だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第99回【メノン】ダイダロスの彫像 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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ダイダロスの彫像

神話の話が、結構、長くなってしまいましたが、ダイダロスは、無理難題をふっかけられても、アイデアを実体化させる才能と技術を身に着けた職人という事が分かってもらえたでしょうか。
このダイダロスが彫像を作った場合はどうなるのかというと、当然のように、ものすごく精巧な出来栄えの彫像が出来上がり、美術的な価値も相当に高い、素晴らしい逸品が出来上がります。
しかし、ダイダロスのもつ技術は凄すぎるので、彼の作った彫像は他の職人が作った彫像の様に、にそのまま飾っておくことが出来ません。

何故なら、彼の彫像は命を吹き込まれたように、意思を持って自由に動き回り、あっという間に逃げてしまうからです。
生きている動物を、何も囲いをせず美術品として放置しておいたら、いずれは逃げられてしまいますよね。
彼の作る彫像も同じで、そのまま放置しておけば自分の足で歩いて逃げ去ってしまうので、その価値のある彫像を自分のものにしておきたいと思うのであれば、何らかのもので縛り付けて置かなければならないということです。

この、『ダイダロスの彫像』というという例を使って、ソクラテスは何を説明したいのかというと、ダイダロスの作る彫像のように素晴らしいく価値のあるものは、どんな人間の前にも現れる可能性が有ると言いたいのです。
ダイダロスの作る彫像は、自分の足で自由に移動することが出来るため、ダイダロスに高い金を出して依頼できる資産家だけが手に入れられるものではなく、運が良ければ、向こうの方から歩いてきて、自分の前に現れる可能性もあります。
ただ、その価値のある彫像は、気まぐれによって直ぐにどこかに行ってしまうので、それを自分のものだけにしようと思うと、自分の前に現れたタイミングで、捉えて縛り付けて置かなければならないという事です。

この『ダイダロスの彫像』という話そのものは例え話なので、実際に歩き回る彫像があるわけではありません。
ですが、このダイダロスの彫像と同じぐらいに価値のある、『アイデア』や『考え』や『卓越した状態』といったものは、運が良ければ、誰にでも宿る可能性があり、この状態を『神がかり』の状態と呼びますが…
この『神がかり状態』は、何もしなければ何処かに逃げてしまうので、それを留めておくような努力をしなければならないと言っているわけです。

神がかりの状態

まだ少し分かりにくいと思うので、現実の実際にありそうなことを例にして説明すると…
仕事でもゲームでもスポーツでも、反復練習が必要な分野というものがありますよね。 例えば、ゴルフなどは、打ちっぱなしなどに行って反復練習をする事が重要になってきます。
ゴルフの打ちっぱなしというのは、地面に置かれたボールをクラブで打って、思っている方向に真っ直ぐ飛ばすという単純なものですが、この単純な事がなかなか上手く行きません。

ゴルフの練習場のようなフラットな場所で真っ直ぐに打てないと、当然のように、コースに出て真っ直ぐに思った方向に打てるわけはないので、基本的なことを練習場で反復練習するというのが重要になってきます。
この練習を、例えば1~2時間 集中して行う場合、極短期間ではありますが、理想的な撃ち方を連続して体現できる瞬間というのが現れます。
これは、ゴルフの練習に限らず、野球のバッティング練習でも、反復練習が必要な仕事でも何でもそうなんですが、コツや『やり方』が完全に分かったような気がして、理解できたような瞬間というのが訪れます。

この状態のことを、『開眼する』とか、『ゾーンに入る』とか、様々な言葉で表現されると思いますが、ソクラテスはこの状態を、『神がかりの状態』と表現し、ダイダロスの彫像が目の前に現れた時と言っているわけです。
言葉そのものは何でも良いのですが、この状態に入った時というのは、『何故、自分は上手く出来ているのか』といった理屈は分からないですし、当然、論理的な説明も出来ないのですが、とにかく上手く出来ているという状態になっています。
その状態を生涯に渡ってキープすることが出来れば、仕事であれ、遊びであれ、その分野ではトップに居続けることが出来ると思われます。 何故なら、理想的なフォームを常に体現し続けることが出来るからです。

しかし悲しいかな、この様な状態というのは、短ければ数秒、長くても数分で何処かに去ってしまい、その後は、再び、理想的なフォームなどが分からない状態に陥ってしまいます。
これをソクラテス風に表現するのであれば、ダイダロスの彫像が何処かに逃げてしまった状態と言えます。
ソクラテスは、卓越した優れた状態を長くキープしておきたいのであれば、ダイダロスの彫像が現れた際には、それを縛り付けてその場にとどめておく努力をしなければならないと主張しています。

神がかりの状態を維持する

では、どのようにすれば、ダイダロスの彫像を、その場につなぎとめておく事が出来るのでしょうか。
反復練習の例で言えば、単に数をこなすのではなく、考えながらやることです。失敗した場合は、どの部分が悪くて失敗しているのかを、1回1回確かめながらやるべきです。
そして、『神がかりの状態』『ゾーン』呼び方は何でも良いのですが、その様な状態になった場合には、普段の状態とは何が違うのか、何故、上手く行っているのかなどを客観的に分析し、普段から同じことを再現できるようにすべきという事です。

反復練習で一番ダメなのは、何も考えずに、ただ回数をこなすことで、それを行ったとしても何も改善されないどころか、間違ったフォームなどが癖として付いてしまって、プラマイゼロどころかマイナスになる可能性もあります。
上手くいかないのは何故なのか、上手く行ったのは何故なのか。 『神がかりの状態』になっている時には、身体をどの様に使っているのか、普段の身体の使い方と比べてどうなのかと行ったことを、論理的に考える必要があります。
そういった努力こそが、ソクラテスのいうところの『ダイダロスの彫像を縛り付けておく』事になります。

今回の例では、分かりやすいように体を使ったスポーツの例で例えましたが、これは運動以外の『考える』『思考する』と言った事でも同じです。
例えば、マインドスポーツと言われているチェスや将棋では、情報が盤面の上に全て出ている為に運の要素がなく、強い人間が勝つ競技となっています。
この様な競技での強さとは、目の前の限られた情報で最適解を探し出す能力の高さになると思いますが、では、生まれ持った才能の差だけで強さが決まるのかといえば、そんな事はないでしょう。

強く有効的な手を打つ為には、論理的な思考で自力で導き出す方法だけではなく、ある瞬間に閃くといった事もあるでしょう。こういった状態の事を、アイデアが降りてくるなんて表現したりもします。
このアイデアが降りてくる状態を『神がかりの状態』とも言い変えることが出来ます。
この様な状態の再現も、似たような状況を何回か打開した経験を重ねることで、その中に共通するモノが無いかを探すといった分析を行うことで、事態を打開しやすくなったりします。

正しく行われた推測は間違わない

ここでも重要なのは、窮地に追い込まれた際に、何故、窮地に追い込まれたのかといった分析を行うとか、その後、『神がかりの状態』によって窮地を脱することが出来た場合は、何が原因で問題を克服できたのかを客観的に考えることです。
全く別の事柄であったとしても、その中に共通点を見つけ出し、法則化することで、似たような状況に陥った際には、『神がかりの状態』にならなくても事態を打開できるようにする。
この姿勢こそが、『ダイダロスの彫像』を縛り付けておく行為となります。

ダイダロスの彫像』が偶然にも目の前に現れて、『神がかりの状態』となって良いアイデアを閃く人は、問題を解決する為に必要な正しい知識を持っているわけではありません。
つまり、普段は問題の解決能力がない無知な者であるわけだけれども、何かの瞬間に『神がかりの状態』になった際には、常に正解が出せる様な状態になるというわけです。
ソクラテスは、メノンの『推測による行動は間違う可能性もある』という意見に対して、それを否定し、『正しく行われた考えは絶対に間違わない』としました。

これに対してメノンは、『それだと、知識と推測に違いがないことになってしまう』と反論したわけですが、この『ダイダロスの彫像』の例に照らし合わせて考えてみると、両者の違いは『時間』という事になります。
知識を持つものは常に正しい決断が下せるのに対し、正しい推測が行えるのは『神がかりの状態』になっている時だけですからね。

ということで対話編も終わりに近づいてきましたが、次回はこれを踏まえた上で、メインテーマのアレテーについて考えていくことにします。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第12回 経営戦略

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マーケティングの重要性

第7回~12回までは、マーケティングの話を中心にしてきました。
マーケティングとは奥深いもので、その6回で全てを話せわけではありませんので、また、機会を見つけて、もう少し掘り下げた話をしていければなと思っています。
途中から話がマーケティング中心になったのは、それだけマーケティングが重要だからです。

というのも事業というのは、世の中にある問題、これはニーズと言い換えても良いですが、それを見つけ出して、その問題を解決することでお金をもらうというのが基本になっているわけですが…
この、問題を見つけ出す作業というのが、マーケティングによって行われるからです。
前に『マーケティングの理想は、販売を不要にすることである。』というドラッガーの言葉を紹介しましたが、適切なマーケティング活動が行えていれば、販売活動をしなくても売上は伸びていきます。

これも、単に売上が伸びるわけではなく、粗利の幅が多い状態で伸びていきます。
何故かというと、相手が必要だと思っているモノやサービスを、マーケティングによってその人の元へ届けるわけですから、必要なものを提供された顧客は、基本的には値切ったりはしません。
利幅が確保できている状態で売上が伸びると、当然のように利益が上がるわけですが、この利益は会社を運営していく上でのあらゆる問題の緩衝材になります。

売上の重要性

というのも、会社を運営していく上での問題というのは、大抵がお金で解決できるからです。
生産能力がなければ設備投資をすればよいし、人手が足りなければ増やせばよいだけです。 求人も楽じゃないという反論もあるでしょうが、他社より高い値段で募集すれば、その苦労は解消されます。
会社が持つ、ヒト・モノ・カネ・情報という経営資源の中で、金だけは、他の経営資源をその力で買うことが出来るので、これが豊富にあると経営的にはかなり楽になります。

では、マーケティングだけやっていれば良いのかというと、そういうわけではありません。
何故かといえば、確実に成功させるマーケティング手法というものが無いからです。
もし、マーケティングの成功方法が確立しているのであれば、例えば大企業のSNSアカウントなどは全て成功していて、ツイートも高確率でバズっていることでしょう。

しかし実際問題として、優秀だとされる社員を雇って、高額なコンサル料を支払っている大企業ですら、失敗している事業や商品はあります。
マーケティングは事業を行う上で確かに重要ではありますが、これだけで事業が成功するわけではないため、マーケティング以外の勉強も必要になってきます。
ということで、今回はマーケティングから離れて、経営戦略について話していきます。

経営戦略

戦略には、大きく分けて3段階あり、企業戦略と事業戦略と機能戦略が有ります。
両者の関係性としては、まず企業戦略があり、その下に従属する形で事業戦略が有り、更にその下に機能戦略があります。
企業と事業の違いとしては、事業というのは、会社が行っているそれぞれの事業のことで、企業はそれをまとめ上げているものです。

例え話を使って、まず企業戦略を説明していきましょう。あるスポーツ用品メーカーがあるとして、そのメーカーがフットサル用品を作る仕事をする場合、それは1つの事業となります。
この会社が、フットサル用品だけを作って販売する仕事だけを行っている場合は、この会社の企業戦略と事業戦略は同じものとなります。
しかし、フットサル場の経営という別の事業を行っていたとすると、この企業は、フットサル用品の製造販売事業とフットサル場の経営という2つの事業を行うことになります。

その場合は、フットサル用品の製造販売事業やフットサル場の経営という別々の事業に、どの様に資金を配分するのか、仮にどちらかが上手くいっていない場合、どちらの事業を中止して、どちらを継続するのか。
2つの事業が上手くいっていて、そこから潤沢な利益が得られている場合、既存事業に追加投資をするのか、それとも、新しく別の事業を立ち上げるのか。といったことを決めるのが、企業戦略です。

事業戦略

一方で事業戦略とは、それぞれの事業の戦略を考えていくことです。
先程の例で言えば、フットサル用品の製造販売事業を、今後どの様に展開していくのかや、フットサル場の経営をどのようにしていくのかといった事を個別に考えていきます。
大きな会社であれば、企業戦略は経営層が担って、事業戦略はそれぞれの事業部長が責任を持つという感じでしょうか。

機能戦略とは、その事業部を更に細分化させて、それぞれについて戦略を立てていくことです。
具体的には、経理や購買、営業や研究開発など、会社に属する人たちはそれぞれ専門の部署について仕事をするわけですが、その部署ごとにたてられる戦略と考えてもらえばよいです。

前に経営理念の話をした際に、ピラミッド構造になっていて、一番上に経営理念があって、その下に経営ビジョンやドメインがあって、その下に経営戦略があるといった事を話しましたが…
その経営戦略も細分化すると、同じくピラミッド構造になっていて、上から順番に、企業戦略・事業戦略・機能戦略という構造になり、基本的に下のものは上の方針に従う構造になります。
つまり、機能戦略の方向性は事業戦略によって決まり、事業戦略の方向性は企業戦略によって決まるということです。

この3つの戦略ですが、先程も例え話の中で少し触れましたが、会社の規模によって捉え方が変わってきます。
繰り返しになりますが、事業が一つしかない場合、例えば、自動車部品のみを作っていますというメーカーは日本にかなりの数があると思いますが、この会社は事業を一つしか行っていませんので、事業戦略と企業戦略は同じようなものになります。
というのも、企業戦略は会社が持つ事業の方向性を決めて、それを元に予算配分など経営資源の分配を行っていくわけですが、事業が一つしかない場合は、それを行う必要がありません。

その為、一つしか無い事業の方向性が、企業の方向性を決めることになります。
このコンテンツは、中小零細企業の方に向けて発信していますので、これを聞かれている方の中には、『ウチの会社の規模が小さいので、事業は1つしか無いから関係ないよ。』という方もいらっしゃると思います。
では、そのような方には、今回の放送は意味がないのかというと、そんな事はありません。 知っておくことで、この知識を使う場面も出てくると思います。

新規事業の必要性

というのも、事業というと規模が大きな仕事のイメージを思い浮かべますが、実はそんなことはなかったりします。
先程、自動車部品を作っている会社の例を出しましたが、その会社が、自社が持っている生産設備や職人の技術を使って別の商品を作った場合、それも新事業となります。
商品が2つになれば、その商品ごとに戦略は変わってきますから、企業としては限りある経営資源を、どの様に配分するのかを決めていかなければなりません。

経営資源の分配というと小難しく聞こえますが、要は、製造機械の使用時間をどちらの商品に優先的に割り当てるのかとか、営業をする場合、営業部の人間をどの割合で分けるのかというのは、企業戦略として行うということです。
また、今現在は新商品も新規事業もする気がなかったとしても、外部環境のほうが変わってしまって、新たな事業を立ち上げなければならない状態に追い込まれることも有ります。

例えば、昔はカメラと言えばフィルムを使用するものでしたが、パソコンとプリンターが普及して、デジタルカメラが全盛になってくると、フィルムは必要がなくなるため、市場は急速に縮小していきます。
この様な状態でもし、フィルム事業だけを行い続ければ、その会社は倒産してしまうでしょう。 これが、自分一人で行っている個人事業なら良いですが、人を雇っていた場合は、倒産によって従業員の人生まで狂わせてしまうことになります。
会社の経営をするということは、働いてくれている従業員の生活を守るという責任もあるわけですから、携わっている市場が無くなったので倒産しましたでは許されない場合が有ります。

