だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その9 『足るを知る事は不幸なのか』

広告

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com
f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

本能か秩序か

カリクレスは、人間が作り出す社会性によって生まれた常識ではなく、人間に備わっている本能に従うことこそが正義で、欲望を満たし続けることで幸福になる。
力を持つものは、その力を奮って手に入れたいものを手に入れればよいし、自分より弱い人間からは奪い取れば良いと。
強いものは多くを求め、必要とあらば弱者から奪い取ることこそが正義なので、侵略戦争は起こると主張していた。

それに対してソクラテスは、1人の権力者の力よりも、大勢の大衆の力のほうが大きいのではないか。であるならば、大勢の大衆は少数の大富豪から財産を奪う権利があるし、そうする事が正義ということになる。
一般大衆は、多くの富を貯め込んでいる富豪から財産を奪い取り、皆で再分配する事が正義ということになり、これは、人間が作り出した社会の法律と同じ事になる。
なら、法律で定めている様に、大多数のものが支持する再分配こそが正義なのではないかと切り返す。

しかしカリクレスは、自分が言っている力とは、単純な筋力や身体の頑丈さなどでは無いと主張。 では、どの様な力の事を言っているのかという質問に対して、『立派さ』と答える。

立派な人とはどんな人のことなのか

ここで再び、『立派さ』という様な言葉が登場する。
一番最初の対話相手であるゴルギアスも、その次に割って入ったポロスも、そして今回のカリクレスも、いざ、弁論術によって得られる力の正体を聴くと、『立派なもの』という抽象的過ぎる表現で答える。
しかしこれでは、抽象的過ぎて分からない。 立派な状態とはどの様な状態なのか。 何を習得すれば立派になれるのか。 謎は全く解明されない。

ソクラテスは、立派な人とはどの様な人なのかを探るために、『立派な人』というのは思慮深い人たちのことかと聞き、『そうだ』という返答を得る。
では、思慮深い人たちというのは、思慮のない人たちから搾取してもよいのかと聴き直すと、これもまた『そうだ』と返ってくる。

だが、この返答は矛盾があるように思える。 思慮深いとは、周りの環境も踏まえて深く考えて気遣いができるという意味合いがある。
深く考えて周りに気遣いできる人間が、自分より劣っているというだけで弱者から搾取するのだろうか。 それとも、カリクレスがいう思慮深いとは、単純に多くの知識を持っていることなのだろうか。
同じ様に考えたのか、ソクラテスも例を出して、思慮深い人間は弱者を押しのけて物を独占してよいのかを考えてみる。

例えば、何処かの地域で災害があって、地域住民が学校の体育館に非難してきたとする。
幸いにも、学校には災害に備えて数週間はやり過ごせる備蓄された食料があったとしよう。
そしてその場には、ただ一人だけ栄養士がいて、被災者の中で彼だけが、食べ物に関する飛び抜けた知識を持っていたとする。

この栄養士は、被災者の中で飛び抜けて知識を持っているという理由で、備蓄された食料を独り占めしてもよいのだろうか。
それとも、自分が持つ栄養士としての知識を生かして、みんなに適切な量を分配すべきなのだろうか。

立派な人とは国家運営に関する知識を持つもの?

この例え話を聞いたカリクレスは怒り出し、自分が言っている知識とは、そういった知識のことではないと言い出す。
では、どの様な知識がいるのだろうかと訪ねると、国家公共についての知識だと答える。
つまり、国を運営する上で必要な知識を備えることが重要で、そのようなものは出世して大物政治家になったり指導者になったりして、絶大な権力を手に入れることができるという事のようだ。

そして、知識だけではなく、勇気も持ち合わせていなければ駄目だと、必要なスキルを追加する。
しかし、この態度にソクラテスが物言いを付ける。 カリクレスは、ソクラテスが確認を取る度に答えを変える。
最初は、力のあるものだといっておきながら、その次は知識があるものだと言い出し、最後は、その知識は政治的な知識で、その上、勇気も持っていなければならないと…

