だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

プラトン著『ゴルギアス』の私的解釈 その3 『弁論術とアテレー』

広告

このエントリーは、私自身がPodcast配信のために哲学を勉強する過程で読んだ本を、現代風に分かりやすく要約し、私自身の解釈を加えたものです。
Podcastはこちら

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

f:id:kimniy8:20190225212629j:plain

弁論術を悪用してはいけない

ゴルギアスによると、弁論術というのは、人と人が討論することによって争う場面では常に有効な手段となる。
その為、政治家などの議論が主体の職業に付く人間が身に着けて置く方が良いのはもちろんだが、職を選ぶことはなく、どの様な職業の人間でも役に立つと主張している。
その一方で、弁論術は人を支配する事が出来る強力な力なので、使い方を間違えば、危険なことも招いてしまう恐れがある。
その為、ゴルギアスは、この技術の取扱には非常に気を配るべきだと主張する。

対話と論争

この意見に対してソクラテスは反論をしたいと思うが、ゴルギアスが気を悪くしてしまって、喧嘩腰の論争になってしまわないかを心配し、ソクラテスは、自分のこの対話におけるスタンスをはっきりさせようとする。
まず議論には、大きく分けると2つの議論の方法がある。 1つは、議論の結果を度外視して、相手を言い負かすことのみに重点を置いた方法。
そしてもう一つは、議論の結果を最重要視して、目の前の対話相手と闘うことはなく、むしろ協力し合って、一緒に答えを見つけ出そうとするもの。

目的を度外視した論争は、自分の答えを否定されたり疑われたりすると、自分自身も同じ様な目にあったと思い込んで怒ってしまう者が勝負に拘る事によって起こってしまう。
この論争では、最終目標を見定めないために、目の前の相手を否定することに熱心になり、自分の主張すら忘れてしまい、論争の結果、何も得られない。

その一方で、協力し合って一つの目的を探す道は、成功することで、思いもよらなかった考えに到達する可能性がある。
この様なスタンスで議論する場合は、自分の意見が否定されたとしても怒る必要はない。 何故なら、対話相手は自分を間違った道から助け出そうとしてくれているから。
ソクラテスが求めているのはこの様な論争で、自分ひとりでは到達できない真理にたどり着きたいだけなので、自分は議論の勝敗には興味が無いということをハッキリと伝える。

そして、ゴルギアスも同じ様な気持ちで対話に臨んでいるかを確かめる。
もしゴルギアスが、真実などどうでも良くて、目の前の論争の勝敗だけに拘るのであれば、不毛な議論に突入することは確実なので、この対話をやめようと。

目的は勝敗か真実か

この論争と対話というのは、今現在でも混同されて利用されていたりするが、単純な事のようでかなり重要な事柄。
例えば、裁判の目的は、本来であれば『真実の追求』のハズなので、検事と弁護士は協力しあわなければ真実には到達することが出来ない。
しかし、テレビドラマや報道などでよく見る構図は、検察と弁護士が敵対していたりする。

何故、その様な状況になってしまうのかというと、裁判官が、どちらの主張を聞き入れるのかというのが最終目的のゲームになってしまっているから。
こういう構図になると、相手の有利になるような証言に対して言いがかりをつけたり、有効な証言を捏造するのが効果的になってしまう。
だが当然のことだけれども、相手の足をひっぱるだとか偽の証言を作るという行動は真実から遠ざかる行動なので、それらの競い合いによって真実が明らかになる事は絶対に無い。

真実を追い求めたいと思う場合に必要なのは、最終目標を正しく定めて、その方向に向かうこと。
このスタンスを貫けば、仮に、相手がこちらの主張に反対をした場合に、腹をたてるということはなくなる。何故なら相手は、自分の間違いを正そうとして声を上げてくれているのだから。

ソクラテスは、真実から遠ざかってしまう論争に発展するのであれば、不毛な時間を過ごすことになる為、議論を中断しよう。
しかし、ゴルギアス側にソクラテスと同じ様に心理を探求したいという思いがあるのであれば、対話を続けようと提案する。