では、そういった時はどうするのかといえば、会社の体力が無くなる前に別の分野に進出するしか生き残る道はありません。

事業分散で生き残る

先程のカメラのフィルム市場の実例で言うのなら、富士フィルムという会社はカメラのフィルム市場が急激にしぼんでいく中で、事業大転換を行って、医薬品や化粧品事業に参入して大成功をしています。
仮にこの会社がフィルム事業にしがみついていれば、倒産していた可能性は高いですし、生き残っていたとしても、事業規模は相当縮小していたでしょう。

この様な感じで、野心的に会社の規模を拡大するためであったり、外部環境の変化によって、企業戦略が求められるケースはどの規模の会社であったとしても存在します。
その為、基本知識として、企業戦略・事業戦略・機能戦略の3つからなる経営戦略を知っておくべきだと思います。

ということで今回は、経営戦略とは何なのかについて話していきました。
次回は、経営戦略を考えるための有名なフレームワークであるSWOT分析について話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第99回【メノン】ダイダロスの彫像 前編

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前回はこちら

目次

 
今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

『良さ』と『知識』

前回の話を簡単に振り返ると、メノンとソクラテスとの間で行われた対話によると、アレテーとは知識のようなものと言うことが分かりました。
『アレテーが知識のようなもの』であるのなら、学校で学問を教える事が出来るように、アレテーも教える事が出来るはずだから、『アレテーの教師』といった職業が有るはずだという考えに至ったのですが…
ソクラテスは、その様な人には出会ったことがないと言い、二人の会話が行き詰まってしまいます。

そこでソクラテスは、ちょうど近くにいたアニュトスに質問をぶつけるも、結局、そんな人はいない事が分かってしまいました。
ソクラテスは、対話によってメノンと共に導き出した答えが間違っていたのではないかと思い、前提条件から見直すことにします。
その前提条件とは、『アレテーとは知識を伴って現れる』というものです。

そもそも、この前提に至ったのは、アレテーから、『知識』を差し引いた場合、アレテーには『善い』といった要素が残るのかという思考実験の結果を受けてでした。
アレテーそのものは、ボンヤリとしていて捉えきれないものなので、それを構成していると考えられる『勇気』などから知識を差し引いたところ、勇気からは『善い』とされている部分まで消えてしまいました。
アレテーを構成している物から知識などを差し引いたことによって、優秀な部分までもが差し引かれて無くなってしまった為、『優れている』とか『卓越している』という概念は『知識を伴って現れるのではないか』としたんでしたよね。

『知識』の代替品

この結果を前提条件として置いた結果、『アレテーとは知識のようなもの』という結論に至ったのですが、この前提が間違えている可能性が有るために、ソクラテスは、アテレーと知識を切り離して考えようと提案しました。
では、どのようにしてアテレーと知識を切り離すのかというと、アレテーから知識を差し引いて、そこに知識以外のものを足した場合に、再びアレテーに『善い』という概念が宿れば、アレテーと知識の関係を断てる事になります。

アレテーそのものを複雑な構造を持つ機械に置き換えて考えると、複雑であるが故に、様々なパーツが複雑に絡み合っている為、知識という重要なパーツが欠けてしまうと、アレテーそのものも機能を停止してしまう。
この様子は、知識というパーツが必須のようにも思える状態にも見えますが、そこに代替品となる別のパーツを組み込む事で機能が回復した場合、知識は必須ではなく、他のもので代用できるということになります。
では、その代用品となるパーツは何になるのかというと、推測です。 正しい周辺情報を用いての推測は、『既に知っている』という知識では無いですが、それと同じ様な効果を持つものです。

この意見にはメノンも納得し、『知識』の代わりに、正しいと思われる想像である『推測』を当て嵌めてもアレテーが機能するのであれば、アレテーを宿しているとされている偉人たちが、たまに失敗をしているのも納得ができると言います。
例えば、偉人とされているペリクレステミストクレスは、その人生の中で幾度となく失敗をしていますが、彼らの行動が推測によるものであるのなら、推測が外れていた為に失敗する事はあり得るだろうという事です。
ソクラテスは、彼らが犯した失敗を挙げて『彼らはアレテーを宿していたのだろうか。』と指摘することが多々ありますが、推測が外れた事によって向かうべき方向が間違ったと考えれば、彼らが偉人でありながら失敗をして来た事に対する言い訳にもなります。

しかしソクラテスは、正しく行われた考えは絶対に外れることはないので、正しい考えに基づいた行動をとっても、失敗するはずがないと断言します。
ただこれでは、『知識』と『正しく行われた考え』との間に、何の違いもないことになってしまいます。
この部分について納得ができないメノンに対し、ソクラテスは『ダイダロスの彫像』を例に出して説明しだします。

ダイダロス

この例え話をする前に、少し本題からは反れますが、『ダイダロスの彫像』についての説明からしていきます。
ダイダロスの彫像』のダイダロスとは、ギリシャ神話に出てくる登場人物で、あの有名なイカロスの父親です。
イカロスといえば、蝋で作った鳥の羽で空を飛び、あまりの気持ちよさに天高く飛びすぎて、太陽に近づき過ぎてしまった為に、蝋の羽が溶けて地面に落ちてしまったという話が有名ですよね。

そのイカロスの父親がダイダロスです。
ダイダロスは、幅広い知識を持っていて、その知識を元に様々なものを産み出してきた発明家であり、自分の手を動かして、それらを作り上げる職人でもある人です。 レオナルド・ダ・ヴィンチのような人といえば良いのでしょうかね。
他の人が考えもつかないようなものを思いついて、実際に手を動かして作ってしまえるということで、様々なところからの発注を受けていたようです。

このダイダロスですが、元々はアテナイで暮らしていて、その才能から人気を集めていたようですが…
嫉妬深い人間で、他の人間が自分よりも優れたものを作るのが許せない様な性格をしていて、それが災いして殺人を犯してしまい、アテナイを追放されたとされる人物です。
追放された後は、ミノスという名の王様が治めるクレタ島に移り住みました。 

ミノタウロスのラビリンス

このミノス王ですが、海の神様であるオーディーンから、『後で神々に生贄として捧げるから』という名目で、美しい牛を授かるのですが…
その牛のあまりの美しさに約束を破ってしまい、別の牛を生贄に捧げてしまったことで神の怒りを買い、ミノス王の妻であるパーシパエーは、神によって呪いをかけられてしまいます。
どの様な呪いをかけられたのかというと、ミノス王が神々から結果として騙し取った牛に対して、性的に魅力を感じてしまうという呪いです。

パーシパエーは、その牛と関係を持ちたい一心で、ダイダロスに牛の模型を作らせて、パーシパエーがその中に入る事で、牛と性的な関係をを持ち、妊娠してしまうことになります。
このエピソードから、ダイダロスの技術は、雄牛を発情させることが出来るほどの、生き生きとした魅力的な雌牛の模型を作れたということが分かりますよね。
そうして生まれたのが、牛の頭と人間の胴体を持つ、牛と人間が混ざりあったような生物です。
その生物は、アステリオスと名付けられますが、周りからは、『ミノス王の牛』という意味で、ミノタウロスと呼ばれます。

ミノタウロスは、成長が進むにつれて凶暴になっていき、手に負えなくなった王族たちは、再びダイダロスに命令を出して、彼を閉じ込めるための仕掛けを作らせます。
それが、ラビリンスという迷宮です。
このラビリンスの構造は、怪物となったミノタウロスから民衆を守る為なのか、それとも、民衆からミノタウロスを守る為なのか、その両方なのかはわかりませんが、秘密とされました。

ミノタウロス討伐

この話があった後、ミノス王は、ミノタウロスとは別の息子を、戦争で亡くしてしまいます。 そして、その原因がアテナイにあるということで、ミノス王は腹いせに、アテナイに定期的に生贄を要求し、それをラビリンスのミノタウロスに与えます。
これに不満を持ったテセウスが、ミノタウロスを退治する為に、生贄に紛れてクレタ島に上陸します。
テセウスは、無事に島に到着したまでは良いのですが、ラビリンスを突破してミノタウロスを倒し、その後再び出口に戻ってくる方法が分かりません。

困り果てている所を、ミノス王の娘であるアリアドネに発見されるのですが、このアリアドネテセウスに惚れてしまって、協力することになります。
アリアドネは、ダイダロスの元へ行き、ラビリンスを抜けてミノタウロスの元へ行き、再び出口に戻ってくる方法を聞き出し、事が済んだ後には自分を妻とすることを条件に、それをテセウスに伝えます。
結果、見事にミノタウロスを討伐してクレタ島から逃げ出すことに成功したのですが…

ダイダロスの方はというと、ラビリンスの秘密を漏らしたという罪で、高い塔の上に幽閉されることになります。
ここから脱出するために、冒頭でも話したように、蝋燭の蝋で羽を作って、息子のイカロスとともに脱出するという話です。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第11回【経営】階層分け

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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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前回のふりかえり

前回と前々回は、マーケティング自体を階層に分けて、それぞれの階層では何が求められているのかについて話していきました。
簡単に振り返ると、マーケティング1.0は製品中心の市場で、マーケットでは商品の需要が供給を上回っている状態になっているため、企業に求められるのは、製品を効率的に作ることです。
機械を導入したり、職人の作業を分解して標準化してマニュアル化するなどして、既製品を一定の品質を保ちながら安価に大量生産することが求められます。

マーケティング2.0では、マーケットでは需要と供給が拮抗、もしくは供給が上回っている状態で、尚且、消費者は企業が提供する商品についての知識を持っている状態となります。
商品についての知識というのは、別の表現をすると相場観です。 例えば電化製品であれば、これぐらいの性能だから、値段はこれぐらいだろうと顧客側が見積もれる状態になっているということです。
この環境では、企業は顧客に自社製品を選んでもらわなければならないため、ターゲットを絞って特定の層に向けて個性的な商品を出そうとします

マーケティング3.0では、マーケットでは個性溢れる商品が出尽くしている状態であるため、差別化も難しく、何もしなければ販売価格を下げないと競争力を生み出せない状態になります。
こういった状態を、コモディティ化なんて言ったりしますが、この環境で自社製品を選んでもらえる状況を作るためには、製品以外で差別化をして、付加価値を生み出していかないといけません。
そのためのキーワードが、環境問題であったり社会貢献です。

製品を購入すると、売上の一部を慈善団体に寄付するとか、商品に使用している原材料に、自然環境に良いものを使っているとか。海外の労働者に対しても先進国と同じ給料を支払うフェアトレードをしているといって、他社と差別化を図ります。
仮に、同じ値段で同じ様な商品が売られていたとしても、一方が環境や人権に配慮した商品と宣伝されていて、もう一方の商品が、単に普通に売られている場合、環境や人権に配慮した商品の方が売れそうですよね?
何故売れるのかというと、消費者は、同じ『商品を買う』という機会に、商品を選別するという手間を加えるだけで、社会貢献している気になれるからです。

環境問題の利用

ちょっと嫌味な言い回しになっていると思いますが、何故かというと、本当に地球環境のことを考えるのであれば、そもそも商品を買わなければ良いだけなのに、消費する言い訳として、社会貢献がダシに使われているからです。
例えば、何かしらの飲み物を販売する場合、プラスチック製の容器ではなく紙コップに入れて、紙のストローを刺して、『地球環境に優しい商品です!』と宣伝して商品を販売すれば、付加価値が増やせるというのがこの理論ですが…
本当に環境のことを考えるのであれば、消費者が水筒に水道水を入れて持ち歩けば良いだけです。わざわざ木を切り倒してパルプを作って紙製品にして、それを使用して作られた商品を外で買う必要はありません。

つまり、このマーケティング3.0で語られていることは、社会貢献をすれば、回り回って自社にも恩恵を受けれるという話ではなくて、環境問題や社会問題を営業に活用しましょうということです。
マーケティング3.0の段階では、『自社が儲けるために』というのを全面に出しすぎると、消費者から反感を買ってしまい、企業イメージが悪化して、逆に売上が減ってしまう可能性も有ります。
その為、『社会にこれだけ貢献しているんですよ』というのを積極的に打ち出すことで、商品単価を下げずに販売数を増やすことを目指します。

マーケティング4.0

最後のマーケティング4.0は、近年発達してきたSNSや、それによって生まれたソーシャルコミュニティの影響力を考えた上で、プロモーション活動をしましょうということです。
昔は、テレビ・新聞・雑誌といったメディアを使って、企業が一方的な情報を流すのがプロモーション戦略でした。
しかし、ネットの発達によって誰でもメディアを持つことができて、口コミがシェアされることで企業イメージに影響を与えるほどになった現代では、プロモーション戦略を変える必要が有ります。

ネット利用者と積極的にコミュニケーション取ることで関係性を築き上げ、それをリアルなイベントなどを通して更に関係性を深めることで企業のファンを作れば、彼らが勝手にブログなどで宣伝してくれる様になります。
宣伝は、企業が自分で『私の会社はこんなに素晴らしいんですよ!』と訴えても信用されませんが、企業とは全く関係がなく、尚且、自分の知り合いから『あの企業は良いらしいよ。』と聞かされれば、人はその情報を簡単に信じます。
これを利用して、ネットの活動によって多くのファンを獲得し、仲間に引き入れてしまいましょうというのが、マーケティング4.0です。

このマーケティング4.0は、中小零細企業でも比較的安価に導入することが出来る考えですし、マーケットがどの段階であろうとも意識すべきことなので、少し毛色が違ったりします。

階層分けが必要な理由

前置きが長くなりましたが、では何故、この様な階層分けをしなければならないのか。
それは、市場の段階ごとに取るべき戦略や、やらなければならないことが変わるからです。

市場環境という意味合いでいえば、マーケティング1.0~3.0がこれに当たりますが、この変化というのは、時代が進むにつれて加速度的に早くなっていってます。
しかし、人間の感覚というのは、そんなに簡単に変わることはありません。 何故かというと、昔の成功体験がバイアスとなって、自分の認識を変えてしまうからです。
その為、市場は絶えず変化していって、行わなければならないことが変わっているにも関わらず、経営者の意識だけは変わらず、結果、見当違いのことを一生懸命することになります。

もう少し具体的に例を出して説明すると、例えば、戦後まもない時期に、製造業で起業した創業者の会社の例で考えてみましょう。
この創業者の会社が今でも生き残っている場合、その事業は成功していると考えて良いでしょう。 もし失敗していれば、とっくの昔に市場から退場しているはずです。
この創業者が成功した環境としては、マーケティング1.0の時代に成功しています。

つまり、真面目にコツコツと品質の良いものを作り続ければ、何の営業活動もしなくても、黙っていても注文が入ってきた時代の人だということです。
このスタイルで事業を続けていくと、マーケティング2.0、3.0と時代が変化していくごとに、当然の様にこの企業の受注は減っていくことになります。
何故なら、マーケティング2.0や3.0の時に新規参入してきた企業は、製品を作る際に品質だけでなく、ターゲティングを行ったり、社会貢献をしているといったことをアピールして営業活動を行うからです。

自分の立ち位置を認識する

そんな中で、真面目にコツコツと製品を作り続けるだけの人は、時代に取り残されて生き残れません。勘違いしないでほしいのですが、この様な人が駄目だと人格否定しているわけではありません。
私自身は、真面目にコツコツと一つの事に打ち込む人に対しては好感を持ちますし、そういう人が成功する世の中になって欲しいとは思っていますが、現実問題として、世の中はその様にはなっていません。
実際の世の中は、商品や企業の演出方法など、ブランディングの仕方が上手い人が成功したりしています。

