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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第78回【ゴルギアス】欲望と幸福の関係性 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

人生に節制は必要か

前回の話を振り返ると、ソクラテスがカリクレスに対して『あなた達が目指す支配者というものは、自分自身も理性の支配下に置いて、欲望を抑制する事が出来るのか』と聞いたところ…
カリクレスは『欲望を満たしていくことこそが幸福に近づく道なので、欲望を抑制するなんて事はバカバカしい行為だ』と一蹴し、欲望も抱かずに、それを満たすために行動も起こさない人生は、一切の感情の起伏がなく意味がないと言います。

それに対してソクラテスが、樽に入った液体の話と、皮膚病にかかった人間の例え話をして、本当に、欲望を満たすためだけに行動するのが幸せにつながる道なのかと尋ねます。
カリクレスは、この例え話、特に皮膚病にかかって肌を掻きむしるほうが良いのか、それとも、皮膚に異常がない状態で、掻きたいとも何とも思わない人生か、どちらが幸せなのかと聞かれた際に、自分の理論と整合性を取るために、本心とは違った答えをします。
この答えを聞いたソクラテスは、がっかりしてしまいます。 というのも、カリクレスと議論をしようと思ったきっかけは、カリクレスに知識とソクラテスに対する好意と率直さを兼ね備えていたからです。

ですが、自分の理論と矛盾しないように、本心とは違った答えをしてしまったカリクレスの行動に失望し、再び率直さを取り戻してもらう為に、別の質問をすることにしました。

対となる概念

ソクラテスはまず、概念には真逆のものが存在することをカリクレスに確認します。 前に『プロタゴラス』との対話編を取り扱った際に、概念は単独では存在できないという話をしましたが、概念は真逆の概念と対となって生まれます。
熱いという概念には冷たいという真逆の概念があります。 熱いという概念が宿ったものを熱いと呼び、冷たいという概念が宿ったものを冷たいと呼ぶ場合、この『熱い』と『冷たい』という概念は真逆のものなので、同時に宿ることはありません。
例えば、目の前にコップがあって、その中にコーヒーが入っているとします。 そのコーヒーが、熱くありながら冷たい状態を維持するというのは、不可能ですよね。

同じ様に、美しいものが同時に醜い存在になることは出来ませんし、強いものが同時に弱くはなれません。
人間の場合は、強い肉体を持っている場合でも、精神的に弱い人というのはいるじゃないかと思う人もいらっしゃるかもしれませんが、この場合は、肉体と精神は別物と考えます。
強い肉体が同時に弱くあることは出来ませんし、弱い精神が同時に強くなることはありません。 

この強弱は、あくまで同時には宿らないと言ってるだけなので、普段は気弱な人間が勇気を出して一時的に強くなることは出来ますが、強くなった状態は弱い状態とは言えません。
冷たいコーヒーをレンジでチンすると暖かくできますが、暖められたコーヒーは冷たいとは言えませんよね。 これと同じ様に、一つのものが正反対に変わることはあっても、正反対の概念を同時には宿せないということです。

欲望と幸福は逆の概念?

この前提をカリクレスに確認をして、次に、欲望と幸せについて考えます。
カリクレスのこれまでの主張によると、欲望に支配されている状態から、行動を起こしたことで満たされて満足感がえられた状態になると、幸福に近づくことができるということでした。
では、欲望に支配されている状態と、目標が達成されて満足感が得られた状態というのは、真逆の状態なのでしょうか。

仮に、欲望と満足感が一つの概念の対になる存在で、真逆の存在であるとした場合、満足感が満たされている状態と幸福な状態とが同じとするなら、欲望を抱いている状態というのは、不幸な状態であったり悪い状態言い変えることができます。
では本当に、欲望とは悪い状態で満足感は良い状態で、この2つは真逆の対となる存在なのでしょうか。
先ほど同意した前提では、対となる2つの真逆の概念は、同時に宿ることはありませんでした。冷たい状態を維持しながら熱い状態になることは、出来ませんでしたよね。

この前提に立てば、欲望を抱きながら心地よい状態や幸福感は得られないことになります。 マイナスの感情である欲望は、満たされることによって満足感へと変わるので、2つの状態が同時に宿ることはないはずです。
では、本当にそうなるのかどうか、身近な例を当て嵌めて考えてみましょう。

