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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その13 『善を目指して死ぬなら本望』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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目次

国に迎合する召使い

ソクラテスの主張により、本当に善い政治家とは国民や独裁者に迎合するのではなく、国民を良い方向へ導く為に時には厳しい態度を取る人間だということ。
そして、その意味合いにおいては過去の人物を含めたとしても、立派だといえる政治家は居ないことが分かった。

この主張にカリクレスは渋々納得するが、様々な偉業を成し遂げてきた彼らが立派ではないとはどうしても思えないともらす。
これに対してソクラテスは、彼らは立派な政治家とはいえなかったが、国の召使いとしてはよく働いたのではないかと主張する。 つまり独裁者は、権力を振るっているのではなく国に迎合していたと言うこと。

過去の偉大な指導者達の最終目的は善ではなく、国のご機嫌を伺う召使いである為、国が快いと思う事を進めてやらせるが、間違った方向に進もうとした際に、厳しい態度で軌道修正はしない。
これは、暴飲暴食がやめれない意思の弱い人間に対して、欲望を抑制させる事をせずに、美味しい食べ物をさらに進めている行為と同じ。
結果として、国はぶくぶくと膨れ上がり、むくれて病気になってしまう。 そのツケを払わされる国民が激怒し、指導者達を吊るし上げる。

これは近代の日本でも同じ。 地方から出てきた政治家は、地方の要望という形で橋や道路などの建設を国に求めるが、その政治家達は国を良い方向に導くために国に対して要望を出しているわけではない。
その道路や橋を使う一部の人達や、その建設に携わる会社の役員たちに迎合して国に対して要望を出しているだけで、本当に国のためになるのかと言うことは全く考えない。
国の計画はそのようにして決められていき、実際に役に立つかどうかのデータを集める役人は、政治家に迎合した形で数値を都合の良いように書き換えて、経済効果を算出する。

何もないところに道路を通すと、確かに最初のうちは経済効果が生まれて地域は発展するが、その流れは長続きしない。
ある程度の発展を遂げると経済活動は停滞し、それ異常伸びなくなる一方で、橋や道路は老朽化して、修繕費がかかるようになる。この修繕費は投資ではない為、これによる経済拡大効果はほぼ無いといっても良い。
甘い都市計画では効率の良い経済発展は行えないが、作った道路や橋を壊してしまう好意は経済を減速させてしまう効果があるので、作ったものは気軽に壊すことは出来ない。

欲望に支配されたツケ

結果として、捏造された見通しを元に作られたインフラは、経済にそれ程貢献しない一方で莫大な修繕費を消費する金食い虫となってしまう。
この様なインフラは日本全国に膨大に存在する為、ただ維持するだけで莫大なカネがかかり、国の財政は圧迫されてしまうことになる。
しかし、現状維持だけでは経済拡大は見込めないので、政治家達は国際を発行して借金をして資金を作り、再び甘い見通しを元に新たにインフラや事業計画を建てて金をつぎ込み、新たに修繕費が必要なインフラを生み出していく。

国は返済不可能な膨大な借金を背負い込むことになり、税収だけではやり繰りができなくなり、社会保障費を削ると行った直接国民に負担がかかるような行為を矯正してくる。
また、国が国際を発行して借金した金は、最終的には国民が借金額に見合った税金を収めることでしか解消しないので、無責任な計画で散財した政治家のツケは全て、国民に返ってくることになる。
肥満症の人間に好きなだけ食べ物を与えると、更に脂肪がついて病気が悪化してしまうが、同じ様に、国の経済を拡大させようと無理な計画で公共工事を行った場合は、国も病気になってしまう。

政治家がやっていることは、国や国民を善い方向へと導く行為ではなく、単に国に迎合して相手が求める快楽を与えているだけで、正しい目標を定めて先導するということは行っていない。
麻薬中毒患者に対して、『相手が求めている』というだけで麻薬を与え続けているのと同じ行為で、善い方向へと導いているわけではない。
何も考えずに、求められているからという理由で快楽を与え続けているだけなので、この様な政治家が関わった国や国民は悪い方向へと進んでしまい、結果として国民の手によって仕返しされてしまう。

