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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【映画ネタバレ感想】ビハインド・ザ・カーブ  驚異は身近に転がっていることを思い知らされる映画

この作品は、Netflixで公開されているドキュメント映画です。
内容は、地球というのは球体だと教えられているが、実はそれは陰謀で、本当の地球は平面だという『地球平面説』を唱える人達に密着したドキュメンタリー映画です。


目次


簡単な構成

冒頭でも少し書きましたが、この作品は、地球平面説を唱える方たちに注目した作品です。
『地球平面説』を否定するための証拠集めをする映画というよりも、平面説を支持している人達の主張と科学者たちのインタビュー映像を交互に出していくというスタイルで、どちらかの主張を完全に否定するという作りにはなっていません。
これを観た人達が、実際にはどうなんだろうと考える切っ掛けになるような出来となっています。

科学者サイドや平面説サイドのシーンの長さをしっかりと図ったわけではありませんが、7対3ぐらいの割合で、平面説サイドの主張の方が多めに取り上げられていたような気がします。
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画像は公式サイトから引用

ドキュメンタリーにネタバレという概念があるのかどうかはわかりませんが、この映画では、最終的に答えが出ることはありません。
あくまでも、視聴者が独自に考える様な作りとなっています。
そういった意味では、この映画を見たことによって、地球平面説を信じ込んではまり込んでいく人達も少なからずいらっしゃるかもしれませんね。

他人事だと笑えない現象

この作品に登場するメインの人達は、地球平面説というトンデモ科学を信じ込んでいて、今もなお、その勢力を伸ばし続けているわけですが…
実際に作品を観てみると、その現象だけを捉えて馬鹿にすることは出来なかったりります。
というのも、この様な現象は別の分野でも数多く存在し、誰でも、彼らのような沼にはまり込んでしまう危険性があるからです。

例えば、私はPodcast配信を行っていて、詳細情報を掛ける部分にTwitter IDを記載して、告知などはTwitterで行っていたりします。
すると、フォローされる人達がPodcast関連の人達が多くなってきてしまいます。 その中でも気の合いそうな人はこちらもフォローしたりする為、Twitterで知り合う人たちの大半が、Podcastを聴いている人になってしまいます。

Twitterミニブログで、フォローしている人の『つぶやき』がTLに自動で流れてくるわけですが…
当然のことながら、私のTLにはPodcastの話題が大量に流れてくることになります。
常にPodcast関連の情報が流れてくるので、『もしかして、Podcastって凄いメディアなんじゃないか?』とすら思えてきますし、その中だけでウケそうな事も『つぶやく』といった行動をとったりもします。

しかし実際問題として、Podcastは日本ではマイナーですし、聴いてる人を探すほうが難しいメディアです。(車社会のアメリカなどは別)
その中ではやってる事が世間一般ではやってるわけではないし、その狭い世界の話が日常の世界で理解されることも少ない。
そうなると、世間一般では話題が合いづらいので、Twitterでの活動がメインとなり、そこで開催されるオフ会やらにやたらと参加するようにもなったりする。

誤解のないように書いておきますが、この行動そのものが悪いと言っているわけではありません。
ただ人の行動として、人間は『より自分を理解してくれる方』になびきますし、話題が合わない人達とは疎遠になりがちということです。
こうなると、Podcast関連の人脈だけがやたらと強化されることになり、自分の知識も狭い範囲に限定されてしまったりもする。 周りとは余計に話が合わなくなるので、Podcastという特定の範囲に依存するようになってしまう。

これが、Podcastなら問題はないのかもしれません。
しかし、相手がネトウヨと呼ばれる団体だったら? 白人至上主義だったら?
単なる思想的な集団ではなく、実際にテロを行うような団体だったとしたらどうでしょうか。

地球平面説というのも、単純にそれだけを信じているというのであれば、無害だし、勝手にやってくれていれば良いと思います。
でもそれが、テロ組織などのような危険な団体だったとしたらどうなんでしょうか。

狭くなる視野

先程も書きましたが、人間は、自分の考えを拒絶する人よりも受け入れてくれる方に流れます。
そして今のように、SNSなどで簡単に繋がれて、個人がメディアを持って主張を自由に発言できる世の中では、自分と同じ様な意見を持つ人間を見つけることは非常にたやすく出来てしまいます。
自分の生活圏の人達は、自分のことを変人と読んだり馬鹿にしたりしたとしても、遠く離れた場所には自分を理解してくれる人がいる。

こうなると、自分が信じ込んでいただけの説が更に強化され、その説に自身を持つようになってくる。そして、自分の説に反対するものは悪だし、賛成するものは力強い味方と認識するようになる。
味方ができると自信を持ち、更に発信力を強めて同士を探し、自分の説をより強固なものにしていく。 仲間を集めて、自分の説に絶対の自信を持つようになると、次は、『世間一般の奴らは、何故、嘘を信じているんだ?』と思うようになる。
その疑問はそのうち、『何らかの巨大な組織が裏で糸を引いていて、世界中を洗脳している!』という陰謀論へと変わり、自分の仲間意外の全てを否定的な目で見るようになってしまう。

こうなると手遅れで、彼らに対して親切心で物事を教えたとしても、それを嘘だと決めつけて、『君は洗脳されているんだ!』と言いがかりをつけるようになる。
この様な行動を行うと、当然のように周りの人間は離れていき、その人間はますます孤独になり苦しむことになるが、『自分が孤独で苦しんでいるのは、世界を牛耳ってる何者かが洗脳してるからだ!』と陰謀論を掲げ、架空の悪者に敵意を向けることで感情を吐き出すようになる。
考えは更に強固になっていき、仲間意外が信じられなくなり、同じ思想の団体に依存してしまう。 その団体だけが自分を受け入れてくれるので、更に受け入れてもらおうと、自分の持てる力すべてを使って、団体に貢献しようとしてしまう。

手段の目的化

地球平面説を唱えている人達が、なぜ、この様になってしまうのかというと、手段が目的化してしまっているからでしょう。
例えば、日本ではネトウヨやパヨクと呼ばれる人達がいますが、まさに彼らが、手段を目的化している人達と言えます。

日本は民主主義国家なので、基本的には国民が国をどの様に導くのが良いかを考えて、自分の意見を代弁してくれそうな代議士に意見を託して変わりに国会に出て討論してもらうシステムです。
その為、自分が選んだ政治家であったとしても、自分の意見と違うことをすれば文句を言えばいいし、思い通りにならないのであれば、次の選挙ではその議員には投票しなければよいわけです。
大多数の人が選んだ与党が相手であっても、国をもっとよく出来る案があるなら提案すべきだし、与党が推し進める製作が良いと思うのであれば賛成すべきです。

しかし、政治で極端な思想を持つ人は、『与党の悪口をいうやつは悪!』とか、『首相の言ってることだから全部信用できない。』となり、意見がおかしいから批判するのではなく、批判をする為に相手の主張を曲解したりします。
そして、この人達も平面説の人達と同様に、SNSなどで過激な意見を披露しては、同じ様な主張の人達とつながって、ドンドン頑なになっていってしまいます。

内ゲバ

このドキュメンタリーで一番面白いのが、単純に『地球平面説』vs『科学者』とはなっていないということでうs.
この映画の主人公的な位置づけの人がいるのですが、その人は元々はネットで地球平面説を知って、『そんなはずないだろw』と思ってドンドンと調べていくうちに、反論が見つからなくなって信じた人なんですが…
この人物よりも前に、別のアーティストが地球平面説を支持する内容を積極的に発信していました。

テレビなどは、最初はこのアーティストに取材などを申し込んでいたそうなんですが、芸術家はプライドが高いのか、それらの誘いに乗りません。
そこで、積極的にテレビなどに出演する今回の主人公があちこちから取材を受ける形になり、地球平面説を信じる人達から信頼を集め、リーダー的な存在になるんですが…
それより前から活動していたアーティストは、その状態に納得できません。

嫉妬なのか、別の感情なのか走りませんが、映画の主人公に対して『あいつはCIAのエージェントだ! あいつに近づくと洗脳されるぞ!』といった感じで、他にも罵詈雑言を浴びせまくります。
地球平面説の信者に対して科学者は、そこまで喧嘩腰ではないですし、向こうが質問してきたら真摯に答えるという態度を示す一方で、同じ地球兵面接を信じる人達から容赦ない攻撃にさらされて、この世を裏で操っている人物だと言われてしまう始末。
地球平面説を広めている主人公は、この世の陰謀を暴いて科学者たちが言ってることが嘘だと証明したいとがんばりますが、その主人公そのものが陰謀の中心人物で、世界を影で操っている組織の一員だといって、地球平面説の人達から責められる・・・

この状態に主人公は、『彼らは、こちらが真摯に向き合ってしっかりと説明しても、全て否定して聞く耳を持たない…』と悲しい顔をするが、それと全く同じセリフを、科学者が主人公に対して思っている点が非常に面白い。
認知がずれると、まともな人でも世界の捉え方が変わってしまうという一例なんでしょうね。

地球兵面接に限らず、似たようなことって周りにたくさん転がっているので(マルチの勧誘など)、その対策のためにも、見れる環境にある人は見たほうが良い作品だと思いました。

【映画 ネタバレ感想】カーズ2 & クロスロード カーズシリーズはロッキーだった

ディズニーデラックスに入ったのを機にカーズシリーズを制覇してみました。
1作目については前に感想を書きましたので、今回は、続きとなる『2』と『クロスロード』についての感想を書いていきます。
ネタバレ前回で書いていきますので、ネタガレが気になる方は、観てから読まれることをオススメします。
画像は公式サイトからの引用


カーズについてのネタバレ感想はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次


カーズ2の簡単なあらすじ

自分一人で何でも出来ると思い込んでいたカーズは、周りのことを考えずに自分勝手に行動し、皆から愛想を尽かされて、人気や名声は有るにもかかわらず孤独な生き方をしていたのですが…
トラブルによって知り合った『ラジエーター・スプリングス』の住民と心の交友を通じて、人間性・・・というか車性を取り戻し、周りと強調して一緒に生きていくことを学んだライトニング・マックィーンは、拠点を『ラジエタースプリングス』に移します。

昔は一人でやっていたレースも、ラジエタース・プリングスの皆と協力することで勝利を重ね、上手くやっていたと思っていたが、そんなマックイーンに取って気になるのが、クレーン車のメーター。
メーターは注意散漫で、身体はサビだらけで一言で言うとダサい。 マックイーンに取ってメーターは気の合う仲間だし、彼の性格は気に入っているので、ラジエター・スプリングスにいる時は、彼の存在はそれ程気にならない。
何をしでかすかわからない危なっかしさは有るが、マックイーンはその部分も含め的にっているので、彼と遊んだり話たりする事は楽しく、街では問題なく過ごしている。

しかし、レース会場や前夜祭の席では、事情が変わってくる。
周りはスタイリッシュな車ばかりだし、出席している全員が場をわきまえている。

だがメーターは、ラジエタース・プリングスにいる時と同じ振る舞いをし、その場に合わせた振る舞いが出来ない。
身体もサビだらけで、とても格好が良いともいえず、振る舞いと合わせて笑いものになっている。
マックィーンはメーターを気に入ってはいるが、場をわきまえた態度をとって欲しいというが、メーターにはそれが理解できない。

その後トラブルが有り、マックイーンはメーターと喧嘩をしてしまい、メーターはレースの途中でラジエタースプリングスに帰ることに… なったはずが、犯罪者組織とスパイのゴタゴタに巻き込まれ、メーター自身がスパイだと思われてしまう。
犯罪者組織からは追われ、スパイからは仲間だと思われる。 メーターは自分がスパイではないことを必死に説得するけれども、素性を隠すのがスパイという事で、彼の言っている真実は巧妙な嘘だと思われて、凄腕のエージェントと勘違いされてしまう。
そのメーターに、事件に関わる様々な質問をされるが、メーターはレッカー車ということで車や部品の知識に長けていて本業のスパイを圧倒しているので、その質問に答えられてしまい、ますます誤解が解けない。

最終的にはメーターが機転を利かして事件を解決。 マックイーンとも再開して仲直りするというストーリー…

簡単な感想

この物語のメッセージとしては、普段、他人に迷惑をかける様な性格の人間だったとしても、状況が変われば、頼もしい仲間へと変貌するという話なんでしょう。
個性を大切にするというのでしょうか。 場の空気を考えないであるとか落ち着きが無いという行為は社会性がない行為と思われて、社会によって強制されがちです。
しかしこの物語では、その性格も環境によっては有利になるし武器にもなるという話で、同じピクサーでいうところの『ファインディング・ドリー』に通ずる話のように思われます。

物語にはメッセージ性が込められていて、その物語も、今のようにダイバーシティが叫ばれている世の中では大切なものだとは思いますが…
正直いうと、この話はカーズじゃなくても良かったような気がします。 今回の主役は完全にメーターで、ライトニング・マックィーンはちょい役程度しか出てきません。
レースに出場しているマックイーンもメーター意外の住民たちとは上手くやっているので、メーター抜きの方がレースに参加する上ではスムーズな感じだったのでしょう。

所々でマックイーンが、『少し言い過ぎたかな…』と寂しそうな顔をしますが、場を乱さないメーターがいなくてレース自体はスムーズに行き過ぎているので、彼が抜けた痛さというのもそれ程、感じられない。
物語はレースを通じての進むわけではなく、メインの物語がメーターが絡むスパイ物になっている為、『カーズ2』じゃなくてスピンオフでやれよって感じも少ししました。

散々な書きようですが、一つの作品として面白いのか面白くないのかでいえば、面白い作品です。
ただ、この作品を飛ばしたとしても、最終作品である『クロスロード』には何の問題もないので、全体としてのストーリーを置いたいだけの人は、飛ばしても問題ない作品でしょう。

カーズ クロスロードの簡単なあらすじ

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いつものようにレースに出場し、優勝を掻っ攫っていく主人公のライトニング・マックィーン。
勝負一筋で、勝利意外は目もくれないという感じではなく、ライバルたちと無駄口をたたきながら仲良さそうにトップ争いをするも、見たこともない新人にライバルと共にごぼう抜きされるマックイーン達。
速さの秘密を探ってみると、単純なテクニックなどではなく、スピードを出すために計算されつくされた設計によって生み出された新世代の車で、どう考えても旧世代のマックイーン達にはかなわない事が分かってくる。

しかし、諦めの悪いマックイーンは自分が時代遅れだということを認められずに、『自分はまだやれる!』と新人たちに勝つためのトレーニングを行おうとする。
だが、最新のトレーニングにはカネがかかる・・・ ラジエタースプリングスの皆とスポンサーを交えて話し合った結果、皆が、マックイーンの『まだ頑張りたい。』という意見を尊重し、応援。
スポンサーから、『設備が用意できたから、この場所に来て!』と言われたところに行ってみると、広々とした最新設備が!

そして、感動しているマックイーンの元にスポンサーが訪れる。 マックイーンはお礼とともに、『こんな設備どうしたんですか?』と聴いた所、スポンサーは、経営している会社ごと新たなスポンサーに売却したことを告げる。
自分たちはもう歳だとして、次の世代に全てを託したのでした。 そして新たに始まる新生活。 気を取り直してトレーニングをしようとするも、自分ひとりではやらせてもらえず、自分よりも遥かに若いトレーナーを付けられる。
そのトレーナーはマックイーンのファンだというが、マックイーンの扱いがどう見てもお爺ちゃん…

昔のマックイーンならブチ切れていたところだが、カーズ1作目で協調性を学んだマックイーンは、渋々、若いトレーナーの指示に従うも、あまりのお爺ちゃん的な扱いについにブチ切れて、自分でトレーニングをやると言い出す。
だが、新たなスポンサーは、マックイーンがレースで負けることで商品価値が下がることを気にして、マックイーンの意見を聞かない。 そこで、『負けたら何でも言うことを聞くから、最後のチャンスをくれ』とお願い。
マックイーンは負けると思っていたスポンサーは、これを承諾。 しかし、トレーニングにはトレーナーを連れて行けと条件を出し、マックイーンとトレーナーのクルーズとのトレーニングの日々が始まる。

クロスロードの感想

この物語を一言で表すのであれば、『世代交代』になるでしょう。

カーズの1作目が、キングというチャンピョンの時代からライトニング・マックィーンの新時代へと突入したのに対し、クロスロードでは、マックイーンが過去の人として扱われていく作品です。
新しい技術によって、どれだけテクニックがあっても理論的に勝てなくなり、レースに出ても醜態を晒してしまう…
自分では、もっと上手く出来る気でいるのにも関わらず、体の方がついていかない。

精神力を奮い立たせて頑張れば頑張るほどに、『性能不足』という現実を突きつけられる。
諦めかけるも、性能で駄目ならそれ以外でと、1作目で師匠的な役割で登場したドッグハドソンと縁のある先輩たちの知恵を借りに行く。

ライバル的な存在がいた方が張り合いがあるからと、クルーズと共にトレーニングを頑張るマックイーン。
出された課題を徐々にこなしていき、最期は、ハンデを付けたクルーズに3週で追いつくという課題のみとなり、最終日にそれを実現しかけて最期に一瞬抜くも、クルーズに再び抜き返される。

その時に、マックイーンの心の中に何かが折れたのか、それとも吹っ切れたのか、マックイーンは最期のレースで、クルーズにバトンタッチする。
この部分の演出は、正直、涙なくしては観れませんでした。。

1作目で、あれほど傲慢だったマックイーンが、最終作では、自分の性能不足を認めた上で、今まで一緒にトレーニングしてきたクルーズの才能を見出す。
そして、新世代の車であるクルーズに晴れ舞台を用意してやる。

マックイーンの精神的な成長もそうですが、時代の入れ替わりという、あるものから観れば悲しい出来事だが、別の観点から観ると新たな門出となる出来事がきれいに描かれていて、感動してしまいました。
というか、映像を思い出しながらこれを書いている現在も、思い出し泣きをしてしまいそうです。

この『カーズ』という作品。 シリーズ通して観てみて思ったのが、『これ、ロッキーやん!』ってこと。
1作目のレースでは負けたものの、その負け方が評価されて物凄く名前を売ることに成功し、2作目では、連戦連勝で勢いに乗るも、身内兼、親友とトラブったり仲直りしたりして精神的に成長し…
最終作では、敵が最先端のテクノロジーを駆使したトレーニングを行う一方で、マックイーンは泥だらけになりながら伝統的な方法でトレーニングを行い、最終的には、自分は伝説的なレーシングカーという状態を維持しつつも、自分自身の限界を悟って後継者を育てる。。

唯一の違いは、ロッキーは育てた後継者に裏切られますが、カーズではそれがないことぐらい。だからこそ、子供でも観やすい作品に仕上がってるといえるかもしれません。
だからといって子供向けということではなく、引退云々や自分の限界といった部分では、大人だからこそ胸を打たれて感動できるシーンだと思います。

私個人の感想としては、できるだけ多くの人に見て欲しいシリーズではありますが、時間がないという人は、『1』と『クロスロード』だけでも良いので、是非、観てもらいたいですね。

【映画 ネタバレ感想】 カーズ 人は変われるという事を教わった物語

先日のことですが、ディズニーデラックスという動画配信サービスに加入したのをきっかけに、カーズを観ました。
その作品の出来がかなり素晴らしかったので、今回はその感想をネタバレ込で書いていこうと思います。
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ディズニー公式から引用



目次



簡単なあらすじ

カーズの世界というのは、『きかんしゃトーマス』の車版の様な感じで、車自体に意識や人格のようなものがあって、生活をしているという世界観です。
車という事で、レースでトップになる事が最高の栄養で、有名なレースに出ることが史上最高の喜び。
しかし、全ての車がレースを目指しているわけでもなく、田舎町でカー用品を売りながら静かに暮らしている車など、レースと関係ない車達も沢山いる。

