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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第57回 『プロタゴラス』優れた人間は作れるのか 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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アレテーとは教えることが出来ない?

ソクラテスは、それを知ることで『優れた人間』になれるような知識のようなモノは存在するのか?という疑問が解決しないので、質問を続ける事にします。
というのもソクラテスは、人を優れたものにすると言われているアレテーを研究しまくっていたんですが、それが分からない為に苦しんでいた存在だったからです。

当然のことですが、ソクラテスプロタゴラスに会う以前にも、北にアレテーを知っているという人の存在を知れば北に、西に真理を得たという人がいたという噂を聞けば西に行くような人だったのですが…
色んな賢者と呼ばれる人の話を聞いた結果、ソクラテスが納得できるようなアレテーを知る事が出来なかったんですね。
『アレテーを知っている』という人を見つけ次第、会いに行っては話を聞いたのに、聞いても聞いてもアレテーを理解できずに、打ちのめされる。
そうした事を繰り返していくうちにソクラテスは、アレテーとは、知識のように言葉で他人に伝えることが出来ないような代物なんじゃないかと思う様になったのかもしれません。

ソクラテスプロタゴラスに、『アレテーは、知識のように人に教え伝える事が出来るものなのでしょうか?』という疑問を率直に伝え、自身の主張を展開します。

優秀な人の子供は優秀なのか

先程も言いましたが、知識や技術を他人に伝えることは可能です。
画家は、テクニックや知識を他人に教えることで、絵の上達を助けることが出来ますし、数学の教師は、その知識を授業によって伝え、自身で考えて発展できるようにさせることが出来ます。
大工のような職人も、その他の学問も、知識や技能を伝達する事で弟子にその知識を伝えることが可能です。

しかし、アレテーというものは、他人に伝達が可能なのでしょうか。
仮に、アレテーと呼べれるものが伝達も学習も出来るようなものであるとするならば、例えば、徳が高いと言われている人間力の高い優れた人の子供は、親からアレテーを教えてもらっているはずですよね。

大抵の人にとって、自分の子供というのは大切なものですし、他人よりも強い愛情や執着を持って接しているものだと思います。
もし、アレテーを宿すような優れた人間が子供をつくったとすれば、自分の子供に愛情を注ぐように、自分が持つアレテーも伝え教えるのは当然の事だと思います。
何故なら、優れた人間になるというのは幸せに直結するわけですから、自分の子供の幸せを願うのであれば、アレテーを伝えて優れた人間にしようと思うのは、親心として当然なことだと思われます。

以上のことを考えると、善人でカリスマ性が有り、人々を先導できるような優秀な人の子孫というのは、その優秀な親からレクチャーを受けているので、同じ様に善人でカリスマ性が有ってリーダーの素質を備えた人間ということになります。
しかし実際にどうかというと、親は優れていて立派な人間であったとしても、その子供がクズという事は、結構あることで珍しいことではありません。
成功を収めた優れた女優であったり権力者の子供が、覚せい剤の使用や暴行などを行うといった感じで、犯罪で捕まるケースがあったりしますよね。

その一方で、鳶が鷹を生むといった具合に、両親がクズなのに、その子供が優秀な人物であるといった事もありえます。 その子供は、おそらくですが、両親からはアレテーと呼ばれるものは教えられてはいないはずです。
何故なら、両親が子供に教えるべきアレテーを備えているのであれば、その両親がクズという事はなく、他の親と比べて卓越した、優れた親になっているはずだからです。
アレテーが人から教えられることで身に着けられる様なものであるなら、アレテーを持たない親から育った子供は、誰からアレテーを学んだのでしょうか。

それとも、アレテーとは、人から教えられるようなものではなく、運動の才能のように、持って生まれるようなものなのでしょうか。

アレテーとは教えられないものかもしれない

少し視点を変えて、アレテーとは人に教えられないようなものという観点から考えてみると…

例えば、国の舵取りをする為に、政治家同士で議論をするケースで考えると、公共事業で大きな建物を建てる場合は、建築の専門家を議会や予算会議に呼んで、参考意見を聴くといったことをします。
仮に音楽祭のようなものを開く場合には、音楽家や、そういった興行を生業としている人間に、どれぐらいの規模の予算がかかるのかや、実施する際の注意点を聴くのは当たり前のことです。
もし、そういった人間を排除して、何も知らない政治家だけで議論を行って、失敗して成果が得られなかった場合。 こんな失敗をした政治家は、『何故、専門家に意見を求めなかったの?』と非難されるでしょう。

具体的にいえば、何かを建築する場合、建築士や大工といった専門家に話を聞くのは当然として、国の予算を管理する専門家や、その地域の事情に詳しい専門家、地形の専門家など、数多くの専門家の意見を聞き入れて作るほうが、成功率は高まります。
専門家の正しい知識や経験があれば、失敗すること無く、事業を成功に導けた可能性が高いのに、それを怠って素人同士で話し合った結果として失敗したら、責められて当然と言えます。

しかし、これが国家のより良い将来であるだとか。人の上に立つべき優秀なリーダーを育成するといった、漠然とした『良い』とされている事を目指す為の話であれば、そういった専門家を招かなかったとしても、文句は出ないでしょう。
何故、文句が出ないのかというと、市民の多くが、『良い』事へ導く為の専門家などは居ないと思い込んでいるからです。
ソクラテスはこの様な形で、アレテーは教えられるようなものではないのではないかという自分の意見を主張します。

アレテーが教え伝えられるものなら自然と伝播する

このソクラテスの意見には、納得させられる部分が多くありますよね。
他の人よりも優れていて、その優れている部分を言葉にして他人に伝えることが出来て、それを聞いた相手が同じ様に優れた人間になれるのであれば、世の中には、もっと沢山の優れた人間がいても不思議ではありません。
知るだけで優れた人間になれるアレテーが言葉に治せるのであれば、印刷技術が生まれると同時に、その知識は多くの人に伝えられるでしょうし、本でアレテーを学んだ人間は、それを周りにいる人達に積極的に教えるでしょう。

何故なら、自分の周りにいる人達が劣った悪い人間であるよりも、優秀で良い人間であるほうが、暮らしていく環境としては良いからです。
街が悪人で溢れかえれば、一人で外を出歩くことすら出来ませんが、善人しか居ないのであれば、夜中でも一人で平気で出歩けます。
暮らしていく上で心配事が無くなるわけですから、知るだけで優秀で良い人になれる知識を持っているのであれば、積極的に周りの人に教えるでしょう。

今現在は、この当時から2500年程経っているわけですが、もし、アレテーが伝えられる様な知識であるなら、現在は善人で溢れかえっているはずなんですが… 実際問題としてどうでしょうか。
もし仮に、アレテーは教えられるけれども、本のような間接的なものでは教えることが出来ずに、生徒と面と向かって長期間に渡って教育しないと伝えられないような物とした場合は、優れた人が少ない言い訳には なるかもしれません。
しかし、ソクラテスが生きた時代もそうですし、現在もそうですが、優れていると世間から認められている人が、子供の教育がまともに出来ていないという状態は、どの様に言い訳するのでしょうか。

丁度よい時間になってきましたので、この続きはまた、次回にしようと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第57回 『プロタゴラス』優れた人間は作れるのか 前編

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プラトン著『プロタゴラス

今回からは、プラトンが書いた対話編を読み解くことで、ソクラテスがどの様な考え方をしていたのかを見ていきます。取り扱う作品は、プラトンが書いた『プロタゴラス』です。
著作権の問題が有るので、単純に朗読をするといったことはせずに、作品内の文章を少し引用したり、簡単な要約をした後に、それに対する説明や解説、考察を加えるという形で話していきます。

この作品は、ギリシャ内でもかなり有名な賢者であるプロタゴラスが、ソクラテスが住むアテナイに訪れて、それをソクラテスの友人が知るところから始まります。
ソクラテスの友人であり、裕福な家庭に育ったヒッポクラテスは野心溢れる若者で、プロタゴラスが教えているというアレテー、これは、徳とか卓越性とされるものですが、それをを知りたいと思い、授業料をかき集めてプロタゴラスに会いに行こうとします。
その行為に対してソクラテスは、『そこまでの高額な授業料を用意してでも教えて欲しいと思うのは、一体、どんな技術や知識なのか?』と訪ねるんですが、ヒッポクラテスは、教えて貰いたいと思っている対象の内容をよく知りません。

そこでソクラテスは、もう少し答えやすくする為に、複数の例を出して聴いてみる事にします。
例えば、医者に教えを請う場合は、将来医師になる為に、医師の生徒として医学生になるんだよね? 大工に弟子入りする場合は、大工の技術を身に着けて、いずれは棟梁になるわけだ。
じゃぁ、ソフィストに教えを請う場合には、将来、何になりたいと思って弟子入りするのかな?といった感じでソクラテスは質問をします。

自分がなりたいものが明確にある場合は、その分野で優れた能力を持つ人に、弟子入りしたり生徒になる事で教えを請う事は、効果的な方法ですよね。
例えばお笑い芸人になりたい場合は、自分が好きな落語家や漫才師に弟子入りするとか、今では、養成所に通うなんて事をしたりもするでしょう。
格闘ゲームのプロゲーマーになりたいと思うのであれば、ウメハラさんに意見を聞きに行ったり、youtubeを観るというのも、後に役立つ行為ともいえるかもしれません。

自分が目指している分野の第一人者に話を聞きに行くというのが、その道を極める近道とするなら、プロタゴラスは、どの分野の第一人者かを考えれば、この質問に答えられる事になります。
この質問に対してヒッポクラテスは、『これまでの話からすると、ソフィストということになるんだろうね。』といった感じで、フワフワした返答をするんですね。
その答えを聞いたソクラテスは、『じゃぁ、ソフィストが何をする職業か知ってるの?』と聞くんですが… ヒッポクラテスは上手く答えられません。 ソフィストがどんな職業なのかを知らなかったんですね。

ソクラテスは友人のヒッポクラテスが心配になったからか。それとも、賢者と呼ばれるプロタゴラス自身に興味が湧いたのか。
とにかく一緒について行って、彼が教えるアレテーが何なのかを見極めようとするところから、物語は始まります。

ソフィストとは情報商材詐欺なのか?

世の中には、この様な出来事って身近に存在しますよね。
この物語でプロタゴラスが教えると主張しているのは、アレテーと呼ばれる『徳』とか『卓越性』と呼ばれるもので、それを手に入れることによって、他人よりも優れた存在になれると信じられてきたものですが…
これは、『教えるもの』を別のものに変えると、現代でも十分に有り得る話です。

例えば、不動産投資や自己啓発などのセミナーや、オンラインサロン。ネットワークビジネスなどにテーマを変えれば、多くの人が、『自分自身や友達が勧誘されたり興味を持った』なんて事は、1度は経験したことが有るのではないでしょうか。
ここに挙げたテーマに共通する事は、『楽して金持ちになる方法』なのですが、そんな物が存在するのであれば、何故、彼らは大掛かりな手間を掛けてセミナーを開いたり、自分の自由な時間を潰してサロンを開くのでしょうか。
既に楽をして儲ける手段を身に着けているのであれば、その秘訣を誰にも教えずに自分だけのものにして実践して、自分だけが金持ちになれば良いだけの話です。

セミナーを開く人が善人で、『多くの人に幸せになってもらいたいから』という気持ちから教えるのであれば、セミナーやサロンでお金を取る意味もよくわかりませんよね。
何故、よく知らない不特定多数の人に、自分が生み出した大切な秘密を教えるのか。 答えは簡単で、そうする事で、セミナーに参加しに来た人達ではなく、主催者である彼ら自身が儲けることが出来るからです。
つまり、彼らが儲ける手段というのは、セミナーやサロンの月会費などの、信者が貢いでくれるお金や、信者が自分を崇めることで、社会的な影響力を強めて、その影響力をお金に変換しているだけなんです。

もし、身近な人間が、この様なセミナーやサロンや勉強会に参加すると言い出したら、誰だって心配になって、興奮している友達を冷静にしようと思うのではないでしょうか。
ソクラテスも同じ様に、友達のヒッポクラテスを冷静にするために、『プロタゴラスに会って、何を教えてもらいたいのか』を問いただします。

アレテーを身につける為の方法は何なのか

先程も言いましたが、例えば、家を建てる勉強をしたいと思う人間であれば、建築学校に通うとか、大工の元で修業をすると行った方法で、知識や技術を習得することが可能です。
これは他のことにも当てはまります。 絵を書きたいと思うのであれば、絵画教室に通ったり、既に技術がある人の絵を模写して真似するといった行為によって、思い通りの技術を身に着けることが出来るでしょう。
格闘ゲームの勉強をしたいと思うのであれば、上位プレイやの動画を観たりだとか、ウメハラさんなどの有名な方にアドバイスを求めるといった方法もあるでしょう。

ですが、『それ』を勉強することによって、他の人間よりも卓越した優れた人間になれる『アレテー』という存在は、どうやって勉強すればよいのでしょうか。
優れた人や卓越した人というのは、定義自体が漠然としすぎていますし、どんな勉強をしたり行動を起こせば、技術や知識が身につくのかも不明です。

また、漠然と『良い人になる』方法が、言葉や行動によって伝達可能なのかも分かりません。
ソクラテスは、冷静になって考えさせる為に質問を投げかけた上で、自分も一緒について行って、その正体を確かめようとします。

ちなみにですが、先程は不動産投資や自己啓発やオンラインサロンといった、胡散臭い例を挙げて例えてしまったプロタゴラスさんですが、この人物は、当時のアテナイでは相当なビックネームです。
アテナイの将軍で、アテナイというポリスの代表的な立場であるペリクレスと知り合いで、彼から、憲法の草案を考えて欲しいと依頼を受ける程の人物だったりします。 つまり、実際に優れているとされてた人なんです。
また、哲学者としても、『万物の尺度は人間である。』といった言葉を残し、この世に相対主義という考え方を確立させた人物でもあります。

プロタゴラスとの邂逅

プロタゴラスと対面したソクラテスは、さっそく、『徳とは何なのでしょうか。 あなたは、それを教えることが出来ると主張していますが、そもそも、他人に教えられるような知識なのでしょうか?』と、率直に質問をぶつけます。
これに対してプロタゴラスは、雑誌裏の広告などに書かれているような『このサービスをご利用されたお客様の声』の様な感じで、『私から教えを受けた人間は、皆、私の元に来る前よりも成長して帰っていくし、感謝もされてるよ。』と返します。
そして、『もし、私が教えたことに納得がいかないのであれば、お金を払わなくて良いし、いつでも私の元から去っても良いです。』とクーリングオフの説明までしてくれます。

常人であれば、納得して、直ぐに契約してしまいそうな返答ですが、ソクラテスは、これに対しても鋭い切り返しをします。
『例えば、貴方が笛の吹き方を教える教師だったとして、貴方の元へ笛を吹けない客が訪れたとしましょう。 貴方は彼を指導して、笛を吹けるようになった場合、彼は、笛をふけるという点に置いて、貴方の元を訪れる前よりも優れた人間になったと言えます。
これは、全ての事に当てはまってしまいます。 計算ができない人間に足し算を教えて、九九を覚えさせれば、その人物は、それを学習する前よりも優れた人間になったと言えるでしょう。
仮に、あなたの授業を受けなかったとしても、人が日々勉強を重ねさえすれば、勉強をしていなかった頃と比べて優れた人間になるのではないでしょうか?』と、質問します。

この質問を言い換えるなら、『具体的には何を教えているのですか?』と聴いているのと同じです。
大工に対してこの質問をするなら、『家の部品の加工の仕方や、組み立て方。』と答えるでしょうし、音楽家に質問をするなら、『楽器の演奏の仕方。』と答えるでしょう。
ウメハラさんにストⅡについて訪ねたら、波動拳の撃ち方について教えてくれるかもしれません。

やりたい事だけやっていれば優れた人間になれる

これに対してプロタゴラスは、指を指しながら『良い質問ですねぇ!』と言って、持論を展開しだします。
『私の元に駆け込んでくる人の多くが、自分がやりたくない学問から逃げてきたような人達なんですよ。
しかし、他のソフィスト達は、そんな人に対して『数学を勉強しろ!音楽もだ!体育も出来るようになっておきなさい!』と、本人が勉強したいと思わないものまで詰め込み教育をしようとするようです。
だが私はそんな事はしません。 私は、本人が学びたいことだけを学ばせます。 私の元で学ぶことで、身近な話だと家庭内がうまくいくし、政治に関していえば、権力者の右腕になることだって出来るでしょう。』答えるんですね。

これを聴いたソクラテスは、自信なさげに、『つまりまとめると、生徒を『優れた人間』にするということですか?』と聞き返すと、プロタゴラスは調子よく『その通り!』と答えます。

