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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その6 『力とは何なのか』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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弁論家が持つ力は力ではない

ソクラテスは弁論術は迎合だとして技術には入らないような低俗なものとするが、一方で現実世界では、弁論術を極めた人間が政治的権力を握り、絶大な力を奮っている事実がある。
この矛盾はどうしたものなのか。彼らが振りかざしているのは力ではないのか。ポロスはソクラテスの主張に納得ができない。

これに対してソクラテスは、弁論術によってのし上がった人間が振りかざしているものは、力ではないと断言する。
何故なら、権力者が振るう絶大な力と呼ばれているものは、それを振りかざしている当の本人の為になっていないから。
『力がある』という状態を、それを使用することによって自分自身に何らかのプラスをもたらすものと定義するなら、自分にとって何のプラスにもならない事しかしてない弁論家たちは力がないのと同じ。

ただ弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないが、自分たちにとって一番良いと思っている事は、進んで行っていると主張する。

だが、ポロスはこの反論も理解が出来ない。
ソクラテスは、権力者は自分にとって一番良いと思っている事を実行できていると主張している。自由のない奴隷はもちろん、ギリシャに住む一般市民ですら、自分の一番良いと思っていることを簡単には実行することが出来ない。
好きな時に好きなものを食べるとか、ムカついた奴を、ただそれだけの理由で処罰することなんて絶対にできない。 それが出来る権力者は、力があるのではないかと。

しかしソクラテスに言わせれば、それは彼らが好きでやりたい事であって、それ自体が最善の道ではない。
そして、最善を目指さない行動というのは、それが自分自身がやりたい事であったとしても、その行動自体に意味はないという事。
意味がない行動を行える権利を行使するというのは、力があるということなのだろうか。

思い通りに行動する事が良い事とは限らない

別の表現をすれば、権力者が無知であるが故に、どちらの方向が自分の為になる『善』の道で、どの方向に行けば、自分の為にならない『悪』の道かを見定めることが出来ないとする。
この環境で、権力者が『悪』に向かう間違った道を目標に定めて、自分の持てる力を総動員して破滅の道に向かうのは、力を行使したといえるのだろうか。

例えば、よく観察して考えれば、絶対に負けるギャンブルが有ったとする。
そのギャンブルに、無知であるが故に持てる力を全て使って全財産を賭けて負ける行為は、力がある行為といえるのだろうか。
破滅の方向に向かって全力疾走できる力を持つよりも、そんな力を持たない方が人は幸せになれる。 人の最終目的が幸せになることであれば、無知な人間の力は害にしか成ってないので、力があるとは言わない。

それでもまだ、権力者に力があるというのであれば、権力者は皆、最善の道を見極められるだけの知恵を持った人間だということを証明しなければならない。
この証明が出来ないのであれば、権力者が知性を欠きながら、最善の道を見失っている状態で好き勝手に行動しているだけだという可能性は消えない。
そして、最善の道を知らない状態で好き勝手に振る舞うことは、力があるとは言わない。

しかしポロスは、この説明にどうも納得ができない。
ムカついた相手に権力で仕返しするとか、人を自分の思い通りに動かして自分の欲を満たすという行為は、皆が憧れる力。
その力を持つものが権力者と呼ばれて、自分はそれになりたいと思っている。 その行為そのものを否定されても、いまいちピンと来ない。

大切なのは手段か目的か

ソクラテスの意見にポロスが納得できないでいるので、次は、ソクラテスの方がポロスに質問する形で話を進める。

人々が普段、達成しようと臨んで行動している事は、行っている行為そのものか、それとも、最終目標として据えているものなのだろうか。
例えば、受験勉強をしている学生は、ただ勉強がしたいから勉強を行っているのだろうか。それとも、受験に受かりたいから、嫌な勉強を無理して頑張っているのだろうか。
病気で医者に行って診察を受け、苦い薬を貰って飲んでいる人は、苦い薬を呑みたいから飲んでいるのだろうか。それとも、病気を直したいから、苦いのを我慢して飲んでいるのだろうか。

これは考えるまでもない事で、目的を達成したいから手段を講じるのであって、手段そのものが目的になるはずがないし、なってはいけない。

では、人間の最終目的とは何だろうか。 人間は、健康でありたいとか富や知識や人望がある状態になりたいと思っている。
何故、この様な状態になりたいのかというと、これらの状態が良い状態で、良い状態である事が幸福だと思っているから。
逆に、これらの状態とは真逆の状態。つまり、病気で貧乏で無知で誰からも相手にされない状態は悪い状態なので、その様な状態にはなりたくないと思っている。何故ならこの状態は不幸だから。

人間は、幸福になりたいが為に自分の状態を良い状態にしようと思い、良い状態にする為に、働いたり、勉強したり、運動したり、コミュニケーションを取ったりする。
決して、働いたり、勉強したり、運動する為に生まれてきたわけでも、生きているわけでもない。

人を良い方向に導くものだけを『力』と呼ぶ

この理屈を、先ほどの権力者の行動に当てはめてみよう。
ポロスの主張では権力者は、気に障った者を死刑にしたり、他人の財産を奪い取るという行為が自由に行えるから権力があり、憧れる対象と行っていた。
しかし、権力者の最終目的とは、人の命や財産を自由に奪うことなのだろうか。 そうすることが楽しく、その行為そのものが幸福をもたらすのだろうか。それとも、その行為は手段でしかないのだろうか。

人の命や財産を、ただいたずらに奪うことが楽しくて仕方がないなんていうのはサイコパスだけで、大抵の人間は、その行為そのものが幸せにつながるなんて思っていないだろう。
とすると、ポロスが主張していた権力者の力を行使して行っていたものは、手段に過ぎない事になる。
これが手段であるのならば、目的は別にあると考えるべきで、その目的を達成するために手段がくだされたというのが正しい手順だろう。

では、権力者の最終目的は何なのか。 何の目的を達成する為に、人の命や財産を奪うのか。
もし仮に、この目的が『悪』であるのであれば、達成することによって自分を悪い状態にしてしまう『その権力』は『力』と呼べるようなものではない。
しかし、最終目的が自分を悪い状態にするものであったとしても、その権力者は、自分の思い通りの行動をとっていることには違いない。

例えるなら、その行為の行き着く先が良いことか悪いことかを判断する能力がない、アルコールやパチンコ中毒者が、その行為を継続し続ける様子は、継続できる力があるとは言わない。
しかし、その中毒者が、自分の欲望に負けて、快楽を求めて自分の意志で実行している事には変わりがないということ。
だが、この中毒者は、自分が望んでいることをしているわけではない。 何故なら、依存症である自分の状態が良いとは思っておらず、より良い状態になれるものならなりたいと思っているから。

これと同じ様に、善悪の区別もつかない人間が、ただ闇雲に権力を振り回したとしても、それを力とは言わない。
力を振るうとは、良い行動を行う時に使われる言葉だから。

納得は全てに優先する

ソクラテスの主張は、論理的に正しいし、つけ入る好きはない様に思う。それでもポロスは納得できずに、感情に訴える。『権力欲はないのか?』
誰だって、人を思い通りに支配したいと思うし、楽をして優雅な生活をしたいと思うはず。 権力欲は本能的なもので、誰にでも備わっているようなものではないのか?と
このポロスの気持は、私も含めて一般的な感覚に近く、非常に理解できるもの。 誰だって、何の努力もなく偉くなりたいし崇められたいと思っているから、なろう系のラノベが次々とアニメ化される。

しかし、これに対してソクラテスは毅然とした態度で『羨ましくない。』と一蹴。 むしろ、人から命や財産を奪って当然と思うような連中は、哀れんでやるべきだと主張する。
ポロスは、命や財産を奪われる人間には、例えば身内を殺されたというような、それ相応の理由がある場合でも、仕返しできる権力を羨ましくはないのかと聴くが、ソクラテスはそれも否定する。
何故なら、裁きを行って刑を執行するのは目的ではなく、手段でしかないから。 だから、正当な理由で裁きを行った場合は、判断を下したものを憐れむ必要はないが、羨ましく思う理由もないと。

ここでも、ソクラテスの主張は筋が通っているし、反論してソクラテスの意見を覆すのはかなり難しいだろう。
しかしポロスは、感情的に納得ができない。 SBRのジャイロも言っている。『納得は全てに優先するぜ!』と
ソクラテスさん。 あんたは、正当な理由もなしに理不尽にも他人の命や財産を奪うような人間は、哀れんでやるべきだというが、本当に可愛そうで憐れむべき対象は、理不尽を押し付けられたほうじゃァないんですか?』

このポロスの主張も、一般的な感覚で考えると非常によく分かる。 ひ弱な人間が複数人の不良に囲まれ、恐喝されてカツアゲされたとした場合、哀れなのはカツアゲをされた方だというのが普通の感覚だろう。
しかしソクラテスは、カツアゲした方こそが憐れむ対象だと主張している。これには納得ができない。

だがソクラテスは、その価値観には理解を示さない。 権力者になって、不正な理由で他人を死刑にするぐらいなら、自分が不正な理由で死刑にされる方がなんぼかマシだと。
何故なら、最大の不幸は不正を犯す事だから。 そして、正当な理由なしに人の命を奪えるような独裁者にもなりたくないと主張する。

犯罪者に憧れる人間はいるだろうか

これでも納得できないポロスに対して、ソクラテスは例を出して説明をしだす。

武器を持たずに話し合いに来た人たちが集会所に集まっていたとして、そこに唯一、武器を忍ばせた人間が入ってきて、その武器でもって、他人を従わせたとした場合を想像してみる。
この場合、武器を持つ人間は、恐怖によって絶対的な力を行使することが出来るので、その中で、一番の権力者といえる。
武器でもって脅すことで他の人間に命令して、様々な不正を行うことが出来る。 ポロスは、この例の中に出てくる武器を持ったものになりたいというのか?と

ポロスは、その様な人間にはなりたくないと答える。 理由は、その様な不正は、いずれ捕まって、罰を受けるからと。

しかし冷静に考えると、この行動そのものが悪とは言えない。 何故なら、その行動は手段であって目的ではないからだ。
もし仮に、この行動の目的が、その場にいる人間全員の命を守るためだとか、そういった正当な理由が有ったとしたら、事が終わった後に捕まるということもないだろう。
では目的の善悪は、どの様に決めるのだろうか。 その境界線を、ビシッ!と引くことは可能なのだろうか。

ポロスはこの質問に答えることが出来ずに、その答えをソクラテスに求める。
ソクラテスは、目的の設定をする際に、何を基準にするのかというので善悪が分かれると主張する。正義にしたがって目的を定めていれば善だが、その逆であれば悪。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その5 『弁論術も迎合でしかない』

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レーニング技術と化粧法

身体をメンテナンスする技術には、医術とトレーニングがあり、医術に擬態して技術のようになりすましているのは料理法だった。
では、トレーニングの方には、どの様な迎合が技術としてなりすましているのかというと、化粧法。

人間は、規則正しい生活を送って適切な量の食事を取り、適切な運動を行うことによって、健康で美しい肉体を手に入れることが出来る。
特に、身体のプロポーションを良くして機能的にも見た目にも良くしようと思うのであれば、、トレーニングは欠かせないということになる。
しかしこのトレーニングも、ただ単純にやれば良いというわけではない。 ダンベルなどの器具を使い、適切な重量と回数で負荷を欠けなければ、効率よくカラダを鍛えることは出来ない。

重量が軽すぎるものを使ってトレーニングを行っても効果は薄いし、回数が少なすぎても駄目。
逆に、扱う重量が大きすぎたり、間違ったフォームで行ってしまうと、効率が下がるだけではなく怪我もしてしまうかもしれない。
その為、トレーニングを行うためには専門の知識が必要となる。 この知識や実践は最善を目指す為の技術であり、迎合するものではない。

しかし、このトレーニング技術には、化粧法という迎合が潜んでいる。
例えば、よく血液が循環した健康的な顔色を手に入れようと思うのであれば、本来であれば、人は体をメンテナンスして健康を維持しなければならない。
だが、顔に化粧を施すことで、目の下のクマを隠したり顔全体を明るい色に変えることが可能になる。

面倒くさいトレーニングなどは一切しなくても、顔色を健康的に見せるだけであれば、ファンデーションを塗ればそれでよい。
体型も同じで、裸になってしまうと醜いプロポーションがバレてしまうというのであれば、服を着込んで身体のプロポーションを隠してしまえば良い。
着る服の形や色を、自分にとって似合うものに調整することで、その人物の外見を美しく装飾して誤魔化すことが出来る。

洗練されたデザインのきらびやかな服を着れば、誰しもが、服の方に目が奪われて、その下に醜い身体が収まっているなどということは想像しなくなる。
その上で、服から出ている顔や手などを化粧によって誤魔化してしまうことで、外見だけは美しさを装うことが出来る。

迎合である化粧法では根本解決はしない

しかしこの方法も、前に説明をした料理のように、最善に向かう道ではない。
目の下にクマが出来ているのは何かしらの体の不調が有るからで、それを根本的に解決する事こそが善に向かう道であるはず。
腹に脂肪が溜まってくるのは、日頃の生活態度が悪いことが体に現れている証拠なので、日頃の生活を見直すことが最善のはず。

しかし、この様な根本的な解決を一切せずに誤魔化す化粧術は、最善の道を目指すものではないので、技術とは言えない。
また化粧の方も、迎合にありがちな『確固たる答えがないもの』だったりする。

料理の場合は、食べる人間によって味付けを変える為に、絶対的なレシピがないのと同じ様に、化粧も、自分が他人にどの様に見られているのかというのを想定して、その方法を変える。
流行によって化粧の方法が変わるように、絶対的な正解は存在しない。 今現在でありえないという化粧法だったとしても、未来で価値観が変わってしまえば、化粧の方法も同じ様に変わる。
平安時代の日本人の化粧の正解と、今現在の女子高生の中での化粧の存在は全く違うし、そこまで昔ではなくても、少し前にはガングロという顔を真っ黒師にして目の部分だけを白く化粧をするのが流行っていた。

化粧で重要なのは、他人が自分をどの様に見ているのかということで、他人が考える美しさを自分の体で体現する必要がある。
これは、着飾る為の衣装は装飾品も同じで、それを付けることで、自分がどの様に見られるのかというのが最優先される。
人は、他人から見て自分が美しいと判断される事に満足感や優越感を感じるものなので、これらの化粧法は快楽だけを求めた迎合であるといえる。

しかし、トレーニング方法には基本的には流行り廃りはない。
人間の構造の解明が進むことによって、より良い方向に改善していくことは有っても、好きな子が自分を見ているからという理由でトレーニングメニューが根本的に変わることはない。

弁論術も迎合でしかない

この様に、身体の技術である医術には料理法という迎合が潜んでいて、体育術・トレーニングには化粧法という迎合が潜んでいる。
同様に、魂の技術である政治術の立法と司法にも、それぞれ迎合が技術に擬態した形で潜んでいる。
立法に潜んでいる迎合がソフィストの達の術で、司法に潜んでいるのが弁論術に当てはまる。

弁論術とは、魂の技術である司法に擬態し、自らも技術だと言い張っているだけの迎合に過ぎない。

そして、ソフィスト達の行っている事と弁論術は、共に魂の技術の擬態である為、この事を詳しく考えたこともない一般人は、両者の違いが分からない。
詳しく考えたことがないという意味合いでは、弁論家やソフィストですらも、自分たちが行っている事をよく理解していない。

(以下の話は、人間には魂や身体といった区別がないという反論に対する反論を先に主張している?)
もし、これまで語ってきたような区別がないとするのなら。 つまり、人間の肉体には精神が宿っておらず、肉体は肉体のみで欲望を満たすという行動を勝手に行っているのであれば、この世は混沌の世界となっているだろう。
アナクサゴラスの説によると、この世の中は複数の種類のスペルマタと呼ばれる極小の粒子によって作られているとされている。
宇宙誕生の際には、様々なスペルマタは混ざり合って混沌とした状態になっていたが、そこに理性が宿ることによって、混沌の中に秩序が生まれて様々な物が誕生し、今現在の世界が生まれたとしている。

この節は、大昔に語られていた神話というわけではなく、科学が進んだ今現在でも、似たような考え方があったりする。

秩序と混沌

時間が何故、一方方向に進み続けているのかというのは、よく分かっていない。
力学的には、時間が巻き戻ったとしても矛盾はないのに、何故、時間が一方方向に進み続けるのか。 それを見極める方法として、エントロピーの増大というものが有る。
エントロピーとは乱雑さを表すもので、エントロピーが増大するとは、乱雑になっていくということ。

この、エントロピーが小さい状態を秩序がある状態と呼び、エントロピーが大きい状態を無秩序な状態とよぶ。 無秩序は、混沌やカオスと言い変えることができるかもしれない。
例えば、バケツいっぱいの水の中に、牛乳を1滴たらしたとすると、時間経過と共にその牛乳はバケツの水と混ざり合い、バケツ一杯の薄い牛乳が出来上がる。
白い牛乳という秩序のある状態が同じ液体である水の中に入ってしまうと、その秩序は保つことが出来ずに、秩序は崩壊して時間と共に拡散し、いずれは均一のものになってしまう。

別の例でいえば、熱もこれに当てはまる。
例えば、マグカップに入れた熱々のコーヒーが有ったとして、これを飲まずに数時間放置していれば、そのコーヒーは冷めてしまう。
何故、コーヒーは冷めてしまうのかというと、コーヒーの熱はマグカップに伝わり温まったマグカップの熱は、その外側の空気に伝達することで、コーヒーの熱が部屋全体に拡散していったから。