この世界で繰り広げられる物語。

主人公は、ルーキーとして頭角を現して人気ものになった『ライトニング・マックィーン』という車。
自分が持つ才能に自惚れて、他人を見下し、チームメンバーの指示も聞かずに突っ走る為に、レースでは結果を出して人気は得るけれども、身内からは愛想を尽かされている車です。
物語冒頭では、スタッフからピットインの支持が出ているにも関わらず、それを無視してレースを続けた結果、ブッチギリでトップの状態に躍り出るも、タイヤがもたずにパンクしてしまい、3台同着になってしまう。

優勝車が決まらないので、レース場を移してその3台だけで再びレースが行われることになるのだけれども、マックイーンの暴走にスタッフがついていけず、全員がやめる。
その状態に追い込まれても、『才能のある自分一人が頑張れば優勝できるさ』と自惚れ、特に気にする様子もなく、一番乗りで次のコースに行って練習する為に、移動用のトレーラーに無理をいう。

マックイーンの態度にも愛想を尽かさず、スタッフをやめること無く一緒にいてくれるトレーラーに対しても辛く当たり、半分居眠り運転をした結果、アクシデントでマックイーンが砂漠の真ん中に置き去りにされる。
スタッフのトレーラーを必死に探し、似たような雰囲気のトレーラーを見つけて追いかけるも、追いついてみると車違い。 再び高速道路に戻ろうとするも、焦ってスピード違反をしてしまい、警官に追われることに。
パトカーに追われながら街らしきところに到着するも、マックイーンはスピードを緩めないので街の設備を壊しまくり。

最終的に捕まり、裁判の結果、壊した道路を直せという判決が下り、最初は嫌がりながらも道路を直すことに。
最初は、街をメチャクチャにしたマックイーンと住民との間に結構な精神的な溝があるも、修復作業を続けていくうちに信頼関係が構築されて、最終的には大切な仲間だと思われるようになる。
その頃には、マックイーンの『自分1台だけで何でも出来る。』という自惚れも改善され、仲間の重要性なども理解するようになる。

道路を修理し、なんとかレース会場にたどり着いたマックイーンは、町の人達と協力してレースに出場し、トップでゴールできる位置をキープする。
しかし2位争いで、ルール軽視の勝ちにしか興味のない車がベテランの車を意図的にクラッシュさせてしまう。
普段なら、そのまま無視してゴールするマックイーンだが、その行為を見逃せず…

色んな要素を詰め込んだ計算されたストーリー

この物語の大筋は、先程書いた『簡単なあらすじ』通りなんですが、それ以外にもいろいろなテーマが含まれています。
主人公のマックイーンが迷い込んだ『ラジエーター・スプリングス』という街は、昔は旅の中継地として栄えていた街なのですが、そのすぐ近くを高速道路が開通してしまう。
近くに高速ができた事によって交通も活発になり、中継地点の『ラジエーター・スプリングス』も活気にあふれるようになるかと思いきや…
蓋を開けてみれば、一度、高速道路に乗った車は高速を降りること無く、しかも高速道路は地形を切り開いて作った谷のような場所に存在するため、『ラジエーター・スプリングス』は忘れられた街となってしまう。

高速道路が出来る前は、それなりに交通量があり活気もあった街も、マックイーンの様な迷子の車がたまにやってくるだけの街になり、住民自体の心も、街のように閉じていっている状態に。
この辺りの展開は、経済発展は人に良い効果をもたらすだけではない事が描けていて、考えさせられます。

客の来ない商店は、どうせ客が来ないんだからと適当に運営され、更に寂れっぷりを加速しているけれども、マックイーンが道路を直したことで住民たちの意識が少し変わり、道路に合わせて店のリフォームなどをしだす。
マックイーンは、町の住人にとっては犯罪者でしか無いわけですが、それでも、町の外からやってきた新しい風には変わりなく、街が忘れられると共に効率いてしまった住民たちの心も、その風に当てられて少しづつ解けていく。

マックイーンも同じ様に、今まではレースで走りを見せるだけで脚光を浴びてスターに成れたのに対し、『ラジエーター・スプリングス』の人達は情報に疎いせいか、自分のことを知らない。
自分を特別扱いせず、一般の車と同じようにしか扱わない住民たちと暮らしていくうちに、『自分は特別な存在だ』という自惚れも徐々になくなり、何者でもない町の人達と同じレベルで付き合うようになる。
マックイーンは、脚光を浴びたことで増長して嫌なヤツになっていたけれども、素の状態だと憎めない奴だし寂しがりやだというのは、『ラジエーター・スプリングス』という自分のことを全く知らない人達の中に放り込まれることによって明らかになっていく。

人の性格は環境によっても人によっても変わるって事を上手く描いているし、人の幸せがチヤホヤされる事だけでは無いことも分かりやすく伝えられている。

子供ではなく、むしろ大人が観るべき映画

カーズは3Dアニメで見た目も可愛く、子供向けのディズニー映画と思われるかもしれませんが、テーマが重く、むしろ大人に観て欲しい映画だと思いました。
この物語では、最終的には車3台によるレースが行われているのですが、1台はマックイーンで、もう1台は同年代のライバルで、最期の1台はマックイーンが尊敬するベテランのキングという車です。
マックイーンは、基本的には横柄な物言いをしていやなやつですが、キングは尊敬していて、彼の前でだけは腰が低く敬意を払っていますが、ライバルの車はそれすらしない自分大好き車です。

結果から書くと、キングはクラッシュさせられて再起不能になるわけですが、『ラジエーター・スプリングス』での交流で車同士のつながりの大切さを知ったマックイーンは、レースの勝利を放棄して、クラッシュして動けないキングの元へ走り寄ります。
そのスキにライバルは1位でゴールしてしまうのですが、マックイーンは順位のことなど全く考えず、キングを押して一緒にゴールし、自身は最下位となります。

この世界では、レースの勝利が全てであって、世界中が注目するレースなら尚の事、レース結果を気にするのですが、会場の観客やマスコミ達は、ルールの範囲内だけれども卑劣にもクラッシュを仕掛け、1位を取った車を批判し、最下位のマックイーンを褒め称えます。
マックイーンは当初、レースでトップになり、売れない頃から自分を支えてはくれたけれどもダサいスポンサーに嫌気が差していて、もっと良いスポンサーと契約したいと思い、その為にもトップの座を得たかったのですが、再開になったことによって、自分が一番憧れていたスポンサーから声がかかります。
しかしマックイーンは、このスポンサーの誘いを蹴ってしまう。  仲間の大切さを知ったマックイーンは、今まで自分を支えてくれた人達を尊重し、スポンサーを変えずにこれからも一緒に頑張っていくと言います。

資本主義的な成功やアメリカンドリーム的な考え方であれば、スポンサーを乗り換えても良さそうなのに、そうはしない。
そしてマックイーンは、自分を変えてくれた『ラジエーター・スプリングス』にベースを移し、その街の宣伝の為にも頑張るというラスト。

クラッシュからのキングを押しての同時ゴールは、涙なしでは観られませんでした。
私自身は、ピクサー作品は泣けるいい作品が多いとは分かっていたのですが、なぜか、今まではカーズを無意識に避けていたのですが、観れてよかったと思いました。
ディズニーデラックスならスピンオフ含めてすべて見れると思いますし、入会から31日は無料っぽいので、興味の有る方は観てみてください。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第54回 ソフィストの誕生 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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アレテーとは何か

前回は、徳とか、アレテーと呼ばれる概念がどのようなものかについて、少し説明していきました。
簡単に振り返ると、アレテーとは、『そのもの』を『そのもの』足らしめているモノであったり、卓越性といったものの事です。
アレテーは『そのもの』の存在理由であり、アレテーが優れていれば優れている程、『そのもの』の価値は高くなるといったものです。

抽象的過ぎるので、具体的な例を出すと…
例えば、鳥が持つ翼のアレテーは、空を飛ぶ事になります。 この、『空を飛ぶ』という能力は、他のものに比べて卓越した能力で、より自由に、早く、高く、空を飛ぶ事が出来る翼は、優れた翼ということになります。
つまり、空を飛ぶという能力が高ければ高いほど、翼は優れた翼ということになります。 逆に、空をとべない翼というのは、その存在を意味の無いものにしてしまいます。

この他には、人間が就く職業である建築家のアレテーは、『建物を作る事』です。 これも同じ様に、建物を作る能力が高ければ高い程、その建築家は優れた建築家ということになります。
他の人よりも素早く建築出来て、建てられた建物のデザインは素晴らしく、耐久力にも優れた建物を作れる建築家は優れた建築家といえますよね。
建築家ではない一般人との差は、建物を建てられるかという事ですし、建築家という職業が存在している目的としては、建物を建てる為に存在しています。

もし人間の文明に、建物という概念がなかったとしたら、建築家といった職業も存在しないでしょう。
この様な感じで、アレテーとは、『そのもの』を『そのもの』足らしめている存在であり、『そのもの』が存在している理由であり、他のものと比べて『そのもの』が優れている点でもあります。

これから勉強していくソクラテスのテーマは、『人間のアレテーとは何なのか』というものです。

人間のアレテーとは何か

先程の説明を、そのまま人間に当てはめて考えてみると…
人間のアレテーとは、人間を人間足らしめている存在であり、人間が他のものと比べて卓越している存在であり、その存在が優れていれば優れている程、人間が優れたものになる存在であり…
その存在は、人間が存在している理由となるものです。

前回で紹介したプロメテウスの神話では、人間は神々から卓越した能力を授からなかったので、代わりに、プロメテウスが神々から盗み出した知恵と道具を。ゼウスから慎みと戒めを授かったとされているのですが…
他のものよりも卓越した慎みを持つ事が優れた事になるのかとか、戒めという存在が、人間を人間足らしめているものと言われても、いまいち納得ができません。

この中では、プロメテウスが神から盗んでまで与えてくれた知恵というのは、何となく当てはまりそうな気もします。
道具を使う知恵というのは、他の動物と比べて人間が卓越している部分でもありますし、知恵や知識を多く持っていれば持っている程、優れた人間ともいえなくはありません。
賢い人間というのは、そうでない人間と比べて良い存在のようにも思えますし、周りの人間からの尊敬も得られるかもしれません。

ただ、知恵や知識だけが人間の存在理由かと言われてしまうと、疑問が残ってしまいます。

というのも、知恵や知識を持っていたとしても、それを悪用して自分の為だけに使うような人間がいたとしても、その人物は他の人から優れた人間とは認められる事はないでしょう。
いわゆる、悪知恵が働くような人については、その知識が優れていたとしても、人間として優れているとは思われないでしょうし、周りの人たちからの尊敬も得られないでしょう。
悪知恵が働けば働く程、周りの人間からは『嫌な奴』と思われるでしょうし、そんな人物が良い存在なのかといえば、良いとは言えないでしょう。

人々が何故 アレテーを求めたのか

この様な感じで、どの様な人間が優れているのかという、人間の徳・アレテーと呼ばれるものは、既に何となく理解出来ているように思える存在なのですが、いざ、実際に考えてみると、良くわからない存在だったりします。
ですが、前にソクラテスが生きた時代の解説をした際にも言いましたが、この時代というのは、人々から、アレテーが強く求められた時代でも有りました。
何故かというと、当時のアテナイ参政権を持つ市民が直接、政治に参加して意見を言い合う直接民主制を採用していた為です。

この制度の場合、正しいと思われる意見を主張して、自分なら、国を正しい方向へと導けるということを皆に分からせて、自分が優れた人間であることを証明できれば、成り上がることが出来ます。
というのも、この当時の役人の重用なポストというのは抽選で決まっていた上に、再選は出来ない仕組みになっていた為、国の重用ポストは、ほぼ、素人ばかりです。
その状態で、参政権を持つ市民からの信頼を得ることができれば、国の要職についている人達は自分の意見に耳を傾けるてくれるようになるでしょう。

もし、自分の意見が採用されて、国に対する功績が認められれば、将軍になれる可能性も生まれます。
この将軍職は、抽選の様なランダム選出ではなく、選挙によって選ばれる上に再選も可能なので、この職に当選することで、ずっと国の中心で働くことが可能になります。
アレテーとは、それを高める事で、他者よりも卓越した優れた存在になれるものなので、一部の市民からは、アレテーを得ることこそが成功への道と思われていた為に、アレテーをもたらしてくれる人が求められました。

求められるアレテーの教師 ソフィスト

いつの時代でもそうなのですが、需要があれば供給が生まれるもので…
アレテー・徳。 これ以降は、アレテーで統一しようと思いますが、アレテーを求める人に対して、金銭を受け取ってアレテーを教える様な人々が出てきます。
それが、ソフィストと呼ばれる存在です。

この、ソフィストと呼ばれる職業の人達なのですが、一部の人達からは支持を受けて尊敬もされるのですが、それ以外の人達からは、煙たがられる存在となっています。
何故かというと、圧倒的に胡散臭いからです。
ソフィストというのをネットなどで調べてもらえれば分かるのですが、意味としては、アレテーを教える教師としてよりも、詭弁家としての意味合いで解説されていたりします。

胡散臭いソフィスト

つまり、一般的な解釈としては、ソフィストの元で勉強をしたとしても、アレテーを得て優れた人間になるわけではなく、口喧嘩が上手くなるだけだという認識だったようです。
このソフィスト達を、わかりやすく現代で置き換えて言うのであれば… 意識高い系の人達が信仰している様な、炎上芸人といえば、分かりやすいでしょうかね…
主にネットで活動していて、誤解しやすい言い回しで過激な事を言って注目を集めて、フォロワーなどを増やした上で、会員制サロンを開いて参加料を稼いでいるような人達っていますよね。

あの人達は、物凄く雑な言い方をすると、楽してお金を稼げる裏技のようなものをチラつかせる事で、信者を集めてお金を吸い上げています。
そのお金で優雅な暮らしをして、それを更にネットにアップロードする事で、自分が主張する『金持ちになる裏技』という虚構に対して、信憑性を与えていって、信者をより、のめり込ませたり、新たな信者を獲得する為の餌にしますよね。
この人達は、ごく一部の人達からは圧倒的な支持を得ていますし、支持を得ているから、その信者から金を巻き上げることが出来るわけですが、一般的な人達からは、冷ややかな目で見られていたりしますよね。
また、このカラクリを知る人達からは、否定的な目で見られていたりもします。

これはソフィストも同じで、ソフィストが教えるのは、人間の存在理由であるとか、それを知る事で人間としてステップアップできるような事柄ではなく、目先の議論に勝つ方法だと思われて来ました。
そして実際に、そういう側面もあって、ソフィストは議論に勝つための詭弁のテクニックを教えていたんです。
では何故ソフィストは、この様な詭弁を教えるようになったのかというと、先程の需要と供給ではありませんが、そういう技術が求められたからです。

ソフィストの弟子になろうとする人は、立派な人間になって国の中心で働きたいだとか、優れた人になって、皆から尊敬を得たいという思いを持つ人達なので、自分の優秀さを皆に知らしめようとします。
自分の優秀さを皆に知らしめる為には、アレテーを探求し、自分自身を磨き続けることで、いずれ、周りの人に気づいてもらうという方法もありますが、これは気が遠くなる作業です。
もっと簡単で、早く皆から認めて貰う方法として、演説をしたり、討論で相手を打ち負かすといった即効性の有る方法が好まれて、この攻略法が求められたんです。

求められる詭弁の技術

優れた人間である事と、屁理屈を捏ねて口喧嘩に勝つということは、全く違うようにも思えますが… 何故、この様な詭弁の技術が求められたのかを、現代の裁判に置き換えて考えてみましょう。
ある犯罪に関わる裁判が行われた際に、有罪か無罪か、また有罪の場合は、どれぐらいの刑罰にすべきかということについて、弁護人と検事とで舌戦が繰り広げられますよね。
裁判は、映画やテレビでも頻繁に取り扱われるテーマですが、大抵の場合、検事と弁護士は敵対していますし、自分の主張が通るか通らないかを、勝ち負けで表現したりしますよね。

映画やドラマなどの創作でも現実の世界でも、酷い場合だと、検事側が証拠を握りつぶしたり、逆に捏造をしたりもしますよね。
この様な論争になった際に必要になってくるのが、詭弁と呼ばれるテクニックなんです。
相手の言葉尻を捕まえたり、議論を誘導したり、タイミングよく打ち切ったりして、裁判官の印象を操作することによって、自分に有利な結果を引き出すことができれば、相手を言い負かすことが出来て、自分の勝利に繋がります。

相手を言い負かすことが出来るということは、言い換えれば、自分の意見を正当化出来るという事になるわけですから、この様な論争に置いては、議論のテクニックというのがかなり重要になってくるんです。
そして勝利を重ねれば重ねる程、優秀な弁護士であったり検事として重宝されるわけですから、結果としては、実際の真実がどうであろうと、優秀であることを証明したり、尊敬を集めるという最終目標は達成できることになります。

これは、古代ギリシャの場合も同じです。 古代ギリシャで、何故、アレテーというものが重要視されて、それを追い求める人が増えたのかを振り返ると、アレテーを追い求める人の最終目標は、成り上がる事でしたよね。
自分の主張の正当性を証明して、政治の場で自分の意見を押し通す。 そういった実績を重ねることで、いずれは、国の中心で重宝されることが目標でした。
当時の人は、これを実現する為には、『手に入れることで、自身が優れた人間になれる』と言われているアレテーを、学ぶ必要があると考えたんでしたよね。

ですが、最終目的が、国の中で成り上がる事で有るのなら、自分自身が本当に優れた人物になる必要はないんです。相手の主張を論破して、自分が相手よりも優れていることを演出するだけで良いんです。
目的が成り上がる事で、手段が相手を論破する事であるならば、その手段を手っ取り早く身に着ける為に何が必要なのかというと、詭弁のテクニックということになります。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第53回 民衆にアレテーを渇望させた古代ギリシャの民主制 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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モノが生み出されるには目的がある

人間が生み出すものに、なんの意味もなく、ただ存在しているだけのものというのは存在しません。一見、無意味のように見えたとしても、それを生み出した人間は、何らかの意図をもって生み出しているからです。
人間は、何か実現したい目的がある時に、それを叶える為の道具を生み出そうとします。 その様にして生まれたものは、生み出された目的というものが存在し、目的を達成する為の能力を持っています。
車の例で言うなら、疲れずに、早く遠くに行きたいという目的で生み出されているので、車には、その様な能力が備わっていますし、そういうものを車と呼びます。

この様に、対象が人が作り出した道具などの場合は、アレテーというものは分かりやすいのですが、では、生き物の場合はどうなのでしょうか。
生き物というのは、人間が生み出したものではありませんし、一見して分かりにくいですよね。
では、古代ギリシャでは、生き物のアレテーはどの様に考えられていたのかを、プロメテウスの神話を使って話していきたいと思います。

プロメテウスとエピメテウス

ちなみにこの時代の神話ですが、古代ギリシャでは文字で書き残すだけでなく、語り継いだり、詩人が作品の中で取り上げたりと、様々な方法で伝わるのですが、伝える人によっては独自の解釈を付け加える人もいたようで…
同じ神話でも、何パターンか有るようです。 今回話すのは、プラトンが書いたプロタゴラスという対話篇に出てくる物語をベースにして、話していきます。

プロメテウスには、エピメテウスという弟がいて、この二人は、ティーターンという巨人族です。他の資料によると、プロメテウスという名前には、考えてから行動をするという意味が有り、エピメテウスという名前には、考えるより先に行動するという意味があるようです。
大昔の地球には、神様しか存在していなかった為、死ぬという概念も無かったようですが、この兄弟は、神々に『死すべき物を作れ』つまり、命を持って生まれて死んで終わるモノ。生物を作れという命令を受けて、材料を渡されます。
この材料は二種類あって、体をつくる為の粘土のような素材と、動物に特別な力を与える部品の二種類有ると思ってください。