もし仮に政治家が、国民を善い方向へと導く適切なゴールを定め、国民を正しく先導できていたなら、全ての国民は善人になっているはずで、そんな彼らが先導者を吊るし上げるなんてことはしない。

人を善い方向へと導く職業とは

この問題は、同じ様に人を立派な善い人にすると主張している、ソフィスト達にも共通する問題。
例えば、人を良い方向に導くなんてことを言っていないような職業の場合は、客に不正を行われた場合には、文句を言う権利があるだろう。
大工が客の要望に答えて家を立てたり、定食屋の調理人が注文された料理を出すという行動は、人の役に立つ行動だが、その行動そのものは人を良い方向に導くわけではない。

定食屋のオヤジの料理を食べたからといって、腹は膨れるかもしれないが、連続殺人犯の極悪人が善人になることはない。
その為、悪い人間が客として紛れ込んで、サービスだけ受けて食い逃げをするということもあるだろう。 この場合、定食屋のオヤジには文句を言う権利がある。

しかし、人間を教育して善い立派な人間にすると行っているソフィストは、同じ様な文句を言う権利があるのだろうか。
ソフィストの元に劣った人間が入ってきて、『私を立派な人間にしてくれ』と依頼し、ちゃんと教育を施したにも関わらず、その客は教育だけを受けて料金を踏み倒して逃げた場合。
そもそもソフィストがしっかりとした教育を行って立派な善人に仕上げていれば、その善人は料金を踏み倒すなんて不正は行わない。不正を行ったということは、その人間の教育には失敗しているので、料金を受け取る資格が無い。

目指すべきは善の指導者か迎合家か

ソクラテスはここまで説明をした後に、カリクレスに対して『私が本当にこの国の事を考える場合、国を良い方向に導くために尽力すべきなのか、それとも、国の召使いになるべきなのか、どちらが良いだろう。』と聞く。
これに対してカリクレスは、『国の召使いになれ』と進め、ソクラテスは『私に迎合家になれというのか!』と驚いた様子を見せる。

カリクレスがソクラテスに迎合家になれと進めたのは、これまでの議論を理解していないからではなく、ソクラテスのことが心配だから。
ソクラテスの主張は正論だが、この世の中には聞くのに苦痛を伴う正論に対して嫌悪感を示す人間が少なくなく、ソクラテスの様な態度を続けた場合は、恨みを買って無実の罪で裁かれてしまうだろう。
命を危険にさらしてまで、善に導く先導者を目指さなくとも、みんなの機嫌を伺い、多くのものから気に入られるように振る舞うべきだと主張する。

カリクレスは純粋にソクラテスを心配して忠告しているが、ソクラテスは単純に長く生きることが幸福だとは考えていないので、この考えを受け入れない。
そして、子供の裁判を例に出して、自分の意見の正しさを伝えようとする。

子供相手の裁判

まず、自分以外の人間は全て子供しか居ない状態の裁判を想像する。
検察官も被害者も裁判官も陪審員も傍聴人も全て子供で、自分だけが大人だという裁判の状態を頭に思い浮かべる。

被害者とされる少年は自分が怪我をした際に、あの大人によって傷口に酷くしみる薬を塗られた上に、ただでさえ痛い傷口を、針と糸で更に痛めつけたと証言する。
その話を聞いた検察官は、大人である自分を、傷を負って苦しんでいる子供を更に痛めつけるサイコパスだと主張し、傍聴席にいる子どもたちに向かって大人である私の危険性を説く。
傍聴席の子供は検事の主張にすっかりと説得され、裁判官も私を極悪な犯罪者だと思うようになり、弁護士ですらも、『何故、そんな酷いことをしたんですか?』と問い詰めてきたとする。

その時に、私はどの様に答えればよいのだろうか。 子どもたちに迎合して、『今後はそんな酷いことは絶対にしないから、助けてください。』と懇願するのが正しい道なのだろうか。
それとも、『私は、傷を追った少年に対して適切な治療をしただけだ。 彼のためを思ってやった事なんだ。』と説明するほうが良いのだろうか。
仮にその様に説得をしたとしても、被害者や検事は、『痛めた場所を更に痛めつける様な行為の、どこが治療なんだ! 私のためを思うなら、痛みだけ消すべきなのに、更に痛めつけてどうするんだ!』と責め立てるだろう。

