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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その12 『人は何のために生きるのか?』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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目次

人は何の為に生きるのか

カリクレスは、不正を受けて被害に遭う者よりも不正を行う者のほうが不幸だという理屈がどうしても理解が出来ない。
ドラえもん』でいうなら、ジャイアンに暴力を振るわれる のび太よりも、のび太に対して暴力を振るうジャイアンの方が不幸で哀れというのはおかしい。どう考えても、のび太の方が哀れだとしか思えない。

これに対してソクラテスは、普通に考えれば被害者のほうが可愛そうだと思ってしまうかもしれないが、ものの道理が理解できている人間にとっては、そうではないと反論する。
ただ単純に長生きをしたいだとか、異性の興味を引いたり散財したりと快楽を優先する人生を歩みたいのであれば、時の権力者に頭を下げてご機嫌伺いをしながら生きていくというのも良いかもしれない。
そうする事で権力者のお気に入りになれば、その影響力を利用して自分も強大な力の恩恵に預かれるかもしれない。

独裁者の機嫌を損なわなければ、無意味な事で死刑になったりもしないし、財産を奪われることもない。
しかし、それは本当に良い人生を歩んでいることになるのだろうか。

ソクラテスが何故、この様な疑問を抱くのかというと、それは彼が絶対主義者だから。
弁論家やソフィスト達が支持する相対主義であれば、自分が良いと思う人生を歩んだと思えば、その人の人生は『その人の中では』正義となるし、自分が満足したと思えばそれで良い。
しかしソクラテスの価値観は相対主義ではなく絶対主義なので、本人が良いと思って納得していても、その人生を客観的に見た時に、本当に良い人生だったのかが他人の目を通しても評価されてしまう。

愚かな独裁者に頭を下げ続けることで生きながらえる人生は、客観的に観た時に、良い人生と呼べるのだろうか。

人生の最終目的は長生き?

また、単純に長生きしたい事が目的なのであれば、弁論術に限らず、多くの技術が自分の命を守るために役立つのではないだろうか。
例えば、海沿いを歩いている時に、フラついたり何かに躓いたりして海に落ちた場合は、泳ぐという技術が自分の命を助けることになる。
どんなに権力があっても、どれ程の強さがあったとしても、泳げないものが海に落ちれば死んでしまう可能性がある。 泳ぐ技術は、自分自身を危険から助けてくれる大切な技術といえる。
泳げる利点はそれだけではなく、泳ぐ技術があれば、水を挟んだ反対側に行くことも出来る。

泳ぐよりももっと良い技術として、船を操縦する航海術がある。
航海術を身につければ、自分自身だけでなく泳げない人間でも海の向こう側に渡す事が出来るし、誰かが溺れていたら船をだして助けに行くことも出来る。
この技術を高めれば高めるほど事故の可能性は減らせるので、この技術を極めることは、多くの人間の命を守る事に繋がるといっても良い。

しかし、この技術を身に着けた熟練の航海士は、自分たちの職業を偉大な職業だと主張して、他の職業のものにマウントをとったりはしない。
彼らは決して高くないお金を運賃としてもらうだけで、弁論家や弁論術を身に着けた弁護士のように、客に対して恩を売ったりする事はないし、必要以上の称賛も求めない。
この事は航海士に限らず、他の多くの職業にも当てはまる。

例えば、ソクラテスが生きた時代のアテナイは、スパルタとの内戦によって常に戦争が起こる危険性があった。
アテナイはスパルタのように職業軍人を育てているわけではないので、いつ、徴兵されて戦争に狩り出されるかは分からない。
この様な状況下での兵器職人は、国民の命を預かる職業といっても過言ではないかもしれない。

防具が粗悪品であれば、敵の攻撃は防げないだろうし、武器がナマクラなら敵を倒せない。
敵をいつまでたっても倒せないのであれば敵の数は減らないので、こちらの陣営は振りな状況に追いやられて、アテナイの国民の多くが傷つき亡くなってしまう危険性がある。
また、そもそも武器や防具がなければ、敵の兵士に好き放題やられてしまい、蹂躙されてしまうだろう。

その様な状態を防ぐためにも、武器や防具を作る職人は絶対に必要だし、彼らは多くの国民を自分たちの技術を駆使して守っているともいえる。
一方で弁論術を極めた弁護士は、その一生をかけて、一体何人の人間の命を救うことが出来るだろうか。 弁護士が人の命を救う機会は、死刑宣告を受ける可能性が高いときしか無い。
多くの人を生きながらえさせるという一点において、武器や防具を作る職人と弁護士を比べた場合は、武具職人達のほうが効率よく人を守っているといえるのではないだろうか。

その他の職業として、狩人や酪農家や農業をしている人間はどうだろう。
彼らは、人間が生きていく上で絶対に必要な食糧生産を行っている。 彼らが仕事を放棄すれば、国民の大部分が食料を手に入れる術を失ってしまい、餓死するだろう。
食糧生産者は、先ほどの武具職人たちの様に戦争がなければ必要とされない職業ではない。 食料は、戦乱の世の中であれ平和な世の中であれ、絶対に必要なもの。それを生産する彼らは、国そのものを支えているといっても過言ではないだろう。

職人は傲慢ではないが 弁論家は…

しかし食糧生産者や武具職人たちは、自分たちの職業を必要以上に持ち上げたりはしない。 決して多くはない金額を受け取るだけで、その事を自慢したりもしない。
彼らが、自分の職業や生産物を必要以上に持ち上げて崇高なものだと威張ったりしないのは、自分が技術を注ぎ込んで作ったものが、人間を善い方向に導くようなものではない事を知っているから。

