のない話のように聞こえますが、話の内容を聞いていくと、プロタゴラスを始めとしたソフィスト達の行動への強烈な批判が含まれています。

その部分を要約すると、『スパルタ人の中で最も凡庸な人間と議論をしたとしても、アテナイ人のソフィスト達よりも優れている。 何故なら彼らは、長い言葉を使って議論を長引かせたり、相手の集中力を削いだり、議論を煙に巻くといった事をしないからです。
誰にでも分かるような言葉を使い、短く鋭い言葉で核心を突くという行為は、本当に賢い者にしか出来ない』
といっているわけで、これは逆説的に、小難しい長い言葉を並べて煙に巻き、自分の優位な状況を作り出そうと小細工するソフィストたちに対しての皮肉を言ったのでしょう。

立派な状態を維持する事は難しい

この後、ソクラテスは、『本当に立派な人間になる事こそ難しい。』という言葉の中の、『こそ』という言葉を取り上げ、重要なものだと言います。
というのも、先ほど名前を出したピッタコスが作った言葉の中には、この『こそ』という言葉は入っていなかったからです。
シモニデスが詩を通して伝えたい事は、『立派な人間になる事が難しい。』と単に主張しているわけではなく、『何の欠点もない完璧超人の様な立派な人間になる事、こそは、難しい。』と主張しているという解釈をします。

この2つの表現の仕方にどの様な違いがあるのかというと、立派な人間になる事、それ自体は、それほど難しくはないという事です。
前に、概念は単独で存在できるものではなく、対になるものと同時に生まれるという話をしたと思いますが、立派という概念は、それ単体では存在することが出来ず、必ず、その反対の概念が存在します。
仮に、立派という概念と対になる概念が悪いという概念であるなら、常に立派ではない人間というのは、常に悪い人間ともいえますが… 常に悪い状態で有り続ける事は可能なのでしょうか。

また、立派になるという表現があるという事は、悪くなるという表現も存在するということです。
元から悪い状態ものが、何らかの原因で悪くなるというのは、既に転んでいる人間が、何かにつまずいて更に転ぶ事が出来ないぐらい、不可能なことです。
転ぶというのは、立っている人間に可能な事で、転んだ人間が再び転ぼうと思うのであれば、一度、立ち上がる必要が出てきます。 同じ様に、悪い人間が悪い状態を維持しながら、悪くなる事は出来ません。

つまり人間は、悪い状態になり続ける事は出来ない為に、悪い状態と良い状態の間を揺れ動くような存在といえます。
善悪の間を揺れ動くということは、人は、例え短い間であれ、良い状態になる事が出来るという事で、単に良い状態に成るという現象自体は、珍しい事でも難しい事でもないという事なんです。

どんな凶悪な犯罪者であっても、生きている間中、誰かに迷惑をかけ続けて悪を体現し続けることは出来ないでしょう。何らかの拍子に、良い事をする事もあるでしょう。
全体として悪い人間でも、良いとされている行動をとっているその瞬間は良い人である為、どんな人間であれ、良い人間に成る瞬間はあるという事です。

ただ、悪い状態をキープし続けるのが無理なように、良い状態を生涯に渡ってキープし続けることは出来ません。
多くの人から善人と言われている人であっても、ある瞬間を切り取れば、悪人にも成るでしょう。
もし仮に、存在し続けている間、ずっと良いという状態をキープできるような存在があるとするなら、それは神と呼ばれるような概念的な存在だろうと主張します。

詩についての議論は、これで終わり、この後ソクラテスは、このテーマは議論に値しないと言うことをプロタゴラスに対して主張しますが、その理由などについては、次回に話していこうと思います。
(つづく)
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【Podcast原稿】第61回【プロタゴラス】立派な状態を維持する事は難しい 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
いつものように、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一部内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の内容を簡単に振り返ると、プロタゴラスの主張としては、アレテーは『正義』『節制』『敬虔』『知識』などの様々な徳目からなっていて、それらが組み合わさる事でアレテーになるという主張でしたが…
それに納得できないソクラテスが、慎重に分析をしていった結果、それぞれの徳目が宿った行為をしていたとしても、その行動そのものが良い行動ではない場合は、アレテーは宿らないという事が分かってしまいました。
例えば、善悪の分別がつく人間が、悪いと分かっていながら知恵を使って不正な行為を成功させた場合は、その行為に知恵などの徳目が利用されたとしても、尊敬に値しない行動だということです。

つまり、その行動が優れたものであり、他人からの称賛や尊敬を得られるかどうかは、その行動に徳目が複数入っているかどうかではなく、その行動が良い行動かどうかが一番重要だという事です。
では、『良い』とか善悪の善とは何なのか。 ソクラテスが、アレテーの専門家であるプロタゴラスに聞いてみた所、善悪は相対的なものであって、何が善で何が悪だと断定することは出来ない。
少量なら薬として使えるものでも、大量に飲めば毒になってしまうように、例え、同じものであったとしても、使い方や使う対象によって、善にも成れば悪にもなると言ったような事しか答えてくれません。

これはこれで、一つの答えなのでしょうが、絶対的な真理を求めるソクラテスの求める答えではなかったからか、ソクラテスは、明確な答えが引き出せるように、対話に対してルールを設けようと提案します。
それが、今現在、ソクラテスメソッドと呼ばれる問答法です。 ソクラテスは、このルールがのめないのであれば、討論を打ち切って解散しようと持ちかけます。
プロタゴラスは、一方的なルールを押し付けられては、勝てる議論も勝てなくなると拒否しますが、周りで対話を見ていた弟子たちが二人の討論をもっと見たいと懇願し、賢者とされているプロタゴラス側がルールをのみ、対話が再開されるというのが前回でした。

この後、両者は、ルールを定めた上で、別のテーマについて話していくことになります。
先程は、ソクラテスが一方的に対話のルールを決めたという事で、テーマの方はプロタゴラスが選び、そのテーマについて話していきます。
そのテーマとは、当時の古代ギリシャで有名だった、シモニデスの詩。 ポエムの解釈についてです。

良い人になる事と良い人である事

プロタゴラスはシモニデスの詩を一つ取り上げ、その詩に対してソクラテスが良い評価をしている事を聞き出した上で、『同じ作品内で矛盾していることを主張している作品は、良い作品とは言えないのではないか?』と尋ねます。
何故、自己矛盾を抱える作品が駄目かというと、いわゆるダブルスタンダードというやつで、その時々の自分の状態によって意見をコロコロ変えるのは、一貫性が無く信用出来ない態度だからです。

当然、ソクラテスはこの意見に同意しますが、その直後に、プロタゴラスは詩の中の矛盾点を指摘しだします。
先程、対話と論争は違うという話をしたばかりなのに、この様な揚げ足取りを行うというのは、プロタゴラスは、定めたルールの中で勝利することに夢中になっているのかもしれません。
今まで、プロタゴラスソクラテスにさんざん言われ放題で、弟子の前で恥をかかされた形になっていたので、ソクラテス自身も、1つの作品内で矛盾を抱えるような欠陥品を良い作品だと言ってしまうような人間だという事を証明したかったのでしょう。

ここで、詩の全文を紹介できれば良いのですが、資料が破損しているようで、その全文はわからないとされている為、ここでは、矛盾点のみを取り出して見ていくことにします。
プロタゴラスが指摘したのは、詩の前半部分で『本当に立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれているのですが、後半部分では『立派な人である事は困難だ』と主張している点です。
後半部分では、『立派な人である事は困難だ。』と書いていますが、立派な人である為には、立派な人になる必要が出てきます。 しかし、前半部分で『立派な人になる事こそ、困難だ。』と書かれています。

