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プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その2『人を支配する技術』

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このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
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kimniy8.hatenablog.com
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他人を説得する技術

ソクラテスの追求によって、ゴルギアスが教えている技術が、『他人を説得する技術』であることがわかった。
では、何について説得するのかというと、何が正しくて何が不正なのかという点について説得する技術のことらしい。

ソフィスト達が唱える相対主義では、人々の正義と正義がぶつかり合ってしまう事が多々ある。
その際に、自分の主張こそが正義であり、それに反対する相手の主張は悪だと説得することが出来てしまえば、自分の意見を正しいこととして、押し通すことが出来る。
他人が自分の為に尽くすのが正義だという独りよがりの正義も、それを押し通す説得術がありさえすれば、正義になり得るということでしょう。

この技術を極めれば、相手を自分の思い通りに動かすことが出来るし、警察が自分を捕まえて裁判にかけたとしても、自分こそが正義だと裁判官を説得できる為、罪に問われる事は無い。
それ以前に、捕まえに来た警察官の行動を不当なものだとし、正義は自分にある事を主張して相手を説得できれば、そもそも捕まることすら無い。
他人を自由に支配し、その上、自分は何にも縛られること無く自由に振る舞えるわけだから、弁論術は最高の技術というわけです。

この主張を聞いたソクラテスは、その説得術について吟味していくことにする。
まず、いきなり本丸に攻め込むのではなく、前提条件を確認し合う作業に入る。

説得術を吟味するための前提条件

ソクラテスはまず、『学んでしまっている』と『信じ込んでいる』という状態が存在するかどうかをゴルギアスに確認し、同意を得る。
学んでしまっているとは、学校での勉強や、社会経験などを通して、特定の何かを既に学んだ状態のこと。 算数でいうのなら、掛け算を勉強しようとしているものは、足し算は既に学んでしまっている。
信じ込んでいるというのは、それが正しい事だと信じ込んでいることで、宗教などに限った話などではないし、実際に学んだかどうかも問題ではない。

次に、『学んでしまっている』事と『信じ込んでいる』事は、同じことなのかどうかを確認し、この2つは違う事柄であることを確認する。
学んでしまっている事が正しい事だと信じ込む事はあるだろうが、学んだ事が間違いではないかと思うことも有るし、学んでいないのに信じ込んでいるだけの状態もありうるからでしょう。

次に、信念には偽物と本物が存在するかという質問をし、『ある』という答えを聞き出し、同様に知識には偽物と本物が有るかを質問し、『無い』と聞き出す。
信念とは、正しいと信じる気持ちであるけれども、正しいと信じた対象が間違っていて悪だということも十分にありえる。
一方で知識はどうかというと、知識とは既に発見されたて検証されて、正しいとされた法則のことなので、間違った知識は『正しい』という前提条件を満たさないので、知識ではない事になる。

ソクラテスは、信念に真偽があり、知識には無いとするなら、信念と知識は違うものとなるが、それで良いかと質問し、ゴルギアスに同意を得る。
前提条件をまとめると、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』がある。そして、この2つは同じものではない。
信念には偽物と本物があり、知識には真偽はない。

説得された状態とは?

前提条件が揃ったところで、説得について考えてみる。
『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』は、共に、説得されてしまった状態と捉えることが出来る。
何故なら、『学んでしまっている』と自覚している状態は、知識を他人から授けられたことを自覚している状態ともいえるから。
前提条件によると、知識には真偽はないのだから、学んでしまっている状態の人間は、正しい知識を授けられたと自覚している状態ともいえる。

一方で、信じ込んでいる状態は、相手が話したものが、知識と呼べるものなのか、それともでっち上げなのかは分からないけれども、相手の主張することを信じ込んでいる状態といえる。
先程の前提条件では、信念には偽物と本物が有るということだったが、信じている対象が偽物であれ本物であれ、信じ込んでいる状態というのは、相手によって説得させられた状態といえる。
つまり、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』は、説得されている状態という点においては、共通している。

