だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第79回【ゴルギアス】『良い快楽』と『悪い快楽』の見極め 前編

広告

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.mu

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

欲望と幸福の関係

前回の話を振り返ると、ソクラテスは率直さを失ったカリクレスに対して、別の質問をぶつけることで考えを深めていこうとしました。
まず、概念には真逆のものが存在することを確認し合い、その後、欲望と幸せの関係性について質問し、一緒に考えることにしました。

カリクレスの今までの主張では、欲望に支配されている状態があり、その状態を何らかのアクションを起こすことによって解消することで、満足感が得られて、幸福になれるとのことでした。
最初に確認しあった、概念には反対ものが有るというのを、この主張に当てはめてみると、欲望が満たされることで解消すると幸福になれるので、欲望と満足感は逆の概念であるとも考えられます。
また、満足感がえられて幸福になれるということは、幸福と満足感は同じようなものと考えられるので、満足感の逆が欲望であるなら、欲望は不幸とも言い変えることができてしまいます。

では、実際にそうなのかどうかを考えていくと、欲望と満足感は真逆の性質を持つものではないという事がわかりました。
何故なら、冷たいコーヒーが同時に熱いコーヒーになれないように、真逆の概念は同時に宿ることは出来ませんが、欲望を満たす心地よい状態と欲望は一つの行動に同時に宿っているからです。
水は、喉が渇いている時に飲むと心地よいですが、すでに水で満たされている時に飲んでも美味しいとは思わないように、心地よいと思う状態になるには、欲望という存在が必要不可欠です。

この考察によって、欲望と、それを満たしているときに感じられる快楽や、その後の満足感の関係というのは、カリクレスが考えている程、単純なものでは無いことが分かってきました。

良い快楽と悪い快楽

この結果を受けたカリクレスは、『快楽の中にも、良い快楽と悪い快楽があって、それを見極めるには専門知識が必要だ』と言い出します。
ソクラテスの質問によって、また、新たな条件が登場してしまいました。 しかしソクラテスにとっては、嘘をつかれて率直さを無くしてしまうよりも、思うことを言ってくれる方が良かったのでしょう。
それに、カリクレスの言いたいことも分かるような気がします。 快楽が得られるからと、完全に依存してしまうほど酒やドラッグにはまり込んでしまうのは、素人が考えても悪そうだということがわかります。

では快楽が全て悪いものなのかと言うとそうでもなく、快楽を目指して行動することで、自分自身が良いと思われる方向に成長できる場合もあるでしょう。
カリクレスによると、それらを分けるのには専門家の技術が必要だということでしたが…
この『技術』という言葉については、前にポロスとの対話の中で既に考えたので、その考え方を応用して、良い快楽と悪い快楽について考えてみることにします。

技術と迎合

その前に、ポロスと行った技術についての話を軽く復習しておくと、人に役立つと思われている技術にも、良いものと悪いものとの2つがあるという話でした。
良いものの事を技術と呼んで、悪いもののことは、自らを偽装することで技術になりすましているだけの迎合と呼びましたね。
両者の違いは、技術にはきっちりとした法則のようなものがあり、目標に対してのアプローチが決まっているもののことで、医者の技術などがこれに当たります。

一方で迎合は、快楽であるとか心地よさを一番に考えます。 技術が良い目標に向かって進むのと対象的に、特に目標を定めることなく、何も考えずに単純に心地よい方向へと流れていくのが迎合です。
迎合は、目標を善い方向へと定めているわけではないので、時には人を悪い方向へと向かわせてしまうものなのですが、迎合の質の悪いところは、技術のフリをして、自分自身も技術であるかのように振る舞うことです。
例えば料理法は、身体に良い食材や料理といった切り口で、さも、体のことを考えているかのような口ぶりで近寄ってきますが、料理法が実際に目指しているのは料理の美味しさです。

料理が美味しくなるのであれば、塩も多少多めに振りますし、相性の悪い食材とも合わせます。 料理が最終的に目指しているのは、食べた時の快楽ですが、実際に私達が見聞きする際には、技術を装って近寄ってきます。
誤解のないように言っておくと、別に美味しい料理が悪いと言っているわけではありません。 食べる側からしてみれば、まずい料理よりも美味しい料理のほうが良いに決まってますからね。
ただ、料理法の目的というのは、人の体を健康に戻すとか優れた状態にすると言ったものではなく、一番の目標は美味しさだということです。 その為、身体を悪い方向へと持っていく可能性も有るということです

快楽の善悪を見極める

この技術と迎合の話を、快楽を振り分ける方法に当てはめてみましょう。
いきなりジャッジが難しいものから考えるよりも、簡単なものから考えるほうが分かりやすいと思うので、エンターテイメントの分野で考えてみます。
このエンターテイメントという分野は、そこに入る全てのものが迎合と考えても良いでしょう。

例えば映画の場合は、マイノリティージェンダー銃社会や医療問題、資本主義の欠点などの社会問題を取り上げたりするような、啓蒙活動のような作品も存在します。
監督でいえば、マイケル・ムーアさんなんかが有名ですよね。 この方の作品には、普段意識せずに生きているとわからないことだけれども、私達の生活に密接に関わっている重要な事がテーマになっていたりします。
見る人によっては、耳に痛い内容になっていることもあるでしょう。 一見すると、この様なメッセージ性の高い映画は、観る人を良い方向へ導くように思えるので、迎合ではないようにも思えます。