弁論術とは何なのか

ゴルギアスから、同じ気持ちだという意味合いで同意を得たので、ソクラテスは今までの流れを一度整理する事にする。
まず、ゴルギアスが教えているという弁論術は、天から与えられた生まれながらにして持つ才能などではなく、一種の技術である為に、学ぶことで誰にでも身につけることが出来る。
そして、弁論術を身に着けた人間は、物事をよく知らない民衆を相手にしたプレゼンの場合に限り、専門知識や技術を持つ専門家よりも民衆を説得する力を発揮できる。

何故、聞き手が素人だけに限定されるのかというと、聞き手にその道のプロが混ざってしまうと、いくら話し方の技術が優れていたとしても、知識的なボロが出てしまって、説得が出来ないから。
逆にいえば、相手が素人であるなら、専門的な知識は必要なく、それっぽい事を匂わせるだけで良いことになる。 科学方面から散々、批判的な事がいわれている『水素水』がいまだに販売されているのも、素人相手の商売だから。
弁論家は様々な専門知識を身につける必要がなく、専門知識を持っているような立ち振舞をして演技をするだけで、無知な民衆を説得することが出来る。

この様に弁論術は、非常に使い勝手がよく、どんな立場の人間が身に着けても役立つ、非常に有効で強力が技術だけれども、強力であるが故に、その扱いは慎重にしなければならない。
指を軽く曲げるだけで命を奪える鉄砲のように、見境なく誰彼構わずに弁論術を利用して攻撃してはいけない。
しかし、強力な技術の誘惑に負けて、不正なことに対して弁論術を使うものが現れたとしても、それは不正を行った本人が悪いのであって、教師は悪くない。

弁論家とアテレー

しかし、ここで一つの疑問が生まれる。 それは、弁論家はアテレーをどのようにして宿すのかという事。
『アテレーとは何か』という疑問に対しては、ハッキリとした答えは出ていないけれども、アテレーを宿した状態がどの様な常態かは分かっている。それは、卓越した優れた人になる。
弁論術の技術とは、言葉の組み立て方や演技によって、自分自身や、自分の主張を卓越した凄いものだと演出する技術なわけだが、演出する為には『卓越した存在』を理解していなければならない。

演技を専門とする俳優は、求めに応じて、威厳のある人や貧しい人、魅力的な人や劣悪な人などを演じ分けるが、演じる人間そのものが、威厳や魅力や劣悪な状態を理解していなければ、演技はできない。
これと同じで、卓越した人間を演じきるためには、卓越した存在である、アテレーを宿した状態の人間がどのようなものかを性格に知らなければ、具体的な想像は出来ない。
逆にいえば、卓越した人間を演じることが出来る人間というのは、何を宿せば卓越した存在に見えるのかを熟知しているものである為、アテレーとは何かを知っているということ。

弁論家になる為には、専門的な知識は必要がないかもしれないが、『卓越した存在は何を備えているか』というのは知っている必要がある。
仮に、アテレーというものを理解していない人間が弁論家の元に弟子入りしてきた場合、その弁論家は、アテレーを教えるのだろか。それとも、アテレーを既に知っているものだけに入門を許すのかと尋ねる。
それとも、弁論術の教師はアテレーについては知らないが、アテレーを身に着けている演技を弟子の前で行うのか。これに対してゴルギアスは、入門をしてきた人間にはアテレーを教えると主張する。

卓越した人間は不正を犯すのか

ここで新たに、弁論術の教師はアテレーの教師でもあることが、明らかになる。
しかし、この主張によって、先程のゴルギアスの主張に矛盾点が生まれてしまう。
矛盾点が何かというと、弁論術を習ったものが不正に手を染める可能性を示したこと。

先程ゴルギアスは、弁論術を習いに来たものには全て、アテレーを教えるという事を主張していたが、アテレーを身に着けたものが何故、不正に手を染めるのだろうか。
アテレーとは、それを身につけることで卓越した人間になれるという代物。アテレーを身に着けたものは、正義を理解して勇気と欲望を抑え込む節制と理性を生む知恵を兼ね備えている人間。
正義を理解して、自分の欲望を理性で抑え込む術を持つ人間が、何故、不正を働くのだろうか。 不正を働くような人間の精神に、アテレーは宿っているのだろうか。