時間経過と共にコーヒーは部屋の温度と同じレベルにまで下がり続け、逆に、部屋の温度はわずかながら上昇することになり、いずれは、コーヒーと室内温度は同じになる。
熱がコーヒーという一箇所に集まっていた状態を秩序ある状態とするならば、冷めていってる過程はエントロピーが増大して熱が拡散している状態といえる。
ここでも、秩序ある状態から無秩序の状態に一方方向に突き進んでいる。

熱が拡散して均一になる法則は、熱力学第二法則というようだが、これを究極レベルで考えると、宇宙は熱的な死を迎えてしまう。(ノヴァ教授が憎む。)
逆にいえば、秩序が宿る事で、この世界は均一ではない状態を維持することが出来る。その秩序をもたらすのが理性であり魂ということなのだろう。
人間には精神や魂が宿り、その魂が理性によって身体を制御している事で、人としての秩序を保っているという事。

その魂が存在しないということは、理性も存在しようがなく、秩序も生まれないので、人間は混沌の一部となっているはず。
しかし、そうは成っておらず、人間には確固たる自我が存在する為、人間には秩序を生み出す理性があり、理性が宿る魂がある。
今感じる『私』という主観があり、その主観が身体を制御している。

しかし弁論術は実際に役に立っている

この話を聞いたポロスは、当然のことながら納得ができない。
ポロスの見立てでは、有名な権力者は皆、弁論術の使い手で、彼らは弁論術によって周りの人間を説得することで、自分の力を示してきたと思いこんでいた。
そして自分も出世できるような優れた人間になる為に、弁論家であるゴルギアスの元に弟子入りしたのにも関わらず、その技術が技術とすら呼ばない迎合のような下らないものだと否定されてしまった。

しかし実際には、権力者である彼らは、口先の技術によって巨大な権力を得て、その権力によって一般市民が持たないような絶大な権力を持っている。
誰かを死刑にしようと思えば、適当な罪をでっち上げて裁判所に連れていき、弁論術によって裁判官を説得してしまえば、気に入らない人間を死刑に出来る。同じ様な方法で、財産を奪えるかもしれない。
彼らは絶対的な力で、明らかに民衆を支配する力を持っているのに、それが市民に対する迎合というのは、どうにも納得できない。

しかしソクラテスは、それは力とは呼ばないとして否定する。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その4 『技術と迎合』

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技術と迎合

ソクラテスは事前に、勝つことが目的ではなく、真実を見つけ出す為の対話をしようと確認していたのにも関わらず、ゴルギアスが窮地に立たされると、弟子のポロスが怒りに任せて乱入してくる。
この行動に対してソクラテスは、事前に定めたルールであるソクラテス問答法に従うのであれあ、ポロスも議論に加われば良いと対話に誘い、これに同意したポロスは参加する。

ソクラテスは今まで散々、『弁論術とはなんですか』という質問をゴルギアスに対して続け、返答を得ても納得しなかった為、ポロスは、ソクラテスが考える弁論術とはどの様な技術かを聞き出そうとする。
しかしソクラテスは『弁論術とは技術ではない』と意外な答えを出す。 では、技術で無いなら何なのかというと、一種の経験で、迎合を作り出すものだと主張する。

技術と迎合の違い

経験であり、迎合を作り出すものとは何なのか。 ソクラテスによると、料理のようなものらしい。
料理が技術ではなく迎合だという主張を聴くと、もしかすると、料理を作ることを生業とされている方は気に障るかもしれない。

料理は、包丁などの様々な料理器具を使う技術であったり、食材をどの様に加工すれば良いかという知識が必要なので、料理は技術だと主張される方も少なからずいらっしゃるだろう。
では何故、ソクラテスは料理のことを技術ではなく、経験であり迎合だと主張したのだろうか。

ソクラテスにとっての技術というのは、対象のことを知り尽くし、決まった道筋を通って答えを導き出すもの。例えば、技術にどの様なものが含まれるのかというと、医術や建築技術などがそれに当たることになる。
例えば医術の場合は、人間の体というのを熟知して、身体の状態に合わせた処置の方法は決まっている。 風を引いた際の対処法や怪我をした際の治療法は、人それぞれに法則があるわけではない。
同じ様に医学の知識を持つ医者が10人いたとして、1人の患者を診た際の対処法は1つしか無い。

建築技術もこれと同じで、構造物を作る為には一定の法則に沿って作らなければならない。
どれだけ奇抜な建物に住みたいからといって、重力や材質の強度を無視した形で建築は行えない。 それを無視して作ったとしても、その建物は崩壊してしまうだろう
顧客の要望を組み込んだ形で図面を引くことは出来るが、それでも、建築的に譲れない部分は絶対に出てくるので、その法則を一番に優先しなければならない。

つまり、医者にしても建築にしても、顧客の要望を聴くことは出来るが、絶対に譲れない部分というのが存在する。
そして、絶対に譲れない部分を見つける為には、医者の場合は人体、建築の場合は材料や建築物などの知識が不可欠で、その知識を前提に技術が磨かれることになる。

快楽のみを追求する迎合

その一方で料理はどうだろうか。 確かに、料理も食材や調理道具に対する知識も技術も必要だが、完成する料理に一貫性はない。
例えば家で料理を作る場合、最も優先するのは食べる人間の好みであり、料理に絶対に守らなければならない原則というのは存在しない。
うどんを茹ですぎると伸びるが、では、伸びた『うどん』は万人が嫌いかと言えばそうではなく、伸びたぐらいが好みだという人間も存在する。

伸びた『うどん』が好みだと主張する人に対して『うどん』を作る場合、固めに茹でるか伸びるまで茹でるかは、食べる人に左右される。
味付けにしても同じで、塩をかけすぎるのは間違いとは一概にいえない。 多くの人にとっては塩をかけすぎた料理は失敗作だが、塩っ辛い者が大好きな人にとっては、塩をかけすぎるのは正解となる。
唐辛子も同じで、辛いのが苦手な人にとっては不必要なものだが、辛いのが大好きな人は、どんな料理にも唐辛子をかける。

料理というのは、食べる人間の好みによって正解が変わる為、美味しい料理を作ろうと思う場合は、相手の好みに合わせて作る必要がある。
ということは、一番重要視するのは相手の好みということになる為、料理は食べる人に忖度して迎合して作らなければならない。

これが、先ほど技術として挙げた医者の場合はどうだろうか。 風をひいいた人間に薬を処方しなければならないが、患者は苦い薬を飲むのを嫌がるなと分かったとしても、この行動は変わらない。
建築にしても、客が柱を取れという要望を出したとしても、構造的に無理であれば、その要望は叶えられない。
しかし料理の場合は違う。 客が塩を多めにしてといえば多めにするし、焼き加減を変えろといわれればその様に変える。

ソクラテスは、この料理法のようなものを技術とは呼ばずに一種の経験であり迎合だと主張する。 そして弁論術も、この迎合にあたり、立派なものなどではなく醜いものだと一刀両断する。
では何故、迎合は立派なものではなく醜いものなのか。 先に答えを書いてしまうと、技術は善に向かうためのモノだが、迎合は快楽に向かう為のものだから。
これだけでは抽象的すぎるので、具体例を書いていく。

役に立つ技術に偽装する迎合

まず、人間は大きく分けると2つの部分の分けられる。『精神(魂)』と『肉体』。 そしてこの2つには、良い状態と悪い状態が有る。
魂における悪い状態とは、精神的に追い詰められている状態で、精神病や鬱の状態と考えて良いかもしれない。 肉体における悪とは、怪我や病気がそれに当たる。良い状態とは、その逆と考えてよいだろう。
また身体や魂は善悪だけではなく、実際には悪い状態だけれども良い状態だと錯覚している状態が存在する。 これは、実際には怪我や病気に侵されている状態だけれども、本人がそれに気が付かず、元気だと思いこんでいる状態のこと。
(連日のトレーニングで膝を壊したとしても、無視してランニングを続けて体が温まってくると、治ったような錯覚に陥る。)

そして、『魂』と『身体』は、それぞれ『技術』と『迎合』の2種類に分けられる。
魂における技術とは政治術の事であり、身体についての技術とは、体のメンテナンスを行う技術の事。
魂の技術である政治術は更に『司法』と『立法』、身体の技術は『医者』と『トレーニングコーチ』のそれぞれ2つに分けられる。

そして迎合とは、自分自身は技術ではないのに、それぞれの技術に偽装することで、まるで自分自身も技術であるかのように振る舞っている存在といえるもの。
その為、注意深く観察していないと技術と勘違いしてしまうものだけれど、実際には技術ではなく、迎合でしか無い。
見分ける方法としては、最終的な目的を観ると分かりやすい。 先程も書いたが、技術は最善を目指し、迎合は快楽のみを追求する。

つまり、その行動に善を追求する要素がなければ、それは迎合といえる。
迎合にとって善を目ざすというのはどうでも良いことで、その時々の状況で一番心地良い事を選んで実行しようとする。
向かう方向が、最善と快楽という違う方向を向いているというだけでは理解し難いので、例を上げて説明してみることにする。

先程挙げた、技術ではなく迎合に属する料理法は、医術に偽装する形で技術のフリをしている。
例えば、納豆を食べると体に良いとか野菜が良いなど、食べる事で体を健康にすることが出来る食材が有ると主張し、その食材を使った料理を提案する。
しかし料理人は、その料理を毎日食べた場合と食べなかった場合でデータを取って、どれ程、身体が改善されたかという実験などは行わない。

技術は人が嫌がることも強制する

また、その食材自体は身体に良い効果をもたらすかもしれないが、そこに調味料を入れた場合はどうなのか。他の食材と組み合わせた場合に効果に違いが出るのかといった事を調べたりもしない。
そして、その料理を食べた人間が『味が薄い』といえば、普段より多めに塩を振る。
塩分過多は身体にとっては害悪だけれども、料理人は美味しい料理を追求する為、食べる人の健康よりも食べている間の快楽を最優先する。

食べると絶対に身体が良くなるけれどもクソ不味い料理が有ったとしても、料理人はそんな物を客に食わせることはない。

しかし、これが医者だとどうだろうか。
患者の足の一部が壊死していて、切り離さなければ患者の命が危ないと思えば、医者は足を切断するという決断を下すだろう。
仮に患者が陸上選手で、『足を切り離すことだけは、止めてください!』と懇願したとしても、医者は患者に迎合すること無く、足を切断するだろう。何故なら、そうすることが患者の身体にとって最善の方法だから。

病気の患者を治すためには、飲むのが苦痛なほどの苦い薬を飲む必要があると思えば、患者が子供であったとしても、その薬を処方するでしょう。
医者が考えているのは、患者をどうやって救うことが出来るのかというだけで、患者の身体にとって最善のことをしようとする。そしてその方法は、大抵の場合は決まっている。
2人の医者がいたとして、知識レベルが同程度で患者に対する病気の見立てが同じであれば、2人が下す治療法は同じようなものになる。

迎合は善悪を考えずに人が好むことしかしない

しかし料理法の場合は、食べる人間に合わせる形でレシピが変わる。 何故かというと、最優先していることが食べる人間の満足度、つまり快楽だから。
常に最善を目指す『技術』と、相手の顔色をうかがいながら対応を変える『迎合』は全く違ったものとなる。

この様に、技術と迎合は全く違った目的を持つものだけれども、迎合の質が悪いのは、自らを技術に偽装して技術の一部であるかのように振る舞うこと。
この性質の為、知識を持たない一般人では技術と迎合の見分けがつかずに、迎合と技術を混同してしまう。
混同するだけならまだしも、迎合の技術である料理法のほうが優れていると錯覚すらしてしまうことも有る。

例えば、料理人と医者が無知な一般大衆や子供たちの前で、どちらが優れているかのプレゼン大会を開催したとした場合、医者はその勝負に勝てるのだろうか。
料理人が『人間は欲望を満たすことで快楽を得ています。 そして、その欲望というのは、人間が生きていく上で、そして世代をつないでいく上で絶対に必要なものが、欲望となって現れるんです。
だから、食べ物を食べるとか、寝るといった体を保つのに絶対に必要なことをすれば、人間の体は快楽を得られるように出来ている。
同じ様に、寿命を持つ人間は未来永劫、生きていくことが不可能なので、自分の遺伝子を残すためには子供を作らなければならない。 当然のように、子供を作る行為には快楽が伴う。

これを料理に当て嵌めて考えてみてください。
人間は、料理を食べた際に何らかの味を感じますが、先ほどの話を料理に当てはめれば、自分の体にとって必要なものを食べれば、身体は快楽を得るはずです。
快楽を感じる料理とは、当然のことですが、美味しい料理のことです。

ですから、自分が美味しいと思う料理を好きなだけ食べることが、貴方の身体にとっては一番大切なことなのです。
もし、特定の栄養素を取りすぎた場合は、体のほうが勝手に拒絶反応を示して、同じ料理を食べても美味しく感じなくなるはずです。』と、この様に演説したとしよう。
この後に医者が、いくら正論を述べたとしても、人々の心は掴めないだろ。

何故なら無知な民衆は、正しいことではなく、信じたいことを信じるから。

これは、朝食にりんごを1個食べるだとか、バナナを食べると健康的に痩せるというダイエット法や、炭水化物を取らなければ、タンパク質や脂肪分はどれだけ食べても大丈夫という健康法が流行っていることを見ても分かる。
人は、確実に効果がある正しいダイエット法ではなく、効果はないかもしれないけれども楽な方法を信じて行動する。
何故なら、誰だって辛いことはしたくないし、心地よい状態でいたいと思うから。
(つづく)
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参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その3 『弁論術とアレテー』

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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弁論術を悪用してはいけない

ゴルギアスによると、弁論術というのは、人と人が討論することによって争う場面では常に有効な手段となる。
その為、政治家などの議論が主体の職業に付く人間が身に着けて置く方が良いのはもちろんだが、職を選ぶことはなく、どの様な職業の人間でも役に立つと主張している。
その一方で、弁論術は人を支配する事が出来る強力な力なので、使い方を間違えば、危険なことも招いてしまう恐れがある。
その為、ゴルギアスは、この技術の取扱には非常に気を配るべきだと主張する。

対話と論争

この意見に対してソクラテスは反論をしたいと思うが、ゴルギアスが気を悪くしてしまって、喧嘩腰の論争になってしまわないかを心配し、ソクラテスは、自分のこの対話におけるスタンスをはっきりさせようとする。
まず議論には、大きく分けると2つの議論の方法がある。 1つは、議論の結果を度外視して、相手を言い負かすことのみに重点を置いた方法。
そしてもう一つは、議論の結果を最重要視して、目の前の対話相手と闘うことはなく、むしろ協力し合って、一緒に答えを見つけ出そうとするもの。

目的を度外視した論争は、自分の答えを否定されたり疑われたりすると、自分自身も同じ様な目にあったと思い込んで怒ってしまう者が勝負に拘る事によって起こってしまう。
この論争では、最終目標を見定めないために、目の前の相手を否定することに熱心になり、自分の主張すら忘れてしまい、論争の結果、何も得られない。

その一方で、協力し合って一つの目的を探す道は、成功することで、思いもよらなかった考えに到達する可能性がある。
この様なスタンスで議論する場合は、自分の意見が否定されたとしても怒る必要はない。 何故なら、対話相手は自分を間違った道から助け出そうとしてくれているから。
ソクラテスが求めているのはこの様な論争で、自分ひとりでは到達できない真理にたどり着きたいだけなので、自分は議論の勝敗には興味が無いということをハッキリと伝える。

そして、ゴルギアスも同じ様な気持ちで対話に臨んでいるかを確かめる。
もしゴルギアスが、真実などどうでも良くて、目の前の論争の勝敗だけに拘るのであれば、不毛な議論に突入することは確実なので、この対話をやめようと。

目的は勝敗か真実か

この論争と対話というのは、今現在でも混同されて利用されていたりするが、単純な事のようでかなり重要な事柄。
例えば、裁判の目的は、本来であれば『真実の追求』のハズなので、検事と弁護士は協力しあわなければ真実には到達することが出来ない。
しかし、テレビドラマや報道などでよく見る構図は、検察と弁護士が敵対していたりする。

何故、その様な状況になってしまうのかというと、裁判官が、どちらの主張を聞き入れるのかというのが最終目的のゲームになってしまっているから。
こういう構図になると、相手の有利になるような証言に対して言いがかりをつけたり、有効な証言を捏造するのが効果的になってしまう。
だが当然のことだけれども、相手の足をひっぱるだとか偽の証言を作るという行動は真実から遠ざかる行動なので、それらの競い合いによって真実が明らかになる事は絶対に無い。

真実を追い求めたいと思う場合に必要なのは、最終目標を正しく定めて、その方向に向かうこと。
このスタンスを貫けば、仮に、相手がこちらの主張に反対をした場合に、腹をたてるということはなくなる。何故なら相手は、自分の間違いを正そうとして声を上げてくれているのだから。

ソクラテスは、真実から遠ざかってしまう論争に発展するのであれば、不毛な時間を過ごすことになる為、議論を中断しよう。
しかし、ゴルギアス側にソクラテスと同じ様に心理を探求したいという思いがあるのであれば、対話を続けようと提案する。

弁論術とは何なのか

ゴルギアスから、同じ気持ちだという意味合いで同意を得たので、ソクラテスは今までの流れを一度整理する事にする。
まず、ゴルギアスが教えているという弁論術は、天から与えられた生まれながらにして持つ才能などではなく、一種の技術である為に、学ぶことで誰にでも身につけることが出来る。
そして、弁論術を身に着けた人間は、物事をよく知らない民衆を相手にしたプレゼンの場合に限り、専門知識や技術を持つ専門家よりも民衆を説得する力を発揮できる。

