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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その10 『臆病者は幸福なのか』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com
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前回の振り返り

カリクレスは、自分から湧き出る欲望は抑える必要はなく、その欲望を満たし続ければ良い。そうする事で、幸福へと到達できるし、そうする事が正義だと主張します。
一方でソクラテスは、本当にそうなのか疑問に思う。例えば皮膚病にかかっている人間は、常に肌を掻きむしりたいという欲望があって、それを実行することで簡単に欲望が満たせる状態にあるが…
皮膚病にかかった彼は幸せなのだろうかと質問をし、カリクレスは、自身の発言の一貫性を守るために、しぶしぶ、皮膚病になる方が幸せだと主張する。

しかしこの態度が、ソクラテスは面白くない。
前回のゴルギアスとの対話の時も、ゴルギアスがその様な態度に出て本心を話さなかったせいで、弟子のポロスによって卑怯者呼ばわりされた。
其のポロスとの対話の時も、ポロスが本心で納得できない状態なのに納得した状況で乱入されて、カリクレスによって卑怯者呼ばわりされた。

今回もまた、カリクレスは本心とは違う形の答えに対して、同意しようとしている。これでは先の2回と同じ結末を繰り返すだけなので、本心で思っていないことには同意しないことを進める。
これは単純に同じことの繰り返しを避ける為だけではなく、ソクラテス自身が、求める真理に到達できなくなるから。
カリクレスが試金石として機能するためには、知恵を好意と率直さが必要だったが、そこから率直さが抜け落ちてしまうと、試金石としての意味がなくなる。

そこでソクラテスは、カリクレスに率直さを取り戻してもらう為に、別の質問をすることにする。

欲望が満たせない状態は不幸なのか

まず、概念には真逆のものが存在することを確認する。
例えば、熱いという概念には冷たいという真逆の概念が存在する。 眼の前のコップの注がれている水が、熱い状態でありながら冷たい状態でいられることはありえない。
同じ様に、強さや美しさも同じで、美しくありながら見にくい状態であることは出来ないし、強くありながら同時に弱くあることは出来ない。強い人間でも弱い部分はあるが、それは、力や身体が強い一方で精神的に弱いなど、部分が別の場合のみ。

この事実をカリクレスと共に確認し、次に、欲望と幸せについて考える。
カリクレスの主張によると、欲望の状態が何らかの手段によって解決することが出来れば幸せに近づくそうだが、では、欲望がある状態と幸せな状態は、真逆の概念なのかを考えてみる。
仮に真逆の概念だとした場合。 欲望の反対にある幸せは良い事と言い変えることが出来るので、その逆の位置にある欲望は悪いことと言い変えることが出来る。

先ほどの前提にたてば、真逆の概念は同時に宿ることはなかった。 つまり、良い状態であると同時に悪い状態であることはなかった。
では、欲望と幸せの関係性で観てみよう。 のどが渇いている時は、水に対する欲望が高まっているといえる。この時に水を飲むと喉が癒やされて快感を得るが、この時、水に対する欲望は完全に消えているだろうか。
水を飲んで美味しいと思うのは、喉が渇いているときだけで、水を飲むという行為そのものが快楽につながるわけでも幸福につながるわけでもない。

仮に水を飲みすぎてお腹がタプタプになっている状態で、更に水をのむのは快楽どころか苦痛を伴う。
では、水が美味しいと思うのはどの状態なのかを考えると、水に飢えている状態のときのみという事になる。つまり、水を飲みたいという欲望と快楽は共存していて、一方が現れれば一方が消えるという関係ではない。
水をのむ場合、飢えている状態で飲む1口目が一番快楽を得られて、欲望が満たされていくに連れて、快楽の方も薄れていく。 つまり、快楽は慾望に依存する関係に合って、慾望がなければ快楽も存在しない。

反対の概念のものは同時に宿ることは不可能にも関わらず、慾望と快楽の関係でいえば、同時に宿ることがあるどころか、欲望がなければ快楽も感じない関係性となっている。
ということは、慾望と快楽は、善と悪のような反対の概念ではないということになる。

勇気ある人間とは

カリクレスの主張では、政治などの知識に加えて勇気を持ち合わせていなければ支配者の資格はないそうなので、では次に、勇気について考えてみる。
例えば戦場で、交戦中の敵が撤退を始めた場合について考えてみる。 この場合、喜ぶのは臆病な人間の方か、勇気がある人間の方かどちらだろうか。
これとは全く逆のケースで、こちらが不利な状態の時に、相手がここぞとばかりに攻め込んできた場合、その状況に恐れおののくのは、臆病な人間か、それとも勇気ある人間か、どちらだろう。