これまでをまとめると、プロタゴラスは本人が望む知識を惜しみなく与える一方で、生徒が嫌がる授業は一切行わず、その結果として、何事も上手く行うことが出来るような『優れた人間』を作れると主張している事になります。
しかも、本人が学んだ上で『自分には合わないな。』とか『この内容でこの授業料は高いな。』と思えば、申し出ればいつでも自分が納得した金額だけを支払って弟子を止めることが出来る、生徒にとって都合の良いものとなっています。
そして、金を払う価値もないと思えば、何も払わずに帰ってもよいというクーリングオフ制度付きという、非常にお得な内容となってはいるのですが…

『優れた人間』になる為には何を勉強すればよいのかといった具体的な事は、何一つ教えてはくれないという状態です。
とにかく、『私のもとで学べば優秀になれるよ!』というセリフボタンを連打してるだけで、具体的に何を教えてくれるのかは不明です。
普通の人間であれば、ギリシャでもトップレベルの知名度を持つ人間が教えてくれて、その上、内容が気に入らなければお金は返すと言ってくれてるわけですから、直ぐにでも契約してしまいそうな雰囲気はありますが…

ソクラテス自身の性格が用心深いからか、それとも、何事に対しても、すんなりと信用することはなく、吟味した上で受け入れられる事だけ信じる性格だからか、ソクラテスは納得しません。

表現の不自由展について思うこと

先日のことですが、世間で『表現の不自由展』というのが話題になりました。
この事について、色々と思ったことが有るので、今回はの事について書いていきます。

目次

注意として

私は現地に足を運んで、実際にすべての展示を見たというわけではなく、展示作品としては、慰安婦像と天皇陛下の肖像と思われる写真を燃やしている映像作品しか知りません。
今回は主に、天皇陛下と思われる写真を燃やしている作品を中心に書いていきます。

私は、写真を燃やしているという作品について否定的な意見を持ってはいますが、別に天皇制や天皇陛下に特別な感情を持っているわけでもありません。

また、この作品展自体にはネガティブな印象を持ってはいますが、国が権力を発動させて中止させるべきだとも思ってはいませんし、税金が入ってる入ってないも問題とは思ってません。
当然のことですが、テロ予告をして圧力をかける事も駄目だと思っているので、予めご了承ください。

写真を燃やす行為は芸術なのか

今回の作品が生まれた経緯としては、もともとは天皇陛下の写真のコラージュ作品が美術展に出されたけれども、批判が殺到したので、美術館が作品を売却した上で、その作品を収めた図録を焼却処分したのが発端らしいです。
その出来事を知った別の作家が、『天皇陛下の写真をコレージュするのは不敬だけれども、それを燃やすのはOKなんだ。』という事で、写真を燃やして、その灰を踏みまくるという映像を撮ってアートとして公開したらしいです。
評価する側の人達からは、パラドクスだの何だの言われていますが…

正直、天皇陛下を侮辱したくて仕方のない人が生み出した屁理屈にしか聞こえません。

美術館側は大勢の観客を呼んで、皆の前で図録を燃やした上で、灰を踏みつけるというパフォーマンスをしたのでしょうか?
様々な抗議を受けた結果として、自分たちで展示を中止にして、売る事もできない図録を処分しただけです。 それを販売したとすれば、更に抗議が来ることは容易に想像できますからね。
美術館の倉庫も容量があるでしょうし、処分する場合は紙なら焼却処分するでしょう。

その行動の揚げ足を取る形で、『燃やしてOKなら、それを作品にしますね!』って事で、じっくりとバーナーで焼き、灰を踏みつけまくるという動画を『作品』と言い張る行動には、稚拙さと不快感しか感じません。
別に私は、天皇陛下天皇制に特別な感情を抱いているから不快に思っているわけではありません。 人物の写真や肖像を燃やして灰を踏みつけるという行為を見せびらかす事に不快さを感じます。

アイコンを燃やすというメッセージ

今回の展示に肯定的な意見を言う人の中には、昭和天皇はアイコン化しているから大丈夫という意見も見られました。
この意見は正直、分からなくもありません。 戦争に突入して負けた時代の天皇ですし、様々な感情を持たれる人なので、アイコン化していて、キャラクターそのものにメッセージが有るというのは、理解が出来ます。

しかし、同じ様に考えるのであれば、アイコン化しているものなんて沢山あります。
キリスト教イエス・キリストは、その教によって多くの人を救済したかもしれませんが、一方で、その教えを強引に広める為に数多くの戦争が行われました。
また、キリスト教の正しさを主張する為に、古代ギリシャ時代に生み出された技術や知識は燃やされ、科学者は迫害され、教えに反するものは魔女とされて火炙りにされたりもしています。

イエス・キリストの肖像は、これらの2面性のアイコンとして捉える事が出来ると思いますが…
じゃぁ、キリストの絵画やキリスト像を燃やして、その灰を踏みつける映像を撮って公開することは、アートとして認められるべきで、批判は許されないのでしょうか。

イスラム教も同じで、世界で10億を超える信者を抱えているので、宗教によって正しい道を歩むものも沢山いらっしゃるでしょうが、ごく一部の人は過激なテロを行っていたりもします。
世界各地では、彼らのテロによって親族を失った人も沢山おられます。
イスラム教は、偶像崇拝禁止がより徹底されているので、預言者の肖像を書いてはいけないとされていますが、アイコン化された宗教指導者の顔を敢えて描いて、それを燃やして灰にして踏みつけるという表現は、守られるべきなのでしょうか。

これらの行動は、芸術というよりも、相手を挑発している行為にしかならないのではないと思います。
自分と意見が正反対の人達と、議論をして分かり合おうとする為に必要な手段が、『挑発』なのでしょうか。

政治的な意図は無いというが…

今回の企画展は、政治的な意図はないとは言われていますが、激しく批判している人達の中には『ネトウヨ』と呼ばれている人達も多く、賛成している人達は、反体制の人達が多いように感じます。
まぁ、表現規制を行うのは体制側ですし、それに対立する構図で企画展を行おうと思うと、そういう作品ばかりになるのも分かりますが…

仮の話として、今回燃やされたのが天皇陛下の肖像ではなく、展示されていた慰安婦像だったとしたら、どうでしょう。
イベントの後半に灯油をかけられて燃やされて、その灰を足で踏むというパフォーマンスが、作品として主催者側が行ったとしたら。。
今回、『表現規制は守られるべきだ!』と言っていた人達は、主張を変えずに同じ様に主催者を養護するのでしょうか。

アイコン化されていて、その存在にメッセージが込められているという意味では、慰安婦像もアイコン化されたものだと思います。
それに灯油をぶっかけて燃やすというのは、様々な反応が起こるでしょうし、議論の対象にもなるでしょう。 当然のことながら、韓国からは抗議が来るでしょうし、中止しろとも言ってくるでしょう。
しかし、これも、『表現の自由』として守られるべきで、批判が来たとしても圧力に屈せずに撤収せず、最後までやり遂げるべきなのでしょうか。

もし、燃やされる対象によって意見が変わるという人がいたとすれば、今回の件を自分の都合の良いように捉えているようにしか思えません。
自分が敵対しているものは燃やされるべきで、自分が支持しているものは燃やされるべきでは無いというのはポジショントークにしか聞こえません。

私個人の意見としては、人が思いを込めているものに火を放って足蹴にする行為は展示だと思えず、ただの挑発やヘイトだと思うので、芸術ではないと思いますけどね。

この人の肖像画は焼いて良いけど、この人は駄目という線引はどこでするのか、誰がするのか。
それが全くわからない状態では、この様な行為は挑発やヘイトにしか思えず、否定的な感情しか湧いてきません。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第56回 『プロタゴラス』 2つの価値観 後編

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人間社会の中での相対主義

ですが、ここでいう相対主義は、そこまで行き過ぎた相対主義というわけでもないようです。
というのも前回までの話で、古代ギリシャで何故、アレテーというものが求められて、それに応えるように、アレテーを教える人達が出現したのかというのを話してきましたが…
その理由としては、アレテーというものを手に入れることで、他の人間よりも卓越した人間になり、政治の場に置いて発言力を高めて成功者になりたいという思いを抱く人達が一定数現れた事で、アレテーというものを求める動きが出てきたんでしたよね。

では、政治とはどの様にして生まれたのか。 プロメテウスの神話にまで遡ると、人間というのは、他の動物達の様に、明確に他よりも優れた物を持たない状態で生まれてきた為に、その存在が何なのかというのは不明です。
また、人間は武器や動きの速さなど、卓越した能力を持たない為に、共同体を作り上げることで、自分たちの身を守ってきた歴史があります。 政治というのは、その共同体を暮らしやすい環境にする為に、必要なものですよね。
共同体とは、多くの人達が互いにに関係し合って生きていく集団のことですが、その舵取りをする政治の場で、『人は自由に振る舞ったら良い。』なんていってしまうと、政治の意味がなくなりますよね。

共同体を運営していく為には、他人に迷惑がかかるような悪い行為は規制しなければなりませんし、共同体の為になるような良いとされる行為は、市民が積極的に行うように誘導しなければなりません。
この場合、共同体にとって、何が悪くて何が良いのかを定義する必要がでてきます。 つまり、相対主義であったとしても、自分が住む国や地域内での善悪の共通認識を作る必要性が出てくるという事です。
当然の事ですが、意見が他の政治家と対立した場合は、相手を説得する必要性が出てきます。

各政治家には、それぞれの正義が有るからといって、それで良いとはならないわけです。
その共同体にとっての正義。 共同体に参加している人々が共通で『これが正義だ』と思えるものを定義して、その正義に照らし合わせた国の運営を行っていく必要があります。

共通認識を拡大すると絶対主義になる

先程は、相対主義を際限なく拡大解釈することで、善悪の基準が人それぞれの価値観で決まるという話したわけですが…
この、『自分たちが住む地域の善悪』という共通認識を際限なく拡大していくと、どうなってしまうのかというと、地球全体としての共通認識としての善悪という事になます。
例えば、今現在は200カ国程度の国がありますが、仮に、再び侵略戦争が起こって国の再編が起こって、最終的に地球には1つの国しか無いような状態になってしまったというケースを考えると…

統一された1つの国の政治家が、国の中で通用する正義を考える場合、結果的に、地球に済む人類全体の正義について考えなければならないという事になってしまうということです。
これは、相反する主義である絶対主義と似たような考え方になってしまうとも考えられます。
こうして考えると、相対主義と絶対主義という、絶対に交わる事のない相反する考え方も、議論が可能と言えなくも無いような気がしてこないでしょうか。

ソクラテスに関しても、アレテーを探求する目的は、幸せになる事だと主張しているので、地球全体としての善悪やアレテーといったものではなく、人としてのアレテーを求めていると思われます。
つまり、プロタゴラスソクラテスは、絶対主義と相対主義という、交わることのない正反対の主義を主張しているのですが、双方ともに行き過ぎているわけではない為に、歩み寄れるような位置にいるわけです。
この両者の立ち位置によって、対話が可能となっています。

アレテーとは教えることが出来るのか

では、対話編を通してどのようなことが語られるのでしょうか。
詳しいことは、次回以降で1冊づつ取り上げて読み解いていこうと思うのですが、どのような事が主に話されているのか、議題を簡単にいってしまうと、『アレテーとは教えることが出来るようなものなのか。』といった事がテーマになります。

ソフィスト達は、アレテーを教えることを生業としているわけで、当然のことですが、アレテーを教えることが出来るようなものだとして扱うわけですが、本当にそうなのでしょうか。
それとも、運動や何かしらの競技の才能の様なものと同じ様に、教えるようなことが出来ない、天から与えられた、持って生まれてくるようなものなのでしょうか。

アレテーというのは、それを身に着けることで他人よりも優れた者になることが出来るといわれているもので、身に着けることで他人からの尊敬が得られるようなものと考えられています。
当然のことながら、アレテーを身につけたものの行動には正義や勇気といったものが宿っていますし、単純に力強いだけでなく、節制や慎みといったものも備えた人物と考えられているわけですが…

仮に、アレテーが教えられるようなものであるとするならば、どんな人間にでも、適切な教育さえ施せば、アレテーが宿る立派な人間になれるということになります。
これは、どんな人間が相手でもという事です。 例えば、自分自身の快楽のためだけに、他人の命を奪い続けるような連続殺人犯が相手だったとしても、適切に教育を施せば、その人物は立派な人間になれるということになります。
その人物が悪とされる道を進んだのは、その者が無知だったというだけなので、正しい教育を施すことで無知の状態を治すことが出来れば、その人物は立派な人間になることが出来るはずです。

もしこの通りであるのなら、犯罪者とされるものを逮捕して施設に収容した上で、正しい教育を行う事で、悪人の絶対数を減らすことも可能となるでしょう。
何故なら、正しい教育を一定期間受けて出所したものは、アレテーを身に宿した立派な人間であるからです。 善悪の分別がつき、立派な人間である彼らは、その後は犯罪に手を染めることもないはずです。

アレテーは天から授かる才能なのか

本当にこの様になれば、この世はもっと住みやすくなるでしょうし、素晴らしいことことだとは思うのですが…
もしかするとこれは幻想で、実際には、運動の才能やリズム感の様に、持って生まれたものかもしれません。
もしそうだとするのなら、善悪の見極めや、正義や勇気が宿った行動は、その才能を持つものだけが行える特別な能力という事になります。

この様な前提の場合は、当然ですが、アレテーを他人が教える事は出来ないですし、生まれてから努力をして身に着けようと思ったとしても、才能を持って生まれた者にはかなわない事になります。
アレテーを教えるといって人を集めて、多額の金をとっているソフィストと呼ばれる人達は、教えることが出来ないものを教えることが出来ると主張してお金をだまし取っている事になってしまいます。

これを聞いているみなさんも、是非、自分自身でこの問題を考えてもらいたいんですけれども、この質問は単純なようで、かなり難しい質問だと思います。
いきなり、アレテーについて考えるというのは、難しいことかもしれません。
というのも、アレテーという言葉は日本人には聞き馴染みがない言葉ですし、これまでの説明でも、抽象的な事にしか触れずに、具体的にどのようなものなのかという事について触れて来なかったですしね。

もっと分かりやすく、想像しやすい事として、善悪の基準や見分け方について考えてみるのも良いかもしれません。
何が良いことで、何が悪いことなのか。 これも、一見単純なように思えて、かなり難しい質問だと思います。 何故なら、多くの人が、善悪の基準なんて人から教えてもらわなくても、全員が共通認識として持っている価値観だと思い込んでいるからです。
でも哲学で大切なのは、今までの常識というものを取っ払った上で、改めて考えて見る姿勢です。

人間は、本当に善悪を見極めることが出来るのか。 そして、果たして、その方法は他人に教えることが出来るのか。
次回から、こういった事を、プラトンの対話編を読み解く事で、みなさんと一緒に考えていこうと思います。

プラトン著【メノン】の私的解釈 その8 『神がかりの』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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知識は推測で代用できる?