何故、聞き手が素人だけに限定されるのかというと、聞き手にその道のプロが混ざってしまうと、いくら話し方の技術が優れていたとしても、知識的なボロが出てしまって、説得が出来ないから。
逆にいえば、相手が素人であるなら、専門的な知識は必要なく、それっぽい事を匂わせるだけで良いことになる。 科学方面から散々、批判的な事がいわれている『水素水』がいまだに販売されているのも、素人相手の商売だから。
弁論家は様々な専門知識を身につける必要がなく、専門知識を持っているような立ち振舞をして演技をするだけで、無知な民衆を説得することが出来る。

この様に弁論術は、非常に使い勝手がよく、どんな立場の人間が身に着けても役立つ、非常に有効で強力が技術だけれども、強力であるが故に、その扱いは慎重にしなければならない。
指を軽く曲げるだけで命を奪える鉄砲のように、見境なく誰彼構わずに弁論術を利用して攻撃してはいけない。
しかし、強力な技術の誘惑に負けて、不正なことに対して弁論術を使うものが現れたとしても、それは不正を行った本人が悪いのであって、教師は悪くない。

弁論家とアレテー

しかし、ここで一つの疑問が生まれる。 それは、弁論家はアレテーをどのようにして宿すのかという事。
『アレテーとは何か』という疑問に対しては、ハッキリとした答えは出ていないけれども、アレテーを宿した状態がどの様な常態かは分かっている。それは、卓越した優れた人になる。
弁論術の技術とは、言葉の組み立て方や演技によって、自分自身や、自分の主張を卓越した凄いものだと演出する技術なわけだが、演出する為には『卓越した存在』を理解していなければならない。

演技を専門とする俳優は、求めに応じて、威厳のある人や貧しい人、魅力的な人や劣悪な人などを演じ分けるが、演じる人間そのものが、威厳や魅力や劣悪な状態を理解していなければ、演技はできない。
これと同じで、卓越した人間を演じきるためには、卓越した存在である、アレテーを宿した状態の人間がどのようなものかを性格に知らなければ、具体的な想像は出来ない。
逆にいえば、卓越した人間を演じることが出来る人間というのは、何を宿せば卓越した存在に見えるのかを熟知しているものである為、アレテーとは何かを知っているということ。

弁論家になる為には、専門的な知識は必要がないかもしれないが、『卓越した存在は何を備えているか』というのは知っている必要がある。
仮に、アレテーというものを理解していない人間が弁論家の元に弟子入りしてきた場合、その弁論家は、アレテーを教えるのだろか。それとも、アレテーを既に知っているものだけに入門を許すのかと尋ねる。
それとも、弁論術の教師はアレテーについては知らないが、アレテーを身に着けている演技を弟子の前で行うのか。これに対してゴルギアスは、入門をしてきた人間にはアレテーを教えると主張する。

卓越した人間は不正を犯すのか

ここで新たに、弁論術の教師はアレテーの教師でもあることが、明らかになる。
しかし、この主張によって、先程のゴルギアスの主張に矛盾点が生まれてしまう。
矛盾点が何かというと、弁論術を習ったものが不正に手を染める可能性を示したこと。

先程ゴルギアスは、弁論術を習いに来たものには全て、アレテーを教えるという事を主張していたが、アレテーを身に着けたものが何故、不正に手を染めるのだろうか。
アレテーとは、それを身につけることで卓越した人間になれるという代物。アレテーを身に着けたものは、正義を理解して勇気と欲望を抑え込む節制と理性を生む知恵を兼ね備えている人間。
正義を理解して、自分の欲望を理性で抑え込む術を持つ人間が、何故、不正を働くのだろうか。 不正を働くような人間の精神に、アレテーは宿っているのだろうか。

弁論家が教えるのは、アレテーではなく、アレテーを宿した雰囲気というのなら、矛盾はしていないことになる。
例えばジョジョの奇妙な冒険に出てくるディオの様に、生まれついての悪党でゲロ以下の匂いがプンプン人間でも、人前だけでは品のある演技をする事は出来る。
はじめから人を騙すことが前提の詐欺師であっても、お金をだまし取るためにはターゲットから信頼を勝ち取らなくてはならないので、不正を働かないような紳士を演じきったりする。

この様な人物たちは、品であったり誠実さを身に着けているわけではないけれども、品や誠実さを持つ人間を観察することによって、上辺だけをコピーして演じきる技術は持っている。
弁論家も同じ様に、アレテーを自身に宿しているわけではないが、アレテーを宿している人物を観察することで、演技だけ出来るようになっているのなら、理解は出来る。
これを考慮し、現にソクラテスは、弁論家はアレテーを身に着けてはいないが、弟子の前ではアレテーを宿しているフリをしているのか?と質問をしている。

にも関わらずゴルギアスは、入門してきた人間にはアレテーを教えると主張している。 アレテーを教えるという事は、自分自身もアレテーを身に着けていて、それを弟子に教えるということ。
弟子にアレテーを伝えるということは、アレテーは才能ではなく、教えることが出来ると主張しているのと同じことで、弁論家はソフィストと何ら変わらないことになる。

もし、本当にアレテーを他人に教えることが可能であるなら、その教えを受けた人間は皆が憧れるような正義と勇気を宿した卓越した人間になるはず。
正義を宿した人間が不正に手を染めることは絶対に無いので、仮に、弟子が不正に手を染めてしまったとしたら、師匠である弁論家はアレテーを正しく伝えられていない事になってしまう。
教えるべきものを正しく教えていないのであれば、それは師匠としてどうなんだという事にもなってしまい、ゴルギアスの説はどちらにしても駄目という事になってしまう。

墓穴を掘ったゴルギアス

ゴルギアスの論理は破綻してしまい、自分が間違っていることを認めなければ先へ進めない状態になってしまった。
しかしここで、ゴルギアスの弟子のポロスが助っ人に入り、以後、ソクラテスとポロスの間で討論が行われることになる。

ポロスの主張によると、ゴルギアスは場の雰囲気を読んで、ソクラテスに合わせて気にいるような答えを選んであげたまで。弁論家がアレテーを身に着けているとは、ゴルギアスは本心では思っていない。
そんな事もわからないままに、揚げ足を取って矛盾点を挙げて攻め立てるのは、卑怯なやり方だと避難する。
しかし、この理屈も少しおかしいような気がする。

というのもゴルギアスは、他人に弁論術を教えてお金を稼いでいる弁論術の教師として名を馳せている人物。
弁論術とは簡単に表現してしまえば、話の流れを完全に支配して自分の有利な方向に向かわせる話術のことです。
仮に、ソクラテスが話を誘導することでゴルギアスに墓穴を掘らせるように持っていったのであれば、その流れを断ち切って、自分が有利な方向に持っていけば良いだけです。

そのための技術こそが、弁論術のはずなのだから。

にも関わらず、ソクラテスの誘導に引っかかって口を滑らせて、自ら墓穴をほってしまうというのは、弁論術の専門家としてどうなのでしょうか。
弁論家でもないソクラテスに討論で負けた上に、卑怯だと罵るのは、ストVのプロの選手が、ド素人のガチャプレイに負けて言い訳しているのと同じで、恥の上塗りのような気がしないでもない。
ただ、この反論をゴルギアス自身が主張していれば救いようがないが、ゴルギアスよりも劣る弟子が主張しているのと、尊敬している師匠が陥れられたと思い込んで感情に任せて言ってしまったのかもしれない。
(つづく)
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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その2『人を支配する技術』

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他人を説得する技術

ソクラテスの追求によって、ゴルギアスが教えている技術が、『他人を説得する技術』であることがわかった。
では、何について説得するのかというと、何が正しくて何が不正なのかという点について説得する技術のことらしい。

ソフィスト達が唱える相対主義では、人々の正義と正義がぶつかり合ってしまう事が多々ある。
その際に、自分の主張こそが正義であり、それに反対する相手の主張は悪だと説得することが出来てしまえば、自分の意見を正しいこととして、押し通すことが出来る。
他人が自分の為に尽くすのが正義だという独りよがりの正義も、それを押し通す説得術がありさえすれば、正義になり得るということでしょう。

この技術を極めれば、相手を自分の思い通りに動かすことが出来るし、警察が自分を捕まえて裁判にかけたとしても、自分こそが正義だと裁判官を説得できる為、罪に問われる事は無い。
それ以前に、捕まえに来た警察官の行動を不当なものだとし、正義は自分にある事を主張して相手を説得できれば、そもそも捕まることすら無い。
他人を自由に支配し、その上、自分は何にも縛られること無く自由に振る舞えるわけだから、弁論術は最高の技術というわけです。

この主張を聞いたソクラテスは、その説得術について吟味していくことにする。
まず、いきなり本丸に攻め込むのではなく、前提条件を確認し合う作業に入る。

説得術を吟味するための前提条件

ソクラテスはまず、『学んでしまっている』と『信じ込んでいる』という状態が存在するかどうかをゴルギアスに確認し、同意を得る。
学んでしまっているとは、学校での勉強や、社会経験などを通して、特定の何かを既に学んだ状態のこと。 算数でいうのなら、掛け算を勉強しようとしているものは、足し算は既に学んでしまっている。
信じ込んでいるというのは、それが正しい事だと信じ込んでいることで、宗教などに限った話などではないし、実際に学んだかどうかも問題ではない。

次に、『学んでしまっている』事と『信じ込んでいる』事は、同じことなのかどうかを確認し、この2つは違う事柄であることを確認する。
学んでしまっている事が正しい事だと信じ込む事はあるだろうが、学んだ事が間違いではないかと思うことも有るし、学んでいないのに信じ込んでいるだけの状態もありうるからでしょう。

次に、信念には偽物と本物が存在するかという質問をし、『ある』という答えを聞き出し、同様に知識には偽物と本物が有るかを質問し、『無い』と聞き出す。
信念とは、正しいと信じる気持ちであるけれども、正しいと信じた対象が間違っていて悪だということも十分にありえる。
一方で知識はどうかというと、知識とは既に発見されたて検証されて、正しいとされた法則のことなので、間違った知識は『正しい』という前提条件を満たさないので、知識ではない事になる。

ソクラテスは、信念に真偽があり、知識には無いとするなら、信念と知識は違うものとなるが、それで良いかと質問し、ゴルギアスに同意を得る。
前提条件をまとめると、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』がある。そして、この2つは同じものではない。
信念には偽物と本物があり、知識には真偽はない。

説得された状態とは?

前提条件が揃ったところで、説得について考えてみる。
『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』は、共に、説得されてしまった状態と捉えることが出来る。
何故なら、『学んでしまっている』と自覚している状態は、知識を他人から授けられたことを自覚している状態ともいえるから。
前提条件によると、知識には真偽はないのだから、学んでしまっている状態の人間は、正しい知識を授けられたと自覚している状態ともいえる。

一方で、信じ込んでいる状態は、相手が話したものが、知識と呼べるものなのか、それともでっち上げなのかは分からないけれども、相手の主張することを信じ込んでいる状態といえる。
先程の前提条件では、信念には偽物と本物が有るということだったが、信じている対象が偽物であれ本物であれ、信じ込んでいる状態というのは、相手によって説得させられた状態といえる。
つまり、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』は、説得されている状態という点においては、共通している。

では、ゴルギアスが提供している弁論術は、聞き手を『学んでしまった状態』にするのか、『信じ込んでいる状態』にするのか、どちらの状態に説得するのだろうか。
この質問に対してゴルギアスは、『相手に信じ込ませる説得術だ』と答える。

これまでの対話をまとめると、ゴルギアスが提供する技術とは、相手を説得する技術であって、聞き手に知識を与えるための技術ではないことが分かる。
政治や法廷の場で、相手をうまく誘導して自分の思い通りに事が運ぶようにする技術だけれども、決して、正しい知識が必要なわけではない。
相手は正しい知識によって説得させられるのではなく、議論の演出の仕方によって、正しいのではないかと説得させられるだけということ。

説得に専門知識は必要がないのか

しかしソクラテスは、ここで一つの疑問を持つ。
ゴルギアスは、弁論術について『何が正しくて何が不正なのかという点について説得すること』と説明していたが、一方で、専門的な知識については教えないともいっていた。
議論の対象となっている事柄の正義や不正について相手を説き伏せるのに、その対象の知識は必要ないのだろうか。

例えば、何らかの公共事業で大型建築物を建てる場合で考えると、この計画を円滑に進めるための話し合いには、建築の知識が必須となるのではないだろうか。
建築計画を作成して実行する為の議論を、建築の経験や知識はないが、弁論術の心得だけはある政治家だけで話し合ったとして、その計画はうまくいくのだろうか。
これは考えるまでもなく分かることで、この議論に必要なのは説得の術ではなく、建築家が持つ知識と経験であり、彼ら抜きではこの事業の成功はありえません。
何の専門的知識も持たず、自分の価値観として持っている正義や不正を相手に信じ込ませることしか出来ない弁論家は、この議論において、何を提案できるのだろうか。

この疑問に対してゴルギアスは、待ってましたとばかりに持論を披露する。
確かに、計画を練ったり進捗状況を見守ったり、実際に作業を行うのは、建築の知識や経験が豊富な建築関係者だろう。
しかし、その公共事業を行うと決めてその人間に命令を出すのは、その時に政治的権力を持っている権力者なのではないだろうか。

権力者は、医術の心得も建築技術も知識も持たないが、その事業を行うという決定を下すことが出来る。
アテナイで建築された港や城壁も、実際に知識人や専門家に命令を下したのはテミストクレスであり、テミストクレスが何故その様な決断を下したのかというと、ペリクレスが助言したからだ。
実質的には、ペリクレスの意思によって公共事業が行われているのであって、建築の知識を持つ、現場で働く作業員の意思ではない。

このやり取りは、よく小中学生が『ひっかけクイズ』として行ったりもします。
出題者が、『大阪城を建てたのは誰?』と質問し、回答者が『豊臣秀吉』と答えると、『正解は大工さん。』と答える一連のやり取りと似た部分がある。
そもそも、城を建てられる大工がいなければ城が建築されることはないのだけれども、大工がいたとしても、命令をして賃金を払う人間がいなければ、これもまた、城が建つことはない。

ソクラテスは、建築に重要なのは建築についての知識だと主張するが、プロタゴラスは、建築の知識を持つものを自分の思い通りに動かせるのであれば、その知識は必要がないと主張する。
ゴルギアスは弁論術は人を支配する能力が有るといっていたのはこの事で、専門家を自由に思い通りに動かせるなら、自分自身で勉強する必要はないということ。

まとめると、大きな権力を握るのにも、その力を振るうのにも、専門的な知識は必要なく、それらの知識は自分以外の誰かが身に着けていればそれで良いということ。
何故なら、権力さえ握ってしまえば、専門知識を身に着けた専門家を自分の思い通りに自由自在に操れるのだから、いざという時は専門家に命令するだけで、事を運ぶことが出来てしまう。
また、権力がなかったとしても、その専門家を個人的に説得して味方に引き入れてしまえば、その力を自分の為に利用することが出来る。

時に弁論術は専門知識よりも役に立つ

しかしソクラテスは、弁論術の具体的な正体をつかめずにいる。
(指導者が命令して事が動くことにしても、指導者が、『この様な建物を立てたいから作れ』と命令して、専門家が、強度計算的に無理なので、計画を変えてくださいといえば、指導者は専門家の意見を聞き入れなければならない。)
(建築家同士がお互いのプランを競い合う状況にしても、どの建築が一番良い建築なのか。 その場所に建てるのにふさわしい建築なのかという議論はおざなりになってしまう。)

この態度にしびれを切らしたゴルギアスは、ソクラテスを説得する為に昔の自分の経験を語り出す。

ゴルギアスは昔、怪我や病気を負ったものが医者に掛かっているにも関わらず、患者が医者の言うことを聞かないという現場に遭遇したことが有る。
医者は、患者のためを思って良かれと思って、苦い薬を調合したり、傷口を焼くといった治療行為を提案するが、身体についての知識が無い庶民は医者の治療法が理解できずに、その苦痛を伴う治療を受けようとしない。
しかし、医学の知識は全く無いけれども、弁論術は身に着けているゴルギアスが患者を説得した所、患者は医者の言うことを聴くようになり、治療を受けることを了承した。

医者は、弁論術を身に着けていない為に患者を説得することが出来ずに、危うく、患者を見殺しにしてしまうところだった。
しかし、医術を全く身につけていないゴルギアスが説得に成功し、結果として、患者の命を救うことが出来た。治療を拒否する患者の前では医者は無力だが、弁論家は、十分に力を発揮することが出来る。

それだけではなく、何らかの国の事業で、医者が必要になるというケースも有るだろう。
その事業の参加者として選ばれれば、国の中で名前を売ることが出来て有名になれるとした場合、他の医者に比べて自分がどれ程その事業に向いているのかを、事業の責任者にアピールする必要がある。
この時、医学について無知な事業の責任者を説得するには、医学の知識ではなく、弁論術が有効となる。

弁論術は強力な武器になる為 悪用を避けなければならない

この様に弁論術は、討論の場のあらゆる場面において有効な技術であり手段となる。しかし、有効過ぎるが故に、その取扱は慎重に行わなければならない。
ボクシングや空手の技術を悪用すれば、他人を簡単に傷つけることが出来るように、弁論術が相手を説得して信頼を勝ち取れる技術という事は、その技術を悪用すれば、他人を陥れることも容易にできてしまう。
この様に、使い方によっては非常に危険な武器にもなる技術だから、弁論術を身に着けたものは、その使い方には、非常に注意を払わなければならない。

だが、使う者が人間である以上、自分自身の我慢が足りないなどの理由で、その力を自分の欲望を満たす為に使って不正を働くものもいるかも知れない。
しかし、その様な状態になったからといって、その弁論術を教えた教師の方を責めてはならないとゴルギアスは主張する。
弁論術を生徒に授けた教師の方は、生徒一人ひとりが良い人間かという事は分からない。 仮に、生徒の1人が不正を働いたからといって、それを事前に知ることは出来ないだろう。
不正を行うものは、不正を行った当の本人が悪いのだから、責められるのはその人間であって、教師の方ではないということ。

この主張は、今でいうと銃問題と似ているのかもしれない。銃は本来、力の弱いものが自分よりも強いものに対して抵抗する為に存在する。
アメリカで銃犯罪が多いにも関わらず、銃の所持が認められたままなのは、国が暴走した際の対抗策を民衆側が確保しておくためだし、銃があることで、力の弱い人間が自分よりも身体が大きく力の強い男に襲われた場合も、対抗できる。
もし銃がなければ、弱い立場に有るものは強いものに蹂躙され続ける危険性すら有る。 だから、銃そのものの存在は悪いとはいえなく、良い面も有るといえる。

しかし、その銃を使って、無実の人間を一方的に攻撃する犯罪も存在する。この様な犯罪は、銃がなければ起こらなかった犯罪ともいえるが、銃そのものを悪としてしまえば、銃の良い面まで失ってしまうことになる。
こうして、銃の所持を肯定する人間から生まれた言い訳が、銃を使って犯罪を犯す者が悪いのであって、銃が悪いわけではいという言い訳。
この銃を、弁論術に言い換えると、同じ様な理論となる。


参考書籍

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その1

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序章

この対話編は、遠征してきたゴルギアスが街の広場で演説をするという噂を聞きつけたソクラテスとカイレポンが、その演説を見に行くところから始まる。
しかし、カイレポンが まごついた せいか、ソクラテス達が広場に到着した時には、既にゴルギアスの演説は終わってしまっていた。
呆然と立ち尽くす二人でしたが、そんな二人を発見したのが、ソクラテスの友人のカリクレス。

カリクレスは事情を聴くと、『ゴルギアスさんは、この地域に滞在中は私の家で寝泊まりしているので、会いたいのであれば、家に来ればよいよ。』と言ってくれる。
この言葉に甘える形で、二人はゴルギアスに会いに行くというところから始まる。

弁論術とは何ですか?