その場には私以外は全員子供なので、検事や被害者の主張する稚拙な説明に納得してしまい、『治療には痛みを伴う。』という私の正論は無視されるだろう。
そうなった時、その場で唯一の大人である私の使命は、例え、子どもたちが口うるさく思ったとしても、正しく教育することであって、迎合して御機嫌を取ることではないのではないだろうか。
例え、私の理屈が受け入れられることがなく、逆に反感を買って死刑になってしまうとしても、その子どもたちの事を本当に可愛いと思うのであれば、正しいことを伝えるべきなのではないだろうか。

この例え話を聞いたカリクレスは、その様に死んでしまったとしても、その人は立派に生きたといえるのだろうかと質問をする。

善を目指して死ぬなら本望

ソクラテスは、その生き方こそが立派な生き方だと即答する。 悪だと思っている道に自ら突き進み、不正を行うことこそが、もっとも恐れなければならないことなのだと。
善を追求するものが、子供の裁判官を説得できなかったとしても、訪れる多く見積もっても死ぬ程度。 そして死ぬという行為は、余程のわからず屋でない限り、怖いとは思わない。
不正を行う恐怖に比べたら、死ぬことなどは大したことがない。

そして、その理由を神話を用いて説明する。

神々による裁判

人類が生まれてすぐの、ゼウスがこの世を治めて間もない時代。神々と人間は共存していて、人間は生きている時に、善悪を試されて神々によって裁かれていた。
しかし、生きている状態では、いかに神々であっても人々を見抜くのが難しい。
何故なら、裕福なものや見た目の美しさを備えて生まれてきたものは、それらによって装飾れてている為に、豪華に見えてしまう。

またこれらの人には、彼らの持つ富や美しさに引かれて多くの人が集まってきて、彼らに気に入られる一心で有利な証言をする。
逆に、貧困であったり醜いものは、関わり合いになっても徳がないので、誰も良い証言をしないという逆の状態になってしまう。
その様な状態で、その人間が立派であるかそうでないかを見極めるのは、至難の業となる。

その為、神々は、人が死んで、魂の状態になってから裁くことにした。

魂の状態であれば、装飾品や肉体といった物質は死後の世界に持ち込めないので、神の判断を惑わせる事は無い。
また、暴飲暴食を繰り返してきた人間の体が太ったり、逆に節制してトレーニングを行ったものの身体が美しいように、魂にも、これまで生きてきた間に行ってきた痕跡が残る。
不正を働いたものの魂は醜くゆがみむ。 神は、そのありのままの魂の形を見る事で、その人間の善悪を判断して裁きを与える。

裁きによる刑は、魂が重ねた不正の度合いによって決まり、償いが可能であれば、適切な苦痛を伴った後に、魂は矯正される。
しかし、多くの不正を行って矯正が不可能なほどに歪んだ魂は、他の者の魂を強制するために使用される。 つまり、他の魂が不正を起こさないように、みせしめの為に永遠に苦痛を受け続ける。
大部分の権力者は、その権力によって自分の欲望を満たせる為、欲望を抑えるという行為を行わない。 結果、不正は行われ続けて、魂は修復不可能な状態までゆがみきってしまい、みせしめの為に死後に苦痛を味わい続ける。

カリクレスよ。私はこの話を信じているのだよ。

自分自身の為にも世界を『善』へと導く

人は、何よりもまず、良い人と他人から思われるよりも、実際に良い人であらねばならない。(誰も観ていなくてもお天道さまが観ている? 何よりも自分が観ている)
もし人が、何らかの点で悪い状態であるなら、その魂は治療を受けなければならない。つまり、裁きを受けて懲らしめられなければならない。それによって悪に傾いた魂は善い方向へと導かれる。
快楽のみを追求する迎合は、出来るだけ自分から遠ざけなければならない。 弁論術も、迎合の手段ではなく、人を正しい道に導くために使われなければならない。

常に目的を善に据えて行動することで、人間は生きている間も、そして死んでからも、幸福であり続けることが出来る。
これがもし理解できたのであれば、カリクレスよ。共に、善を追求する道を進もう。

そして出来ることなら、他の者達もそうするように勧めよう。

参考書籍