徳とは知識のようなものだという仮説をたてて推論を行い、その結果として出てきた『徳とは知識のようなものだ』という結論を、再び吟味してみた所、『徳とは知識のようなもの』とは言えない事が分かった。
ソクラテスとメノンは、徳とは知識を伴って現れるものだという前提に共に同意をしたが、この徳の捉え方が間違っていたかもしれないとし、もう一度、前提から見直すことにする。

人にものを教える場合。 そのもの自身を知っていれば、自分の記憶を元に教えることが出来るが、そのモノ自身を知らなかったとしても、推論によってどのようなものかを教えることが出来る。
例えば、京都から東京に行くとした場合。 東京へ行ったことのある人間に『東京への行き方』を聞けば、聞かれた側は自分の過去の経験に照らし合わせて、どの様に行けば良いのかを聞き手に教えることが出来る。
では、東京への道案内は、東京に行ったことがある人間にしか出来ないのかといえば、そんな事は無い。

日本の地図の知識が有って、京都と東京の位置関係が分かっていて、その間にどの様な電車が走っているのかを知識として知っている人間は、仮に東京に1度もいったことがなかったとしても、行き方を『推測する』ことで東京への生き方を教えることが出来る。
今の時代であれば、グーグル検索の仕方や地図アプリの使い方を知っている人間であれば、『その様な手段を利用すれば正しい答えが得るのではないか。』と推測して実行することで、日本全国、どの場所への道案内も可能となる。
聞き手にとっては、実際に東京へ行ったことのある人間に聴くのも、持っている知識を元に推測して答えを導き出せる人間に聴くのも同じ結果となるので、双方にそれ程違いはない。

これにより、正しい考えを用いた行為というのは、正しい知識を用いた行為に劣っていない行動ということが分かる。

メノンはこれに納得し、『正しい考えを用いて行った行為も徳に含まれるのであれば、下した決断が正しいときや間違っている時が有るのもうなずける』と答える。
しかしソクラテスは、『正しい答えに沿って行動を起こした場合は、間違うなんてことは起こらずに、常に正しい結果に辿り着く。』と訂正する。
これを聴いたメノンは、『それだと、両者は全く同じものになってしまい、違いが無くなってしまうのではないか。』と困惑する。

ダイダロスの彫像

これに対してソクラテスは、ダイダロスの彫像に例えて、両者の違いを説明しだす。
余談になるが、ダイダロスとはギリシャ神話に出てくる有名な職人で、身につけた技術や頭脳で、数多くの建築物や発明品や芸術品を作ってきた人物で、有名なイカロスの父親。
ミノタウロスが住むとされているラビリスンの建築も行う。 ミノタウロスアテナイを属国とし、毎年、貢物を要求していたが、それに耐えられなかった英雄テセウスが、ラビリンスにミノタウロスを退治に行く。
しかしテセウスは、迷宮に迷い込んで目的地に辿り着けない。 そのテセウスに恋をしたのが、ミノタウロスの娘であるアリアドネで、迷宮の仕組みをテセウスに教える。

結果として、テセウスミノタウロス退治を成功させるが、ラビリンスの秘密が漏れたということで、ダイダロスイカロスと共に塔に幽閉される。
この塔から脱出するために、蝋で鳥の翼を作り、共に塔から飛び立って逃げ出すも、空を飛べた事に感激したイカロスは空高く舞い上がってしまい、太陽に近づきすぎてしまう。
太陽の熱に熱せられた蝋の羽は溶けてしまい、イカロスは大地に落下してしまう。

話をメノンとの対話に戻すと、ダイダロスは腕の良い職人なので、彼が作った彫像は非常に優れていて価値が高いが、優れた彫像過ぎて、その彫像には命が宿り、ほうっておくと逃げていってしまう代物。
どんな価値の有る彫像も、逃げてしまえば意味はないので、その価値を自分のものにしておこうと思うのであれば、縛り付けて捕まえて置かなければならない。

これと同じで、どの様な人間であったとしても、優れた考えを思いつく事はある。この状態を、神がかりの状態と表現すればだろうか。
多くの凡人は、この神がかりの状態を維持することが出来ず、その『良い考え』は時間と共に何処かへ逃げてしまい、見失ってしまう。
それを永遠に自分のものにしようと思うのであれば、その考えが何処かへ逃げていかないように縛り付けておく努力をしなければならない。

アレテーは不意に宿る

例が分かりにくいと思うので、もう少し現実よりの例で説明してみる。
例えば、ゴルフの打ちっぱなしにいって、理想的なフォームを身につける為に練習しているとする。
何百球も玉を打っていると、正しいスイングがわかった気になり、その通りに打つと思い通りの場所に理想的な球を打ち出せる瞬間というのがやってくる。

この時、多くの人が開眼し、打ち方を理解したと思うが、大抵の場合はそれは10球程度のほんの短い間の出来事で、その後すぐに、正しい球の打ち方が分からなくなる。
開眼し、球の撃ち方を理解できたと思える状態を常にキープできるのであれば、その人はすぐにでもプロに成れるかもしれないが、その状態は長続きすることはない。
練習という作業は、この『正しい球の打ち方』を、忘れること無く常にキープし続けるためにする作業のようなもの。

この様な考えは誰にでも、どの様な環境でも降りてくる時には降りてくるもので、将棋であっても逆転の1手を思いつくことはあるし、実際の戦争でも、圧倒的不利をひっくり返す考えを思いつくことはある。
これらの考えを、常に提案して実行できるのであれば、それは優れた人ということになるが、優れていなかったとしても、一時的であれば、優れた考えが身に宿ることはある。

優れていない人は、優れた考えが降りてきたタイミングで、その状態を利用して物事の本質を理解しようと推察し、常に、同じ様な考えを再現できるように努力しなければならない。
考えが降りてきた状態を完全に自分のものとし、常に再現できる状態になれば、その考えは安定的、持続的に自分の知識と言っても良く、徳を宿したといえる。

神がかりの状態

これまでの流れをまとめと、まず、前提として『徳が教えられるようなものかどうか』は、『徳が知識のような伝達可能なもの』かどうか。また、『徳を教えている教師を見つけ出す』事が出来れば、教えられる事になる。
だが、吟味した結果、徳は知識のようなものではなかったし、それを教える教師もいないことが分かり、『徳とは教えられないようなもの』という事に同意した。
また、徳は有益な性質を持っていることにも同意した。

人が取る行動に正しい知識が宿ると徳になりえるが、それだけではなく、正しい考えに基づいた行動にも徳は宿る。
偶然に取った行動が正しかったとしても、その行動は徳にはなりえない。 これは、対話篇のゴルギアスに登場したカリクレスとの対話でも明らかになっている。
臆病者と勇者は、時に同じ行動を取ることがあるが、その行動を取る目的が違っている為、全く同じ行動を取り続けたとしても両者は全く違った存在となる。

その行動に徳が宿るためには、正しい知識や推測に基づいた目標が必要となる。
しかし、先程の同意では知識は徳では無いとの事だったので、『考え』や『閃き』だけが徳になりえるのではないか。
つまり徳とは、賢者が持つ知識や知恵ではなく、それを利用した考えや閃きによって成り立っているのではないだろうか。

知識は他人に教え伝えることが可能だが、どの様に考えて推測をし、答えを導き出すのかといった過程や方法を他人に伝えることも教えることも出来ない。
それが出来るのであれば、誰でも天才的な『ひらめき』を意図的に起こす方法を習得することが可能になってしまう。

国の統治者は、様々な知識やデータによって国を統治するが、優れた統治者と呼ばれるものは、それらの材料を元に考えを巡らせたり推測することで、善い結果が得られる道を選び出す。
他人に教えることも出来ない『ひらめき』を元に統治し、国や民衆を善い方向へ導く統治者は、行っている行動そのものは、託宣を受ける人(これは、神が人間の体に降りてきて、人智の及ばないような事を告げてくれるといった感じの意味。)や占い師と変わりがない。

神を身体に憑依させる人間も占い師も、自分が出した結果が『何故、その様になったのか』を説明することが出来ない。
これと同じ様に優秀な国の統治者も、国の舵取りを行う為の重要な決断を下す際、数多くある選択肢の中から、何故、『その一つの答え』を選びだしたのかを順序立てて説明する事は出来ない。
仮に、この推測の部分を順序立てて説明することが出来るのであれば、そこには何らかの法則性がある為、他の凡人と呼ばれる人間であっても再現することが出来るはず。 しかし実際には、そうはなっていない。

神がかりの状態は教えることが出来ない

占い師も巫女も、自分の口を通して出てきた言葉なのに、何故、その結果になったのかを理屈で説明することは出来ない。
徳を宿した優秀な統治者も同じで、『ひらめき』を法則に基づいて説明することは出来ない。 (エジソンは、成功には99%の努力と1%のひらめきが必要というが、これは、ひらめきは努力ではどうにもならないという事)
(クリエイターも同じで、作品のアイデアを、法則に則って生み出すことは不可能で、『降りてくる』のを待つしか無い。)(コメディアンは、笑の神が降りてくる現象を法則に基づいて確実に再現できるなら、頭を悩ます必要はない。)

占い師も巫女も徳を宿した人も、自分自身では何一つ理解しておらず、最善の道へと向かう為の知識も有していないのに、どこからともなく降ってきたアイデアや『ひらめき』によって偉業を達成し続けた場合、その様な人は『神がかり』の状態と呼ぶことが出来る。
インスピレーションによって発言して行動する、神からのお告げを聞く人や預言者。詩人全員を『神のような人』と呼ぶことは、正しいことだろう。
政治家も同じで、正しいことを知識として理解して行うのではなく、推測で取った行動によって、数多くの偉大なことを成し遂げたとすれば、それは『神がかり』の状態とも言うことが出来る。
古代ギリシャでは、偉業を成し遂げた人物を神のような人と言ったりする。)

以上のことをまとめると、徳とは、生まれつき備わるものではなく、誰かから教わるものでもない。
何か、神的な運命のようなものによって、覚醒した知性などを抜きにして備わるものと予想できる。

参考書籍

プラトン著【メノン】の私的解釈 その7 『徳は誰でも知っている?』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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知らないものを否定できるのか

アニュトスが、あまりにソフィストに対して敵対的なので、ソクラテスは『そこまでソフィストを憎んでいるのは、過去にソフィストに何か悪いことをされたからですか?』と聴く。
しかしアニュトスは、害悪を撒き散らすソフィストなどには近寄らないように気をつけているし、関わり合いになるはずもないという
ソクラテスは不思議に思い、関わったことすら無いのに、ソフィストたちが何故、害悪を振りまいていることが分かるのかと質問するも、アニュトスは『その程度のことは、かかわり合いにならなくても分かることだ』と豪語する。
これを受けてソクラテスは、『自分が関わった事も無い事を知っていると主張するアナタは、預言者か何かですか?』と皮肉を言う。

このやり取りでは、ソクラテスの言い分は尤もなのだが、アニュトスの理屈もわからないではない。
前回に引き続き、炎上芸人のネットサロンで例えるなら、彼らの事を悪くいえるのは、実際に彼らにお金を支払って授業を受けた人間だけで、それを外から見ている人間には絶対にわからないことになってしまう。
しかし実際問題として、そこから漏れ出てくる不満だったり、実際にサロンに入会した人たちの行動を見たりすることで、自分が入会しなくとも手に入る情報はある。

ソクラテスの理屈でいうのなら、反社会組織が本当に悪いかどうかを判断するためには、自分が組織に入って犯罪に手を染める必要があるし、マルチ商法を批判するためには、自分も入会して活動しなければならない。
仮にテロを起こしているカルト集団が有ったとして、彼らを批判するためには、自分もカルト集団に入信して、テロ活動に参加しないといけないことになる。

確かに、実際に入会して活動することで、外から見ていただけでは分からなかったことが分かるかもしれない。
社会のためにならないと思いこんでいたことでも、彼らは彼らなりに理由があるということを知ることが出来るかもしれない。
しかし、実際にそれらの組織に入会しなかったとしても、外から見るだけで分かる事もある。

『徳』は誰でも知っている

ソクラテスは、この部分は掘り下げること無く、アニュトスがそう思いたいのであれば、そう思っておけば良いとして、『では、誰の教えを受ければ徳を学ぶことが出来るのか』と質問する。
この質問に対してアニュトスは、『アテナイ人であれば誰に聴いたとしても、徳について教えてくれる。 人々の意見を素直に聞こうとさえすれば、立派な人間になれる。』と答える。
どうやら、アテナイ人なら全ての人が徳について的確に答えてくれるらしい。

アニュトスに言わせれば、徳なんてものは誰でも知っていることなので、それをわざわざ教えてる教師なんてものは必要ないということなのだろう。
しかし、このアニュトスの答えはいろんな矛盾を孕んでいる。
アテナイ人の全ての人間が徳を知っていて、その身に宿しているとするのなら、アテナイ人のソフィストは、徳を宿しているのだろうか。

徳というのは、それを身に宿すことで他の者よりも優れた存在になれるもの。
単にお金を稼ぐ能力があるとか、力強いといったものではなく、それを宿すことで善悪の分別がつき、自分の欲望を押さえ込み、正しい方向へと真っ直ぐに進んでいける人間の事なので、徳を身に宿す人間は例外なく『善人』である。
その善人のアテナイ人のソフィストは、害悪と分かっているものを周りに振り撒くのだろうか。
もし、ソフィストは除くというのであれば、アテナイ人全員というのが嘘になる。 また、この程度の嘘をつく人は、他の例を上げれば『それは含まない』と平気で言う。

偉人と呼ばれる人は徳の教師になれるのか

ソクラテスは、そこまでのツッコミ入れずに、テミストクレスというアテナイの有名な政治家の名前を上げ、『彼は徳を知っているのだろうか。 そして、他人に教える術を見に付けているのだろうか。』と質問をする。
テミストクレスは執政官で、アテナイギリシャの中でもトップの海軍国家に仕上げた人物。この人物が本当に優れた人物であったとすれば、徳を宿していたことになる。
では、テミストクレスが他人に徳を教える気があったとすれば、彼は徳の教師になる事が出来たのだろうか。

アニュトスは、テミストクレスなら、徳を他人に伝えるだけの能力が有ったかもしれないと答える。

しかし残念ながら、テミストクレスは徳を他人に教える徳の教師にはなっていない。だが、彼には子供がいる。いつの時代も親は子供を可愛がるものなので、親は子供を優秀な人間にしようと教育を施すはず。
この息子たちの成長を見てみれば、テミストクレスが子供に徳を授けたかどうかが分かるかもしれない。
対話篇の『プロタゴラス』との対話では、徳を受け継ぐには生まれ持った素質も必要だということらしいが、幸いにも息子のクレオファントスには馬術の才能があり、馬術訓練を受けることでその技術に更に磨きをかけた。

偉人は自分の子供にすら徳を教えられない

クレオファントスは、物事を教えれば、それを吸収して自分のものに出来る人物なので、徳に関しても、正しい教育を受ければ身につけることが出来る可能性が高い。
しかし、クレオファントスに関しては、後に偉業を達成したとか優れた人物であったという噂を聞かない。 現にネットで調べてみても、父親のテミストクレスの記事はたくさんヒットするが、クレオファントスの記事は見つからない。これには、アニュトスも同意する。
クレオファントスは、徳を宿した優れた父親から徳を教えてもらったはずなのに、それを身につけることは出来なかったということになる。それともテミストクレスは、子供の教育には熱心ではなかったのだろうか。 

では、他のものはどうだろうか。 他にも、ペリクレスリュシマコスといった偉人はいるが、彼らの子供はどうなんだろうか。親と並ぶほどの徳を身に着けた者が、一人でもいるだろうか。 
ペリクレスは、自分の持てる全ての力を総動員して息子に教育を施した。 この行動を観てみても、彼らが子供の教育に熱心だったことがよく分かる。 彼ら偉人達は、子供たちに徳を授けようとしなかったのではなく、積極的に授けようとしていた。
にも関わらず、その息子は立派な人間には程遠く、親の名前を出してツケで呑み歩く様な人間に育った。

教育を施すという点においては、彼らのような偉人だけでは無く、人脈や資産を持つものなども、同じ様に子供に最高の環境を与えて教育することが出来る。
資産家は、徳を宿した優れた人間にお金を渡すことで、彼らを家庭教師として雇うことが出来るし、幅広い人脈を持つものは、その人脈を使って優秀な人間と知り合うことが出来る。
自分自身が優れていなかったとしても、その代わりとして優れた人間を連れてくれば、子供に最高の教育を受けさせることが出来るはず。 しかし、その様な教育で実際に優秀な人間が生まれたというのを聴いたことがない。

これを聴いたアニュトスは、効果的な反論が思いつかなかったのか『君は、平気で他人の悪口をいうような人間なんだね。 私の話を聞きたいのであれば、今後、その様な行為はやめたほうが良い。』と言い出す。
しかし、アニュトスとの対話の冒頭部分を思い出してもらいたいが、彼は、関わりを持ったことすら無いソフィスト達の悪口を言い続けている。 つまりこれは、『お前が言うか』という状況でもある。
この辺りのやり取りからも、アニュトスはプライドが高く、自分は常に正しくて優れていると思いこんでいる人間という事が分かる。

気分を害したアニュとストの対話を終え、再び、メノンとの対話に戻る。

徳とは知識のようなものでは無いのか

先程のアニュとストの対話では、彼は『アテナイ人なら誰でも徳を教えることが出来る』と豪語していたが、結果としては、アテナイ人の中でもトップレベルの優秀な人物でも徳を教えることは出来なかった。
偉人として扱われている人物だけでなく、資産や財力を持つ人間など、高度な教育を受けさせることが出来る他の立場の人間でも同じで、様々な立場の者が子供に徳を身に着けさせようと奮闘し、失敗している。
本当に徳というものが知識のようなもので、他人に伝えられるようなものであるのなら、それを伝えることを職業とする教師がいそうなものだが、その様な人は居ない。
自称『徳の教師』と名乗っているソフィストたちなら存在するが、アニュトスは、彼らのことを認めては居ない。

アニュトスとの対話をまとめると、この様な結末になったが、これを踏まえた上でメノンに対して『徳を教えられる人物はいるのだろうか。』と尋ねると、対話の結果から考えると、いないと考えるべきだという答えが返ってくる。
このメノンとの対話は、メノンがゴルギアスから『徳とはどのようなものか』というのを教えてもらい、知った気になっていたところから始まるが、先程のメノン自身の答えによって、ゴルギアスでさえも、徳は教えられないことが理解できてしまう。
そして冒頭部分の会話を撤回し、ゴルギアスが教えているのは徳ではなく、弁論術という技術であって、彼は徳の教師ではないと言い直す。

徳が教えられるような類のものではない事が分かったわけだが、では、徳は知識のようなものなのにも関わらず、誰も教えることが出来ないというのであれば、この世には徳を宿した人間はいないのだろうかと、メノンは疑問に思う。
この疑問に対してソクラテスは、徳の捉え方が間違っていたかもしれないということで、もう一度考えてみようと言う。
このソクラテスの態度は、非常に科学的な態度といえる。 わからないことに対して、まず、仮説を立てて推論を行い、その結果としてでてきた答えを人事着ることはせずに、もう一度批判をして、批判に耐えられるかどうかを試している。