二人は、兄のプロメテウスの方が指示を出して、エピメテウスの方が実際に作業をするという方法で、作業を進めていったそうなのですが、弟のエピメテウスが、自分の力だけで作りたいと申し出て、弟が一人で作る事になります。
この時の生物の制作方法ですが、粘土のような素材で生物の体を作り、その体に対して、特別な力を与える部品を取り付けるという様に理解してもらうと良いと思います。 
例えば、体を形作った後に、鋭い牙という部品んを与えることで、それが特徴や武器になって、狼という生物が出来たり… 体を作った後に、翼という部品を取り付けて鳥という生物を作るといった具合です。
聖闘士星矢のフィギアでいうと、人間パーツにクロスを付けてくような感じですかね。

まず、体というベースを作り、それに対して特徴を与える事で、個性を持った生物を作り出す。 生物にとってのアレテーとは、この特徴を与えるパーツだと考えてもらって良いと思います。
この様にして、ある動物には武器を与え、別の動物には逃げる為の早い足や翼を与え、生物が絶滅することなく、地球全体で食物連鎖によるバランスが取れるように、生物を作っていきます。
この他にも、コロコロ変わる自然環境位対応できるようにも対処し、生物が全滅しないように気をつけながら製作を行っていきました。

神から何の特徴も与えられなかった人間

最初のうちは、兄の指示を仰いで制作していたエピメテウスですが、途中から一人で作ったことで、材料の配分を間違えてしまって、体を作る素材が余っている状態で、特徴を与えるための部品を使い切ってしまいます。
考えた上で行動する兄の助けを断って、考える前に行動してしまうエピメテウスが一人で作った事で、材料の配分がメチャクチャになってしまったんですね。
こうして生まれたのが、生物として何の特徴も持たない、『人間』という生き物なのですが、何の特徴も武器もない状態で大地に放り出してしまうと、おそらく、生き残ることが出来ません。

1から作り直すにも、納期が迫っている状況ではそれも出来ない。 エピメテウスは兄のプロメテウスに相談し、考えてから行動をするプロメテウスは、解決方法を思いつきます。
それが、鍛冶職人の神であるヘパへイトスから炎を、そして、ゼウスの頭から生まれたといわれている知識の象徴のアテナから、炎を使いこなす知恵を盗み出し、人間に与えます。
動物は炎を恐れますが、それを使いこなす知識を持つ人間は、炎によって安全圏を作り出すことが出来る様になり、人間は生存できる可能性を得たわけですが、神々から道具や知恵を盗み出したことがバレてしまい、プロメテウスは窃盗の罪で捕まってしまいます。

プロタゴラスに書かれている神話はここまでなのですが、この続きとしては、プロメテウスは生きながらにして肝臓を鷲に食べられ続けるという刑を受け、それは、ゼウスと人間との間の子であるヘラクレスが助けに来るまで続きました。
エピメテウスの方はというと、ゼウスがヘパへイトスに命じて作らせた、人類最初の女性であるパンドラが、ゼウスによって花嫁として送られます。
これでは、何の刑罰にもなってないじゃないかと思われるかもしれませんが… パンドラには、絶対に開けてはいけないと言われている箱が託されていて、その状態で嫁に出されるんです。

『絶対に開けてはならない』と言われた箱を開けない人間はいないので、好奇心に負けてパンドラは神々から託された箱を開けてしまうのですが、それによって、箱から災いなど悪いとされているものが飛び出してしまい、この世は住みにくくなります。
それを観て驚いたパンドラは、慌てて箱を閉めるのですが、締めた箱の中から声が聞こえてきて、希望だけは箱の中に残ったままになった。
この事件を境に、地上は災害などが頻繁に起こる住みにくい土地となり、エピメテウスは土地をその様に変えた張本人と、暮らしにくい土地で暮らしていく事になるんです。

楽園を追放される人類

余談になりますが、この様に、女性が災難を運んでくるケースを考えてみると、旧約聖書も同じだったりしますよね。
旧約聖書でも、人類は最初は何も働かなくても良いエデンに暮らしていたのに、蛇にそそのかされたイブによって知恵の実を食べてしまい、結果として楽園から追放されて、苦しい生活を余儀なくされます。
何故、この様になっているのかはよくわからないのですが、古代や中世の世界では、女性の存在が軽視されて下に見られていたというのも、原因の一つとして有るのかもしれませんし…

実際に女性が災いを運んでくると行ったケースも多々あったからかもしれません。
例えばですが、男性だけで趣味のサークルなどを作って、平和的に活動していたところに、女性が一人加入すると、それによってサークルの和が乱れて、解散に追い込まれてしまったりするケースってありますよね。
サークルクラッシュと呼ぶようですが、この現象は、老人ホームなどでも起こるようです。 原因を詳しく観ていくと、女性だけに原因が有るわけでも無く、男女双方の欲望の結果なのですが、一見すると、女性が災いを運んできたようにも思えますよね。

プロメテウスの話に戻すと、プロメテウスの行動によって、生きる可能性を手にした人類ですが、その炎と技術を持ってしても、神から卓越した特徴を与えられている動物たちには敵いません。
そこで人類は、単独ではなく、集団で社会を作る事で生き延びる方法を模索しますが、人が集まると軋轢も生まれる為、今度は人類同士で争ってしまい、上手く政治を行ってまとまることが出来ません。
そこでゼウスは、『つつしみ』と『いましめ』を与え、人類に集団を作る力を与えたという神話です。

人間が他生物よりも卓越している部分は何なのか

この神話から分かる事は、人間以外の生物については、神々が『特徴』を与えているので、他の生物よりも卓越している能力のような『アレテー』が比較的理解しやすいのですが、人類には、その特徴が与えられていません。
人類に与えられているのは、ヘパへイトスの炎、これは、人類特有の能力というよりも道具や自然現象ですので…
これを除くと、アテナが持つ、炎などを使いこなす知恵。そして、ゼウスから与えられた『つつしみ』と『いましめ』という、目に見えない、分かりにくい概念が神によって与えられています。

では、知恵や慎み、戒めをもって、人間のアレテーと呼ぶのかというと、これも、少し違うような気がします。
この、よくわからない人間のアレテー・徳なのですが、それを、教えることが出来ると主張した人達が、ソフィストなんです。
ソクラテスの弟子のプラトンは、ソクラテスが誰かと対話をする事で、テーマを掘り下げていくという対話編を多く書いていますが、その相手の多くが、ソフィスト達です。

ということで次回からは、徳・アレテーと呼ばれるものと、ソフィストについて勉強していこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第53回 民衆にアレテーを渇望させた古代ギリシャの民主制 前編

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何故 アテナイで哲学が発達したのか

前回は、ソクラテスが生きていた時代が、どの様な時代だったのかについて、簡単に話していきました。
ペルシャ帝国との戦争や、ギリシャ内の大国同士の争いが絶えない時代でしたし、国の制度そのものも、短期間で大きく変わっていった時代ですよね。
ソクラテスがいたアテナイで言うなら、民主政から三十人政権になり、その後すぐに、再び民主政になったりもしてました。

今回からは、この様な時代背景を踏まえた上で、何故、アテナイで哲学が盛んになったのかを勉強していこうと思います。

アテナイの政治システム

最初に結論からいってしまうと、直接民主制が、大きな影響を与えたんだと思います。
前回も勉強した様に、アテナイでは、王をトップとしたシステムから僭主制を経て、民主制になりました。

この当時に導入された直接民主制は、日本を含む現在の多くの国が採用しているような、選挙によって地域の代表である代議士、政治家を選び、政治家によって国の方向性を決めるという方式ではありません。
国の代表である執政官を含む国の役職を、全市民による『くじ引き』で決めてしまおうという制度です。 国の要職はもちろん、裁判の判決を下す陪審員も、全て抽選によって決定します。
任期は1年で、再任は無し。 一人の人間が重役に付き続けるという事が起こらないようなシステムにして、政治の腐敗を徹底的に排除しようとして作られたシステムです。

奴隷と女性を除いた、アテナイに市民権を持つ男性のみが、政治に参加する権利である参政権を持ち、国の重要なポジションも抽選によって決定する。
抽選も参政権を持つものだけで行い、任期が1年で毎年抽選を行うということで、大体、人生で3回ぐらいは重要な役職が回ってきたそうです。

この様なシステムで国を運営する場合、参政権を持つ成人男性に求められるのは、幅広い知識を持つことであったり、知恵を持つことであったり、相手を言い負かす技術を持つことだったりします。
何故、この様な知識や技術が求められたのかというと、この様な知恵や技術を身につける事で、国にとっての重用な人物になる事が出来る可能性が出てくるからです。

卓越した能力を持てば成り上がれる

周りの市民たちから賢人だと思われれば、その分だけ、自分の意見に耳を傾けてくれる人間が多くなりますし、何か困ったことが起こった場合に、意見を聞きに来てくれるというケースも増えるでしょう。
他の人間が反対意見を主張したり、自分の意見に対して賛同しない場合でも、相手を言いくるめる技術を持っていれば、議論を有利に進めることが可能です。
つまり、この様な知恵や技術を身につけることによって、自分の発言力を高める事が出来るようになるんです。

自分の意見が通りやすくなれば、実質的に国を自分の考える通りに動かせることにも繋がりますし、賢人として自分の名がギリシャ全土に広がるようになれば、優秀な人材として引く手数多になるので、戦争の時代を生きやすくもなります。
ここまで壮大な目標がなかったとしても、自分が住む国の未来が自分達の発言によって左右されるという事実は、人々を政治というものに真剣に向かい合わせる様になりますよね。

現状の日本の政治

例えば、今の日本では、政治的な発言をする人間は鬱陶しい人だとか、面倒くさい人というイメージが浸透していると思います。
SNSなどで、積極的に政治の事をつぶやくアカウントは、同じ様な思想の人には支持されて、フォローなどをされるでしょうけれども、一般の人からは距離を置かれてしまいますよね。
呑みに行ったりした際でも、問題を起こさない為には、政治の話と野球の話はするな なんて言われたりします。

この様に、政治に対して無関心であることが普通で、関心があることが異常な状態というのは、良くも悪くも、一般市民が政治から切り離されていると思い込んでいるからです。
当然ですが、実際には切り離されているわけではありませんが、切り離されていると思いこむ事で、自分の責任を回避しようとしてるのが現状です。
自分には責任はなく、なにか不具合が起こったら、政治家のせい。 仮に政治の議論になったとしても、与党支持の人は野党が悪いと責任を押し付けて終わりです。
もし、与党の行っている政策に対して具体的に意見をいったとしても、『そこまで意見があるなら、立候補したら?』といって終わりです。

この、『立候補したら?』という切り返しには、政治に対して真面目に語ることが格好悪いという価値観と、政治的な意見は政治家だけが持てば良いという考えが、そして、自分が無知であるという行為を正当化したいという気持ちが根底にあるわけで…
この様な反論をする人達は、みんな、自分と政治は無関係だというのを盾にして、自分の状態を正当化しています。
しかし、この考え自体は間違っていて、今の日本の政治のシステムは、国民一人ひとりが理想の国のあり方を考えて、自分の考えを代弁してくれる様な代議士に対して票を投じて国会に送り出すというシステムなので、無関係なはずがないんです。

でも、無関係だと思いこんでいるのは、責任を取りたくないからですよね。
仮に失敗した場合、自分に責任はなく、他人のせいで失敗した事にしておきたいから、政治から距離をとって無関心でありたいと思う。
何か重要なことが決まる際には、自分の知らないところで決まって欲しいし、仮に失敗したら、人のせいにして自分は避難しておきたい。 自分は常に攻撃する側でいたいし、攻撃はされたくない。

こういった心理の表れが、今の状態を生み出していますよね。
この様な環境下で知識を身に着けてしまえば、仮に国が間違った方向に向かって、失敗をした場合。知恵のある人達は、その分野について知識があるのに、間違いを指摘しなかったという事で攻撃されてしまいます。
それなら、自分の身を守るためにも、一切の知識を入れず、無関心を装っている方が賢いように思えますよね。

古代ギリシャ現代日本の政治の違い

しかし、古代ギリシャのようなシステムの場合は、無知である事が攻撃されてしまう事に繋がります。というのも、みんなの意見を出し合う事で国の方向性を決める為に、参政権を持つ人間の決断が重要になって来るからです。
このシステムの場合は、議会で、何らかの提案がされた場合は、その提案に対して賛成か反対かを表明しなければなりません。
反対の場合は、何故、反対なのかを訪ねられるでしょうし、賛成した結果、その決断が間違っていた場合、賛成したことに対する責任も生じてくるでしょう。

現在のように、結果を見定めてから文句を言うなんて事をした場合は、何故、採決の前に異議を唱えなかったのかを追求されるでしょう。
市民が直接政治に参加するということは、それに伴う責任も市民にかかってくるわけですから、政治に対して無知であったり距離をおいたりする行為は、軽蔑の対象につながってしまいます。

それに対して、国を良い方向に導く知恵を持っている場合はどうかというと、先程も言った通りですが、議論の場での中心人物になることが出来ます。
人が間違ったことを主張していれば、その問題点を冷静につくことが出来ますし、国が困難に直面した時には、回避方法を提案することが出来ます。
こうした実績を積み重ねる事で、国における自分の地位も上がっていきますし、皆からの尊敬も集める事が出来ます。 つまり、知恵を身に着けて成長する事が、プラスにしかならないんです。

時代に求められたソフィスト

古代ギリシャアテナイに住む人達は、この様な環境に置かれていたので、当然のように、知恵を欲します。
知恵の需要が高まれば、供給が生まれるのが経済ですので、人々に、知恵を授ける人達が登場します。 それが、ソフィストと呼ばれる人達です。

ソフィストの人達は、金銭を受け取って、知恵を望むものに与えていったわけですが、では、どのような知恵を授けたのでしょうか。
知恵や知識を授けるといっても、この世の中には沢山の知識が存在して、カテゴリー別に分かれていますよね。
数学だったり歴史だったりと、様々な分野に分かれているわけですが、ソフィストと呼ばれる人達は、どの分野の知識を教えるといってお金をとっていたのかというと、弁論術とアレテーです。

ここで、アレテーという聞き慣れない言葉が出てきたわけですが、このアレテーという言葉には、うまい具合に置き換えれる日本語がない為、一言で説明するのは難しいのですが、多くの本では、徳という言葉で訳されています。
徳とは、損得の得ではなく、道徳の徳です。 徳という漢字を書いて、横にアレテーというルビを振っている本が多いですね。

アレテー(徳・卓越性)

徳というのは、徳が高いお坊さんのような感じで使われる場合が多く、なんとなく、『良い』とかそういったイメージを抱きますが、いまいちイメージがつかめない言葉ですよね。
アレテーという言葉も、そのイメージに近いのですが、もっと別のニュアンスも含んでいたりします。

どの様な意味を含んでいるかと言うと、卓越性であったり、『そのもの』を『そのもの』たらしめているものといえば良いのでしょうか…

例えば、車のアレテーは何かというと、速いスピードで移動できるという事になるのでしょう。 車が、人間の歩いているスピードよりも遅いスピードしか出なければ、車の存在意義はないでしょう。
逆に、車に乗っている人の安全が確保された状態であれば、車は早く移動できれば出来る程、良い車ということになります。

では、車のボディーのアレテーはどうでしょうか。 車のボディは、アクシデントがあった際に、車に乗っている人間の安全を守るためにある為、強い衝撃から中の人を守る役割があります。
襲ってくる衝撃が強ければ強い程、その衝撃に対抗できた時のボディの評価は高くなりますが、一方で、衝撃を防いでも、中の人に損害が出ると、その評価は帳消しになってしまいます。
これらの事をまとめると、車のボディーの評価は、どれだけ、車に乗り込んでいる人間の安全を守れるのかというのにかかっていると思われますので、これが、車のボディーのアレテーと考えて良いでしょう。

もし、車のボディーにアレテーが無かったとしたら。 つまり、軽い接触でも、ダイレクトに車に乗っている方に衝撃が伝わって怪我をしてしまうような代物だったら、そんなボディは要らないですよね。
この様な感じで、物が持つアレテーと言うものは、そのモノが存在する根本的な理由であり、尚且、アレテーが優れていれば優れているほど、そのモノは優れた良いものということになります。
この、人が作り出した『道具』のアレテーとういのは、理解しやすいと思います。 というのも、人間が作り出すモノというのは、何らかの必要性があるから、生み出されるものだからです。
(つづく)
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累計200番組以上聴いた私がおすすめするPodcast9選!

私は、仕事が手作業ということもあり、仕事中に携帯で音楽などが聞ける環境にあります。
その時間を利用して、数年前からPodcastを1日10時間ほど聞き続けるという生活を続け、結構な数の番組を聞く機会に恵まれたため、今回は、その経験を活かしておすすめPodcastを紹介していきます。
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目次

【社会・文化】BS@もてもてラジ袋

20年近く前からメンバーを変えつつ放送されている、かなり古株のラジオです。
今でこそ、スマートフォンwifi環境が揃い、音声メディア自体が注目され始め、話す内容さえ決まっていれば、誰でも思い立った日に音声を収録してアップロードし、Podcastなどに登録してSNSなどで宣伝することが出来ますが…
20年前といえば、それらが何もなかった時代。 MP3という圧縮技術が生まれ、それを使って音声ファイルを圧縮してブログにアップロードすれば、ラジオ的なものになるんじゃないかと思った人達が、個人ブログに音声ファイルを上げて『ネットラジオ』と言い出した黎明期です。

その黎明期時代に生まれ、今も尚、毎週3時間の放送を続けているのが、この『ネットラジオ BS@もてもてラジ袋』です。
パーソナリティーは、『ぶたお』さんと『てっちゃん』さん。
『ぶたお』さんは、市民生活を研究されている方で、社会問題に対しても、地に足をつけた意見を話されます。また、一時期は活字を500P読むことを日課としていたようで、その時に培われたであろう知識も相当なもので、テレビのコメンテーターよりも為になる話をされます。
『てっちゃん』さんは、自分自身の体験された話をされることが多いですが、その話術がかなり凄く、とっさの瞬発力や話芸などは、その辺のお笑い芸人にも負けていない感じとなっています。

番組内で話されている内容は、社会的な内容やサブカルチャーがメイン。
映画や漫画の知識に関しては、『ぶたお』さんが、手塚治虫水木しげる宮崎駿・ディズニーといった基礎的な部分の知識に長けていて、そのあたりの解説が聞いていて勉強になる感じです。
『てっちゃん』さんは、映画だと最近話題となっている映画や、興行収入でトップのものを観続けるといった事や、話題の洋書や世界の名著などを読むという挑戦をされているので、サブカル分野でも担当が別れている感じが、多角的な意見が聞けて良いです。

基礎教養として、『美味しんぼ』『格闘ゲーム』『ジブリ』『ディズニー』などを押さえておくと、ラジオをより楽しめるとは思いますが、これらを知らない状態で聞いたとしても、徐々に知識が蓄積されていって、数年後には立派なヲタになっていると思われますので、問題はないでしょう。
音声データは数ヶ月で消え、過去販売分として有料で販売されるので、とりあえず無料で聞きたいという方は、これを読んだ後は直ぐに過去分をダウンロードしておいたほうが良いでしょう。
moteradi.com

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【ゲーム】アマゾンプロダクツ 遊びのラジオ

某大手ゲーム会社で出会った二人が始めたラジオ。
元々がゲーム会社勤務で、今現在もゲームに関わる仕事をされている為、話題の中心となっているのはゲームが多いですが、ゲーム専門というわけではなく、サブカルの話題を幅広く扱っている番組です。
パーソナリティーは『鮫島』さんと『筆川』さん。 昔、ファミコン通信で連載されていた漫画作品にヒントを得てタイトルを決めたようで、名前もその漫画作品の登場人物を名乗られています。