しかし、マーケティング1.0時代に成功した創業者は、自分自身がコツコツ頑張ってきたことで成功してきたわけですから、その成功体験にとらわれて、行動を変えることができません。
その為、自分の子供に後を継がせようとして教育する際も、自分が成功してきたノウハウを伝えるため、その後継者も、マーケティング1.0時代の経営しかわからないことになります。
結果として、結構な確率で事業は上手く行かなくなります。

ただ、この様な状況を招くのは、その経営者が無能だからではありません。 人間は、そもそもその様な行動を取るように出来ているんです。
人間は、成功体験が一つあると、それに縋り付きたくなります。 その成功体験を捨てて、やったことのない事に挑戦する人は、むしろ珍しい人だと思います。
また、人は現状維持を好む生き物だったりします。


人は保守的な行動を取る

例えば、何もしなくても40万円貰える状態と、行動を起こして2分の1の確率で100万円かゼロかのどちらかしか貰えないという状況があったとして、40万円貰う方を選択するという人は、結構多いはずです。

何かしらの行動を起こして2分の1で100万円貰える場合は、期待値が50万円なので、数値を重視して論理的に考えれば、行動を起こさずに確実に40万円を貰うよりも2分の1で100万円貰える方を選ぶ方が得をするはずです。
しかし人間の直感では、正しい方を選べません。 これが経営になると尚更です。
現状の営業活動を行っていれば、少ないながらも安定的な売上が上がるのに、その方法をあえて変えるという判断は、かなり難しいです。

経営方針を変えた結果、売上が上がれば良いですが、大抵は売上が下がる恐怖に耐えられません。 その結果、現状維持を選び続けることになりますが…それではジリ貧になってしまいます。
この呪縛のようなものから逃れるためには、そもそもマーケットがどのようなものか、マーケットはどの様に変化していくのかを知る必要が有ります。
マーケットがどの様に変化していくのかを予め知っていれば、自分が成功した方法は単に『第1段階を突破する方法』であって、最終的に目指すべきゴールではないことが理解できるようになります。

現状認識を行う

最終的なゴールが設定できれば、そこに到達するために現状の行動を見直せるようにもなりますから、時代に取り残されるということはなくなります。
つまり、全体像を把握して現状分析を行えるようになるため、経営のリスクを下げることが出来るようになります。
しかし、これが分かっていなければ、自分はマーケティング3.0にある市場に携わっているのに、マーケティング1.0時代に成功した人の自叙伝やビジネス書をありがたがって読むという、役に立たない知識の収集に時間を奪われたりします。

そういうムダを省くためにも、階層化を行って、自分が今どの位置にいるのかを確認するという作業が必要になってきます。
自分が今、どの地点にいるのか、目指すべき方向はどこなのかを把握することで、必要な情報を見極め、今やらなければならないことを明確にしていきます。
以上が、何故、階層化が必要になるのかの理由です。 この様に1つのものを分けていくという考え方は、マーケティングに限ったことではなく、企業の規模や製品ライフサイクルなどでも行われていたりしますので、覚えておいたほうが良いと思います。

これまで、マーケティングが中心の話が続きましたが、次回からは、経営学の話にもう一度戻って話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第98回【メノン】推測は絶対に間違わない 後編

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アレテーと知識の切り離し

という事で『アテレーとは知識を伴うもの』という前提を見直し、アテレーと知識を切り離せるのかどうかを考えていきます。

アテレーに限らず、人に何かを教えようとする場合、教える事柄についての知識を持っていれば、それを言葉や態度で伝えることで、教える事が出来ます。
では、人に何かを教えるためには、知識は必須なのでしょうか。 教えようとする事柄についての知識を持っていない場合は、絶対に他人に物事を教えることは出来ないのでしょうか。

これは、深く考えない場合は、『人は知らないものを教えることは出来ないだろう。』と思われる方も多いかもしれませんが、実際にはそんな事も無かったりします。
教えようとしている事柄そのものをピンポイントで知らなくても、その周辺の事柄について把握していれば、他の情報から推測することが可能です。
この『推測』というのは、既に知識として知っているという状態とは違います。 推測とは正解を想像することなので、ほぼ確実に正しいとされる推測が出来たとしても、それは知っていることにはなりません。

ただ、限り無く正解に近いと予測される推測は、その答えを想像すらできない人にとっては貴重な意見には違いないので、推測をした人は推測ができない人に教える事が出来ます。
例えば、京都から東京に行く場合。 一度、実際に京都から東京へ行った経験があれば、行き方を体験して知っている為に、誰かから行き方を尋ねられた場合には、その知識を元に答えることが出来ます。
では、京都から東京に行ったことがある人だけが、行き方を他人に教えることができるのかといえば、そんな事はなく、その事柄について知らなかったとしても、周辺情報を組み合わせることで推測できる人は、その結果を人に教える事が出来ます。

周辺情報とは、日本列島のどこに京都と東京が有るのかといった基本的なことや、新幹線などの列車や高速バスが、どの地域を結んでいるのかといった知識。
その他には、現代で言えば、どの様な検索ワードで検索をかければ良いかや、どんなアプリを使えば正しい順路が出てくるのかといった検索の仕方の事です。
これらの知識を組み合わせることによって、人は自分が直接知らない事を推測することが出来ます。 その推測によって導き出された答えが、ほぼ確実に合っていると予想されるのなら、それを答えとして他人に教える事が出来ます。

知識と推測

この『正しい推測によって導き出された答え』と『学んだり経験して知っている人に教えてもらう知識』は、どちらかが劣っているという事はありません。
教えてもらう側にとっては、教えてもらった『その答え』が、正しいのか間違っているのかが重要であって、教える側が既に知識として知っているか、推測で話しているかに大した意味はありません。

『推測よりも、知識の方が信頼できるだろ』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、聴いた答えが正しいのか、それとも間違っているのかの判断は、『知識』であれ『推測』であれ、その場で聞いているだけの状態では判断できません。
話し手側が、『これは経験に基づく知識だ』と思い込んで話していたとしても、情報が古ければ、その知識は今現在でも通用するかどうかは分かりません。
『知識』として獲得したその瞬間は、それは絶対に正しく間違っていない知識と呼べるかもしれませんが、時間が経つ事で、環境のほうが変わってしまって、その知識が役に立たなくなる事は珍しいことではありません。

先程の、『京都から東京に行く』という例でいうなら、実際に新幹線を使って行ったという経験をして、知識として知っている人から話を聞いたとしても、その後、鉄道運営会社の都合で路線が変更されてしまったりした場合は、その知識は役に立ちません。
憶測であれ、知識であれ、その情報が本当に正しいのかという実際の判断は、相手の答えを実行に移してみないことには、判断できない事になります。
そういった意味では、聞く側にとってみれば、相手の出した答えが推測によるものか、それとも知識に由来するのかは、大した意味がないことになります。

アレテー=推測?

この様に、正しい推測と知識は、教えてもらう側にとってはどちらも似たようなものとなりますが、教える側からすれば、推測と知識は全く違うものとなります。
当然といえば当然ですが、答えを導くプロセスが全然違いますよね。 推測による答えは、自分の把握している情報を元に答えを探り出す作業を行いますが、既に『知っている』場合は、その様な作業は必要がありません。
この様に両者は全く違ったものなので、『推測』というものを中心に据えて考えていく事で、アテレーから知識を切り離して考えることが可能になります。

このソクラテスの説明に納得をしたメノンは、『正しい推測によって起こした行動もアテレーを宿した行動に含まれるのであれば、下した決断の中に間違ったものが含まれている事にも納得がいく』と、この意見に同意します。
アテレーを宿した状態というのを、究極レベルに優れた状態に置き換えて考えてもらえれば分かりますが、完全な知識によって善悪を見極めて、悪い方向へ導く欲望を制して勇気と正義を宿す人は、本来であれば、絶対に間違った決断は行いません。
決断が間違っているというのは、完全な知識を持っていない事の証明ですし、その様な人は正しく善悪を見極めることも出来ないでしょう。 つまり、間違うということは、アテレーを宿していないと言い変えることが出来るわけです。

しかし、『正しいと思われる推測に基づく行動』もアテレーを宿した行動に含んでも良いとするなら、推測は知識ではなく、あくまでも周辺情報を寄せ集めて正しい答えを想像しているに過ぎないので、間違っている事もあるということです。
今までの対話で、ソクラテスは偉人とされている人達が行ってきた行動の間違いを指摘して、『彼らは本当に、アテレーを宿していたんだろうか。』と言っていましたが…
彼らの行動が推測に基づくものであるとするなら、その行動に間違いが有っても不思議では無いという事になります。

推測は絶対に間違わない

つまりメノンは、今までのアテレーの認識は、アテレーを宿すものは絶対に間違いを犯さないし、その行動は常に正しく、幸福に向かって最短距離を進んでいると思われていたわけですが…
アテレーを宿す者とは、そんな完璧超人のことではなく、憶測によって行動を起こすこともあるので、たまには間違うことも有るという認識へと変化すると思ったので、納得したわけです。

しかしソクラテスは、そのメノンの解釈は間違っていると指摘します。 そして『正しい考えによって出た答えに沿って行動を起こした場合は、間違うなんて事はありえない。 常に正しい道を選択し続ける事になる』と訂正します。
これを聴いたメノンは、『それだと、正しい推測と知識には差が無くなってしまい、両者は同じものになってしまう。』と困惑します。

くどいようですが、メノンの認識としては、知識がないものが周辺情報から正しいと思われるものを想像するのが推測なので、その推測は間違っている可能性が有る。 その点に置いて、知識と推測は違うものだと言っているわけですが…
それに対してソクラテスは、正しい考えは絶対に正解に辿り着くと主張しているわけです。 しかし、それだと、推測と知識には何の違いもない、同じものとなってしまう為、『違いがわからない』とメノンは困惑しているわけです。
この様に主張するからには、ソクラテスには、両者の明確な違いを説明する必要がありますが、その説明を、神話の世界のダイダロスの彫像に例えて、説明を始めるのですが…

その話はまた、次回にしていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第98回【メノン】推測は絶対に間違わない 前編

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今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

アニュトスの言い分

前回の話は、メノンとの対話に行き詰まっていた際に、近くにいたアニュトスに、『アテレーの教師』について聴いた回でした。
アニュトスは、父親がお金を稼ぐ能力を持っていている資産家でした。 メノンの主張によると、アテレーとは『美しくて立派なものを欲し、それを手に入れる能力』という事で、『美しく立派なもの』とは金品だと言っていました。
資産家というのは、金品を稼ぎ出す能力に秀でた人のことなので、先程の主張に照らし合わせると、アニュトスの父親はアテレーを宿していることになります。

また、多額のお金を持っているということは、そのお金を使えば、立派な教師を沢山雇う事が出来ます。
多くの親は、子供を大切に扱うので、アテレーを宿していると考えられるアニュトスの父親は、自分自身や金で雇った教師たちで、アニュトスを教育したはずです。
この様な環境で育ったアニュトスなら、『アテレーの教師』についてなにか知っているのではないかという思いから、彼に質問をしました。

その結果、アニュトスからは『アテナイ人であれば、誰でもアテレーを教える事が出来るので、アテレーのみを教えるといった特別な職業は無い』という答えを聞き出せました。
ソクラテスが何故、『アテレーの教師』について尋ねたのかというと、メノンとの対話の結果、『アテレーとは知識のようなもの』という事が推測によって分かったのですが、『知識のようなもの』であるなら、教えられるはずだという話になったからです。
アテレーが『教えられるもの』であるなら、それを専門とする教師がいても良いはずなのに、ソクラテス自身は見たことも聴いたこともありませんでした。

『アテレーは知識のようなもの』という証拠見つけるためには、『アテレーの教師』という存在を見つけ出さなければなりませんが、ソクラテス自身は、その存在を知らない。
その為、知ってそうなアニュトスに聴いたという流れでしたが… その答えは意外にも、『アテレーの教師』という職業は存在しないが、アテレーは『誰にでも教えられるもの』というものでした。
ただ、アニュトスが話したというだけでは、その意見が正しいと確信することが出来ないので、ソクラテスは、その意見を吟味する作業に入りました。

アレテーの教師は存在しない

しかし、吟味の為に様々な質問や考察を行った結果、『アテレーを熱心に教育された者はいるが、それを身につけられたものはいない』という事が分かってしまいました。
議論は振り出しに戻り、何もわからない状態のまま。アニュトスは自分の意見を否定された事に腹を立ててその場を去ってしまったので、ソクラテスは再び、メノンとアテレーについて推測していくことになりました。

アニュトスの意見を吟味した結果、『アテレーを教えることは出来ない』という可能性がかなり高くなったわけですが、メノンが一番最初にソクラテスの元を訪れた際のことを思い出すと…
彼は、師匠のゴルギアスにアテレーを教えて貰ったと思い込んでいて、有名なソフィストと思われていたソクラテスに対して挑戦を挑んできたのが始まりでした。
このことから、メノンは当初、師匠のゴルギアスはアテレーを教えることが出来る教師だと思い込んでいたわけですが…

一連の対話が済んだ後に、もう一度、メノンに対して『アテレーを教えられる人はいるのだろうか。』という質問をしたところ、『これまでの対話の結果を考えると、アテレーを教えられる者はいないのではないか。』と心変わりします。
そして、師匠のゴルギアスが弟子に教えている事は、弁論術という技術であって、彼はアテレーの教師ではないと主張を変えます。

これまでに分かったアテレーの性質について簡単にまとめると、『アテレーとは知識のようなもの』ではあるけれども『他人に教えられるようなものではない』という事がわかったわけですが…
しかし、これは一体、どういう事なのか、メノンは疑問に思います。 『知識のようなもの』であるなら、教えられるはずなんですが、実際に他人に教え伝えた人物は居ない。
可能性としては、『アテレー』を本当の意味で身につけた人間は、この世には一人もいないという可能性も考えられます。

バイアス

これは『アテレーは知識のようなもの』なので、理論上は、アテレーを宿したものなら他人に教え伝えることは出来ますが、その様な人物はこの世に1人もいない為、教師に成れる人物がいないという事です。
この疑問に対してソクラテスは、『アテレーの捉え方そのものが、根本的に間違っていたかもしれない。』と言い出し、もう一度最初から考えようと言い出します。
このソクラテスの態度は、非常に論理的で科学的な考え方とも言えますよね。

ソクラテスは先ず、『わからないモノ』や『解明したいもの』を明確にして、仮説を立てて推測を行いました。
おそらく、ここまでの行動は、誰でも行うことだと思います。 わからない物事を、身近な理解できるものに置き換えて考えてみるなど、仮説を立てて推測を行うというのは、現在では普通に行われていることですし、当時でもそうだったんでしょう。
しかしソクラテスは、そうして出てきた答えを、本当にそうなのかどうかを確かめる為に、吟味しようとします。 これは、なかなか出来ることではないですよね。

大抵の人間は、自分が必死に考えて生み出したアイデアや考えを大切にしようとします。 そうすると、その時点でバイアスがかかってしまい、自分の考えた答えに対して反論されると、気分を害したりします。
ソクラテスと対話を行ったアニュトスがそうでしたよね。 彼は彼なりに、人生の経験などを通して知った事を踏まえて、考えをまとめたのでしょうし、その意見が正しいという確信も持っていたのでしょう。
その為、その意見を無条件で養護してしまい、反論をぶつける人を目の敵にしてしまいます。

逆に、自分の意見を肯定してくれるような人が現れると、気分を良くして、自分の意見に更に自身を持つようになります。
その結果として、聴きたい意見だけを聞き、自分の意見に対立するような不都合な事に対しては耳を塞ぎ、どんどんと頑なになっていきます。