徳の議論に戻ると、メノンとソクラテスは、徳とは知識を伴うものという前提に同意した状態で、推論を重ねていた。
この前提が間違っていたとすれば、答えその者も当然のように間違ってしまう。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著【メノン】の私的解釈 その6 『徳の教師は存在するのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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『徳』は才能ではない

前回、『徳とは何か』というのを仮定を置いて推論した所、『徳』の最も重要な部分には知性が関連していることが分かった。
徳が知識である以上、これを生まれながらに有しているものは居ないことになる。
厳密には、ソクラテスの主張する『想起説』では全員が徳を含めたこの宇宙の法則を知っていることにはなるが、全ての人間は生まれる際にそれらの記憶を忘れるため、知っているとは認識していない。

徳を知っている状態として認識するためには、教師などから教えてもらうなどしてきっかけを与えてもらう必要がある。
仮に、徳が教えられるようなものではなく、生まれつきの先天的なものでしか無いのであれば、赤ん坊の状態で徳を持っているか持っていないかを選別するような職業の人がいるはずで、徳を持っているとされた子供は、国によって厳重に管理されているはず。
何故なら、優れていて卓越した、存在するだけで有益となるような人物は国の宝となので、採掘すれば手に入る金銀財宝よりも貴重なものだから。

しかし『徳』は、経験や教育によって後天的に身につけるものなので、その様な事にはなっていない。
徳が、この仮説の通りのものであるのなら、徳は知識のようなもので、他人に伝えられるし教えられるものとなる。

バイアス

仮説を立てて推論した結果、『徳とは知識のようなものである』という一応の結論は出たが、ソクラテスは、自分たちが討論してでてきた結果を信用しない。
人が何かの問題の答えを探す際、『そうであって欲しい』と思う答えを想定して、その方向へ誘導するケースが多々ある。
自分が何らかの説を思いついた際に、それを確かめるためにネット検索する時、自分の説を後押しする記事だけピックアップし、否定する記事は無視するのと同じ。

人は、『世の中は、自分が考える理想的な世の中であって欲しい』と思い込むフシがあり、ソクラテス自身も人間である為、知らず知らずにこの衝動に負けてしまい、答えを誘導させてしまっている可能性がある。
その為、ソクラテスは、『徳とは知識のようなものである』という結論を、もう一度、吟味することにする。

『徳』の教師

人に何かを伝え教えるという場合には、教育を行う者と受ける者の2つの立場が存在する。 数学を教えるのであれば、数学の教師と授業を受ける生徒という2つの立場に分かれる。
学問に限らず、例えば将来、医者になりたいと思うのであれば、医大に行くなどして生徒に成れば良い。 大工になりたいのであれば、大工仕事を身に着けている人の弟子に成れば良い。
靴職人を目指すなら、その職人の元へ弟子入りに行けば良い。 自分のも煮付けたいと思っている技術を既に習得している人を教師とし、その人の元で学べば、自分も同じ様な技術が身につけられる可能性が有る。

これを徳に当てはめると、『徳』を教える教師のような存在がいて、その授業を受ける生徒が存在し、今現在も徳の授業が行われていることになる。
しかしソクラテスは、今まで生きてきた中で『徳の教師』と呼ばれる存在には会ったことがないと言い出す。

ソクラテスは過去に、プロタゴラスゴルギアスと会っているが、この両者はソクラテスと対話した際に、シビレエイの毒にやられたメノンの様に、『徳』を見失ってしまっている。
両者ともに徳が分からない状態なので、当然、その様な人物が他人に徳を教えられるわけがない。
つまり、徳の教師ではない。

『徳』は人に教えることが出来るのか

ここまで話したところで、政治家のアニュトスが現れる。(アニュトスは、後にソクラテスを不正な手段を使って無実の罪で裁判にかけて、殺してしまう人物。)
アニュトスの父親であるアンテミオンは相当な資産家で、その資産は偶然によってではなく実力で手に入れたとされている。
普通の人間では築き上げる事が出来ないような地位や富を手に入れているアンテミオンは、他の人よりも卓越していると思われる。

その卓越した徳を宿したアンテミオンは、自分の子供であるアニュトスを可愛いと思っているのであれば、我が子であるアニュトスにも自身の徳・卓越性を教えているはず。
眼の前にいるアニュトスは、父親から教えられている徳を宿している可能性が有るので、アニュトスを対話に加えて『徳とは教えられるものなのか』を考えていくことにする。

ソクラテスはアニュトスに対し、早速、徳を教えてもらうには、どの様な人の元へ行けば良いのかを聴く。
今までの議論からすると、徳とは教えられるものなので、徳を教える事で金銭を受け取って生活している『徳の教師』が存在するはず。
その『徳の教師』の中でも、『自分は特に優れている教師なので、高い授業料がかかるけれども、それ相応の知識を提供するので、損はさせない。』といって宣伝している人間は、他の教師より優れているはず。

私達が住む現在でも同じで、優れているとされている人の下で学んだり、家庭教師として雇う場合は、それ相応のお金がかかってしまう。
逆に、自分自身は大したことがない存在だと主張し、生徒も取らず、人に何かを教えることでお金をとっていないような人に、弟子入りをする人は少ないだろうと主張する。
(この部分に関しては、必ずしもそうとは言えない。 物事を熟知していると大声で叫ぶ人間よりも、黙って物事に打ち込んでいる方が物事を良く知っているという事は良くある。
ゲームの世界では、カネ目当てのプロよりも、趣味で打ち込んでいる素人の方が実力が上ということも珍しくない。)

『優秀で有名な教師は、多額の金を請求し、それ程優秀ではない教師は、少ない金しか請求しない。』というソクラテスの主張に、アニュトスは同意する。

続いてソクラテスは、メノンが求めているものは『徳』で、将来は徳を宿した他人に比べて卓越した存在になりががっていることを告げ、どの様な人物の下へ行けば『徳』を学ぶことが出来るのかという質問をする。
ソクラテスが生きた時代には、人に徳を教える事で大金を稼いでいるソフィストと呼ばれる徳の教師が存在するが、彼らの下へメノンを送り出すべきなのだろうか。

ソフィストは『徳』の教師ではない

この質問に対してアニュトスは『ソフィストと関わってはいけない』と、ソフィストの存在を否定する。
何故なら、ソフィストは関わるものに良からぬも事を吹き込んで人を堕落させる存在なので、そんな者の授業を受けても害にしかならないからだという。
アニュトスにとってのソフィストとは、今現在で例えるなら、オンラインサロンを開いてほうぼうから金を集めている炎上芸人のようなもので、そんなものに関わったとしても何も得るものはない。
何も学ぶことがないだけなら、金を損するだけで済むけれども、彼らは生徒が興味を引きそうな、だけど中身のない適当な事を吹き込んで、人を不幸な道へと追いやってしまう。

しかしソクラテスは、このアニュトスの意見に反発する。
もし、ソフィストがそれ程の害悪を巻き散らかすような存在であれば、何故、ソフィスト達の下には生徒が集まり、生徒は進んで月謝を支払おうとするのだろうか。
ソフィストで有名なプロタゴラスは公演を1回開くだけで、素晴らしい技術を持つその道では有名な彫刻家よりも遥かに高額の金を稼ぎ出す。

しかもそれは、一時的なものではない。ソフィストという職業は40年に渡って存在し続けている。 
本当にソフィストが有害なものであるのなら、その40年の間にソフィストに対する悪評が広まって、その様な職業はとっくに駆逐されているのではないか。
にも関わらず無くなっていないということは、これは世間一般の人達は、ソフィストは素晴らしいく有益なことを教えてくれると思っているからではないのか。

また、ソフィストが生徒に教えていることが、本当に害悪であるとするのなら、ソフィスト自身が自分の教えが害悪であることを理解しているはずだ。(ソフィストは徳の教師だから)
他人に徳を教えられる程に徳を熟知しているソフィストは、金を持ってきてくれている生徒に対して、わざと害悪を与えるような事をするのだろうか。

ソフィストは街のある存在なのか

この部分に関しては、もう一度、ソフィストたちを現在の『炎上芸で名前を売ってネットサロンで稼いでいる人たち』に当てはめて考えてみると分かりやすいかもしれない。
その人たちが主催するネットサロンが何の役にも立たず害悪を巻き散らかすような存在であれば、彼らの評判は地に落ちているはずなので、新規で入会しようと思うものはいないことになる。
そこで、現状の彼らの様子を見ていると、ネットの炎上芸で名前を売っているネットサロン主催者は、かなりの多くの人たちから『害悪を撒き散らしているだけだ』と否定的な目で観られているし、ネットで検索してもアンチの意見がすぐに見つかる状態になっている。
しかし、一般に漏れ出てくる彼ら彼女らの私生活をみてみると、どう考えても、真面目にコツコツ働いているサラリーマンよりも良い生活をしている。

では、普通の人達以上の生活水準というだけで、彼らは有益だし、立派な存在といえるのだろうか。
サロンを運営している人は少数ではなく、沢山存在する為、その中には有益な情報を伝えて適正なお金を貰っているサロン運営者も少なからずいるでしょう。
しかし、大抵のネットサロンは、情報弱者を相手にし、その人達の不安を煽って精神を追い込んでいき、『その解決法を教えます』といった具合に勧誘してくる。

相手は情報弱者なので、何かを主張しているように見せかけて、何も内容がないことを話し続けたり、更に有益な情報がほしければ、もっと会費を払って上のクラスを受けましょうなどと勧誘してくる。
情報弱者は、自分から情報を取りに行かないから情報弱者になっているので、金を払えば有益な情報を与えてあげると言われれば、騙されてしまう。
与えられた情報が正しいのか正しくないのか、有益なのか害をもたらすのかは、何らかの情報と照らし合わせて見比べなければ判断できないが、情報弱者はそもそも比べるべき情報を持ってないので、与えられた情報を信じるしか無い。

結果、この様な集まりはカルト化し、その組織に残るのは熱心な信者だけになる。
この熱心な信者が教祖に対してせっせと献金をするという構図になるので、教祖は普通以上の豪華な暮らしが出来るが、教祖は信者に、実際には何も与えてはいないという状況が生まれる。
つまり、アニュトスの言う通り、害悪を撒き散らしながら、多額の金を得ることは可能ともいえる。

『徳』の教師が不正を行うのか

これをソフィストに当てはめても同じような事が言えそうだが… しかし、よくよく考えてみると、情弱を騙して大金をせしめるという行為は不正行為である。
不正行為を行うものは徳を宿したものではなく、単に、演出によって自分が優れているかのように見せているだけなので、これらのカルト教祖は厳密に言えばソフィストではない。
ソクラテスの前提では、ソフィストは徳を宿した徳の教師なので、他人を悪い方向へ引きずり込むようなことはしないはず。

アニュトスとソクラテスとでは、ソフィストに対する前提が食い違っているので、議論も当然食い違う。

ソクラテスは、『徳を宿したソフィストが、金を支払って学びに来る生徒に嘘を教え、悪い方向へ引きずり込むなんてことは、本来であれば行うはずがない。 彼らは、正気を失っているのだろうか?』と聴く。
それに対してアニュトスは、ソフィストが徳を宿しているとは思っていないので、『狂っているのはソフィストではなく、そんな奴らのいうことを真に受けたり、学ばせに活かせる親のほうだ』と主張する。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著【メノン】の私的解釈 その5 『思い出す為のキッカケ』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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『探求のパラドクス』vs『想起説』

前回メノンは、『徳を知らないもの同士で、どうやって徳の本当の意味を知るのか。』といって、ソクラテスに『探求のパラドクス』を突きつけた。
探求のパラドクスとは、無知なもの同士でいくら話し合ったところで、正しい知識は手に入れることができない。何故なら、出てきた答えが正しいかどうかもわからないのだから…というパラドクス。

その『探求のパラドクス』に対してソクラテスは、『想起説』で迎え討つ。
想起説とは、人間が死んで生まれ変わる際には、一度、この世の真理と同化してから再合成されるため、人の魂は真理を体験した状態でこの世に生を受ける。
しかし、魂が受肉した際には、その時の記憶を忘れてしまう為、人は無知な状態で生まれてくる。 しかし、魂の記憶は完全に消え去っているわけではなく忘れているだけなので、きっかけさえ与えてやれば再び思い出すというもの。

想起説は、一見するとトンデモ理論の様にも思えるが、メノンが主張する『探求のパラドクス』が本当に正しいとするのであれば、人間には語り継ぐ知識がないことになってしまう。
というのも、探求のパラドクスによれば、知識を学んで身につけようと思うのであれば、何らかの知識を既に持っている人間が絶対に必要ということになる。
しかし、人間は生まれてくる時は全員が無知な者として生まれてくる為、無知な者として生まれた人間同士で必死に考えたとしても、何の答えも出ないことになる。

だが、実際問題として、人によって様々な科学理論が生み出されている。
では、これらの『知識』とされているものは、本当に『正しい知識』なのだろうか。それとも、知識と思い込んでいるだけの幻想なのだろうか。
もし人間が生み出した知識が全て幻想でしか無いのであれば、人間の世界で知識を学んで賢者と呼ばれている人体は、何を持って賢者と呼ばれているのだろうか。

『知識』とは何なのか

メノンやソクラテスが生きた時代では、この『探求のパラドクス』に対する答えは、神話によって説明されている。
つまり、人間は無知なものとして生まれてきているが、その人間に対して知識を与えたのは神々で、神はこの世界を作った者たちなので、この世界の法則も当然のように知っている。
神々は非力な人間が大自然の中で生き抜けるように、最低限の知識を授けたとしているので、神話によると、『この世の法則を熟知している神々によって、知識が人間に伝えられた。』事になっている。

神々が本当にいるかどうかは置いておいて、無知な人間は、知識を持つ神々から正しい知識を授けてもらったということになっているので、探求のパラドクスの問題は回避できる。
ソクラテスが行ったのは、神話を使わないで探求のパラドクスを回避しようとした答え。

では、今現在の科学ではどの様になっているのかといえば、『本当に正しいと確定している知識』は存在しないことになっている。
科学者達は、今までの科学理論を参考にして新たな理論を見つけ出した場合、学会や論文によってその理論を披露する。
他の科学者達は、披露された学説の矛盾点を探すなど、その理論が間違っている証拠を見つけて批判をする。

理論を発表した学者は、批判を受けた場合は反論をし、批判側はその反論に対してさらなる証拠を突きつける。
このようにして、理論は世の中に出ると同時に批判にさらされて、その批判に耐えて誰も批判できなかった説が、『批判に耐えた理論』として信憑性が高いとされているだけ。
信憑性が高いだけなので、新たな理論や新技術の登場によって批判されてしまうと、その理論は間違っていたことが判明する。

知識は存在するのか

つまり現状の科学では、理論が間違っている事は明らかになるが、それが『本当に正しいのかどうかは分からない。』状態となっている。
ゲームの製作者が、コンピューターの中に世界を作り、その世界に人工知能を備えた仮想生命を作り出したとして、その仮想生命には、その世界の理をほんとうの意味で解明することは出来ない。
それが出来るのは、コンピューターの外側にいて、世界を客観視出来る神のような存在のプログラマーやゲームデザイナーだけ。

しかし、ソクラテスは絶対主義者で、この世には、絶対的な基準となる法則が存在すると思っているので、現在の科学のような割り切り方は出来ていない。
そこで到達したのが、『想起説』なのだろう。

メノンの従者は、幾何学を全く勉強していないにも関わらず、正方形という形を買えずに面積を2倍にするという難問を、誰に教えられることもなく説いてしまった。
従者が教育を受けていないことは、生まれてからずっと一緒にいるメノン自体が証明している。なら、従者は何処から正しい知識を得て、答えにたどり着いたのだろう。
生まれてから教育を受けていないのであれば、従者は生まれる前に知識を得ていたことになる。

そして、この想起説によって、無知な人間同士が考えを巡らせることによって、正しい知識に到達する可能性が得られる。
想起説では、知識を思い出すきっかけさえあれば、正しい知識を思い出すことが出来る。 そして、思い出した知識が呼び水になって、芋づる式に新しい知識を思い出すことになる。
足し算という概念を思い出せば、同じ数字を足し合わすという『かけ算』という概念を思い出す。 知識は知識を呼び、発展していくことになる。

『想起』の呼び水『仮説』

メノンは想起説に理解を示し、討論を再開することにするが、メノンは『知識に到達する為の呼び水となる、切っ掛けが必要だ。』と訴える。
これに対してソクラテスは、何の手がかりもなく分からない部分は、仮説を立てて考察していけば良いと答える。

