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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その11 『不正から距離を取るにはどうすれば良いのだろうか』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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欲望の善悪を見分ける技術

カリクレスは、欲望やそれに伴う快楽にも善悪が存在し、その見極めには専門の技術が必要だと主張する。
ソクラテスは、人間を良い方向に導く技術を身に着けた弁論家であれば、その善悪を見極める技術を習得しているかもしれないと思いカリクレスに聞いた所、ペリクレスとテミストクレス等、歴史的な偉人がそれに当たると答えた。
そこでソクラテスは、名前の上がった彼らの功績を吟味して、善悪を見極める技術を解き明かそうとする。

まず、善悪を見極める技術が迎合のような経験ではなく『技術』であるのであれば、その技術には法則性がある事になる。
その為、行き当たりばったりで対策を行うのではなく、向かうべき目標をきっちりと定めた上で、順序立てて決まった手順をふむはず。
建築家が完成品を想像しながら作業を行うように、医者が病気を見定める為に必要な情報を集めるために診察を行うように、善悪を見極めるためには決められた手順で作業を行うはず。

目標も決めずに、素人のスケッチを元にして思いつきで作った建物がすぐに倒壊してしまうように、行き当たりばったりの思いつきで行動したとしても、善悪の判断がつくはずがない。
魂の問題も同じで、目標を適当に設定して思いつきで行動をしていったとしても、魂を良い方向に導けるはずがない。 そこには何らかの法則性があるはず。

では、その法則とは何なんだろうか。
体の場合は、上手く整えられた状態の体のことを、健康だとか健やかなといった呼び方で呼ぶ。
同じ様に、よく整えられた魂は何と呼ぶのかというと、『法にかなった。』という名前がついている。
女神転生でもそうだが、法とはLAW(ロウ)で、秩序を重視し、その逆はカオスで混沌となる。 魂が上手く調整されている状態は秩序を守ることによって生まれ、秩序によって正義や節制の徳目が魂に宿る。

病気になった身体に、美味しいからという理由でステーキを与えたとしても、それによって病気が回復する見込みは薄い。ちゃんと医者に診察して薬を出してもらうべき。
同じ様に、悪い状態に陥った魂に快楽を与えたとしても、それが魂を改善させるのに役立つ可能性は低い。 ドラッグ中毒の人間に快楽を感じられるからとドラッグを与え続けたとしても改善はしない。
魂を良い方向に導くためには、悪い快楽を抑制する必要がある。

ソクラテスの考察

ここまで聞いたカリクレスは『欲望を抑える必要はない』と、ソクラテスを説得するのを諦めるようになる。
そして、まだ続けたいというのであれば、これ以降は一人で問答を続けて答えを出してくれと言いだす。
ソクラテスは、誰にも求められていないのに持論を演説するなんてことはしたくないと主張するが、黙って聞いていたゴルギアスが続きを聞きたいを言い出すので、なんとか一人で進めることにする。

一人で話すにあたり、ソクラテスは今までの議論を振り返ってまとめることにする。

まず、善と快楽は同じものではない。 カリクレスも認めている通り、快楽の中にも善悪が存在するから。
快楽は善のためにされるべきもので、その逆ではない。 善は目的に据えるものであって、善悪もわからない快楽を目標に据えてしまえば目標を見失ってしまう。
快楽とはそれが宿った時に心地よくなることで、『善い』とはそれが宿った時に善人でいられるもの。 常に良いとされる絶対的な良い人間は存在せず、良い事をしている人間が良い人間。

良さとは、規律と秩序による技術によって生まれるもので、偶然の産物ではない。 独裁者の思いつきによって良さが変わるなんて事はない。
思いつきによる欲望を満たしていく方法によって良い方向に向かうことは出来ず、悪い欲望を抑えて秩序を守る者に良さが備わる。

まとめると良い人間とは、自分の中に生まれる悪い欲望を抑え込むという技術、つまり秩序を持ち、それを守る人間のこと。
自分の欲望を上手く抑制できる秩序ある人間は、他人に接する時には正しい態度を取るし、神々を前にした時には敬う態度を取る。
善悪を正しく理解して秩序ある人物は勇気を備えている。追求してはならない事は追求せず、避けてはならない事は避けない。

人を良い方向へ導く方法

良い人というのは何事もよく行う為に、その人生は幸せなものとなるが、自分の欲望を抑えることが出来ない悪い人間は、不幸となる。
人は不幸にならないためにも、湧き出る欲望を抑えて不正を起こさないようにしなければならない。
万が一、不正を行ってしまったとしたら、それが自分自身や身内の者であったとしても、そのものに裁きを受けさせなければならない。何故なら、受けることは良いことだから。

無限に沸き起こる欲望に身を任せて、他人の命や財産を奪うような人生は、盗賊の人生と同じで、決して幸せになることはできない。
何故なら、人間は1人で生きているわけではなく、それぞれが繋がりを持つことによって社会を構築して生きていく社会的動物だから。
欲望に従って人のものまで奪う人間は誰からも愛される事は無く、人間社会の中で生きていくことは出来ずに、はじき出されてしまう。

人間社会の中で生き抜くために必要なのは他人から愛されることで、その友愛を勝ち取るためには、自分の中にある悪い欲望を抑え込んで秩序を保ち続けなければならない。
基本となるのは秩序なので、この世の総体である宇宙のことを『コスモス(秩序)』と呼んでいる。 力のある少数の者が独占するのではなく、秩序による平等こそが正義となる。
弁論術が、人の魂を良い方向へ導く技術だというのであれば、親しいものが罪を犯した際には、そのものに進んで裁きを受けさせるために技術を駆使して説得しなければならない。

