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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第84回【ゴルギアス】子供の裁判 前編

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の投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

優れた政治家

前回の話を少し振り返ると、弁論家が行う演説には2種類あり、1つは聞く人に迎合した快楽のみを追求するもので、もう1つが、堕落した人間が聴くと耳が痛いが、その演説を聞くと悪い人間も良い方に矯正される演説でした。
これを政治家が行う演説に当て嵌めた場合、聞き心地の良い快楽のみを追求した演説を行う政治家は、先のことを考えない悪い政治家で、優れた良い政治家とは、国民に対して厳しいことをいうけれども、その演説によって国民を正しい方向へと導く政治家です。
この事を前提とした上で、ソクラテスはカリクレスに対して『今までの歴史上で、優れた政治家と呼べるものを、誰か知っていますか?』と質問した所、ペリクレスをはじめとした数人の人物の名前が挙げられました。

ですがペリクレスは、最終的には国民の手によって公金の使い込みの容疑をかけられて、死刑になりかけている人物です。
もし仮に、ペリクレスの演説が素晴らしく、堕落した悪い人間が聴くと耳が痛いような内容だけれども、聴き続けることで善い人間へと矯正出来るような演説であれば、国民は自分たちを善い存在にしてくれた人間を陥れようとはしないはずです。
しかし実際には、ペリクレスは国民の手によって犯罪の容疑をかけられて裁判にかけられているという事実があります。

この事実から分かることは、仮に本当にペリクレスの演説が優れていて、国民を良い方向へと導いたのであれば、その善い国民から『不正行為を行った』と訴えられて吊るし上げられたペリクレスは、悪人ということになり…
ペリクレス自身は無罪で悪い存在ではなく、国民のほうが間違っているとするならば、カリクレスの演説は国民を良い方向へと導けなかったことを意味しているので、善い政治家ではなかったということになります。
ペリクレスが国民の手によって犯罪者として訴えられたという事実は、どう転んだとしても、ペリクレスが優れた人物ではなかったことを意味します。

善導者の仕事

しかしソクラテスは、ペリクレスは優れた指導者ではなかったが、国の忠実な召使いだったと主張します。
国や国民が求めているものを、将来の悪影響も考えずに提供し続けた結果、それなりの期間、国民からの支持を得る事には成功しましたが…
先のことを考えていない為に国の運営が破綻してしまえば、その反動で政治家自身が責められて追い詰められてしまう。 政治家に対する敵意が暴走して、指導者を犯罪者として訴えるまで発展してしまったという事です。

ですが、仮に無実の罪で訴えられることになったとしても、政治家はそれに対して文句を言う権利はありません。
何故なら、政治家やその代表の指導者は、国や国民を善い方向へと導くと言って、その地位について権力を振りかざしているわけですから、それが上手くいかなかった場合は、政治家自身がその責任を取るべきだというわけです。
これは政治家だけでなく、同じ様に人を善い方向へと導くと言って生徒や金を集めているソフィスト達にもいえることです。 生徒を善い方向へと導くと言って、結果として授業料を踏み倒されても、自業自得というわけです。

目指すべきは善導者か迎合家か

ここまで説明した後に、ソクラテスはカリクレスに『国を良い方向へと導くために尽力すべきなのか、迎合家になるべきなのか』と尋ねた所、カリクレスは迎合家になることを勧めてきます。
何故、カリクレスが迎合家になることを勧めてきたのかというと、これまでの議論の前提は、優秀な人間は対話することによって、人を良い方向へと導けることが前提になっていたからですが…
もしそうでないのなら、他人を良い方向へと導こうとする行為によって、恨みをかってしまう可能性があるからです。

当時の古代ギリシャでも今現在の世界でもそうですが、他人に迷惑をかけている人に注意をして正しいことを教えた場合、その人物は、正しいことを教えてくれた人間に感謝するのかといえば、必ずしもそうとは限りません。
結構多くの人が、逆ギレして突っかかってくるでしょう。 その結果として、余計に騒ぎが大きくなったり、犯罪に巻き込まれるというケースも少なくありません。
世の中の大半の人間は、善いとはどの様な状態のことなのかとか、人生の目的とは何なのかという、人が生きていく上で最も重要なことを考えることもなく、興味すら持っていません。

その様な人達に、どれほど必死になって善い方向へと導こうと頑張ったところで、多くの人たちは迷惑にしか思いませんし、正しい事を言う人間を変人扱いして、ひどい場合には無実の罪で訴えて殺そうとしてきます。
カリクレスはソクラテスの事を優秀な人物だと認めており、何も考えていない劣った民衆に対して世話を焼いた結果、殺されてしまうの可能性があるとするなら、そんな事には耐えられません。
相手のことを思って、正しい道へと導くために尽力した結果、不幸な最期を迎えてしまう可能性があるのなら…
劣った民衆など捨て置いて、自分だけが良い暮らしを出来るように頑張るほうが、面白おかしく楽しい人生を送れるし、ソクラテス自身にとって良い事ではないかとして、迎合家になることを勧めます。