ソクラテスが、わざわざ足を運んでまで広場に赴いたのは、ゴルギアスが他人に教えている弁論術に興味があったから。
しかしソクラテスは自分で質問をするのに気が引けたのか、カイレポンに『ゴルギアスは、何の職業をしている人ですか?』と聞いてもらう。
当然、ソクラテスゴルギアスが弁論術の教師であることは知っている。 ソクラテスが聞きたかったことは、その教えている弁論術とは、どの様な技術のことなのかということ。
だが弟子達の1人であるポロスが、『先生は、先程の広場の演説で疲れているので、私が変わりに答えましょう』と割って入る。

ソクラテスは、答えさえ知れればそれで良かったので、代わりにポロスにその質問に答えてもらうことにする。
ポロスによると、『人々の技術は全て、経験を積み重ねることによって発展発達してきたが、このゴルギアスは、その中でももっとも優れた技術を身に着けている。』と自信満々に答える。
だが、この答えを聞いたソクラテスは、意味を理解することが出来ない。 何故ならポロスは、質問に答えているようで、実のところ何も言ってはおらず、『凄いことを教えている!』と言っているに過ぎないから。

この様な返答をする人って、現代でも結構見かけますよね。
怪しげな商売をしている人たちや、不正を指摘された政治家などが行う答弁と同じで、重要なことは何一つ答えずに、何となくすごそうな雰囲気だけを醸し出して、相手に勘違いさせるという方法です。
例えば占い師などは、何一つ具体的なことはいわずに、抽象的なことばかりをいって、相手に都合の良い勘違いをさせたりもします。

ソクラテスはポロスに対して、『貴方は私の質問に答える気がなく、弁論術の技術を使って有耶無耶にしようとしているんじゃないですか?』と不信感を抱く。
例えば、医者に対して、『あなたの仕事はなんですか?』と聞いた場合、医者は、『怪我や病気の治療をしたり、健康状態を維持するための助言をする仕事ですよ。』と仕事内容を答えてくれるでしょう。
同じ様にデザイナーに対して質問をしても、『私はデザインをすることでお金を貰っています。 依頼があるのは、本の表紙のデザインが多いので、今はそれ専門でやってますね。』と答えてくれるだろう。

複数人の大工に質問をしたら、『私は宮大工で、主に神社仏閣の建築や修繕をやっている。』だとか、『私は型枠大工で、鉄筋コンクリートの建物を作る作業の一部をやっている。』といった具合に、答えてくれる。
大工やデザイナーなどの漠然とした職業の質問をしたとしても、突っ込んだ質問をすれば、自分が従事しているそれぞれの専門の仕事内容を答えてくれるでしょう。
振り返って、ポロスはソクラテスの質問になんと答えたのかというと、『凄い技術を教えている。』といっただけ。 これは、答えになっているのでしょうか。

この事を告げると、ポロスは『ゴルギアスは弁論術を教えていて、職業は弁論家』だと答えます。
弟子の失態に耐えられなくなったのか、それとも、道場破りに乱入された道場の師匠のように、弟子との対話を観て相手の実力がわかったのか、真打ちのゴルギアスが登場し、ゴルギアスソクラテスとで対話が始まる。
以降は、ゴルギアスソクラテスによる対話へと移行する。

ゴルギアス vs  ソクラテス

ソクラテスは、対話の前に事前にルールを決めようと言い出す。
弁論術を極めて、その上、他人に教えることでお金まで取っているゴルギアスを相手に対話をするわけですから、弁論家ではないソクラテスがルール無しで対話を行った場合は、不本意な形で丸め込まれてしまう可能性がある。
ソクラテスは、質問者は質問を短く簡潔にまとめ、回答者が短い言葉で答える。質問者が行う質問内容の中に理解できない部分があれば、回答者が質問側に回り、攻守逆転するというソクラテス問答法での対話を提案する。

弁論家は、言葉を扱う専門家なのだから、素人の質問に対しても短くわかり易い言葉で答えて欲しいという要望を出した形ともいえます。そしてゴルギアスは、これを了承する。
このルールを決めた後で、ソクラテスは再び、先程ポロスに対して行った質問をゴルギアスに対してブツケます。『あなたの職業は何ですか?』と。

弁論家は、弁論術と称して生徒に対して言葉の扱い方を教えるわけだが、では、どの様なジャンルの、何についての言葉を教えるのだろうか。
例えば、それを聴くだけで、健康を維持したり身体について詳しくなるような言葉を教えてくれるのだろうか。それとも、聴くだけで音楽について詳しくなったり、楽器を奏でることが出来るようになる言葉なのだろうか。
ゴルギアスは、弁論術を身に着けたとしても、医学に詳しくなるわけでも音楽に詳しくなるわけでもない。 弁論術という技術の範囲には、その様なものは、入っていないと答える。

そこでソクラテスは『人々に話をする能力を授けているのでしょうか?』と質問をすると、ゴルギアスはこれに同意する。

弁論術と他の学問との違いは何だろう

普通に考えれば分かりそうなものだが、では何故、ソクラテスはこの様な質問をしたのだろうか。
そもそも、人のコミュニケーションの大半は言葉によって行われるため、全ての教育が言葉を介して行われる。であるなら、全ての職業が言葉を扱っている職業だし、専門知識について話せるようになる為の勉強といえる。
つまり、殆どの職業における勉強は、その専門分野の事柄について話せるようになる勉強ともいえる。 では、弁論術は他の学問と何が違うのかという、明確な差を知りたかったのでしょう。

これに対してゴルギアスは、他の技術は言葉だけでなく、実際に手を動かして技術を習得するが、弁論術は言葉だけで全てが完結すると答える。
確かに、画家にしても大工にしても医師にしても、本を読んだり話を聞くだけでなれるものではなく、実際に手を動かして何度も反復練習するという作業をしなければ技術は身につかない。
誰だって、本を読んだだけで医者を名乗る人物に手術をしてもらおうなどとは、絶対に思わないだろう。

しかし、ソクラテスはこれだけでは不十分だと答える。 何故なら、言葉だけで完結する職業は、弁論術に限らないからです。
確かに、画家や彫刻家や大工などの職業は、実際に手を動かすという作業を行わなければならない。 しかし、学校の教師などはどうだろうか。
例えば数学の教師は、教科書と言葉だけで生徒に対して数学の知識を伝えるのではないだろうか。 国語や社会の教師も同じで、特別な技術を身につける為に手を動かさなければならないということはない。

ソクラテス自身は、数学の教師と弁論家が違うものを扱っていることは理解しているが、その明確な差を、弁論家であるゴルギアスに明らかにして欲しいと主張する。
手を動かさない、単純に言葉だけで伝えられる他の学問と弁論術には、どの様な違いが有るのだろうか。弁論家は、言葉によって何を生徒に伝えるのか。

この質問に対してゴルギアスは、『人間が関心を持つ者の中で一番重要で、一番優れているものだ』と答える。
しかしこの回答は、ゴルギアスの弟子であるポロスが最初に答えた答えである『弁論術とは凄い技術のことです。』といった答えと根本的には変わらない。
具体的に何が重要で、どの点で一番優れているのか。 そもそも、人間が一番求めているものとは何なのか。 何一つ分からない。

一番優れていて 人間が一番に求める技術

そこでソクラテスは、世間一般で大衆が関心を持ち求めているものを3つ挙げる。1番目は『医者の技術』2番めは『健やかで優れた肉体』3つ目は『正しい方法で手に入れた財産』
医者の技術は、怪我や病気をして弱って悪くなった身体を治すことが出来る技術。
2番めの健やかな身体を手に入れる事により、人は健康な状態を維持できるし、能力的に優れていれば、様々なことに挑戦できるし、戦争に行った際も生き残れる可能性が高くなる。
3つ目の正しい方法、つまり、人を騙したりと不正を行わずに、正攻法で手に入れた財産は、誰に気兼ねすることもなく自由に使えるお金という事になり、1番目と2番目を金の力によって手に入れることが出来る。

この説明だけだと、湯水のように金が使える実業家が一番良いようにも思われるが、何故、これが3番めなのかというと、金を稼ぐというのは技術だけれども、金を使えるというのは技術でも何でも無いからだろう。
お金があるからといって、怪我や病気をした際に、いつでも優秀な医者を雇えるわけではない。 今現在は、ネットなどが発達している為、金をかければなんとか出来る範囲も増えてきて入るが…
古代ギリシャであるこの時代は、必要な時に医者をすぐに呼びつけることが物理的に無理。 その為、いざという時には、医者を兼ねで雇える能力よりも、医術の知識を持っている方が役に立つ。

これらの技術を職業に当てはめると、1番目は医者だし、2番目はトレーニングジムなどに所属しているコーチということになり、3番目は実業家ということになる。
ゴルギアスの主張では、人間が一番関心を持っていて、優れたものが弁論術ということだったので、当然、弁論術はこれらの技術よりも優れている事になるわけだが、では、どの点で優れているのだろうか。

ゴルギアスは、弁論術を学ぶものは様々な束縛から解き放って自由にすることが出来、その上、他人を支配することが出来ると主張する。
弁論術によって他人を説得し、自分の思い通りに動かすことが出来る能力を得ることが出来る。

弁論術とは人を支配する技術

先程、ソクラテスが挙げた医者や実業家などの人たちも、弁論術によって相手を説得してしまえば、相手を自分の好きなようにコントロールすることが出来る。
警察や裁判官や政治家といったものが相手だったとしても、弁論術さえ使ってしまえば、自分の意見を押し通して説得することが出来る。 弁論術を収めるものは、相手が誰であれ束縛されること無く、自由に振る舞える。
他の技術を習得したものを、説得によって自分の奴隷にすることが出来、その上、自分自身はいかなる権力からも束縛されることがない弁論術は、人が目指すべき最高の技術というわけです。

このゴルギアスの主張により、やっと、弁論術の本当の力を知ることが出来ます。
それは、『相手を説得する技術』のことです。

では、具体的には、何についての説得をするのでしょうか。
例えば医者の場合は、怪我や病気を治すという事以外に、人間の健康管理には何が必要なのかを語ることが出来て、それによって他人を説得することが可能です。
医者にも色々あり、身体について詳しい医者もいれば、人間の精神、心について詳しい人も存在し、この医者も同様に、この分野において他人を説得することが出来る知識と技術を持っています。

では、ゴルギアスが主張する弁論術の能力である『説得』は、何についての説得なのでしょうか。

この疑問に対してゴルギアスは、法廷や政治などの集会などの場で使うことが出来る説得術で、主に、何が正しくて何が不正なのかといった事について説得する技術だと答えます。
(つづく)
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参考書籍

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第52回 ソクラテスが生きた時代(2) 後編

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人類の文明発祥の地

この場所には、チグリス・ユーフラテス川や、エジプトのナイル川などが有り、定期的に川が反乱する事を活かして、かなり早い段階で農作物を育てるという文化が生まれるんです。
動物を追いかけて狩りをするとか、その辺に成っている木の実や果物をとって食べる狩猟採集生活の場合は、一箇所に定住しないので、人口も増えませんし、文化も生まれにくいんです。
何故、人口も増えないし文化も生まれないのかというと、わかりやすく極端な例で考えてみますと…

10人の部族と1000人からなる部族があった場合、10人分の食事を狩猟と採集で賄うのは、それほど難しいことではないでしょうが、1000人分の食料を確保するのは難しいですよね。
1000人の胃袋を満たす為に動物を狩り続けると、その一体の動物が絶滅してしまう可能性もありますし、移動しながら生活をする場合でも、取り尽くした獣が再び繁殖して狩りが可能になるまでには数年かかるでしょうから…
それを考慮すると、とてつもなく広大な範囲を移動し続けなければならない事になってしまいます。

どちらの方が有利で生き残りやすいのかというと、少数の方が有利ですし、常に動き続けるというハードな生活では、長生きする事も難しいですよね。
結果として、狩猟採集生活では少数で生活するということになるのですが、少数で生活すると、発明品というのも生まれにくいんです。
何故かというと、これは今現在の私達の生活を観ても同じなのですが、例えば、何か問題があった際に、それを解決できるようなものを発明しようとした場合、ピンポイントで狙いすましたように目的のものを作れることってのは、少ないんです。

大抵の場合は、研究が行き詰まったり、よくわからない失敗作が生まれたりするわけですが…
多くの場合は、その失敗経験や、それによって生まれた失敗作を他の人間が観た時に、その失敗を別のアイデアとして活かすことで、思ってもいなかったものが生み出されるんです。

例えば、この例は失敗作から新たなものが生まれたというのには当てはまらなんですけれども…
私は緑内障にかかっているのですが、その進行を止める薬には、毛が伸びるという副作用があります。 その為、目薬をさした後は顔を洗わなければ、まつ毛がどんどん伸びてしまうのですが、この副作用に注目すれば、毛生え薬が出来たりします。
この様な感じで、特定の問題を解消する為にアクションを起こした結果、思ってもみないモノが生み出されるわけですが、その活用方法は、生み出した本人には分からなかったりするのですが…
それを他の人が観た場合に、活用方法が分かったり、その失敗がヒントに成って、、全く別のものが生まれるというケースは、かなり多いんです。

この様に、アクションを起こして生み出したものが、他の人間のアイデアを刺激して、別のものを生み出すわけですから、発明を周りで見ている人が多ければ多い程、多くのものが生み出される可能性が高くなりますし、シナジー効果も高まります。
つまり、互いに刺激し合いやすくなるということですね。
文化というのは発明の連続なわけですから、文化を生み出して発展させる為には、限られた範囲内にできるだけ多くの人間が存在していることが重要になってきます。
先程も言いましたが、狩猟採集生活では、人口を増やすことが困難なので、文化も生まれにくいわけですが、農耕の発明によって、人間が一箇所に定住することが可能になるんです。

肥沃な三日月地帯

その、農耕が始まった一番最初の場所というのが、メソポタミアの『肥沃な三日月地帯』と呼ばれる場所だったんです。
今の地図での場所をもう一度いいますと、イラン・イラク・シリア・エジプトにまたがる地域で、アラビア半島を、上側が膨らんでいる三日月状の形をしたもので蓋をするようなイメージを思い浮かべてもらえれば良いです。
この地域は、先程も少し言いましたが、ナイル川チグリス・ユーフラテス川が定期的に反乱して、農作物の養分になるものを運んできてくれる為、農耕をするのに適した土地でした。

また、それだけではなく、人間の食べ物となる植物や利用しやすい動物が多かった事も、関係しているようです。
植物というのは、かなりの種類があるわけですが、人間は、それらを全て食料にする事は出来ませんよね。 例えば、牛が食べるような草を、人間が同じ様に食べられるのかというと、食べられません。
多くの植物が生えているような土地だったとしても、人間が食べられるような植物が多く生息していなければ、人はその土地に定着しようとは思わないのですが、この『肥沃な三日月地帯』には、かなりの種類の人間が食べられる植物が生息していたようです。

