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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その4 『技術と迎合』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com

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技術と迎合

ソクラテスは事前に、勝つことが目的ではなく、真実を見つけ出す為の対話をしようと確認していたのにも関わらず、ゴルギアスが窮地に立たされると、弟子のポロスが怒りに任せて乱入してくる。
この行動に対してソクラテスは、事前に定めたルールであるソクラテス問答法に従うのであれあ、ポロスも議論に加われば良いと対話に誘い、これに同意したポロスは参加する。

ソクラテスは今まで散々、『弁論術とはなんですか』という質問をゴルギアスに対して続け、返答を得ても納得しなかった為、ポロスは、ソクラテスが考える弁論術とはどの様な技術かを聞き出そうとする。
しかしソクラテスは『弁論術とは技術ではない』と意外な答えを出す。 では、技術で無いなら何なのかというと、一種の経験で、迎合を作り出すものだと主張する。

技術と迎合の違い

経験であり、迎合を作り出すものとは何なのか。 ソクラテスによると、料理のようなものらしい。
料理が技術ではなく迎合だという主張を聴くと、もしかすると、料理を作ることを生業とされている方は気に障るかもしれない。

料理は、包丁などの様々な料理器具を使う技術であったり、食材をどの様に加工すれば良いかという知識が必要なので、料理は技術だと主張される方も少なからずいらっしゃるだろう。
では何故、ソクラテスは料理のことを技術ではなく、経験であり迎合だと主張したのだろうか。

ソクラテスにとっての技術というのは、対象のことを知り尽くし、決まった道筋を通って答えを導き出すもの。例えば、技術にどの様なものが含まれるのかというと、医術や建築技術などがそれに当たることになる。
例えば医術の場合は、人間の体というのを熟知して、身体の状態に合わせた処置の方法は決まっている。 風を引いた際の対処法や怪我をした際の治療法は、人それぞれに法則があるわけではない。
同じ様に医学の知識を持つ医者が10人いたとして、1人の患者を診た際の対処法は1つしか無い。

建築技術もこれと同じで、構造物を作る為には一定の法則に沿って作らなければならない。
どれだけ奇抜な建物に住みたいからといって、重力や材質の強度を無視した形で建築は行えない。 それを無視して作ったとしても、その建物は崩壊してしまうだろう
顧客の要望を組み込んだ形で図面を引くことは出来るが、それでも、建築的に譲れない部分は絶対に出てくるので、その法則を一番に優先しなければならない。

つまり、医者にしても建築にしても、顧客の要望を聴くことは出来るが、絶対に譲れない部分というのが存在する。
そして、絶対に譲れない部分を見つける為には、医者の場合は人体、建築の場合は材料や建築物などの知識が不可欠で、その知識を前提に技術が磨かれることになる。

快楽のみを追求する迎合

その一方で料理はどうだろうか。 確かに、料理も食材や調理道具に対する知識も技術も必要だが、完成する料理に一貫性はない。
例えば家で料理を作る場合、最も優先するのは食べる人間の好みであり、料理に絶対に守らなければならない原則というのは存在しない。
うどんを茹ですぎると伸びるが、では、伸びた『うどん』は万人が嫌いかと言えばそうではなく、伸びたぐらいが好みだという人間も存在する。

伸びた『うどん』が好みだと主張する人に対して『うどん』を作る場合、固めに茹でるか伸びるまで茹でるかは、食べる人に左右される。
味付けにしても同じで、塩をかけすぎるのは間違いとは一概にいえない。 多くの人にとっては塩をかけすぎた料理は失敗作だが、塩っ辛い者が大好きな人にとっては、塩をかけすぎるのは正解となる。
唐辛子も同じで、辛いのが苦手な人にとっては不必要なものだが、辛いのが大好きな人は、どんな料理にも唐辛子をかける。

料理というのは、食べる人間の好みによって正解が変わる為、美味しい料理を作ろうと思う場合は、相手の好みに合わせて作る必要がある。
ということは、一番重要視するのは相手の好みということになる為、料理は食べる人に忖度して迎合して作らなければならない。

これが、先ほど技術として挙げた医者の場合はどうだろうか。 風をひいいた人間に薬を処方しなければならないが、患者は苦い薬を飲むのを嫌がるなと分かったとしても、この行動は変わらない。
建築にしても、客が柱を取れという要望を出したとしても、構造的に無理であれば、その要望は叶えられない。
しかし料理の場合は違う。 客が塩を多めにしてといえば多めにするし、焼き加減を変えろといわれればその様に変える。

ソクラテスは、この料理法のようなものを技術とは呼ばずに一種の経験であり迎合だと主張する。 そして弁論術も、この迎合にあたり、立派なものなどではなく醜いものだと一刀両断する。
では何故、迎合は立派なものではなく醜いものなのか。 先に答えを書いてしまうと、技術は善に向かうためのモノだが、迎合は快楽に向かう為のものだから。
これだけでは抽象的すぎるので、具体例を書いていく。

役に立つ技術に偽装する迎合

まず、人間は大きく分けると2つの部分の分けられる。『精神(魂)』と『肉体』。 そしてこの2つには、良い状態と悪い状態が有る。
魂における悪い状態とは、精神的に追い詰められている状態で、精神病や鬱の状態と考えて良いかもしれない。 肉体における悪とは、怪我や病気がそれに当たる。良い状態とは、その逆と考えてよいだろう。
また身体や魂は善悪だけではなく、実際には悪い状態だけれども良い状態だと錯覚している状態が存在する。 これは、実際には怪我や病気に侵されている状態だけれども、本人がそれに気が付かず、元気だと思いこんでいる状態のこと。
(連日のトレーニングで膝を壊したとしても、無視してランニングを続けて体が温まってくると、治ったような錯覚に陥る。)