『徳は知識のようなもの』であるとするのなら、知識は他人に伝え教えることが出来るため、徳は他人に教えられるものということになる。
そうではなく、『徳は他人には教えられない、感覚的なもの』とするのなら、徳とは他人に伝え教えることが出来ないものということになる。
この様に、『徳とは◯◯のようなもの』という仮説を立てて考えれば、それが正しいのか間違っているのかを考えることが出来、記憶を呼び覚ます呼び水になる可能性がある。

ということで、仮説を立てて考えていく。
まず徳とは、良いものなのか、悪いものなのか。 これに対して両者は、徳とは良いものだとして同意する。
徳が悪いものであれば、それを宿したものを尊敬するなんてことはしないし、徳を宿せば幸せになれるなんて事にもならないだろう。

次に、先ほど仮説を立てた、『徳とは知識なのか、感覚的なものなのか』について考えていく。
徳が宿っていると思われるものから、知識を切り離し、残ったものに良いとされる核のようなものが残れば、徳は知識ではないし、知識を差し引いた時に良いものまで無くなってしまえば、徳は知識のようなものと言える。

徳とは『良い』ものというのが分かっているので、『徳を宿している』とされているものから知識を差し引いた際に、『知識が差し引かれた徳』と『知識』のどちらに『良い』という状態が宿っているのかを考えれば、答えに近づく。
では、徳が宿ったものとはどのようなものなのか。 有名な三段論法を使って考えてみることにする。

『卓越性』とは何かを推測する

私達が徳を意識するのは、優れた人を認識したときで、その様な人を見た際には、『あの人は徳を宿している。』と認識する。
つまり、優れた状態になる事が出来れば、それは『徳を宿した状態』であり、徳を宿した人物は有益であるが故に、他の人達から称賛されて、価値有るものとして迎え入れられる。
であるのなら、徳とは、それを宿すことで優れた存在となれる有益な存在といえる。

この様なアレテーは、日本語訳される際に徳の他に『卓越性』とも訳されるが、では、人間は何を宿している時に『他のものよりも卓越している』と思われるのかを考える。

人間が他人よりも卓越していて優れていると思われる場合、その人物は、健康・強さ・美・富といったものを持っている場合が多い。
しかしこれらは、相対主義的な考えに照らし合わせると、必ずしも良いものとは言えず、これらを有しているから幸福になれるとは言い切れない。
同じものが有益となったり有害になったりする場合、それらの善悪を見極めるための基準は、『目的』となる。

健康や強さや美や富といったものは、何らかの目的を達成するための手段であって、それ自体が目的とはならない。
その手段を使って良い目的を達成する場合には、これらの手段は有益なものとなるが、目的が悪いものであるとするなら、それらの手段は有害なものとなる。
この部分の詳細は、『ゴルギアス』にて語られている。

卓越性から知識を引くと?

健康や美しさや富は現実世界での事柄だが、では、目に見えるものではない魂の分野ではどうだろうか。
魂や精神的と表現される分野にも、それを宿すことで『徳がある』『卓越している』と呼ばれるものがある。それは、『勇気』『節制』『物分りの良さ』『記憶力』『堂々たる器量』など。
これらも、目的の設定によっては善くも悪くもなる事柄だが、良い目的の為に使うという前提をもとに、推論を行っていくことにする。

魂の分野における卓越性から、知識を差し引いた場合。 それでも、それは卓越したものとして存在し続けるのか、それとも、卓越した部分まで差し引かれた絞りカスになるのか。
例えば、勇気は知識を内包している存在なのか。 それとも、知識は内包されていない、元気や意欲といったものと同じものなのだろうか。
この部分に付いては、『プロタゴラス』で詳しく語られているが、勇気は知性が伴っていなければ勇気とは言えないとされている。

例えば、強大な敵に立ち向かっていく時に、相手が強い敵だと認識せず、情報を全く知らない状態で飛びかかっていく行為は勇気とは言えない。
勇気が成立するためには、相手の強さを熟知している必要がある。
節度や物分りの良さも同じで、自分に全く知識がない状態で、自分の知らないことを話し続ける人間のいうことを疑いもせずに信じる行為は良い行動とは言えない。 場合によっては馬鹿にされることもあるだろう。

また、今回の推論では、目的は善いことであると限定したが、その前提を取り払った場合、目的が善い事であるという知識がなければ、勇気や節制といった精神的なものも、健康や美といった現実世界のものも、有益なものとはならない。
先程の三段論法によって導かれた結論では、徳とは有益なものということになっていたが、知性を欠いた徳目は有益とはならないのであれば、徳目は知性なくしては語れないということになる。
目的の善悪を判断しているのは善悪を見分ける知識であり、アレテー(徳・卓越性)の属性は知性によって決定される。

結論として、知性が徳の全体なのか、それとも一部なのかは置いておいて、徳とは知性であるといえる。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著【メノン】の私的解釈 その4 『探求のパラドクス と 想起説』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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目次

徳の正体を見失うメノン

メノンは当初、『自分は徳というものがどういうものかを知っているけれども、ソクラテスの主張する徳の定義を聞いてみたい。』といった感じで、ソクラテスの元へやってきた。
ソクラテスが『徳がどのようなものかは知らない。』と答えると、馬鹿にするような態度まで取っていたが…
実際に対話を行ってみると、『徳とは、徳を構成しているものを宿しているもの。』というよくわからない説明をする始末。

メノンが徳というものを知らないのであれば、その事を最初に伝えて、ソクラテスと一緒に考えようと協力を申し出れば良いのに、メノンは『自分は徳を知っている。』として協力を断った。
であるのなら、自分が確信を持っている『徳』の定義について語るべきなのではないか。

しかしメノンは答えられない。 何故なら、自分が知っていると思いこんでいた『徳』の正体を見失ってしまったから。
メノンはソクラテスの事をシビレエイに例え、近づくもの全てを痺れさせて動けなくさせてしまうような人物だという。
この喩えは、自分が知っていると思いこんでいたものが、ソクラテス接触することで実は幻想だったことに気付かされてしまい、思考停止に追い込まれてしまった事を表している。

しかしソクラテスはこの喩えを否定する。 何故なら、シビレエイは接触した相手を毒でもって行動不能にするけれども、自分自身が毒に侵されて行動不能になることはない。
だが私は、自分自身が持つ思想によって、自分も思考停止にさせられて、本質を見抜けない状態に追い込まれて苦しめられている。
シビレエイが自分自身の毒に苦しめられているのであれば、その例え話は正しいが、そうでないのなら間違っている。

探求のパラドクス

ソクラテスは、自分自身が徳を知る為に必死になって努力しているが、自分が無知であるが故に、その答えがわからないで苦しんでいることを訴えるが…
それを聴いたメノンは、『知らないものを、どうやって知るというのか。』とツッコミを入れる。
これは、探求のパラドクスというもので、答えがわからない者同士で必死に考えたとしても、答えが出ることはないというパラドクス。

例えば、3人の人間がいて真ん中にトランプの山が有る状態を想像してみる。 3人の内の1人が、トランプの山からカードを1枚だけ引いてカードを確認し、そのカードをもう一度山に戻してかき混ぜた上で、席を離れたとする。
この例には、種も仕掛けもないので、この状態では、トランプを引いた人間にしか、引いたトランプが何かということは分からない。
この状態で、トランプを引いた人間が席を立ってどこかにいってしまったとしたら、残された2人で必死になって『引かれたトランプは何か。』を話し合ったところで、答えは絶対に出ない。

何故なら、部屋に残された2人は双方ともに、答えを知らないから。 唯一答えを知っている人間は部屋を出ていっているので、引いたトランプが何かを知るためには、答えをしる人間に聞かなければならない。
その人間が部屋から出ていった以上、残された2人には何も出来ない。 部屋に残る2人が答えを知るためには、部屋を出ていった1人が戻ってくるまで待ち、教えてもらう必要がある。
またこの時、教えてもらう2人は、教えてもらう答えが正しいと信じ込む事しか出来ない。 相手が嘘をついているかもしれないと疑ってしまえば、答えは永遠に手に入らない。

これは、『徳とは何か』という問いについても当てはまり、メノンはソクラテスとの対話を通して徳とは何かという答えを見失ってしまった。
では、ソクラテスの方はどうかというと、ソクラテスは自分自身で、『私は無知であるが故に、徳の正体を知らない。』と断言している。
徳の正体を知らない2人がいくら討論を重ねたところで、答えが出るはずもないし、ソクラテス自身が答えを知らないということは、正しい答えを教えてもらったとしても、それが正しいかどうかを判断する能力もソクラテスにはない事になってしまう。
つまり、知識を得て何かを知るということは、新たに得た知識が正しいと信じ込む必要があるわけだが、ソクラテスのような懐疑主義者は新たな情報を疑ってかかり、信じるということを行わないので、知るということも出来ないという事。

想起説

このメノンが指摘した『探求のパラドクス』に対して、ソクラテスは『想起説』を主張します。
想起説とは、人間は全くの無知な状態で生まれるわけではなく、既に全ての物事を知った状態で生まれてくるが、この様に誕生すると同時に『その記憶』を無くしてしまっている。
その為、人間にとって新たに『物事を知る』行為は、新たな知識を外部から取り入れているわけではなく、自分の中にある記憶が呼び覚まされているだけだという説。

人間の魂は不滅のもので、人間が死を迎えて肉体が消滅したとしても、魂までもが消滅することはない。自然の根本的な原理によって魂は循環し、再び肉体に宿ることで生まれ変わる。
しかし、肉体が死ぬと同時に、魂が新たな肉体に宿るわけではなく、魂は一度、自然の原理の中に溶け込んでから再合成される。
例えば水は、雨としてふった雨粒は大地に落ち、様々な経路をたどって最終的には海へと流れ着いて、太陽光に照らされて蒸発して再び雲になって上空に上がり、天となって降り注ぐ。
雨粒が人間の一生として、海が全てが溶け合うカオスで有るのなら、そのカオスから再合成された魂が肉体に受肉するという事。

この様に魂は、この世の全てが混ざりあった原理に触れてから肉体に宿ることになる。
この世の全てが混ざりあった原理。つまり魂は真理と一体になってから、再び人間の魂として再合成される為、人には魂のレベルで真理を理解していることになる。
しかし、人は受肉してこの世に誕生する際には、その記憶を忘れた状態で生まれてきてしまう。 ただ、一度、真理を得ている状態で生まれているため、正しい理論に振れた際には、失われた記憶が呼び起こされる。

全ての答えは、自分自身の魂の中に既に存在しているので、知るという行為は忘れた記憶を思い出しているに過ぎない。

『想起説』の実験

しかしメノンは、この想起説を理解することが出来ない。
それもそのはずで、一度死んで、魂の状態になってから再び戻ってきた人間はこの世にはおらず、魂が真理と一体となってから再び再合成する現場を目撃した人間も居ない。
この状態で『人間は全ての答えを既に知っている。』と言われたところで、『はい。そうですか。』と鵜呑みにする事は出来ない。

そこでソクラテスは、自身が主張する想起説を実践してみることにする。
ソクラテスは、メノンに付き従っている従者を指名し、メノンに質問することで、その従者がまともな教育を受けていない、身の回りの世話をしている奴隷だということを確かめる。
この従者を使って、想起説を実践する。

正方形の面積を倍にするには?

まずソクラテスは、正方形を描きます。 一辺の長さは、計算しやすく2センチとしておく。
1辺が2センチで4平方cmの面積の正方形になるわけだが、それぞれの辺の真ん中に位置する中点を線で結んで、『田』の様な形にする。
これで、1平方cmの正方形が4つ積み重なって4平方cmとなっている事が目で見て分かりやすくなった。

この正方形を、縦に半分に割って2平方cmの大きさにする。 つまり、縦1cm 横2cmの横長の長方形にする。
この2平方cmの長方形の面積を2倍にする為には、辺の長さをどのようにすれば良いのだろうか。
この質問を、メノンの従者に尋ねてみると、従者は、縦の辺を2倍にすると、倍の面積になると答える。 縦に半分にしたものを倍にして戻すのだから、当然の答えといえる。

続いてソクラテスは、1辺が2cmの4平方cmの正方形の面積を、正方形を保ったまま2倍にする事は可能なのだろうかと質問をする。
従者は、『出来る。』と言い、先ほどと同じ様に『1辺の長さを2倍にすれば良い。』と答える。 ソクラテスは、『先程は長方形を正方形に変えるという質問だったが、今回は正方形を正方形のまま、面積を2倍にするんだよ?』というが、従者は2倍にすれば出来るという。
実際に、1辺の長さを2倍の4cmにした正方形の面積を計算してみれば分かるが、面積は16平方cmとなり、面積は4倍となってしまう。

最初の正方形を『田』という1平方cmの正方形が4つ積み重なる形にしていたために、教育を受けていない従者でも、数を数えれば面積の大きさは分かる。
4平方cmの2倍は8平方cmだが、従者のいうとおりに辺の長さを倍にしたら、目標となる8平方cmの更に倍の16平方cmの大きさになってしまった。
この結果を見た従者は、『1辺を3cmに変える。』と言い出す。 実際に間違った結果を目の当たりにしたので、元の2cmよりも長く4cmよりも短い3cmにしたのだろう。

しかし実際に計算してみると、9平方cmとなってしまう。 目標は8平方cmなので、まだ1cmだけ大きいことになってしまう。
従者は、答えがわからなくなり、思考停止におちいってしまう。 最初は『正方形を2倍の長さにする法則を知っている。』と思い込んでいた従者だが、実際に行動を起こしてみると、『知っている』と思い込んでいた状態は幻想だったという現実を突きつけられた。

この時点で従者は、正方形を2倍にする方法を知らないことを自覚し、実際に知識としても知らない無知な状態となっている。
この無知な従者に対して、ソクラテスは何も教えること無く、質問だけをして、答えに導こうとする。

従者は、最初に『1辺の長さを2倍にすれば良い。』と答えたが、その通りに実行すると、正方形の面積は16平方cmとなった。
この数値は、目標である8平方cmの倍の面積となっているので、目標に近づけるためには、面積を半分にすれば良いことが分かる。
では、どの様に半分にすれば、正方形の形を保ったまま、面積を半分にすることが出来るのだろうか。

最初にソクラテスが行ったように、『田』の様に辺の中点を結んで半分にすればよいのだろうか。 それとも、他の方法があるのだろうか。
例えば、正方形に対角線を引いた場合、対角線によって生まれた2個の三角形の大きさは、違ったものになるのだろうか。 それとも同じ三角形が出来るのだろうか。 三角形が同じ形であるのなら、正方形は対角線によって半分にすることが出来ることになる。
この質問に対して従者は、正方形は対角線によって半分に分けることが出来ると答える。

次にソクラテスは、ベースとなっている正方形の辺の長さを2倍にした正方形を書き、それぞれの辺の中点を結び、『田』の図形を書く。
これによって、正方形が4つ組み合わさって大きな正方形になる図ができたわけだが、4つの正方形の一つを取り出すと、当然、大きさはベースとなる正方形と同じ大きさとなる。
そして、このベースになる正方形の4つに、それぞれ対角線を引くことで、大きな正方形の真ん中に菱形が有るような図を書く。

真ん中にある菱形のそれぞれの1辺の長さは、同じ大きさの正方形の対角線なので、当然、同じ長さとなる。
また、それぞれの内角の大きさも、90度を2分して2倍したものだから90度となる。
この事実を、ソクラテスは従者に教えることなく、質問だけをしていうと、従者は大きな正方形の中にある図形も、正方形であると答える。

では、面積はどうなるのだろうか。 ベースとなる正方形を4つ組み合わせた大きな正方形の面積は16平方cmだが、真ん中にある正方形は、ベースとなる正方形を2分して4つ組み合わせたものなので、当然、面積は16平方cmの半分である8平方cmとなる。
この事実も、ソクラテスは従者には一切告げずに、質問だけをして確かめると、従者は、真ん中にある正方形は外側の大きな正方形の半分の面積で、ベースとなる正方形の面積の2倍ではと答える。

メノンの従者の少年は、最初は正方形の形を保ったまま2倍にする方法を、知った気になっていて、自信満々に1辺を2倍すれば出来ると答えたが、実際に計算してみると、それは間違いであることに気付かされた。
その後少し考えて出した答えである、1辺の長さを1.5倍にする方法も、間違っていることを指摘されると、自分が『正方形の形を保ったまま、面積だけを2倍にする方法を知っている。』と思っていたのは間違いで、自分は無知だったということを気付かされた。

しかしその後、従者は、無知である状態から何も教えてもらっていないにも関わらず、ソクラテスの質問に答えるだけで、『正方形の形を保ったまま、面積だけを2倍にする方法は、ベースとなる正方形の対角線を1辺の長さにすれば良い。』という法則にたどり着いた。
もう一度書くが、ソクラテスは従者に対して質問しかしておらず、何も教えていない。 にも関わらず、教育を受けていない従者は何故、正しい答えにたどり着いたのだろうか。

