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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第83回【ゴルギアス】人は迎合家を目指すべきか 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
https://kimniy8.hatenablog.com/entry/20200816/1597582987

目次

目指すべきは善導者か召使いか

ソクラテスはここまで説明した後に、カリクレスに対して、『私が本当にこの国の事を考える場合、国を良い方向に導くために尽力すべきなのか、それとも、国の召使いになるべきなのか、どちらが良いだろうか?』と尋ねます。
ここまで丁寧な説明をしたわけですから、答えは自ずとわかりますよね。 国の召使いになって、国民の意見に迎合して快楽のみを追求するような政治を行えば、いずれは国は破綻して、その責任を取らされることになってしまいます。
それを避けて、国が末永く発展することを望むのであれば、例え、国民が耳が痛いといって耳を塞いでしまう様な事であっても、根気強く言い続けて、国民を優れた善い存在にする必要が出てきます。

しかしカリクレスは、この質問に対して『国の召使いになるべきだ』と答えます。
これまでの話の流れからすると、当然のように『国を良い方向へと導くべきだ。』という答えが返ってきそうなのに、それでもカリクレスは、頑なに態度を変えません。
この態度には、さすがのソクラテスも驚きが隠せずに、『私に迎合家になれというのか?』と確認をとりますが、カリクレスは『そうだ。』と肯定します。

これは、カリクレスにこれまでの話を理解する能力がないからでしょうか。それとも、前と同じ様に、自分がこれまで訴えかけてきた主張と整合性を取るために、敢えて、自分でも思っていないような事を主張しているのでしょうか。
答えはどちらも間違っていて、カリクレスがソクラテスに『迎合家になれ』と勧めたのは、ソクラテス自身の為を思っての答えでした。

友達思いのカリクレス

というのも、人間というものは、自分の間違いを指摘される事を極端に嫌います。 みんなが、自分の行動が正しいと思い込んでいる為に、その間違いを指摘すると相手は恥をかかされたと機嫌を損ね、下手をすると喧嘩になったりもします。
これは、古代ギリシャの人達だけがそうだというのではなく、現在の日本に住む私達も理解しやすいことだと思います。 人の間違いを正すという行為は、トラブルの元だったりもしますよね。
この様な環境で、人を良い方向へと導くために、聴く人にとって苦痛になるような演説を行えば、その人は確実に多くの人から恨まれてしまうでしょう。

民衆を正しい道へと導こうと頑張れば頑張るほど、その人は多くの民衆から逆恨みされることになって、最悪の場合は、罪をでっち上げられて、死刑にされてしまう可能性があるからです。
カリクレスは、ソクラテスと意見が合わずに対立し続けているように思われている方も多いかもしれませんが、カリクレスと対話を始めた冒頭の部分でも触れていますが、カリクレスはソクラテスの事を、非常に大切に思っています。
何故なら、ソクラテスはカリクレスが信仰する力や知恵を持っている優秀な人物だからです。

ソクラテスという人間

カリクレスは、散々、力こそが全てで、力が正義だと主張してきました。そして、大人になっても哲学をやっているような人間は、ぶんなぐってやるべきだとも主張していました。
そんなカリクレスが、何故、哲学に没頭しているソクラテスに対して、そこまで好意を持っているのかというと、ソクラテスは、カリクレスが信仰する力を持っている人物だからです。 ここで言う力というのは権力ではなく、単純な個人としての武力です。
ソクラテスは哲学者で、理屈を捏ね繰り回すガリ勉タイプを想像しておられる方も多いかもしれませんが、実際には、3回戦場に赴いて、3回とも生還している戦士です。
しかもその内の1回は負け戦の撤退戦で、敵が本陣を逃さない為に追いかけてくるのを阻止し、本陣が逃げる為の時間稼ぎをする殿の部隊に配属されます。

殿は、本陣が撤退している為に戦力が足りず、その一方で、本陣を追いかける敵は相当な戦力を注ぎ込んでくるわけですから、本陣が逃げるための時間稼ぎの部隊というのは、トカゲの尻尾切りのような存在です。
そこに所属する部隊の兵士は命を失う可能性が高いので、兵士はご飯も喉を通らない程に追い込まれるのですが…
その中でソクラテスだけが、全く恐怖することも怯えることもなく、普段と同じ様にご飯を食べて休息を取り、堂々と敵を迎え撃って生きて返ってきた人物なんです。