私の個人的な印象としては、鮫島さんが勢いで話し、筆川さんがまとめるといった感じで、キャラクターのバランスが取れていて聞きやすい番組です。
鮫島さんは、ゲームだけではなくアメコミファンで、MCU関連の話題も多めです。 私自身はアメコミ弱者なので、映画の知識ぐらいしかありませんが、鮫島さんはコミックの方を読まれていて、その知識は相当なものです。
アメコミ回では、アメコミ友達のゲストが呼ばれる場合もあり、アメコミ好きにはたまらない内容となっています。

番組の核となっているゲームの話も、アメコミに負けず劣らず面白く、ユーザー目線ではなくクリエイター目線の話が聞ける、数少ない貴重な番組だったりします。
アメコミやゲーム、映画に興味を持っている方は、聞いて損はない番組だと思います。
amzp.net

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【ゲーム】しゃべりすぎGAMER

ゲームのレビューを本業としている会社、IGNによるゲーム関連の番組です。
Podcastなどの音声メディアの番組… というわけではなく、元々はyoutubeで公開されている番組の音声部分のみを取り出してPodcast化した番組です。
基本的には音声だけでも楽しめるような番組作りになっていますが、たまに、映像があることが前提の話し方をされることもある為、それが気になるという方は、youtubeで観るほうが良いかもしれません。

パーソナリティは3~4人ぐらいの男性メンバーで、メンバーは回によって変わったりもします。
ゲームの批評を書いているライターがパーソナリティーを務める番組ということもあって、趣味でゲームやってる人が配信しているものよりも説得力があったりします。

番組構成としては、最初に直近1週間で発表されたゲーム関連の最新ニュースを取り上げた後に、メインテーマに話を移すといった感じです。
メインテーマは、『好きなゲームデベロッパーは何?』といった感じで、リスナーにも答えを求めた後に、自分たちが好きなデベロッパーを挙げ、何故、好きなのかといった理由を深掘りしていくといった感じです。
テーマは毎回変わる為、アーカイブのタイトルを観て、興味のあるものを聞いてみると良いかもしれません。

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【コメディ】ひげめがねのPowderParty

この番組も、『BS@もてもてラジ袋』に負けてない配信期間を誇る、最古参レベル?のネットラジオです。
Bowさんとnigさんという男性パーソナリティー2人による、フリートーク番組です。

お二人に共通している趣味として『お笑い鑑賞』があり、普通では追いかけていないようなお笑いの方まで追いかけられていて、ネタや雰囲気などを記憶されています。
それを元にしたお笑い考察などが、かなり面白く、お笑い関係の情報を仕入れるのに役に立っています。
お笑いを研究されているということもあり、その上、自身達も20年近くに分かってコンテンツ制作を行われているので、話の間や掛け合いなどは、そこら辺の若手の芸人のはるか上をいっていたりもします。
一時期は、1回の放送が4時間半を超える事もありましたが、そんな長時間でも、トークがダレることなく、むしろ『もっと聞きたい!』と思わせる話術には、ただただ頭が下がる思いです。

お笑いだけではなく、社会的なニュースやプロ野球サブカルなど、様々な分野の知識を持たれていて、それをもとに話されているため、面白いだけでなく勉強にもなります。
ここ最近は、プライベートでお忙しいからか、更新期間が空いていたりしますが、それでも止めずに続けてくれていることに感謝です。
powdersradio.com

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【ファッション】FASHIONSNAP.COM

fashionsnap.comという、ファッション系のサイトを立ち上げた方?が、その仕事の一環で行われているPodcast番組です。
メインの男性二人と、アシスタントの女性1人によるファッション系ニュース番組。

番組構成としては、最初にワインを1本飲んで感想を少し語り合った後に、直近で発表されたファッションニュースを紹介し、そのニュースについて独自の解釈を語っていくといった感じです。
取り上げられるニュースは基本的にはファッションですが、この番組のコンセプトは、ファッションも含めた生活提案のようなので…
最新ガジェットやウェアラブル端末や、家具といったニュースも取り上げられたり、それらを提供する会社の動向などもテーマに上がったりします。

番組の一番最初にワインを1本開けるのも、単純に格好をつけているだけではなく、ワインの知識を知っておいた方が『モテる』会話ができるんじゃないかという感じで行われているように思います。
メインで話されている方が男性2人なので、取り扱われるのはほぼ男性ファッションのみです。
番組後半部分では、メールによるファッション関連の相談などもあるので、ファッション関連で悩みがある方は、メールを送ってみるのも良いかもしれない。
www.fashionsnap.com

FASHIONSNAP.COM ポッドキャスト

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【科学】青春あるでひど

科学者のアニワギ博士(兄)と、魔女のぶっちょカシワギさん(弟)の兄弟が配信されている、化学系番組です。
基本的には、番組宛てに送られた質門メールに、科学者であるアニワギ博士が答えるという形式なのですが、科学者が専門用語を使いまくって答えても伝わらないので、科学者ではない弟のぶっちょカシワギさんに説明するという体で解説が行われます。
独りよがりの解説にならず、仲の良い兄弟の対話を聞いていると科学の解説が終わっているという感じなので、科学が苦手な人も聞きやすいと思います。
弟のぶっちょカシワギさんが、疑問に思ったことをリスナーの代わりにドンドン質問してくれるのが、理解をより深めている感じがします。

この番組へのメールですが、化学系の話題の他にも人生相談的なメールも送られてきたりもします。
その際には、青年実業家であり魔女のぶっちょカシワギ氏がメインとなって、魔女ならではの常識にとらわれないアドバイスをされ、その話がかなり為になったりします。
この人生相談でも、化学系のアプローチが可能であれば、アニワギ博士がアドバイスをくれたりもします。 科学面と精神面の両方のアドバイスの聴き比べができるというのが、興味深いです。
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青春あるでひど

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【IT】rebuild

シリコンバレープログラマーをされている方が、話題のテック系ニュースや業界の動きなどを話されている番組。
テック系だからなのか、音質面ではPodcast界でもトップレベルです。 ゲストも、googleの方やApple関連の方が登場するので、テクノロジー好きの方は聞いておいて損はないと言うか、聞いておくべき番組です。
テクノロジー界隈の方がテクノロジー界隈の方に向けて放送している感じなので、私のような一般人には分からない事柄もチラホラ出てきますが、わからないなりに聞き続けていると、その界隈の事情に詳しくなったりもします。

ゲストとして多数の方が出演されますが、個人的に好きなゲストは『N』さんと『hak』の回です。
『N』さん回は、テクノロジーの話と共に、アメリカに住んでいる人間から見たアメリカの政治の話などをされることもあるのですが、この話が非常に興味深く面白いです。
『hak』さん回は、ご自身がゲーム好きということで、ゲームを絡めたテクノロジーお話をされるため、私のようなゲームを嗜むものは興味をそそられます。

聞いているだけで、世の中のテクノロジーがどの様に変化しているのかが感じ取れるので、そのあたりに興味がある方にはおすすめです。
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Rebuild

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【IT】backspace.fm

アメリカでプログラマーをされている方と、日本でテクノロジー系のニュースサイトをされている方が、最新のテック系ニュースを紹介する番組です。
この紹介だけ読むと、『rebuild』と違いがないように思われますが、実際に聞いてみると、番組の雰囲気は全く違ったりします。
この番組の一番の聞き所としては、散財からの商品レビューでしょうか。
100万近くするパソコンや、高価なカメラ。VRをはじめとした最新ガジェットを、自分の金で購入した上でレビューされているので、そのあたりの商品のリアルな感想を聞きたい方は、聞いてみると参考になるかもしれません。

私は、この番組の存在をファミ通で知ったのですが、そのファミ通で連載をされている西川善司さんが、この番組にたまに登場します。
西川さん登場会は、z sideとサブタイが付いて別枠になっているので、アーカイブのタイトルを見ただけで分かるようになっているのですが、西川さん登場回は、面白い事が多いです。
iPhoneユーザーやApple信者の方は、Danbo-side というタグが付いている回を聴くと、耳寄り情報がたくさん聞けて幸せになれます。
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【社会・文化】だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史

手前味噌になりますが、この記事を書いている私自身も、Podcastを配信していたりします。
タイトルからも分かる通り、思想や哲学の話をしているのですが、この『哲学』などは、私自身が人生を通して得た哲学などではありません。
数千年前からソクラテスを始めとした哲学者が考え続けてきた哲学を、私自身が哲学書を読んで勉強し、勉強した成果を披露するという番組です。

哲学的な思想は、古代ギリシャから徐々に進化してきたと言われていて、今現在の哲学も、その延長線上に有ると言われています。
その為、有名だからと、いきなりニーチェマルクスを読んでも理解し難いとされています。
近代に近い哲学も、その思想の根本的な部分を理解しようと思うと、古代から問題とされてきた事柄を知っている必要があるようなので、有名だからとビッグネームが書いた本を手に取ると、挫折しやすいそうです。

この番組では、挫折するのを極力避けるようにという思いから、哲学を1から勉強する内容にしています。
その為、全てのコンテンツがつながっていたりします。

哲学に興味があるけれども、哲学書を読むのはダルいという方は、一度聞いてみてはいかがでしょうか。

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まとめ

ということで今回は、幅広いジャンルの中から、『これだけは聞いて欲しい!』という番組を少しだけ紹介させていただきました。
好みの番組が見つかった場合は、iPhonePodcastアプリの場合は、その番組の詳細ページから、その番組を聞いている人の多くが聞いている関連番組を見ることも出来るので、そこから新たな番組を開拓していくのも良いと思います。
それでは、良いPodcastライフを!

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その13 『善を目指して死ぬなら本望』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com
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目次

国に迎合する召使い

ソクラテスの主張により、本当に善い政治家とは国民や独裁者に迎合するのではなく、国民を良い方向へ導く為に時には厳しい態度を取る人間だということ。
そして、その意味合いにおいては過去の人物を含めたとしても、立派だといえる政治家は居ないことが分かった。

この主張にカリクレスは渋々納得するが、様々な偉業を成し遂げてきた彼らが立派ではないとはどうしても思えないともらす。
これに対してソクラテスは、彼らは立派な政治家とはいえなかったが、国の召使いとしてはよく働いたのではないかと主張する。 つまり独裁者は、権力を振るっているのではなく国に迎合していたと言うこと。

過去の偉大な指導者達の最終目的は善ではなく、国のご機嫌を伺う召使いである為、国が快いと思う事を進めてやらせるが、間違った方向に進もうとした際に、厳しい態度で軌道修正はしない。
これは、暴飲暴食がやめれない意思の弱い人間に対して、欲望を抑制させる事をせずに、美味しい食べ物をさらに進めている行為と同じ。
結果として、国はぶくぶくと膨れ上がり、むくれて病気になってしまう。 そのツケを払わされる国民が激怒し、指導者達を吊るし上げる。

これは近代の日本でも同じ。 地方から出てきた政治家は、地方の要望という形で橋や道路などの建設を国に求めるが、その政治家達は国を良い方向に導くために国に対して要望を出しているわけではない。
その道路や橋を使う一部の人達や、その建設に携わる会社の役員たちに迎合して国に対して要望を出しているだけで、本当に国のためになるのかと言うことは全く考えない。
国の計画はそのようにして決められていき、実際に役に立つかどうかのデータを集める役人は、政治家に迎合した形で数値を都合の良いように書き換えて、経済効果を算出する。

何もないところに道路を通すと、確かに最初のうちは経済効果が生まれて地域は発展するが、その流れは長続きしない。
ある程度の発展を遂げると経済活動は停滞し、それ異常伸びなくなる一方で、橋や道路は老朽化して、修繕費がかかるようになる。この修繕費は投資ではない為、これによる経済拡大効果はほぼ無いといっても良い。
甘い都市計画では効率の良い経済発展は行えないが、作った道路や橋を壊してしまう好意は経済を減速させてしまう効果があるので、作ったものは気軽に壊すことは出来ない。

欲望に支配されたツケ

結果として、捏造された見通しを元に作られたインフラは、経済にそれ程貢献しない一方で莫大な修繕費を消費する金食い虫となってしまう。
この様なインフラは日本全国に膨大に存在する為、ただ維持するだけで莫大なカネがかかり、国の財政は圧迫されてしまうことになる。
しかし、現状維持だけでは経済拡大は見込めないので、政治家達は国際を発行して借金をして資金を作り、再び甘い見通しを元に新たにインフラや事業計画を建てて金をつぎ込み、新たに修繕費が必要なインフラを生み出していく。

国は返済不可能な膨大な借金を背負い込むことになり、税収だけではやり繰りができなくなり、社会保障費を削ると行った直接国民に負担がかかるような行為を矯正してくる。
また、国が国際を発行して借金した金は、最終的には国民が借金額に見合った税金を収めることでしか解消しないので、無責任な計画で散財した政治家のツケは全て、国民に返ってくることになる。
肥満症の人間に好きなだけ食べ物を与えると、更に脂肪がついて病気が悪化してしまうが、同じ様に、国の経済を拡大させようと無理な計画で公共工事を行った場合は、国も病気になってしまう。

政治家がやっていることは、国や国民を善い方向へと導く行為ではなく、単に国に迎合して相手が求める快楽を与えているだけで、正しい目標を定めて先導するということは行っていない。
麻薬中毒患者に対して、『相手が求めている』というだけで麻薬を与え続けているのと同じ行為で、善い方向へと導いているわけではない。
何も考えずに、求められているからという理由で快楽を与え続けているだけなので、この様な政治家が関わった国や国民は悪い方向へと進んでしまい、結果として国民の手によって仕返しされてしまう。

もし仮に政治家が、国民を善い方向へと導く適切なゴールを定め、国民を正しく先導できていたなら、全ての国民は善人になっているはずで、そんな彼らが先導者を吊るし上げるなんてことはしない。

人を善い方向へと導く職業とは

この問題は、同じ様に人を立派な善い人にすると主張している、ソフィスト達にも共通する問題。
例えば、人を良い方向に導くなんてことを言っていないような職業の場合は、客に不正を行われた場合には、文句を言う権利があるだろう。
大工が客の要望に答えて家を立てたり、定食屋の調理人が注文された料理を出すという行動は、人の役に立つ行動だが、その行動そのものは人を良い方向に導くわけではない。

定食屋のオヤジの料理を食べたからといって、腹は膨れるかもしれないが、連続殺人犯の極悪人が善人になることはない。
その為、悪い人間が客として紛れ込んで、サービスだけ受けて食い逃げをするということもあるだろう。 この場合、定食屋のオヤジには文句を言う権利がある。

しかし、人間を教育して善い立派な人間にすると行っているソフィストは、同じ様な文句を言う権利があるのだろうか。
ソフィストの元に劣った人間が入ってきて、『私を立派な人間にしてくれ』と依頼し、ちゃんと教育を施したにも関わらず、その客は教育だけを受けて料金を踏み倒して逃げた場合。
そもそもソフィストがしっかりとした教育を行って立派な善人に仕上げていれば、その善人は料金を踏み倒すなんて不正は行わない。不正を行ったということは、その人間の教育には失敗しているので、料金を受け取る資格が無い。

目指すべきは善の指導者か迎合家か

ソクラテスはここまで説明をした後に、カリクレスに対して『私が本当にこの国の事を考える場合、国を良い方向に導くために尽力すべきなのか、それとも、国の召使いになるべきなのか、どちらが良いだろう。』と聞く。
これに対してカリクレスは、『国の召使いになれ』と進め、ソクラテスは『私に迎合家になれというのか!』と驚いた様子を見せる。

カリクレスがソクラテスに迎合家になれと進めたのは、これまでの議論を理解していないからではなく、ソクラテスのことが心配だから。
ソクラテスの主張は正論だが、この世の中には聞くのに苦痛を伴う正論に対して嫌悪感を示す人間が少なくなく、ソクラテスの様な態度を続けた場合は、恨みを買って無実の罪で裁かれてしまうだろう。
命を危険にさらしてまで、善に導く先導者を目指さなくとも、みんなの機嫌を伺い、多くのものから気に入られるように振る舞うべきだと主張する。

カリクレスは純粋にソクラテスを心配して忠告しているが、ソクラテスは単純に長く生きることが幸福だとは考えていないので、この考えを受け入れない。
そして、子供の裁判を例に出して、自分の意見の正しさを伝えようとする。

子供相手の裁判

まず、自分以外の人間は全て子供しか居ない状態の裁判を想像する。
検察官も被害者も裁判官も陪審員も傍聴人も全て子供で、自分だけが大人だという裁判の状態を頭に思い浮かべる。

被害者とされる少年は自分が怪我をした際に、あの大人によって傷口に酷くしみる薬を塗られた上に、ただでさえ痛い傷口を、針と糸で更に痛めつけたと証言する。
その話を聞いた検察官は、大人である自分を、傷を負って苦しんでいる子供を更に痛めつけるサイコパスだと主張し、傍聴席にいる子どもたちに向かって大人である私の危険性を説く。
傍聴席の子供は検事の主張にすっかりと説得され、裁判官も私を極悪な犯罪者だと思うようになり、弁護士ですらも、『何故、そんな酷いことをしたんですか?』と問い詰めてきたとする。

その時に、私はどの様に答えればよいのだろうか。 子どもたちに迎合して、『今後はそんな酷いことは絶対にしないから、助けてください。』と懇願するのが正しい道なのだろうか。
それとも、『私は、傷を追った少年に対して適切な治療をしただけだ。 彼のためを思ってやった事なんだ。』と説明するほうが良いのだろうか。
仮にその様に説得をしたとしても、被害者や検事は、『痛めた場所を更に痛めつける様な行為の、どこが治療なんだ! 私のためを思うなら、痛みだけ消すべきなのに、更に痛めつけてどうするんだ!』と責め立てるだろう。

その場には私以外は全員子供なので、検事や被害者の主張する稚拙な説明に納得してしまい、『治療には痛みを伴う。』という私の正論は無視されるだろう。
そうなった時、その場で唯一の大人である私の使命は、例え、子どもたちが口うるさく思ったとしても、正しく教育することであって、迎合して御機嫌を取ることではないのではないだろうか。
例え、私の理屈が受け入れられることがなく、逆に反感を買って死刑になってしまうとしても、その子どもたちの事を本当に可愛いと思うのであれば、正しいことを伝えるべきなのではないだろうか。

この例え話を聞いたカリクレスは、その様に死んでしまったとしても、その人は立派に生きたといえるのだろうかと質問をする。

善を目指して死ぬなら本望

ソクラテスは、その生き方こそが立派な生き方だと即答する。 悪だと思っている道に自ら突き進み、不正を行うことこそが、もっとも恐れなければならないことなのだと。
善を追求するものが、子供の裁判官を説得できなかったとしても、訪れる多く見積もっても死ぬ程度。 そして死ぬという行為は、余程のわからず屋でない限り、怖いとは思わない。
不正を行う恐怖に比べたら、死ぬことなどは大したことがない。

そして、その理由を神話を用いて説明する。

神々による裁判

人類が生まれてすぐの、ゼウスがこの世を治めて間もない時代。神々と人間は共存していて、人間は生きている時に、善悪を試されて神々によって裁かれていた。
しかし、生きている状態では、いかに神々であっても人々を見抜くのが難しい。
何故なら、裕福なものや見た目の美しさを備えて生まれてきたものは、それらによって装飾れてている為に、豪華に見えてしまう。

またこれらの人には、彼らの持つ富や美しさに引かれて多くの人が集まってきて、彼らに気に入られる一心で有利な証言をする。
逆に、貧困であったり醜いものは、関わり合いになっても徳がないので、誰も良い証言をしないという逆の状態になってしまう。
その様な状態で、その人間が立派であるかそうでないかを見極めるのは、至難の業となる。