他人の主観に成り代わることは出来ないので、憶測することしか出来ないが、おそらく、臆病者であれ勇気ある者であれ、戦争の中に突入していくという状況は、恐怖を感じる度合いに強弱はあるかもしれないが、両方が恐怖を感じるだろう。
たとえ勇気を持つものであったとしても、もしかしたら死ぬかもしれないという状況に突入していくのに、何の緊張感もない人間はいない。
これが臆病者であれば尚更で、臆病者は、死にたくない、傷つきたくないという思いがより強く現れて、より強い恐怖を感じるだろう

これとは逆に、敵が戦闘から逃げていく状態は、自分が死ぬかもしれないという状況から抜け出れるわけだから、かかっていたストレスが無くなることによって、開放感を得ることが出来るだろう。
この時の恐怖と開放感による快楽は、先ほどの慾望と快楽と同じ様な形に成っていて、戦闘状態によるストレスが高ければ高いほど、それがなくなった時の開放感は強いことになる。
つまり勇気のある人間は、戦闘状態に入る時にはわずかに緊張する程度なので、敵が撤退しても其の緊張緩む程度の印象しか受けないが、敵が攻め込んできた時に絶望していた臆病者は、敵が撤退する時には極度のストレス状態から開放されるので、とてつもない開放感と快楽を得ることになる。

臆病者は幸福なのか

カリクレスは、権力者などの支配者は、より多くの慾望を抱き、それを満たす事で満足感を得て、満足感を積み重なえることで幸福に成る。
幸福になる為には、より多くの欲望が必要になる為、欲望を抑えるという行為は幸福から遠ざかっていく行為なので、節制などは必要がない、欲望が薄いものは満たされた際の快楽も薄い為、生きている意味が無いという主張だった。

しかし、戦場という場面において勇気を持つ勇者と臆病者を比べてみると、臆病者は敵が襲ってきた時に絶望するほど怖がり、敵が撤退を始めると極度のストレス状態から開放されて大喜びする。
一方で勇者は、敵が襲ってきた時にさほど恐怖を覚えずに少し緊張する程度なので、敵が逃げても緊張が解けるだけで、喜びはそれ程大きなものではない。
恐怖というのは、自分の命や身体に傷をつけたくない、奪われたくない、助かりたいという慾望ともいえるが、その慾望が、そして開放された時の快楽が大きいのは臆病者の方。

より多くの欲望を抱き、それを満たすことによる快楽を重ねることが幸福への道というのであれば、臆病者こそが、大きな慾望と達成された時の快楽を受け取っていることに成る。
では、勇者と臆病者とでは、臆病者のほうが優れている事になるのだろうか。 また、より大きな欲望と達成する力を持つ人間が、同時に勇気を持つことは可能なのだろうか。

良い快楽と悪い快楽

この質問を投げかけられたカリクレスは、快楽の中にも善悪が存在すると言い出す。
そして、欲望やそれに伴う快楽の善悪を見極める為には、専門家による技術が必要になると付け加える。
また、新たな条件が追加されてしまった。

では、快楽を善悪に分ける専門的な技術とは何なんだろうか。
技術という言葉が出てきたので、先ほどポロスとの間で行った、迎合と技術の違いというのをヒントに考えてみることにする。
迎合と技術の違いとは何かというと、身体についての技術は医術がそれにあたり、迎合は料理法ということになる。

医術は患者の意見に関わらず、身体について最善の事を行う為に技術と呼べるが、料理法には正解がなく、食べる者の好みによって作り方や分量が変わる為に、迎合ということになる。
勇気であるとか、支配欲やそれに伴う満足感は精神的な分野である魂の管轄なので、この理論を、人間の魂の方にも当て嵌めてみて、分かりやすいものから仕分けをしていくことにする。

技術と迎合の仕分け

分かりやすい分野として、エンターテイメントの分野がある。 この分野に属しているものは全て、迎合と考えてもよいだろう。
例えば映画は、お金を払って見に来てくれた観客を満足させなければならない。 一方で、見に来てくれた客を良い方向に導く義務はない。
世の中を良い方向にしたいという思いから、映画の中にメッセージを込めて制作することは有っても、その映画が全体として面白く感じなければ、作品としては意味がない。