弁論家が教えるのは、アテレーではなく、アテレーを宿した雰囲気というのなら、矛盾はしていないことになる。
例えばジョジョの奇妙な冒険に出てくるディオの様に、生まれついての悪党でゲロ以下の匂いがプンプン人間でも、人前だけでは品のある演技をする事は出来る。
はじめから人を騙すことが前提の詐欺師であっても、お金をだまし取るためにはターゲットから信頼を勝ち取らなくてはならないので、不正を働かないような紳士を演じきったりする。

この様な人物たちは、品であったり誠実さを身に着けているわけではないけれども、品や誠実さを持つ人間を観察することによって、上辺だけをコピーして演じきる技術は持っている。
弁論家も同じ様に、アテレーを自身に宿しているわけではないが、アテレーを宿している人物を観察することで、演技だけ出来るようになっているのなら、理解は出来る。
これを考慮し、現にソクラテスは、弁論家はアテレーを身に着けてはいないが、弟子の前ではアテレーを宿しているフリをしているのか?と質問をしている。

にも関わらずゴルギアスは、入門してきた人間にはアテレーを教えると主張している。 アテレーを教えるという事は、自分自身もアテレーを身に着けていて、それを弟子に教えるということ。
弟子にアテレーを伝えるということは、アテレーは才能ではなく、教えることが出来ると主張しているのと同じことで、弁論家はソフィストと何ら変わらないことになる。

もし、本当にアテレーを他人に教えることが可能であるなら、その教えを受けた人間は皆が憧れるような正義と勇気を宿した卓越した人間になるはず。
正義を宿した人間が不正に手を染めることは絶対に無いので、仮に、弟子が不正に手を染めてしまったとしたら、師匠である弁論家はアテレーを正しく伝えられていない事になってしまう。
教えるべきものを正しく教えていないのであれば、それは師匠としてどうなんだという事にもなってしまい、ゴルギアスの説はどちらにしても駄目という事になってしまう。

墓穴を掘ったゴルギアス

ゴルギアスの論理は破綻してしまい、自分が間違っていることを認めなければ先へ進めない状態になってしまった。
しかしここで、ゴルギアスの弟子のポロスが助っ人に入り、以後、ソクラテスとポロスの間で討論が行われることになる。

ポロスの主張によると、ゴルギアスは場の雰囲気を読んで、ソクラテスに合わせて気にいるような答えを選んであげたまで。弁論家がアテレーを身に着けているとは、ゴルギアスは本心では思っていない。
そんな事もわからないままに、揚げ足を取って矛盾点を挙げて攻め立てるのは、卑怯なやり方だと避難する。
しかし、この理屈も少しおかしいような気がする。

というのもゴルギアスは、他人に弁論術を教えてお金を稼いでいる弁論術の教師として名を馳せている人物。
弁論術とは簡単に表現してしまえば、話の流れを完全に支配して自分の有利な方向に向かわせる話術のことです。
仮に、ソクラテスが話を誘導することでゴルギアスに墓穴を掘らせるように持っていったのであれば、その流れを断ち切って、自分が有利な方向に持っていけば良いだけです。

そのための技術こそが、弁論術のはずなのだから。

にも関わらず、ソクラテスの誘導に引っかかって口を滑らせて、自ら墓穴をほってしまうというのは、弁論術の専門家としてどうなのでしょうか。
弁論家でもないソクラテスに討論で負けた上に、卑怯だと罵るのは、ストVのプロの選手が、ド素人のガチャプレイに負けて言い訳しているのと同じで、恥の上塗りのような気がしないでもない。
ただ、この反論をゴルギアス自身が主張していれば救いようがないが、ゴルギアスよりも劣る弟子が主張しているのと、尊敬している師匠が陥れられたと思い込んで感情に任せて言ってしまったのかもしれない。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

参考書籍