その為、神々は、人が死んで、魂の状態になってから裁くことにした。

魂の状態であれば、装飾品や肉体といった物質は死後の世界に持ち込めないので、神の判断を惑わせる事は無い。
また、暴飲暴食を繰り返してきた人間の体が太ったり、逆に節制してトレーニングを行ったものの身体が美しいように、魂にも、これまで生きてきた間に行ってきた痕跡が残る。
不正を働いたものの魂は醜くゆがみむ。 神は、そのありのままの魂の形を見る事で、その人間の善悪を判断して裁きを与える。

裁きによる刑は、魂が重ねた不正の度合いによって決まり、償いが可能であれば、適切な苦痛を伴った後に、魂は矯正される。
しかし、多くの不正を行って矯正が不可能なほどに歪んだ魂は、他の者の魂を強制するために使用される。 つまり、他の魂が不正を起こさないように、みせしめの為に永遠に苦痛を受け続ける。
大部分の権力者は、その権力によって自分の欲望を満たせる為、欲望を抑えるという行為を行わない。 結果、不正は行われ続けて、魂は修復不可能な状態までゆがみきってしまい、みせしめの為に死後に苦痛を味わい続ける。

カリクレスよ。私はこの話を信じているのだよ。

自分自身の為にも世界を『善』へと導く

人は、何よりもまず、良い人と他人から思われるよりも、実際に良い人であらねばならない。(誰も観ていなくてもお天道さまが観ている? 何よりも自分が観ている)
もし人が、何らかの点で悪い状態であるなら、その魂は治療を受けなければならない。つまり、裁きを受けて懲らしめられなければならない。それによって悪に傾いた魂は善い方向へと導かれる。
快楽のみを追求する迎合は、出来るだけ自分から遠ざけなければならない。 弁論術も、迎合の手段ではなく、人を正しい道に導くために使われなければならない。

常に目的を善に据えて行動することで、人間は生きている間も、そして死んでからも、幸福であり続けることが出来る。
これがもし理解できたのであれば、カリクレスよ。共に、善を追求する道を進もう。

そして出来ることなら、他の者達もそうするように勧めよう。

参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その12 『人は何のために生きるのか?』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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目次

人は何の為に生きるのか

カリクレスは、不正を受けて被害に遭う者よりも不正を行う者のほうが不幸だという理屈がどうしても理解が出来ない。
ドラえもん』でいうなら、ジャイアンに暴力を振るわれる のび太よりも、のび太に対して暴力を振るうジャイアンの方が不幸で哀れというのはおかしい。どう考えても、のび太の方が哀れだとしか思えない。

これに対してソクラテスは、普通に考えれば被害者のほうが可愛そうだと思ってしまうかもしれないが、ものの道理が理解できている人間にとっては、そうではないと反論する。
ただ単純に長生きをしたいだとか、異性の興味を引いたり散財したりと快楽を優先する人生を歩みたいのであれば、時の権力者に頭を下げてご機嫌伺いをしながら生きていくというのも良いかもしれない。
そうする事で権力者のお気に入りになれば、その影響力を利用して自分も強大な力の恩恵に預かれるかもしれない。

独裁者の機嫌を損なわなければ、無意味な事で死刑になったりもしないし、財産を奪われることもない。
しかし、それは本当に良い人生を歩んでいることになるのだろうか。

ソクラテスが何故、この様な疑問を抱くのかというと、それは彼が絶対主義者だから。
弁論家やソフィスト達が支持する相対主義であれば、自分が良いと思う人生を歩んだと思えば、その人の人生は『その人の中では』正義となるし、自分が満足したと思えばそれで良い。
しかしソクラテスの価値観は相対主義ではなく絶対主義なので、本人が良いと思って納得していても、その人生を客観的に見た時に、本当に良い人生だったのかが他人の目を通しても評価されてしまう。

愚かな独裁者に頭を下げ続けることで生きながらえる人生は、客観的に観た時に、良い人生と呼べるのだろうか。

人生の最終目的は長生き?

また、単純に長生きしたい事が目的なのであれば、弁論術に限らず、多くの技術が自分の命を守るために役立つのではないだろうか。
例えば、海沿いを歩いている時に、フラついたり何かに躓いたりして海に落ちた場合は、泳ぐという技術が自分の命を助けることになる。
どんなに権力があっても、どれ程の強さがあったとしても、泳げないものが海に落ちれば死んでしまう可能性がある。 泳ぐ技術は、自分自身を危険から助けてくれる大切な技術といえる。
泳げる利点はそれだけではなく、泳ぐ技術があれば、水を挟んだ反対側に行くことも出来る。

泳ぐよりももっと良い技術として、船を操縦する航海術がある。
航海術を身につければ、自分自身だけでなく泳げない人間でも海の向こう側に渡す事が出来るし、誰かが溺れていたら船をだして助けに行くことも出来る。
この技術を高めれば高めるほど事故の可能性は減らせるので、この技術を極めることは、多くの人間の命を守る事に繋がるといっても良い。

しかし、この技術を身に着けた熟練の航海士は、自分たちの職業を偉大な職業だと主張して、他の職業のものにマウントをとったりはしない。
彼らは決して高くないお金を運賃としてもらうだけで、弁論家や弁論術を身に着けた弁護士のように、客に対して恩を売ったりする事はないし、必要以上の称賛も求めない。
この事は航海士に限らず、他の多くの職業にも当てはまる。

例えば、ソクラテスが生きた時代のアテナイは、スパルタとの内戦によって常に戦争が起こる危険性があった。
アテナイはスパルタのように職業軍人を育てているわけではないので、いつ、徴兵されて戦争に狩り出されるかは分からない。
この様な状況下での兵器職人は、国民の命を預かる職業といっても過言ではないかもしれない。

防具が粗悪品であれば、敵の攻撃は防げないだろうし、武器がナマクラなら敵を倒せない。
敵をいつまでたっても倒せないのであれば敵の数は減らないので、こちらの陣営は振りな状況に追いやられて、アテナイの国民の多くが傷つき亡くなってしまう危険性がある。
また、そもそも武器や防具がなければ、敵の兵士に好き放題やられてしまい、蹂躙されてしまうだろう。

その様な状態を防ぐためにも、武器や防具を作る職人は絶対に必要だし、彼らは多くの国民を自分たちの技術を駆使して守っているともいえる。
一方で弁論術を極めた弁護士は、その一生をかけて、一体何人の人間の命を救うことが出来るだろうか。 弁護士が人の命を救う機会は、死刑宣告を受ける可能性が高いときしか無い。
多くの人を生きながらえさせるという一点において、武器や防具を作る職人と弁護士を比べた場合は、武具職人達のほうが効率よく人を守っているといえるのではないだろうか。

その他の職業として、狩人や酪農家や農業をしている人間はどうだろう。
彼らは、人間が生きていく上で絶対に必要な食糧生産を行っている。 彼らが仕事を放棄すれば、国民の大部分が食料を手に入れる術を失ってしまい、餓死するだろう。
食糧生産者は、先ほどの武具職人たちの様に戦争がなければ必要とされない職業ではない。 食料は、戦乱の世の中であれ平和な世の中であれ、絶対に必要なもの。それを生産する彼らは、国そのものを支えているといっても過言ではないだろう。

職人は傲慢ではないが 弁論家は…

しかし食糧生産者や武具職人たちは、自分たちの職業を必要以上に持ち上げたりはしない。 決して多くはない金額を受け取るだけで、その事を自慢したりもしない。
彼らが、自分の職業や生産物を必要以上に持ち上げて崇高なものだと威張ったりしないのは、自分が技術を注ぎ込んで作ったものが、人間を善い方向に導くようなものではない事を知っているから。

一方で地位のある弁論家は、そんな彼らを兵器屋だとか農民といって、汚いものでも見るかのように軽蔑して見下すだろう。
仮にカリクレスに娘がいたとして、娘が彼らと付き合って結婚すると言い出したら、猛烈な勢いで反対するだろう。 何故なら弁論家達は、自分の職業が崇高なものだと思い込み、自分自身も立派なものだと思いこんでいるから。

確かにカリクレスは、世間一般からみれば良い家柄に生まれている。 しかし、この『良い』家柄とは何を持って善しとしているのだろうか。
家柄などのその人に貼られているラベルを剥がしていき、その人物が身に着けている技術のみで判断する場合、その職業が実業だった場合は、どの様な職業だったとしても人の命を延命させるという点で優れた職業といえる。
(技術を使うのは実業だけで、虚業が行っているのは迎合)

しかし、どれだけ命を延命させたとしても、いずれは限界が来る。 人は永遠には生きられない。
人の人生の善し悪しは、生きた長さではなく、その内容によって判断されなければならない。

良い人生を生きるとは

身分が高い家系に生まれたとか、他人の安全を保つとか、生きていく上で絶対に必要なものを生産しているというのは、良い人生を判断する材料からは切り離して考えなければならない。
生まれは自分でコントロールすることが出来ないし、生まれによって良し悪しが決まるのであれば、人間は生まれた瞬間に善悪が決定することになってしまう。
また、人が技術でもって何かしらの仕事をしているのであれば、その人は人間社会の一員として何かしらの役に立つ事をやっている事になるので、そこに上下関係は発生しない。

では、どのようにして生きるのが良い人生を歩むということなのだろうか。
例えば政治家として良い人生を歩む場合、独裁者と同じ様な力を手に入れるために、現状の政治体制と意見を合わせて、時の権力者に気に入れられるように努力する生き方が正しいのだろうか。
それとも、自分自身が独裁者になる為に、国民の意見の方に耳を傾けて、自分の意見と国民の意見をシンクロさせるような生き方が正しいのだろうか。

その様に振る舞うことが、本当に自分自身を、そして国民を幸福へと導くのだろうか。
誰かに迎合するという方法では、良い方向に導くことなどは出来はしない。
政治家として、本当に国民を良い方向へ導こうと思うのであれば、時には国民にとって耳をそむけたくなるような嫌なことであったとしても、国民に聞かせる事で良い方向へ導かなければならない。

また、仕事に対する向き合い方としては、過去の実績を並べあげて、その仕事をするのにふさわしいかを考えて行うべき。
例えば、今よりも高待遇を求めて転職をする場合は、履歴書に過去の実績を書いた上で、自分がその会社にふさわしいと思って初めて、エントリーをする。
これと同じ様に政治家も、政治家になる前に、自分自身が発する言葉によってどれほどの人間を正しい方向へ導いたかで判断すべき。 多くの人を正しい道へと導いた実績を持つものだけが立候補すべき。

本当に優れた人物は存在するのか

カリクレスは以前、ペリクレスを優れた政治家として称賛したが、彼は、アテナイの人々を正しい道へと導いたのだろうか。
彼が指導者の地位に付く前のアテナイ市民は今よりも劣悪な状態だったけれども、彼が指導者になって国民に演説を始めた途端に、国民は徐々に良い方向へと進み出し、最終的に立派な人間になったのだろうか。
カリクレスは、将軍職を除く全ての国の役職を抽選制にして、彼らを公務員ということにして給料を支払ったが、その事によって国民は怠け者になり、仕事をせずにおしゃべりばかりをするようになってしまったという批判もある。

この意見に対しカリクレスは、『それは敵であるスパルタ人が言っているだけだ』として跳ね除ける。
しかしペリクレスは、最終的には公金の使い込みによって告発を受けて裁判にかけられて、死刑になりかけている。 彼の偉業とされているパルテノン神殿も、デロス同盟が対ペルシャの防衛費として貯め込んでいた金を使い込んで作った。
彼は本当に、立派な善い人と呼べるような人物なのだろうか。

例えば、ペットとして犬を購入した飼い主が、子犬の間に躾をしておこうと、躾を代行してくれる業者に犬を託したとする。
その躾代行業者は、おとなしい子犬を預かって、飼い主が気に入る善い犬になる為に一生懸命に躾けた結果、その犬は調教師を殺す勢いで噛み付くように育ったとしたら、その調教は成功したといえるのだろうか。
犬を迎えに行った飼い主は、調教師に襲いかかる自分の犬を見て、立派な犬に育ってよかったと思うだろうか。

この例の調教師をペリクレス、子犬をアテナイ市民に当てはめると、ペリクレスと市民との関係が分かりやすい。
ペリクレスが民衆を扇動した結果、その民衆は先導してきたペリクレスを死刑にしようとしたのだから、ペリクレスの思惑通りに進んでいないことは誰の目から見ても分かる。
仮に、ペリクレスの指導が正しいもので、ペリクレスの指導の結果としてアテナイ市民は全員が良い人間になったのだとしたら、その善人に吊るし上げられるペリクレスは、悪人ということになる。

この様に考えていくと、大抵の独裁者の末路というのは、裁判にかけられて国を追われたりしている為、カリクレスが挙げてきた指導者に立派な人はいないことになる。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その11 『不正から距離を取るにはどうすれば良いのだろうか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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欲望の善悪を見分ける技術

カリクレスは、欲望やそれに伴う快楽にも善悪が存在し、その見極めには専門の技術が必要だと主張する。
ソクラテスは、人間を良い方向に導く技術を身に着けた弁論家であれば、その善悪を見極める技術を習得しているかもしれないと思いカリクレスに聞いた所、ペリクレステミストクレス等、歴史的な偉人がそれに当たると答えた。
そこでソクラテスは、名前の上がった彼らの功績を吟味して、善悪を見極める技術を解き明かそうとする。

まず、善悪を見極める技術が迎合のような経験ではなく『技術』であるのであれば、その技術には法則性がある事になる。
その為、行き当たりばったりで対策を行うのではなく、向かうべき目標をきっちりと定めた上で、順序立てて決まった手順をふむはず。
建築家が完成品を想像しながら作業を行うように、医者が病気を見定める為に必要な情報を集めるために診察を行うように、善悪を見極めるためには決められた手順で作業を行うはず。

目標も決めずに、素人のスケッチを元にして思いつきで作った建物がすぐに倒壊してしまうように、行き当たりばったりの思いつきで行動したとしても、善悪の判断がつくはずがない。
魂の問題も同じで、目標を適当に設定して思いつきで行動をしていったとしても、魂を良い方向に導けるはずがない。 そこには何らかの法則性があるはず。

では、その法則とは何なんだろうか。
体の場合は、上手く整えられた状態の体のことを、健康だとか健やかなといった呼び方で呼ぶ。
同じ様に、よく整えられた魂は何と呼ぶのかというと、『法にかなった。』という名前がついている。
女神転生でもそうだが、法とはLAW(ロウ)で、秩序を重視し、その逆はカオスで混沌となる。 魂が上手く調整されている状態は秩序を守ることによって生まれ、秩序によって正義や節制の徳目が魂に宿る。

病気になった身体に、美味しいからという理由でステーキを与えたとしても、それによって病気が回復する見込みは薄い。ちゃんと医者に診察して薬を出してもらうべき。
同じ様に、悪い状態に陥った魂に快楽を与えたとしても、それが魂を改善させるのに役立つ可能性は低い。 ドラッグ中毒の人間に快楽を感じられるからとドラッグを与え続けたとしても改善はしない。
魂を良い方向に導くためには、悪い快楽を抑制する必要がある。

ソクラテスの考察

ここまで聞いたカリクレスは『欲望を抑える必要はない』と、ソクラテスを説得するのを諦めるようになる。
そして、まだ続けたいというのであれば、これ以降は一人で問答を続けて答えを出してくれと言いだす。
ソクラテスは、誰にも求められていないのに持論を演説するなんてことはしたくないと主張するが、黙って聞いていたゴルギアスが続きを聞きたいを言い出すので、なんとか一人で進めることにする。

一人で話すにあたり、ソクラテスは今までの議論を振り返ってまとめることにする。

まず、善と快楽は同じものではない。 カリクレスも認めている通り、快楽の中にも善悪が存在するから。
快楽は善のためにされるべきもので、その逆ではない。 善は目的に据えるものであって、善悪もわからない快楽を目標に据えてしまえば目標を見失ってしまう。
快楽とはそれが宿った時に心地よくなることで、『善い』とはそれが宿った時に善人でいられるもの。 常に良いとされる絶対的な良い人間は存在せず、良い事をしている人間が良い人間。

良さとは、規律と秩序による技術によって生まれるもので、偶然の産物ではない。 独裁者の思いつきによって良さが変わるなんて事はない。
思いつきによる欲望を満たしていく方法によって良い方向に向かうことは出来ず、悪い欲望を抑えて秩序を守る者に良さが備わる。

まとめると良い人間とは、自分の中に生まれる悪い欲望を抑え込むという技術、つまり秩序を持ち、それを守る人間のこと。
自分の欲望を上手く抑制できる秩序ある人間は、他人に接する時には正しい態度を取るし、神々を前にした時には敬う態度を取る。
善悪を正しく理解して秩序ある人物は勇気を備えている。追求してはならない事は追求せず、避けてはならない事は避けない。

人を良い方向へ導く方法

良い人というのは何事もよく行う為に、その人生は幸せなものとなるが、自分の欲望を抑えることが出来ない悪い人間は、不幸となる。
人は不幸にならないためにも、湧き出る欲望を抑えて不正を起こさないようにしなければならない。
万が一、不正を行ってしまったとしたら、それが自分自身や身内の者であったとしても、そのものに裁きを受けさせなければならない。何故なら、受けることは良いことだから。

無限に沸き起こる欲望に身を任せて、他人の命や財産を奪うような人生は、盗賊の人生と同じで、決して幸せになることはできない。
何故なら、人間は1人で生きているわけではなく、それぞれが繋がりを持つことによって社会を構築して生きていく社会的動物だから。
欲望に従って人のものまで奪う人間は誰からも愛される事は無く、人間社会の中で生きていくことは出来ずに、はじき出されてしまう。

人間社会の中で生き抜くために必要なのは他人から愛されることで、その友愛を勝ち取るためには、自分の中にある悪い欲望を抑え込んで秩序を保ち続けなければならない。
基本となるのは秩序なので、この世の総体である宇宙のことを『コスモス(秩序)』と呼んでいる。 力のある少数の者が独占するのではなく、秩序による平等こそが正義となる。
弁論術が、人の魂を良い方向へ導く技術だというのであれば、親しいものが罪を犯した際には、そのものに進んで裁きを受けさせるために技術を駆使して説得しなければならない。

例え、聞き手である親友が親族が耳をふさいだとしても、魂を良い方向へ導く為に説得し続けなければ、人を善に導く技術とは言えない。
このような事を適切に行えるような弁論家は、その身にアレテーを宿していなければならない。

また、不正を行うものと不正を受けるものを比べた場合は、不正を行うものが醜い存在で、それ故に不幸となる。
この世で一番の害悪は、不正を行うことであり、それよりも悪いことが有るとすれば、その害悪が誰の手によっても裁かれない事。
不正を働くという、人の道を踏み外した際に、誰も助けてくれない状況こそが最悪。 それに比べれば、不正を受ける害悪のほうが、まだマシ。

不正から距離を置く方法

不正を行うのも不正を行われるのも両方が不幸なので、幸福になる為には、この2つから距離を取る必要が出てくる。
では、不正を行われないようにするにはどの様にすればよいのだろうか。 ソクラテスの演説を聞いていたカリクレスに対して質問をすると、彼は力だと答える。
なら、不正を行うのをやめたい場合には、力が必要なのだろうか。それとも、意志の力だけでも達成できるようなものなのだろうか。

ポロスとの会話の中では、不正を行うものは意図的に望んで行うのではなく、自分でも気が付かない内に不正に手を染めているという話になったが、無意識に手を染めてしまう不正を止めるには、何が必要なのだろうか。
力だろうか、意思だろうか。 自分でも気がついていないのだから、これらが役に立つとは思えない。
気が付かない不正に対しては、自分の立ち位置を客観的に図ることが出来る物差しの様な尺度が必要で、それは確固たる技術ということになる。