それは、従者は魂のレベルでは正しい答えを知っていたが、それを忘れていただけだからだ。
しかしソクラテスの質問に答えるうちに、忘れた答えが呼び起こされて、最終的に思い出したに過ぎないということ

これが、『想起説』
(つづく)
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参考書籍

プラトン著【メノン】の私的解釈 その3 『徳の正体とは』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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徳とは 欲しいものを手に入れる力

ソクラテスが、『形』や『色』についての納得の行く説明を行ったので、次はメノンが、それを参考にして『徳とは何か』の答えを考えることになる。
メノンは、自分の言葉ではなく吟遊詩人の歌を引用し『美しく立派なものを欲しいと思い、それを手に入れる力だ』と答える。

この返答は、対話篇の『ゴルギアス』に出てくる政治家のカリクレスの象徴と似ている部分がある。
カリクレスの主張は、人が抱く欲望こそが生きている原動力になり、その欲望を満たすために頑張り、それが達成したときには幸福になれるという主張だった。 
アレテーを宿すというのが幸福に繋がる道とするなら…
『美しくて立派なもの』という、手に入れづらいものを欲しいと思い、その為に頑張って実際に手に入れることができる力を手にするというのは、幸福に繋がる道ということなのだろう。

美しく立派なものとは

では、このポロスの返答は正しいのだろうか。
まず、ポロスの返答には2つの事柄が含まれているので、『美しくて立派なものを欲する』という部分と『それを手に入れる力』という部分に分解する。
そして、まず前者について考えていく。『美しくて立派なものを欲する』という事についてだが、これは特別な事なのだろうか。逆に、『醜くて悪いものを欲する』と考える人間がいるのだろうか。

例えば、多くの人が物を買う場合には、新しくてキレイなものを欲しいと思うだろう。 しかし世の中には逆に、古くて汚いものを欲しいと思う人も少なからずいる。
ではこの場合、新しくてキレイなものを欲しいと思うのは『善』で、古くて汚いものを欲しいと思うのは『悪』なんだろうか。
これは必ずしもそうとはいえず、家を買う際には皆が新築を買うわけではなく、中古市場でも家は売れているし、家具でも、新品なものに比べてビンテージものの方が高いこともある。

これは物だけにとどまらない。 例えば人間であったとしても同じで、関わり合いになる事で被害にあったり、自分自身が汚染されて悪くなってしまうような人がいる。
その様な人物と敢えて仲良くしたいと近寄っていく人達が存在するけれども、悪に近寄っていく人達は、その対象を本当に悪だと思って近寄っていくのだろうか。

例えば、汚職を行っている政治家や警察官というものがいる。 彼らは国というシステムで権力を振るえる立場にいるけれども、汚職をしているという点に置いて悪である。
この悪人に近寄り、自分自身も不正によって金銭を手に入れる事は悪だし、大半の人間は、その行為が悪だということは分かっている。
しかし、その悪い行為を敢えて行って蓄財したり、欲望を満たすために散財する人間は後を絶たない。

汚職に手を染めて、人から搾取し、自分たちだけが濡れ手に粟の金銭を儲けることは悪なのに、その悪に自ら近づいていく人達は、何故、醜く悪いものに近寄って、自分たちも同じ様に醜く悪い存在になろうとするのか。
それは、権力を振りかざして弱者から搾取し、その行動によって得た金で贅沢な暮らしをする事が『善い』と思っているからで、彼らは、世間一般で把握と思われているが『自分たちにとっては善い』と思う行為を行っている。

これは、犯罪を犯すような人間も同じで、オレオレ詐欺を行って老人から大金を奪い取ろうとする若者は、裕福な老人が金を貯め込むよりも、若い自分たちがその金を消費するほうが善いと思いこんでいる。
また、イジメや権力者の暴走も同じで、何らかの力を持つ人間は、力を持たない人間を不当な手段で支配し、思い通りに扱うことが『良い事』だと思いこんでいる。

全ての人は『良いモノ』を欲しがっている

つまり、不正行為や犯罪に手を染めるものは、それらの行為が世間一般では悪いことだと言われている事は認識しているが、その行為が自分にとって悪いものだとは思っていない。
むしろ、自分が欲しいと思っている物や環境を手に入れる為の手段だと考えている。 そして、この様な浅はかな人は、自分が欲しいと思うものを手に入れることが幸福だと思いこんでいるので、幸福を定位れるための手段である不正などを善いものだと勘違いしている。
この様な人間が、もっと真剣に考えた上で、『自分が欲しているものを手に入れたとしても幸福は訪れない。』と認識し、不正や犯罪行為に手を染めることが自分自身にとって悪いことだという事を本当の意味で認識できれば、人は不正や犯罪行為は行わない。

この様に人の価値は様々なので、皆が同じものを『美しいく立派』と感じるわけではない。 その為、世間一般からみれば『醜くて悪いもの』と思われているものであったとしても、その中に美しさや立派さを見出すものはいる。
また、不正行為や犯罪行為など、関わる事で周りや自分自身が悪くなってしまうようなものを、自分にとっては『善い行為』だと勘違いして欲するものもいる。
これを踏まえて考えると、ほぼ全ての人間が自分にとって『美しく立派なもの』を『欲しい』と思っている為、『美しくて立派なものを欲する』という行為は普通の事であって、世の中の人全員が思っている事といえる。

メノンが主張する『美しく立派なものを欲しいと思い、それを手に入れる力』の前半部分については、世の中の人間全員がその様に思っていることがわかったので、メノンの主張の核心部分は、『それを手に入れる力』の方にあるといえる。

欲しいモノはどんな手段で手に入れても良いのか

では、目標となる『美しく立派なもの』とは、どのようなものを指すのだろうか。
メノンの主張によると、金銀財宝や、国家における名誉や要職を任される事だという。 つまり、富と権力。
ソクラテスは、『その富や権力は、どの様な手段を使って手に入れても良いのか』と聞くが、メノンはそれを否定して、『手に入れる手段は正義と敬虔が伴っていなければならない。』と答える。

この答えは当然で、『徳を宿す』という前提条件として、正義や節制を宿していなければならないというのを互いに同意している為、これらを欠いた行動は徳とは呼べない事となる。
正義も節制も宿すこと無く、自分の欲望に従って不正な手段や犯罪行為を行い、結果として富や権力を手に入れたとしても、その行為は徳のある行動にはならず、悪徳な行為となる。

これまでをまとめると、メノンの主張は、金銀財宝や権力を手に入れる力を持つ事が徳を宿すことにつながるが、それらを手に入れる行為には、正義や節制・敬虔が伴っていなければならないということになった。

目指すものと徳目は どちらが優先されるべきか

以上を確認した上で、ソクラテスはメノンに対して一つの質問を行う。
『正義や節制や敬虔を優先した結果、お金や権力を諦めなければならなかった場面に直面した時には、どの様に行動すべきなんだろうか。』

例えば、自由気ままに権力を振りかざして、不正を行って欲望を満たしている独裁者がいたとして、その人間に気に入られる事に成功すれば権力が手に入るという状況があったとする。
その権力者が、無実の罪で一人の人間を捕まえてきて、その人間を殺せとアナタに命令したとする。 無実の人間の命を奪えば、自分は権力者に気に入られて出世できるが、その命令を聞き入れることは、正義に反する行為となる。
アナタは、権力を手に入れる為に、横暴な権力者の命令を聞いたほうが良いのだろうか。

この例だと話が大きく重すぎるので、もっと身近な例でいうと、店で買物をしてお金を出した際に、店員が釣り銭を間違えて多めに出したとする。
この状態になった際に、店員が釣り銭を間違っている事を指摘して、多すぎる分のお金は店側に返すのか、それとも店員には黙っておいて、お金をネコババするのか、どちらが良いのだろうか。

この質問に対してメノンは、『正義や節制を優先して、財産や権力を諦める方が、良い行動だと思える。』と答える。
この議論によって、メノンが考える『徳』とは、正義や節制を優先した行動を取ることだということが分かった。

このソクラテスの質問は、少し強引な気がするかもしれないが、誤解のないようにいっておくと、この議論では、富や権力を手に入れる行為そのものを否定しているわけではない。
正義と節制に従って行動し、その結果として富や権力を手に入れることが出来るという場面も当然、存在する。
この様な場面で、富や権力から距離を取りたいからと、正義と節制に従った行動を取らない事を推奨しているわけではない。

他人や世の中の為になる事を行い、その結果として金銭がもらえることもあるだろうし、国や組織が良い方向へ進むために尽力した結果、功績が認められて出世をして、権力を手に入れられるかもしれない。
ソクラテスは、このような事まで否定しているわけではない。 ただ、メノンの掲げる徳の最終目標が権力や金なのに対し、前提条件が正義や節制を宿す事となっており、最終目標と前提条件が相容れない状態になった際には、どちらを優先するのかを知りたかったのだろう。

『徳』とは『徳目』を宿すもの?

話を戻すと、これまでの討論によって、メノンが定義する『徳』とは、『正義や節制や敬虔を宿した振る舞いをすること』になってしまったが、『正義』や『節制』や『敬虔』は徳の1面でしかない。
つまり言い換えるのなら、徳とは『徳の一面を備えているもの。』という事になるが、大本の徳の説明を行っていない為に、解説として成り立たないことになってしまっている。

先程メノンは、ソクラテスに対して『形や色』について説明し、ソクラテスが『形とは色を伴って現れるもの。』と答えた際に、『色の説明が行われていないから、色を理解してない人には、その説明では分からないのでは?』と突っ込んでいたが…
『徳とは、徳の一部を備えたもの』という今回の答えは、それよりも酷い事となっている。
『色』の説明で例えるなら、『色とは、黒色や白色や赤色を含む総称です。』といっているに等しい。

色という概念がわからないものに黒色という概念は理解できない。 何故なら、黒色とは『黒い色』であって、色に形容詞が付いただけの存在。
ベースとなっている『色』がわからない人間に、形容詞を付けたら分かると思うほうがどうかしている。

ソクラテスはメノンに対し、『徳というものを理解していないのに、徳を構成している要素を説明できるものがいるのだろうか。』と疑問をぶつける。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著【メノン】の私的解釈 その2 『概念の説明の仕方』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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目次

『徳』とは人を支配する能力

前回までの討論で、徳とは、『正義』『節制』を持つ人間が備えることが出来るものだということがわかった。
では、それを備えた人間に宿る徳とは何なんだろうか。

この質問に対してポロスは、『徳とは、人を支配する能力のことだ』と答える。
メノンはゴルギアスの弟子というだけあって、ゴルギアスと同じ主張で迎え討つ。

先程の同意では、徳とは『正義』と『節制』を備えた人間であれば、老若男女を問わず、どの様な人間であっても宿せる可能性が有るものだということだったが…
では、徳を備えた人間であれば、どの様な人間であっても『人を支配する能力』を宿すことが出来るのだろうか。

例えば、徳を宿した子供がいたとして、その子供は親やその他の大人を支配して、思い通りに動かすことが出来るのだろうか。
正義を節制を持つ奴隷がいたとして、その奴隷は、自分を買った主人を支配して思い通りに動かすことが出来るのだろうか。
同じ様に、徳を宿した兵士がいたとして、将軍を支配して意ののままに動かせるのだろうか、一国の王は、徳を宿した家臣に操られるのだろうか。

支配はどの様な方法で行っても良いのか

ソクラテスは、疑問はいろいろと出てくるが、仮に、徳が人を支配する能力のことだとして、その支配は正しく支配する場合に限り、不正に支配する場合は徳とは言わないという但し書きをつけるべきではないかと指摘する。
というのも、人を支配するには様々な方法が存在する。 例えば、人を武器や力で脅したり、大切な子供などを奪って人質にしたり、権力で圧力をかけたり、金で買収したり。
人は様々な方法で支配し、支配されるものだけれども、支配が可能だから、それらの全ての行動に徳が宿っているとするには無理がある。

というのも、メノンとの同意内容では、徳を宿すものは『正義』と『節制』を宿すものだからという前提条件がついていたから。
人質を取るとか、不正な手段で手に入れた金で買収するという方法でも人を支配することは出来るが、これらの行動には『正義』も『節制』も宿っていないことが多い。
また、権力を持つものがしたものもの支配すること全てを『徳がある』としてしまうと、権力者は自動的に徳を宿していることになってしまう。

その為、純粋な『徳』を定義するためには、不正行為に手を染めず、『正しく支配する場合に限てであり、不正に支配する場合には徳は宿らない。』という但書が必要になるということ。
メノンはこの提案に同意し、『正義が徳の性質の一つであるとするなら、その他にも性質があるような気がする。』とし『勇気』『節度』『知恵』『堂々たる度量』も徳の性質の一つであると付け加える。

しかし、これに対してソクラテスは不満を漏らす。
『私は、徳という説明を一言でして欲しいといっているのに、正義だけでなく、勇気や節度や知恵などの数多くのものが新たに出てきてしまった。』と
そして再び、全てに当てはまる、ただ一つの徳を教えて欲しいと質問する。

『徳』とは何なのか(再)

このメノンへの質問は、正直、かなりキツい物がある。
というのも、例えば、徳というのを『優れていること』や『卓越していること』と一言で説明したとしても、おそらくは、『何を持って優れているというのか。 卓越しているとはどの様な状態なのか。』といった質問が飛んでくる。
複雑な概念を説明しようと思う場合、様々な要素に分解して説明する必要があるが、一つ一つの要素に分解した結果をみて『一つのものの説明を聞いただけなのに、何故、こんなに部品が出てくるの?』と言われても困ってしまう。

ただソクラテスの場合は、それぞれの要素は部品であって、それぞれの部品がどの様な働きをしているということを論理的に説明すれば、それに対しては聞く耳を持ってくれる。
しかしここで問題なのが、卓越しているとか優れているという状態は、様々な部品に分解は出来るけれども、どの部品がどの様に組み合わさっているのかは説明が出来ない。
例えば、生まれ持った運動神経や手足の長さなどの特性によって、運動面で活躍できる人間であったとしても、ただそれだけで優れているとはされない。

逆に、運動能力が低くて体格にも恵まれていないけれども、人々から尊敬を集めている人はいる。
単純に優れている要素の全てを持つ事が卓越することなのか、それとも、何かが欠けていたとしても『それさえあれば大丈夫』という核になる部分があるのかどうかも分からない。

メノンは、ソクラテスの追求に対して答えに困り、『自分は、徳というものを分かった気になっていただけで、実際には知らないのではないか?』と思うようになる。
そこでソクラテスは、『徳について一緒に考えよう。』と提案してくる。
今現在のソクラテスの評価は、政治家や賢者と呼ばれる人に対しては厳しく追求し、若者に対しては柔らかい態度で接するというものだが、そのあたりの事はこのやり取りを見ても分かる。
プロタゴラス』や『ゴルギアス』では、ソクラテスは追及の手を緩めなかったが、メノンに対しては優しく接している。 一説によると、メノンがソクラテスのタイプである美少年であったからという話もあるが…

概念の説明の仕方

その後、『徳とは何か』という問題について考えるのは難しいので、似たような概念を説明してみるという話になる。
似たような概念を説明することが出来れば、その説明の仕方をヒントに『徳とは何か』を説明できるかもしれないからだ。

ということで、『形や色』について考えることになる。
形とは、ある種の形の総称であり、形には三角形や四角形や円形や、それらに当てはまらないような複雑な形などの様々な形が存在する。
形とは何かと問われた際に、三角形を書いて見せて『これが形です。』といい、次に四角形を書いて同じ様に答えたとしても、それは『形』という概念について答えたことにはならない。
三角形も四角形も形の一種であり、形そのものの説明ではないからだ。 世の中にある『形』というものを例に挙げるという方法では、無限に『形』が出てくるので、キリがない。

これと同じ様な概念として、『色』というものがある。
『色』には、青や赤や黄色といった様々な色が存在するが、『色とは何か』と質問された場合に、青も色だし、赤も色だし、黒も白も色だとして例を上げていくのはキリがない。
何故なら、絵の具を自分の思い通りに配合して自由に作ることが出来る為、それらを全て見せて説明することは不可能に近い。これは形も同じで、形は自分で好き勝手に作り出すことが出来る。

色や形を、それに属するものを例としてあげていくという方法で説明するには無理がある。
何故なら、赤を見せて『これが色ですよ。』と説明しても、ソクラテスのような人物は、どこからか青色を探し出してきて『じゃぁ、これは色じゃないんですね?』と聴いてくるから。
それに対して『その青も色の一種ですよ。』と答えると、『私は色という一つの概念の説明を聞いているのに、何故、沢山の説明が出てくるんだ!』と言われてしまう。

その為、色や形といった概念を説明する場合、実際の色や形を見せて説明するというのは説明にならない。
これらを説明する場合は、そういった例を使わずに、『色』や『形』そのものの説明をする必要がある。
この説明を、今まで質問役に回っていたソクラテスが行うことになる。