欲望と幸福の関係性

生活の中で頻繁に起こる、喉が渇いたから水を飲むという行動で、欲望と幸福の関係を考えていきます。
水を飲んで美味しいと思うのは、喉が渇いていて『水を飲みたい』という欲望に支配されている時です。 喉が渇いていれば乾いているほど、何の変哲もない水であったとしても美味しく感じられますし、飲んでいる間は心地よく幸せな状態になります。
しかし、この水が美味しいと感じるのは、喉が渇いているときだけですよね。 ものすごく喉が渇いている時に、コップ1杯の水を飲むと美味しく感じますが、ある程度 喉の渇きが抑えられた状態で2杯めの水を飲んでも、1杯目程の感動はないでしょう。

2杯目を飲んで、お腹がタプタプの状態になって、喉が渇いている状態が完全に解消されて満たされた後に、3杯目の水を出されて飲むことを強要されたら、その行為は苦痛に感じるかもしれません。
水を飲むという例で考えた場合、欲望が最も大きい状態の時に、欲望を満たす行為を行うと心地よいと感じますが、ある程度満たされている状態で水を飲んでも、快楽はあまり感じません。
そして、完全に欲望が満たされた状態で更に水をのむことを強要されると、快楽どころか、むしろ苦痛を感じてしまいます。

このことから分かることは、欲望と快楽や心地よさの関係というのは真逆の関係ではなく、むしろ、それらは欲望に依存している関係で、欲望が無くなってしまうと快楽も無くなってしまう関係だということがわかります。
対となる反対の概念は、一方の概念が完全になくなった後にしか存在できませんが、欲望と幸福の関係でいえば、欲望がなくなれば幸福もなくなるので、欲望と幸福は共存している関係と言えます。

満たされないという充実感

これは、水を飲むという特定の行動に限ったわけではありませんよね。
私達の生活を振り返ってみると、何かを達成したいと一生懸命頑張っている時が一番面白く、目的が達成された後は、楽しい日々が過ぎ去ってしまったと思ってしまうことが結構あります。
うる星やつらというアニメの映画で、『ビューティフル・ドリーマー』という作品がありますが、その中には、文化祭の前日の慌ただしい準備がループして永遠に続くという演出がありましたが…

文化祭という目標の為に準備という作業を行っているのに、実際に文化祭当日を迎えてしまうと、後は終わりに向けて寂しさがこみ上げてくる。
それなら、文化祭前日という、もう少しで目標に到達できそうなところを無自覚にループし続けるほうが幸せなんじゃないかとも思えてしまいますよね。
もっと身近な例でいうなら、旅行などの非日常的な事を行う場合、実際の旅行よりも、旅行を想像しながら準備している時が一番楽しい状況という感じでしょうか。

追うか追われるか

目標を達成したいという思いと、その為に実際に行動を行っている状態が一番充実している状態で、いざ目標が達成されてしまうと、満足感による幸福で満たされるというよりも、『こんなもんか』という感想になってしまう事が多いように思います。
その他の例でいうなら、1番手と2番手なら2番手のほうが良いとかでしょうかね。 2番手の場合は、1番手の背中を常に置い続けることに集中すればよいわけですから、やることも決まってますから努力し甲斐があります。
何かの競技の場合を想像してもらうと分かりやすいかもしれませんが、2番手以下は目標が分かりやすいですし、目標と自分の位置にどれほどの差があるというのも分かりやすいです。

頑張ったことによってトップとの差が縮まれば、それを体感することも出来るでしょうし、差を縮めるという行為そのものが面白くなり、ゲーム感覚で楽しめるといった事もあるでしょう。
しかし、努力が実ってしまって、自分がトップになったらどうでしょう。 トップを目指して頑張っていたわけですから、最初は嬉しいと思うでしょうし、満足感や優越感も感じられると思いますが…
そのうち、自分の立場というものを理解してくるようになると、状況は変わってきます。

自分が2番手であれば、トップの人間を追い抜かすことを目標に据えて頑張るだけで良いので、トップの人間のやっていることよりもハードな事をやるとか、やっていないようなことを取り入れて頑張ればよいだけです。
しかし、自分がトップになってしまえば、今度は自分が追われる番となってしまいます。 自分が一番なので比べる目標も無くなるため、努力をどれだけすれば良いのかも分かりません。
眼の前に誰も居ない状況で追われる立場で、尚且、迫り来る挑戦者に負けてはいけない状態というのは、精神的にはかなりキツイ状態でしょう。