またこの指摘は、ソクラテスが行った『ペリクレスは、民衆に吊るし上げられたから優れた人物ではない。』といったものの反論にもなっています。
アテレーというものが持って生まれた才能のようなもので、他人に言葉を通して伝えることが出来ないものであるのなら、どれほど優れた人であったとしても、演説によって他人を善い方向へと導くことは出来ません。
つまり、カリクレスが優秀だとしたペリクレスも、ソクラテスが主張するような無能な人ではなく、そもそも言葉によって人を善い方向へと導くことが不可能である為に、無知で劣った民衆によって陥れられたとも考えられます。

子供の裁判

ですがソクラテスは、自分だけが快楽を追求するような人生には意味がなく、共同体を良い方向へ導くことこそが善の道で、例え死ぬことになったとしても、その事に尽力することが重要だとして『子供の裁判』の例を挙げて説明します。
子供の裁判とは、自分以外の関係者が全て子供という、子供だけで行われる裁判の事です。 実際にはこの様な裁判はあるわけではありませんが、物事を分かりやすく考えるために、頭の中で作り出した空想上の裁判です。
この裁判は、裁判長も弁護士も陪審員も検事も全て子供が行っており、その中で無実の罪で捕まった自分だけが大人だという設定です。

大人であるアナタは医学を学んだ医者という設定とします。貴方は、怪我をした子供が運ばれてきた際に、適切な処理として、傷口をしみる消毒液で消毒して止血し、傷口を縫い合わせる為の針を消毒の為に火で炙って、それを使って傷口を縫い合わせました。
他にも、足に壊死している部分があったので、子供の命を最優先に考えて、足を切除する決断をして、処置を行いました。
結果として、怪我をして死にかけていた子供は助かったのですが、その子供は、医者であるアナタを犯罪者として訴えました。

訴えた子供の言い分としては、『怪我をして痛い思いをしている僕は、医者に対して、痛いのを何とかして欲しいと一生懸命お願いしたのに、あの医者は、痛い傷口が更に痛くなるような薬をかけてきました。
そして、火で炙った熱い針を突き刺して、裁縫遊びのようなことをし始めました。
また、僕は陸上クラブに入っていて、次の試合を楽しみにしていたのに、あの医者は、大切な僕の足を切って、二度と走れない状態にしてしまいました。

あの人は、人が苦しんでいる時に、医者だと名乗って助けてくれるような口ぶりで近づき、実際には助けようともせず、更に痛ぶるような人間です。
あんなサイコパスが、善人のふりをして平然と街を歩ける状態は、非常に危険な状態と言えます。 みなさんも、いつ、僕のような被害にあうかもわかりません。
僕のような被害者が二度と現れないためにも、あんな人間は殺してしまうべきではないでしょうか。』 …といった感じで、子供の陪審員と裁判長に対して訴えかけます。

優先すべきは正義か寿命か

訴えられている自分以外、この裁判に関わっている人間の全ては子供なので、当然のことながら、医術の心得や高度な知識は持ち合わせていません。
壊死した足を、何故、切り離す必要があったのかや、傷口を何故、縫い合わせなければならなかったのか。 そして、傷を縫い合わせる針を、何故、火で炙らなければならなかったのかといった知識は持っていません。
被害者である少年は、無知であるが故に、医者が行った処置が正しいことを理解できないので、自分は理不尽な扱いを受けたと思いこんでいます。

そして被害者とされる少年は、自分がどれだけ理不尽な目にあってしまったのか、そして、怖い思いや痛い思いをし、足を切断されたことで生きる希望まで失ってしまた事を、裁判に関わっている人たちに向けて訴えます。
何度も言っています様に、裁判に関わっている人間は、加害者として訴えられているアナタ以外の全員が、正しい知識を持たない無知な子供です。
裁判官や陪審員や検察、下手をしたら、大人であるアナタを弁護する立場の弁護士ですら、被害を受けたという被害者の子供の涙ながらの主張に心を打たれて、大人であるアナタの取った行動を非難し、サイコパス扱いするかもしれません。

この様な状態を想像してもらった際に、加害者とされているアナタは、どの様な行動を取るのが良いのでしょうか。
サイコパスだと罵られようが、自分がとった行動の正当性を訴えて、何故、けが人に対してあの様な処置が必要だったのかを丁寧に説明すべきなんでしょうか。
それとも、自分が助かりたい一心で、被害者とされている少年に土下座して『自分が悪かった! もう二度と、こんな真似はしないから、どうか許して欲しい。』と許しを懇願すべきなんでしょうか。

そして、運良く執行猶予が付いて、再び医者の仕事に戻れた際には、二度と訴えられないように、無知な子供には理解が出来ないような苦痛をともうなう治療は一切せずに、痛みを取り去るだとか、快楽を与えるだけの治療に専念すべきなんでしょうか。
患者が薬が苦いといえば、苦い薬は出さずに砂糖を薬だと偽って偽薬を出し、プラシーボ効果で病気が治ることを祈り、体の一部が壊死した患者が運び込まれてきても、切断せずに麻酔で痛みだけ取り除いて放置する。
この様な感じで、常に患者の顔色をうかがい、患者が求めていることだけを行うような、そんな処置をし続けることが、医者として正しい行為なのでしょうか。

それとも、例え殺されることになったとしても、無知な子どもたちに対して自分の知識や技術の正しさを主張して、子供たちが辛かったという治療は、子供たちを良くする為に行った必要な行為だということを説明し続けるべきなんでしょうか。