しかし、たとえメッセージ性が高い内容であったとしても、映画というジャンルで作品を発表する以上、これは迎合となります。何故なら、映画では、利益が出る程度の興行収入を得られなければ、次はないからです。
観た人が口コミで作品の良さを伝えていって、観客動員数が増えて興行収入を増やしたりだとか、映画評論家やブロガーなどに認められて高評価を受けて、次回作を期待されると言ったことがなければ、映画監督という職業は続けられないでしょう。
映画監督が、今後も自分自身が発信したいメッセージを伝える活動をしていきたいと思う場合、何よりも考えなければならないことは、観客にウケるかどうかです。

いくら、人々を良い方向へ導こうとしたところで、全く観客にウケない映画を作り続ければ、観客動員も見込めないですし、スポンサーもつきません。
自分が活動をしていくためには、何よりも観客にウケるかどうかを考えなければならないので、映画は迎合と考えられます。
映画が迎合であれば、同じ様に脚本を演じる舞台もそうですし、ミュージカルなども同じ迎合と考えても良いでしょう。

技術と迎合の境界線

ミュージカルは、単純に脚本を演じるだけではなく、途中でダンスや音楽が入ってきますが、では音楽は、技術でしょうか、迎合でしょうか。
音楽は、楽譜がありますしテンポも決まっていますし、どのリズムでどの部分の歌詞を歌うのかも決まっています。 しかし、決められたテンポで決められた音符を追っていくだけであれば、機械でも出来てしまいます。初音ミクなんかがそうですよね。
人間が演奏して歌うことに価値をもたせるのであれば、決められた枠の中で個性を出す必要がありますが、この個性の出し方も、客にウケるかどうかが重要になってきます。

歌う際に音や間を外したとしても、それが聞き手によって心地よければ観客に受け入れられますし、ライブの引き合いや音楽の売上にも良い影響を与えるでしょう。
逆に、聞いていることが苦痛な音楽であれば、誰も曲を買うことはないでしょうし、ステージに呼びたいという人も出てこないでしょう。
上手に歌って成功するためには、観客がどの様なものを求めているのかを探りながら提供していく必要があるので、音楽も迎合といえるでしょう。

音楽からテンポとメロディーを取り去って、歌詞だけを残すと、それは詩。ポエムとなります。
詩を作って人々に公開する詩人たちは、人の感情や様々な理論や世の中の出来事を詩に書き綴りますが、この詩人たちが書き綴る詩(ポエム)は、迎合なのでしょうか、技術なのでしょうか。
前に取り扱ったプロタゴラスとの対話篇でも、シモニデスの詩の解釈を巡ってプロタゴラスソクラテスは舌戦を繰り広げましたが、賢者ですらも解釈を巡って討論をする程の難解な詩であっても、迎合と呼ぶのでしょうか。

この詩は、その作品を聞いて感動した人が、口伝えで周りに広めていくので、市民たちの心を動かした作品のみが、より広い地域に長い間、語り継がれることになります。
聞く人の心に残らないような作品は、どれだけ良い事を言っていたとしても世間に広がっていかないので、世間に作品と名前が知れ渡るような詩人になろうと思ったら、多くの人に感動してもらわなければなりません。
となると、どの様な内容の詩を作れば、多くの市民が感動するのかを考えながら作品を作らなければならないので、迎合と言えます。

弁論術は迎合か

詩というのは、エンターテイメントよりな歌に比べると、メッセージ性が強い分野といえますけれども、では、更にメッセージ性を強めた、弁論家による街頭演説は技術なのでしょうか。それとも迎合なのでしょうか。
街頭演説は、日本でも駅前などで行われていますし、選挙前ともなると、いたるところで行われます。 街頭演説は、お金をとって披露するものではありませんし、詩人の作品のように後世に語り継がれるわけでもありませんが…
歌や詩と同じ部分があるとするならば、聞き手が聞いていたいと思うような演説をしなければならないということです。

街頭演説というのは、会場を用意するわけでもなく、交通量が多い道路などでおもむろに演説を始めます。
道路を行き交う人達は、街頭演説を聞くためにやってきたわけではなく、何らかの用事で目的地に行くために道路を通行しているわけですが、その人達の足を止めて演説に耳を傾けてもらおうと思う場合、聞き手が興味を持っている話をしなければなりません。
また、人が道路を通行するタイミングはバラバラなので、どの部分を切り取って聞いたとしても興味を持てるような話題や話し方をしなければなりません。

この様に気を使ってする街頭演説は、技術なのでしょうか。それとも、迎合なのでしょうか。
この質問に対してカリクレスは、『確かに、ソクラテスの指摘する通り、聞き手に関心を持ってもらう為に演説内容を考える人間もいるが、聞き手のためを思って耳の痛いことを話す人間もいる。』と答える。
カリクレスの答えを言い換えると、『人による』といっているのと同じですが…ソクラテスは、このカリクレスの回答を受け入れることにします。