では、ゴルギアスが提供している弁論術は、聞き手を『学んでしまった状態』にするのか、『信じ込んでいる状態』にするのか、どちらの状態に説得するのだろうか。
この質問に対してゴルギアスは、『相手に信じ込ませる説得術だ』と答える。

これまでの対話をまとめると、ゴルギアスが提供する技術とは、相手を説得する技術であって、聞き手に知識を与えるための技術ではないことが分かる。
政治や法廷の場で、相手をうまく誘導して自分の思い通りに事が運ぶようにする技術だけれども、決して、正しい知識が必要なわけではない。
相手は正しい知識によって説得させられるのではなく、議論の演出の仕方によって、正しいのではないかと説得させられるだけということ。

説得に専門知識は必要がないのか

しかしソクラテスは、ここで一つの疑問を持つ。
ゴルギアスは、弁論術について『何が正しくて何が不正なのかという点について説得すること』と説明していたが、一方で、専門的な知識については教えないともいっていた。
議論の対象となっている事柄の正義や不正について相手を説き伏せるのに、その対象の知識は必要ないのだろうか。

例えば、何らかの公共事業で大型建築物を建てる場合で考えると、この計画を円滑に進めるための話し合いには、建築の知識が必須となるのではないだろうか。
建築計画を作成して実行する為の議論を、建築の経験や知識はないが、弁論術の心得だけはある政治家だけで話し合ったとして、その計画はうまくいくのだろうか。
これは考えるまでもなく分かることで、この議論に必要なのは説得の術ではなく、建築家が持つ知識と経験であり、彼ら抜きではこの事業の成功はありえません。
何の専門的知識も持たず、自分の価値観として持っている正義や不正を相手に信じ込ませることしか出来ない弁論家は、この議論において、何を提案できるのだろうか。

この疑問に対してゴルギアスは、待ってましたとばかりに持論を披露する。
確かに、計画を練ったり進捗状況を見守ったり、実際に作業を行うのは、建築の知識や経験が豊富な建築関係者だろう。
しかし、その公共事業を行うと決めてその人間に命令を出すのは、その時に政治的権力を持っている権力者なのではないだろうか。

権力者は、医術の心得も建築技術も知識も持たないが、その事業を行うという決定を下すことが出来る。
アテナイで建築された港や城壁も、実際に知識人や専門家に命令を下したのはテミストクレスであり、テミストクレスが何故その様な決断を下したのかというと、ペリクレスが助言したからだ。
実質的には、ペリクレスの意思によって公共事業が行われているのであって、建築の知識を持つ、現場で働く作業員の意思ではない。

このやり取りは、よく小中学生が『ひっかけクイズ』として行ったりもします。
出題者が、『大阪城を建てたのは誰?』と質問し、回答者が『豊臣秀吉』と答えると、『正解は大工さん。』と答える一連のやり取りと似た部分がある。
そもそも、城を建てられる大工がいなければ城が建築されることはないのだけれども、大工がいたとしても、命令をして賃金を払う人間がいなければ、これもまた、城が建つことはない。

ソクラテスは、建築に重要なのは建築についての知識だと主張するが、プロタゴラスは、建築の知識を持つものを自分の思い通りに動かせるのであれば、その知識は必要がないと主張する。
ゴルギアスは弁論術は人を支配する能力が有るといっていたのはこの事で、専門家を自由に思い通りに動かせるなら、自分自身で勉強する必要はないということ。

まとめると、大きな権力を握るのにも、その力を振るうのにも、専門的な知識は必要なく、それらの知識は自分以外の誰かが身に着けていればそれで良いということ。
何故なら、権力さえ握ってしまえば、専門知識を身に着けた専門家を自分の思い通りに自由自在に操れるのだから、いざという時は専門家に命令するだけで、事を運ぶことが出来てしまう。
また、権力がなかったとしても、その専門家を個人的に説得して味方に引き入れてしまえば、その力を自分の為に利用することが出来る。