フィルターバブル

これを聴いている皆さんにも、同じ様な経験はないでしょうか。
例えば、政治に関してや世の中で起こる問題など、疑問に思ったことをネットで検索してみるも、検索する前から既に自分の答えは決まっていて、その答えを肯定したり、理論を強化する情報のみをじっくり読み込み、反対意見は無視する。
この他にも、Twitterなどで、自分と似たような思想の人ばかりをフォローしていった結果、タイムラインが極端になってしまっている…なんてことはないでしょうか。

この様な行動は、先程のアニュトスだけが特別なのではなく、皆が取る行動だったりします。 その結果として、思考が極端になって視野が狭まるのですが…
しかしソクラテスは違います。 例え自分自身が時間をかけて苦しみ抜いて生み出した答えであったとしても、それが本当に正しいのかどうかを吟味する為に、敢えて批判にさらされます。
現代でいうなら、まるで自分の意見が間違っている事を証明したいかのように、ネットを使って、自分の考えている事と真逆の意見を必死に探しているようなものです。

科学の現場では、自分にかかっているバイアスを完全に無視する為に、研究の成果を論文として発表し、可能であれば、科学雑誌などの多くの人の目に触れる場所に置くことで、その意見が本当に正しいかどうかを吟味します。
目立つところに置かれた理論は、多くの人の批判の目にさらされ、数多くの反論が寄せられることになりますが、その反論に対して感情ではなく、論理的に反論を行い続けることが出来れば、批判に耐えた理論として、信憑性が高まります。

ソクラテスの行動も同じで、それらの批判に耐え抜いた考えこそが正しいと思われる考えであって、簡単に批判され、それに対する反論もできないようなアイデアは、例え自分が生み出したものであったとしても、直ぐに捨てるべきだという考えなのでしょう。
ソクラテスは早速、議論を巻き戻し、問題点を探り始め、『アテレーとは知識のようなものである』という推測の前提となっている、『アテレーとは知識を伴うもの』という前提を疑います。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第10回 マーケティング3.0&4.0

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マーケティング1.0&2.0

前回は、何故、事業を行うにはマーケティングが必要になるのかを説明するために、フィリプ・コトラーという人物が提唱した説を紹介していきました。
簡単に振り返ると、企業が様々な取引を行うのは市場・マーケットですが、このマーケットには段階が有ります。
段階は4つに分かれていて、それぞれの段階で企業が求められる行動そのものが変わってきます。

まず一番最初の段階である製品中心の市場では、需要に比べて供給能力が大きく不足している状態なので、供給側は最低基準をクリアーできている商品の供給を増やす努力をすれば良い状態です。
これが次の段階の移行すると、消費者には既に商品が行き渡っている状態となり、需要と供給、 需要は物を欲しいと思う気持ちで、供給は商品の生産能力と考えてもらえば良いですが…
この需要と供給が等しい状態、もしくは需要の方が上回っている状態となる為、単に製品を作るだけでは販売数は伸ばせない状態になります。

製品を増産するだけでは販売数が伸びない状況に追い込まれると、企業は消費者に、他社製品ではなく自社製品を選んでもらえるような工夫をしていかなければ、生き延びることは難しくなります。
そのために必要なのが、他社製品との差別化です。 購入する顧客層を特定の範囲に絞り込み、その顧客用にカスタマイズされた商品を作ることで、消費者に選ばれるような商品づくりを行います。
当然、他社も同じ用に製品を差別化して個性を獲得していくわけですから、この段階で、消費者は各企業に対して特定のイメージを抱くようになります。

差別化と企業イメージ

この顧客の抱くイメージを特定の物に誘導するような戦略が、ブランド戦略となります。
大まかに分けると、高品質だけれども価格の高い高級ブランド。 作りは簡素だけれども価格が安い低価格ブランドの様な感じでしょうか。
ブランドは、その企業への信用の値とも言えるため、高級ブランドの場合はブランド力が高ければ高いほど、それは価格に反映されることになり、付加価値も上がることになります。

逆に低価格ブランドとして認知されてしまった場合は、営業方針を変えて高価格帯の商品を出したとしても、既に低価格というイメージが企業そのものに付いてしまっているため、高い値段では売れなくなります。
一方で、お金に余裕がない消費者からは、高い製品の代用品として真っ先に検索されるでしょうから、どちらが良いとは断言できません。

以上が、マーケティング1.0と2.0だったわけですが、今回は、3.0と4.0について話していきます。

市場の成熟期

3.0と4.0は、更に市場が成熟した状態を想定しています。

まず、マーケティング3.0ですが、これは『価値主導』の市場で、その製品を購入することで世界をよりよく変えることが出来るのかといった価値観が入り込んできます。
自分の好みにマッチしている商品を購入するというマーケティング2.0の市場も、更に発展していくと、差別化しているのに違いが出せない状況になっていきます。
何故、こんな事になるのかというと、わずかでも金になる市場には新規参入が後をたたないからです。

市場というのは、後から入れば入るほど、リスクは少なくなります。例えば、2019年にタピオカが流行りました。
このブームが起こる前にタピオカ屋を始めるのは、その商品が流行るのか流行らないかがわからない為にリスクが高いですが、流行った後で参入すると、既に流行している市場に参入するため、リスクは下がります。
どの様な商品が受け入れられているのか、どの様な価格帯が好まれるのかも、先に参入している人たちを観察すれば簡単にわかるので、新規参入がしやすくなります。

製品の差別化以外で差をつける

当然、新規参入する人たちは、従来の商品との差別化をすることで、シェアを奪おうとしてきますが、差別化にも限界が有ります。
結果、タピオカ市場では、新規参入の増加につれて差別化が難しくなっていき、価格競争に突入していきます。
しかし、市場の大きさに限りがある状態で価格競争に突入してしまうと、利益は減少してしまいます。

この流れが続いていくと企業の体力は持たないため、製品に対して差別化以外の新たな価値を商品に付け加えていかなければなりません。
それが、『地球環境を守る』といった環境問題への取り組みです。
例えば、タピオカの例の流れで説明すると、タピオカドリンクに備え付けているストローをプラスチック製から紙製に変えるとか、容器を自然分解されるものに変えると言った感じにするなどです。

このようにすることで、同じ商品を買うのであれば、『環境負荷の低い商品を買おう』と消費者から思ってもらうことで、自社製品の購買に繋がります。
この部分でマーケティング2.0との差がわからないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、3.0で行われている差別化は、製品の直接的な差別化には繋がっていないという点で、2.0とは違います。
今回は、ストローをプラスチック製から紙製に変える事で商品自体が変わっていることで差別化が行われているようにも思えますが、実は商品のコアの部分は変化していません。

変化しているのは付属品のみで、中身のタピオカドリンクは同じものです。

コーズ・リレーテッド・マーケティング

付属品が変更されるのを含めると分かりづらい方は、別の例で考えてみると分かりやすいかもしれません。
例えば、A社とB社が、付属品や容器も含めて全く同じ商品を販売していたとして、A社が、『自社製品を購入してくれれば、売上の一部を環境保護を行う団体に寄付します。』と言ったとします。

この場合、全く同じ商品であればA社の商品を買ったほうが、社会に貢献できると思う人が多くなり、結果としてA社の売上のほうが高くなったりします。
こういったマーケティング手法を、コーズ・リレーテッド・マーケティングなんて言ったりしますが、この場合は商品は同じなのに、商品以外の要因で差別化が行われていて、A社の売上が伸びています。

マーケティング4.0

そして最後がマーケティング4.0で、これは企業と顧客や顧客間同士のつながりを重要視するマーケティングです。
このマーケティング4.0は、ネットが社会に普及してから新たに生まれた価値観です。 その為、かなり最近になって生まれた価値観といえます。
マーケティング3.0までが、企業側が消費者に向けて商品や情報を提供する流れだったのに対し、マーケティング4.0では、消費者感や消費者と企業との双方向でのつながりを重視する考え方です。

ネット、特にSNSが発達した社会では、必ずしも企業側だけが情報を発信して、商品価値やブランドイメージを構築するわけではありません。
UGC(User Generated Content)と呼ばれるユーザーが作るコンテンツによっても、企業や製品のイメージは大きく左右され、販売数にも直結するようになります。
ユーザーが作るコンテンツというと、大掛かりなモノを想像してしまいがちですが、個人が発信するyoutube動画やTwitterのつぶやきも、これに含まれます。

簡単に言えば、企業がどれだけ頑張って企業イメージを作ろうと広告費を投入したとしても、ユーザーの誰かがTwitterで不意につぶやいた一言がバズれば、ソーシャルコミュニティを通じてその情報が一気に拡散してしまい…
その情報の方が定着してしまうということです。
しかし一方で、この環境をうまく使ってSNSで消費者と繋がり、信頼を得ることができれば、中小零細企業でも広告費を掛けずにブランドイメージを浸透させたり、製品販売につなげることが出来るようになったりします。

このマーケティン4.0では、単純にオンラインのつながりだけを重視するのではなく、オンラインを入り口にしてオフラインでのイベントの開催などにつなげ、消費者同士をつなげて一つのコミュニティを作ることも含めています。
例えば、生活に絶対に必要なものでない趣味や嗜好品の場合、一人でその趣味を行うよりも、趣味仲間を作った方が長続きしますし、その人物を沼に引き込みやすいです。
コミュニティが生まれれば、その人達が新たな同士を増やそうとブログ更新やイベントを開催してくれたりするわけですから、市場も拡大していきます。

今の環境を利用していこうというのが、マーケティング4.0です。

まとめ

以上が、前回から行ってきたマーケティング1.0~4.0の簡単な解説でした。
マーケティングの段階とはどのようなものなのかを順を追って、改めて整理したのが、前回と今回で説明したマーケティング1.0~4.0だったのですが、結構、わかりやすかったのでは無いでしょうか。
経営学というのは経営を学問に落とし込んだものですが、学問というのは、曖昧なものを整理したり、物事を分解して単純化した上で、そのシステムの働きを解明していくものです。

その為、マーケティングというのを市場の成熟度合いに応じて階層に分け、それぞれがどの様なものなのかを定義していくというのが必要になってきます。
ただ、くり返し言っていますが、この経営学を学んだところで、確実に大成功するわけではありません。
出来るのは、リスクを下げることだけです。 では、今回の様にマーケティングの階層分けを学ぶことで、どの様にリスクを下げることが出来るのか。

このことについて、次回に話していこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第97回【メノン】賢者の教育 後編

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テミストクレス

アニュトスによると、アテナイに住んでいる人なら全ての人がアレテーを宿しているそうですが、そんな中でも飛び抜けて優秀とされている人物であれば、確実にアレテーを宿しているだろうと、テミストクレスの名前を挙げます。
テミストクレスという人物は、将軍や執政官を勤めていて、アテナイギリシャの中でもトップクラスの海軍国家に仕上げて、進軍してくるペルシャに対抗した人物と言われています。
ソクラテスは『アテナイに住む普通の市民でもアレテー教えることが出来るのなら、このテミストクレスにも、他人にアレテーを教える能力はあったのだろうか?』とアニュトスに尋ねます。

有名でもない、アテナイに住んでいるだけの人でもアレテーを教えることが出来るわけですから、アニュトスは当然、テミストクレスならアレテーを教えることが出来たと答えます。
これによって、アレテーの教師はテミストクレスということが分かったわけですが、ソクラテスの性格上、この意見も鵜呑みには出来ないので、この答えが本当に正しいのかを吟味していく必要があります。
吟味する方法として一番わかり易いのは、彼がアレテーを教えた生徒の動向を見ていくのが良いと思いますが、残念ながら、テミストクレスはアレテーの教師という職業についておらず、生徒もいません。

しかし幸いにも、彼には子供がいます。 大抵の親は子供を愛し、それ故に、自分の分身とも呼べる子供を優秀で卓越した存在にしようと教育を施します。
おそらく彼は、自分の子供を熱心に教育したでしょうから、その子供がどの様に成長したかを観れば、テミストクレスが本当にアレテーを教える能力があったのかどうかを推測することが出来ます。
プラトンが書いた別の対話篇の『プロタゴラス』によると、アレテーは教える側の能力だけが優れていても身につかず、それを学ぶ生徒の方にも、生まれ持った素質というものが必要だという事だったので、まずはそちらから見ていきます。

賢者の息子

テミストクレスの息子のクレオファントスは、馬術を習った際に、その才能を発揮し、訓練を受けることでその能力を飛躍的に伸ばしたとされます。
これから分かることは、クレオファントスという人物は、無能というわけではなく、教えればそれを吸収して自分のものにする能力がある事が分かります。
もしかすると彼は、馬術の才能だけに恵まれていた可能性というのもありますが、少なくとも、人の話に耳を傾けて実践するという力は備わっていると思われるので、アレテーに関しても正しい教育を行うことで、身につけてくれる可能性があります。

そして実際に父親のテミストクレスは、息子にアレテーを教えようとしたでしょう。
いくら有名な権力者の息子だからといって、馬術の技術だけでは人の心を引きつけることは出来ないでしょうから、正義や節制や勇気といった概念を教え込んで、優秀で卓越した人間にしようと試みたはずです。
では実際に、ギリシャ内でも最高峰の教育を受けたと思われる、その息子は、どの様に成長したでしょうか。 父親と同じ様に偉業を達成して、人々から優秀で卓越していると絶賛されているのでしょうか。

もしそうだったら、ソクラテスは満足の行く答えを得て、対話を終えることが出来たのですが… そうは問屋が降ろしません。
テミストクレスの息子は、特に偉業を成し遂げることもなく、優秀だと人々から評価されることもなく、特に目立った成果がないために、その後の足跡を辿ることすらも困難な状態です。
実際にgoogleで『クレオファントス』と入れて調べてみても、特に記事はヒットしません。 私達と比べれば、ソクラテス達が生きていた時代の方が、遥かにクレオファントスを身近に感じていたと思いますが、それでも、何の噂も聞きません。

これは、教育が成功したと言えるのでしょうか。

賢者の教育

繰り返しになりますが、アニュトスは、アテナイに住む人間であれば、誰でもアレテーを教えることが出来ると主張していました。
そのアテナイ人の中でもトップレベルに優秀とされているテミストクレスは、自分の息子を自分と同じ様に優れた人間にしようと頑張ったはずなのに、成果は出ていません。

仮に教育に成功していれば、父親と同レベルには業績が知れ渡っているはずだからです。 それとも、テミストクレスは子供の教育には熱心では無く、子供にアレテーは教えなかったのでしょうか。
幸いにもアテナイには、テミストクレスの他にもペリクレスなどの歴史上の偉人が数多くいるので、彼らの弟子や子供たちの成長を追っていけば、偉人とされる父親からアレテーを教えてもらったかどうかを推測することが出来ます。
では、ペリクレスの息子は、どの様な人生を歩んだのでしょうか。 皆から尊敬されるような、成功を収めた人物だったのかどうかを見ていきましょう。

先程のテミストクレスは、ソクラテスが青年時代に無くなっているので、彼が息子をしっかりと教育したのかや、その息子の動向を正確に掴むことは出来ませんでした。
しかしペリクレスは、ソクラテスと生きた時代が結構かぶっている為に、テミストクレスに比べれば身近な存在ですし、息子がどの様な人間だったのかの情報も入手しやすい状態です。
ということで、早速、ペリクレスが息子にどの様な教育を施し、その結果、息子がどの様に成長したのかを追っていきましょう。