似たような文章で紛らわしいので、ゆっくり説明していきますと、前半部分で語られているように、本当に難しく困難な事は、立派な人になる事であるのなら、困難を乗り越えて立派な人になれる人は、極少数ということになりますよね。
しかし、後半部分では立派な人である事は困難だと主張されています。 この後半部分の文章は、立派な人になるのは容易いけれども、それを維持する事は難しいと読み取れてしまいます。
プロタゴラスの指摘とは、前半部分では立派な人になる事は困難だとしておきながら、後半部分では立派な人になることは容易いが、それを維持する事は難しいと読み取れる為、矛盾しているということです。

つまり、1つの詩の中で、立派な人になるという事に対する難易度が、前半部分と後半部分で変わっている為に、矛盾を抱えているのではないか? という指摘です。

駄目なものを褒め称える人間はダメ人間

プロタゴラスが、何故、この矛盾にこだわるのかというと、題材としてこの詩を取り上げる前に、ソクラテスと確認しあった同意が関係してきます。
プロタゴラスソクラテスに対して、自己矛盾を抱える様な作品は、優れていないのではないか?と同意を求めて、ソクラテスはその意見に同意をしています。
その後で、彼はシモニデスの詩を題材として取り上げて、『この詩は素晴らしいと思いますか?』と質問をし、それに対してソクラテスは、『この詩は、一時期、研究をしたのでよく知っている。』といった上で、見事な作品だと褒めています。

つまり、プロタゴラスに言わせるなら、ソクラテスは、自己矛盾を抱えている作品は駄目だと言っておきながら、自己矛盾を抱えるシモニデスの詩を褒め称えている様な人間だという事になるわけです。
この辺りのやり取りを見ても、プロタゴラスの執念が読み取れます。
優れていないとされる作品を褒めた事が証明されても、それは、その作品に対しての見る目がなかっただけなのですが…

プロタゴラスはここから考えを飛躍させて、自己矛盾を抱えるものを褒め称えるような人間が賢いはずがないと、ソクラテスを攻撃しているわけです。
この攻撃を確かなものにする為に、プロタゴラスソクラテスと同じように、まず、『自己矛盾を孕む作品は劣っている』という前提条件の同意を確認した上で、シモニデスの詩をテーマに掲げて、優劣を尋ねるという手順で質問をしています。
先程から自分がされていた事と同じ事をやり返す事で、相手が無知である事を印象付けようとしたんでしょう。

ですが、この討論の最初を思い出して欲しいのですが、ソクラテスは最初から自分を無知だと認めていますし賢者だとも主張していません。
ここで改めてソクラテスを無知だと主張しても、プロタゴラスがアレテーを知っている事を証明する事にはなりません。
にも関わらず、この様な事を行ったのは、プロタゴラスが保身に走ったからかもしれません。

相手を、信用できない愚か者だとしてしまえば、仮に、プロタゴラスが正しいことを主張していたとしても、愚か者にはその事が理解出来ないとすることも出来ます。
愚か者は、理解出来ないが為に、見当違いの質問を投げ続け、その説得に賢者が疲れ果ててしまったということにすれば、弟子に対しても格好が付くことになります。

ソクラテスの詭弁

しかし、攻撃されて、そこで終わってしまうようなソクラテスではありません。 指摘を受けた彼は、ここから反撃にでます。
プロタゴラスの弟子の中から、シモニデスと同じ地方の出身者の人を指名して、『困難な』という言葉の意味について問いただし、シモニデスの出身地では『困難な』という言葉を『悪い』という意味で使うという事を聞き出します。
そして、この解釈を詩に当てはめると、『本当に良い人になる事こそは悪い事だという意味になる。』というような事を言い出します。

では、良い人になることが何故、悪い事につながるのでしょうか。
それは、絶対的な善は神だけに許される事だからで、人がそれに成り代わるというのは、良い事とは言えないからだという解釈を展開します。
これを聞いたプロタゴラスは、流石に超展開し過ぎじゃないか?と言いますが、実際問題として、一部の方言として『困難な』という単語は『悪い』という意味で使われている為に、意味合いとして絶対に間違っているわけでもありません。

スパルタという国

その後、ソクラテスは、話をスパルタという国の捉え方に移してしまいます。  ソクラテス達が暮らすアテナイは、議論する事が重要視され、議論を有利に進める為の知識や弁論術が重宝されました。
その一方でスパルタは、市民として生まれた子供は、全て職業軍人となる事が強制された為に、体の強靭さなどが重要視され、知識は軽視されてきたと言われてきました。

つまり、アテナイ人はガリ勉タイプで、スパルタ人は体育会系というレッテルが貼られ、それが常識とされてきたわけです。
因みにですが、スパルタ人として生まれたけれども、身体に障害などがあった場合は、その子供は健全とはみなされず、崖から突き落とされて殺される事になってしまいます。

スパルタは市民を全員、職業軍人にする事で武力を増強し、周辺国を圧倒する力を手に入れたと思われてきたけれども、実際にはそれは間違いで、スパルタは知識の重要性を十分に理解し、実際には武力ではなく、知識によって他国を圧倒していたと主張します。
体だけが自慢の人達を、よく、脳まで筋肉を略して脳筋や、体力バカなんて表現したりもしますが、では何故、スパルタは脳筋を装うような事をしたのでしょうか。
それは、他国を圧倒する力が武力ではなく知力だとバレてしまうと、他の国が真似をして知力を高める努力をしてしまうからです。

皆が知識を身に着けて賢くなってしまうと、他国を知識で圧倒するのが容易ではなくなってしまいます。
新たなライバルを産まない為にも、体しか取り柄がない事を目立たせて強調し、その影では、他国を圧倒できる程の知識を身に着けていることを隠したんです。
(つづく)
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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第60回 『プロタゴラス』詭弁に対抗する為の対話術 後編

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善い行為とは何なのか

先程の考察により、アレテーというものは、それを構成しているものを宿しているだけではアレテーではない事が分かり、それと同時に、『善』を宿していなければならない事が分かりました。
では、『善い』とは何なのでしょうか。

ソクラテスは、『善い』の定義をはっきりさせる為に、『善いとは、人間にとって有益なものだけを、善いというのですか?』と訪ねます。
これに対してプロタゴラスは、同意しつつも、『それだけではなく、人間にとって有益とは言えないものも、善い場合もある。』と付け加えます。
プロタゴラスソクラテスに、散々、揚げ足を取られ続けている為、『善い』がカバーする範囲を広げて防衛戦をはったのでしょう。

ソクラテスは、いつもの調子で『では、全人類にとって有益とはいえない、有害となるものの中にも、善いものはあると主張するのですね?』と確認します。
プロタゴラスは苛立ち始め、少し興奮した様子で『善い』の定義について話し出します。

例えば、人間が食べることで健康になるような植物は、人間にとって善い存在と言えるだろうけれども。 だからといって、人間が食べられるものだけが善い存在だとは言い切れません。
人間にとっては害になったとしても、例えば馬にとっては善い植物かもしれないし、他の動物が食べると毒になるようなユーカリのような植物でも、コアラにとっては善い植物といえるでしょう。
どの動物も食べることが出来ないような植物でも、食べられる事以外で、環境にとって利益の有る事を行っているかもしれません。

一見すると無駄なものだと思われる、動物が食事をした後に残す糞尿も、人間にとっては臭いだけで役に立たないかもしれないけれども、植物の根にとっては善いものとなる場合もあるでしょう。
植物の根にとって善いものであったとしても、それが同じ植物の枝につくと、枝を痛めてしまうようなものもあります。。
この場合は、同じ動物の排泄物が、同じ植物に関わっているのに、関わる部位によって良い結果をもたらすのか悪い結果をもたらすのかが分かれます。