不正を行わず不幸にならない為には…

ではこれらだけで、不正と自分の距離を離してかかわらないようにする事が出来るのかといえば、そんな事はないだろう。自分に力をつけたとしても、それ以上の力のある人間がこちら側に不正を仕掛けてくるということも十分に考えられる。
この心配を解消する為には、自分がその周辺で一番の実力者になるか、一番の実力者を味方に引き入れる必要がある。 つまり、虎の威を借る狐。 スネ夫に対するジャイアン
一番の権力者を味方に引き入れるためには、その権力者と似たような存在にならなければならない。 つまり、類は友を呼ぶ。 仲良くなるのは似た者同士。

権力者と一般市民との間で知識や常識がかけ離れすぎていれば、お互いに理解することは難しくなる。
仮に指導者が慾望を抑えるすべを知らず、ワガママで自由気ままに振る舞っていたとして、国民に節度や知恵があり優秀だった場合は、国民は指導者の横暴を許すことが出来ないだろう。
逆に、王が優れた人物で国民の方があらゆる点において劣っていたとすれば、王は国民を見下して、これもまた距離を縮めることは難しくなってしまう。

では、独裁者と親しくなれる人間はどの様な人間か。 独裁者が白いものを黒いといえば賛同し、馬の事を鹿だと言ったら、『そのとおり!』と言えるような忖度できる人間という事になる。
何故、独裁者が愚か者という前提になっているのかというと、そもそも、アレテーを宿しているような卓越した独裁者であれば、不正を行うことも不正を許すこともない。
そもそも不正を心配しなければならない状態というのが、その独裁者がアレテーを宿していない劣った人間と言うことを証明しているから。

国の指導者に媚びへつらい、不正を働くような劣った独裁者のお気に入りになることが出来れば、その独裁者の威光によって守られることになる為、その国の中では不正を受ける確率がかなり低下する。
では、もう一度振り返って、自分が不正を行う場合について考えた場合はどうだろうか。
自分が秩序を守る正しい人間であれば、意志の力によって不正を行うことを防げるかもしれないが、劣った指導者にしっぽを振り、その人物と似たような人物になる努力をしてきた人間に、自分を律することが出来るだろうか。

劣ったものに媚びへつらって、自分も似たような存在になろうとする人間は、その者も劣った指導者と同じ様に劣った人間になるはず。
であるなら、独裁者に気に入られる努力というのは、自分が不正を受ける可能性が減る一方で、自分が不正に手を染めてしまう可能性は上昇してしまうのではないだろうか。
不正に手を染めて、その行為について誰も咎めてくれないというのは人間にとって最大の不幸だが、劣った独裁者のマネをすることで、最大の不幸になる可能性を増やしているともいえる。

不幸の定義の違い

この主張に対して黙って聞いていたカリクレスが異論を唱える。
最大の権力者に隷属する事で似たような力を得ることが出来るなら、自分に敵対するものは死刑することが出来る力を手に出来るのだから、それは不幸なことではないだろうと。
この意見に対してソクラテスは、権力者や、それに付き従う自分の判断が間違っている場合は、善良な市民を殺してしまう可能性をはらんでいることを指摘するが、カリクレスは、それこそが最大の不幸ではないのかと主張する。

何も不正や罪を犯していない人間が、冤罪によって、また、時の権力者の思いつきによって殺されるのであれば、その被害者こそが最大の不幸を受けるのではないかと。
カリクレスは、ソクラテスの主張する『不正を働く者、そしてその人物に付き従っている者』が最大の不幸をを受けるという点について納得ができない。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その10 『臆病者は幸福なのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com
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前回の振り返り

カリクレスは、自分から湧き出る欲望は抑える必要はなく、その欲望を満たし続ければ良い。そうする事で、幸福へと到達できるし、そうする事が正義だと主張します。
一方でソクラテスは、本当にそうなのか疑問に思う。例えば皮膚病にかかっている人間は、常に肌を掻きむしりたいという欲望があって、それを実行することで簡単に欲望が満たせる状態にあるが…
皮膚病にかかった彼は幸せなのだろうかと質問をし、カリクレスは、自身の発言の一貫性を守るために、しぶしぶ、皮膚病になる方が幸せだと主張する。

しかしこの態度が、ソクラテスは面白くない。
前回のゴルギアスとの対話の時も、ゴルギアスがその様な態度に出て本心を話さなかったせいで、弟子のポロスによって卑怯者呼ばわりされた。
其のポロスとの対話の時も、ポロスが本心で納得できない状態なのに納得した状況で乱入されて、カリクレスによって卑怯者呼ばわりされた。

今回もまた、カリクレスは本心とは違う形の答えに対して、同意しようとしている。これでは先の2回と同じ結末を繰り返すだけなので、本心で思っていないことには同意しないことを進める。
これは単純に同じことの繰り返しを避ける為だけではなく、ソクラテス自身が、求める真理に到達できなくなるから。
カリクレスが試金石として機能するためには、知恵を好意と率直さが必要だったが、そこから率直さが抜け落ちてしまうと、試金石としての意味がなくなる。

そこでソクラテスは、カリクレスに率直さを取り戻してもらう為に、別の質問をすることにする。

欲望が満たせない状態は不幸なのか

まず、概念には真逆のものが存在することを確認する。
例えば、熱いという概念には冷たいという真逆の概念が存在する。 眼の前のコップの注がれている水が、熱い状態でありながら冷たい状態でいられることはありえない。
同じ様に、強さや美しさも同じで、美しくありながら見にくい状態であることは出来ないし、強くありながら同時に弱くあることは出来ない。強い人間でも弱い部分はあるが、それは、力や身体が強い一方で精神的に弱いなど、部分が別の場合のみ。

この事実をカリクレスと共に確認し、次に、欲望と幸せについて考える。
カリクレスの主張によると、欲望の状態が何らかの手段によって解決することが出来れば幸せに近づくそうだが、では、欲望がある状態と幸せな状態は、真逆の概念なのかを考えてみる。
仮に真逆の概念だとした場合。 欲望の反対にある幸せは良い事と言い変えることが出来るので、その逆の位置にある欲望は悪いことと言い変えることが出来る。

先ほどの前提にたてば、真逆の概念は同時に宿ることはなかった。 つまり、良い状態であると同時に悪い状態であることはなかった。
では、欲望と幸せの関係性で観てみよう。 のどが渇いている時は、水に対する欲望が高まっているといえる。この時に水を飲むと喉が癒やされて快感を得るが、この時、水に対する欲望は完全に消えているだろうか。
水を飲んで美味しいと思うのは、喉が渇いているときだけで、水を飲むという行為そのものが快楽につながるわけでも幸福につながるわけでもない。

仮に水を飲みすぎてお腹がタプタプになっている状態で、更に水をのむのは快楽どころか苦痛を伴う。
では、水が美味しいと思うのはどの状態なのかを考えると、水に飢えている状態のときのみという事になる。つまり、水を飲みたいという欲望と快楽は共存していて、一方が現れれば一方が消えるという関係ではない。
水をのむ場合、飢えている状態で飲む1口目が一番快楽を得られて、欲望が満たされていくに連れて、快楽の方も薄れていく。 つまり、快楽は慾望に依存する関係に合って、慾望がなければ快楽も存在しない。

反対の概念のものは同時に宿ることは不可能にも関わらず、慾望と快楽の関係でいえば、同時に宿ることがあるどころか、欲望がなければ快楽も感じない関係性となっている。
ということは、慾望と快楽は、善と悪のような反対の概念ではないということになる。

勇気ある人間とは

カリクレスの主張では、政治などの知識に加えて勇気を持ち合わせていなければ支配者の資格はないそうなので、では次に、勇気について考えてみる。
例えば戦場で、交戦中の敵が撤退を始めた場合について考えてみる。 この場合、喜ぶのは臆病な人間の方か、勇気がある人間の方かどちらだろうか。
これとは全く逆のケースで、こちらが不利な状態の時に、相手がここぞとばかりに攻め込んできた場合、その状況に恐れおののくのは、臆病な人間か、それとも勇気ある人間か、どちらだろう。

他人の主観に成り代わることは出来ないので、憶測することしか出来ないが、おそらく、臆病者であれ勇気ある者であれ、戦争の中に突入していくという状況は、恐怖を感じる度合いに強弱はあるかもしれないが、両方が恐怖を感じるだろう。
たとえ勇気を持つものであったとしても、もしかしたら死ぬかもしれないという状況に突入していくのに、何の緊張感もない人間はいない。
これが臆病者であれば尚更で、臆病者は、死にたくない、傷つきたくないという思いがより強く現れて、より強い恐怖を感じるだろう

これとは逆に、敵が戦闘から逃げていく状態は、自分が死ぬかもしれないという状況から抜け出れるわけだから、かかっていたストレスが無くなることによって、開放感を得ることが出来るだろう。
この時の恐怖と開放感による快楽は、先ほどの慾望と快楽と同じ様な形に成っていて、戦闘状態によるストレスが高ければ高いほど、それがなくなった時の開放感は強いことになる。
つまり勇気のある人間は、戦闘状態に入る時にはわずかに緊張する程度なので、敵が撤退しても其の緊張緩む程度の印象しか受けないが、敵が攻め込んできた時に絶望していた臆病者は、敵が撤退する時には極度のストレス状態から開放されるので、とてつもない開放感と快楽を得ることになる。

臆病者は幸福なのか

カリクレスは、権力者などの支配者は、より多くの慾望を抱き、それを満たす事で満足感を得て、満足感を積み重なえることで幸福に成る。
幸福になる為には、より多くの欲望が必要になる為、欲望を抑えるという行為は幸福から遠ざかっていく行為なので、節制などは必要がない、欲望が薄いものは満たされた際の快楽も薄い為、生きている意味が無いという主張だった。

しかし、戦場という場面において勇気を持つ勇者と臆病者を比べてみると、臆病者は敵が襲ってきた時に絶望するほど怖がり、敵が撤退を始めると極度のストレス状態から開放されて大喜びする。
一方で勇者は、敵が襲ってきた時にさほど恐怖を覚えずに少し緊張する程度なので、敵が逃げても緊張が解けるだけで、喜びはそれ程大きなものではない。
恐怖というのは、自分の命や身体に傷をつけたくない、奪われたくない、助かりたいという慾望ともいえるが、その慾望が、そして開放された時の快楽が大きいのは臆病者の方。

より多くの欲望を抱き、それを満たすことによる快楽を重ねることが幸福への道というのであれば、臆病者こそが、大きな慾望と達成された時の快楽を受け取っていることに成る。
では、勇者と臆病者とでは、臆病者のほうが優れている事になるのだろうか。 また、より大きな欲望と達成する力を持つ人間が、同時に勇気を持つことは可能なのだろうか。

良い快楽と悪い快楽

この質問を投げかけられたカリクレスは、快楽の中にも善悪が存在すると言い出す。
そして、欲望やそれに伴う快楽の善悪を見極める為には、専門家による技術が必要になると付け加える。
また、新たな条件が追加されてしまった。

では、快楽を善悪に分ける専門的な技術とは何なんだろうか。
技術という言葉が出てきたので、先ほどポロスとの間で行った、迎合と技術の違いというのをヒントに考えてみることにする。
迎合と技術の違いとは何かというと、身体についての技術は医術がそれにあたり、迎合は料理法ということになる。

医術は患者の意見に関わらず、身体について最善の事を行う為に技術と呼べるが、料理法には正解がなく、食べる者の好みによって作り方や分量が変わる為に、迎合ということになる。
勇気であるとか、支配欲やそれに伴う満足感は精神的な分野である魂の管轄なので、この理論を、人間の魂の方にも当て嵌めてみて、分かりやすいものから仕分けをしていくことにする。

技術と迎合の仕分け

分かりやすい分野として、エンターテイメントの分野がある。 この分野に属しているものは全て、迎合と考えてもよいだろう。
例えば映画は、お金を払って見に来てくれた観客を満足させなければならない。 一方で、見に来てくれた客を良い方向に導く義務はない。
世の中を良い方向にしたいという思いから、映画の中にメッセージを込めて制作することは有っても、その映画が全体として面白く感じなければ、作品としては意味がない。

観客を良い方向に導きたいが為に、妙に説教臭くなったり、観ていることが苦痛に感じたりする映画には次がない。
1回で打ち切られると今後の活動ができなくなるので、製作者は、観客に気に入られるように迎合して作らなければならない。
これは漫画でも小説でも全て同じで、観客に見て感じて判断してもらうものは、観客がどの様に受け取るのかを考えた上で、迎合して作らなければならない。

では、音楽はどうだろうか。
音楽も同じで、聞き手が心地よいと思う音楽が良い音楽で、その音楽に絶対的なものは存在しない。音楽を奏でるものは、観客の反応を見ながら間や強さを調整する。
一定のテンポで楽譜通りに奏でることが良い音楽ではなく、聞き手の反応を見ながら、つまり聞き手に迎合しながら演奏するのが良い音楽かといえる。
その間や、観客が何を求めているのかは、技術ではない。 その為に、理論に落とし込めないし他人に言葉で伝えることもテキストに書き残すことも出来ない。 場数を踏んで経験を重ねるしか無い。

この音楽には、単に1つの楽器で演奏するものもあれば、複数の楽器で演奏するもの、そして、ヴォーカルを入れるものが存在する。しかし、この全ての音楽が、技術ではなく迎合といってよいだろ。
何故なら、聞き手が苦痛に思い、二度と聞きたくないと思いながらも、聴くと人間の魂を確実に良い方向に持っていく音楽など無いから。

この様に考えていくと、歌が入った極というのも迎合に振り分けることが出来る事が出来るということが分かる。
では、歌付きの曲から、リズムとメロディーを取るとどうなるのだろうか。 歌からそれらを取ると、詩だけが残ることになる。
詩(ポエム)は、人の感情や様々な理論も書き残したりするが、これも迎合なのだろうか。 この詩もやはり、その詩を読んだ人間が感動するものしか後世に語り継がれることはないので、読む人間を意識して作られたもの、つまり迎合と考えるべきだろう。

詩は、聴いた人間にとってためになる事や良い方向に導く内容のものもあるが、最終的には聞き手がどの様に思うのかが重要視されている為に迎合というのであれば、弁論家が行う街頭演説はどうなのだろうか。
街頭演説は、立ち止まって聞いてもらう為に聞き手の心を掴む必要がある。 聞き手の心をつかむ必要があるのであれば、聞き手が何を望んでいるのかを考えながら話す必要がある為、迎合に当たるのではないか。
これに対してカリクレスは、確かに、聞き手の望むものだけに関心を寄せて話す人間はいるが、聞き手を良い方向に導く人間もいるとして、一概にはどちらかに決めることは出来ないと主張する。

弁論術は技術か迎合か

ソクラテスはこの回答を受け入れて、街頭演説には、聞き手を良い方向に導く技術を持つものと、迎合しかしていない2種類が存在することを良しとする。
だがこの場合、聞き手が苦痛になってでも話すことを止めず、最終的に聞き手を良い方向に導く事が出来るものだけを立派な弁論家だとする。

ここでソクラテスはカリクレスに対し、『聞き手の事を思い、彼らが良い状態になる為に苦痛な言葉を投げかけ、彼らが耳を塞いでも語ることを止めずに良い方向に導こうとしている演説歌を知っているか?』と問いかけ、カリクレスは『知らない。』と答える。(ゴルギアスは?)
では、もう少し範囲を広くして、今現在現存していないかこの人も含めるとどうかと問いかけると、カリクレスはテミストクレスペリクレスの名前を挙げる。

ソクラテスは彼らの名前を聞いて、確かに、カリクレスの主張する善の形。すなわち、増大し続ける欲望をそのままにして、その欲望を満たす事を卓越性と呼ぶのであれば、その事に専念していた人物という意味では、当てはまるかもしれないと答える。
しかしその話は、欲望にも善悪があり、良いとされている欲望のみを満たそうとするものが卓越した人だったという結末だったはずで、欲望の善悪を見極める為には、特定の技術が必要だったという結果になった。
では、先ほど名前を上げた誰が、慾望の善悪を見極める技術を持ち、実行しているのだろうか。 カリクレスは議論が面倒くさくなり始めたのか投げやりに、『上手く探せば見つかるんじゃない?』という。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その9 『足るを知る事は不幸なのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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前回はこちら
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本能か秩序か

カリクレスは、人間が作り出す社会性によって生まれた常識ではなく、人間に備わっている本能に従うことこそが正義で、欲望を満たし続けることで幸福になる。
力を持つものは、その力を奮って手に入れたいものを手に入れればよいし、自分より弱い人間からは奪い取れば良いと。
強いものは多くを求め、必要とあらば弱者から奪い取ることこそが正義なので、侵略戦争は起こると主張していた。

それに対してソクラテスは、1人の権力者の力よりも、大勢の大衆の力のほうが大きいのではないか。であるならば、大勢の大衆は少数の大富豪から財産を奪う権利があるし、そうする事が正義ということになる。
一般大衆は、多くの富を貯め込んでいる富豪から財産を奪い取り、皆で再分配する事が正義ということになり、これは、人間が作り出した社会の法律と同じ事になる。
なら、法律で定めている様に、大多数のものが支持する再分配こそが正義なのではないかと切り返す。

しかしカリクレスは、自分が言っている力とは、単純な筋力や身体の頑丈さなどでは無いと主張。 では、どの様な力の事を言っているのかという質問に対して、『立派さ』と答える。

立派な人とはどんな人のことなのか

ここで再び、『立派さ』という様な言葉が登場する。
一番最初の対話相手であるゴルギアスも、その次に割って入ったポロスも、そして今回のカリクレスも、いざ、弁論術によって得られる力の正体を聴くと、『立派なもの』という抽象的過ぎる表現で答える。
しかしこれでは、抽象的過ぎて分からない。 立派な状態とはどの様な状態なのか。 何を習得すれば立派になれるのか。 謎は全く解明されない。

ソクラテスは、立派な人とはどの様な人なのかを探るために、『立派な人』というのは思慮深い人たちのことかと聞き、『そうだ』という返答を得る。
では、思慮深い人たちというのは、思慮のない人たちから搾取してもよいのかと聴き直すと、これもまた『そうだ』と返ってくる。

だが、この返答は矛盾があるように思える。 思慮深いとは、周りの環境も踏まえて深く考えて気遣いができるという意味合いがある。
深く考えて周りに気遣いできる人間が、自分より劣っているというだけで弱者から搾取するのだろうか。 それとも、カリクレスがいう思慮深いとは、単純に多くの知識を持っていることなのだろうか。
同じ様に考えたのか、ソクラテスも例を出して、思慮深い人間は弱者を押しのけて物を独占してよいのかを考えてみる。

例えば、何処かの地域で災害があって、地域住民が学校の体育館に非難してきたとする。
幸いにも、学校には災害に備えて数週間はやり過ごせる備蓄された食料があったとしよう。
そしてその場には、ただ一人だけ栄養士がいて、被災者の中で彼だけが、食べ物に関する飛び抜けた知識を持っていたとする。

この栄養士は、被災者の中で飛び抜けて知識を持っているという理由で、備蓄された食料を独り占めしてもよいのだろうか。
それとも、自分が持つ栄養士としての知識を生かして、みんなに適切な量を分配すべきなのだろうか。

立派な人とは国家運営に関する知識を持つもの?