ペリクレスは、アテナイ民主化した人物で、パルテノン神殿を立てた事でも有名なアテナイの指導者で、アテナイについて熱心に考えた人物ですが、同じ様に、子供の教育にも熱心でした。
自分で教えるだけでなく、立派な教師を雇うなど、持てる力の全て使って子供に教育を施していることからも、ペリクレスが子供にアレテーを授けようと必死だったことが伝わってきます。
では肝心の息子は、親の期待に答えるように優秀で卓越した人物へと成長したのかというと、そんな事はなく、酒に溺れて連日のように飲み歩き、その代金は、有名な父親の名前を出す事でツケにしていたようです。

連日のように呑み歩くのは良いとしても、親の名前を出してツケ払いというのは、どう考えても、優秀な人間の行動とは言えませんよね。

これは、単にペリクレスの息子が『どうしようも無い人間』だったというわけではないようです。
アテナイには大金を持つ資産家も数多くいますが、彼らは、自分の可愛い子供の為に最高の教育環境を与えているようですが、それが実を結んで子供が立派に育ったという例は無いそうです。
無いというよりも、少なくともソクラテスは、聞いたことが無いと言います。

論破されるアニュトス

これに対してアニュトスは、効果的な反論を思いつかなかったのか、『君は、平気で他人の悪口をいうような人間なんだね。 私の話を聞きたいのであれば、今後、その様な行為はやめたほうが良い。』と言い出します。
ただ、アニュトスとの対話の冒頭部分を思い出してほしいのですが、彼は、自分が関わり合いを持ったことすら無いソフィストの悪口、それも、人格否定レベルの悪口を言い続けています。
正直、『お前が言うか』という気がしないでもないですが… この辺りのやり取りから、アニュトスが非常に高いプライドを持っていることが伺えますね。

アニュトスは、自分は物知りだから、無知なソクラテスに教えてあげるというスタンスで対話に付き合っていたわけですが、その無知なソクラテスに、自分が教えていた事に何の根拠もなかった事を暴かれてしまい…
それに対して言い返すことも出来なかった為、アニュトスはヘソを曲げて、討論を打ち切って去っていきます。
対話の結果としては、優れているとされている人物や、多額の資産を持っていることで、優秀で立派な教師を雇える人物を親に持つ子供は、最高の教育を受けれるはずなのに、教育の成果は出ていないということが分かりました。

アニュトスが去ったので、再びメノンとソクラテスの対話に戻りますが、この続きは、また、次回にしていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第97回【メノン】賢者の教育 前編

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前回はこちら
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目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて、考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

アニュトスの父親

前回は、メノンとの対話が行き詰まってしまった時に、近くに、この話題について質問できるアニュトスがいたので、ソクラテスは彼に意見を聞くことで、行き詰まった状態を打開しようと思いました。
アニュトスという人物は、裕福な資産家の元で育った政治家で、彼の父親は、莫大な財産を築き上げた人物です。
それも不正などは行わずに、真っ当な方法で大金を得ている為、彼の父親は普通の人間よりも優れていて卓越した人物と言えます。

普通の人にはない優れた能力によって、卓越した人物ということは、この父親はアレテーを宿している可能性があります。
父親がアレテーを身に着けているのなら、アニュトスは父親からアレテーを教えてもらっている可能性もあります。大抵の親は、自分の子供が可愛いと思っていて、自分の持っているものは与えてやりたいと思うものですからね。
また、それだけでなく、有り余る財産を使って、教師を雇うことで最高の教育を受けさせることも可能です。

メノンとソクラテスは、『アレテーが教えられるもの』という結論には辿り着いたけれども、実際にアレテーの教師と呼べるものを見つけ出せずに行き詰まっていました。
しかし、このアニュトスであれば、その答えを持っているかもしれない。 そんな思いから、ソクラテスはアニュトスに声をかけました。
ソクラテスは、世間一般ではアレテーの教師と呼ばれているソフィストという職業が有るが、アレテーを身に着けたいのであれば、彼らの元で学べば良いのかと尋ねます。

ソフィストの評価

これに対しアニュトスは、『彼らと関わっても良いことはない。 彼らは単純に嘘をついてお金を奪い取るだけでなく、間違った事を吹き込んで人を堕落させる様な奴らだから、近寄ってはいけない』と警告します。
しかしソクラテスは、この返答が理解できません。 というのも、ソフィスト達と関わった人達を観てみると、『嘘を教えられた!』といった不満を漏らしていないからです。
本当に悪いことを吹き込んで、関わる人を堕落させて不幸にする様な人達なら、もっと罵られていても良いし、悪い噂が広まっていて、彼らは仕事ができなくなっているはずです。

ですが実際には、彼らは40年にも渡って仕事をし続けています。逆に言えば、40年間、弟子入り志願者が絶えなかったという事になるわけです。
仮に、アニュトスの主張が本当だったとして、関わる人を不幸にしていく人が、ここまで支持される理由が分かりません。

ソクラテスは、『アレテーを宿していて、それを他人に教える能力が有るソフィストが、敢えて生徒に嘘を教えて、悪の方向に引きずり込もうとしているのが理解できない、彼らは、正気を失っているのでしょうか。』とアニュトス尋ねます。
これに対してアニュトスは、ソフィストはアレテーを宿しているなどとは思っていないので『正気を失っているのはソフィストの方ではなく、彼らの様な存在に教えを請いに行く生徒や、その親の方だ。』と一刀両断します。

このアニュトスの、強烈な批判を込めた返答に困惑したソクラテスは、『何故、そこまでソフィストを憎んでいるのですか? 彼らに親でも殺されたんですか?』と尋ねます。
しかしアニュトスは、害悪を撒き散らすソフィスト達には、出来るだけ近づかない様に気をつけていると言い出します。
ソクラテスは不思議に思い『関わった事が無いのに、何故、彼らが害悪を撒き散らす存在だと言えるんですか?』と尋ねるも、アニュトスはそれぐらいの事は、関わり合いにならなくとも分かると言い放ちます。

想像して判断する

これを受けてソクラテスは、『自分が関わったこともない事を知っているなんて、貴方は、預言者か超能力者ですか?』と皮肉を言うのですが…
このアニュトスの理屈は、分からなくも無かったりします。

前回では、ソフィストの事を、炎上芸人が開いているネットサロンに例えましたが、同じ例えで考えていると分かりやすいと思います。
この炎上芸人達には、多数のアンチが存在しますが、そのアンチ達は全員、一度サロンに申し込んで実際に授業を受けた上で、『あんなモノには何の意味もないだけでなく、情報を鵜呑みにすると損をする』と理解し、批判しているのでしょうか。
実際には、そんな事はないですよね。 ちゃんと統計をとったわけではありませんが、おそらく、実際にサロンに申し込んだ人数よりも遥かに多い人数のアンチがいるはずです。

そんなサロンに参加したことも無いアンチに対して、『何故、実際に体験してもいないのに、役に立たない内容だと分かるんですか?』と尋ねても、アニュトスと同じ様に『それぐらいの事は経験しなくても分かるよ。』と答えるでしょう。
人は、自分で実際に経験しないことでも、今までの経験と照らし合わせたり、他人の体験談などを聞いて、ある程度の憶測が出来るので、それぐらいは分かると答えるのでしょう。
しかし実際には、それは憶測でしか無く、本当のところは、ソクラテスの言う通りに体験してみないと分からない事だったりしますけれどもね。

ただ、この理屈でいうのなら、反社会的勢力と呼ばれる暴力団が、本当に悪い集団なのかを知る為には、実際に組織に入ってみないと分からないことになってしまいます。
世界中でテロを起こしたり、様々な迷惑行為とされる事を行っている集団であっても、本当にそれらの組織が悪いのか、悪くないのかを知る為には、組織の一員にならないと分かりません。
ですが、先程も言いましたが、人は周辺にある情報を集めることによって、対象となるものがどの様なものかを推測することが出来ます。

アレテーの教師

ソクラテスの言う通り、体験してみることで、推測だけでは分からなかった部分も見えてくるとは思いますが、体験しなければ分からないという言い分も、極端だとは思います。
実際にソクラテスもその様に思ったのか、この部分のやり取りは深掘りすること無く、あっさりと次の話題に移ります。
次のテーマは、『誰の教えを受ければ、アレテーを学ぶことが出来るのか』という事です。

これについてソクラテスが尋ねると、アニュトスは『アテナイ人であれば、誰に聞いたとしてもアレテーについて答えてくれるよ。 人々の意見を素直な気持ちで受け止めれば、誰でも立派な人間に成れる。』と答えます。
この件についてはプロタゴラスも、プロメテウスの神話になぞらえて説明した際に、『ゼウスは、アレテーの核となるものは全人類に与えた』と言っていたので、それと似たような意見と言えます。
ただプロタゴラスの意見では、核となるものは全員が持っているが、それを育ててアレテーにする為には、持って生まれた素質や訓練が必要だと付け加えていましたけれどもね。

ですが、アニュトスの主張はもっと突っ込んだ意見で『アレテーなんてものは誰でも持っているし、誰でも教えれることだから、特別な教師がいるわけではない。』とまで言っています。
しかし、この意見は、少し考えただけでも矛盾していることが分かります。
先程、アニュトスは、ソフィストに対して散々、悪態をついたわけですが、そのソフィストアテナイ市民である場合、そのソフィストはアレテーを宿しているのでしょうか。それとも、ソフィストだけがアレテーを宿していないんでしょうか。

これまでにも何度も言っていますが、アレテーとは、宿すことで優れた卓越した人間に成れるという概念のことです。
アレテーを宿すとは、善悪の区別が付き、自分が悪の道に進んでしまうような欲望を押さえ込み、正義ある行動を知恵と勇気を持って行える美しい人間のことです。
仮に、アテナイに住むソフィストがアレテーを宿している場合、そんな優れた人物が、自分を慕って弟子入りを希望してきた若者から金を奪った挙げ句、わざと害悪がある事を吹き込んで悪の道に引きずり込もうとするのでしょうか。

逆に、アテナイに住んでいるけれども職業がソフィストであるが故に、アレテーを宿していないとするなら、『アテナイ人であるなら、誰でも』というのは正確な表現とは言えなくなります。
つまり、アニュトスの主張は、片方を立てれば片方が立たずといった状態になってしまい、明らかに矛盾しているわけですが…
その矛盾を突いてアニュトスが機嫌を損ねてしまうと、対話が進まないからか、ソクラテスは敢えてそこに突っ込まずに、対話を続けます。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第9回 マーケティング1.0&2.0

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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

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市場細分化を行う理由

ここ3回程の放送で、ターゲットを絞りこむために必要な市場細分化の説明をしていきました。
何故、ターゲットを絞らなければならないのかというと、万人に受けるような商品は無いからです。
人々のライフスタイルや価値観はそれぞれ違うため、例えば、食卓で使う食器一つとっても、消費者ごとに欲しいと思う食器は違うはずです。

にも関わらず、日本に住む全ての人が購入できるような商品を作ろうと思うと、結果として、全てが中途半端な製品ができあがってしまうため、誰からも必要とされない商品が生まれます。
例えば価格一つとったとしても、富裕層にも興味を持ってもらえるような強気な価格設定にすると、貧困層が買えなくなるので、貧困層も購入できて富裕層も興味を引く値段にしよう…
といった感じで値決めをすると、中途半端な値段になってしまいます。

値段が中途半端だと、商品開発に掛けられるコストや商品原価も中途半端になる為、クオリティーも中途半端になってしまいます。
デザインも、あまりに尖ったデザインにすると好き嫌いが分かれる、しかし、あまりにシンプルにし過ぎると、他の商品に埋もれてしまう…なんて事を考えながら作ると、結局、どこに向けた商品かわからないものが出来上がってしまいます。
この様な感じで、万人受けを狙うと方向が定まらないため、誰の心にも刺さらずに、結果として誰からも求められない商品が生まれてしまいます。

しかしそれでは商売が成り立たないため、企業は事業を成り立たせるためにも、売れる商品を作ろうとします。

『その人』が求めている商品を作る

では、どの様な商品が売れるのかというと、人々が求めている商品です。
人々は、生活を送る中で何らかの不満を抱えているわけですが、その不満を解消するような商品を作ることができれば、その商品は人々から求められることになります。
『マネジメント』という本で有名なドラッガーという人物は、『真のマーケティングとは、セリングを不要にすることだ。』と言いましたが、人々が何を求めているのかが分かれば、営業活動は必要がなくなります。

ちなみに、『真のマーケティングとは、セリングを不要にすることだ。』という言葉の意味を簡単に説明すると、セリングとは、セルが売るという意味で、それにingがついて現在進行系になっているので、販売活動や営業活動のことです。
つまり、マーケティングを極める事ができれば、販売を行うための営業活動は必要なくなるということです。
営業活動をしないのに事業が成り立つ状態とはどの様な状態かといえば、宣伝も飛び込み営業も何もしていないのに、お客さんの方から店や工場に来て『この商品を売って欲しい!』と押し寄せている状態のことです。

真のマーケティングが、客の方から商品を売ってくれと押し寄せてくる状態を作ることだということは、真のマーケティングとは、顧客が心の底から欲しいと思っているモノを商品化する技術ということになります。
ではそのために何が必要なのかというと、顧客や市場の分析なんです。 その分析をするためにも、市場を細分化して、客のニーズを探り、絞り込んだ特定の市場に向けて商品開発をしてプロモーション活動を行います。

改めて振り返ってみると、企業は、1つの製品を作って販売するだけでも物凄く複雑なことをしているわけですが、では、市場でものを売るという行為は、最初からこの様な複雑なものだったのでしょうか。
結論から言うと、そうではありません。 最初は単純な段階から始まって、市場が成熟していくにつれて、マーケティングは複雑性を増していきます。
これを、フィリプ・コトラーという人物が、マーケティング1.0~4.0の4段位に分けました。 前置きが長くなりましたが、今回は、これをテーマにして話していきます。

マーケティング1.0

まず最初にマーケティング1.0からみていきます。
この状態は、市場にモノが何もない状態で、なおかつ生産者が少ない状態です。
この様な状態では、生産者は単に物を作るだけで販売活動を行わなくても物は売れていきます。

この様な状態があるのかというと、あるんです。どの様な状態かというと、例えば、戦争直後を思い浮かべててもらえればわかりやすいと思います。
日本が敗戦し、日本の各地が焼け野原になっている状態では、人々は普通の生活をするための最低限のものを欲しますが…
一面が焼け野原になっているわけですから、モノを作るための工場も設備もありませんので、モノが大量に供給されるということはありません。

しかし、人が死滅しているわけではないため、戦争前に何かの職人をやっていて、技術もノウハウもあるという人が、有り合わせの物を使って日用品を作れば、その商品は飛ぶように売れるでしょう。
この様な市場を『製品中心の市場』というのですが、この環境では作れば作っただけ売れるため、企業や職人に求められるのは、できるだけ低コストで大量生産する事となります。
つまり、ターゲットを絞らず、万人に向けた製品を作ることが至上命題とされていたわけです。

これは、戦後の焼け野原以外でも、新製品が発売された際にも同じ様な事が起こります。例えば、ブラウン管テレビがはじめて登場した時は、皆が欲しいと思っているわけですから客はメーカーに殺到します。
この時も、企業に求められるのは、商品を既製品にして、大量生産を行うことによってコストを下げて販売価格を引き下げることです。
消費者がテレビを欲しているというのは確定しているわけですから、後は、幅広い所得水準の人に買ってもらえるようにして市場を拡大する事が、企業の使命となりますし、結果としてそれが売上を上げることにも繋がります。