他の例では、例えばオリーブオイルは、人間の体にとっては有益なものだけれども、その他の植物にとっては有害で、植物に対して水の変わりにオリーブオイルを与えたりすると枯れてしまったりするそうです。
また人にとっても、体に塗るといった使用方法では有益だけれども、これを湯水のように飲んでしまうと害が出てしまう。
摂取する場合は少量に抑えなければならず、大量に取ると害になってしまう。  つまり、同じものであっても摂取する量によって、有害にも有益にもなるので、一概に善いとは言えません。

ソクラテスメソッド

この返答は、相対主義者であるプロタゴラスらしい切り返しで、尚且、説得力の有る主張ですが、この主張を前にソクラテスは、対話のルールを決めましょうと提案してきます。
それが、後にソクラテスメソッドやソクラテス式問答法と呼ばれる対話方法です。

テーマを明確にして、出来るだけ主張を短く、且つ、分かりやすくし、主張を聞いた側は、納得できなければその部分について短く簡潔に質問をし、その回答に納得ができなければ、納得出来るまで何度も質問を繰り返す。
相手が答えを持ち合わせていないなどの理由で、答えが聞けない場合には、自身が短くわかり易い言葉で取り扱っているテーマについて主張をしようというルールです。

この提案は、言ってしまえば、先程のプロタゴラスの『善の定義について』の話は長すぎるので、もっと短く話してくれという要望です。
これに対してプロタゴラスは反対します。 その様なルールを一方的に押し付けられれば、勝てる議論も勝てなくなってしまからです。

この反論からも分かる通り、プロタゴラスソクラテスとの対話を言葉による勝負だと捉えていて、その勝ち負けにしか興味が無いことが分かります。
ですが、この議論の最初を振り返ってみると、そもそも勝負ではなく、ソクラテスは『ソフィストとは何を教えているのかがわからないから、教えてもらう。』というスタンスでした。
つまり、この討論は最初から勝負をつける論争ではなく、プロタゴラスソクラテスが分からないことを教えるレクチャーだったわけです。
しかし、ソクラテスの鋭い質問に窮地に立たされるプロタゴラスは、ソクラテスが賢者である自分を打ち負かしに来ているのではないかと思い込み、いつの間にか勝負をしている気になっていたわけです。

この主張に対してソクラテスは、あくまでも下手に出て、自分が無知であり、物事がわからないからこそ、それを知っている人物に教えを頼んでいるだけだということを改めて伝えます。
その上で、自分は記憶力が弱く、一方的な長い主張を聞いていると、自分が今、何を相手に聞いているのか、論点を見失ってしまうことを伝えます。
ソクラテスは、私自身が、私の能力が劣っている事を認めている一方で、貴方の方は自分が優れた人だと主張して、人から授業料を受け取って物を教えるという職業の人ではないですか。
それなら、能力の高い貴方の方が、私に合わせてくれてもよいのではないですか? といって、プロタゴラスにお願いします。

例えるなら、全くの初心者がギター教師にギターの演奏方法を習いに行った際に、講師の人が、『上手くなる為には、演奏が上手い人間とセッションするのが一番なんだよ!』と言い出し…
イングヴェイの曲をライトハンド奏法で弾きだして、『さぁ! いつでも入ってきて!』と言い出したとしたらどうでしょう。コードの抑え方もわからないような初心者が、そんな授業について行けるはずがありません。
その一方で、それ程の技術を備えている講師の方は、初心者の方に合わせる形で、どの指を使ってコードを押さえれば良いのかといったレベルまで授業内容を引き下げることが出来ます。

つまり、能力が高い人間は低い人間に合わせる事が出来ますが、能力の低い人間は高い人間に合わせることが出来ないという事です。
ソクラテスは、自らが無知で能力が低いことを認めた上で、プロタゴラスに対し、『貴方のほうが優れているのだから、劣っている私の方に合わせてください。 私には、あなたのレベルに合わせる能力がないのですから。』と堂々と言い放ちます。
それが出来ないのであれば、そして、討論の勝敗にこだわる喧嘩腰の討論を続けるというのであれば、この対話は打ち切って終わりにしましょうと提案します。

これを聞いたプロタゴラスの弟子たちは、2人の対話をもっと聞きたいという思いから、プロタゴラスに対し『優秀な貴方の方が、ソクラテスに合わせるべきでは?』と提案し、プロタゴラスは渋々受け入れることになります。

詭弁を防ぐ対話術

私がこの部分を最初に読んだときは、ソクラテス自身も詭弁を使って議論に勝とうとしているのではないかと思い、少し嫌な気分になりました。
この対話編に登場しているプロタゴラス自身も、私と同じ様な誤解をし、怒りを顕にする場面などが登場するので、プラトン自身が、その様に誤解させるような書き方をあえてしているのでしょう。
その為、ソクラテスが真理を得る為に対話相手に行う質問と、ソフィスト達が議論に勝つ為に使う詭弁が、判断がつかない紛らわしい感じで使われています。

しかし、ソクラテスが登場する対話編を複数読み込んでいくと、それは誤解だった事に気付かされます。
ソクラテスは最初から、自分が無知であることを認めた上で、自分が分からないことや納得が出来ない点について質問をしているだけだと主張しています。
わからない事について、詳しい人に教えてもらおうと授業をお願いしたとしても、相手の主張が本当に正しいかどうかは分かりません。

その為、理解できない点や納得できない点について質問をするのですが、その質問を受けた教師側は、『侮辱された』『喧嘩を売られている』と勘違いし、気分を害してしまいます。
これは現在でも同じで、仮に、学校の教師に対して教師が答えられないような事、又は、教師自身が理解していると思いこんでいたけれども、実際には理解していなかった事が暴露されてしまうような質問をした場合、大抵の教師は気分を害するでしょう。
質問が相手の専門分野であれば有るほど、相手はムキになって『オレの言ってることを信じろ。』と連呼する事しかできなくなってしまいます。

結果として生徒は萎縮してしまい、学問に対する興味を失い、真理を追求することもなく、上の者が主張した事を盲信させられます。
相手の主張が信用できない状態で、信用することを強要されるというのは、言い換えれば、信じてもいない新興宗教に無理やり入信させられて、そこで崇められている神や教義を信じ込まされるのと同じことです。

ソクラテスにとってこの様な権威主義は、一番避けたいものであり、最も忌み嫌う行為です。
知らないことを知った気になっているかもしれないだけの人間の主張する事を、正しい事だと思い込んで信じる行為は、真理に近づく行為ではなく、その道を断ってしまう行為だからです。
ソクラテスが望んでいることは真理への到達。アレテーを知る事なので、擬物の真理で満足できるはずがありません。

当然のように、ソクラテスは議論に勝ちたいわけでもありません。
彼が望んでいることは、自分が正しいと思いこんでいるけれども、実際には間違っているかもしれない事柄については、指摘してもらうことです。
指摘をされる事で、自分が歩んできた道が間違っていたことが判明しますし、別の正しい道を探せるきっかけにもなるからです。

彼にとって対話相手は、打ち負かすべき敵では無く、共に真実へと近づく為の味方だからです。
議論はこの後、ソクラテスが提案した方式によって進んでいくわけですが、ソクラテスメソッドを持ち出す前に話していた善悪の基準という話は、一旦置いて置くことになり、議論は別のテーマに移ります。
次回は、そのテーマについて話していこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第60回 『プロタゴラス』詭弁に対抗する為の対話術 前編

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今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回の議論の中心となったのは、アレテーとは何なのかという、核心に迫ったテーマでした。
議論を進めていく中で、プロタゴラスが考えるアレテーとは、『正義』『節制』『敬虔』『勇気』『知恵や知識』と言ったパーツが組み合わさったものだということが分かりました。
これらの事を徳目と呼びますが、この徳目は、それぞれがアレテーなのではなく、人の顔についている目や耳や口のように、それぞれ別の役割を持ちながら、アレテーの一部を担っている存在ということでした。