この例え話を聞いたカリクレスは怒り出し、自分が言っている知識とは、そういった知識のことではないと言い出す。
では、どの様な知識がいるのだろうかと訪ねると、国家公共についての知識だと答える。
つまり、国を運営する上で必要な知識を備えることが重要で、そのようなものは出世して大物政治家になったり指導者になったりして、絶大な権力を手に入れることができるという事のようだ。

そして、知識だけではなく、勇気も持ち合わせていなければ駄目だと、必要なスキルを追加する。
しかし、この態度にソクラテスが物言いを付ける。 カリクレスは、ソクラテスが確認を取る度に答えを変える。
最初は、力のあるものだといっておきながら、その次は知識があるものだと言い出し、最後は、その知識は政治的な知識で、その上、勇気も持っていなければならないと…

確認を取る度に答えが変わるのでは、まともな議論が出来ないので、『他人の命や財産を奪っても許される強い人間』の定義を教えて欲しいと詰め寄る。(会社でこういう上司がいると困る)
カリクレスの主張では、国家公共の知識について詳しくて、政治運営できる能力が有って、勇気を持ち合わせているものが他人や国を支配する資格があるとのことだったが…
では、その資格がある支配者は、自分自身も支配することが出来るのかと質問をする。 つまり、自分自身の欲望や衝動を理性によって抑えることが出来るような人間なのかと質問をする。

立派な人は欲望を抑える必要はない

カリクレスは当然のように、この質問を否定する。
彼の主張では、力がある指導者で、その人物が治める国にも力があるのであれば、その指導者は自分の国よりも力を持たない国に対して侵略戦争をしても良いといっていた。
また、自分の欲望の赴くままに他人を陥れてもよいし、その人物の財産を横取りしても良いとすらいっていた。 この様な行動を取る人間が、自分を律して欲望を支配できているはずがない。

カリクレスは、力のある人間は欲望を抑える必要などはないし、『抑えろ』と忠告する人間は、自分には欲望を満たすだけの力が無く、満たしたくても満たせないから、嫉妬しているだけ。
力を持たないものは、他人の能力に嫉妬しているから、力を持って自由に振る舞う事を、まるで悪い事のように主張する。
大半の人間が力を持たない嫉妬しか出来ない奴らだから、自由に振る舞ったり富を分配せずに貯め込む事を悪いことだと吹聴し、その主張をあたかも正論のように学校などで教えて、常識のようにしてしまった。

力のない大多数の人間によって社会の常識が塗り替えられてしまったので、才能のある人間は、本来なら満たせる欲望を満たさずに我慢させられるという、まるで奴隷のような生活を強いられている。
力のある人間は、欲望を満たせる力を持っているのだから、その力を自由に使って欲望を満たすべき。それを無理やり抑え込んでしまえば、欲望を満たせないというストレスによって不幸になってしまう。
そんな理由で不幸になるのはバカバカしいので、欲望を満たせる力があれば、自由奔放に贅沢な生活を送るべき。 それこそがアレテーであり、幸福であり、正義だ。

負けたヤツが悪

足るを知り、手に入れられるものも手に入れずに、欲望を抑えて生きることに意味はあるのだろうか。
幸福は欲望を満たすという行動の中だけにあり、それを放棄するというのであれば、その人生には何の意味もない。
何の喜びも得られない人生は、道端に転がっている小石のような人生。 感情の起伏が一切ない人生に、一体何の意味があるのだろうか。

この様に、ソクラテスとカリクレスで意見が大きく異なってしまうのは、ソクラテスの考え方が絶対主義で、この世には絶対的な正義や良い事が有ると思って理論を組み立てているのに対し、カリクレスの思想は相対主義だから。
正義や善は、その人の立場ごとにそれぞれあって、その人間が起こした行動の結果によって善悪が判断される。

漫画、ジョジョの奇妙な冒険の第3部で、後に味方となる花京院典明という人物が、最初は敵対する人間として出てきますが、彼は、善悪についてこの様に語っています。
『「悪」?「悪」とは敗者のこと 「正義」とは「勝者」のこと 生き残った者のことだ 過程は問題じゃあない 負けたやつが「悪」なのだ』
彼はその後、主人公である承太郎に倒されてしまい、結局、自分自身の理論によって自分自身が悪人となる。

同じ様に、カリクレスの主張では、ペルシャの大群がギリシャに攻め込んでくるのは、その大群を指揮する能力の有るクルセクルスにとってみれば、ギリシャの土地を我がものとしたいという欲望に従って行動できているので、良い事になる。
クルセクルスが力の無い王であるなら、それ程の大群を動かすことは出来ない為、それ程の強大な武力を自分の思い通りに出来るという点で、自分より弱いものを従わせる資格があるということになります。

それに対して、防衛戦を300人という少数で立ち向かわなければならなかったスパルタの王、レオニダスは、その力がなかった為に、悪という事になるす。
では、ペルシャの王であるクルセクルスは、絶対的な善なのかというと、そうではない。
彼はその後、国を安定して運営することができなくなり、側近のアルタバノスに暗殺されますが、暗殺された事で彼は悪となり、暗殺したものが正義の鉄槌を下したということになる。

欲望に動かされ続ける人生は幸せなのか

カリクレスの主張では、欲望を満たすことが幸福で、欲望を満たし続けることが良い人生だということになっていた。しかし、この主張では、人間の幸せというのは欲望に依存していることになる。
ソクラテスは、『例えば、A・Bの2人の人間がいて、それぞれの男の前には樽が有るとする。 樽の容量そのものを欲望として、欲望を満たす行為を、その樽に貴重な水を入れる行為に置き換えて考える。
この条件で、Aの樽は傷一つ無く、液体を注いだら注いだ分だけ樽に溜め込まれるとする。その一方で、Bの樽には穴が空いていて、貴重な水を注いでも注いでも外に漏れ出てしまう状態だとする。

Bの人間は、樽に穴が空いている事によって、貴重な液体を注いでも注いでも穴から抜け出てしまう状況に追い込まれる。 樽の空き容量の大きさは、そのまま欲望の大きさにつながる為、Bは漏れ出た液体を常に補充し続けなければならない。
その一方でAの人間は、樽に穴が空いていない為、一度樽を一杯にしてしまえば、もう頑張る必要がなく、満たされた樽を見守るだけで良いことになる。 このAとBは、どちらが幸せなのだろうか。
この質問に対してカリクレスは、Bさんだと即答する。 欲望を満たす為に常に動き続け、その中で喜怒哀楽を感じることこそが人生であり、何も行動しないAの人生は生きているとは言えないと。

次にソクラテスは例を変えて、アトピーや蕁麻疹になった人を例に挙げる。 これらの人たちは、肌に異常がない人たちとは違って、常に皮膚を掻きむしりたいという思いを抱いている。
そういった意味では、この様な症状を持たない人間よりも欲望がある事になる。 彼らは、その欲望を満たす為に常に肌をかきむしる事で幸福に至ることが出来るのだろうか。
先程と同じ理屈を当てはめるのであれば、皮膚病にかかっていない人生は、皮膚を掻きむしりたいという欲望がない人生で、当然、掻きむしった時の気持ちよさも感じることが出来ない。

その様な欲望もそれを達成した時の快楽もない人生は、カリクレスの言葉を借りれば『道端に転がっている意思のような人生』で、生きている意味がなく、死んでいるのと同じ事になる。
この例え話の場合は、皮膚病にかかる人生か、それともかからない人生か、どちらの方が幸福になれる人生なのだろうか。
この質問に対してカリクレスは、本心では病気にならないほうが良いと思いながらも、そうしてしまうと先ほどの自分の主張に矛盾が出てしまう為に、皮膚病にかかる方が良いと主張する。

先ほどまでのカリクレスの主張には、一定の理解を示す人もそれなりの割合でいたかもしれない。
特に日本は自己責任論が声高に叫ばれる国なので、力がない人間は悪で、強者こそが正義という主張がもてはやされる傾向にあるので、カリクレスの欲望を満たす力があるのなら、それを満たすことが幸福につながるし正義だというのは、受け入れやすいと思う。
学校で落ちこぼれるのは、学校程度の勉強についていけない頭が悪い人間が悪いし、それが理由で良い会社に就職できずに低賃金なのは、本人の努力不足だと言われ、その理論が一定の支持を勝ち取れる。

力があるのであれば、その力を使って何をしてもよいし、無限に沸き起こる欲望を満たし続けていれば、それだけで幸福になれる。 不幸になるやつは努力不足なんだから、努力してから出直してこい。
この意見は本当に正しいのだろうか。 力がある人間であれば何をしてもよいのであれば、ドラッグを湯水のように買うことが出来る資産を持つ人間は、継続的にドラッグを買って摂取し続けてよいのだろうか。
大抵のドラッグには中毒性があり、継続的に摂取するとドラッグの刺激に対して依存してしまう。 依存状態になれば、常にドラッグを求める欲望が生まれることになり、ドラッグを摂取し続けている限りは幸福ということになる。

しかしこの状態は、幸福なのだろうか。
(つづく)
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参考書籍

マイケル・ムーア監督『世界侵略のススメ』 基本アメリカdisの内容だけど日本人こそが観るべき映画かも

先日ですが、なんとなくNetflixを検索していると、マイケル・ムーア監督の『世界侵略のススメ』という作品を見つけたので観てみました。
この監督の作品は、『キャピタリズム』と『ボーリング・フォー・コロンバイン』を観たことが
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ありその時は興味深く観れたたということもあって、見つけてすぐに見始めた次第です。



(画像はamazonリンクです)


今回はこの映画の、ネタバレ感想を書いていきますので、内容を知りたくない方は、先に観ることをおすすめします。

マイケル・ムーアによる世界侵略

この作品は、世界中の戦争に介入し、様々なところに兵士を派遣したり無人機で空爆を繰り返しまくっているにも関わらず、自国に必要なものを何一つ手に入れることができていないアメリカ軍が、マイケル・ムーアに意見を聞くために招集するところから始まります。

アメリカといえば、世界の警察を気取って様々な地域に軍事介入をする!という名目で、様々な地域に軍事介入をして、石油利権などの金になりそうなタネを掻っ攫っていくという戦略を撮っていますが、それがイマイチうまくいっていない国だったりします。
大した利権が奪えないのに、軍事費だけは嵩んでいって、税金の6割が軍事費に消えていくという財政状態。
この状態にしびれを切らしたアメリカ軍トップが、マイケル・ムーアに意見を求めるのですが、そこで出された提案というのが、『取り敢えずアメリカ軍の兵士に休暇を出して、そのかわりに、私が1人で侵略に行ってくる。』というものでした。

物凄い予算と人員をかけても出来なかった世界侵略を、マイケル・ムーアたった1人で出来るのか。
様々な国を渡り歩く彼の行動を追っていくのが、この映画の大まかなあらすじとなっています。

世界侵略の定義とは

この作品は、たった一人で世界を侵略しようとするマイケル・ムーアに密着したドキュメンタリー映画ですが、では、彼が定義する世界侵略とは何なのでしょうか。
先程も書きましたが、アメリカが様々な国に対して軍事介入するのは、自国の利益になる為の様々な利権を手に入れるためです。
最近では、中国にIT投資を控えろと圧力をかけて、聞き入れられなければ関税を引き上げると脅しをかけたりしていますが、自分たちに追いつこうとしている国を蹴落として、他国にある利点を武力で奪うのが、アメリカの行動です。

この行為を侵略として、もっと単純化していくと、他国の優れたところを自国に持ち帰るというのが、侵略ということになります。
他国にある石油を自分のものにしようとするなら、その利権を手に入れなければなりませんし、豊かな農地を手に入れようと思えば、武力で土地を勝ち取らなければなりません。
その為に宣戦布告をし、他国を敵と認定して攻め込んでいくのが侵略戦争です。

しかし、今回マイケル・ムーア氏が行おうとしている侵略は、得ようとしているものが石油や土地のような実物資産ではなく、他国が持つアイデアです。
アメリカよりも優れたアイデアを持ち、それを実践し、実際に効果を上げているアイデアを聞き出してアメリカに持ち帰り、それを実践することでアメリカという国を優れた国にしようというのが、マイケル・ムーア流の侵略です。

相対的にひどい状態のアメリ

この映画では、マイケル・ムーア氏が様々な国を訪れて、その国の優れているという制度をインタビューしにいくのですが、当然ですが、『アメリカではどうなのか』といった対比映像が出てくるのですが…
そのアメリカの状態が、かなり酷い。 発展途上国なんじゃないかと思うぐらいに遅れている印象を受けました。
これは、映画の演出としてその様に取っているということもあるとは思いますが、それを差し引いたとしても酷い状態でした。

特に、差別問題や薬物問題を取り扱った部分が酷く、アメリカの闇の深さを感じさせるような演出となっていました。
具体的には、ポルトガルでは薬物自体が非合法ではなく、所持していても使用していても罪に問われる事は無い。
一方でアメリカはというと、国として積極的に厳しく取り締まり、所持や使用を行うと逮捕されてしまい、懲役刑となってしまう。

一見すると、薬物中毒者が取り締まられることなく街を歩き、誰でも買って使用できるような状態になっているポルトガルの方が危険で、アメリカのほうが安全のような気がする。
しかし実際には真逆で、ドラッグが合法になった事でドラッグに手を出してしまった人が、初期の段階で身近な人に相談をしたり、病院を訪れて依存症を治そうとしたりするため、依存症患者自体が激減しました。

一方でアメリカはというと、いろんな薬物を違法薬物に指定して刑罰を課すことで、誰にも相談できない状態を作り、結果として依存症患者は誰にも相談することが出来ずに、そのストレスから更に薬物にはまり込んでしまう。
結果として依存症患者が増えるだけでなく、後戻りできないほどに重症化してしまうという状態になってしまう。
この他にも、非合法であるがゆえに取り扱えるのが闇市場だけになり、反社会勢力の資金源になって、彼らを肥え太らせているという状態にもなってしまう。

ではアメリカは何故、この様な意味のないドラッグの厳罰化をしているのでしょうか。
それは、アメリカでドラッグの厳罰化が始まった時期に関係します。 この時期は、白人達によってアフリカから拉致されてきた黒人奴隷たちが、自らの公民権を主張して運動し始めた時期とかぶります。
白人社会のアメリカとしては、彼らが鬱陶しく、僅かな権力の移譲もしたくなかった為、ドラッグを禁止薬物に指定することで、簡単に荷物検査や逮捕を行えるようにして、大量の黒人を逮捕した上に刑務所に入れる事を可能にしました。

これを読まれる方は、ドラッグの非合法化は全国民に対して行われるので、黒人が捕まるのは、黒人だけがドラッグを使っていたからと思われるかもしれませんが…
実際には、黒人が多く住む地域でだけパトロールを強化して、偶然にも白人の薬物使用者に遭遇したとしても見逃して、黒人だけを逮捕するという行為を行っていたのです。
黒人を逮捕して大量に刑務所に送って、刑務所に単純労働を発注すれば、激安で作業を行うことが出来る。

公民権を訴える黒人を一掃するだけでなく、刑務所に入れて管理することで、再び奴隷にする事が出来るということで、一斉検挙が行われたそうです。
他の人が書かれた本などにも似たような記述があるので、これはマイケル・ムーア氏の妄想というだけではないのでしょう。

厳罰化によって悪化する世の中

この映画を観ると、先ほど紹介したドラッグの軒でもそうですが、厳罰化によって自体が好転することはそれほどないように思えます。
例えば、世界一の学力を誇るフィンランドでは、統一試験を禁止して宿題をなしにし、子供には子供らしく遊ぶことを進めているそうです。
アメリカだけでなく日本もですが、これとは真逆の方向に全力で突っ走ってますよね。

何故、統一試験が駄目なのかというと、統一試験での高得点を目標に据えると、授業の大半がテスト対策に成るからです。
道徳や哲学や美術や音楽など、生活を豊かにするために必要な授業は削られて、テスト対策のための暗記作業だけを行うようになり、結果として総合的な学力が下がってしまうようです。

他には、刑務所での受刑者の扱いなどです。
ヨーロッパでは死刑廃止の国が多いですが、その中でも再犯率が低い国の刑務所では、受刑者が人間らしい扱いを受けています。
各個人に部屋が与えられて、その鍵は自分自身で管理する。 部屋にシャワーやトイレも付いていて、ゲーム機までも持ち込める。
施設には趣味を楽しんだり技術を高めるスペースが沢山あり、知識を得るための充実した図書館まで整備されています。

一方で日本はというと、罪も確定していないゴーン氏は冷暖房どころか何もない狭い部屋に数ヶ月間監禁されるという状態。
で、どちらが再犯率が低いのかというと、ヨーロッパだったりするわけです。

何故かというと、人間は社会的な動物なので一人で行きていくことは出来ないので、社会に馴染む必要があるわけですが、日本のように受刑者でもなく容疑がかけられただけの人でも人権が剥奪されてモノのように扱われてしまうと、人を信じることができなくなります。
人を信じきれない人間が社会に馴染めるのかというと、当然ながら馴染めないので、社会からはじき出されてしまうことになります。
こうした人は社会に対して何の思い入れも無くなるだけでなく、負の感情を持つ為、再び社会に対して牙をむきます。

一方でヨーロッパのように、犯罪者であっても人間扱いしてもらうと、人を信じることや社会の重要性を身をもって感じることが出来るため、自分も社会に対して貢献しようという思いが湧いてくるのでしょう。
貢献したいと思っている社会をぶち壊すような人間は少ないので、再犯率が低下する傾向にあるのかもしれません。

日本人こそ観て欲しい

この作品の中では、他の国に対して相対的にアメリカの酷さを描いているので、アメリカの酷さが目立ちますが、日本人にこそ観て欲しいし、観た上で自分の国の状態を見直して欲しいと思いました。
何故なら、作品の中で酷いと言われているアメリカの状態よりも悪いと思われる部分が、今の日本には多くあるように思えるからです。

この映画に登場する国の多くが、自分個人の降伏だけを追求するよりも、社会全体を良い方向にする方が、回り回って自分たちのためになるという考え方が基本となっています。
しかし日本はどうでしょうか。 日本で辛い生活を余儀なくされている人たちに対して投げかけられる言葉は、『自業自得』です。
自己責任論の日本では、強者こそが善で、弱者は切り捨てるべきだという考え方が多いように思えます。

稼いでいる大企業は善だけれども、その大企業に安月給で使われている人間は自業自得で悪という考え方を声高に叫ぶと拍手喝采されるのが日本だったりします。
ただ、経済というのは大多数の弱者の消費行動に支えられている為、強者だけを持ち上げる考えは、いずれ破綻してしまうように思えます。
破綻してからでは遅いので、今からでも意識改革をするためにも、この作品は見ておくべきなんじゃないかなと思いました。

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その8 『欲望を満たし続けることで幸福になれるのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com
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カリクレスの乱入

ソクラテスが吟味した所、不正を働くのと不正をされるのとでは、不正を働くほうが醜く悪いこと。
そして、不正がバレた方が良いのか、それとも、不正がばれない方が良いのかを比べた場合は、不正がばれない方が良いことが分かった。

しかしこの理屈に納得できないカリクレスが、議論に乱入してくる。彼も、納得は全てに優先するという考え方なのだろう。
カリクレスの主張としては、ソクラテスの主張が正しいとするならば、私達の普通の感覚とは真逆になってしまうというもの。

普通の人間であれば、権力を振りかざして理不尽な行動を相手に取るのと、その被害を受けるのとでは、被害を受ける法が嫌に決まっている。
同じ様に、仮に自分が自分の環境を有利にするために不正を働いたとしたら、それがバレない方が良いに決まっている。
皆がそう考えているし、そう思うことが当然だが、ソクラテスの主張はその本能や直感に反するもので、受け入れることが出来ない。

では何故、ポロスとの対話を続けた末に、受け入れることが出来ないような結果になってしまったのは何故なのか。
カリクレスによると、それは、人間が考えたり判断を下すは、『自然本来の法則』と『法律習慣上の法則』の2つの考え方があるからだという。
自然本来の法則とは、人間が本来自然に持っている感情や直感的な考えと言ってもよいだろう。 一方で法律習慣上の法則は、知識や経験によって、後から身につけることが出来る理性的な考え。

『本能』と『社会性』

そして、人の直感と論理の世界には隔たりがある。何故なら法律は、大多数の権力も富も持たない市民やそれ以下の者を考慮して作っている。
何故なら、富や権力を持つ支配者層と市民やそれ以下の者の人数を比べた場合、圧倒的に権力者の人数は少ない。
圧倒的に少数の者を優遇するような法律は常識を作ってしまえば、圧倒的多数の者が反乱を企てる可能性も出てくる。

その為、富を必要以上に貯め込む事は悪だとされ、一方で、溜め込んだ富を再分配して分ける行動は良い行動だとされる。
しかしこれは、自然本来の法則には反する事で、人間は、他人に分前なんてやりたくないし、独り占め出来るものならしたいと思うのが当然。
この様に、経験則による社会の常識や論理の世界というのは、人間の直感と反することがよくある。

ソクラテスは、この2つの法則が反することを利用して、ポロスが人間の直感的な感情で答えた事を社会の法則として捉えて、相手の主張を曲解している。
その様な口先の技術で相手をやり込めるのは、恥ずべき行為だと主張する。
ソクラテスは乱入される度に、『恥ずべき行為』だとか『卑怯者』呼ばわりされているが、前にも書いたが、相手は口先の技術だけで他人を支配してやろうと目論む弁論家である。

その弁論家が口喧嘩で負けて『卑怯者』と罵るのは、もう、色んな意味で完敗のような気がする。

おとなになって勉強するのは無駄なこと?