また、この地域は、地形も農耕をするのに有利に働いたようです。
南の方は砂漠地帯なのですが、北の方には山岳地帯が有り、標高が高くなっていく地形になっているようです。 標高が100メートル高くなると気温が1度下がるなんて言われていますが…
標高が徐々に高くなる事で、同じ様に種を撒いたとしても、標高の高いところほど収穫が遅く、刈り取り時期がズレていくらしいので、収穫できる期間が長くなる様なんですね。
収穫時期が短いと、その短い期間にピンポイントで台風などの災害が来たりして被害が出ると、食料が獲得できませんが、収穫時期が長くなると、それだけ、安定して食料が得られる様になる為、生活の安定性が増します。

その他には、生息している動物も関係していたようです。 例えば、馬や牛といった、今でも家畜として利用されている動物がいますけれども、あの動物は、他の動物で代用できるのかというと、そうでもないそうなんです。
例えば、乗り物として使える馬ですが、他の動物で代用できるのかというと、そうでもないようなんです。
馬に似た形をしている動物にシマウマがいますが、シマウマは馬の代わりにはならないようです。 というのもシマウマは、種としての特徴として、気性が荒いそうなんです。

馬の中にも気性の荒い個体はいますが、馬の中で気性が荒いものと、シマウマの中で比較的温和な性格のものを比べた場合、シマウマの方が気性が荒かったりするそうなんです。
その為、騎乗動物として扱えないようなんです。 牛も同じで、あの様な体格の動物なら、どんな動物でも、農作業の手伝いなどが出来るのか。
例えば、水牛やサイやカバのような動物でも、同じ様に農作業の手伝いをさせられるのかというと、そんな事は無いようです。
人間が利用しやすく、扱いやすい性格などの特性を備えている動物が沢山いるというのも、人間がその地域に定着しやすくする要因の一つのようです。

ここら辺の詳しい考察については、ジャレッド・ダイアモンドという方が書かれている『銃・病原菌・鉄』という本に書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。
今回は、人間の文明に地形や生態系がどの様に関係していたのかだけを取り出して話しましたが、この他にも、病原菌や鉄の発明がどの様な影響を与えたのかを考察されているので、勉強になりますし、面白いです。

話を戻すと、この様な感じで、人間が定着しやすい環境が整い過ぎていたのが『肥沃な三日月地帯』で、この土地ではシューメール文明や楔形文字などの多くの文化が生み出されましたし、また、この土地の覇権を狙った勢力同士の戦争が数多く繰り広げられました。
その最終的な覇者となったのが、当時のペルシャ帝国だったわけです。 
ギリシャの文化も、大本は、エジプトで生まれた面積の計算法や、イオニア地方で生まれた哲学が発展したものに過ぎないので、ペルシャ川から見れば、属国という扱いだたのかもしれません。
ペルシャは、力関係を再認識させる為に、ギリシャに対して何度も戦争を仕掛け、ギリシャはその侵攻に対して迎え撃つ事になります。

ギリシャも一枚岩ではない

これだけを聴くと、ギリシャは外敵、主にペルシャから頻繁に攻め込まれていて、ギリシャはその度に団結していたという印象を持たれる方も多いかもしれませんが… 実際には、そんな事もなかったようです。
というのも、ギリシャという地域は、それぞれの都市国家であるポリスが独自で自治をするという形式だったのですが、統治の仕方が、それぞれのポリスでかなり違ったんです。

その為、ギリシャ内で、ポリス同士の覇権争いからの戦争も起こっていたりもしたので、短い間隔で戦争が繰り広げられていたようです。
これからメインで話すことになるソクラテスも、議論好きの学者というイメージを持たれている方も多いかもしれませんが、3回程、戦争に行ってますし、皆が怯えて縮こまっている中で、堂々とした態度でシンガリを努めて無事に生還してきたという武勇伝を持っていたりもするんですが…
このあたりの事は、次回に話したいと思います。

次回
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夏までに体型を変える? スポーツジムに入った際に気をつけること

私はスポーツジムに通っているのですが、ここ最近になって、徐々に人が増えてきました。
これは今年に限ったことではなく、3~4月の異動の時期で、尚且、夏まで数ヶ月というタイミングで人が増え、9月から秋にかけて会員数が減少し、冬になると『いつもの顔ぶれ』だけになるのが、スポーツジムだったりします。

この投稿を読まれている方の中にも、最近になってジムに通い始めたという方がいらっしゃるかもしれないので、今回は、ジムに通って体を変える為に必要な事を書いていこうと思います。
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実は重要なジム選び

春にジムに入って、『夏までに体を鍛え上げてシックスパックになってやろう』なんて考えている人は、ジムの設備に目が行きがちだと思います。
バーベルが有るかとか、ダンベルは何キロまで揃っているかや、マシンの種類など。

しかし、20年以上ジムに通っている私からいわせれば、トレーニング機器はそこまで重要ではありません。
大抵のジムには、全身を一通り鍛える為のマシンが揃っていますし、バーベルやダンベルがあれば、工夫次第で大抵の部分は鍛えられたりします。
設備の構成を、有酸素運動に極振りしているような極端なジムでもない限り、月会費1万円程度のジムであれば、大抵の設備は揃っていると思われるので、あまり気にしなくて良いです。

では、ジム選びで一番重要視しなければならないのは何かというと、立地です。

家から近いとか、仕事場と家との往復の間に有るような、気合を入れなくてもジムに行ける様な場所を選ぶのが基本です。
わざわざ、ジムに行くために外出しなければならず、その上、往復に1時間ほどかかるなんて場所は、いくらジムの設備が良かったとしても、選ばないほうが良いです。

理想としては、仕事帰りにフラッと寄れるような場所を選択することが重要です。

何故、ジムの立地が重要なのかというと、多くの人が数ヶ月でジムに行くのを止めてしまう大きな原因が、ジムに通うのが面倒くさくなって辞めていくからです。
ジムに入会したての春は、寒い季節から暖かくなってくる季節でもありますし、環境としても心機一転出来るような時期なので、テンションが上って何に対してもやる気が出ると思います。

しかし、そんな精神状態は長くは続きません。
直ぐに、わざわざジムに行くのが面倒になるし、休みなどのまとまった時間が出来たときには、他の用事をしてしまう。
そのうち、ジムに行かない生活が習慣化してしまい、ジムに行く為には物凄い精神力を持って決断しないと行けなくなるようになります。

その為、頑張らなくてもジムに行ける環境が重要になってくるわけです。

ジムでトレーニングをする際に気をつけること

一番重要なのは、頑張りすぎないことです。
ジムに行き始めた人が陥りやすいトラップなのですが、大抵の人は、初日から頑張りすぎてしまいます。
3日程度で全身の筋トレをやってしまうわけですが、4日目ぐらいに襲ってくる筋肉痛によって、行くのを断念してしまい、休みグセが付いてしまいます。

ジムに行き慣れていない人が、まず、心がけることは、毎日ジムに足を運ぶ習慣をつけることです。
3日間ほど詰めてジムに行き、その後、筋肉痛が取れるまで4日程休んでは、意味がありません。
一旦休み癖がつくと、ジムに行くのが億劫になり、結果として大して施設を利用しないままにジムを辞める事になってしまいます。

ジムに行く習慣がない人は、トレーニングよりもまず、毎日ジムに行く習慣を身につけるところから始めるべきです。
その為に必要になってくるのが、頑張りすぎないことです。

『ジムで運動を頑張らなくて、夏までに肉体改造できるの?』と思われる方もいらっしゃることでしょう。
しかし、安心してください。
今まで運動をしてこなかった人が、3ヶ月真剣に頑張ったところで、体型は大して変わりません。

食事の内容を見直したり、運動量を増やしたりする事で実現できなくもありませんが、急激な変化は体に良くないですし、今まで運動をしてこなかった人が急に激しい運動をすると、怪我や病気に繋がったりもします。
夏に格好をつけたいという理由だけで、そこまでのリスクを背負う必要は無いと思います。

ジムでの運動

ジムで行う運動ですが、置いてあるマシンを一通り使って、全身を鍛える方法は辞めたほうが良いと思います。
運動に慣れていない人が全身の運動を1日でやってしまうと、全身筋肉痛になり、ジムを休む口実ができてしまいます。
先程も書きましたが、重要なのはジムに行く習慣を付ける事なので、毎日通えるようにトレーニングした方が良いでしょう。

全身筋肉痛を避ける為には、体を3つの部位に分けてトレーニングするのが良いです。
足・胸・背中と3つに分けることで、常に体の何処かが筋肉痛では有るけれども、筋肉痛ではない部分があるという状態を作れます。
レーニング種目としては、バーベルが有るジムなら、足ならスクワット。 背中ならデッドリフト。 胸ならベンチプレスのビッグスリーと呼ばれる種目を中心に行えば良いです。
余裕があるなら、それにプラスしてマシンで追い込むのも良いかもしれません。

体の部位を3つに分けて、ローテーションを組んで2週すれば、週に6回はジムに通えます。
もし、筋肉痛が取れずに2周するのが辛いのであれば、間に有酸素運動の日や、風呂だけ入って帰る日などを作り、とにかくジムに通いましょう。
毎日通うことで習慣化し、意識せずに、まるで毎日歯を磨くように、足がジムに向かうようになります。

この、毎日通うという行為の為に、先程書いたようにジムの立地が重要になってくるのです。
仕事で疲れていても、ふらっとジムに入ってジャグジーだけ入って帰るというのでも構いません。
とにかく、行く習慣をつけることが重要となってきます。

体作りは習慣

ここまで、如何にしてジムに通うかということを重点的に書いてきました。
手っ取り早く理想の体を手に入れたいという思いから情報収集されている方にとっては、無駄足だと思われている方もいらっしゃるかもしれません。

ただ、そのような方に一言いわせてもらうと、体作りやダイエットは、一年の間の特定の期間だけ行うものではなく、ずっと行うものだという事です。
ジムに行く習慣さえつけておけば、『せっかく来たんだから運動して帰ろう。』という気になります。
定期的に運動さえしていれば、少しづつであれ、体型は変わってきますし、健康にも役立つことでしょう。

一番ダメなのが、ジムに行くこと自体がイベントになってしまう程に行かない状態を作ってしまう事です。
お腹が出ているという悩みを持っている方が、今からジムに加入したとしても、夏までにシックスパックを作ることは、おそらく不可能でしょう。

ですが、毎日のように通う習慣をつけてしまえば、来年の夏には間に合うかもしれません。
一部のアスリートを除き、運動は健康的な体を作る為に行うものだと思いますので、無理をせず、長く続けられるペースで行うことをお勧めしたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第51回 ソクラテスが生きた時代(2) 前編

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まとまりが無い古代ギリシャ

前回は、ソクラテスの生きた時代背景を少し詳しく語ろうと思った結果、ギリシャを攻めていたペルシャ帝国の話になり、最終的には、文明の始まりの話にまで脱線してしまいました。
今回は話をギリシャに戻しまして、ソクラテスの生きた時代について簡単に説明していきます。

前回も話した通り、ギリシャペルシャ帝国から責められるという事が4回ほど有り、その進行に対して複数のポリスが協力して撃退するという事があったわけですが…
ではギリシャが、ペルシャという外敵によって一つにまとまっていたのかというと、そういう事はなく、各ポリス同士の覇権争いが行われて、戦争が繰り返されていました。
何故、ギリシャ内でこの様に戦争が繰り返されていたのかというと、当時のギリシャ内にあったそれぞれのポリスは、同じギリシャという地域に有りながら、政治の運営方法が大きく違っていたりしたからです。

ポリスごとに変わる統治の仕方

例えばスパルタ教育の語源にもなったスパルタは、前にも言いましたが、王様が国を治めていました。
王様の独裁国家というわけではなく、神々の言葉を人々に伝えるエフォロイという神託官と権力を二分するという形式ではありましたが、王が権力を握るという方式で、国を治めていました。

他の国では、戦争がある時だけ市民を集めて軍隊にしていた為に、普段は家具職人や彫刻家だった人間が、戦争が起こると、徴兵されて戦場に送られていたのに対し…
スパルタでは、生活に必要な労働は全て奴隷に任せて、スパルタ市民は専業の兵士となって、戦争がない時には訓練をし、戦争が起これば戦地に向かうという暮らしをしていました。
市民はみんな軍人になるわけですから、軍人になれないような体で生まれてきた人間は、スパルタでは価値がない人間とされて、生きていく事は出来ません。
スパルタ人が出産した際には、生まれた子供は隅々まで調べられ、障害を持っていると分かると崖から突き落として殺してしまうという事まで行っていました。

その一方で、ギリシャ内でのもう一つの大国とされているアテナイでは、直接民主制が採用されて、政治は市民が行うものとされていました。
直接民主制なので、今の日本のように、民衆の代わりに意見を言って政治を動かす『代議士』を、選挙で選んで、代わりに会議をしてもらうのではなく、民衆が直接、政治を行います。
では、アテナイに住む市民全員が平等に議論をしたのかというと、そういうわけではなく、一定期間ごとに『くじ引き』が行われて、それによって、国での役割が与えられていたようです。

そのくじ引きで、国の要職を引き当てた人間は、その地位につき、裁判員に選ばれた人間は、裁判員になる。
どれぐらいの人口で、くじ引きが行われたのかは分かりませんが、専門家の方の意見によると、平均寿命まで普通に生きていれば、2~3回は国の要職をやらなければならない状態だったようです。
プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』という作品で、ソクラテスが裁判をしている風景が描かれるのですが、その裁判の有罪無罪は500人の陪審員による多数決で決められたそうなので、国のポストというのが結構あったんでしょうね。

考え方の違いにより起こる戦争

この様な感じで、政治の体制そのものが全く違うので、お互いが理解されることもなく、また理解しようともしない為、お互いが自分の体制を押し付けて覇権を握ろうと、戦争が繰り返されたようですね。
つまりスパルタは、自らが行っている王様による統治というシステムを、他のポリスに押し付けようとしますし、民主政のアテナイは、それに反発をし、結果として戦争になるという事です。
スパルタ側からすれば、自分たちの統治は上手くいってるから、その上手くいっているシステムを他に押し付けようとしますし、仮に自分達が他のポリスを打倒して支配下に置いた場合も、統治がしやすいですよね。
何故なら、王様1人の頭を押さえつけておけば良いわけですから。 これが民主政だった場合、収取がつかなくなりますよね。

では、アテナイ側はどうなのかというと、アテナイも、元々は王様や貴族が領地を治めるというシステムだったのですが、このシステムが破綻した為に、民主政に移行したという過去があります。
具体的には、王族や貴族と一般市民との経済格差が広がり過ぎたんです。市民が国を統治する側の人間に搾取され、統治する側の人間が裕福になる一方で、市民側はお金を搾り取られるために、貧しくなっていく。
この様な状態が行き着くところまでいってしまうと、大多数の貧民層を先導して、支持を取り付けて、国を乗っ取ろうとする人間が出てきます。

二極化が行き着くところまでいってしまうと、王族を支持するのは、親戚やお友達などの、王族と仲良くなる事で自分が潤う人たちだけで、お金を搾り取られて貧しい生活を強いられている人間は、統治者を憎むようになります。
この様な状態の時に、『私が国の代表になったら、富裕層の資産を没収し、皆さんのために使います。 皆さんは今まで、必要以上に搾取され続けてきたので、皆さんの負担も軽減します。』と主張する人が出てきたとしたら、どうでしょう。
多くの市民は、王族の支持を止めて、新たに現れた代表を支持するのではないでしょうか。 その状態でクーデターや革命を起こせば、王を引きずり落とす事が出来ます。

不具合を起こして変わる統治システム

こうして、貧しい市民たちから支持を受けたものが国の代表となって、国を統治するのが僭主制という制度なのですが、このシステムも長くは続きません。
というのも、貧しい人達に向かって甘い言葉を投げかけるのは簡単ですが、それを実行するのは大変だからです。
この代表が、最初から国を手に入れる為に、民衆を騙して甘い言葉を囁いていたにせよ、本当に貧困層の生活をなんとかしようと思っていたにせよ、いざ実行してみると、理想通りに行かないのが政治だったりします。

自分が権力を手に入れてしまうと、権力の保つ力に自分自身が支配されてしまって、暴君になってしまう人もいるでしょうし、市民と約束した事を実行しようとして、バラ撒きを行った結果、財政が破綻してしまう事もあるでしょう。
国が財政破綻しないように気をつければ、市民との約束を破らなければならない事も出てくるでしょう。
いずれにしても、市民と約束を交わす事で支持を得て、革命を成功させて僭王と成ったものが、市民との約束を破ってしまった場合、市民は裏切られたと感じてしまいます。

ただ、その様な状態であっても、市民たちの暮らしが王族が統治していた時よりも改善していれば、不満がありつつも従うのでしょうけれども、逆に生活が悪化した場合は、市民の怒りは収まりません。
暴動などが起こる場合もあるでしょうし、新たな代表を選んで、現政権を打倒しようと考えるものも出てくるでしょう。ただ、次の代表を選んでも、その人物が優秀な人物で、国を立て直してくれるとは限りません。

組織が傾くと優秀な人から去っていく

これは、今の企業などのケースで考えてみれば、分かりやすいのかもしれません。
例えば、会社の経営者が従業員から搾取する事で、大金を得ていて、一般社員との格差が広がったケースを考えてみましょう。
2018年には、日産自動車の日本の幹部が、フランス本社から来ていたゴーンさんに対してクーデターを起こすという出来事も有りましたが、『社長が好き勝手をしている! 自分たちが経営権を握れば、こんな事はなくなる!』
…と、この様な感じで世間や従業員に訴えて、警察に通報して代表を追い出したとしても、その結果として業績が下がってしまって、従業員の給料が下がったりなんかしてしまうと、従業員はついてこないですし、株主からも不満が出る事でしょう。