プロタゴラスの説明に納得がいかないソクラテスは、その答えを聞き出した後も、根本的な質問を続け、それに嫌気が差したプロタゴラスが投げやりな回答をするというところまで話しました。

反対の性質を持つものは一つしか無い

その後、ヘソを曲げてしまったプロタゴラスに気を使って、ソクラテスが別のテーマを用意し議論は少し横道にそれていきます。
彼は、まず、本格的な議論を始める前に、いくつかの点について同意できるかどうかを、プロタゴラスに対して訪ねます。
まず最初に尋ねるのが、『反対の性質を持つものは1つしか無い』という点について、同意できるかどうかです。

概念というものは、単独で存在しているわけではなく、常に相反する反対の性質を持つものと同時に存在しています。
例えば、表という概念は裏という概念がなければ存在できませんし、明るいという概念は暗いという概念抜きには存在することは出来ません。
美しいという概念は、醜いという概念があって初めて存在できる概念で、仮に、この世から醜いという概念がなくなって美しいものしか無い世界になれば、美しいことが当然で普通になってしまい、美しいという概念は無くなってしまいます。

この様に、価値観や概念といったものが存在する為には、相反する概念とセットでなければならないわけですが、この『反対の性質を持つもの』というのは、表に対して裏というように、1つしか無いとされています。
ソクラテスはこの主張を行い、プロタゴラスも、この意見には同意します。

そして、この考え方を、アレテーにも当てはめて考えてみることにします。

分別の反対の言葉

まず、分別しない、無分別という存在について考えます。 この無分別の正反対の言葉は、知恵がある状態の事ではないかとソクラテスプロタゴラスに訪ねたところ、『そうだ』と同意をします。
ですが、『無分別』とは、分別を行わ『無い』と書くため、無分別の正反対の言葉は、分別とも考えられます。
先程の理論に当てはめると、正反対の概念は1つしか無いとのことでしたが、無分別の反対の意味として、知恵と分別という2つの候補が上がってしまいました。

これは、無分別の対義語としてどちらかが間違っているか、それとも、分別と知恵が全く同じ概念となるかの何方かという事を意味します。
無分別は分別が無いと書くために、一見するとこちらが反対の意味のようにも思えます。 しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
概念は、相反する2つの状態を同時に宿すことは出来ないと考えます。 つまり、美しく有りながら醜いとか、裏でありながら表という状態は無いということです。

まず、この事を頭に残しておいた状態で、話を次に進めます。
次に考える事は、不正を行うような人物についてです。

分別ができる人間は不正を行わないのか

分別とは、事の善悪や損得を考える能力のことなので、分別がない人間というのは、何が悪い事なのかが分からずに、欲望に任せて不正を行うと言ったことをしてしまいがちです。
その人物が悪人ということではなく、これから始める行為が、良いことなのか悪いことなのか。 その知識がない為に、悪いことをしているという自覚なしに、犯罪などをしてしまうケースは有りがちです。

しかし、不正行為は無分別の人間だけが無意識に行ってしまうようなものなのでしょうか。
分別が有り、何が良いのか悪いのかを熟知していて、それでも尚、自分の欲望を満たす為に、悪いと知りながら不正に手を染める人間というのは存在しないのでしょうか。

現実の世界を見てみれば分かりますが、そんな人間は腐る程いますよね。
脱税するのが悪いと分かっていながら行うものや、脅しや詐欺が悪いと分かっていながら、お金欲しさに実行する者は、日々のニュースを観るに珍しい存在ではありません。

概念は単独では存在できない

では、これまでの事をまとめてみると、どうなるのでしょうか。
概念は単独で存在する事は無く、存在する場合は正反対の性質を持つものと対になって生まれます。

反対の性質を持つものは1つしか無く、正反対の性質は同時に宿ることはありません。 水という液体が、熱くありながら、同時に冷たいということはありえませんよね。
この前提を思い出してもらった上で、先程の分別の対義語の話を思い出してもらいたいのですが… 分別の対義語を考えてみると、『知恵の無いもの』と『無分別』の2つの対義語が候補に上がってしまいました。 
『反対の性質を持つものは1つしか無い』という先程の前提を満たそうと思うのであれば、『知恵が無い状態』と『無分別』は同じ1つのものと考えるか、対義語として何方かが間違っていることになります。

次に、不正を行う人間について考えるわけですが、不正を行う人間は分別がない人間と言われているので、ここでは、『不正を行うもの = 無分別』とします。
先程、『分別』と『知恵』は同一のものかもしれないという可能性が上がったので、ここでは一旦、『不正を行うもの = 知恵のないもの』も成り立つものとします。

『概念の前提条件』としては、他に、正反対の性質は同時に宿ることが無いとのことでした。

では、『不正を行う』という行為と、知恵や分別が有るという状態は、同時には成り立たないのかを考えてみます。
不正を行う行為は、『無分別』や『知恵の無い状態』と等しいという事を先ほど定義したので、この定義によると、不正を行うような人物は『知恵』も『分別』も持っていては駄目だということになります。
しかし実際には、分別がある状態で、悪い事と知りつつ、知恵を働かせて不正を働く人間というものが存在します。 悪いと知りつつ、自分の利益の為に知恵を働かせて脱税行為をするのが、これにあたりますよね。

この状態は、不正を行うような分別も知恵もない人間が、分別と知恵を働かせて不正を行って利益を得た事になるわけで… かなり矛盾した事になります。
また、分別と知恵を働かせて不正を行う人間は、アレテーの一部である『分別』と『知恵』を持っていることになるので、この不正を働いた人物は、アレテーを持つ人間という事にもなってしまいます。

ですが、当然のことながら、分別をわきまえて知恵を働かせて、自分の利益の為に不正を働くような人間は他人から尊敬ませんし、他の人間と比べて卓越した人間でもありません。
アレテーを構成する『知恵』や『分別』を宿した行動を行ったのにも関わらず、何故、不正を働いた人間は尊敬されず、何なら見下されることになるのかというと、不正を働く行為は『善い行い』ではないからです。
つまり、自分自身の欲望を満たすためだけの、正義が宿らない行為をした為に、共同体の皆から軽蔑される事になるわけです。
(つづく)
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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第59回 『プロタゴラス』優れているとは どういう事なのだろうか 後編

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徳とは性質の違う徳目で構成されるものなのか

これまでの話をまとめると、アレテーというのは、正義・節制… といった、複数の徳目によって構成されていて、その徳目は、同じ性質を持つものではなく、全く違った性質を持つものだということになりました。
この顔の例を使った説明の場合で考えると、何らかの事故で目や耳を無くしてしまった人が居たとしても、耳がないからという理由で、その人物には顔がないとは言いません。

顔を構成する部品が欠けた人がいたとしても、その人の頭の前面には、顔が概念として存在することになります。
以上の説明で、プロタゴラスソクラテスの質問に、上手く回答できたような気もします。
しかし、果たしてこれは、本当に正しいのでしょうか。

それぞれの徳目は全く違った存在なのか

例えば、正義という言葉は正しいという言葉が入っている為、意味合いとしては正しい行動という性質を持っています。 では、他の徳目は、正しいという性質を備えていないのでしょうか。
節制は正しくないことなのでしょうか。 勇気ある行動とは、正しい行動とは言えないのでしょうか。
一般的な感覚としては、勇気は正義が伴っていなければ成立はしない様に思えますが、勇気と正義は、何の関わりもない状態で単独で存在しているようなものなのでしょうか。