またカリクレスは、ソクラテスがいい年をして哲学にのめり込んでいるのも否定する。
カリクレスによると、哲学というものは社会に出るまでの未成年が行うべきものであって、大人になれば、そんな者にうつつを抜かさずに社会経験を積むべきだという。
哲学は頭の体操として幼年期に行うのは喜ばしいことだし、大いにやればよい。しかし大人になったら、出世するための処世術を身に着けるべき。

このカリクレスの主張は、今現在でも、多くの大人たちによって主張されている。
『三角法やピタゴラスの定理が、社会に出て一体何の役に立つのか?』『社会に出れば、釣り銭の計算をする為の最低限の知識があれば良い。』『学校で勉強することの大半は、社会に出れば無意味た。』
この様な話は、色んな人から度々耳にする。 その一方で、『上司に気に入られて、同期の中で一番に出世する方法』だとか、『社会で役に立つコネの作りかた』なんてものが有難がられたりする。

カリクレスは例を出して説明する、子供が一生懸命片言で話していると、大人はその様子を見て可愛らしいと思って、微笑むだろう。
しかし、小さい子供の内に、やたらとしっかりした受け答えをする子供を観ると、違和感を感じるし、奴隷の子何じゃないかとすら思ってしまう。
逆に、大人になっても片言で喋っているような奴を見かけると、ぶん殴ってやりたくなる。

この例は、子供は子供らしく振る舞うことこそが正しくて、子供らしい振る舞いというのが、座学で一生懸命学ぶ事と言いたいのだろう。
一方で子供にも関わらず、社会で生き抜く処世術を身に着けようとする子供は生意気で、子供らしい振る舞いではない。そんな生意気な子供を見ても、可愛らしいとすら思わない。
逆に、大の大人が、まだ勉強にのめり込んで、社会で生き抜く処世術を身に着けていなければ、そいつは社会人失格となる。

社会人になってもまだ、哲学なんかに没頭している人間は、ぶん殴ってやれば良いと言っている。
カリクレスは、1ページ程の短い間隔の間に2回も『ぶん殴ってやれば良い。』と言っているので、相当、腹立たしく思っているのだろう。

理屈をこねても現実は変わらない

ソクラテスがどの様に主張しようと、今現在、権力者が実権を握って、彼らが好きに権力を振るう事が出来る事実は揺るがない。
彼らはその気にさえなれば何時だって、罪をでっち上げてソクラテスを裁判にかけることが可能。
一方でソクラテスは、今まで哲学に没頭して社会経験を積んでこなかたのだから、社会的な地位もないし、政治的な太いパイプも持っていない。その様な状態で、どうやって自分を弁護するというのだ。

社会的地位もなく、社会に何の訳にも立っていない哲学者のソクラテスを庇うものはいないし、その様な経歴では、誰も説得できないだろう。
結局、ソクラテスは自分自身を弁護することすら出来ずに、極刑を言い渡されて死ぬだろう。

もし、その様な結末を望まないのであれば、今すぐにでも意味のない勉強やバカ話は止めて、世渡り上手になる為に処世術を身につけるべきだ。
そして、富や権力を手に入れる為に努力するべきだと主張する。

カリクレスは何故、この様な事を言ってソクラテスを非難するのかというと、ソクラテスのことを友達として大切に思っているから。
大切に思っているからこそ、ソクラテスには幸せになって欲しいし、その為にも、富や権力を手に入れる技術を習得して欲しいという思いがあったからだろう。

真理への到達に必要なもの

この批判を聞いて、ソクラテスは大喜びをする。 カリクレス、君こそが、私を真理に導いてくれる試金石になるかもしれないと。
人の魂の価値を測るのに必要なのは、知識と好意と率直さだが、カリクレスは、この全てを備えている。
もし、試金石であるカリクレスの考えと自分の考えが一致することが出来れば、自分の主張は真理に到達したと証明できるだろう。

そして今度は、カリクレスとの対話が始まる。
カリクレスの主張としては、知識などの後天的に手に入れた常識などは軽視して、人間が自然に備えている直感や本能を優先した方が良いし、その行動こそが正義。
もし、大量の富を稼ぎ出すことが出来れば、自分の本能に従って自分ができるだけ多く手に入れようと画策すべきだし、独り占めできるものなら独り占めすべきという弱肉強食の考え。

当然のように、自分よりも力のない人間が財産を保有していたりすれば、力のあるものは欲望に従って、それを奪おうと考える。
この考えに沿って考えれば、力を持つペルシャの権力者ががギリシャの土地や財産を狙って攻め込んできた理由もわかる。
人間からは欲望が生み出され、その欲望を満たすことによって満足感を得て幸福になる。 つまり、欲望を満たし続ける状態が幸福な状態といえる。

カリクレスによると、力を持つ人間が力を行使する事は正義であり、その正義によって欲望を満たし続けるのは幸福への道となるようだ。
では、力のある状態は、優れた状態と言い変えることが出来るのだろうか。
力を持つとは、優れていることなのだろうか。 このソクラテスの質問に対してカリクレスは、言い変えることができると答える。

権力者と民衆はどちらが強いのか

では、力がある1人の人間と、そこまで力を持たない10人の集団が喧嘩をした場合は、どちらが強く力がある状態といえるのだろうか。
どれ程、1人の人間が力を持っているとしても、1人が保つ力の上限はたかがしれている。 10人の人間を相手にして無双できる人間はそうそういないだろう。
それでも力を持つ1人が勝てるというのであれば、1人 対 1万人の軍勢で考えても良いかもしれない。 1人で1万人を倒せる人間は、漫画の中ぐらいにしか登場しない。

金銭や財産も同じで、この地球上で一番の金持ちよりも、その他の70億人の財産の合計値の方が資産の量は確実に多い。
カリクレスは先程、優れたものが多く持つのが当然だし、優れた力のあるものは力の無いものから欲望に任せて奪い取るのが正義と主張していた。
それと同時に、権力を持つものは人数が少ないから、大多数の市民や平民以下の人間に合わせて法律が作られているとも主張している。

しかし先ほどの話に当てはめると、大多数の人間の力を足し合わせれば、大衆の力は権力者よりも力が強くなり、富の量も上回る。
カリクレスの言葉を借りれば、法律というのは弱者のために作られているそうだが、そうではなく、強者のために作られているのではないか。
強者は、力で持って弱者の命や財産を欲望のままに奪って良く、それが正義だというのであれば、権力者よりも力の大きな大衆は、弱者である権力者から財産を奪って、皆で分けることは正義ではないのか。

カリクレスはソクラテスに対し、自然の法則と法律習慣上の考えを混同して曲解したと非難したが、この両者の考えは同じではないのか。

この投げかけにカリクレスは、自分が主張している力とは、身体の頑丈さだとか筋力だとか、そういったものではないと主張する。
まともな教育も受けていない奴隷や、取るに足らない一般市民が持っている筋力や体力が、人を支配するという事において、どれほどの意味があるのか。
確かに、数の上では彼らのほうが多いし、肉体労働を引き受けている彼らを足し合わせれば、単純な筋力や物量という面では権力者を圧倒するだろう。

だが、そんな取るに足らない頭数だけを揃えた人間を寄せ集めたからといって、それがそのまま法律になるわけがない。
法律を考えて制定するのは、あくまでも権力を持った人間で、彼らは支配している多数の人間にフラストレーションが貯まらないように少し気を使って作っているに過ぎないと答える。

ソクラテスは、カリクレスが主張する力というのが単純な筋力ではない事に薄々気がついていたとして、では、『力』とは何を持って力と呼び、何が備わって入れば優れていることになるのかと質問をする。


参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その7 『不正で幸福になれるのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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前回はこちら
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不正を行いながら幸せになれた人

前回までの話では、行動の善悪は目的の善悪によって左右され、目的の善悪は正義の有無によって決まることがソクラテスによって語られた。
ソクラテスによれば、目的が正義によって決められていれば手段も正当なものとなり、その様な一連の行動は人を良い状態へと導き、幸福になれるという考え方だった。

しかしポロスは、この意見にも納得ができない。 何故なら、不正を行いながら幸福と呼べる人生を謳歌している人間を知っているからだ。
この人物は、マケドニアの王。 この王は王族と奴隷との間に生まれた子供で、王位継承権が有るもののかなり下で、普通であれば、惨めな人生を送っていた人物だった。
だが、ライバルとなる王位継承権を持つ人間を次々に騙し討にして暗殺していき、全て排除した後に、自分が王として君臨した。

本来であれば、奴隷の子として惨めな人生を送るはずだった人間は、殺人を犯すという最大の不正を行い続けることによって、国家の長となることが出来、富と権力を手に入れた。
ソクラテスの主張では、不正を働くものの目的は悪いものなので、不正を行い続けた王は不幸になっていなければならないはずなのに、この人物は幸福になっている。
このエピソードは、ソクラテスの主張に反するのではないだろうか。それともソクラテスは、この人物が不幸とでもいうのだろうかと質問する。

しかしソクラテスは、この問いに対して答えられない。
何故ならソクラテスは、この人物の名前を聞いたことがある程度で、実際にあって話したことがなく、面識がない状態だったからだ。
ポロスからの一方的な話を聞いたところで、その人物の心の中まで見通すことなど出来はしない。また、人を外側から見ただけでは、アレテーをどの様に捉えているのかは分からない。

しかし、仮にその者が不正を働いていたとしても、捕まって裁きを受ければ幸福にはなれると主張する。

不正を行う者と被害を受ける者はどちらが害があるか

ポロスはこの点にも納得ができない。 せっかく不正を行って成功して絶対的な権力を得たのにも関わらず、不正がバレて捕まってしまえば元も子もないじゃないかと。
これまでのポロスの意見をまとめてみると、『人を支配できる権力が欲しい。』『不正を行うよりも、行われる方が不幸だし哀れだ。』『不正を行ってバレなければ良いば、バレて裁きを受けるのは悪いことだ。』
…となり、かなり一般人の感覚に近く、その一方でソクラテスの意見はというと、その逆の主張をしているというのが分かる。

しかしソクラテスは、『順序立てて考えていけば、ポロスも他のモノたちも、自分と同じ様な考えになる』と断言する。

そして順序立てて考えるために、ポロスと議論に際しての前提条件を確かめ合う為に、ポロスに質問をする。
まず、不正を行うのと受ける方では、どちらが悪く害があるのかを確認し、不正を受ける方が害がある事を確認する。(ポロスは不正を受ける方が哀れだと主張していたから)
次に、より醜いのは不正を行う方なのか、受ける方か何方かを確認し、不正を行う方が醜い事を確認する。

この質問を受けてソクラテスは、より醜いのが不正を行うほうなのであれば、悪いのは不正を行うほうだと言い出す。
ポロスは到底、受け入れられない。しかしソクラテスは、ポロスが受け入れられないのは、美しい事と良い事は同じではないし、醜い事と悪い事は同じではないと考えているからだと指摘する。
そして、美しさ=良さ と 醜さ=悪さについて説明しだす。 (注意して欲しいのは、美しさや醜さは、単純な造形の差だけではないということ。)

美しいとはどの様な常態か

まず、美しさや醜さについて考えてみる。

そもそも人が美しいと思うのは、何らかの点において優れているものの事を美しいと表現している。
例えば人間の身体を例に取れば、より重いものが持てるだとか、柔軟性が有るとか、そういったものを美しいと表現している。
プロポーションや造形美にも美しさは有るが、それは身体の機能に裏付けられた造形美であり、力強く持久力と柔軟性が有る肉体のプロポーションを美しいと表現している。

食糧不足で細い人間しかいない地域では、太っている事が魅力的だとされる場合もある。 プロポーションそのものに絶対的な美の基準はなく、卓越性を宿したものが美しいと表現される。
そして、美しいと感じるものを見続けるのは、心地よいことであり、言い換えるなら快感ともいえる。 
当然、この逆が醜いとされるもので、力もなく、柔軟性もなく、持久力もない肉体は美しくない肉体とされる。

つまり、美しい肉体とは卓越した肉体で、観るものに快楽を与えるものの事であり、醜い肉体とは真逆の存在で、害があり、苦痛を伴うもの言い変えることが出来る。

ポロスは、不正を行うのと受けるのとでは、どちらが醜いのかと聴いた際に『不正を行う方が醜い』と答えたが、先ほどの話に当てはめるなら、醜いとされた不正を行うほうが悪い事になる。
では、不正を行うという行為は、どの点において悪いのだろうか。 害が有る点についてなのか、不快だからか、それとも両方なのか。
不正を行う行為は他人に害悪を撒き散らす行為なので、この行為は害悪が有る点で醜い行為といえる。

不正はバレた方が幸せなのか

ソクラテスは、この議論を開始する前に前提条件を確認したが、その際の質問は、不正を行うのと受けるのは、どちらが害悪が有るのかというものと、どちらが醜いのかという質問だった。
しかしこの質問は、聞き方を変えているだけで、質問内容はほぼ同じだったことが分かる。 にも関わらず答えが変わるのが、そもそもおかしい。
では、この両者を比べた場合に、どちらが害悪が大きいのか。 他人に不正をして害悪を振りまく方が害悪が大きいのか、それとも、その被害に合う方が害悪が大きいのだろうか。

これを考えるには、次のテーマと合わせて考えるほうが分かりやすいかもしれない。
次のテーマは、『不正を行っている場合、バレた方が良いのかバレない方が良いのか。』

物事には、行為を『行う方』と『行われる方』が存在する。 『する方』と『される方』が取り扱うものは全く同じもので、両者の天秤は釣り合っている。
例えば、殴るという不正行為を例に挙げると、殴る人間がいれば、殴られる人間が存在する。 この『殴る力』は全く同じものとなる。
分かりやすく数値で説明すると、100万円を貸した人間がいるということは、100万円を借りる人間がいるということ。 貸した金額が100万円なのに、借りてる金額が10万円ということはない。
100万貸したら、借りては100万借りていることになる。 この両者の金額は絶対に釣り合う。

これを先程の、『不正を行うものと不正を行われるものは、どちらが悪く害のある行動なのか』という例に当てはめると、不正を行う方と行われる方の『不正』は同じもので、同じ悪という事になる。
不正を受ける方が悪いというのであれば、不正を行う側は、受けている方と同じ大きさの悪を他人に押し付けている事になる。
では、悪を押し付ける行為と悪を押し付けられる行為では、どちらの方が醜いのだろうか。 この質問にポロスは『押し付ける方だ』と答えているので、醜く悪く害のある行為は、不正を働く方ということになる。

次に、不正を行っている場合に、バレた方が良いのか悪いのか。
この問題も先程と同じで、一つの物事を『行う方』と『行われる方』に分けて考えてみる。

不正がバレるということは、不正を暴く側がいるわけだけれども、では、不正を暴くことは良いことなのか悪いことなのか。 当然、不正を暴く事は良い事といえる。
つまり、不正を暴かれるという行為は、不正を暴くという良い行為を押し付けられているのと同じという事になる。
裁きによる刑罰も同じで、不正が行われない正当な裁きが下されて刑罰が執行されるのは良い事で、これを押し付けられる告発された側は、良い行いをされたという事になる。

別の表現をすると、人間を身体と魂に分けるとすると、不正を行って悪い状態というのは、魂が悪に染まって悪い状態といえる。
この魂の悪い状態を身体に例えると、身体が悪い菌に侵されて病気になっている状態ともいえる。 この状態で、治療を受けずに放置しておくことは、患者にとって良いことなのだろうか。
当然のことだが、身体が悪い状態で放置しておけば、病気はさらに悪化して取り返しの付かないことになる。 魂も同じで、早い段階で不正を取り除くという治療を行って処置しなければ、手遅れになってしまう。

では、不正を取り除いて魂を浄化するにはどうすればよいのか。
それは、不正が暴かれて、正当な裁きが行われて刑罰が執行されること。裁きと刑罰は、人に善悪を教えて身をもって学習させるために行うのだから、正当に裁かれることで魂は浄化される。
しかし、大抵の人間は、不正がバレて刑罰が執行されるのを恐れる。 これは、歯磨きも定期検診も怠ってきた人間が、虫歯になって歯が傷みだしているのに、『歯医者が怖い』といっているのと同じ。

眼の前の恐怖に目が奪われて、それを放置した際の最悪の状況を想定できていないだけ。 治療は早く行えば行うほど、危険性は低くなる。

相手を憎むのであれば不正を正さずに弁護すべき

もし、弁論術というのが、言論の場を支配して相手を陥れて、自分が良い状況を作り出す術だというのであれば、弁論術の今の使われ方は間違っている。
相手を陥れたいというのであれば、相手が不正を働くように誘導しなければならないし、こちらの思惑通りに不正を働いたとすれば、その不正がバレないように、その場をコントロールしなければならない。
それに失敗して、もし、相手の不正がバレて相手が裁きにかけられた場合は、弁論術を駆使して出来るだけ刑が軽くなるように働きかけなければならない。

何故なら、相手にとって悪い状態というのは、不正を働く事そのものだし、最も恐れなければならない事は、不正を働いたことによって汚れて悪くなってしまった魂が、浄化されない事。
弁論家にとっての相手が、対話すべき仲間ではなく、打ち負かすべき的なのであれば、敵が最も困る手段を講じなければならない。
それなら、相手が不正を働くように、そしてそれがバレないように、バレたとしても刑が執行されないように全力を尽くさなければならない。

こうする事によって、敵は最大の不幸に見舞われることになる。

ソクラテスが何故、普通の価値観と真逆のことを言ったのかというと、それは、ポロスやゴルギアスの態度だろう。
ソクラテスは一貫して、対話相手というのは真理を見つけるための仲間であって、敵ではない。 お互いが協力し合って、間違っている部分や誤解している部分は指摘し合って、一つの真実を見つけるべきだと主張してきた。
しかし、弁論家やその弟子たちがやってきた事というのは、相手を陥れる事で有利な状況を作り出す事。

この様な態度は、対話相手を仲間だと思わずに、言論による闘争の敵とみなしているから行うとしか考えられない。
弁論家が、論争相手を敵だとみなして攻撃するのであれば、弁論家は、相手の不幸を最大にする方法を選んで実行しなければならない。
であるならば、相手が不正を働くように進めなければならないし、その不正がバレないようにしなければならないし、バレた際には刑が執行されないように努力しなければならない。

これを横で聞いていたカリクレスが、この議論に割って入る。
『その理屈が正しいというのであれば、私達の生活は全て真逆になってしまう』と。
(つづく)
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