確認を取る度に答えが変わるのでは、まともな議論が出来ないので、『他人の命や財産を奪っても許される強い人間』の定義を教えて欲しいと詰め寄る。(会社でこういう上司がいると困る)
カリクレスの主張では、国家公共の知識について詳しくて、政治運営できる能力が有って、勇気を持ち合わせているものが他人や国を支配する資格があるとのことだったが…
では、その資格がある支配者は、自分自身も支配することが出来るのかと質問をする。 つまり、自分自身の欲望や衝動を理性によって抑えることが出来るような人間なのかと質問をする。

立派な人は欲望を抑える必要はない

カリクレスは当然のように、この質問を否定する。
彼の主張では、力がある指導者で、その人物が治める国にも力があるのであれば、その指導者は自分の国よりも力を持たない国に対して侵略戦争をしても良いといっていた。
また、自分の欲望の赴くままに他人を陥れてもよいし、その人物の財産を横取りしても良いとすらいっていた。 この様な行動を取る人間が、自分を律して欲望を支配できているはずがない。

カリクレスは、力のある人間は欲望を抑える必要などはないし、『抑えろ』と忠告する人間は、自分には欲望を満たすだけの力が無く、満たしたくても満たせないから、嫉妬しているだけ。
力を持たないものは、他人の能力に嫉妬しているから、力を持って自由に振る舞う事を、まるで悪い事のように主張する。
大半の人間が力を持たない嫉妬しか出来ない奴らだから、自由に振る舞ったり富を分配せずに貯め込む事を悪いことだと吹聴し、その主張をあたかも正論のように学校などで教えて、常識のようにしてしまった。

力のない大多数の人間によって社会の常識が塗り替えられてしまったので、才能のある人間は、本来なら満たせる欲望を満たさずに我慢させられるという、まるで奴隷のような生活を強いられている。
力のある人間は、欲望を満たせる力を持っているのだから、その力を自由に使って欲望を満たすべき。それを無理やり抑え込んでしまえば、欲望を満たせないというストレスによって不幸になってしまう。
そんな理由で不幸になるのはバカバカしいので、欲望を満たせる力があれば、自由奔放に贅沢な生活を送るべき。 それこそがアテレーであり、幸福であり、正義だ。

負けたヤツが悪

足るを知り、手に入れられるものも手に入れずに、欲望を抑えて生きることに意味はあるのだろうか。
幸福は欲望を満たすという行動の中だけにあり、それを放棄するというのであれば、その人生には何の意味もない。
何の喜びも得られない人生は、道端に転がっている小石のような人生。 感情の起伏が一切ない人生に、一体何の意味があるのだろうか。

この様に、ソクラテスとカリクレスで意見が大きく異なってしまうのは、ソクラテスの考え方が絶対主義で、この世には絶対的な正義や良い事が有ると思って理論を組み立てているのに対し、カリクレスの思想は相対主義だから。
正義や善は、その人の立場ごとにそれぞれあって、その人間が起こした行動の結果によって善悪が判断される。

漫画、ジョジョの奇妙な冒険の第3部で、後に味方となる花京院典明という人物が、最初は敵対する人間として出てきますが、彼は、善悪についてこの様に語っています。
『「悪」?「悪」とは敗者のこと 「正義」とは「勝者」のこと 生き残った者のことだ 過程は問題じゃあない 負けたやつが「悪」なのだ』
彼はその後、主人公である承太郎に倒されてしまい、結局、自分自身の理論によって自分自身が悪人となる。

同じ様に、カリクレスの主張では、ペルシャの大群がギリシャに攻め込んでくるのは、その大群を指揮する能力の有るクルセクルスにとってみれば、ギリシャの土地を我がものとしたいという欲望に従って行動できているので、良い事になる。
クルセクルスが力の無い王であるなら、それ程の大群を動かすことは出来ない為、それ程の強大な武力を自分の思い通りに出来るという点で、自分より弱いものを従わせる資格があるということになります。

それに対して、防衛戦を300人という少数で立ち向かわなければならなかったスパルタの王、レオニダスは、その力がなかった為に、悪という事になるす。
では、ペルシャの王であるクルセクルスは、絶対的な善なのかというと、そうではない。
彼はその後、国を安定して運営することができなくなり、側近のアルタバノスに暗殺されますが、暗殺された事で彼は悪となり、暗殺したものが正義の鉄槌を下したということになる。