まぁ、上場企業の会社の場合は、経営トップの任命権は株主にある為に、民衆の支持によってトップが変わる可能性がある国の場合とは、事情が異なるので、あくまでも例として捉えてくださいね。
で、この様に、ゴタゴタが起こった場合に、優秀な人間が知恵を出し合って、事態を収拾して立て直してくれるのかというと、そんな事もなかったりします。
というのも、優秀な技術者・エンジニアや、仕事の割り振りを管理できる様な人間というのは、その会社だけでなく、その業界で名前が通っていたりします。

ライバル企業にとっては、この様な優秀な人達は喉から手が出る程、欲しいわけですから、その様な人材から打診があれば、喜んで受け入れるでしょうし、何なら、スカウトしに行くかもしれません。
優秀な人物は、場合によっては、元いた会社よりも高待遇で迎え入れられますから、余程、元いた会社や仲間に対して愛情がなければ、敢えて残って頑張るということはしないですよね。

この様な感じで、優秀な人間というのは引く手あまたなので、自分の乗ってる船が不安定だと感じれば、直ぐに、別の安定した船、つまりライバル会社に転職することが出来ます。
結果として、沈みかけの船…つまり不安定な会社に残っている人材というのは、他の場所に移れない人間か、余程、その場所に執着がある人間かという事になります。
この流れは、会社の経営が不安定になればなる程に加速していく事になります。

優秀な人材は個人で生き残る

国の場合も同じで、王政から僭主制に切り替わったり、僭主制の中でも最高権力者が頻繁に変わるような事が起こると、国は不安定になり、優秀な人間は国を出ていきます。
優秀な人間というのは、知恵を持っていたり弁が立ったり、人脈を持っていたりといった人間のことですね。 この様な人間は、国を運営していくのに欠かせない人間なので、どこの国でも求めています。
そんな人材が亡命してくれば、その人の為に生活に必要なものを提供しますし、能力によっては、国の要職を任せることも有りました。

例えば、ソクラテスの弟子に、アルキビアデスという人物がいます。
当時のギリシャ、特にアテナイでは、成人男性が少年と性的な関係を持つ少年愛というのが普通の事としてあって、成人男性は少年に対して知恵を授けて、少年はその見返りに体を差し出すという習慣があったそうなのですが…
アルキビアデスは、自身では無知だと言いながら、賢人と言われている人達を論破していくソクラテスの知恵に惹かれて、ソクラテスの寝室に忍び込んで裸でベットの中に入って誘惑するという様な、狡猾な少年です。

成人してからも、ことあるごとに自分の美貌を活かして目的を遂行するという人物で、人間関係も相当に広い様でした。
アルキビアデスは、哲学者から習った知恵や、幅広い人間関係を活かして政治家になるのですが、基本的に駄目な人なので、酒に酔っては粗相をします。 また、人脈の広げ方も褒められたものではなかったので、敵を多く作ってしまいます。
この様に、何かと問題のある人物なのですが…
アテナイとスパルタの間で起こったペロポネソス戦争の期間中に、ヘルメス像が破壊されるという事件が起こり、日頃の行いの悪さから、アルキビアデスに疑惑の目が向けられて容疑者にされるのですが、敵であるスパルタへの亡命に成功します。

そこで、アテナイの情報をスパルタに流してスパルタに勝利をもたらし、スパルタで顧問のような地位を手に入れるのですが、スパルタの王妃と性的関係を持った事でスパルタから狙われるようになり、今度はペルシャに亡命します。
その後、アテナイの政権が変わると、昔に作り上げた人脈を利用したのか、アテナイに帰国して、軍隊の指揮官になるんですね。
まぁ、最終的には暗殺されるわけですが、この様に、どう観ても問題ありありな人物であっても、優秀でさえあれば亡命が可能で、それなりの地位が確保されていたりするんですね。

これに加えて、国の運営というのは、皆が同じ方向を向いて協力しあって行われているわけでもなく、派閥などもあります。
これは、現在の状態を観てもそうなので理解しやすいと思いますが、クーデターなどで特定の派閥が政権をとってしまった場合は、それと敵対するポジションの人は、どの様な扱いになるか分かりません。最悪、殺されることもあります。
その様な状態で、『国の安定化の為には、自分の知能が必要だから、敢えて残ろう。』と思える人間は、少ないですよね。

また、派閥同士が拮抗していたりすると、覇権争いで更に混乱することになるわけですから、僭主制というのは長く続かないんです。
(つづく)

京都の飲み屋街は西に行くほど安くなる?!

今回は、京都の飲み屋街について書いていこうと思います。
私は他の地域に旅行に行って呑みに行くといった経験はあまりないので、他府県の呑み屋事情については良くわからないのですが、京都に関しては15年近く毎週のように飲みに行っていたこともあり、少しは知っているつもりです。
という事で、今回はそのあたりのことについて書いていきます。 注意として書いておきますと、今回取り扱うのは京都の飲み屋街として有名な河原町近辺だけですので、他の場所のことは書いておりません。

京都の呑み屋は西に行くほど安くなる?

今回のブログで紹介するエリアは、祇園から大宮までのエリアだけなのですが、この界隈だけでいうのであれば、西に行く程、安く呑める店が増えていく傾向にあります。どちらが東かというと、祇園が東で大宮が西にあります。
もちろん、各店の価格設定はその店で行われていて、地域から矯正されて決めているわけではないので、例外的な店もあります。
その為、全体としてみると、その様な傾向があるという程度で捉えていただくとありがたいです。

祇園エリア

河原町通界隈は電車だと京阪や阪急で来ることが出来て、その場合は四条河原町に到着します。
祇園エリアは、そこから四条通を東に向かうと到着することが出来ます。 東は、四条通の東の突き当たりにある八坂神社を目印にすると良いでしょう。
緑の山の中に赤い神社が目立つ形で建っているので、分かりやすいと思います。 エリアとしては、鴨川~東大路通の間のエリアとして捉えてもらうと良いです。

祇園エリアですが、四条通はお土産物屋が多く、一見すると飲み屋街などはないように思われますが、四条通から北や南に少し入ると、飲み屋発見できます。
北と南でどちらが店が多いかというと、北側。 四条通りを挟んで南側は呑み屋が点在しているという感じなので、目当ての店が有るというのでなければ、北側を散策すると良いと思います。
祇園の飲み屋街は、東西は川端通り~東大路通り。南北は三条~四条の少し北側といった感じです。

祇園エリアの四条通の北側に広がる飲み屋街に行くには、四条通を八坂神社の方向に向かって歩いていって、壹銭洋食という看板を見つけたら左方向(北側)に曲がると到達できます。
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その通りには、飲み屋街が三条手前ぐらいまであり、三条~四条までの間にある東西の通りに入っていっても、飲み屋街は続いています。
特に、石畳で舗装されている通りは観光名所にも成っていて、京都らしさが味わえるので、実際に店に入るつもりがない人も、散歩をすると楽しいかもしれません。
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この石畳のとおりにある店は、雰囲気的には一見では入れない様な佇まいをしていたりもします。 実際に、予約をとってないと入れない店も多いですし、結構なお値段を取る店もあったりします。
全てがその様な店というわけでは無く、探せばチャージ1000円ぐらいでビール一杯700円ぐらいの店もあったりするんですけれどもね。

石畳以外の店には、スナックやクラブが入ってるビルが建っていたり、所々に、黒い服を来たお兄さんが立っていたりもしています。
中には座っただけで5万取る店もあるようですので、入る際には注意をしましょう。
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とはいっても、バブル崩壊以降の経費削減によって会社の経費削減が行われて、サラリーマンの接待用の店は激減。
その為、土日の集客が見込めない祇園エリアから撤退する店も多く、空きテナントは増えすぎた結果、後に紹介する木屋町よりも家賃が下がる場所も出てきている為、維持費の安さから客単価の安い店も増え始めてたりはしますが。

先斗町

祇園から、八坂神社と反対方向の西に向かって進んでいくと四条大橋があり、そこを渡ってすぐの右側にある通りが先斗町
旅番組でもやたらと紹介されていますし、グルメ雑誌などで取り扱われている店も多いので、知っておられる方も多いでしょう。
しっかりとアンケートとか取ったわけではないので憶測ですが、この通りを夕方のご飯時分に歩いている人、そして店の客の大半は観光客だと思われます。
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メインの客層が観光客なので、京都っぽい内装にしている店も多く、観光した際に食事に行くなら、良い雰囲気が味わえると思います。
観光客目当ての商売をされている方が多い通りですが、では値段が高いのかというと、それほど高いわけでもありません。
1人5000円出せば食べて呑める店も比較的多いので、祇園に比べると入りやすいと思います。

この先斗町ですが、西と東側で客単価が若干違う傾向にあります。
というのも、先斗町の東側は川に面していて、春頃から秋にかけて『床』と呼ばれる、川の上に作るオープンテラス的な施設を作る店がほとんどで、風情が味わえる為かかなりの集客力があります。
その為、先斗町の西と東では家賃が3倍ほど違うと言われていて、東側はそもそも空き店舗が出ずに順番待ちが出来ている程の人気の立地。
家賃が3倍ということは、店の回転数を挙げるか客単価を上げる必要がある為、東側は少し高い傾向にあるようです。
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因みに先斗町がある通りは、四条通を挟んで南側にも飲食店が有ったりしますが、先斗町の南側のエリアは風俗街になっているので、カップルや家族連れの方は近寄らないほうが良いです。
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木屋町通

先斗町の西隣にある南北の通りです。 先斗町の隣の通りなので、所々にある東西の通りで行き来が可能だったりします。
先斗町木屋町をつなぐとおりで有名なのは『13番路地』。 まぁ、有名なのは通りだけで、そこにある店が特別というわけではないのですが。
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東隣にある先斗町が観光客目当ての飲食街だとすれば、木屋町通は地元民のために有るような飲食店といっても良いでしょう。
通りが1本違うだけなのに客の大半が京都の人間で、各店には常連客がいて、コミュニティーが出来上がっていたりします。

この木屋町通ですが、20年ほど前には乾杯する時はテキーラという習慣が有ったせいか、三条~四条間の300メートルぐらいしか無いエリアで、テキーラ売上日本一をはじき出したらしく、メキシコからオルメカの社長が御礼参りに来たという話があったりします。
それも、10年前ぐらいには廃れた感じで、今はテキーラ押しというわけではない感じですが。

この通りは、やたらとキャッチがうろついていたりしますが、その人達についていかずに適当に店に入っても、2~3000円程度で飲み食いできる店が多いです。
チャージが無い店も多く、ショットバーが多めなので、呑むだけなら1軒あたり2000円未満で済む場合も多いので、何件か回るのも面白いかもしれません。
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旅行などで訪れていて良い店を知らないという人は、バーテンダーに聴くと良いでしょう。
大抵のバーテンダーは、木屋町でバイトなどをして修行して金をためた後に、独立して自分の店を持つというスタイルで出店しているので、自分の同僚や師匠の店を紹介してくれるでしょう。
行った先で、◯◯さんに紹介してもらったといえば、少し対応が変わるかもしれません。

西木屋町

木屋町通は、道のすぐ西側に川が流れている為、西側には店がありません。
その川を渡って西側~河原町通りまでのエリアは、西木屋と呼ばれていて、木屋町通と少し雰囲気が違う感じになっています。
単価的には、木屋町とそれ程変わらないか、少し安い値段設定になっている印象です。
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割と個性が強めな店が多く、一人でカウンターで飲んでいると、知らない人から話しかけられる確率が高めです。
割とゴチャっとしているので、東京でいうとゴールデン街的な雰囲気が味わえる地域だと思います。
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ちなみにですが、祇園エリアから西木屋町までは歩いても10分かからなかったりします。
この辺りを隅々まで探索しても30分もかからなかったりするので、夜の散歩にも良いかもしれません。
狭い場所に密集しているというのが、京都の夜の街の魅力の一つだと思います
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大宮

祇園~西木屋町までが隣接した感じでつながっていたのに対し、大宮は結構離れた位置に有ったりします。
駅でいうと2駅分。 歩くと15~20分ぐらいはかかるでしょうか。

ここまで西に来ると、飲み屋街の雰囲気が全く違ったものになります。
先ほど紹介した3エリアは、客層がかぶっていたりもするのですが、大宮は離れすぎているので、大宮で飲む人は大宮で完結することが多いと思われます。
大宮には大宮の独特の空気感のようなものがあり、普段から大宮で呑んでいる人以外が立ち入りにくい空気感が漂っているように感じます。
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壁にタイルを張って溝を掘っただけのトイレが有ったりもしますし。。
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客単価は木屋町周辺よりも安い傾向にあり、食べて呑んで1000円台というのも珍しくありません。その為、安く呑みたい人達が集まってくる場でもあります。
店を経営している人に話を聴くと、普通の飲食店とは繁忙期が異なり、年金などのお金が支給された翌日に忙しくなったりするそうです。
来ているお客さんも、個性強めの方が結構いらっしゃる印象があります。

まとめ

という事で、祇園エリアから大宮までを紹介してきましたが、京都で夜遊びをするのであれば、個人的には木屋町近辺をお勧めしたいです。
他のエリアに行くのも簡単ですし、何より店が多い。
私が15年ほど一人で呑み歩いた中で、ボッタクリにあったという経験もありませんし、それ程心配せずに遊べると思います。

たまに喧嘩などが起こったりもしますが、木屋町の真ん中には24時間人がいる交番もありますし、定期的なパトロールもあったりするので、危険な目に遭う可能性も少ないと思います。
旅行者の方は、京都の違った一面も見れると思いますので、興味がれば是非、行ってみてください。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第51回 ソクラテスが生きた時代(1) 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

人類の文明発祥の地

この場所には、チグリス・ユーフラテス川や、エジプトのナイル川などが有り、定期的に川が反乱する事を活かして、かなり早い段階で農作物を育てるという文化が生まれるんです。
動物を追いかけて狩りをするとか、その辺に成っている木の実や果物をとって食べる狩猟採集生活の場合は、一箇所に定住しないので、人口も増えませんし、文化も生まれにくいんです。
何故、人口も増えないし文化も生まれないのかというと、わかりやすく極端な例で考えてみますと…

10人の部族と1000人からなる部族があった場合、10人分の食事を狩猟と採集で賄うのは、それほど難しいことではないでしょうが、1000人分の食料を確保するのは難しいですよね。
1000人の胃袋を満たす為に動物を狩り続けると、その一体の動物が絶滅してしまう可能性もありますし、移動しながら生活をする場合でも、取り尽くした獣が再び繁殖して狩りが可能になるまでには数年かかるでしょうから…
それを考慮すると、とてつもなく広大な範囲を移動し続けなければならない事になってしまいます。

どちらの方が有利で生き残りやすいのかというと、少数の方が有利ですし、常に動き続けるというハードな生活では、長生きする事も難しいですよね。
結果として、狩猟採集生活では少数で生活するということになるのですが、少数で生活すると、発明品というのも生まれにくいんです。
何故かというと、これは今現在の私達の生活を観ても同じなのですが、例えば、何か問題があった際に、それを解決できるようなものを発明しようとした場合、ピンポイントで狙いすましたように目的のものを作れることってのは、少ないんです。

大抵の場合は、研究が行き詰まったり、よくわからない失敗作が生まれたりするわけですが…
多くの場合は、その失敗経験や、それによって生まれた失敗作を他の人間が観た時に、その失敗を別のアイデアとして活かすことで、思ってもいなかったものが生み出されるんです。

例えば、この例は失敗作から新たなものが生まれたというのには当てはまらなんですけれども…
私は緑内障にかかっているのですが、その進行を止める薬には、毛が伸びるという副作用があります。 その為、目薬をさした後は顔を洗わなければ、まつ毛がどんどん伸びてしまうのですが、この副作用に注目すれば、毛生え薬が出来たりします。
この様な感じで、特定の問題を解消する為にアクションを起こした結果、思ってもみないモノが生み出されるわけですが、その活用方法は、生み出した本人には分からなかったりするのですが…
それを他の人が観た場合に、活用方法が分かったり、その失敗がヒントに成って、、全く別のものが生まれるというケースは、かなり多いんです。

この様に、アクションを起こして生み出したものが、他の人間のアイデアを刺激して、別のものを生み出すわけですから、発明を周りで見ている人が多ければ多い程、多くのものが生み出される可能性が高くなりますし、シナジー効果も高まります。
つまり、互いに刺激し合いやすくなるということですね。
文化というのは発明の連続なわけですから、文化を生み出して発展させる為には、限られた範囲内にできるだけ多くの人間が存在していることが重要になってきます。
先程も言いましたが、狩猟採集生活では、人口を増やすことが困難なので、文化も生まれにくいわけですが、農耕の発明によって、人間が一箇所に定住することが可能になるんです。

肥沃な三日月地帯

その、農耕が始まった一番最初の場所というのが、メソポタミアの『肥沃な三日月地帯』と呼ばれる場所だったんです。
今の地図での場所をもう一度いいますと、イラン・イラク・シリア・エジプトにまたがる地域で、アラビア半島を、上側が膨らんでいる三日月状の形をしたもので蓋をするようなイメージを思い浮かべてもらえれば良いです。
この地域は、先程も少し言いましたが、ナイル川チグリス・ユーフラテス川が定期的に反乱して、農作物の養分になるものを運んできてくれる為、農耕をするのに適した土地でした。