『形』とは何なのか

ソクラテスが言うには、『形とは、常に色と伴って存在するものの事だ』という。
例えば空気は目に見えないので形を伴ったものとは言えないけれども、目の前にある『物』と呼べるものには全て色が付いているので、その形を見ることが出来る。
透明のコップや水は透明じゃないかと言う人もいるかも知れないが、それらも、目に見えて形が分かるということは、何らかの色が付いているか、光の反射や屈折によって空気とは違う色になっているから区別がつく。

この説明を聞いたメノンは、『その説明では、色の概念を知っているもの以外は理解できないのではないか? 色の説明がまだの状態で色を使った説明は、説明にならないのではないか。』と牽制する。
その反論を聞き入れる形で、ソクラテスは別の言い方で説明を開始する。

『形について』、まず、ソクラテスはメノンに対して、『終わり』『限界』『末端』といった概念のことを知っているかと尋ね、知っていることを確認する。
そして、『立体における形とは、その立体が終わる所。その立体物の限界を表しているのが形だ』と説明をする。つまり、立体物とそれ以外の境界線を形とするということ。
平面の場合も同じで、平面に何らかの形を書いた場合は、何かを書いた部分と書いていない部分との境界線をもって形と呼ぶとする。

この説明は、形が三角であれ四角であれ丸であれ、全ての事柄に例外なく当てはまるので、形という概念に対する『たった一つの説明』といえる。
この答えい納得したのかしていないのか分からないような薄い反応のメノンは、次に、色についての解説をソクラテスに求める。

『色』とは何なのか

先程の簡潔な答えがウケなかった為、ソクラテスはメノンが好きそうな、賢者エンペドクレスが主張した小難しい理論を使って解説を始める。

物が『存在する』場合には、そのものからは何かしらの情報が常に垂れ流されている。それは、『色』であったり『匂い』であったり『音』であったり触った際の『感触』といったもの。
『色』は物体から垂れ流されると言うよりも、その物体に光があたった際に吸収されなかった色だけが反射して観えているわけだけれども、その反射してくる光も、便宜上、垂れ流される情報としておく。
これらの『垂れ流される情報』があるから、人はその物の存在を感知して認識することが出来る。

その垂れ流される情報に対して、その情報を受け取って認識するためのセンサーのようなものが、人間の体には備わっている。
耳は、音に関する情報を集めて認識するし、肌は感触を感じ取って認識するし、鼻は匂いを感じ取る事で香りを認識することが出来る。
『色』というのは、物体から垂れ流されている情報を『目』というセンサーを通して認識するもの全般のことを指していると説明をする。

メノンは、格好いい言葉が羅列された小難しい説明を聞いてテンションが上り、目を輝かせてソクラテスの説明に納得をする。
しかしソクラテスは、学者が行うような小難しい解説よりも、『形は立体の限界』といった、特に難しい勉強をしなくても誰でも理解できる様な簡単な説明の方が優れているという。
だがメノンは、まだ勉強をし始めたばかりの子供なので、『極一部の人しか理解できないような小難しい説明を理解できる俺カッケー!』という状態なので、小難しい解説が気に入ったのだろう。
(つづく)
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参考書籍

飲食店のシステムがいろいろ進歩してた件について

今回は、人手不足と叫ばれている飲食店業界で、『物凄く効率的なシステムが導入されようとしている』ということについて書いていこうと思います。

目次

今までの飲食店のシステム

先週末(2019/07/14)のことですが、私が聴いているネットラジオ番組『BS@もてもてラジ袋』の祇園祭オフ会が行われるということで、参加してきました。
主催が市民生活を研究されている方ということで、店はリーズナブルな値段の店に絞っていく感じになり、1件目は『餃子の王将』に行きました。

ここは、全国チェーンの割と大きな会社ですが、導入されているシステムはというと、極普通のシステムです。
メニューを観て、どれを選ぶかを皆で相談し、決まれば店員を呼んで注文し、店員はその注文を手持ちの端末に打ち込んでいく。
そして、打ち込んだメニューを料理部門に伝え、料理部門がそれを見て料理を作り、出来上がった料理をホールの店員が客の元に運んでいく。

この様なシステムを、大半の飲食店が採用していると思います。
店によっては、店員が端末を持たずに客の注文をメモとして書いたり、店員を呼ぶ際には大声て『すみませ~ん』と言わなくてもいいように、テーブルのところに呼ぶボタンが付いている場合もありますが、その程度の些細な差しかありません。
大半の店舗がこのシステムを採用しているために、そこそこ席数のある店舗の場合は、ホール店員がそれなりの数必要となったりします。
しかし、ここ最近は人手不足と言われている状態。 そもそもが飲食店はそんなに儲からない為、人件費として出せる給料も多くはない。
にも関わらず、人が休んでいる時に働かなければならず、終わるのが深夜になることも珍しくないため、現状では従業員を集めるのも一苦労のようです。

新たなシステム

王将を後にし、2次会に行こうという話になり、候補に上がったのが、映画『夜は短し歩けよ乙女』に出てくる『月面歩行』というbarのモデルになった、『ムーンウォーク』という店です。
この店は、チャージこそ400円取られますが、ドリンク1杯の値段が200円(税抜き)という激安の店。
カクテルを3杯呑んでも、チャージと合わせて1000円(税抜き)にしかならないという店です。
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この店ですが、まず、入ると同時に1枚の紙切れを渡されます。
そこには、QRコードとフリーwifiのパスワードが書かれています。
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そのQRコードを読み込むと、どうなるのかというと…
店のメニューが出てくるんです。
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これですが、単純にメニューが出てくるだけではありません。
メニューをクリックすると【注文しますか?】といった感じの案内が出てきて、それをタップするだけで注文まで出来てしまいます。
自分がどれだけ注文をしたのかを知りたい場合は、注文履歴をタップするだけで、これまでに注文したものを閲覧することが出来ます。
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そして、お会計をする際には、【お会計】ボタンをタップするだけです。
これだけの操作で、スマホ画面に合計金額が出てきて、数分遅れで請求金額が書かれた紙を店員が持ってきてくれるので、その時にお金を払えば終わりです。

新しいシステムの何が凄いのか

もう一度、従来のシステムでホール店員が何をするのかを振り返ってみましょう。

1.客に呼ばれてテーブルまで行き
2.注文を聞いて厨房に戻り
3.厨房スタッフに料理を伝えて
4.出来上がったらそれを受け取って
5.テーブルまで運ぶ
6.客が返ったら片付ける

この6つを行うのがホールスタッフの仕事ですが、新しいシステムの場合は、この行程がかなり削られます。

1.テーブルまで商品をを運ぶ
2.片付ける

この2つだけです。
客が自分のスマホで注文をし、その注文がダイレクトで厨房のタブレットに転送される為、ホールスタッフは注文をわざわざ聞きに行く必要がありません。
当然のことですが、注文の度に客が店員を呼ぶ必要すらありません。 忙しい店だと、スタッフを呼ぶタイミングに客側が気を使ったりしますが、その必要すらありません。スマホでポチッと押すだけです。
決済の際も、ホールスタッフがいちいちレジ打ちをする必要がなく、客が決済ボタンを押したら客のスマホには合計金額が表示され、店側は自動で請求書がプリントアウトされるので、それをテーブルに持っていくだけです。

このシステムの導入により、飲食店で必要な最低人数が大幅に引き下がる事になります。

ヒューマンエラーが無くなる

古いシステムの場合、客が注文を口頭で伝えたものをホールスタッフが聞いてメモするなり端末に打ち込むなりし、それを再び厨房スタッフに伝えるわけですが…
この伝達の際に聞き間違えたり伝え間違えるといった事で、注文間違いが起こる可能性があります。
実際に、1軒目に訪れた王将では、客が伝えた注文と違うものをスタッフが持っていき、作り直すといったアクシデントを目撃しました。

しかし、新しいシステムの場合は、ホールスタッフを経由しての伝言ゲームが一切発生しないシステムになっている為、客が注文したものは確実に厨房に伝わります。
ホールスタッフは、それを持っていくだけです。 仮に料理が間違っているとするなら、客がタップミスした時ぐらいでしょう。

更に発展する可能性

私は、TwitterでIT系の方をフォローしている割合が多いからか、その手の話題が結構な頻度で流れてきます。
その中のTweetで、これと似たようなシステムを使うことが当たり前になっている国があり、その国では、このシステムが様々なpayサービスと結びついているというのを見たことがあります。
つまり、このQRコードを読み取って注文を行い、決済もスマホで出来てしまうと、ホールスタッフは会計の仕事からも開放されることになります。
客の全てがキャッシュレス決済を使うのであれば、店の開店前に釣り銭の用意で銀行に行くといった手間もなくなりますし、店に現金が無くなるということは、強盗の心配もなくなります。

また、店員がレジの金をごまかしたり、友達を店に呼んで無料で色々サービスするといった不正行為も防げることになります…
この会計システムが、そのまま会計システムにつながれば、税金関係も楽になる為、飲食店での雑用というのがなくなり、店側は、新メニューの開発など店の発展のために時間を使えたり、大幅な人員削減が可能になります。

このシステムの運用にどれほどのお金がかかるのかは分かりませんが、月に数万で導入できるのであれば、飲食店の損益分岐点もかなり下がるかもしれませんね。

プラトン著【メノン】の私的解釈 その1 『徳とは、どのようなものなのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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メノンの挑発

裕福な家柄に生まれ、ゴルギアスのもとで弁論術を学んだメノンが、ソクラテスの元へ『徳とは何か。』を教えてもらいにやってくる。
教えに貰いにやってくるといっても、謙虚な気持ちでソクラテスから学ぶ為にやってきたのではなく、ゴルギアスの元で学んだ知識を試してやろうという思いでやってくる。

しかしソクラテスは、その質問に対して『私は徳がどのようなものかは知らない。』と告白する。
わざわざ遠くからやってきたメノンは、『では、故郷に帰って『ソクラテスは徳について何も知らなかった。』と言いふらしてよいのか?』と挑発。

それを聴いたソクラテスは、『私が知らないだけでなく、徳という存在を知っている人間は会ったことがない事も付け加えてくれ。』という。
するとメノンは、『アナタは、私の師匠であるゴルギアスと会ったことが有るのではないですか?』と質問をしてくる。
何故ならメノンは、師匠のゴルギアスは徳とは何かを知っていると思い込んでいるが、ソクラテスゴルギアスが面会しているとなると、ゴルギアスも徳を知らない事になってしまう。

メノンは、ゴルギアスから教育を受けて、自分自身も徳について知っていると思い込んでいたが、ソクラテスの理屈でいうなら、自分も徳を知らないことになってしまう。
この事が受け入れられないメノンは、ソクラテスと『徳について』討論することになる。

前に取り扱った『プロタゴラス』や『ゴルギアス』では、プロタゴラスソフィストと呼ばれる徳の教師で、ゴルギアスは弁論術の教師という事で、両者とも、ギリシャ内でも有名な教師だった。
しかしメノンは、ゴルギアスの元で弁論術を学んだだけで、教師であるゴルギアスに授けてもらった知識を見せびらかしたい気持ちを抑えられない青年。
例えるなら、格闘道場で格闘技を習って強くなった気になった生徒が、他の道場に道場破りに行くような感覚でしょうか。

ソクラテスは自分では無知だと言いつつも、数多くの賢者と対話を行っていたために有名で、演劇の元ネタになっている人物なので、自分の力試しのためにも、わざわざ押しかけてきたのでしょう。
しかし意外にも、ソクラテスは自分自身は徳という物を知らないし、今まで対話してきた人間の中にも、徳を理解している人間はいないと主張する。
これは、メノンも師匠のゴルギアスも徳を知らないと言われているのと同じ意味なので、メノンは受け入れることが出来ず、討論することになります。

徳とは何か

二人の討論のテーマとなるのは、当然のことながら、『徳とは何か』。
ソクラテスは徳を知らないと主張しているので、『徳とは何か』を知っているメノンから、持論を披露することにする。

メノンが主張するには、もし、成人男性の徳を知りたいのであれば、それは国家公共の為に尽くすことで、それを実現するためにも、善い人間関係を構築することが大切になる。
同じ様な志を持った友人は大切に扱い、敵対するものには厳しく接する。
続いて女性の徳は、外に出ている男性に変わって家庭を支えることで、主人である夫によく従うことになる。

この他にも、子供や老人や奴隷など、それぞれの立場や年齢に対応した徳が存在する為、徳を一概に説明することは出来ないという。
つまり、徳という概念には適応される対象の数だけ解説が必要という事になる。

このような答えは、ソクラテスの対話篇では、もはや定番となっています。ソクラテスがたった一つの物事の意味を尋ねると、その答えとして大量の解説が返ってくる。
プロタゴラスとの対話の際には、『徳とは何か』というたった一つの言葉の意味を尋ねただけなのに、徳は知識や節制や正義や勇気などからなっているという答えを聞かされた。
対話篇のゴルギアスでは、3人の人間と対話を行ったが、その全ての対話相手が、質問する度に答えを増やしていきました。

メノンの答えも、『徳とは何か』というたった一つの質問に対して複数の答えが帰ってきたが…では、メノンの言う通り、立場ごとに定義が変わるというのは、答えになっているのだろうか。
この説明を聞いたソクラテスは、メノンの回答がおかしい事を伝えるために、例え話をする。

仮に、ミツバチとはどのようなものかというのを質問した場合、ミツバチはそれぞれの個体で全て違っているので、一概に言えないなんてことがあるだろうか。
ミツバチという、その種族を説明できるような共通の概念的なものはないのだろうか?

集合体の定義は それを構成している物の数だけ存在するのか

ソクラテスはミツバチという昆虫を例に出したが、これを人間に置き換えても同じ事がいえる。
この文章を書いている『木村』という人物と、この文章を読んでいる読者の方は、全く同じ存在なのかといえば、違うとしか答えようがない。
性別も年齢も住んでいる地域も、それぞれが名乗る名前も違うでしょうから、私と皆さんが同一人物ということはありえません。

しかし、この文章を書いている私も、それを読んでいる読者の方々も、人間という枠組みでいえば共通の概念の中に存在します。
この状態で、ある人が『人間とは何か?』と質問したとして、『人間は70億人いて、それぞれ育った環境も考えていることも違うから、一概には言えない。』という答えが通用するでしょうか。
『人間とは何か?』という問いかけは、70億人いる人間という種族に共通する概念を聴いているのだから、個人個人のそれぞれの概念ではなく、種族としての答えを聞けば、それで良いことです。

これは、『徳とは何か』という質問にも当てはまることで、『人それぞれに徳が有る』だとか、男女の違いや年齢の差と言ったもので、徳という概念が変わるのはおかしい。
例えば、人間の状態を表す『健康』であるとか『病気』といった概念があるが、この『健康』や『病気』という概念は、男女や年齢の差によって概念が変化するようなものなのだろうか。
同じ様に『喜び』や『恐怖』といった状態も、老若男女でそれぞれ別の定義が存在するのだろうか。

そんな物は存在せず、人間に宿る感情や状態は全て同じ定義として説明できるはず。 
であるなら、人間に宿る徳も同じ様に説明できるはずではないだろうか。

『徳とは何か』(再)

ソクラテスの問いかけに対して、メノンは答えを用意できない。
今でこそ、ダイバーシティといった多様性が重要視されて、人々の性別や障害に至るまでが個性として認められはじめてはいるが、メノンが生きていた時代は2500年前。
スパルタ地方では、生涯を持って生まれた子供は良い兵士に成れないと崖から捨てられて間引きされているような時代。

男女の役割の違いなども今以上に強調され、男らしさや女らしさといったものが重要視されていた時代なので、『女性の中で優れているもの』と『男性の中で優れているもの』は全く別のものだと考えるのが普通だった。
同じ様に、子供には子供の優秀さがあり、老人にはあるべき理想的な老人の姿があって、『人の立場ごとに理想像が違う』という考え方が体に染み付いているのだろう。
しかしソクラテスが尋ねているのは、『優れた人間とは何か』である。
メノンは、健康や感情などは人間という種族全てに当てはまる様な説明が出来るけれども、何をもって優れているのかという徳(アレテー)だけは、人それぞれの立場によって違うような気がすると答える。

徳の教師であるソフィストや弁論術の教師には厳しい質問を投げかけて論争に発展させてしまうソクラテスだが、相手が少年の場合はそこまで追及する姿勢は厳しくなく、メノンと一緒に考えていくことにする。
メノンの主張では、男性は国家公共のために尽くすというが、国家公共のために働くとは、国を治めるために尽力するという言い換えが出来る。
女性の徳である、家を治めるというのも、家庭内がうまくいくために尽くすという言い方が出来るため、男女の徳で、何かの為に尽くしてよく治めるという点で共通している。

では、家にしろ国にしろ、良く治める為に必要なのは何かということを考えていけば、答えにたどり着くかもしれない。

家や国を、ただ単に治めるのではなく、良く治める為に必要なのは正義であり、その正義を実行しようとする場合には、自分自身の欲望を抑えて周りのことを考える必要があるので、節制も必要になる。
共同体を良く納める為に必要なのは正義と節制で、これなくして、共同体を上手い具合に治めることは出来ない。
逆にいえば、正義と節制を持っていないのであれば、『何かを治める』という役割ではない老人や子供であっても、徳を宿しているとは言えない。

メノンが最初に答えたとおり、徳とは、人の立場それぞれに存在するものではなく、正義や節制という同じ前提条件を備えた人間に共通して宿るもの。
では、その前提条件を備えた人物が宿す徳とは何なんだろうか?

