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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第78回【ゴルギアス】欲望と幸福の関係性 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

維持し続ける辛さ

例えば、ボクシングのチャンピョンを目指して頑張っている時は、目標となる人間が存在するので、その人物に勝つイメージを持ちながら練習することで、目標に近づいている実感が得られると思います。
しかし、目標となる人物を倒してしまって、自分がチャンピョンになってしまったとしたら、次は自分が挑戦者から狙われる側になります。
チャンピョンの座を守るためには、これまで以上に必死になって自分自身を鍛え続けなければなりませんが、行われる試合は新たなステージに立つための戦いではなく、防衛戦です。

厳しい鍛錬によって、チャンピョンの座を長年守り続けたとしても、人は時間と共に老化する動物なので、いずれは努力の甲斐もなく、負ける時が来るでしょう。
この時に年老いたチャンピョンは、負けたことを悔しがって、再び挑戦者としてチャンピョンに立ち向かっていくのでしょうか。
それとも、やっと重責から開放されて、普通の人間に戻れると安心するんでしょうか。

チャンピョンの座を維持し続けるというのは、精神的にも肉体的にもかなりの負担がかかります。その状態を、幸福な状態と呼ぶのかというと… 不幸ではないけれども、手放しで幸福だとも言えない状態なのではないでしょうか。
この様な感じで、欲望と幸福の関係は、片方だけで存在できるものではなく、両方が同時に宿らなければ存在できないものなので、反対の性質とは言えません。
目標が達成されて欲望が無くなってしまうと、幸福も遠ざかってしまうものと考えられなくもありません。

勇気について

では次に、勇気について考えていきます。 カリクレスの主張では、政治など知識に加えて勇気を持ち合わせていなければ支配者の資格はないそうなので、カリクレスの考える勇気とはどのようなものかを考えていきます。
例えば、勇気のある者と無い者が同じ戦場に駆り出されたとします。 戦場で戦っていると、こちらの勢力のほうが強く、敵は追い込まれたことによって撤退を決めて逃げていったとします。
この時に、喜ぶのは勇気のない人間でしょうか、それとも、勇気がある人間でしょうか。
ついでに、これと全く逆のケースでも考えてみましょう。 敵とぶつかりあった時に、相手のほうが勢いがあって押されてしまった場合、その状態に恐怖するのは、勇気のある者でしょうか、それとも勇気がない者でしょうか。

おそらくですが、この2つの状態を思い浮かべた際に、相手が撤退して喜ぶのは臆病者の方ですし、相手のほうが強く、負け戦になると思った時により大きな恐怖を抱くのも、臆病者の方でしょう。
勇気がある者の態度は、この臆病者の全く逆というのが、多くの人が考える、臆病者と勇気ある者の行動の差なのではないでしょうか。

まぁ、勇気ある者が臆病者と全く逆とはいっても、勇気あるものでも強敵に攻め込まれると、多少なりとも恐怖は感じるでしょう。
戦場で不利な状況に立たされるというのは、自分が死ぬかもしれないという状態ともいえるわけですから、その状態を楽しんだり幸福だと感じる人間は、相当少ないでしょう。
その為、臆病者と勇気ある者は、共に、敵が撤退している状況を見ると安心して喜ぶでしょうし、敵がものすごい勢いで攻め込んできたら恐怖するとは思いますが、喜びや恐怖の度合いでいうと、臆病者の方が、より喜んで、恐怖するということです。

この状況を、もう少し別の表現でいうのであれば、臆病者の方が、敵が逃げた際にはより大きく喜びますし、強敵が攻め込んできた時には、より大きな恐怖を感じるということで…
逆に勇気があるものは、敵が逃げていく際にはそれ程喜ばずに、強敵が大勢で攻め込んできたときにも、それ程恐怖を感じないということになります。

矛盾するカリクレスの主張

カリクレスは、支配者になるためには勇気が必要だと主張していたので、臆病者と勇気がある者とではどちらが良いのかといえば、勇気ある者の方が良いといっていると思われるんですが…
このカリクレスの主張というのは、今までのカリクレスの主張と矛盾するものですよね。