また、それだけではなく、人間の食べ物となる植物や利用しやすい動物が多かった事も、関係しているようです。
植物というのは、かなりの種類があるわけですが、人間は、それらを全て食料にする事は出来ませんよね。 例えば、牛が食べるような草を、人間が同じ様に食べられるのかというと、食べられません。
多くの植物が生えているような土地だったとしても、人間が食べられるような植物が多く生息していなければ、人はその土地に定着しようとは思わないのですが、この『肥沃な三日月地帯』には、かなりの種類の人間が食べられる植物が生息していたようです。

また、この地域は、地形も農耕をするのに有利に働いたようです。
南の方は砂漠地帯なのですが、北の方には山岳地帯が有り、標高が高くなっていく地形になっているようです。 標高が100メートル高くなると気温が1度下がるなんて言われていますが…
標高が徐々に高くなる事で、同じ様に種を撒いたとしても、標高の高いところほど収穫が遅く、刈り取り時期がズレていくらしいので、収穫できる期間が長くなる様なんですね。
収穫時期が短いと、その短い期間にピンポイントで台風などの災害が来たりして被害が出ると、食料が獲得できませんが、収穫時期が長くなると、それだけ、安定して食料が得られる様になる為、生活の安定性が増します。

その他には、生息している動物も関係していたようです。 例えば、馬や牛といった、今でも家畜として利用されている動物がいますけれども、あの動物は、他の動物で代用できるのかというと、そうでもないそうなんです。
例えば、乗り物として使える馬ですが、他の動物で代用できるのかというと、そうでもないようなんです。
馬に似た形をしている動物にシマウマがいますが、シマウマは馬の代わりにはならないようです。 というのもシマウマは、種としての特徴として、気性が荒いそうなんです。

馬の中にも気性の荒い個体はいますが、馬の中で気性が荒いものと、シマウマの中で比較的温和な性格のものを比べた場合、シマウマの方が気性が荒かったりするそうなんです。
その為、騎乗動物として扱えないようなんです。 牛も同じで、あの様な体格の動物なら、どんな動物でも、農作業の手伝いなどが出来るのか。
例えば、水牛やサイやカバのような動物でも、同じ様に農作業の手伝いをさせられるのかというと、そんな事は無いようです。
人間が利用しやすく、扱いやすい性格などの特性を備えている動物が沢山いるというのも、人間がその地域に定着しやすくする要因の一つのようです。

ここら辺の詳しい考察については、ジャレッド・ダイアモンドという方が書かれている『銃・病原菌・鉄』という本に書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。
今回は、人間の文明に地形や生態系がどの様に関係していたのかだけを取り出して話しましたが、この他にも、病原菌や鉄の発明がどの様な影響を与えたのかを考察されているので、勉強になりますし、面白いです。

話を戻すと、この様な感じで、人間が定着しやすい環境が整い過ぎていたのが『肥沃な三日月地帯』で、この土地ではシューメール文明や楔形文字などの多くの文化が生み出されましたし、また、この土地の覇権を狙った勢力同士の戦争が数多く繰り広げられました。
その最終的な覇者となったのが、当時のペルシャ帝国だったわけです。 
ギリシャの文化も、大本は、エジプトで生まれた面積の計算法や、イオニア地方で生まれた哲学が発展したものに過ぎないので、ペルシャ川から見れば、属国という扱いだたのかもしれません。
ペルシャは、力関係を再認識させる為に、ギリシャに対して何度も戦争を仕掛け、ギリシャはその侵攻に対して迎え撃つ事になります。

ギリシャも一枚岩ではない

これだけを聴くと、ギリシャは外敵、主にペルシャから頻繁に攻め込まれていて、ギリシャはその度に団結していたという印象を持たれる方も多いかもしれませんが… 実際には、そんな事もなかったようです。
というのも、ギリシャという地域は、それぞれの都市国家であるポリスが独自で自治をするという形式だったのですが、統治の仕方が、それぞれのポリスでかなり違ったんです。

その為、ギリシャ内で、ポリス同士の覇権争いからの戦争も起こっていたりもしたので、短い間隔で戦争が繰り広げられていたようです。
これからメインで話すことになるソクラテスも、議論好きの学者というイメージを持たれている方も多いかもしれませんが、3回程、戦争に行ってますし、皆が怯えて縮こまっている中で、堂々とした態度でシンガリを努めて無事に生還してきたという武勇伝を持っていたりもするんですが…
このあたりの事は、次回に話したいと思います。
(つづく)

死にゲーで有名なダークソウルを今更プレイしてみた ~DARK SOULS 2

先日のことですが、steam を立ち上げると、ダークソウルシリーズのセールが行われていたので、衝動的に、2と3を購入してみました。
私はダークソウルシリーズは未経験者なのですが、以前にPSplus加入者に向けて配布されたブラッドボーンが思いのほか面白く、死にゲーというのに少し興味を持ち始めていたんですよね。
そんなわけで、PS store でセールになるのを定期的に確認していたのですが…

根強い人気が有るソフトだからか、中々セールにならない。
そんな中、『セールが安い』事で有名なsteamでダークソウルシリーズの大幅割引セールが行われていたので、思わず購入してしまったというわけです。
年末にパソコンを購入した際に、steamポイントを1万ポイントほど貰って持て余していた状態でもありましたしね。
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それにしても、75%オフって凄いですね。
PSストアでも最大85%オフのセールが開催されることはありますが、人気の高い商品は30%オフが良いところ。
発売から何年も経つ海外のAAAとかだと、50%を超えるような大幅値引きもありますが、基本的には値下げがショボい中で、欲しい商品が75%オフは大変嬉しい。

2と3の本編とDLCを全部購入して4800円程度という事で、長期的にゲームをするならPC買うほうが良いという噂は、本当のようです。
特に私のように、1つの作品に集中するわけではなく、1度クリアーしたら次のゲームに興味が移るような人間は、尚更ですね。

簡単なゲーム説明

基本的には、主人公を後ろから見る感じの視点でのアクションゲームです。
無双ゲーの様に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、難易度が全く違います。 基本的に複数体に囲まれたら勝ち目が無い為、常に1対1の状況を作り出すように立ち回りをしなければなりません。

攻撃や回避などの全てのアクションでスタミナゲージを消費し、スタミナが切れれば何もできなくなります。 この状態でガードを固めていると、敵からの攻撃を受けた際に盾を吹き飛ばされて致命的なスキができてしまいます。
敵を倒すとソウルを得ますが、このソウルを一定数ためて拠点に持ち帰ると、ソウルを消費してレベルアップしたり、ソウルでアイテム購入をしたり武器の強化や修理をしたりする事が出来ます。
つまり、このゲームに置いてはソウルが全てなのですが、仮に道中で倒れてしまうと、このソウルを全て、その場に落としてゼロからやり直しとなります。

落としたソウルは、一度も倒れずに前に倒れた場所まで行くことが出来れば回収することが可能ですが、一度でも倒れてしまうと、そのソウルは消えて、今現在持っているソウルをその場に全て落とします。


はじめてのダークソウルシリーズ

フロム・ソフトウェアの死にゲーですが、先程も書き巻いたが、私はブラッドボーンをクリアー済です。
プレイヤースキル不足からか、DLCの攻略は途中で放置している状態ですが、本編の方は普通にクリアーしましたし、ラスボスも初見撃破出来た実力を持ってます。(クリアレベルは100近かったですが)
つまり、ダークソウルシリーズが始めただからといって、チュートリアルである前半部分で死にまくるはずがない!

そう思っていた時期が、私にもありました…

いざプレイしてみると、基本的な操作は同じなのですが、ブラッドボーンとは勝手が違い過ぎる。最大の違いは、盾の有無と回避行動です。
ブラッドボーンの場合は、敵をロックオンした場合は回避行動がステップに変わり、ステップ後に即座に攻撃することが可能です。
ステップやローリングなどの回避行動に必要なスタミナは少なく、連続で回避してもスタミナ不足に陥ることはありません。

何故、ここまで回避行動が行いやすいようになっているかというと、ブラッドボーンは基本的に紙装甲の服しか着れない上に、盾もない。
つまり、身を守るための手段が無いのです。 ですが、ブラッドボーンにはリゲインというシステムが有り、自分がダメージを食らっても一定時間の間に反撃をして返り値を浴びれば、体力が回復したりするのです。
その為、敵の攻撃をタイミングよく回避したり、相打ち覚悟で攻撃するといった責めの姿勢が求められるゲームです。

一方でダークソウルはというと、服・軽装鎧・重装鎧と装備自体が分かれています。
それぞれに装備重量があり、自分の体力によって、装備できる防具の重量が変わります。 装備可能重量の70%を超えてしまうと、ローリング性能が極端に落ちてしまう為に、それ以下の重量の装備を使うか、体力を増やす必要性が出てきます。
基本的には、思い装備の方が防御面で優れている場合が多く、重装でガチガチに固めれば、かなりのダメージをカットすることが可能です。
また、重量の高い武器は強靭さも備えており、強靭さが高くなると攻撃を食らった際に怯みにくくなり、攻撃を受けながらローリングで距離を稼ぐといった事も可能になります。

身に着ける防具だけではなく、盾にも小盾・中盾・大盾があり、大きくなれば大きくなるほど、強烈な攻撃を防御できるようになります。
つまり、体力に振ってガチガチに固めれば、攻撃を食らっても死ににくくなるというわけです。

一方で軽装はというと、防御面では紙に過ぎないわけですが、その分身軽なので、低体力でもローリングモーションに支障が出ない。大掛かりな金属鎧ではない為、歩いても音が出ない為、後ろからこっそり近づいて攻撃なんてことも出来てしまう。
小盾はというと、防御カット率が低く防御面では頼りがないですが、パリィ性能が良く、敵のスキを生み出しやすいという特徴があります。

どちらが良いかは人それぞれで、装備に必要な文だけ体力を伸ばしていくという自由度が有るのが、ダークソウルだったりします。

この様に、防御面の配慮がされている為か、ダークソウルでは回避行動に必要なスタミナ量がかなり多い印象です。
4回ぐらい連続でローリングをすればスタミナが切れてしまう。 また、盾での防御にもスタミナを消費する上、盾を構えている間はスタミナがほとんど回復しないという仕様なので、盾を構え続けて様子を見るということも出来ない。
ブラッドボーン以上に、スタミナ管理に気をつけなければならないシステムになっていたりします。

微妙な差と思われるかもしれませんが、この僅かな差によって、最初の間は死にまくるという状態になっていました。

作品の雰囲気

ブラッドボーンが、最初のステージを除くと暗い場所ばかりなのに対し、ダークソウルは拠点となるマドゥーラの夕焼けがきれいで良い感じ。
マドゥーラ以外にも太陽を拝める場所が結構あり、そこに所々に残されている他のユーザーのメッセージを読むと『太陽バンザイ!』と書かれていたりと、みんな陽の光が好きな様子。
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ブラッドボーンがクトゥルフ神話をモチーフにしているのに対し、こちらは北欧神話が元になってるようですが、何方も共通しているのが、廃墟で気持ち悪いはずなのに、どことなく見とれてしまう風景を作り出しているところでしょうか。
これは敵も同じで、出てくる敵はゾンビ的なものなのですが、どことなく造形美が感じられたりして、それ程、嫌悪感を抱かないデザインになっているのが、個人的には好みです。
初見殺しが結構多く、突っ込むとやられてしまう可能性が高い為、最初は恐る恐る進んでいかないといけないという所も、共通している点ですね。

ただ、ストーリーが全くわからない為に、雰囲気ゲーになっている感じも否めませんが。
雰囲気だけで、ここまで面白いものが作れるというのは、それはそれで凄い事だとも思いますけれども。
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やってみた感想

感想を簡単にいうと、面白かったです。
私は対人戦は好みではなかったので、常にオフラインでやってましたが(このゲームは基本、1人用だが、他人のマップに入り込んで他のプレイヤーと戦ったり、助けたりする事が出来る)、オンライン要素を抜きにしても十分に楽しむことが出来ました。

難易度も、本編は丁度よいぐらいではなかったでしょうか。
私も死にまくりはしましたが、なんだかんだで挫折すること無くクリアーは出来ましたし、本編のエンディングまでの作りは、一般人を意識した感じで作られている印象でした。

ただ、これがDLCになると話が変わってきます。
これはブラッドボーンでも同じなのですが、DLCの難易度は狂ってるレベルで難しい・・・

1体1でも辛いボス戦なのに、ボスが増援を召喚してきて多体1を強制されたりと、かなり辛い。
レベルを上げたり武器を変えたり、立ち回りを考えたりといった感じで挑戦するという楽しみ方を提供しているのでしょうが、それでも難しすぎる印象を抱きました。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第51回 ソクラテスが生きた時代(1) 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

古代ギリシャとは

前回までで、ソクラテスが何故、物事の根本的な事を探り、解明しようとしたのかを、簡単に紹介していきました。
ただ、前回の説明では、ソクラテスが生きていた時代や環境の説明などをしていないので、分かりにくかったかもしれません。
ということで今回は、前回の補足ということで、古代ギリシャが当時、どの様な状態だったのかも踏まえた形で、ソクラテスがどの様な考えに至ったのかを話していこうと思います。

古代ギリシャは、ポリスと呼ばれる都市国家に分かれていて、それぞれのポリスが領土を治めるという形で存在していました。
想像しやすいように他のものに例えると、ヨーロッパや戦国時代の日本のような感じでしょうかね。 歴史に詳しい方にとっては、例えが乱暴に思えるかもしれませんけれども…
この説明にツッコミを入れれるような方には細かい説明は必要がないと想うので、そのような方は聞き流してください。 歴史に詳しくない方については、そのようなものだという理解で良いと思います。

ヨーロッパは、ヨーロッパという国があるわけではなく、その地域の中に多くの国が入っていて、それぞれの国が自治をしていますよね。
日本の戦国時代は、日本という一つの国を、地域ごとに、それを治める武将がいて、自治を行っていましたよね。

その様な感じで古代ギリシャも、ギリシャの中に多くのポリスが存在し、自治を行っていました。
有名なポリスを上げると、アレクサンダー大王マケドニアとか、アテナイやスパルタ等ですね。
当時のギリシャは、東にある大国のペルシャ、今で言うイランから攻め込まれて、大きな戦争が何度も起こっていました。

ギリシャペルシャの関係

有名な戦争を挙げると、まず、マラトンの戦い。
この戦いは、ギリシャバルカン半島の東の対岸、今の国で言うトルコに当たる場所に、イオニア。以前に、イオニア自然学の話をしたと思いますが、そのイオニアですね。その地域のギリシャ人植民市がペルシャの支配に不満を持って、反乱を起こすんです。
この鎮圧をするために、ダレイオス1世が兵を出すんですが、そこにギリシャのポリスの1つ、アテナイが介入した事で、鎮圧軍を遠征させてギリシャにまで進軍させます。これを、アテナイが主導する形で迎え撃ち、見事に迎撃に成功する戦いです。
この戦いに勝った際に、現場の情報をアテナイにいる上層部に伝える為に、使者が休みなく走って情報を伝えて息絶えたという事が有り、その使者が走った距離が42.195キロだったから、マラソンという競技が生まれたなんて話もありますよね。

ただ、このペルシャの進行というのは、この撃退で終わることはなく、ダレイオス1世の息子のクルセクルスが、再び軍隊を組織して攻めてきます。
ですが、この時は、ギリシャは丁度、お祭りであるオリンピックの開催時期と重なっていて、神々に捧げる祭りをとり行っている時に、争い事はしてはいけないという決まりから、軍隊を出すことが出来ません。
しかしペルシャ側には、そんな事情は関係がありません。 ギリシャのスパルタに向かって進行していき、当時のスパルタの王であるレオニダスは、迎え撃つ為の軍隊を出す許可を、神の言葉を聞く神託官。エフォロイという職業の人たちに対して求めます。

当時の古代ギリシャは、オリュンポスの神々が人間よりも上の存在としていて、その神々の言葉を聞くエフォロイ抜きで、王が独断で決定を下す事は出来なかったようなんです。
しかし、いくら神々が重要で、その言葉を聞くエフォロイの言葉が重いとはいっても、現実問題として、ペルシャの侵略軍は進行してきているので、なんとかしなければ、民を守ることが出来ません。
そこで、レオニダス王は、選りすぐりの戦士300人だけを連れて、片一方が崖で、反対側が絶壁の山になっている一本道で待ち伏せするという戦略に出ます。

これが、『テルモピュライの戦い』と呼ばれる戦争で、スリーハンドレッドというタイトルで映画化もされていたりします。
この様な感じで、当時のギリシャは大国のペルシャから攻め込まれるという事が4回ぐらいあったんです。

ペルシャは何故 攻めてくるのか

何故、ペルシャが進行してきたのかはわからないのですが、私の勝手な思い込みとしましては、古代では国を成立させる上で、戦争というのが重要な役割を負っていたからかもしれません。
もう一度いっておきますが、今から話す事は私の妄想を多量に含んでいるので、鵜呑みにしないようにしてくださいね。 気になったら、自分で調べてみてください。

ペルシャに限らず、複数の部族が密集していて文化を作っているところでは、覇権争いから戦争が絶えない事が多いです。
そして、戦争によって相手を打ち負かした場合は、その国の人間を奴隷にして、生活するのに必要な労働を任せていく。 この行為を続けていくと、経済を拡大させる奴隷が必要になり、奴隷を獲得するために戦争が必要になります。
ペルシャという帝国は、古代の世界で最も重要とされた地域の覇権争いを勝ち残った帝国で、この地域を統一した後も、戦争によるサイクルを止める事が出来なかった為、外側の世界を目指したのかもしれません。