(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第56回 『プロタゴラス』 2つの価値観 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次


プラトンの対話篇

前回は、プラトンが書いた初期作品の中から『メノン』『ゴルギアス』『プロタゴラス』の3つ挙げ、それぞれについて簡単な説明をしましたが、今回からは、もう少し詳しく掘り下げていこうと思います。
これらの作品ですが、一般的には『メノン』が入門編として優れているとされているのですが…
私が読んだ印象としては、『メノン』を理解するためには、前提の知識としてソフィストとは何なのかというのを知る必要があると感じました。

その為、このコンテンツでは、まず、ソフィストを扱った『プロタゴラス』と『ゴルギアス』を先に勉強していきます。
この2つの作品ですが、どちらから手を付けてよいのかというのは難しいところなんですが… このコンテンツでは、『プロタゴラス』から先にやってこうと思います。
まず、タイトルの『プロタゴラス』というのは、人名です。 プラトンが書いた対話篇は、対話相手がそのままタイトルになっている場合が多く、この作品もその1つとなっています。

プロタゴラス相対主義

このプロタゴラスという対話編ですが、ソクラテスが住むアテナイに、プロタゴラスが訪問してきた事を聞きつけたソクラテスの友人が、彼に教えを請うた目に、多額の金を持って会いに行こうとするところから始まります。
前回にも少し話しましたが、プロタゴラスというのはかなりの人気のある賢者で、ギリシャ全土に幅広く名前を轟かせていた人物のようです。
彼の残した有名な言葉としては、『人間は万物の尺度である』というものが有りまして、この言葉は、彼が掲げる相対主義を象徴する言葉となっています。

この言葉を簡単に説明すると、物事の尺度というのは、各それぞれの人間によって決定されるというものです。 人間が、『その存在』を認識することで、存在に意味付けをするということです。
例えば、目の前に本があった場合、その本の存在を認識して、本という存在に意味や目的を見出すのは、それを認識した人間が決める事で、本そのものに絶対的な存在理由や目的は存在しないという事なんでしょう。
つまり、1つの現象を10人が観察した場合、その現象の捉え方は、人それぞれが持つ立場や知識によって変わってしまい、10通り存在するというわけです。

物事の基準というのは、それぞれの人が決めることであり、『その存在』そのものの絶対的な基準というのは存在せず、物事は相対的だと主張したのが、プロタゴラスです。

このプロタゴラスが、ソフィストを代表する人物だというのが影響しているのか、ソクラテスと対話するソフィストと呼ばれる人は、基本的には相対主義的な考えを持つ人間が多いです。
一説では、プロタゴラスソフィストという職業を確立させた人物とも言われていたりもしますしね。

相対主義と絶対主義

一方で、ソクラテスが掲げているのは絶対主義で、この世には、絶対的な基準というものが存在するという考え方です。

例えば、正義の価値観で考えてみるなら、相対主義における正義とは、その立場や環境によって変わるものとして考えます。
つまり、それぞれの立場に立つ人間が、それぞれの立場で『正義』という価値観を自分で決めていくという事です。 いわゆるポジショントークで、戦争が起こる理由は、主にこれが原因となったりしますよね。
戦争は、2つの立場で考えられた2つの正義の対立によって、起こります。 一方が善で、一方が悪者ではありません。 そこに参加している人達は、互いに自分が良いことをしていると思って、争いを起こして参加します。

自分の主張が正義で、相手の主張は自分達とは違う主張だから、相対的に観て間違っている。 間違った主張なのに、正しい主張をしている自分と対立するのは、相手が悪だからという考え方ですね。
これを双方が思っているから、争いが生まれて、それが発展して殺人につながったり、戦争に発展したりするわけです。

一方で絶対主義は、この世には絶対的な基準というものが存在しているという考え方です
相対主義的な考え方では、戦争というのは正義と正義の対立によって起こる事になりますが、絶対主義では、そうは考えません。
というのも、『人間がどう認識するか』というのとは関係がなく、その事柄そのものに、絶対的な正義や善という確固たるものが存在していると考えます。価値観が一つしか無いため、皆がそれを知る事が出来れば、戦争は起こらないと考えます。

絶対的な基準

人々は善悪の基準を知る事で、絶対的な基準において善悪を見分けることが出来るわけですから、やって良い事と悪いことを知ることが出来るようになります。
争いが起こるというのは、争いを起こすという動機の中に悪いものが混ざっているから起こるのであって、良いということを積み重ねた結果が、殺人を肯定するという結果には、なかなか結びつきません。
相手が悪行を重ねているだとか、物凄く酷いことを相手にされて憎しみを抱いているといったことが一切ない状態で殺人が肯定されるというのは、異常な事ですよね。

争いが起こるのは、人々が善悪の基準を正しく知らないから、もしくは誤解しているから起こってしまうものであって、互いが本当に正しいものを知り、その考えを共有することが出来れば、争いは起こらないことになります。

絶対主義的な考え方では、絶対的な善と悪が存在するわけですから、悪い事をしている人間は、悪いことと自覚した上で、あえて悪い事をしているか…
もしくは、無知である故に、自分が悪いことをしている事を知らないかの、何方かという事になります。
どちらの場合も、相手が悪い事をしているという事を伝えて理解させた上で、『悪い事は止めよう』と説得できる可能性があるわけで、争い以外のアプローチをとることが可能になります。

まとめると、相対主義は、相手の主張と比べて自分の主張はどうなのかという相対的な考えといえると思います。
自分の主張がどのようなものなのかを知るには、自分とは違った他人の意見が必要で、他人の主張と比べることでしか、自分の立ち位置がわかりません。

これに対して絶対主義は、どの観点から見ても変わらない、絶対的な価値があるという考え方となります。
人間の認識ではなく、それぞれのモノや事柄『そのものの存在』に価値観というのが内包されていて、その価値観を正しく知る考え方ともいえるでしょう。
この、相対主義と絶対主義との戦いが、プラトンが書いた対話篇には結構出てくるのですが、この3作品も、これにあたります。

相対主義相手に対話が可能なのか

ここで、一つ疑問に思われる方も、いらっしゃるかもしれません。 どういった疑問かというと、相対主義者と対話が可能なのかという事です。
相対主義は、それぞれの立場や状況によって、同じものを取り扱ったとしても、それを認識する人によって捉え方が変わるという考え方です。 先ほど紹介した、『人間は万物の尺度である』という言葉が、それを物語っていますよね。
物事をどの様に捉えるのかは、それを認識した人間によって基準が決められてしまう為に、人間、一人一人のそれぞれの認識の中に、それぞれ正解が存在するのが相対主義的な考え方です。

つまり、相対主義的な考え方でいえば、全ての人間の考える事は、その立場において正しいと言わざるを得ないので、そこに論争が起こりようがないんです。
何故なら、この考えを追求していくのであれば、間違ったことを言う人が存在しないという事になるからです。
相手と自分と考え方が違ったとしても、その考え方はそれぞれの立場において正しい為に、指摘することができなくなります。

自分が、正しいと思うことについて一生懸命、主張をしたとしても、『貴方がそう思うんであれば、それで正しいんじゃない? あなたの中ではね。』といわれて終わりです。
他の人に自分の価値観について否定されたとしても、『私は、これが正しいと思ってるから。 あなたが違うと思うのであれば、それで良いんじゃない?』といえば、議論が終わってしまいます。
つまり、討論をする意味もなくなります。

ソフィストとは、特に、今回から取り扱うプロタゴラスは、他人から金銭を受け取ってアレテーを教える事で、巨万の富を築き上げた人ですが、この相対主義の考え方に照らし合わせれば、この職業は存在する意味がありません。
何故なら、物事はそれぞれの人が把握して認識する事で、それぞれの立場において定義づけられるからです。
アレテーというものも、それぞれの人間が定義付するものという事になるので、正解は人から教えてもらうものではなく、自分の中に存在するということになります。

もっと別の言い方をすれば、アレテーとは卓越性なので、アレテーの宿る人間とは、他の人よりも卓越した凄い人という事になるわけですが、相対主義的な考え方でいえば、凄い人という価値観は、人それぞれが自分で決めることになります。
人それぞれが、自分自身が『凄い事』と捉えている事を行えばよいわけですし、『これが出来るようになれば、卓越しているといえるだろう。』と思えるようなものを身につければ良いだけです。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第55回 プラトンが思い描いたソクラテス 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次


根本的な質問を突きつけるソクラテス

これ、サラッと言いましたが… よくよく考えてみると、かなりキツイ質問であることが分かります。
というのも、両方とも、自分が生徒や弟子からお金を貰って教えているモノの本質について、質問をされているからです。
プロタゴラスは、『アレテーを教えてあげますよ』と宣伝をして生徒を集めて、多額の金を貰うことで授業をしているわけですし、ゴルギアスも、『弁論術を教えてあげますよ。』と言って人を集めて、授業料を徴収している人物です。

両者とも、『金品と引き換えにして教えてやる。』と言っているものの本質について聞かれているわけですから、口が裂けても、『私には、そのものの本質がわからない。』なんて事は言えないわけです。
何故なら、それを教えることで金品を受け取って、人並み以上の生活を送っている人達だからです。 もし、本質も分からずに教えているとすれば、彼らは詐欺師ということになってしまいます。

では、ソクラテスは、意地悪で、この人達を背水の陣に追い込む様な議論をふっかけたのかというと、そういうわけではありません。
ソクラテスは、自分自身は物事の本質を知らないと自覚している人物であるわけですが、一方で、物事の本質について『知りたい!』と強く思っている人物です。
ですから、それを『知っている。』と自ら宣伝をしているような人の存在を知ってしまうと、教えて貰いたくて仕方がない性格をしているんです。

教えを請いながら相手を信じないソクラテス

この関係性だけをみると、『知りたい』と願っているソクラテスと、それを教えることが出来る教師が出会うだけですから、一方的に教師がソクラテスに物事を教えるだけで終了してしまいそうな気がします。
しかし、ここで注意が必要なのは、ソクラテスは、教師が話す説明を、鵜呑みにはしないという事です。

人が物を教えて貰う場合は、大抵は、人の話を聞くだけで終わってしまいます。 外国ではどうか分かりませんが、日本では、教師の意見を疑うのは失礼とされていたりもします。
例えば、今現在では知らないことに出くわした場合は、wikiなどで調べたりもしますけれども、知らない分野についてwikiで調べた場合、多くの人達が、その事について 疑わずに信じてしまうと思います。
ですが、一度試してほしいのですが、自分がものすごく詳しい事柄についてwikiで調べてみると、自分の知識とは違ったことが書かれていたりするのが見つけられたりもします。

wikiは、その性質上、自分が知らない事柄について書かれているページしか見る機会がない為に、その事を疑うことなく信じがちです。
しかし、ソクラテスが目的としているのは、教師に教えを請うて、その答えを分かった気になったり、盲信することではなく、物事の本質を理解して納得することです。

仮に教師が、物事の本質を知っていると主張していたとしても、本当に知っているのか、それとも知った気になっているのかは、対話をしなければ分かりません。
『自分よりも賢い人物の主張することだから。』と、疑うことを否定して盲信する権威主義は、世界は神様が作ったという話を信じて、見たこともない神を信仰する行為と同じです。
その為、ソクラテスは、自分が疑問に思った事を遠慮なく、質問としてブツケていきますし、教師が矛盾した発言を行うと、その矛盾点について徹底的に討論をします。

ソクラテスメソッド

この様な対話を徹底するために、ソクラテスは、相手の了解をとった上で、対話にルールを設けます。
そのルールというのは、先ず、テーマを決めて、そのテーマに対して主張が有る側が簡潔に主張をして、聞き手は意見を遮ることなく聞いた上で、疑問に思った点について質問をします。
質問をされた側は、短く簡潔な答えで質問に答え、聞き手は、その質問に納得が出来なければ、納得ができない点について質問を続けます。

時には、聞き手が質問の中で、自身の考えを話すことも有るでしょうが、そういった際には、聞き手と主張を話す側が逆転した上で、先ほどと同じ様に、主張を聞いた側は、自身が納得できない点について質問を行います。
質問がなくなると、双方の合意が得られたということになるので、次の議題に移ります。

質問に対して、短く簡潔な答えを要求するのは、詭弁化が多用しがちな、議論のすり替えや、大量の言葉を並べあげて煙に巻くといった行為を防止して、議論を誰が聞いたとしても理解しやすいものにするためです。
例えば、今現在も放送されているかどうかはわからないんですが、『サンデープロジェクト』や『朝まで生テレビ!』と言った番組では、総合司会の田原総一朗さんが、ゲストの政治家に対して、『はい』か『いいえ』かのどちらかで答えてください…
といった感じで、短い言葉で答えを引き出そうとしますよね。 しかし大抵の場合、政治家は、短い言葉では答えずに、長い言葉で議論を煙に巻いて、逃げようとします。

ソクラテスは対話を行う前に、こういった詭弁による逃げをルールによって防いだんです。
これは、目先の討論に勝つために設定したというよりも、真実に近づくために設定したと考えるべきでしょう。
というのも、このルールは教師である相手にだけ課されたのではなくく、自分自身も、このルールに則って対話を進めていくことになる為、自分自身の逃げ道も塞ぐことになるからです。

ただ例外も有り、この主張や質問や返答を短い言葉で簡潔に行うというのは、相手が自分が話している内容を理解できている場合に置いてだけであって、相手が理解が出来ていない場合は、相手の理解を最優先にして、細かい説明を行う事は良しとします。
たとえ簡潔な答えであっても、相手が理解できない程に論理の飛躍が有ったり、難しすぎる言葉や理論を多用するというのは、結局、議論の到達点が、真実を目指すというところから離れてしまい、議論の勝敗を優先してしまうことになるからです。

これらのルールからも、ソクラテス自身は、『議論の勝ち負けそのもの』には興味がなく、純粋に、物事の本質について知りたがっていたことが分かると思います。
この様な対話形式は、『ソクラテスメソッド』や『ソクラテス式問答法』といった名前がつけられて、今現在でも、高度な教育の現場では使われていたりするそうです。

何故 ソクラテスは本よりも対話を重視するのか

以前に、ソクラテスは本を執筆するといった事を行わず、対話を重視したということを言いました。 その為、ソクラテスという人物像は、弟子のプラトンが描いたイメージでしか知ることが出来ないわですが…
何故、ソクラテスが自身の考えを本にまとめて後世に残そうとしなかったのが、この態度から分かると思います。

ソクラテスを傍から見ていた人間は別として、ソクラテス自身は、自分は真理とは程遠い人間だという事を自覚していましたし、知らないが故に、『その答えを知っている』と主張する人間を見つけては、教えを請いに行きました。
つまり、ソクラテスにとって他人に教える事はなにもないわけです。 そして、ソクラテスが求めるアレテーを知る為のアプローチは、自身の推論と、賢者との対話によってしか成し得ないと思っているからです。
本を読むという行動を通して、多くの知識を得ることは可能ですが、本というメディアは一方通行である為、そこに書かれていることが本当の事かどうかは分かりません。

本の中に、主張の矛盾点を見つけたとしても、それを質問することも出来ませんし、作者が文字を通して表現した事を、読み手である自分が正しく読み取れているのかも分かりません。
しかし、対話の場合はどうかというと、相手の主張で理解が出来ない部分は聞き返せばよいですし、矛盾点が見つかれば質問をすればよいわけです。
相手が目の前にいる為に、自分が疑問に思った事は、『聞く』というアクションを行うことで、解決することが出来ます。

また他の利点として、対話の場合は、自分が主張した事に対する反対意見や矛盾点を、相手が指摘してくれる場合もあります。
ソクラテスが望んでいるのは、目の前で行われる議論に勝って、相手を論破することではなく真実を追求することなので、自分が必死に考えた理論が間違っていた場合、それを指摘してくれる人間というのは、これ以上にない味方となるわけです。
しかし、本を読むという行為では、その様な事は起こりません。 その為、何よりも対話を重視し、それを皆にも推奨する為に、対話を促したのでしょう。

自分自身は真理から程遠いと思い、尚且、真実を得るためには、賢いものと対話をする方が良いと思っているような人物は、本なんか書きませんよね。

ということで、前置きが長くなりましたが、次回から、ソクラテスの初期作品を用いて、その考えを勉強していこうと思います。