少し前の話を思い出して欲しいんですが、カリクレスは、大きな欲望を抱いて、欲望を満たすための行動を起こし、それを達成する事によって得られる満足感が幸福に導くと主張していましたよね。
それと同時に、膨れ上がる欲望を抑え込んで、何も欲することなく、それ故に感情の起伏がないような人生は、道端に転がっている石のような人生だとも言っていました。

では、先ほどの勇気についての臆病者と勇気ある者との態度を、これまでのカリクレスの主張に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
臆病者というのは、痛い思いをしたくないとか、死にたくないという願望。 これは、無傷で生き残りたいという欲望と言い変えることが出来ると思うのですが、その欲望が非常に強い人たちのことです。
生き残りたいから、敵が逃げていったら大喜びするし、強敵が攻め込んできたら、死にたくないからと恐怖するわけですよね。

臆病者は無傷で生き残りたいという欲望が非常に強いので、それが達成されそうな状況になると、全力で喜びます。

その一方で、勇気ある者はどうなんでしょうか。 勇気ある者は、名誉の為であるとか国の為であるとか、理由はいろいろとあるでしょうけれども、それらの為に自分の命を捨てることを惜しいとは思いません。
つまり、自分が無傷で生き残りたいという欲望を、名誉であるとか国といったものを理由にして抑え込んでいる状態とも言えます。その為、自分が窮地に立たされたとしても、それ程恐怖は感じませんし、敵が逃げていったとしても、それ程は喜んだりしません。
人が生きる死ぬというのは、その人の人生で一番重要なことだとも思えるのですが、それにすら動じない勇気ある者の真理状態というのは、カリクレスに言わせれば、感情の起伏がない、道端に転がっている石の様な人生と言えます。

勇気ある者は節制を身に着けている

先程も言いましたが、カリクレスの元々の主張というのは、欲望を満たすことが幸福に近づく方法なので、欲望を満たす度に膨れ上がる欲望は抑制するのではなく、そのままにしておくべきだという主張でした。
しかし、『勇気も必要だ』と後付したことによって、その主張が矛盾してしまいました。 何故なら、勇気ある者は『生き残りたい』という、人間であれば多くの人が持っている欲望を抑え込んでいる人達だからです。
幸せになるためには、欲望を抑え込まずに満たせるだけの力が必要で、その力は支配者になることによって手に入れることが出来るけれども、支配者になるためには、欲望を抑え込まなければならないというのは、かなり矛盾してますよね。

最初の、欲望は抑え込む必要がなく、欲望を満たし続けることこそが幸福につながる道だという主張だけであれば…
『生き残りたい』という欲望を抑制することなく、敵が逃げたら全力で喜び、攻め込んできたら絶望するという臆病者のほうが、幸せには近い事になります。
では、臆病者の方が優れた生き方なのかというと、そうではありません。 何故ならカリクレスは、勇気も必要だと後から付け加えてしまったからです。

後付されてしまった勇気という存在によって、『生き残りたい』という強い欲望を持っている人間は、支配者としてふさわしくないとされてしまいした。
では、欲望を抑えることをせずに、膨張する欲望を放置し続けるような人間が、『生き残りたい』という強い欲望を抑え込む勇気を宿すことが可能なのでしょうか。

勇気を持つものは幸福になれるのか

カリクレスが、抑制しなくても良いとしている欲望というのは、『生き残りたい』という欲望と比べてしまうと、正直な所、取るに足らないような事ばかりです。
他人を自分の思い通りに動かすことであったり、他人が持っている金が欲しいといった感じの欲望で、世間一般で善人と呼ばれている人達は、端から望まないような低俗な望みです。
その一方で、勇気を持つものが抑制している欲望は『傷つきたくない』であったり『生き残りたい』といった、痛みや自分の死を避けようとする本能的な反応です。

これを欲望と呼ぶ場合、人が持つ中で最も大きな欲望が、『傷つきたくない』とか『死にたくない』といった欲望だと思われますが…
ソクラテスが抱いた疑問は、人前で威張りたいだとか、他人の金が欲しいとか言ってる人が、『死にたくない』という最大級の欲望を抑制できるような精神を持っているのかという疑問です。

この疑問を投げかけられたカリクレスは、再び、新たな別の条件を追加することで、自身の考えを正当化しようとするのですが、その話はまた、次回にしようと思います。