例えば、『自分の利益や欲望を満たす為に、勇気を振り絞って弱者から搾取するという』という言い回しには、何か違和感を感じてしまうのではないでしょうか。
同じ様に、『知識を総動員して知恵を絞って計画を立てて、勇気を振り絞って強盗殺人を実行した。』人が居た場合に、その人は、他の人間よりも卓越しているとして尊敬されるのでしょうか。

この様に、悪いことに知恵が使われれば悪知恵となり、他人を貶める悪い行動となってしまいます。 知恵は正しいことに使われなければ、アレテーとは言えないでしょう。
アレテーとは、日本語訳をする時に、徳という言葉を使う場合が多いと、前に説明しましたが、例えば、法律の勉強をして弁護士資格を取って、法の範囲内で正義に反する事をする弁護士がいた場合、彼らの事を悪徳弁護士なんて言ったりもします。
法治国家で、法に則って行動するというのは推奨される行為ですが、法を犯さなければ何をしても良いというわけではありません。

法の抜け道を探して、法に抵触をしない形で、正義に反して自分の欲望を満たそうとする行動は、徳の真逆の行為として、悪徳と呼ばれて批判されます。

それぞれの徳目には関連性が有る

つまり、これらの徳目というものは、それぞれ単独で存在しているものではなく、相互に関係し合って切り離せないような関係にあるとも考えられます。
これは、正しさだけに限定されるものでは無く、それぞれの徳目の中には、相互に他の徳目が内包されている状態で、全く違ったものではなく、限りなく近いものだということが分かります。
正しい行為の中には、美しさも含まれていますし、正しい道を進む為には勇気も必要だったりします。そして、勇気ある行動もまた、美しい行動だとも言えます。

これは、先程のプロタゴラスの主張とは異なりますよね。
というもの彼は、それぞれの徳目は違った性質を持つものだと主張していたからです。

ソクラテスが、アレテーにおける徳目とは、1つ六面体のそれぞれの側面のように、基本的には同じだけれども、観点が変わる事で見え方が変わるのかと聞いた時に、それを否定し、プロタゴラスは顔のようなものだと答えました。
それぞれの徳目は、目や口や耳といった、全く別の働きを持つ器官で構成されていると主張していたのですが、先程の考察によると、それぞれの徳目は他の徳目の特徴を内包している、かなり似通ったものだという事になってしまいます。
他の徳目の特徴を内包しているとは、正しさの中には美しさが宿っているし、勇気の中には正しさが宿っていると言った具合に、単独で存在しているわけではないということです。

この主張を聞いたプロタゴラスは、『正義と敬虔には似ている部分や共通する部分があるけれども、だからといって同じというわけではない。 でも、ソクラテスがそう思いたいんであれば、それで良いよ。』と諦めムードに入ります。
しかし、ソクラテスは妥協を許さない男なので、そんな忖度は許しません。 ソクラテスの主張に対して納得がいかない部分があるなら、納得はせずに十分に吟味をして欲しいと要求します。

全く違った者同士にも共通点は有る

これに対してプロタゴラスは、『全く違うもの』とされているものであっても、共通点を探そうと思えば探せることを指摘します。
例えば、黒と白は正反対の色のように思えますが、色という点では共通していますし、互いに色という枠組みの中に入っています。 黒が色だからといって、その真逆に位置する正反対の白は色ではないとは言えないわけです。
硬いものと柔らかいものは正反対ですが、別の観点からみると、互いに触った際に感触が有るものという点では共通しているともいえます。

先程の顔と、それを構成するパーツの例でいうならば、全てのパーツの原料はタンパク質ですし、目と耳と鼻と口は、脳に情報を伝えるという部分において共通した機能を持っています。
それぞれが取り扱う情報は違っていて、目は光、耳は音、鼻は匂い、口は味といった違いがありますが、脳に情報を伝えるという点においては、同じ機能を持っているといえます。
これと同じ様に、正義と敬虔は、全く違うものでは有るけれども、その中に共通点が全く無いかと言われれば、そんな事は無いと答えるしかないだろうと、プロタゴラスは主張します。

これを聞いたソクラテスは、『正義と敬虔には、その程度の差しかないのですか?』と驚いた様子で質問仕返すも、プロタゴラスソクラテスを説得する気が削がれている状態なので、この議論を辞めてテーマを移すことにします。

この部分のパートは、ソクラテスが議論に勝つ為に詭弁を使って相手を陥れているようにも捉えられますが、実際にはそういう事ではないのだと思います。
プロタゴラスが、議論にやる気を無くし、『君がそう思いたいんであれば、そうなんじゃない? 君の頭の中ではね。』といった投げやりな態度をとった際にも、自分の発言で疑問に思う点が有るなら指摘して欲しいと懇願しています。
ソクラテスが議論において目指している事は、議論に置いて相手を打ち負かすことではなく、真実に到達する事です。

この目的を果たす為に必要なのは、自分が正しいと思い込んでいる考えを、それ以上の正しい指摘によって打ち砕いてもらうというのを延々と繰り返していくしかありません。
ソクラテスは、プロタゴラスの主張に対して疑問に思った点について質問をぶつけたので、プロタゴラスに対しても同じ様に、自分の主張に間違った点があれば指摘して欲しいと主張しているわけです。

ですが、プロタゴラス側に立って、この対話を見てみると、『無知だから、私に教えてください。』と言ってきた相手に教えだした所、相手はこちらの話を疑って、頑なに信用せずに反論ばかりしているようにも思えてきます。
教えを請いに来た相手が、こちらの話すことを全く信じないと分かれば、それ以上、話す気が無くなってしまうのも、分かる気がしますよね。

ソクラテスは、プロタゴラスがやる気を無くしているのを感じ取り、別のテーマに移行するのですが、その話は次回にしていきます。
(次回)
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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第59回 『プロタゴラス』優れているとは どういう事なのだろうか 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

前回までの振り返り

前回までの内容としては、アレテーとは教えれるものかどうかというのが、プロタゴラスソクラテスの対話の争点となっていました。
ソクラテスの主張としては、アレテーとは教えられるようなものでは無いのではないかといったものでした。
その理由として、優秀で卓越した人間の、その本質であるアレテーという存在が、教えることが出来る様なものであれば、まず、自分の分身ともいえる我が子に対して、教えるだろうと思ったからです。

優秀な人間の子供が全て優秀なのであれば、アレテーが教えられるというのも分かるけれども、必ずしもそうとは言えないし、逆に、劣った人間の子供が必ずしも劣っているのかといえば、そうとも言い切れない。
劣った親を持っていたとしても、優秀な子供は存在するわけですが、ではその子供は、何処からアレテーを得たのかという素朴な疑問です。

これに対してプロタゴラスは、全ての人間がアレテーの核のような物を持ってはいるけれども、それを発展させて大きな者に育て上げる為には、持って生まれた才能が必要だと主張します。
人には得手不得手があり、走り方を教えたとしても、全ての人間が同じ様に早く走れるわけではありませんし、同じ様に数学を教えたとしても、飲み込みの早い人間と脱落する人間が出てきます。
才能のある人間は、僅かなヒントでも、それを糧にしてアレテーを育てることが出来ますが、才能のない人間は、才能を持つ者よりも多くの努力と時間が必要だと主張します。

才能のない人間は、多くの努力と時間が必要だということは、言い換えるならば、時間をかけて努力をすれば、誰でも、それなりのアレテーを宿すことが出来るとも考えられます。
ただ、向かうべき目的も方法も分からず闇雲に努力をしたとしても、アレテーを身につけられわけではなく、才能のない人間がアレテーを身につける為には、目的地へ誘導するための優秀なコーチが必要となる。
つまり、優秀な教師がアレテーを教えれば、誰でも、それなりのアレテーを宿すことが出来るというのが、プロタゴラスの主張でした。