このテレビが進化して、液晶やプラズマや有機ELに変化しても、メーカに最初に求められることは同じで、『1インチ数千円で買えるようにすること』が市場から求められます。
この様に、販売されている商品量が圧倒的に少なく、供給体制も整っていない状況で、まず市場から求められている商品を、多くの人に届けるための体制を作っていくのがマーケティング1.0となります。

マーケティング2.0

次に、マーケティング2.0ですが、これは『消費者志向』のマーケティングです。
このマーケティング2.0の環境では、モノや供給能力が不足しているということはありません。
ある程度、大衆にモノが行き渡っている状態です。

先程のテレビの例で言えば、既に全世帯にテレビが行き渡っている状態と考えてもらえれば分かりやすいと思います。
既に商品が行き渡っているわけですから、この市場では新規の需要というのはあまり見込めません。 その為、買い替え需要を狙って商品を作ることになります。

1.0と2.0の違い

この買い替え需要の市場ですが、当然ながら、マーケティング1.0の時と同じように、ただ作れば良いという話ではありません。

何故かというと、どうしてもテレビが観たいのに、急にテレビが故障して使えないという状況以外は、買う側に余裕があるからです。
客側は、じっくりと商品を見て回る余裕がありますし、今で言えば、ネット検索などで商品情報を集めて比較することも出来ます。
マーケティング1.0の頃と比べると客側は商品に対する知識がありますし、その商品に対する顧客ごとの価値観も違ってきます。

その、顧客ごとの価値観を踏まえた上で製品を作らなければ、自社の製品は選ばれません。
顧客ごとの価値観というのは、画面が大きい方が良いとか、画質が良いほうが良い。黒の表現が出来ていなければならないといった性能面や価格面、メーカーへの信頼度と、そのバランスです。
性能的に優れていても、高過ぎれば売れないかもしれませんし、仮に安くても、性能やメーカーに対する信頼度が低ければ買われないでしょう。

顧客の好みというのは、それぞれが置かれている生活環境や経済的環境、好みといった価値観によってそれぞれ変わるため、それに合わせた商品を作る必要が出てきます。
つまり、マーケティング1.0が製品に焦点を当てて、製品の品質を一定にして大量生産によってコスト削減を目指せば良かったのに対し、マーケティング2.0では、製品戦略が必要になるということです。
製品戦略を簡単に説明すると、製品を開発する際に、その製品にどの様なコンセプトをもたせるのか、価格帯はどのようにするのかを決めて、開発することです。

マーケティングの必要性

では、どの様に価格帯や性能を決めれば良いのか、それには、前回までに紹介してきた市場細分化とターゲットの絞り込みが必要になります。
ターゲットを絞り込み、特定の層に向けて他社製品と差別化された商品を打ち出すことで、数ある製品の中から自社製品が選ばれることを目指します。

まとめると、製品自体の供給が少ない状態で需要だけがある状態がマーケティング1.0の段階で、この段階で企業に求められるのは、製品の供給能力です。
そのために、機械を導入したり職人の育成をしたり、製造工程を見直したりして効率性を上げて、大量生産を行うことが必要になってきます。

それがマーケティング2.0になると、単に製品を大量に作ったところで、消費者に自社製品が選ばれなければ、その製品は在庫として貯まっていくだけで、売上にはつながらない様になります。
何故なら、この環境では商品や製品に関する情報は消費者に行き届いているため、消費者は購入を急ぐこともなく、市場に出回っている商品の中で、自分の予算や価値観に合うものを探すからです。
数多くある商品の中から自社製品が選ばれて、それが販売につながる様にするためには、ターゲット層を定めて、その層に向けた商品を出すことで差別化することが重要となってきます。

次は、マーケティング3.0ですが、これは次の回に話していこうと思います。
番組に関するご意見・感想は、Twitterハッシュタグをつけてツイートしてください。ハッシュタグは、全てカタカナで『カミバコラジオ』です。
それでは、また次回。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第96回【メノン】炎上芸人とソフィスト 後編

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目次

ソフィストは本当に駄目なのか

しかしソクラテスは、このアニュトスの意見に賛同できません。
何故なら、関わり合いになる事で損しかしないような人達なら、多くの人は、彼らから距離を取ろうとするからです。
ソフィストという職業が出来たばかりであれば、その職業がどのようなモノなのかが分からないという理由で、一時的に騙されるような人が多数出てくるかもしれませんが…

少し時間が経てば、ソフィストという職業の本質は知れ渡るでしょうから、市民達は皆、彼らから距離を取るはずです。
しかし実際には、ソフィストという職業が誕生したのは、この対話が行われている40年も前で、彼らは今もなお、生徒を集め続けています。
ソフィストという存在がアニュトスの言う通り、最悪のものであるとするなら、何故、市民たちは、大金を持って彼らの元へ訪れるのか、その説明がつかないからです。

ソフィストの中でも有名なプロタゴラスは、講演会を1回開くだけで、戦艦が買えてしまう程の報酬を受け取ったそうですが、ギリシャ内を見渡しても、それ程の報酬を受け取れる職業はありません。
ギリシャ内で一番の作品を作る彫刻家でも、時間効率を考えれば、収入はプロタゴラスの足元にも及びません。
しかも彼は、まぐれ当たりの一発屋ではなく、40年にわたってその地位を維持し続けています。

悪い事の証明

当時は、ネット環境などの通信網も発達していませんし、情報は人々の噂や吟遊詩人の歌によって広まっていくものだったので、情報の伝達が遅かったとは思いますが、それでも、40年もあれば、悪い噂が広まっていても良いはずです。
しかし実際には、そんな事にはなっていません。 これは、ソフィストの元で学んだ人達は、自分たちは素晴らしい事を学んだと思っているからでしょう。
単に、そう思っているだけでなく、ソフィストとつながりを持つ事によって、実際に生活が良くなったという実感も得ていたのかもしれません。

その様に思う人達は、自分の師匠であるソフィストを褒め称えて、自分の周りの人達にも彼の下で学ぶようにと宣伝するでしょうから、人気はマスマス高まり、それに伴って授業料も上昇していったと考えるのが自然です。
また、ソフィストというのはアレテーの教師です。 アレテーの要素の中には、善悪を見極める分別というのがありますが、アレテーを宿すソフィストは、当然、それを持っていることになります。
アニュトスは、ソフィストは生徒に悪いことを吹き込んでいると言いますが、ソフィストには分別があるので、仮にアニュトスのいう通りであるとするなら、ソフィストは悪いと分かっていることを、敢えて、生徒に教えていることになります。

人にとって害のある事を、良い事だと嘘をついて教えるという行為は、それがバレた時には大きな恨みを買い、それによってソフィストの悪い噂も広がることが予測されます。
ソフィスト達は、大金を持って自分のもとに訪れる生徒に対して、わざわざ害の有ることを教えて、何のメリットが有るのでしょうか。

答えを決め打ちしない

ここで、このソクラテスの主張に違和感を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、アニュトス登場前と後で、ソクラテスソフィストに対する捉え方が大きく変わっています。
アニュトス登場前のソクラテスの言い分としては、当時のソフィストのトップであるプロタゴラスと対話をした結果、彼はアレテーを理解していなかったので、アレテーの教師はいないという主張をしていました。
しかしアニュトス登場後は、アレテーの教師であるソフィストは、他人にアレテーを教えられるのだから、当然、自分自身も理解しているはずだというスタンスに変わっています。

これは、アニュトスとの議論に勝つ為のダブルスタンダードというわけでは無く、『ソフィストについて』というテーマで、一から議論をやり直しているんだと思われます。
これまでにも何度か言ってきましたが、ソフィストの評価は2分されていて、一つが『アレテーの教師』で、もう一つが『詭弁家』です。

ソクラテスのスタンスは、『ソフィストは自分がアレテーを理解していると思い込んで、教師をしている人』というもので、ソフィストが『アレテーの教師』という主張には否定的なのですが…
アニュトスの方は、こちらはこちらで、ソフィストを『詭弁化』と決めつけているので、『アレテーの教師』という意見には否定的です。
ソフィストが『アレテーの教師』という捉え方を両方が否定している状態では、アニュトスが何故、『ソフィストは、アレテーの教師では無い。』と否定しているのかが謎のままなので、ソクラテスの方がこの議論に限ってスタンスを変えたのでしょう。

話を戻すと、ソクラテスのスタンスによると、ソフィストは『アレテーの教師』なので、悪いと分かっていることを敢えて教えても、生徒の為にも自分自身の為にもならないので、そんな馬鹿なことはしないはずだと主張します。
何故なら、悪い事を教えてもらった生徒は不幸になり、不幸になった生徒は、自分を教育したソフィストを貶めるような事を言いふらすわけですから、敢えて嘘をついて悪いことを教えても、互いに不幸にしかならないはずです。
しかし現実をみてみると、ソフィスト達は長年に渡って富と名声を得続けて、生徒も不幸にはなっていません。 これは『アニュトスの理屈は、おかしいのでは無いか?』というのが、ソクラテスの言い分です。

ソフィストと炎上芸人

このソクラテスの主張は、理屈は通ってそうですが、だからといって正しいとも言えないような主張です。
先程、ソフィストを、現代の『ネットサロンで稼ぐ炎上芸人』に例えましたが…
この人達も、アンチと呼ばれる人達からは『情弱相手に適当な事を言って、金を巻き上げてる』とか『売られている情報商材は、役に立つどころか害になる』なんて言われてますが、この世の全ての人から罵られているわけではありません。

この人達には、信者と呼ばれる人達も一定数いて、その人達がお金を貢ぎ続けることによって、普通に真面目に働くサラリーマン以上の稼ぎを手にしています。
では、彼らは、有益なことを教えているのでしょうか。 中には、人々の助けになるような事や役立つ情報を教えることで、適正な料金を貰っているサロン運営者もいらっしゃると思います。
しかし一部の人達が、『自分たちは凄い』ということを演出することで、信者からお金を集めている人達で、信者に対しては、料金に見合っただけの情報は渡していません。

ではこの人達は、生徒から恨まれて、悪い噂を流されることで評判を落としているのかというと、そうでもなく、悪名が広がっている人ほど、信心深い信者を多く集めて、儲けている印象すらあります。
なぜ、このような事になっているのかというと、悪口であれ何であれ、特定の人物の名前がいたるところで叫ばれると、知名度が加速度的に上昇していくからです。
知名度が上がれば、それが悪い噂であれ、それを聴いた一部の人が悪口をそのまま受け取らず、自分の目で確かめようと入会したりします。

その人は、もともと悪口によって情報を知ったわけですから、金銭と引き換えに、普通よりも少し悪いぐらいの情報を受け取ったとしても、むしろ好印象を受けたりします。
そして人は、判官贔屓的なところがあり、必要以上に叩かれている人が身近にいると、守りたくなったりもします。 こうして、入会した人の一定数が信者になるというシステムが出来上がると、悪口そのものが宣伝として機能するようになってしまいます。
結果として、悪口が広まったとしても、それによって熱心な信者が少しづつ増えていき、その信者がせっせと貢いでくれるわけですから、教祖の暮らしはどんどん良くなります。

一理あるアニュトス

この構造というのは、アニュトスの主張する通り、右も左も分からない若者に良からぬことを吹き込んで堕落させて、生徒を養分とする事で、自分が肥え太っている状況と同じと言えます。
つまり、他人に、何の役にも立たない事であったり、生徒にとっては害悪にしかならない事を教えたとしても、それなりに稼ぐこと自体は不可能な事ではないということです。

アニュトスも、ソフィストに対してはこの様な印象を抱いている為に、近寄ってはいけないとアドバイスしますし、彼らの事をアレテーの教師なんて思っていません。
また、アニュトスの考えは特殊なものではなく、ギリシャ市民の一定割合の人は同じ様な考え方であったと思われます。

対話篇を書いているプラトンは、世間一般で広まっている考えを、誰かに代弁させるという方法をよく取ります。
今回は、アニュトスにその役目を負わせ、ソクラテスと対話させる事で、世間一般で噂されている事が本当かどうかを吟味しようとしているのでしょう。
この、ソフィストの、アンチ代表であるアニュトスとソクラテスの対話は、ここから本格化するのですが、その内容はまた、次回にしていこうと思います。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第8回 セグメンテーション 3

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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目次

前回のふりかえり

前回、前々回と、市場細分化の話をしてきました。
何故、市場細分化をしなければならないのかというと、ターゲットが絞り込めないからです。
何故、ターゲットを絞り込まなければならないのかというと、全ての人を対象にした商品というのは、特徴がなさすぎて、誰の心にも刺さらないからです。

人間個人に当てはめて考えると、誰にも嫌われたくないと自分を押し殺して当たり障りのない態度を取り続けるよりも、誰かに嫌われる覚悟で自分をさらけ出した方が、人から好かれるということです。
当然ですが、自分をさらけ出しても全員から好かれるわけではありません。その様な態度を嫌う人達も出てきます。
俗にアンチと呼ばれる人たちですが、しかし、この人達の存在を恐れて自分の特徴を抑え込んでしまうと、誰からも嫌われない代わりに、誰からも覚えてもらえません。

つまりマーケティングとは、自分の個性をさらけ出した際に、それを受け入れてくれる層を探す行為と考えれば分かりやすいかもしれません。
興味を持ってもらえない層や、受け入れてもらえない層は最初から相手にせず、興味を持ってもらえる層だけを相手にすることです。
誰からも覚えてもらえない場合と、特定の層だけでも好いてもらえる場合を比べた場合、どちらの方が自分を必要としてくれる人が多いか、これは、考えるまでもありませんよね。

では、どの様にして、ターゲット層を絞り込むのか。何の戦略性もなく、無闇矢鱈と市場を細分化していってもターゲット層は見つからないため、まず4つの前提条件を置きます。

市場を選ぶ際の4つの前提条件

その4つの前提条件とは、1つ目が市場規模は利益を上げるのに十分な規模があるのかです。
参入しようとしている市場で、少なくとも初期投資分のコストを回収できなければ、その市場に参入する意味はなくなります。

2つ目が、ターゲットを設定した際に、そのターゲットに商品や情報を届けることが出来るのかです。
これは、自社の経営資源に、販売チャネルや広告を打つなどのプロモーション手段があるのかどうかということです。
これに関しては、現在ではSNSやネット広告を上手く使えば、誰でも予算内でプロモーション活動が出来ますし、販売に関しても、eコマース全盛の現状では、チャネルで困ることは少ないかもしれません。

ですが、自社に卸売や小売店の繋がりといった販売チャネルが構築できているのであれば、それを使える市場を選んだほうが、競争には有利になりますし、リスクも低くなるでしょう。

3つ目が、客観的なデータで表すことが出来るのかです。市場を細分化する際に、市場規模や購買力を『なんとなく』といった『感覚』で把握している場合、自身が持つバイアスに流されて、冷静な判断ができなくなります。
バイアスというのは、大雑把に説明すると思い込みとか、『色眼鏡で観る』といった感じで表現されるものです。
バイアスは無意識に働きかけて判断を鈍らせるため、これから逃れるためには、数値といった感情の入らない客観的なデータが重要になってきます。このデータは、公的機関が発表している二次データや、自社で集めた情報などを元にします。

4つ目が、選定したセグメントを比較して、順位をつけることが出来るのかです。
市場を細分化して、いくつかのセグメントに市場を分割できたとしても、そのセグメントに順位付けが出来ない場合、参入すべきターゲットが決められなくなります。
基本的には、先程あげた3つの前提を守っていれば、細分化されたセグメントは順位付けが出来るようになっているとは思いますが、常に注意しておく必要が有ります。