時に弁論術は専門知識よりも役に立つ

しかしソクラテスは、弁論術の具体的な正体をつかめずにいる。
(指導者が命令して事が動くことにしても、指導者が、『この様な建物を立てたいから作れ』と命令して、専門家が、強度計算的に無理なので、計画を変えてくださいといえば、指導者は専門家の意見を聞き入れなければならない。)
(建築家同士がお互いのプランを競い合う状況にしても、どの建築が一番良い建築なのか。 その場所に建てるのにふさわしい建築なのかという議論はおざなりになってしまう。)

この態度にしびれを切らしたゴルギアスは、ソクラテスを説得する為に昔の自分の経験を語り出す。

ゴルギアスは昔、怪我や病気を負ったものが医者に掛かっているにも関わらず、患者が医者の言うことを聞かないという現場に遭遇したことが有る。
医者は、患者のためを思って良かれと思って、苦い薬を調合したり、傷口を焼くといった治療行為を提案するが、身体についての知識が無い庶民は医者の治療法が理解できずに、その苦痛を伴う治療を受けようとしない。
しかし、医学の知識は全く無いけれども、弁論術は身に着けているゴルギアスが患者を説得した所、患者は医者の言うことを聴くようになり、治療を受けることを了承した。

医者は、弁論術を身に着けていない為に患者を説得することが出来ずに、危うく、患者を見殺しにしてしまうところだった。
しかし、医術を全く身につけていないゴルギアスが説得に成功し、結果として、患者の命を救うことが出来た。治療を拒否する患者の前では医者は無力だが、弁論家は、十分に力を発揮することが出来る。

それだけではなく、何らかの国の事業で、医者が必要になるというケースも有るだろう。
その事業の参加者として選ばれれば、国の中で名前を売ることが出来て有名になれるとした場合、他の医者に比べて自分がどれ程その事業に向いているのかを、事業の責任者にアピールする必要がある。
この時、医学について無知な事業の責任者を説得するには、医学の知識ではなく、弁論術が有効となる。

弁論術は強力な武器になる為 悪用を避けなければならない

この様に弁論術は、討論の場のあらゆる場面において有効な技術であり手段となる。しかし、有効過ぎるが故に、その取扱は慎重に行わなければならない。
ボクシングや空手の技術を悪用すれば、他人を簡単に傷つけることが出来るように、弁論術が相手を説得して信頼を勝ち取れる技術という事は、その技術を悪用すれば、他人を陥れることも容易にできてしまう。
この様に、使い方によっては非常に危険な武器にもなる技術だから、弁論術を身に着けたものは、その使い方には、非常に注意を払わなければならない。

だが、使う者が人間である以上、自分自身の我慢が足りないなどの理由で、その力を自分の欲望を満たす為に使って不正を働くものもいるかも知れない。
しかし、その様な状態になったからといって、その弁論術を教えた教師の方を責めてはならないとゴルギアスは主張する。
弁論術を生徒に授けた教師の方は、生徒一人ひとりが良い人間かという事は分からない。 仮に、生徒の1人が不正を働いたからといって、それを事前に知ることは出来ないだろう。
不正を行うものは、不正を行った当の本人が悪いのだから、責められるのはその人間であって、教師の方ではないということ。

この主張は、今でいうと銃問題と似ているのかもしれない。銃は本来、力の弱いものが自分よりも強いものに対して抵抗する為に存在する。
アメリカで銃犯罪が多いにも関わらず、銃の所持が認められたままなのは、国が暴走した際の対抗策を民衆側が確保しておくためだし、銃があることで、力の弱い人間が自分よりも身体が大きく力の強い男に襲われた場合も、対抗できる。
もし銃がなければ、弱い立場に有るものは強いものに蹂躙され続ける危険性すら有る。 だから、銃そのものの存在は悪いとはいえなく、良い面も有るといえる。

しかし、その銃を使って、無実の人間を一方的に攻撃する犯罪も存在する。この様な犯罪は、銃がなければ起こらなかった犯罪ともいえるが、銃そのものを悪としてしまえば、銃の良い面まで失ってしまうことになる。
こうして、銃の所持を肯定する人間から生まれた言い訳が、銃を使って犯罪を犯す者が悪いのであって、銃が悪いわけではいという言い訳。
この銃を、弁論術に言い換えると、同じ様な理論となる。


参考書籍