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【Podcast原稿】第89回【メノン】メノンが考えるアテレー 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回は、ゴルギアスにアレテーを教えてもらったと思い込んだ弟子のメノンが、ソクラテスにマウントを取りに来るも、それに失敗し、自分自身もアレテーの意味を見失ってしまうという話をしました。
メノンがいうには、アレテーとは、男や女、子供や老人などそれぞれの立場ごとに存在するとのことでした、男には男の理想があるし、女性には女性の理想像があり、子供や老人にも、それぞれの理想像がある。
しかし、ソクラテスが求めているのは、人間に共通に宿るアレテーです。 理想的な状態そのものを宿すにはどうしたら善いのかを聴いているのに、人それぞれに理想があると言われても答えにはなりません。

ソクラテスがその事を指摘すると、メノンは自分がアレテーを理解できていなかった事を悟るのですが、分からないなりにも、人それぞれの立場ごとにアレテーは存在すのではないかと言います。
それに対してソクラテスは、『では、一緒にアレテーについて考えていこう。』2人で一緒に考える事になりました。

ただ、アレテーについて考えるとはいっても、メノンを論破したソクラテスの方には何も考えがありません。
当然ですよね。 何故ならソクラテスは、アレテーとは何かを知らないと公言している人物なんですから。

ですが、それでは前に進まないので、メノンの主張をとっかかりにして考えていくことにします。

メノンの主張

メノンの主張では、成人男性のアレテーとは、国家公共のために尽くして、国を良く治めること』でした。
その他の、『上司や目上の人に媚びて人間関係を広げる』とか、『同じ考えの友人を大切にして、反対意見の者を敵対視する』というのは、先程のアレテーを成し遂げるために必要な手段と考えて良いでしょう。

一方で成人女性のアレテーは、国を良く治める為に外で働いている男性に変わって、『家を守り、良く治めること。』でした。
子供や老人のアレテーについては、メノンが具体例を挙げていないので、ここは一先ず置いておいて、具体例が上がっている部分にだけ焦点を当てて考えていくことにします。
アレテーと言うものが、全ての事柄に対して同じ意味を持つ共通の概念であるとするのなら、この両者は、何かを『良く治めること』という部分で共通している事になります。

という事は、共通している『よく治めること』という考えを深掘りしていくことで、アレテーに辿りつけるかもしれません。ソクラテスは、早速、この部分を深堀りしていく事にします。
まず基本的な事として、『良く治める』為に必要なのは何でしょうか。 メノンは、成人男性のアレテーを語る際に、単純に『国を治める力』とは言っていません。
『国を、良く治める』と言っています。

ソクラテスは、この『良く』という部分に着目し、国を良く治める為に必要になるのは、正義であり、その正義を実行するために必要なのは、自分自身の欲望を抑え込む節制ではないのかと推測します。
そして一応の結論として、何らかのものを『良く治める』ために必要なのは、正義と節制ではないかと主張します。

では何故、この2つが必要なのかを、少し考えていきましょう。

『善く』治めるとは

国を『良く』治めるのではなく、単に納める場合は、様々な治め方が存在します。
前に取り扱った対話篇の『ゴルギアス』に登場したカリクレスは、どんな手を使ってでも権力を手に入れるべきだと主張していましたが、何故かというと、それが個人の幸福につながるからでした。
誰にも裁かれることのない様な絶対的な権力さえ手に入れれば、不正は行い放題だし、気に入らない奴からは自由に財産を奪ったり殺したり、国から追放することが出来る。

そうすることによって、自分が住みやすい環境を手に入れることが出来て、幸せになることができると主張していましたが、このカリクレスが主張する『国の治め方』は、良い治め方とは言えませんよね。
カリクレスは、自分の幸福の追求の為に、欲望を抑え込まずに叶え続ける道を示したわけですが、それは、他人から見ると迷惑でしかありません。
その国に暮らす大半の人間が迷惑に思っているのに、国という組織の上層部だけが甘い汁を啜っている様な状態は、とても良い統治とは言えないでしょう。

これは、家庭を治めるという事についても当てはまります。家を治めるべき人が、自分の欲望を満たすことだけに夢中になっていれば、それは良く治めているといえるのでしょうか。
性欲が赴くままに浮気をして、家庭を運営するために預かったお金をパチンコに使うような人がいた場合、自由気ままに振る舞っている『その人、個人』に限っていえば、良いことだし幸福だと思うかもしれません。
しかし、その家庭内に子供がいた場合、その子供は幸福になれるんでしょうか。

現代では、女性が働きに出て、男性が家に入るということもあるでしょう。
この家に入った夫が、家族に暴力をふるって支配するような人物だったとしたらどうでしょう。 実際に暴力は振るわなくとも、それを背景にして自分の考えを相手に押し付けるような人もいます。
この様な人は、家庭内では王様を気取って自由に振る舞えるかもしれませんが、そんな人物に支配されている家庭に属している人は、自分が置かれている環境を幸福だとは思わないでしょう。

人を支配する力

では、他人から見ても、そして、国や家族に属している人達にとっても幸福な国や家庭とはどのようなものかというと、正義を重んじて、自分の勝手気ままな欲望を抑え込める精神を持った、立派な人間が治める状態です。
統治者が、自分自身の勝手気ままな欲望を制し、組織を正しい道へ導こうと行動することで、その組織は良い方向へ向かうことになり、『良く治められている』事になります。
この『正義』と『節制』は、何かを良く治めるという役割を負っていない、老人や子供の行動にも当てはまります。

全ての人間がとる行動は、正義や節制が前提として宿っていなければ、立派な行動にはなりません。
では、正義や節制が前提条件となる、全人類に共通するアレテーとは、一体どのようなものなのでしょうか。
これに対してメノンは、『人を支配する能力だ』と答えます。

この答えは、メノンの師匠であるゴルギアスの考えに近いものがあります。
全く同じではなく『近い』という表現をしたのは、対話篇のゴルギアスに登場するゴルギアスという弁論家は、アレテーではなく、弁論術を身につけることによって得られる能力として、『人を支配する事が出来る』と言っていたからです。
自身がタイトルになっている対話篇に登場するゴルギアスは、ソクラテスとの対話によってアレテーを知らないことを気付かされますが、自身が教える弁論術の能力として、『人を支配する能力が身につく』と説明しています。

メノンは、この弁論術の能力とアレテーとを混同している可能性があります。というのも、最終的な結果だけを観ると、似たような結果になるからです。
ゴルギアスによると、弁論術とは説得を生み出すもので、例え自分自身に専門知識がなかったとしても、様々な演出によって相手を説得してしまえば、自分の意のままに操れるし相手の能力も手に入れられると言っていました。