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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第53回 民衆にアテレーを渇望させた古代ギリシャの民主制 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次


何故 アテナイで哲学が発達したのか

前回は、ソクラテスが生きていた時代が、どの様な時代だったのかについて、簡単に話していきました。
ペルシャ帝国との戦争や、ギリシャ内の大国同士の争いが絶えない時代でしたし、国の制度そのものも、短期間で大きく変わっていった時代ですよね。
ソクラテスがいたアテナイで言うなら、民主政から三十人政権になり、その後すぐに、再び民主政になったりもしてました。

今回からは、この様な時代背景を踏まえた上で、何故、アテナイで哲学が盛んになったのかを勉強していこうと思います。

アテナイの政治システム

最初に結論からいってしまうと、直接民主制が、大きな影響を与えたんだと思います。
前回も勉強した様に、アテナイでは、王をトップとしたシステムから僭主制を経て、民主制になりました。

この当時に導入された直接民主制は、日本を含む現在の多くの国が採用しているような、選挙によって地域の代表である代議士、政治家を選び、政治家によって国の方向性を決めるという方式ではありません。
国の代表である執政官を含む国の役職を、全市民による『くじ引き』で決めてしまおうという制度です。 国の要職はもちろん、裁判の判決を下す陪審員も、全て抽選によって決定します。
任期は1年で、再任は無し。 一人の人間が重役に付き続けるという事が起こらないようなシステムにして、政治の腐敗を徹底的に排除しようとして作られたシステムです。

奴隷と女性を除いた、アテナイに市民権を持つ男性のみが、政治に参加する権利である参政権を持ち、国の重要なポジションも抽選によって決定する。
抽選も参政権を持つものだけで行い、任期が1年で毎年抽選を行うということで、大体、人生で3回ぐらいは重要な役職が回ってきたそうです。

この様なシステムで国を運営する場合、参政権を持つ成人男性に求められるのは、幅広い知識を持つことであったり、知恵を持つことであったり、相手を言い負かす技術を持つことだったりします。
何故、この様な知識や技術が求められたのかというと、この様な知恵や技術を身につける事で、国にとっての重用な人物になる事が出来る可能性が出てくるからです。

卓越した能力を持てば成り上がれる

周りの市民たちから賢人だと思われれば、その分だけ、自分の意見に耳を傾けてくれる人間が多くなりますし、何か困ったことが起こった場合に、意見を聞きに来てくれるというケースも増えるでしょう。
他の人間が反対意見を主張したり、自分の意見に対して賛同しない場合でも、相手を言いくるめる技術を持っていれば、議論を有利に進めることが可能です。
つまり、この様な知恵や技術を身につけることによって、自分の発言力を高める事が出来るようになるんです。

自分の意見が通りやすくなれば、実質的に国を自分の考える通りに動かせることにも繋がりますし、賢人として自分の名がギリシャ全土に広がるようになれば、優秀な人材として引く手数多になるので、戦争の時代を生きやすくもなります。
ここまで壮大な目標がなかったとしても、自分が住む国の未来が自分達の発言によって左右されるという事実は、人々を政治というものに真剣に向かい合わせる様になりますよね。

現状の日本の政治

例えば、今の日本では、政治的な発言をする人間は鬱陶しい人だとか、面倒くさい人というイメージが浸透していると思います。
SNSなどで、積極的に政治の事をつぶやくアカウントは、同じ様な思想の人には支持されて、フォローなどをされるでしょうけれども、一般の人からは距離を置かれてしまいますよね。
呑みに行ったりした際でも、問題を起こさない為には、政治の話と野球の話はするな なんて言われたりします。

この様に、政治に対して無関心であることが普通で、関心があることが異常な状態というのは、良くも悪くも、一般市民が政治から切り離されていると思い込んでいるからです。
当然ですが、実際には切り離されているわけではありませんが、切り離されていると思いこむ事で、自分の責任を回避しようとしてるのが現状です。
自分には責任はなく、なにか不具合が起こったら、政治家のせい。 仮に政治の議論になったとしても、与党支持の人は野党が悪いと責任を押し付けて終わりです。
もし、与党の行っている政策に対して具体的に意見をいったとしても、『そこまで意見があるなら、立候補したら?』といって終わりです。

この、『立候補したら?』という切り返しには、政治に対して真面目に語ることが格好悪いという価値観と、政治的な意見は政治家だけが持てば良いという考えが、そして、自分が無知であるという行為を正当化したいという気持ちが根底にあるわけで…
この様な反論をする人達は、みんな、自分と政治は無関係だというのを盾にして、自分の状態を正当化しています。
しかし、この考え自体は間違っていて、今の日本の政治のシステムは、国民一人ひとりが理想の国のあり方を考えて、自分の考えを代弁してくれる様な代議士に対して票を投じて国会に送り出すというシステムなので、無関係なはずがないんです。

でも、無関係だと思いこんでいるのは、責任を取りたくないからですよね。
仮に失敗した場合、自分に責任はなく、他人のせいで失敗した事にしておきたいから、政治から距離をとって無関心でありたいと思う。
何か重要なことが決まる際には、自分の知らないところで決まって欲しいし、仮に失敗したら、人のせいにして自分は避難しておきたい。 自分は常に攻撃する側でいたいし、攻撃はされたくない。