市場を細分化するための3つの切り口

この前提条件に従って、市場の細分化を行っていきます。ではどの様に市場細分化を行うのか、これは、3つの方法で分けていきます。
1つ目がジオグラフィックと呼ばれる地理的属性。 2つ目がデモグラフィックと呼ばれる人口統計学的な属性。 そして3つ目が、サイコグラフィックと呼ばれる心理学的属性です。
この3つは、それぞれがバラバラに存在しているわけではなく、密接にリンクしていて、厳密には分けるのは難しかったりしますが、それを無理やり分けている感じです。

このことに関しては、説明するよりも各項目の説明を聞くほうが早いと思いますので、先に進めます。

ジオグラフィック

まず最初に、ジオグラフィックの地理的属性からみていきます。
これは市場を、地理的な観点から見て切り分けていきます。 例えば、自分が販売する商品がどの地域で消費されるのかを考えていきます。
この地理的属性というのは、単純に地域・場所だけを指すわけではなく、その地域に依存している習慣や気候、人口密度や都市の発展具合なども考慮して切り分けていきます。

つまり、地域や土地に関連するデータ全てが、この切り口になります。
地域を特定すると、その地域には特定の人種の方しか住んでいない、もしくは、人種にばらつきがあるといったこともあるので、デモグラフィックとも関連してきます。
このジオグラフィックは、大きな目線でいえば、どこの国で売るのかといった感じで細分化出来ますし、寒い地域といった抽象的な切り分けも出来ます。

このコンテンツは中小零細企業で働く方向けに発信しているので、その方たちの目線でいえば、自分の店の半径1キロ圏内を相手にするのか、それとも全国を相手にするのかといった視点でも細分化出来ます。
この様に、店を中心にどの範囲で商売をするのかというのを、別の言葉で商圏と言ったりもします。

デモグラフィック

次に、デモグラフィックの人口統計学的な属性をみていきます。
これは、言葉だけを聞くと難しそうに思えますが、先程のジオグラフィックが焦点を場所・地域に当てているのに対し、デモグラフィックは人間に焦点を当てているだけの違いしかありません。
例えば、年齢や性別、家族構成や年収、職業など、人が持つ属性について分類していきます。

商品やサービスを開発する場合で考えると、例えば洋服なんかの場合、男性か女性のどちらを相手にするのかで、作る服は大きく変わってきます。
仮に女性にターゲットを絞った場合でも、10代相手に売るのか60代相手に売るのかで、デザインも売り場も広告媒体も変わってくるでしょう。
対象年齢を20代に絞ったとしても、顧客層の職業や収入によって、求められるクオリティーが変わりますから、製品開発やプロモーション戦略に影響を与えます。

サイコグラフィック

最後に、サイコグラフィックと呼ばれる心理学的属性についてみていきます。
これも、先程のデモグラフィックと同じ様に、人間に焦点を当てた考え方なのですが、デモグラフィックがどちらかというと人間のハード部分に焦点を当てているのに対し、サイコグラフィックは人間のソフト部分に焦点を当てている感じです。
具体的には、ライフスタイルや価値観、好みや性格といった人間の精神や魂といった部分に属する分野について細分化を行っていきます。

先程と同じ様に洋服で考えると、気性が荒い人と大人しい人とでは好むデザインが異なるでしょうし、派手な性格の人と落ち着いた人でも好みは分かれるでしょう。
夜遊びが好きな人と、インドアで家で本ばかり読んでいる人を比べても、洋服の好みは変わるでしょうし、洋服にお金をかけたくない人と見栄を張りたい人といった価値観の違いでも、好みは別れます。

4つの『R』

マーケティングでは、この3つの基準によって市場を細分化することで、それぞれのセグメントに分割していきます。

これらの切り口を使って、漠然とした大きな市場の中から候補となるセグメントを複数取り出せたら、次はその中から、ターゲットを絞り込んでいきます。
この絞り込みの際に、前回や今回の前半で言った、4つのRという前提が重要になってきます。
4つの前提とは、市場規模・到達可能性・測定可能性・優先順位のことでしたね。

仮に市場規模が大きくても、その大きな市場の顧客に自社製品や商品情報を届けることが出来なければ意味はないですし、逆に、顧客に訴求する営業力があっても市場が小さすぎれば採算は合いません。
それらを客観的な数値で表すことが出来なければ、ターゲットの絞り込みを勘ですることになりますが、これでは仮に成功しても再現性がありませんし、失敗しても反省が出来ません。
これらを踏まえて、有望な市場に参入していくことで、先行きが不透明な状況で闇雲に挑戦し続けることと比べると、リスクを避けることが出来ます。

前回に例として挙げた、カルビージャガビーの場合は、今回紹介した基準3つ全て使ってペルソナを設定して、ターゲットを絞り込んでいます。
ジャガビーで設定されていたペルソナとは、『27歳独身女性、文京区在住、ヨガと水泳にハマっている。』でしたが、『27歳独身女性』という部分はデモグラフィックで、『文京区在住』はジオグラフィック。
『ヨガと水泳にハマっている』という部分はサイコグラフィックで、3つの基準でターゲット層が具体的に決められています。

27歳の女性は全体の何%か、未婚率はどれぐらいかというのは、政府発表の統計を調べればわかりますから、その率を文京区に住む人口に掛ければ、大体の数字は予測できますので、このペルソナは測定可能なセグメントとなります。
この様なペルソナを複数個用意すると、順位付けも出来るでしょうから、直近3回で説明した内容に合致しています。
実際に市場規模を計算してみると、カルビーのような大企業が相手にするには小さすぎる市場じゃないかと思われる方も多いと思いますが、おそらくカルビーは、このターゲットに合致する人だけを相手にするつもりはなく、準拠集団も狙いに行ってます。

この準拠集団というのを今回話すと長くなるのですが、簡単に言うと、その集団に憧れている人も含めた集団のことです。
ジャガビーのペルソナの例で言えば、『27歳独身女性、文京区在住、ヨガと水泳にハマっている。』様な人物像に憧れていて、自分もそんな生活を贈りたいと思っている人も含めているということです。
これを含めると、結構な数にターゲットが膨れ上がることになります。

この様な感じで、マーケティングというのは複数の要素が絡み合った複雑なものですが、では何故、この様な面倒くさいことをやらなければならないのか。
次回は、そのことについて話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第96回【メノン】炎上芸人とソフィスト 前編

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前回はこちら
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目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて、考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

アレテー(最高善)の教師

前回の内容を簡単に振り返ると、メノンとソクラテスが仮説を立てて推測した結果、それを宿すことで卓越した優れた存在に成れるというアレテーの正体は、『知識のようなもの』という結果になりました。
ただ、これは仮説を基にした推測でしか無いので、これが本当に正しいかどうかを吟味していく作業に入ります。

もし、本当にアレテーと言うものが知識のようなもので、伝え教えることが可能であるならば、それを職業としている人達がいても不思議ではありません。
人間の最終目標が幸福を手に入れる事とするなら、それを手に入れる助けとなるアレテーは人々から大いに求められる事になるわけですから、生徒になりたい人は大勢いると思われます。
大量の需要があるのなら、そこに供給を行うことで大儲けが出来るわけですから、アレテーの教師を名乗る人達はすぐにでも見つけられるはずです。

しかし、ソクラテスは今までに、アレテーを他人に伝えられる人に出会ったことがありません。
これは、先程の『仮説を基にした推測』で出てきた答えに矛盾してしまいます。
ソクラテスとメノンは、ここで答えを得るための進むべき方向を見失ってしまうのですが…

二人が対話をしている近くには、この疑問に答えてくれそうなアニュトスという政治家がいたので、次はこの人物に質問をして、『アレテーとは何か』を探っていこうとします。

アニュトスという人物

このアニュトスという人物ですが、今後のソクラテスの運命に大きく関わってくる人物です。 どの様に関わってくるのかというと、ソクラテスの最期にです。
ソクラテスは、あらぬ罪で裁判にかけられて、死刑になってしまうという最期を迎えるのですが、この裁判をでっち上げたのがアニュトスを始めとする3人の人物なんです。

この裁判については、『ソクラテスの弁明』という対話篇で語られているのですが、それについては、今取り扱っている『メノン』が終わった後に取り上げる予定です。
このアニュトスですが、ソクラテスを裁判にかけて死に追いやる前は、人気・実力ともにあった人物だったと思われます。
というのも、この人物は、一度、三十人僭主政という政治体制に変わったアテナイを再び民主制に戻した人物の1人だったからです。

当時のアテナイは、自身が率いるデロス同盟とスパルタが率いるペロポネソス同盟との間で争っていましたが、その戦争は最終的にスパルタ側が勝利します。
戦争の理由は様々なものが絡み合っていたと思われますが、その一つに国の統治の仕方もありました。
アテナイは国民が国を治める民主政で、スパルタは王様が治めるスタイルで、双方が自分たちの政治システムを押し付けようとしていたようですが、この争いにスパルタが勝ったことによって、アテナイの民主政は一時的に終わります。

アテナイの政治は、民衆が治めるのではなく、30人の親スパルタの代表が統治する三十人僭主政に変わります。
ソクラテスは、その政権下で役職を貰って働いていたようですが、アニュトスは民主政を推していたので、一時的にアテナイから逃げ出して、別の土地に亡命します。

この三十人僭主政ですが、当初は、民主政によるシステムの腐敗も起こっていた為に、好意的に受け止められた部分もあるようですが…
民主政よりも上下関係がしっかりとした僭主制のシステムによって恐怖政治が行われて、徐々に、この政治体制に反発する勢力が出てきたようです。
そして1年後、反対運動が本格化した頃を見計らって、アニュトスはアテナイに帰ってきて、民主化運動に参加し、再び政治家に返り咲いたようです。

この様な行動は、人気も無い、単なる一般市民が出来るようなことではないので、それなりの支持者がいて、世間からも認められていた人物だということが分かります。

徳を学べる環境

話を『メノン』の方に戻すと、このアニュトスに対して、何故、ソクラテスが、アレテーについて訪ねようと思ったのかというと、アレテーが教えらるものだとするなら、アニュトスは、誰かから教えてもらっている可能性が高いからです。
アニュトスの親であるアンテミオンという人物は、相当な資産家で、その資産は偶然によってではなく、実力で手に入れたと言われています。
巨万の富であったり、それを手に入れる実力というのは、それを持っているだけで、他人から憧れたり尊敬されるものです。

一般の人が持たない優れた能力を持ち、それによって他人から尊敬されるという状態は、アレテーを宿している状態とも言えるわけで、彼の父親はアレテーを宿している可能性があります。
多くの親は、自分の子供に善い教育を与えてあげたいと思いますし、優れた卓越した存在に出来るものなら、させたいと思っています。
自分が子供に伝えられる事は伝えるでしょうし、カネを払うことで優秀な教師が雇えるというのであれば、雇うでしょう。

幸いにも、アニュトスの父親は莫大な資産を得る能力によって、人からの尊敬を集めているので、金に関しての心配はありません。
アニュトスは、父親から、そして、実際にいるかどうかは置いておいて、ギリシャの中で最高レベルのアレテーの教師からも、アレテーを学べる環境にあるので…
もし、アレテーの教師というものが本当にいるなら、彼が知っている可能性が高いと思ったので、彼に尋ねたというわけです。

ということで早速、アニュトスに対して質問を行います。

優れた教師は高収入?

ソクラテスは、今までのメノンとの対話の結果を簡単に説明し、アレテーの教師、その中でも、最も優れた教師に会ってみたいという思いを伝えます。
知識を教える職業である教師は、取り扱っている『知識』という商品を目で見て確認することが出来ない為に、何を持って優れているのかという判断がつきにくい類の職業ですが…

それでも、客観的に判断する材料はあります。 それは、お金です。
どんな職業でも、優れたものを取り扱っている人達の収入は高い傾向にあります。
例えば彫刻は、皆が『あの作品を買いたい』と思うような優れた作品は値段が高いですし、それを作れる彫刻家に弟子入りしたいと思う人も多いでしょう。

料理にしても何でもそうで、皆が『欲しい』と思うものを提供できる人は、取り扱う商品の値段を上げていきますから、その人が提示するサービス料は高くなります。
これは、今現在の資本主義の社会に当て嵌めても同じですよね。 価格は需要と供給のバランスによって決まり、供給に対して需要が増えれば増えるほど、価格は高くなっていく一方で、供給が多くて需要がない商品は安くなります。
ソクラテス達が住んでいた時代は特に、殆どのものが人力で行われていた為に、商品を供給できる量そのものが限定的です。 その為、人気が高ければすぐに、価格に反映されます。

これは、教師のような職業でも同じで、一人の人間が1回に教えられる人数には限界があります。
現代のようにマイクがあるわけでも、配信サービスがあるわけでもないので、自分の声が届く範囲の人達にしか教えを授けることは出来ません。
そうなると、限られた生徒の枠を取り合うことになりますが、どのようにして取り合うのかといえば、どれだけ高い授業料を払うことが出来るかで争うわけです。

つまり、授業料の値段が高く、その高い設定にも関わらず、沢山の弟子がいる教師というのは、優れた教師である可能性が高い事になります。

ソフィストには近寄っては行けない

ソクラテスはアニュトスに、メノンがアレテーを身に着けたいと思っていて、優秀なアレテーの教師を探しているが、見つからないどころか、実際にいるのかどうかも分からない。

だが、ギリシャ内には、高い授業料を取って生徒にアレテーを教えると宣伝している人達がいます。
それは、ソフィストと呼ばれる人達です。
『私は、『アレテーを身につけたい』というメノンを、ソフィストの元へ送った方が良いのでしょうか?』と尋ねます。

これを聴いたアニュトスは、『ソフィスト達と関わってはいけない。』と、ソフィストという職業全体を強く否定します。
アニュトスに言わせれば、ソフィスト達は若者に適当なことを吹き込んで、話を聞くものを堕落させてしまう様な存在なので、彼らと関わっても害にしかならないと断言します。

古代ギリシャでのソフィストは、アレテーの教師という意味もありますが、世間一般では詭弁家と捉える人も少なくなく、アニュトスもその様に考えていた一人なのでしょう。
アニュトスにとってのソフィストは、現代でいうところのオンラインサロンを開いている炎上芸人の様なもので、彼らの話を聞いたところで、彼らが儲かるだけだと言いたいのでしょう。
そして、授業内容に全く意味がないだけであれば、単純にお金を損するだけで済むけれども、彼らは尤もらしい口調で出鱈目なことを平気でいうので、その意見に影響を受けてしまうと、今後の人生を歩む上で悪影響すら出てしまう。

その為、ソフィストには絶対に近づいては行けないと強調します。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第8回 セグメンテーション 2

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前回はこちら
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目次

前回のふりかえり

前回は、セグメンテーションによってターゲットを絞り込むことの重要性について話していきました。
この重要性について簡単に振り返ると、全方位に向けた当たり障りのない商品というのは、誰に対しても販売できるので一見すると良さそうに見えますが、実際には、これといった特徴が無くなる為、誰からも必要とされません。

例えば、極端な話で考えた場合、『皆のために作ったので、欲しい人は持っていってください。』といった感じで山積みにされた商品と、『あなたのために作りました!』といった一点物、どちらが印象に残りやすいでしょうか。
大抵の人は、自分のためだけに作られた商品の方が印象に残るはずです。

これは、人間にも当てはまると思います。 皆から受け入れられたいという思いが強すぎて、誰からも嫌われない様に振る舞う人というのは、印象に残りません。
その一方で、一部の人から熱狂的な支持を受けている人というのは、相当数のアンチがいたりします。