アレテーとは何なのか

プロタゴラスの主張によると、アレテーとは教えられるものという事らしいですが、では、そのアレテーの本質とは何なのでしょうか。 プロタゴラスは、何を教えるのでしょうか。
彼に言わせれば、それは『正義』と『節制』と『敬虔』、敬虔とは尊敬の敬という字に『つつしむ』という漢字を書くもので、意味合いとしては、深く敬ってつつしむ態度の事ですが、この3つからなるものだそうです。
人間が持つアレテーとは、人間が共同生活を円滑に送るためにゼウスが人間に授けたもので、円滑な共同生活を達成するのに必要不可欠なのが、この3つというわけです。

確かに、正義がなければ、悪がのさばるわけですから、秩序が保てません。
また、皆が、欲しいだけ欲しいと欲望を丸出しにして行動に移せば、これもまた社会は保てませんから、慎みも必要になるでしょう。
同じ様に、皆が、この共同体の中では自分が一番だと思って行動すれば、色々な軋轢が生まれるでしょうから、他人を敬うという態度も、安定した社会を保つ為には必要となってくる為、この3つは必須と言えるかもしれません。

心に正義を宿しているけれども、傲慢ではなく、慎み深く、他人を敬う心を持つような人が起こす行動は、人からの信用を勝ち取れるでしょうし、信頼もされるでしょう。
その様な人物が自分の思いを主張すれば、その言葉には説得力が有るでしょうし、多くの人が耳を傾けるようになるかもしれません。
もし、これらをプロタゴラスの元で効率よく学ぶことが出来るとすれば、その人物は卓越した人間になれる可能性もあります。

アレテーは複数のものなのか単体のものなのか

ですが、ここで次の新たな問題が出てきます。 それは、アレテーとは、その3つが揃ったときなのか、それとも、その3つそれぞれがアレテーというものなのかという問題です。
それぞれがアレテーというものであるなら、アレテーという一つのものが、『正義』『節制』『敬虔』という3つのものに分裂したことになります。
3つ揃った時とするならば、では、その1つが欠けた行動。例えば、正義も節制も備えているけれども、敬虔だけが抜け落ちた行動を取った場合、その行動はアレテーとはいえるのか、それとも言えないのかという疑問です。

例えば、自転車という道具が有るとします。 自転車は、複数のパーツが組み合わさって自転車という存在になるわけで、この自転車にハンドルが欠けていたりペダルが欠けていたりすれば、それは厳密には自転車とは呼べないものになってしまいます。
これと同じ様に、『正義』『節制』『敬虔』の3つは、アレテーを存在させる為の部品のような存在だと考えるなら、この3つの中のどれかが欠けただけで、完全な形でのアレテーは存在できないことになります。

この疑問に対するプロタゴラスの主張としては、アレテーというのは1つのものであるけれども、様々な側面を持っていると主張します。
例えば、サイコロというのは1つのものですけれども、サイコロには6つの面が、それぞれ存在するという事です。
正義・節制・敬虔などは、アレテーが持つその1面であって、それぞれが『徳』そのものというわけではないという事のようです。

アレテーには様々な側面が有る

では、正義・節制・敬虔の中の1つのものを手に入れれば、他の全てのものが手に入るのでしょうか。
サイコロの場合は、1の面だけを手に入れようとして、それを手に取ったとしても、サイコロ全体を手にとることになります。
しかし、これはそうでもないらしいです。というのも、プロタゴラスによると、一つの行動を抜き出してみた場合、勇気は宿ってはいるけれども、知恵が欠けているという行動が存在するからです。

ここで、新たに『勇気』と『知恵』というものも、アレテーの側面の1つだと追加されてしまいました。
アレテーという、ただ1つのものの正体を聞いただけなのに、その正体はドンドン増えていきます。 また、それらが、それぞれアレテーの正体なのかというと厳密にはそうではなく、それらはただの側面でしか無いという状態になってしまいました。
質問を投げかければ投げかける程に、プロタゴラスが付け加える補足情報によって、アレテーの存在はどんどんと複雑化していくわけですが…

では、ソクラテスが何故、このような質問を投げかけたのでしょうか。

理論と現実の違い

それは、日常でのアレテーの使われ方とプロタゴラスの説明に、ギャップを感じたからでしょう。
現実世界では、正義に則った行動をすれば、アレテーを宿した卓越した人だという事で他人から尊敬をされます。 その他にも、美しい振る舞いをすれば、同じ様に他人からの尊敬や憧れを獲得することが出来るでしょう。
美しさという観点でいえば、単純に外見が優れているというだけで、一部の人からは卓越した存在として扱われることも有るでしょう。

節制や慎み深さも同じで、それぞれ単独の徳目が宿った行動をしただけでも、アレテーが宿った行為として尊敬や憧れを得ることが出来ることも有るでしょう。

つまり、日常的な使われ方としては、『正義』『節制』『敬虔』それに、『勇気』や『知恵』、そしてここでは語られていませんが『美しさ』というものも、それらが単独で宿った行動は、全てアレテーが宿る行為だと認識されているという現状が有りました。
その為、これらそれぞれが単独でアレテーと呼ばれる存在なのか、それとも、全て揃わなければアレテーとは言わないのかという疑問が出てきたのでしょう。
また、それぞれがアレテーで有るなら、正義や節制などの徳目は、全て同じものということになり、1つを手に入れる事で全てを手に入れる事も、理論上は可能になります。

何故、それぞれの徳目がアレテーであれば、全ての徳目が同じものであるのかを、もう少し丁寧に説明してみると…
『正義とはアレテーである。』 『節制とはアレテーである。』 とした場合。 『正義とは節制である』という事も成り立ってしまうからです。
数式に当てはめてみると、A=B で、尚且、A=C の場合は、B=Cも成り立ってしまうというわけです。

つまりこれは、全ての徳目が単独でアレテーになる事を認めてしまえば、全ての徳目は根本的に同じものとなってしまうという事です。

それぞれの徳目は別のもの

これに対してプロタゴラスは、正義や節制などは、同じものでは無く、アレテーの1面に過ぎないと主張します。
同じものではない上に、アレテーという1つのものの1面とはどういう事なのでしょうか。
先程は、分かりやすくサイコロに例えましたが、サイコロの目が無い、ただの六面体で考えた場合、それぞれの面に違いはなく、側面や上面の様に観点によって捉え方が変わるだけで、本質的には同じものになってしまいます。

これは、先程も説明しましたが、全ての徳目がアレテーとイコールになってしまえば、結局は、徳目全てが同じものとなってしまうからです。
何の目印もない6面体には、それぞれの側面がありますが、その物体に何らかの力が加わって転がってしまえば、どの面が何を表していたのかが分からなくなりますよね。
1つのものを、どの側面から見るかというだけなので、根本的には同じものである為に、見分けがつかないのも当然ですよね。

しかし、プロタゴラスの主張によると、それぞれの徳目は同じものでは無く、アレテーの部分を表すものだと答えます。
アレテーを構成する部分であるとは、どういうことなのかというと、『正義』や『節制』『敬虔』や『勇気』といった、それぞれの徳目は、明確に違った性質を持つ部分で、それぞれの部分が寄せ集まることで、一つのアレテーを作っているということです。
この説明を聞いたソクラテスは、『アレテーとは、目や口や鼻といった、それぞれ別の働きをする器官がついている、顔のような存在なのですか?』と質問をすると、プロタゴラスは、これに同意すします。