それ程の武力と勇気を持ち、尚且、ギリシャでもトップと言われているプロタゴラスや有名な弁論家のゴルギアスと、議論で対等に渡りあえる程の知恵を持っているソクラテスを、カリクレスは高く評価していて、大切に思っているんです。
その大切な友人が、自分自身で努力することもない悪い民衆を善い方向へと導こうと頑張った結果、その民衆に逆恨みされて殺されてしまうのが耐えられないんです。
それなら、自分自身で良い方向を目指そうと思ってすらいない民衆のことなんて捨て置いて、自分自身の幸福を追求したほうが善いのではないかという思いから、迎合家になる事を勧めるんです。

徳は教える事が出来るのか

既に気づかれている方も多いと思うのですが、対話篇のこの部分のやり取りで面白いのが、仮に指導者が国民の為を思って、国や国民を良い方向へと導くために尽力したとしても、国民は逆恨みして指導者を殺そうとする点です。
ソクラテスの先程の考察では、ペリクレスは最終的には国民に吊るし上げられたから、指導者としては優れていないという話でしたが、このやり取りでは、仮に指導者が優れた人物であっても、悪い国民によって殺される可能性が指摘されています。
つまりカリクレスは、ソクラテスの事を心配して指摘しているだけではなく、ソクラテスの考察に対しても反論しているわけです。

そして、この反論に対する有効な反論を、ソクラテスは持ち合わせていません。

というのも、この話は、前にプロタゴラスとの間で議論になった、『アテレーとは教えることが出来るのか』という問題が関係していて、その答えが出ない限りは、答えようがないからです。
仮に、アテレーと言うものが他人に教えることが出来るものであるのなら、善い優れた指導者が全国民に対してアテレーを教えれば、国民は善い優れた存在に成れるでしょう。
優れた存在へと変わった国民は善悪の区別がつくため、自分たちを良い存在ヘと導いてくれた指導者に感謝し、吊るし上げられることはありません。

ですが、もし、アテレーが教えることが出来ないようなものであるのなら、指導者がどれほど頑張ったとしても、国民は指導者が何をしたいのかが理解できず、国民を優れた存在へと導くことは出来ません。
国民が良い存在へとなることがなく、悪いままであるのなら、国民にとって耳の痛いことしか言わない指導者は、国民からすれば邪魔な存在だと思われてしまい、最終的には罪をでっち上げられて吊るし上げられる可能性も否定できません。

ということは、カリクレスとソクラテスの議論の争点というのは、アテレーが他人に教えられる可能性があるものなのか、それとも、アテレーは教えることが出来ないものなのかという事になります。

相容れない両者

カリクレスは、アテレーは他人に教えることは出来ないと思い込んでいるので、他人を正しい方向へと導くことは不可能だし、そんな事に尽力しても逆恨みされてしまうだけだと主張しているわけです。
逆恨みされた結果、優秀なソクラテスが馬鹿な国民によって殺されてしまうなんて事になってしまうのは、それこそバカらしいことなので、彼らのことは放っておいて、自分の幸福を追求したほうが良いと、ソクラテスを説得しようとしているわけです。

しかしソクラテスは、人が生まれてきた目的は長生きすることではなく、大切なのはどの様に生きたかなので、『何歳まで生きることが出来るのか。』なんて事に興味を持ってはいません。
また、大した人間でもないのに、生まれが良いだけでそれなりの地位に就いている人間に頭を下げてまで、快楽を手に入れる行為を幸せだとも思っていません。
ソクラテスにとって関心があるのは、人間が作り上げた社会を守るために必要な秩序をもたらすことで、それにはどの様な行動が必要なのかという点のみです。

それを追い求めた結果、自分が死ぬことになったとしても、自分の人生は社会が善い方向へと向かう為に使われたのだから、それはそれで良い人生だと思っていますし、それこそが人の幸福だと思っています。
この様に、ソクラテスとカリクレスが考えている、幸せや人生の目的といった前提が違っているので、両者の意見は平行線をたどるのですが…
ソクラテスは説得を諦めずに、カリクレスに自分の考えを理解してもらう為に、『子供の裁判』という例え話を使って、説明しようとします。 …が、その話はまた次回にしていこうと思います。