その他には、ユーラシア大陸の西側は、元はペルシャ帝国があった場所から文明が始まったので、その周辺国は、元々は自分たちの支配下にあった者達が、外側にいって開拓しただけなので、間接的には自分たちが支配者だという思いもあったのかもしれないです。
くどいようですが、この辺りは憶測で喋ってるだけですので、興味のある方はご自身で調べてみてくださいね。
先程の説明で、『古代の世界で最も重要な地域』とか『外側の世界』といった言葉を、説明なしに唐突に出した為に、混乱されている方もいらっしゃるかもしれませんので、本題からは外れますが、この部分についてもう少し詳しく話していきます。

ミトコンドリア・イブ

人類の最初期から振り返ってみると、人類のルーツを探るために、細胞の中にあるミトコンドリアのルーツを辿っていくと、アフリカの女性に行き着くという話がありますよね。
この女性の事を、聖書になぞらえてミトコンドリア・イブなんて言ったりするそうですが、アフリカで生まれた人類の祖先が、アラビア半島を経由して世界全土に広がったという説があります。
人類は、最初は全員アフリカ人だった為、当然ですが、みんな黒人でしたので、太陽光の強い地域でしか暮らせなかったそうです。

というのも、人間は太陽光を浴びる事でビタミンDを作るわけですが、紫外線が強すぎると、細胞が破壊されたり火傷を負ってしまったりする。 だから、紫外線から身を守るために、色素を出してバリアを張っているのですが…
太陽光の強い、赤道近辺であれば、皮膚のバリアとビタミンの製造のバランスが取れて丁度良いのですが、北の方に行き過ぎると太陽光が弱くなる為に、ビタミンが作れなくなって暮らせなくなるそうなんですね。

ただ、生物はアルビノの様に、色素を持たない突然変異体や、色素が薄い個体が一定の確率で生まれてきます。
色素が濃い黒人の場合は、皮膚の表面で太陽光を吸収してしまう為にビタミンを作る事が出来ない為、安定して暮らすことが出来ないのですが、色素が薄い人間は、皮膚で紫外線を吸収しない為に、弱い太陽光の元でも暮らすことが出来る。
逆に、紫外線を防ぐための皮膚のバリアがなかったり薄かったりするわけですから、太陽光線が強い場所では、火傷などを負ってしまう為に暮らしにくかったりするんですね。
こうして生まれた、色素の薄い黄色人種や白人が、より北上して太陽光が弱い地域で住むようになったという話があります。

この仮設については、『迷惑な進化』というタイトルの本で詳しく語られていたりもするので、興味のある方は読んでみてください。

この様な感じで、人類はアフリカから生まれて全世界に散らばっていくわけですが、この際に、アラビア半島を経由して広がっていくんですね。
そして、アラビア半島の北の部分には何があるのかというと、『肥沃な三日月地帯』と呼ばれる地域があるんです。
この地域は、今の地図でいうと、イラン・イラク・シリア・エジプトがある場所に広がっていた地域で、アラビア半島に蓋をするような感じで横たわっている地域です。
(つづく)
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頻繁にゲームをするならゲーミングPCがお得かも?

私は最近、ゲームも出来るスペックのPCを購入したのですが、こうした環境を整えて初めて気がついた事があります。
それは、ゲームを趣味として長期的に行うのであれば、据え置き機よりもPCの方が良いのではないか? という事です。

私が購入したPCについては、過去にブログを投稿していますので、興味のある方はそちらをお読みください。
kimniy8.hatenablog.com

購入したPCの簡単なスペックとしては、こんな感じです。
CPU     Core i7-9700K
メモリ     16GB DDR4 SDRAM
グラフィックス GeForce RTX2080 8GB

最新のAAA作品でもストレス無く動くスペックで、これを書いている2019年3月の時点では、それなりのハイスペックのPCを購入しました。
購入理由はいろいろとありまして、ゲームの為だけに購入したわけではなかったのですが、ゲームをするのも目的の一つとなっていましたので、早速、PCゲーム販売で有名なsteamにアカウントをつくって、ゲームを購入してみました。

PCを購入したのが年末付近で、データ移行などいろいろとありましたので、落ち着いたのは1月ぐらい。
その時期には、丁度セールをやっていたので覗いてみると…

据え置き機のゲームと比べて安すぎる…

日本では、高スペックの据え置き機といえばPS一択の状態で、PSストアでも普通に『最大85%オフ!』みたいな派手な見出しをつけてセールをやっているのですが、85%まで下がっているのは、大抵が元々1000~2000円ぐらいで販売されているインディーズ作品だったりします
AAAのビッグタイトルは、10~20%引きが良いところ。
20%引きなら、パッケージ品をアマゾンで買えば21%引きで買える為、実質的にセールじゃないといっても過言じゃない。

パッケージの場合は、発売日に21%で買える上、数週間でクリアーして売りにいけば、人気作だと定価の40~50%で売却できる為、割引という点でいえば凄い率になったりします。
というか、データだけで、流通などに金がかかってなさそうなダウンロード版が定価に近い価格で長い間販売されていて、パッケージ品を回転させると実質3000円ぐらいでプレイできてしまうという現状は、何処か、システムに歪みを感じますけれども…

話が反れましたので軌道修正しますと、PSストアでの販売というのは、基本的には割引率は高くないというのが現状です。

それに比べてsteamのセールは、ハッキリ言ってヤバイです。

私が大好きなシリーズに、アサシンクリードというゲームが有るのですが、その最新作が、2018年の10月5日に発売されました。
それから約3ヶ月後の年末年始セールで、50%オフで販売されていました…

50%って、半額ですよ! 発売3ヶ月で半額ですよ! 厳密に言えば3ヶ月経たずに半額です!
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PSStoreなら、何年も立たないとこの価格にはらないでしょうし、仮に発売後すぐに大幅割引になるようなゲームは、相当売れていないハズレ作品の場合が多い。
しかし、アサクリシリーズといえば、発売後1年経ってても中古の買取価格が4000円とかの人気タイトル。
これが発売後80日程度で半額になるって、凄い事です。

アサクリ オリジンは、私は既にクリア済だった為、他のヴァージョンがどの様な割引率になっていたかはわかりませんが、仮に、DLC全部込のゴールドエディションが半額になっていたら、DLC価格も実質半額という事で、かなり大胆なセールといえるでしょう。

この大胆なセールは、steamに限ったことではなく、他のサイトでも行われたりします。
例えば、先程紹介したアサシンクリードシリーズをつくっているUBIソフトですが、公式サイトでは、今もセールが行われていたりします。
store.ubi.com

アサクリの最新作のオデッセイは、全てのバージョンが50%オフで販売されていましたが、その1年前に発売したオリジンの方は、既に70%オフとなっています。
DLC全部込みで3500円なので、Amazonで新品を21%オフで購入し、それを数週間でクリアーして速攻で売りに行った差額の値段よりも安い値段で、全部入りが購入できます。
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購入して速攻でクリアーして売却のパターンだと、ソフトが手元に残らない為、実質的には購入しているというよりも数週間のレンタルといえるわけですが、その収集感のレンタル費よりも安い値段で購入できてしまうって、凄い事ですよね。
この作品はオープンワールドで、紀元前90年代のエジプトをリアルに再現しているわけですが、手元に残すことで、いつでも古代エジプトの旅が出来たりします。

『1年前の作品だから、安いんでしょ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、AmazonでPCのパッケージ版の値段を観てみると、これを書いている時点で10800円で販売されています
それが、3500円ですよ。。

月額料金がかからない

PCゲームの場合、販売価格の時点で据え置き機と比べ物にならないぐらい安いのですが、もう一つ、据え置き機と大きな違いを書いておくと、月額料金がかからないという点です。
プレイステーションも3の時はオンラインサービスは無料でしたが、4になった段階で、オンラインサービスにお金がかかるようになりました。
この為、オンラインサービスが必須のゲームは、ゲーム価格に上乗せして、サブスクリプションする為の料金が上乗せされることになります。

プレイステーションの場合はPS plus への加入が必須で、1年で5000円程度が必要になります。

この流れは任天堂のSwitchなどにも派生して、今やゲーム専用機を購入してオンラインゲームをするだけで、毎月定額でお金がかかる時代になりました。
これらのサービスが始まった当初は、『今まで無料だたのに、何故、お金がかかるの?』という不満も出ていましたが、『サーバーメンテナンスに人手がかかるのに、無料で提供しろって、頭大丈夫ですか?』的な反論が多数出てきて、今では当然の事として受け入れられていますが…

PCでは、オンラインサービスは無料です。

FF14とかDQ10の様にソフト側で課金が必要なものもありますが、オンライン接続料のような形で徴収されることはありません。
つまり、年額で5000円程度は確実に節約することが出来るということです。

据え置き機に価値はないのか?

このようなことを書くと、ps+ や任天堂のオンラインプランに加入すると、フリープレイのゲームが貰えるし!
という反論も有ると思いますが、オンライン接続無料のPCでも、無料でゲームは貰えます。
steamでも貰えますし、Amazonプライム会員なら、Twitchプライムにも無料で加入できるので、そこで月に数本のゲームが貰えますし、Epic Game Storeに登録すれば、2週間毎に1本Gameが貰えます。

では、据え置き機を買うメリットは全く無いのかといえば、そんな事はなく、据え置き機を出しているメーカーが出している独占タイトルをプレイしたい場合は、据え置き機を買うしかありません。
PlayStationであればソニーが、Switchであれば任天堂が出しているゲームは、おそらくPC版は出ないでしょうから、これらがやりたい場合には、据え置き機は必須です。
ちなみにxboxの場合は、windowsを提供してるのが同じMicrosoftである為、PCでプレイできます。

まとめると、サードパーティが出しているマルチ展開をしているゲームだけをプレイしたいのであれば、長い目で見れば、PCを購入した方が良いかもしれません。
初期費用は高いですが、ソフトやオンライン接続料がかからない為、年間に買うゲームの本数が多い人程、特をする可能性があります。
また、ハイスペックなPCを買えば、ソフトが持っている能力を限界まで引き出せますので、現行の据え置き機やこれから出る次世代機以上のクオリティーでゲームが出来たりします。

ただ、ハード提供メーカーが出すような独占タイトルは出来ないという感じでしょうか。

サードパーティ製で独占タイトルというのは、EAという会社がマルチ展開した方が稼げることを証明してしまったようなので、今後は余程のことがない限り、出ないと思います。
独占タイトルに興味が無い方は、思い切ってPCをハイスペックなものにしてみるというのも、良いのではないでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第50回 『哲学の起こり』 絶対的な基準 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

何も知らない賢人

自分が賢いと思いこんでいた人達は、幸福とは何か、善とは何なのかという根本的なことに答える事ができません。
人の行動の起点になるのは、何を『善』と考えるのか、どの様な状態を『幸せ』だと捉えるのかという事ですが、多くの賢人と呼ばれた人が、『善』や『幸福』とはどの様な状態の事かというのを知りませんでした。
行動や、向かうべき未来に対しての、基準となるものが答えられないという事は、その人の主張そのものが、論理的ではないということを意味します。

多くの賢人と呼ばれた人達は、自分自身の無知を暴かれたことで、自分自身に失望するのではなく、それを暴いたソクラテスに敵意を持ち、憎むようになっていきます。
結果として、ソクラテスは多くの敵を作ってしまい、最終的には罪をでっち上げられて、裁判を起こされてしまうことになります。
裁判がどのように行われてのかについては、また、別の機会に取り扱う予定ですが… 『ソクラテスの弁明』という本で詳しく書かれているので、興味が有る方は、読んでみてください。
比較的読みやすく書かれていますし、この作品については同名のタイトルで漫画化されていたりもします。 この漫画も、1冊で完結する形で書かれているので、興味のある方は読んでみる事をオススメします。

話を戻すと、では何故、ソクラテスが疑問に感じた、根本的な疑問について尋ねられた時に、賢人と呼ばれた方々は、答えられなかったのでしょうか。
それは、先程も少し言いましたが、ソクラテスが疑問に持ち、この、根本的な理由について探求するまでは、誰も、根本的な理由について考えなかったからなんです。
というよりも、考えようという発想がなかったというべきなんでしょうかね…

知らないものを知った気になる人達

ソクラテスの時代に限らず、現代でもそうですが、多くの人々は、当たり前のように『常識』といった言葉を使いますが、そもそも、常識とは何なんでしょうか。
常識という言葉を深く考えて、自分なりの答えを見つけ出した上で、それでも『常識』という言葉を使っている人が、どれだけいるでしょうか。
『常識』というのは、自分の中にある『常識』しか認識することは出来ないので、これから先にも多々出てくる相対主義ではないですが…
それこそ、生きている人間の数だけ、常識というものが存在する為、言葉の意味を正しく理解している人間であればある程、この言葉は使いません。

しかし、多くの人が『常識』という言葉を口にするということは、確かめたわけでもないのに、この世には人々が持つ共通認識が有ると思いこんでいて、自分は、その常識を知った気になっているからです。
だから、自分の中にある価値観に反した動きを相手がすると、その行動に対して腹を立てて、『常識がないのか!』と怒鳴りつけたりします。
ですが、繰り返しになりますが、その常識という言葉を口にした人間は、その事柄が常識である事を、どの様にして知ったのでしょうか。確かめるために、統計でもとったのでしょうか。

もしかすると、自分が『常識』だと思い込んでいるだけで、自分の方が少数派かもしれない可能性が有るのに、それを確かめることすらせずに、『常識』という言葉を使ってしまう。
そして、この言葉の意味を考えた事がない人間ほど、この言葉を多用してしまう。
これと同じで、ソクラテス以前の人達というのは、『善』であるとか『勇気』であるとか『美しい 美』といった概念を、考えるまでもなく、説明するまでもなく知っていると思い込んで使用していたようです。
『善い』といった、誰でも知っていると思われている様な概念に対して、それ以上の説明を求められる事もなかったですから、考える必要もありませんでした。

みんなが、自分自身の中の価値観として持っている『善』であるとか『美』といった価値観を、人類の共通認識だと信じ込んでいれば、それだけで良かったんです。
そういった、人間の内側にある価値観は、議論するまでもなく分かっているものとして片付けて、人間の外側にある、世界や宇宙といったものを探求したり…
その他には、単純に議論に勝つ方法や、言いくるめる方法といったテクニックの開発。そして、そのテクニックを使う為の知識を身につける方法などが持て囃されていました。

対話と論争と詭弁

古代ギリシャには、ソフィストと呼ばれる、魂を磨く方法である『徳』を教えるという職業がありましたが、このソフィストには、そういったプラスの意味合いだけでなく、『詭弁家』といった悪い意味合いも含んでいました。
詭弁家というのは、分かりやすくいうと、こちらが質問をして、その質問に対して、相手がどの様な答えを行ったとしても、それを否定してマウントを取る方法のことです。
相手の意見を否定して、自分が有利な立場に立ち、その上で、テクニックによって、相手を説き伏せるという手法を、金銭をもらって人に教える人達のことです。

例えばですが、少し前に、ネットのコンテンツで、ペットとして飼うなら、犬が良いのか、それとも、犬に寄生しているような『ダニ』が良いのかといった事を、芸人の方と、弁論大会で上位入賞経験がある人とで討論するというのがありました。
芸人方が、ペットにするなら『犬』だと主張し、弁論大会経験者が、ペットにするなら『ダニ』だという主張で、討論をするという企画でした。
どの様な討論が行われたのかというのは、検索してもらえば出てきますし、興味の有る方は観てもらいたいのですが、結果から言えば、ダニ派の主張が勝ちました。

ここで使われるようなテクニックというのが、詭弁のテクニックです。 そして、詭弁の根底にある思想が、相対主義です。

例えば、『勉強をしようと思う人間は、賢い人間なのか、それとも無知なのか。』という問いは、相手がどのように答えようが、否定することが出来ます。
相手が、賢い人間だと答えたとしたら、『既に賢い人間というのは、知恵を身に着けている者のことをいうのです。しかし、勉強しようと思う人間は、知識が無いから、勉強をして知識を身に着けようとしているので、無知である。』と答えます。
逆に、相手が無知だと答えたとしたら『学校の先生が授業をしている時に、その授業から多くのことを身に着けようとする人間は、そうでない人間に比べて賢いのではないですか?』と返します。

どちらを答えたとしても、相手の主張を否定した上で、マウントを取ることが出来ます。
何故、この様な事が可能なのかというと、知識が有るという状態と無知の状態を、固定するのではなく、相対的に捉えているからです。

相対主義と絶対主義

例えば、38度の気温は暑いと思いますが、38度のお風呂はヌルいと感じます。

これは、温度を相対化しているから、同じ温度に対して2つの意見が出てくるわけですが、これを、善悪のような基準にも当てはめてしまったとしたら、どうでしょう。
育ってきた環境や文化によって考え方は変わるというふうにして、善悪の基準を、それぞれの人間の主観にゆだねてしまったとしたら、善悪の基準は、人口が70億人いれば70億通り存在することになります。
その様な環境で、『悪いことは止めましょう』と言っても、『悪い』という価値観に対する捉え方が70億通り有るわけですから、それは、何も主張していないことを意味します。

この様な相対主義に対抗する形で、ソクラテスは、『絶対主義』を掲げて、人々が持つ絶対的な価値観を解明しよう挑戦していきます。
ソクラテスが、徳というものについて、どのように考えて、解き明かそうとしたのか。 それは、次回以降で紹介していこうと思います。
(つづく)
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