人間の顔には、目や口といった、それぞれ明確に違った働きをする部分が存在して、それが寄せ集まって、顔という存在を生み出しています
目は単独では人の顔だとは言いませんし、目と鼻は同じ顔の部分という特徴を持っては居ますが、全く違った機能を持っていますし、見た目も違います。
ここまで違った機能と見た目を持つものなので、目と鼻は同じものだとは言えないでしょう。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第58回 『プロタゴラス』優れた人になる為に必要なのは才能ではなく努力? 後編

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アレテーを宿すものが悪人になるのか

一見すると、筋の通った話のように思えるプロタゴラスの主張ですが、深く考えると、よくわからない点が複数出てくる事に気が付きます。

プロタゴラスの主張では、全ての人間にアレテーが備わっていることになっていますが…
仮に、全ての人間にアレテーが備わっているのであれば、そもそも、悪い人間というのは存在しないことになります。 もし、存在する場合は、悪い事と知りつつ敢えて行っているという事になります。
悪いことと知りつつ、敢えて悪い事を行っている人間に対して、何らかの罰を与えて『これは悪いことなのですよ。』と改めて教える行為に意味はあるのんでしょうか。

また、人が他人に対して怒りをあらわにするのは、アレテーに反した行為をしたときではなく、単純に自分に不利益が起こる場合とも考えられます。

例えば、東京の南青山に児童相談所が建てられるといった際に、住民は怒りを全面に出して反対運動を行いました。
東京にある既存の施設では対応が出来ないということで、東京内に施設を作るというのは悪徳な判断では無く、当然とも言える判断ですが…
その計画に対して住民が怒りをあらわにしたのは、それがアレテーに反した行為だからではなく、その施設が建つことで、その地域の土地の価格が下がる可能性が有り、投資目的で土地を購入している場合は、自分の損失につながるからですよね。

別の例で言えば、町中で大声で喚いている人をたまに見かけます。
例えば、不良であったり反社会勢力の人達は、事ある毎に大声をあげて威嚇しているイメージがありますが、彼らは徳が高く、他の人よりも細かい部分で善悪が分かる為に、他の人間よりも頻繁に怒っているのでしょうか。
パワハラ上司は、他の人間よりも卓越しているが故に、少しのミスが目について怒ってしまうのでしょうか。それとも、怒る事でストレス発散が出来るなど、自分自身に何らかのメリットが有るからでしょうか。

一方で、アレテー
を備えたカリスマ性が高い人間は、余程の事でも無い限り、怒るなんて事はないように思えます。 共同体の利害に反した事を目撃した場合も、怒りに身を任せること無く、冷静に注意するでしょう。
私は日本から出たことがないので、もしかすると、これらの行動は日本特有の事なのかもしれませんが、想像するに、どこの世界であっても、常に怒っている人が徳が高く良い人間とは思わないのではないでしょうか。
どんな場面であっても、感情に任せて暴走してしまう人よりも、冷静になって話し合える人が、人格的に優れているように思えてしまいます。

両者の意見が出揃ったところで、本当はどちらが正しいのかを、対話を行う事で解き明かしていきます。

アレテーは教えられるもの

プロタゴラスの主張としては、アレテーとは他人に教えられるものというものでしたが、ソクラテスは、アレテーが教えられるものであるなら、徳が高い人物の子供は徳が高いはずだが、現実を見るとそうとは限らないといって、その主張に疑問をいだきます。
この主張に対してプロタゴラスは、『才能』の有無で説明をしだします。

プロタゴラスの主張では、全ての人間は徳を備えているとのことでしたが、完全に平等に備えているのかといえば、そうとは言えないと主張します。
ゼウスは、人類に対してアレテーを授ける時に、全ての人に行き渡るように配分をした為に、人類はアレテーの核のようなものは平等に授かったけれども、それを応用発展させる力そのものは、個人の才能によるという事です。

例えば、運動神経の良い人は、スポーツのコーチから同じ様に指導を受けたとしても、才能のない人に比べて上達も早く、トレーニングを積み重ねることで、常人には追いつけないようなスピードで、高い場所まで到達することが出来ます。
これは学問などの知識の分野でも同じで、同じ様に授業を受けているのに、僅かなヒントで問題を解く方法を思いついて発展させていく人もいれば、落ちこぼれる人もいます。
アレテーも同じで、全ての人がアレテーという概念や核の様なものを持ってはいるけれども、才能がない人間は、アレテーを伸ばすことが出来ないという事です。

つまり、運動の才能がないからと言って、運動が全く出来ないわけではないように、アレテーの才能が無いから、アレテーを全く習得できないのかといえば、そんな事はないということです。
才能がないものであったとしても、良い教師についてもらって本人が努力をすれば、才能を持っているけれども、何の勉強もしていないような人間よりは、優れた人間になれるという考えです。

共同体を作る人間にとっては、徳が高い人達が増えれば増える程に、その共同体は住みやすくなるわけなので、全ての人間は他人に徳を教えようとしますが、才能がない人間は、それを吸収することも発展させる事も難しいという事です。
では、才能のない人間は諦めるしか無いのかというと、そうではなく、才能がなければ無いなりに、アレテーを学習する方法はあると、プロタゴラスは主張します。
このアレテーの学習方法というのが、前にも言いましたが、習いたくない分野は習わせず、興味のある分野だけに特化して学習するという勉強方法なのでしょう。

すべての道はつながっている

このプロタゴラスの主張は、それなりに納得できるものがあります。
というのも、どんな分野であれ、極める為には他の知識が必要になってくる為、結局の所、総合的な勉強をしなければならないからです。

教える才能がない教師は、『将来必要になるから!』という漠然とした言葉で、算数嫌いの人間に無理やり算数ドリルをやらせたりするわけですが、本人が興味がない状態で勉強をさせたとしても、それは身につきません。
しかし、その人物が建築に興味を持ち、大工に弟子入りした場合はどうでしょうか。
最初こそ、道具の手入れの仕方や材料の加工の仕方などの勉強しかしませんが、建築全般に興味を持ち、建築士を目指すようになると、建物の耐久性を計算する為にも、数学に興味をもつことになるでしょう。
建築は建物の外観も重要ですから、デザインにも興味が湧くでしょうし、歴史的建造物のデザインの背景を探るためには、歴史も勉強しなければならないでしょう。

勉強をする目的がはっきりする事で、生徒の学問に対する捉え方が変わります。
これはアレテーも同じで、自分が共同体の中で卓越した人間になる為に、その共同体のあり方などを勉強していくと、自分ひとりのワガママを通すことが、結果的に自分の損失につながる事が理解できるようにもなるかもしれません。

この他にも、一つの道を極めようと邁進していると、全ての物事が繋がっていることに気づくというケースもあります。
例えば運動の場合などで考えてみると、スキーという競技しかやっていないのに、そのスキーのトレーニングを通して体を動かすという根本的な部分の理解が進むことで、他の競技を行う場合も、すんなりとコツを掴むことが出来る場合がありますよね。
スキーの技術そのものが、他のスポーツに対しても、そのまま流用できるといったケースも有るでしょう。

また、これは、運動分野だけに留まる様な事でもありません。 
スキーの練習を進めていく際に、何らかの精神的な壁に、ぶち当たるというケースも出てくるでしょう。
それを、色んな人達の助けを借りたり、自分自身の力を高めたり機転を利かせたりして乗り越えるという経験を何度もしていると、スポーツ以外の壁であっても、すんなりと乗り越えられたりします。

全ての物事の道がつながっているのであれば、自分が嫌いだと思っていて苦手意識が有るものは勉強せずに、長所を伸ばすというのも、卓越した人間になる為には有効な方法かもしれませんよね。

頑張れば誰でも卓越した人間になれる

アレテーの能力を伸ばす力は、才能に依存している為、全ての人間が同じ様にアレテーを高めることは出来ません。
才能がある人間は、1を説明すれば10が理解できるでしょうし、教えられた事を発展させて応用する力も高い為に、他のものよりも早い段階で卓越した人間になれる可能性が高いです。