例え、聞き手である親友が親族が耳をふさいだとしても、魂を良い方向へ導く為に説得し続けなければ、人を善に導く技術とは言えない。
このような事を適切に行えるような弁論家は、その身にアテレーを宿していなければならない。

また、不正を行うものと不正を受けるものを比べた場合は、不正を行うものが醜い存在で、それ故に不幸となる。
この世で一番の害悪は、不正を行うことであり、それよりも悪いことが有るとすれば、その害悪が誰の手によっても裁かれない事。
不正を働くという、人の道を踏み外した際に、誰も助けてくれない状況こそが最悪。 それに比べれば、不正を受ける害悪のほうが、まだマシ。

不正から距離を置く方法

不正を行うのも不正を行われるのも両方が不幸なので、幸福になる為には、この2つから距離を取る必要が出てくる。
では、不正を行われないようにするにはどの様にすればよいのだろうか。 ソクラテスの演説を聞いていたカリクレスに対して質問をすると、彼は力だと答える。
なら、不正を行うのをやめたい場合には、力が必要なのだろうか。それとも、意志の力だけでも達成できるようなものなのだろうか。

ポロスとの会話の中では、不正を行うものは意図的に望んで行うのではなく、自分でも気が付かない内に不正に手を染めているという話になったが、無意識に手を染めてしまう不正を止めるには、何が必要なのだろうか。
力だろうか、意思だろうか。 自分でも気がついていないのだから、これらが役に立つとは思えない。
気が付かない不正に対しては、自分の立ち位置を客観的に図ることが出来る物差しの様な尺度が必要で、それは確固たる技術ということになる。

不正を行わず不幸にならない為には…

ではこれらだけで、不正と自分の距離を離してかかわらないようにする事が出来るのかといえば、そんな事はないだろう。自分に力をつけたとしても、それ以上の力のある人間がこちら側に不正を仕掛けてくるということも十分に考えられる。
この心配を解消する為には、自分がその周辺で一番の実力者になるか、一番の実力者を味方に引き入れる必要がある。 つまり、虎の威を借る狐。 スネ夫に対するジャイアン。
一番の権力者を味方に引き入れるためには、その権力者と似たような存在にならなければならない。 つまり、類は友を呼ぶ。 仲良くなるのは似た者同士。

権力者と一般市民との間で知識や常識がかけ離れすぎていれば、お互いに理解することは難しくなる。
仮に指導者が慾望を抑えるすべを知らず、ワガママで自由気ままに振る舞っていたとして、国民に節度や知恵があり優秀だった場合は、国民は指導者の横暴を許すことが出来ないだろう。
逆に、王が優れた人物で国民の方があらゆる点において劣っていたとすれば、王は国民を見下して、これもまた距離を縮めることは難しくなってしまう。

では、独裁者と親しくなれる人間はどの様な人間か。 独裁者が白いものを黒いといえば賛同し、馬の事を鹿だと言ったら、『そのとおり!』と言えるような忖度できる人間という事になる。
何故、独裁者が愚か者という前提になっているのかというと、そもそも、アテレーを宿しているような卓越した独裁者であれば、不正を行うことも不正を許すこともない。
そもそも不正を心配しなければならない状態というのが、その独裁者がアテレーを宿していない劣った人間と言うことを証明しているから。

国の指導者に媚びへつらい、不正を働くような劣った独裁者のお気に入りになることが出来れば、その独裁者の威光によって守られることになる為、その国の中では不正を受ける確率がかなり低下する。
では、もう一度振り返って、自分が不正を行う場合について考えた場合はどうだろうか。
自分が秩序を守る正しい人間であれば、意志の力によって不正を行うことを防げるかもしれないが、劣った指導者にしっぽを振り、その人物と似たような人物になる努力をしてきた人間に、自分を律することが出来るだろうか。

劣ったものに媚びへつらって、自分も似たような存在になろうとする人間は、その者も劣った指導者と同じ様に劣った人間になるはず。
であるなら、独裁者に気に入られる努力というのは、自分が不正を受ける可能性が減る一方で、自分が不正に手を染めてしまう可能性は上昇してしまうのではないだろうか。
不正に手を染めて、その行為について誰も咎めてくれないというのは人間にとって最大の不幸だが、劣った独裁者のマネをすることで、最大の不幸になる可能性を増やしているともいえる。

不幸の定義の違い

この主張に対して黙って聞いていたカリクレスが異論を唱える。
最大の権力者に隷属する事で似たような力を得ることが出来るなら、自分に敵対するものは死刑することが出来る力を手に出来るのだから、それは不幸なことではないだろうと。
この意見に対してソクラテスは、権力者や、それに付き従う自分の判断が間違っている場合は、善良な市民を殺してしまう可能性をはらんでいることを指摘するが、カリクレスは、それこそが最大の不幸ではないのかと主張する。

何も不正や罪を犯していない人間が、冤罪によって、また、時の権力者の思いつきによって殺されるのであれば、その被害者こそが最大の不幸を受けるのではないかと。
カリクレスは、ソクラテスの主張する『不正を働く者、そしてその人物に付き従っている者』が最大の不幸をを受けるという点について納得ができない。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