こういった心理の表れが、今の状態を生み出していますよね。
この様な環境下で知識を身に着けてしまえば、仮に国が間違った方向に向かって、失敗をした場合。知恵のある人達は、その分野について知識があるのに、間違いを指摘しなかったという事で攻撃されてしまいます。
それなら、自分の身を守るためにも、一切の知識を入れず、無関心を装っている方が賢いように思えますよね。

古代ギリシャと現代日本の政治の違い

しかし、古代ギリシャのようなシステムの場合は、無知である事が攻撃されてしまう事に繋がります。というのも、みんなの意見を出し合う事で国の方向性を決める為に、参政権を持つ人間の決断が重要になって来るからです。
このシステムの場合は、議会で、何らかの提案がされた場合は、その提案に対して賛成か反対かを表明しなければなりません。
反対の場合は、何故、反対なのかを訪ねられるでしょうし、賛成した結果、その決断が間違っていた場合、賛成したことに対する責任も生じてくるでしょう。

現在のように、結果を見定めてから文句を言うなんて事をした場合は、何故、採決の前に異議を唱えなかったのかを追求されるでしょう。
市民が直接政治に参加するということは、それに伴う責任も市民にかかってくるわけですから、政治に対して無知であったり距離をおいたりする行為は、軽蔑の対象につながってしまいます。

それに対して、国を良い方向に導く知恵を持っている場合はどうかというと、先程も言った通りですが、議論の場での中心人物になることが出来ます。
人が間違ったことを主張していれば、その問題点を冷静につくことが出来ますし、国が困難に直面した時には、回避方法を提案することが出来ます。
こうした実績を積み重ねる事で、国における自分の地位も上がっていきますし、皆からの尊敬も集める事が出来ます。 つまり、知恵を身に着けて成長する事が、プラスにしかならないんです。

時代に求められたソフィスト達

古代ギリシャのアテナイに住む人達は、この様な環境に置かれていたので、当然のように、知恵を欲します。
知恵の需要が高まれば、供給が生まれるのが経済ですので、人々に、知恵を授ける人達が登場します。 それが、ソフィストと呼ばれる人達です。

ソフィストの人達は、金銭を受け取って、知恵を望むものに与えていったわけですが、では、どのような知恵を授けたのでしょうか。
知恵や知識を授けるといっても、この世の中には沢山の知識が存在して、カテゴリー別に分かれていますよね。
数学だったり歴史だったりと、様々な分野に分かれているわけですが、ソフィストと呼ばれる人達は、どの分野の知識を教えるといってお金をとっていたのかというと、弁論術とアテレーです。

ここで、アテレーという聞き慣れない言葉が出てきたわけですが、このアテレーという言葉には、うまい具合に置き換えれる日本語がない為、一言で説明するのは難しいのですが、多くの本では、徳という言葉で訳されています。
徳とは、損得の得ではなく、道徳の徳です。 徳という漢字を書いて、横にアテレーというルビを振っている本が多いですね。

アテレー(徳・卓越性)

徳というのは、徳が高いお坊さんのような感じで使われる場合が多く、なんとなく、『良い』とかそういったイメージを抱きますが、いまいちイメージがつかめない言葉ですよね。
アテレーという言葉も、そのイメージに近いのですが、もっと別のニュアンスも含んでいたりします。

どの様な意味を含んでいるかと言うと、卓越性であったり、『そのもの』を『そのもの』たらしめているものといえば良いのでしょうか…

例えば、車のアテレーは何かというと、速いスピードで移動できるという事になるのでしょう。 車が、人間の歩いているスピードよりも遅いスピードしか出なければ、車の存在意義はないでしょう。
逆に、車に乗っている人の安全が確保された状態であれば、車は早く移動できれば出来る程、良い車ということになります。

では、車のボディーのアテレーはどうでしょうか。 車のボディは、アクシデントがあった際に、車に乗っている人間の安全を守るためにある為、強い衝撃から中の人を守る役割があります。
襲ってくる衝撃が強ければ強い程、その衝撃に対抗できた時のボディの評価は高くなりますが、一方で、衝撃を防いでも、中の人に損害が出ると、その評価は帳消しになってしまいます。
これらの事をまとめると、車のボディーの評価は、どれだけ、車に乗り込んでいる人間の安全を守れるのかというのにかかっていると思われますので、これが、車のボディーのアテレーと考えて良いでしょう。

もし、車のボディーにアテレーが無かったとしたら。 つまり、軽い接触でも、ダイレクトに車に乗っている方に衝撃が伝わって怪我をしてしまうような代物だったら、そんなボディは要らないですよね。
この様な感じで、物が持つアテレーと言うものは、そのモノが存在する根本的な理由であり、尚且、アテレーが優れていれば優れているほど、そのモノは優れた良いものということになります。
この、人が作り出した『道具』のアテレーとういのは、理解しやすいと思います。 というのも、人間が作り出すモノというのは、何らかの必要性があるから、生み出されるものだからです。
(つづく)
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