しかし、才能がないからといっても、努力が実る事はなく、全く身につかないわけでありません。
才能が無いなら無いなりに、ゆっくりでは有るけれども、努力に応じて着実に、アレテーを身に着けることは出来る。
そして、自分なら、その手助けをする事が出来るというのが、ソクラテスの反論に対するプロタゴラスの返答となります。

この反論を受けて、ソクラテスはどの様な反応を示すのでしょうか。
この続きは、次回にしていこうと思います。
(つづく)
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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第58回 『プロタゴラス』優れた人になる為に必要なのは才能ではなく努力? 前編

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前回の振り返り

今回も前回と同様に、プラトンが書いた対話篇の『プロタゴラス』を読み解いていく内容となっています。
一応、注意として言っておきますが、著作権の問題から、プラトンの『プロタゴラス』をそのまま朗読する内容にはなっていません。
私が作品を読んで、簡単にまとめたり、一分内容を引用した後に、私自身の解説や考察を加える形式となっています。

作品の全内容が知りたい方は、書籍などを購入して読まれることをお勧めします。

という事で本題に入っていきましょう。
前回は、その存在を知ることで、他の人間よりも優れて卓越した者になれるというアレテーは、人に教えることが出来るような物なのかという事について考えていきました。
アレテーが知識や技術のようなもので、他人にも伝達出来るようなものであれば、人に教えることも出来るでしょうが、仮に、運動神経や才能のようなものであった場合は、他人に伝えることは出来ないことになります。
果たしてアレテーとは、教えられるようなものなのか、それとも、教えられない神から与えられた才能のようなものなのか。今回は、その続きを行っていきます。

ソクラテスの主張としては、アレテーとは教えられるものでは無いのではないかというのが、その意見でした。
アレテーが教えられるものであるなら、世の中で優秀とされている人間は、自分が子供を授かった際に、子供に愛情を注ぐのと同じようにアレテーを教える為に、優秀な人間の子供は皆、優秀になるはずです。
その逆も同じで、劣った親に育てられた子供は、アレテーが教えられる事は無いわけですから、劣ったままということになります。

しかし実際には、優秀な人物の子供が劣っている場合もあれば、劣っているダメ親の子供が優秀な場合もあります。

徳とは教えられる

このソクラテスの主張に対してプロタゴラスは、『アレテーとは教えられるものだ』と主張します。
この主張は当然といえば当然で、仮にソクラテスの言う通りにアレテーというものが、他人には教えることが出来ないようなものであった場合。
プロタゴラスは、本来なら教えることが出来ないような事を、自分なら教えられると騙した上で、生徒と金を集めている嘘つきという事なってしまいます。

プロタゴラスの職業はソフィストで、ソフィストとは『アレテーの教師』なのですから、そのアレテーは、教えられるものでなければ困ってしまいます。

プロタゴラスは、プロメテウスの神話になぞらえて、『全ての人は徳を備えている。』と主張します。
プロメテウスの神話とは、プロメテウスとエピメテウスの兄弟が、神々の命令で地球に住む動物たちを作るという話でしたよね。詳しい話は、第53回で話していますので、まだ聞いていない方は、そちらから聞いてもらいたいのですが…
簡単に説明すると、プロメテウス達は体のベースとなる材料に、卓越した特別な能力が得られるパーツを組み合わせる事で、動物たちを作っていくんです。 生き物のベースの形を作った上で、鋭い爪や牙といった特徴を付ける感じですね。

人間以外の他の動物達は、鋭い爪や牙といった武器や、空を飛ぶ翼など、他の動物と比べて卓越した能力である個性を与えられているわけですが…
後半部分の作業を、よく考えないで行動するエピメテウスが受け持ったせいで、特別な能力を持つパーツを先に使い果たしてしまって、余ったベースの材料だけで生物が作られます。それが人間という生物です。
厳しい自然環境を生き残る為の、他の生物にはない卓越した能力を何も持たない人間は、プロメテウスによって哀れみをかけれられて、炎と、それを使いこなす知恵を与えられるという話なのですが…

神々も、その哀れな人間に対して、情けをかけることにします。
ゼウスは、人間よりも強い獣や自然災害から身を守る為、力を持たないもの同士が皆で集まって共同生活が出来るように、慎みや節度といった概念を与えます。
この、ゼウスが人間に慎みや節度を授ける際に、特定の人物にだけ授けたのではなく、全人類に平等に授けたとされているので、全ての人間は徳、つまりはアレテーを持って生まれているとされているので…

プロタゴラスは、この神話でもって、全人類にアレテーが宿っていると主張します。

アレテーに反した行為を他人が取ると人は怒る

神話という説明だけでは、神話に馴染みの薄い人間では理解が出来ないからか、プロタゴラスは具体的な例も挙げて説明してくれます。
これは、ギリシャ神話に疎い、私のような存在には、ありがたい配慮ですね。
どの様な例かというと、プロタゴラスによると、全ての人間がアレテーを持つ理由としては、アレテーに反した行動を取る場合に、人々は怒るという反応をみせるからだそうです。

例えば、皆で共同生活を送る場合に、皆の迷惑になるけれども自分の欲望を満たしたいという行動は制限されなくてはなりません。
仮に、自分の欲望を優先した結果、他人から物を盗んだり騙し取ったりした場合、それが発覚した際には人々は怒ったり気分を害したりしますよね。
これは、自分が直接的な被害にあっていない場合でも、同じです。

私は最近は、動画配信サービスばかりを見るようになったせいで、テレビの情報に疎いのですが、昔は、警察24時といった感じの、犯罪者を取り締まる警察官に密着した感じのドキュメント番組が定期的に作られていました。
何故、あの様な番組が成立するのかというと、多くの人間が、自分が被害にあったわけでもないのに、理不尽な行為や犯罪に対して腹を立てて怒るからです。
そして、その犯人が捕まる映像を見る事で、スッキリとした気分になれるからでしょう。 つまり、モラルに反した行為をされると、例え自分が被害にあっていなかったとしても、人は怒りを顕にする生物なんです。

この『怒る基準』は、誰かから教えられたわけでもなく、有る一定以上の迷惑に対しては誰だって怒ります。
では何故、怒るのかというと、アレテーというのは勉強すれば誰にでも身に着けられる行為なのに、それをしない。つまりアレテーの勉強を怠るというのは本人の努力不足だからです。
本人の努力不足、つまりは、その人間が怠けていたから、やって良い事と悪い事の区別がつかない。

アレテーが才能なら 持たないものを哀れむ

もしこれが仮に、努力ではどうにもならないようなことであれば、人々は怒りで反応するのではなく、哀れみなどで反応するはずだろうと主張します。

例えば、生まれながらに体の不自由な人間が、それが原因で他人に迷惑をかけてしまった場合、それを怒るような人間はおらず、その人物に対して哀れみの感情を抱くはずです。
仮に体が欠損している事によって、人にぶつかったとして、それを『本人の努力不足』として目くじら立てて怒るような事はしないでしょうし、仮に怒ったとしたら、その人が変な目で見られることでしょう。

また、怒るという反応は、悪いことをした際に、それ相応の罰を与えるべきだという感情でもあります。
何故、罰を与えるのが必要なのかというと、犯罪を犯したものに『それは悪い事だ』と教育し、二度と同じ過ちを犯さないようにする為です。
どのような罰を与えたとしても、善悪の区別がつかないとするのなら、税金を使って牢屋に入れるといった行為は無駄になってしまいます。 学習するという前提で、鞭打ちや罰金などの罰を与えたり投獄するといった行動を犯罪者に行うわけです。

以上が、プロタゴラスの主張です。
(つづく)
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