欲望に動かされ続ける人生は幸せなのか

カリクレスの主張では、欲望を満たすことが幸福で、欲望を満たし続けることが良い人生だということになっていた。しかし、この主張では、人間の幸せというのは欲望に依存していることになる。
ソクラテスは、『例えば、A・Bの2人の人間がいて、それぞれの男の前には樽が有るとする。 樽の容量そのものを欲望として、欲望を満たす行為を、その樽に貴重な水を入れる行為に置き換えて考える。
この条件で、Aの樽は傷一つ無く、液体を注いだら注いだ分だけ樽に溜め込まれるとする。その一方で、Bの樽には穴が空いていて、貴重な水を注いでも注いでも外に漏れ出てしまう状態だとする。

Bの人間は、樽に穴が空いている事によって、貴重な液体を注いでも注いでも穴から抜け出てしまう状況に追い込まれる。 樽の空き容量の大きさは、そのまま欲望の大きさにつながる為、Bは漏れ出た液体を常に補充し続けなければならない。
その一方でAの人間は、樽に穴が空いていない為、一度樽を一杯にしてしまえば、もう頑張る必要がなく、満たされた樽を見守るだけで良いことになる。 このAとBは、どちらが幸せなのだろうか。
この質問に対してカリクレスは、Bさんだと即答する。 欲望を満たす為に常に動き続け、その中で喜怒哀楽を感じることこそが人生であり、何も行動しないAの人生は生きているとは言えないと。

次にソクラテスは例を変えて、アトピーや蕁麻疹になった人を例に挙げる。 これらの人たちは、肌に異常がない人たちとは違って、常に皮膚を掻きむしりたいという思いを抱いている。
そういった意味では、この様な症状を持たない人間よりも欲望がある事になる。 彼らは、その欲望を満たす為に常に肌をかきむしる事で幸福に至ることが出来るのだろうか。
先程と同じ理屈を当てはめるのであれば、皮膚病にかかっていない人生は、皮膚を掻きむしりたいという欲望がない人生で、当然、掻きむしった時の気持ちよさも感じることが出来ない。

その様な欲望もそれを達成した時の快楽もない人生は、カリクレスの言葉を借りれば『道端に転がっている意思のような人生』で、生きている意味がなく、死んでいるのと同じ事になる。
この例え話の場合は、皮膚病にかかる人生か、それともかからない人生か、どちらの方が幸福になれる人生なのだろうか。
この質問に対してカリクレスは、本心では病気にならないほうが良いと思いながらも、そうしてしまうと先ほどの自分の主張に矛盾が出てしまう為に、皮膚病にかかる方が良いと主張する。

先ほどまでのカリクレスの主張には、一定の理解を示す人もそれなりの割合でいたかもしれない。
特に日本は自己責任論が声高に叫ばれる国なので、力がない人間は悪で、強者こそが正義という主張がもてはやされる傾向にあるので、カリクレスの欲望を満たす力があるのなら、それを満たすことが幸福につながるし正義だというのは、受け入れやすいと思う。
学校で落ちこぼれるのは、学校程度の勉強についていけない頭が悪い人間が悪いし、それが理由で良い会社に就職できずに低賃金なのは、本人の努力不足だと言われ、その理論が一定の支持を勝ち取れる。

力があるのであれば、その力を使って何をしてもよいし、無限に沸き起こる欲望を満たし続けていれば、それだけで幸福になれる。 不幸になるやつは努力不足なんだから、努力してから出直してこい。
この意見は本当に正しいのだろうか。 力がある人間であれば何をしてもよいのであれば、ドラッグを湯水のように買うことが出来る資産を持つ人間は、継続的にドラッグを買って摂取し続けてよいのだろうか。
大抵のドラッグには中毒性があり、継続的に摂取するとドラッグの刺激に対して依存してしまう。 依存状態になれば、常にドラッグを求める欲望が生まれることになり、ドラッグを摂取し続けている限りは幸福ということになる。

しかしこの状態は、幸福なのだろうか。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