そして、『魂』と『身体』は、それぞれ『技術』と『迎合』の2種類に分けられる。
魂における技術とは政治術の事であり、身体についての技術とは、体のメンテナンスを行う技術の事。
魂の技術である政治術は更に『司法』と『立法』、身体の技術は『医者』と『トレーニングコーチ』のそれぞれ2つに分けられる。

そして迎合とは、自分自身は技術ではないのに、それぞれの技術に偽装することで、まるで自分自身も技術であるかのように振る舞っている存在といえるもの。
その為、注意深く観察していないと技術と勘違いしてしまうものだけれど、実際には技術ではなく、迎合でしか無い。
見分ける方法としては、最終的な目的を観ると分かりやすい。 先程も書いたが、技術は最善を目指し、迎合は快楽のみを追求する。

つまり、その行動に善を追求する要素がなければ、それは迎合といえる。
迎合にとって善を目ざすというのはどうでも良いことで、その時々の状況で一番心地良い事を選んで実行しようとする。
向かう方向が、最善と快楽という違う方向を向いているというだけでは理解し難いので、例を上げて説明してみることにする。

先程挙げた、技術ではなく迎合に属する料理法は、医術に偽装する形で技術のフリをしている。
例えば、納豆を食べると体に良いとか野菜が良いなど、食べる事で体を健康にすることが出来る食材が有ると主張し、その食材を使った料理を提案する。
しかし料理人は、その料理を毎日食べた場合と食べなかった場合でデータを取って、どれ程、身体が改善されたかという実験などは行わない。

技術は人が嫌がることも強制する

また、その食材自体は身体に良い効果をもたらすかもしれないが、そこに調味料を入れた場合はどうなのか。他の食材と組み合わせた場合に効果に違いが出るのかといった事を調べたりもしない。
そして、その料理を食べた人間が『味が薄い』といえば、普段より多めに塩を振る。
塩分過多は身体にとっては害悪だけれども、料理人は美味しい料理を追求する為、食べる人の健康よりも食べている間の快楽を最優先する。

食べると絶対に身体が良くなるけれどもクソ不味い料理が有ったとしても、料理人はそんな物を客に食わせることはない。

しかし、これが医者だとどうだろうか。
患者の足の一部が壊死していて、切り離さなければ患者の命が危ないと思えば、医者は足を切断するという決断を下すだろう。
仮に患者が陸上選手で、『足を切り離すことだけは、止めてください!』と懇願したとしても、医者は患者に迎合すること無く、足を切断するだろう。何故なら、そうすることが患者の身体にとって最善の方法だから。

病気の患者を治すためには、飲むのが苦痛なほどの苦い薬を飲む必要があると思えば、患者が子供であったとしても、その薬を処方するでしょう。
医者が考えているのは、患者をどうやって救うことが出来るのかというだけで、患者の身体にとって最善のことをしようとする。そしてその方法は、大抵の場合は決まっている。
2人の医者がいたとして、知識レベルが同程度で患者に対する病気の見立てが同じであれば、2人が下す治療法は同じようなものになる。

迎合は善悪を考えずに人が好むことしかしない

しかし料理法の場合は、食べる人間に合わせる形でレシピが変わる。 何故かというと、最優先していることが食べる人間の満足度、つまり快楽だから。
常に最善を目指す『技術』と、相手の顔色をうかがいながら対応を変える『迎合』は全く違ったものとなる。

この様に、技術と迎合は全く違った目的を持つものだけれども、迎合の質が悪いのは、自らを技術に偽装して技術の一部であるかのように振る舞うこと。
この性質の為、知識を持たない一般人では技術と迎合の見分けがつかずに、迎合と技術を混同してしまう。
混同するだけならまだしも、迎合の技術である料理法のほうが優れていると錯覚すらしてしまうことも有る。

例えば、料理人と医者が無知な一般大衆や子供たちの前で、どちらが優れているかのプレゼン大会を開催したとした場合、医者はその勝負に勝てるのだろうか。
料理人が『人間は欲望を満たすことで快楽を得ています。 そして、その欲望というのは、人間が生きていく上で、そして世代をつないでいく上で絶対に必要なものが、欲望となって現れるんです。
だから、食べ物を食べるとか、寝るといった体を保つのに絶対に必要なことをすれば、人間の体は快楽を得られるように出来ている。
同じ様に、寿命を持つ人間は未来永劫、生きていくことが不可能なので、自分の遺伝子を残すためには子供を作らなければならない。 当然のように、子供を作る行為には快楽が伴う。

これを料理に当て嵌めて考えてみてください。
人間は、料理を食べた際に何らかの味を感じますが、先ほどの話を料理に当てはめれば、自分の体にとって必要なものを食べれば、身体は快楽を得るはずです。
快楽を感じる料理とは、当然のことですが、美味しい料理のことです。

ですから、自分が美味しいと思う料理を好きなだけ食べることが、貴方の身体にとっては一番大切なことなのです。
もし、特定の栄養素を取りすぎた場合は、体のほうが勝手に拒絶反応を示して、同じ料理を食べても美味しく感じなくなるはずです。』と、この様に演説したとしよう。
この後に医者が、いくら正論を述べたとしても、人々の心は掴めないだろ。

何故なら無知な民衆は、正しいことではなく、信じたいことを信じるから。

これは、朝食にりんごを1個食べるだとか、バナナを食べると健康的に痩せるというダイエット法や、炭水化物を取らなければ、タンパク質や脂肪分はどれだけ食べても大丈夫という健康法が流行っていることを見ても分かる。
人は、確実に効果がある正しいダイエット法ではなく、効果はないかもしれないけれども楽な方法を信じて行動する。
何故なら、誰だって辛いことはしたくないし、心地よい状態でいたいと思うから。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