観客を良い方向に導きたいが為に、妙に説教臭くなったり、観ていることが苦痛に感じたりする映画には次がない。
1回で打ち切られると今後の活動ができなくなるので、製作者は、観客に気に入られるように迎合して作らなければならない。
これは漫画でも小説でも全て同じで、観客に見て感じて判断してもらうものは、観客がどの様に受け取るのかを考えた上で、迎合して作らなければならない。

では、音楽はどうだろうか。
音楽も同じで、聞き手が心地よいと思う音楽が良い音楽で、その音楽に絶対的なものは存在しない。音楽を奏でるものは、観客の反応を見ながら間や強さを調整する。
一定のテンポで楽譜通りに奏でることが良い音楽ではなく、聞き手の反応を見ながら、つまり聞き手に迎合しながら演奏するのが良い音楽かといえる。
その間や、観客が何を求めているのかは、技術ではない。 その為に、理論に落とし込めないし他人に言葉で伝えることもテキストに書き残すことも出来ない。 場数を踏んで経験を重ねるしか無い。

この音楽には、単に1つの楽器で演奏するものもあれば、複数の楽器で演奏するもの、そして、ヴォーカルを入れるものが存在する。しかし、この全ての音楽が、技術ではなく迎合といってよいだろ。
何故なら、聞き手が苦痛に思い、二度と聞きたくないと思いながらも、聴くと人間の魂を確実に良い方向に持っていく音楽など無いから。

この様に考えていくと、歌が入った極というのも迎合に振り分けることが出来る事が出来るということが分かる。
では、歌付きの曲から、リズムとメロディーを取るとどうなるのだろうか。 歌からそれらを取ると、詩だけが残ることになる。
詩(ポエム)は、人の感情や様々な理論も書き残したりするが、これも迎合なのだろうか。 この詩もやはり、その詩を読んだ人間が感動するものしか後世に語り継がれることはないので、読む人間を意識して作られたもの、つまり迎合と考えるべきだろう。

詩は、聴いた人間にとってためになる事や良い方向に導く内容のものもあるが、最終的には聞き手がどの様に思うのかが重要視されている為に迎合というのであれば、弁論家が行う街頭演説はどうなのだろうか。
街頭演説は、立ち止まって聞いてもらう為に聞き手の心を掴む必要がある。 聞き手の心をつかむ必要があるのであれば、聞き手が何を望んでいるのかを考えながら話す必要がある為、迎合に当たるのではないか。
これに対してカリクレスは、確かに、聞き手の望むものだけに関心を寄せて話す人間はいるが、聞き手を良い方向に導く人間もいるとして、一概にはどちらかに決めることは出来ないと主張する。

弁論術は技術か迎合か

ソクラテスはこの回答を受け入れて、街頭演説には、聞き手を良い方向に導く技術を持つものと、迎合しかしていない2種類が存在することを良しとする。
だがこの場合、聞き手が苦痛になってでも話すことを止めず、最終的に聞き手を良い方向に導く事が出来るものだけを立派な弁論家だとする。

ここでソクラテスはカリクレスに対し、『聞き手の事を思い、彼らが良い状態になる為に苦痛な言葉を投げかけ、彼らが耳を塞いでも語ることを止めずに良い方向に導こうとしている演説歌を知っているか?』と問いかけ、カリクレスは『知らない。』と答える。(ゴルギアスは?)
では、もう少し範囲を広くして、今現在現存していないかこの人も含めるとどうかと問いかけると、カリクレスはテミストクレスやペリクレスの名前を挙げる。

ソクラテスは彼らの名前を聞いて、確かに、カリクレスの主張する善の形。すなわち、増大し続ける欲望をそのままにして、その欲望を満たす事を卓越性と呼ぶのであれば、その事に専念していた人物という意味では、当てはまるかもしれないと答える。
しかしその話は、欲望にも善悪があり、良いとされている欲望のみを満たそうとするものが卓越した人だったという結末だったはずで、欲望の善悪を見極める為には、特定の技術が必要だったという結果になった。
では、先ほど名前を上げた誰が、慾望の善悪を見極める技術を持ち、実行しているのだろうか。 カリクレスは議論が面倒くさくなり始めたのか投げやりに、『上手く探せば見つかるんじゃない?』という。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