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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第50回 『哲学の起こり』 絶対的な基準 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

何も知らない賢人

自分が賢いと思いこんでいた人達は、幸福とは何か、善とは何なのかという根本的なことに答える事ができません。
人の行動の起点になるのは、何を『善』と考えるのか、どの様な状態を『幸せ』だと捉えるのかという事ですが、多くの賢人と呼ばれた人が、『善』や『幸福』とはどの様な状態の事かというのを知りませんでした。
行動や、向かうべき未来に対しての、基準となるものが答えられないという事は、その人の主張そのものが、論理的ではないということを意味します。

多くの賢人と呼ばれた人達は、自分自身の無知を暴かれたことで、自分自身に失望するのではなく、それを暴いたソクラテスに敵意を持ち、憎むようになっていきます。
結果として、ソクラテスは多くの敵を作ってしまい、最終的には罪をでっち上げられて、裁判を起こされてしまうことになります。
裁判がどのように行われてのかについては、また、別の機会に取り扱う予定ですが… 『ソクラテスの弁明』という本で詳しく書かれているので、興味が有る方は、読んでみてください。
比較的読みやすく書かれていますし、この作品については同名のタイトルで漫画化されていたりもします。 この漫画も、1冊で完結する形で書かれているので、興味のある方は読んでみる事をオススメします。

話を戻すと、では何故、ソクラテスが疑問に感じた、根本的な疑問について尋ねられた時に、賢人と呼ばれた方々は、答えられなかったのでしょうか。
それは、先程も少し言いましたが、ソクラテスが疑問に持ち、この、根本的な理由について探求するまでは、誰も、根本的な理由について考えなかったからなんです。
というよりも、考えようという発想がなかったというべきなんでしょうかね…

知らないものを知った気になる人達

ソクラテスの時代に限らず、現代でもそうですが、多くの人々は、当たり前のように『常識』といった言葉を使いますが、そもそも、常識とは何なんでしょうか。
常識という言葉を深く考えて、自分なりの答えを見つけ出した上で、それでも『常識』という言葉を使っている人が、どれだけいるでしょうか。
『常識』というのは、自分の中にある『常識』しか認識することは出来ないので、これから先にも多々出てくる相対主義ではないですが…
それこそ、生きている人間の数だけ、常識というものが存在する為、言葉の意味を正しく理解している人間であればある程、この言葉は使いません。

しかし、多くの人が『常識』という言葉を口にするということは、確かめたわけでもないのに、この世には人々が持つ共通認識が有ると思いこんでいて、自分は、その常識を知った気になっているからです。
だから、自分の中にある価値観に反した動きを相手がすると、その行動に対して腹を立てて、『常識がないのか!』と怒鳴りつけたりします。
ですが、繰り返しになりますが、その常識という言葉を口にした人間は、その事柄が常識である事を、どの様にして知ったのでしょうか。確かめるために、統計でもとったのでしょうか。

もしかすると、自分が『常識』だと思い込んでいるだけで、自分の方が少数派かもしれない可能性が有るのに、それを確かめることすらせずに、『常識』という言葉を使ってしまう。
そして、この言葉の意味を考えた事がない人間ほど、この言葉を多用してしまう。
これと同じで、ソクラテス以前の人達というのは、『善』であるとか『勇気』であるとか『美しい 美』といった概念を、考えるまでもなく、説明するまでもなく知っていると思い込んで使用していたようです。
『善い』といった、誰でも知っていると思われている様な概念に対して、それ以上の説明を求められる事もなかったですから、考える必要もありませんでした。

みんなが、自分自身の中の価値観として持っている『善』であるとか『美』といった価値観を、人類の共通認識だと信じ込んでいれば、それだけで良かったんです。
そういった、人間の内側にある価値観は、議論するまでもなく分かっているものとして片付けて、人間の外側にある、世界や宇宙といったものを探求したり…
その他には、単純に議論に勝つ方法や、言いくるめる方法といったテクニックの開発。そして、そのテクニックを使う為の知識を身につける方法などが持て囃されていました。

対話と論争と詭弁

古代ギリシャには、ソフィストと呼ばれる、魂を磨く方法である『徳』を教えるという職業がありましたが、このソフィストには、そういったプラスの意味合いだけでなく、『詭弁家』といった悪い意味合いも含んでいました。
詭弁家というのは、分かりやすくいうと、こちらが質問をして、その質問に対して、相手がどの様な答えを行ったとしても、それを否定してマウントを取る方法のことです。
相手の意見を否定して、自分が有利な立場に立ち、その上で、テクニックによって、相手を説き伏せるという手法を、金銭をもらって人に教える人達のことです。

例えばですが、少し前に、ネットのコンテンツで、ペットとして飼うなら、犬が良いのか、それとも、犬に寄生しているような『ダニ』が良いのかといった事を、芸人の方と、弁論大会で上位入賞経験がある人とで討論するというのがありました。
芸人方が、ペットにするなら『犬』だと主張し、弁論大会経験者が、ペットにするなら『ダニ』だという主張で、討論をするという企画でした。
どの様な討論が行われたのかというのは、検索してもらえば出てきますし、興味の有る方は観てもらいたいのですが、結果から言えば、ダニ派の主張が勝ちました。

ここで使われるようなテクニックというのが、詭弁のテクニックです。 そして、詭弁の根底にある思想が、相対主義です。

例えば、『勉強をしようと思う人間は、賢い人間なのか、それとも無知なのか。』という問いは、相手がどのように答えようが、否定することが出来ます。
相手が、賢い人間だと答えたとしたら、『既に賢い人間というのは、知恵を身に着けている者のことをいうのです。しかし、勉強しようと思う人間は、知識が無いから、勉強をして知識を身に着けようとしているので、無知である。』と答えます。
逆に、相手が無知だと答えたとしたら『学校の先生が授業をしている時に、その授業から多くのことを身に着けようとする人間は、そうでない人間に比べて賢いのではないですか?』と返します。

どちらを答えたとしても、相手の主張を否定した上で、マウントを取ることが出来ます。
何故、この様な事が可能なのかというと、知識が有るという状態と無知の状態を、固定するのではなく、相対的に捉えているからです。

相対主義と絶対主義

例えば、38度の気温は暑いと思いますが、38度のお風呂はヌルいと感じます。

これは、温度を相対化しているから、同じ温度に対して2つの意見が出てくるわけですが、これを、善悪のような基準にも当てはめてしまったとしたら、どうでしょう。
育ってきた環境や文化によって考え方は変わるというふうにして、善悪の基準を、それぞれの人間の主観にゆだねてしまったとしたら、善悪の基準は、人口が70億人いれば70億通り存在することになります。
その様な環境で、『悪いことは止めましょう』と言っても、『悪い』という価値観に対する捉え方が70億通り有るわけですから、それは、何も主張していないことを意味します。

この様な相対主義に対抗する形で、ソクラテスは、『絶対主義』を掲げて、人々が持つ絶対的な価値観を解明しよう挑戦していきます。
ソクラテスが、徳というものについて、どのように考えて、解き明かそうとしたのか。 それは、次回以降で紹介していこうと思います。
(つづく)
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