人そのものを売るという観点で、芸能界やyoutuberなどが当てはまると思いますが、これらの世界で成功している人たちというのは…
自分のことが好きな人にだけ受け入れられれば良いと考え、一定数の人には嫌われる、または、受け入れてもらえないという事を認識した上で、その状況をを受け入れて行動している人達が多いです。
『万人に好かれる』とか、『誰からも嫌われない』というのは理想ですが、実際にはそんなことは不可能で、実践しようと思えば軸がぶれて、誰にも訴求できなくなります。

ターゲット設定の効果

一方で、ターゲットを明確にした場合は、少なくともターゲットとしている客層の印象には残る可能性が高くなります。
また、商品開発や広告、営業活動をする場合、仮にそれぞれの部署が分かれていたとしても、ターゲット像が共通認識としてあれば、それぞれの部署の間でイメージが統一され、話がスムーズに進みやすくなります。
もしターゲットを決めていない場合、それぞれの部署毎に方向性が変わってしまい、プロジェクトそのものが迷走してしまう可能性が有ります。

しかし、具体的なターゲットを想定していた場合、それを避けることが出来ます。 前回の最後で、ペルソナの説明をしましたが、このペルソナを設定して最初に置けば、それだけで共通認識ができてコミュニケーションが円滑になります。
例えば、前回例に挙げた、カルビージャガビーという商品がありますが、あの製品は『27歳独身女性、文京区在住、ヨガと水泳にハマっている。』人物をペルソナとして設定しています。
これを共通認識として共有すれば、どの様なパッケージにするのかや、どの様な広告を打てば良いのか、販売する店はどこにするのかといったそれぞれの戦略が、同じ方向にむけて打ち出しやすくなります。

4つの『R』

この様に、マーケティングではターゲットを設定するというのがかなり重要で、そのためにはセグメンテーションが必要になってくるのですが、では、具体的にどの様に市場を細分化していくのでしょうか。
これにはまず、4つのRというのが重要になってきます。 4つのRとは、Rank(優先順位)Response(測定可能性)Realistic(市場規模)Reach(到達可能性)となり、それぞれの頭文字をとったものです。

ひとつひとつ見ていくと、まず、Rank(優先順位)。これは、市場を細分化してセグメントごとに分けた際に、順位付けが出来るかということです。
先程、ペルソナを紹介しましたが、いきなりこの様なターゲットの設定が生まれるわけではありません。大抵の場合は、複数の候補となるセグメントを挙げて、その中から有望そうなターゲットを選ぶわけです。
つまり、最初から1つの市場に絞り込んでいくわけではなく、セグメンテーションによって販売予定のセグメントを何個か挙げておいて、その中からターゲットとなる市場を選ぶので、選定基準となる順位付けが必要となります。

この順位付けは、他の3つのRが守れていれば、行いやすくなります。

次にResponse(測定可能性)とは、市場規模や、そのセグメントの購買力を測定できるかのことです。
候補となるセグメントごとに分けたところで、そのセグメントにどれぐらいの人数がいて、どれぐらいの売上が見込めるのかというのが数値として分からなければなりません。
何故なら、客観的な目で、他のセグメントとの比較ができなくなるからです。 人間の直感というのは、様々なバイアスによって大抵の場合は間違うものなので、客観的なデータで比べる方が、間違いは少なくなります。

また、ターゲットの絞り込みが間違っていたとしても、数値を含む詳細なデータが有れば、何故間違ったのかが分析しやすくなります。
前にも話したと思いますが、マーケティングや、これを含む経営の知識というのは、確実に成功するための方法ではありません。 その為、経営を慎重に行っていたとしても、失敗することは有ります。
ここで大切なのは、その失敗を次に生かすことが出来るかということです。データではなくフィーリングで決めていては、何故失敗したのかの分析が出来ないため、基準となるデータを集められるかが重要になってきます。

次に、Realistic(市場規模)ですが、これは、その市場をターゲットにして新規事業に参入した場合に、その市場に採算が会うほどの規模があるのかどうかです。
例えば製造業の場合、新たに製品を作るのには開発コストや設備投資が必要な場合など、新規参入する為に初期投資が必要な場合が少なくありません。
最初にコストを掛けているわけですから、事業としては、そのコストを回収した上で、更に利益が得られなければ、その市場に参入する意味はありませんが、このRealisticでは、そのコストを回収して利益が得られるほどの市場規模が有るのかをみます。

極端な話、ターゲットとなる市場を抑えてトップシェアにまで持っていけたのに、市場規模が小さすぎて採算が合わない様なことになれば、営業活動が上手くいっていたとしても事業としては失敗です。
この様な市場には、最初から参入しない方が良いでしょう。

最後は、Reach(到達可能性)です。 これは、ターゲットとしている顧客に自社商品の情報を適切に届けられるのかということです。
これは私の意見にはなりますが… この到達可能性については、今現在では、昔ほどは意識しなくても良いとは思います。

到達可能性について

というのも、今紹介しているマーケティングの理論は、フィリップ・コトラーという方が提唱した理論なんですが、この方、1931年生まれということで、結構、お年なんですね。

この方の全盛期の時代であれば、自社商品を宣伝する手段というのは、テレビやラジオ、新聞雑誌といった限られたメディアで、特定の層に特定の情報を届けるというのは、ハードルが高かったと思います。
例えば、大衆に向かって幅広く商品を紹介しようと思うと、テレビ広告を打たなければならないでしょうけれども、中小零細企業では、その広告費を捻出するのが難しいでしょう。
その為、中小零細企業が幅広い顧客層をターゲットにするマスマーケティングを行うのは、到達可能性という意味では無理があると考えられます。

また、マニアック過ぎる人たちを相手にしようと思った場合、その人達にピンポイントで広告を伝える手段というのも、見つけるのが難しかったりします。
昔で言えば、趣味に特化した雑誌などが販売されていたので、特定の顧客層にはそういった雑誌を使うというのも効果的だったのでしょうが、あまりにマニアックな分野だと雑誌すら無いということもあるでしょう。
そういった場合は、ターゲットを設定したとしてもターゲットに自社の製品を伝えられないため、到達可能性は低くなってしまいますが…

これは昔の話と考えたほうが良いでしょう。インターネットが発達した今、個人でブログや動画や写真を拡散しやすい状態になっているため、たとえ個人商店であったとしても、自社や商品のアピールは可能です。
また、ネット広告を出す場合、セグメント項目を入力すれば、ターゲット層にのみ広告を表示させることが出来たりもします。
その為、『ターゲットに向けて広告を打つ手段がない』というのは、現在では、あまり考えなくても良いと思います。

ただ、既に特定の分野において、広告媒体や販売チャネルを構築できている場合は、到達可能性は既に高いわけですから、これを利用しない手はありません。
そういった意味では、開発した商品の情報や販売網があるのかと言ったことも、考慮して考えるほうが良いでしょう。

以上、市場細分化は、この4つの前提に沿う形で行っていきます。

今回のまとめ

今回の話を簡単にまとめると、全ての人を対象にした製品やサービスは、特徴がないために全ての人から受け入れられることはありません。
その為、何らかの商品を作ろうと思う際には、ターゲットの設定が重要になってきます。
そのターゲットを設定するために、市場を細切れにしていく作業を行って、狙うべき市場を決めなくてはなりません。

しかし、闇雲矢鱈と市場を細分化していったとしても、意味はありません。 市場を切り分けていくにも、戦略的に行う必要が有ります。
そのために重要になってくるのが、4Rです。
4Rとは、Rank, Response, Realistic, Reachの頭文字をとったもので、日本語でいうと優先順位、測定可能性、市場規模、到達可能性です。

切り分けた市場に参入する場合、利益が得られるほどの市場規模がなければなりませんし、ターゲットを明確に定めたとしても、そのターゲットに自分たちの商品情報が届けられなければ意味はありません。
細分化して切り分けた市場は、どの市場に参入すべきかを優先順位をつけられなければなりませんし、それを可能にするためにも、それぞれの市場を客観的なデータで見比べることが出来なければ、正しい判断は出来ません。
以上のことを前提として、市場を切り分けていくわけですが、その具体的な方法としては、次回に話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第95回【メノン】アレテーは後天的なもの? 後編

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前回はこちら
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アレテーが才能であるのなら

想起説の理屈では、人が自分の中にある知識を思い出すには呼び水となる知識が必要で、順番にしか思い出すことが出来ないということでした。
その呼び水となる行為が、教育であったり、自分自身で経験を重ねることによって発見するといった事になります。

仮に、アレテーが持って生まれた体格や運動神経のような才能であるとするなら、人類はアレテーを持つものと持たないものに二分されることになります。
アレテーを持つものは、卓越した優秀な存在ですから、国を更に発展させて繁栄させる為には、絶対に必要な人材となります。
この様な人達は国にとっての宝のような存在なので、最も厳重に、そして丁重に扱わなければなりません。

『知らず知らずのうちに、戦場の最前線に送り込んでいた』なんて事になれば、国家としては大損失ですからね。
その為、生まれた子供にアレテーが宿っているのか、それとも宿っていないのかを、検査して仕分ける職業なんてものも出来るでしょう。
スパルタでは、市民は職業軍人となる為、身体に障害を抱えている子供は崖から突き落として殺していたようですが、それとは逆に、アレテーが宿る子供を見つけたら、他の子供よりも丁重に扱える様に仕分けするという事です。

仕分けられた子供は、国を良い方へと導くための人材なので、他国に奪われたり殺されたりしないように、必死に守るというシステムが出来上がっているはずです。
しかし実際には、その様なシステムは出来上がっていません。

アレテーは後天的に身につくもの

何故なら、先ほどの推測によると、アレテーとは知識のようなもので、知識とは才能ではなく、教育や学習によって後から身につけるものだからです。
生まれながらにして卓越した存在はおらず、優れた人間になれるかなれないかは、どの様な環境で育ったかや、学習してきたかによって決まる。 というのが、先ほどの推測から分かることです。

この推測は、それなりに筋も通ってそうですが… 疑うことが仕事であるソクラテスは、自分達が推測を行って出てきた答えに対しても、疑いを持ちます。
何故かというと、人間にはバイアスがかかっていて、『わからないものに対して真摯に向かい合おう』と思っていても、無意識のうちに、『こういう結論であって欲しい。』という願望を抱いてしまい、その答えに誘導してしまうからです。

これを聞かれている皆さんにも心当たりがあると思いますが… 『自分自身は、こういう考えだ!』というように思い込んでいる事って有ると思います。
これは、『政治的な事』でも『ちょっとしたトラブル』でも何でも良いのですが、その意見が、正しいのか間違っているのかを確かめる為に第三者の意見を聞こうと、ネット検索をするといったことは、現在では珍しいことではありません。
この際に、自分が受け入れがたい意見がヒットした場合、どの様な行動を取るでしょうか。

『その意見はなかった事にする。』とか、そういう意見を言っている人に悪態をついたりして、自分と同じ様な考えをしている人が出てくるまで検索し続けて、その意見を見て安心するといった行動をとったりしないでしょうか。
この行動は、ネット検索する前に自分の中に『こうあって欲しい』という意見がある為に、それ以外の意見が出てくる事を無意識で拒絶しているから起こることです。
人間が行う推測も同じで、『世の中はこうあって欲しい』という思いがあれば、無意識のうちに答えを誘導してしまうというのは良くある事です。

哲学者のソクラテスは、この事をよく知っているので、自分たちが行った推測によって出てきた答えも、そのまま信じるという事はせずに、それが本当に正しいのかを吟味する作業に入ります。

アレテー=知識なら他人に伝えられる

もし、先ほどの『アレテーとは知識のようなものである』という仮説に基づく推測が正しいとするならば、人は様々な経験や学習を通してアレテーを知識の様に学ぶ事が可能になるわけですが…
知識のように学べるということは、知識の様に他人に教える存在もいるという事になります。

アレテー以外の他の分野で考えてみると、例えば学校で数学を学んで、それなりの知識を身に着けた人間は、その知識を他人に伝えることで数学を教えることが出来ます。
家を建てる大工のような技術職でも同じで、身体の動かし方などを実際に相手に見せたり、口で説明したり注意することで、他人の動きを正しい方向へ誘導したりする事が出来ます。
『知識として他人に伝えられる』から、『学べる』という事は、言い換えるなら、アレテーを他人に教えるような職業が存在すると言い換えることも出来ます。

学校と呼ばれるところは、まさに、『他人にモノを教える』という職業である教師が働く場所ですよね。
学校には、数学や国語などの座学を学ぶ為の、一般的な学校がありますし、職業訓練校や各種専門学校のように、仕事に役立つ技術を教えてくれる学校なども存在しますが…
その全てに、生徒に知識を授ける教師という人たちがいて、給料をもらって働いています。

アレテーもこれらと同じ様に、他人に教え伝える事が可能であるならば、アレテーを教える学校や、アレテーを専門に取り扱う教師のような存在がいて然るべきです。
アレテーを学びたいと思ったものは、その学校に行くなり、家庭教師を雇うなりして、直接、教えてもらえば、アレテーを身につけることが出来て幸福になれるはずです。
人間の最大の目標が幸福になる事だとするなら、この目標を叶えてくれる教師に対して『金を惜しまない』という人は大勢いるはずです。

徳の教師

以上のことを考えると、アレテーを専門に取り扱う教師というものが存在するはずで、職業が存在するという事は、その人達はお金を稼ぐためにも、幅広く生徒を募集しているはずなので、簡単に見つけられるはずです。
しかしソクラテスは、今まで人生を歩んできた中で、そんな人物には会ったことがないと主張します。
ここで重要となってくるのが、ソクラテスは会った事が無いと証言しているだけという点です。

世間一般では、ソフィストと呼ばれる人たちがアレテーの教師だと言われていましたし、ソフィスト自身も、その様に自分たちを宣伝することで、生徒を集めていました。
また、ゴルギアスを始めとする弁論家も、アレテーを教えていると言っていますし、メノンはその言葉を信じ、実際に解説を聞いて納得しているので、自称教師というわけではなく、一部では、世間からもアレテーの教師と認められていました。
つまり、世間一般ではアレテーの教師は存在したわけですが…

ソクラテスは、その中でもトップの実力を持つと言われているプロタゴラスと対話をし、彼がアレテーを知っていると思い込んでいるだけの人物だったという事を知ってしまいました。
プロタゴラスは、ギリシャの人達なら誰でも認めるトップといっても良い賢者ですが、彼が分からないものを、それ以下の実力しか無いソフィストや弁論家達に分かるはずありません。
その意味を込める形で、『アレテーの教師には会ったことがない』と答えているのでしょう。

答えを見失う二人

これまでの流れをまとめると、アレテーとは、それを宿すことで幸福になれる『善い』もので、知識のように教えられる様なものという推測が成り立ちました。
もし、本当にこの推測が正しく、アレテーが、知識のように教えられるようなものであるのなら、それを職業としている人達が存在していても良さそうなものなのに、実際にはそんな人達を見つけ出すことは出来ません。
仮説を立てて推測し、正しいと思われる答えに辿り着いたのに、それをいざ吟味してみると、間違っているかもしれない状態になってしまい、ソクラテス達は進むべき道を見失った状態になってしまいました。

しかし、二人が対話をしている近くには、この問題を解決できそうなアニュトスという政治家がいました。 そこでソクラテスは、アニュトスに質問することで、答えを見つけ出そうとしますが…
この話は、また、次回にしていこうと思います。