一方で地位のある弁論家は、そんな彼らを兵器屋だとか農民といって、汚いものでも見るかのように軽蔑して見下すだろう。
仮にカリクレスに娘がいたとして、娘が彼らと付き合って結婚すると言い出したら、猛烈な勢いで反対するだろう。 何故なら弁論家達は、自分の職業が崇高なものだと思い込み、自分自身も立派なものだと思いこんでいるから。

確かにカリクレスは、世間一般からみれば良い家柄に生まれている。 しかし、この『良い』家柄とは何を持って善しとしているのだろうか。
家柄などのその人に貼られているラベルを剥がしていき、その人物が身に着けている技術のみで判断する場合、その職業が実業だった場合は、どの様な職業だったとしても人の命を延命させるという点で優れた職業といえる。
(技術を使うのは実業だけで、虚業が行っているのは迎合)

しかし、どれだけ命を延命させたとしても、いずれは限界が来る。 人は永遠には生きられない。
人の人生の善し悪しは、生きた長さではなく、その内容によって判断されなければならない。

良い人生を生きるとは

身分が高い家系に生まれたとか、他人の安全を保つとか、生きていく上で絶対に必要なものを生産しているというのは、良い人生を判断する材料からは切り離して考えなければならない。
生まれは自分でコントロールすることが出来ないし、生まれによって良し悪しが決まるのであれば、人間は生まれた瞬間に善悪が決定することになってしまう。
また、人が技術でもって何かしらの仕事をしているのであれば、その人は人間社会の一員として何かしらの役に立つ事をやっている事になるので、そこに上下関係は発生しない。

では、どのようにして生きるのが良い人生を歩むということなのだろうか。
例えば政治家として良い人生を歩む場合、独裁者と同じ様な力を手に入れるために、現状の政治体制と意見を合わせて、時の権力者に気に入れられるように努力する生き方が正しいのだろうか。
それとも、自分自身が独裁者になる為に、国民の意見の方に耳を傾けて、自分の意見と国民の意見をシンクロさせるような生き方が正しいのだろうか。

その様に振る舞うことが、本当に自分自身を、そして国民を幸福へと導くのだろうか。
誰かに迎合するという方法では、良い方向に導くことなどは出来はしない。
政治家として、本当に国民を良い方向へ導こうと思うのであれば、時には国民にとって耳をそむけたくなるような嫌なことであったとしても、国民に聞かせる事で良い方向へ導かなければならない。

また、仕事に対する向き合い方としては、過去の実績を並べあげて、その仕事をするのにふさわしいかを考えて行うべき。
例えば、今よりも高待遇を求めて転職をする場合は、履歴書に過去の実績を書いた上で、自分がその会社にふさわしいと思って初めて、エントリーをする。
これと同じ様に政治家も、政治家になる前に、自分自身が発する言葉によってどれほどの人間を正しい方向へ導いたかで判断すべき。 多くの人を正しい道へと導いた実績を持つものだけが立候補すべき。

本当に優れた人物は存在するのか

カリクレスは以前、ペリクレスを優れた政治家として称賛したが、彼は、アテナイの人々を正しい道へと導いたのだろうか。
彼が指導者の地位に付く前のアテナイ市民は今よりも劣悪な状態だったけれども、彼が指導者になって国民に演説を始めた途端に、国民は徐々に良い方向へと進み出し、最終的に立派な人間になったのだろうか。
カリクレスは、将軍職を除く全ての国の役職を抽選制にして、彼らを公務員ということにして給料を支払ったが、その事によって国民は怠け者になり、仕事をせずにおしゃべりばかりをするようになってしまったという批判もある。

この意見に対しカリクレスは、『それは敵であるスパルタ人が言っているだけだ』として跳ね除ける。
しかしペリクレスは、最終的には公金の使い込みによって告発を受けて裁判にかけられて、死刑になりかけている。 彼の偉業とされているパルテノン神殿も、デロス同盟が対ペルシャの防衛費として貯め込んでいた金を使い込んで作った。
彼は本当に、立派な善い人と呼べるような人物なのだろうか。

例えば、ペットとして犬を購入した飼い主が、子犬の間に躾をしておこうと、躾を代行してくれる業者に犬を託したとする。
その躾代行業者は、おとなしい子犬を預かって、飼い主が気に入る善い犬になる為に一生懸命に躾けた結果、その犬は調教師を殺す勢いで噛み付くように育ったとしたら、その調教は成功したといえるのだろうか。
犬を迎えに行った飼い主は、調教師に襲いかかる自分の犬を見て、立派な犬に育ってよかったと思うだろうか。

この例の調教師をペリクレス、子犬をアテナイ市民に当てはめると、ペリクレスと市民との関係が分かりやすい。
ペリクレスが民衆を扇動した結果、その民衆は先導してきたペリクレスを死刑にしようとしたのだから、ペリクレスの思惑通りに進んでいないことは誰の目から見ても分かる。
仮に、ペリクレスの指導が正しいもので、ペリクレスの指導の結果としてアテナイ市民は全員が良い人間になったのだとしたら、その善人に吊るし上げられるペリクレスは、悪人ということになる。

この様に考えていくと、大抵の独裁者の末路というのは、裁判にかけられて国を追われたりしている為、カリクレスが挙げてきた指導者に立派な人はいないことになる。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