だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

中小企業診断士の勉強 1日目 まず、何から勉強するか

私は、ここ最近、中小企業診断士という国家資格を取るために勉強をしています。
これは、どういった資格なのかというと、簡単にいえば、日本で唯一の経営コンサルタントの国家資格です。
環境的に、手に職をつけないと駄目な状況に追い込まれてしまった為、1から勉強しているという感じです。
1から勉強するといっても、資格予備校に通うわけでも家庭教師をつけるわけでもありません。 勉強そのものは独学で行なっていきますので、同じように独学で頑張っておられる方は、参考にしていただければ幸いです。

この勉強なんですが、1次試験がマークシートということもあり、やる事はひたすら、テキストに書かれている事を理解、もしくは暗記するだけなのですが…
ただテキストを眺めているだけでは、勉強が進んでいるのかが全くわからない。

どうしたものかと考えていたところ、『勉強というのは、誰かに教えることで効率が上がる』という言葉を思い出した為、ブログ内に新しいカテゴリーを作り、学んだことを他人にレクチャーするというスタンスで連載を始めようと思いました。
ということで、今回はその連載の第1回目となります。
連載回数についての表記は、タイトルで『○日目』と表記して更新しますので、最初の回から連続して読まれることをお勧めします。

中小企業診断士の勉強は、資格を取る気がない人であっても、ビジネスに役に立つということで自己啓発目的で勉強をしている人も多い資格なので、資格を目指さない人にも読んでもらえると幸いです。

企業経営理論

中小企業診断士の1次試験は7科目あるわけですが、どれから勉強を始めても良いというわけではなく、効率よく勉強する為には、順番があるようです。
では、何から勉強すればよいのか。 多くの方が推薦する1番最初にやるべき勉強というのは、『企業経営理論』です。
扇の要のような科目で、その他の科目と密接に関わり合いがある為に、この科目を1番に勉強すべきと推す人が多いようです。


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この企業経営理論ですが、テキストを読むと、必要な情報が箇条書きで書いてあって、イマイチわかりにくい…
私は、先程紹介したスピードテキストと、それよりももう少し難易度が低いテキストである『みんなが欲しかった!中小企業診断士の教科書 上』を1回ずつ読み込んだのですが…



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2回読んでも、各項目のつながりがよく分からない。
ということで、自分の頭を整理する為に、どんな感じのつながりになっているのかを図にしてみました。
それが、こちら。


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自分の頭を整理する為に書いた為、この図が正しいかどうかは、私の認識が正しいかどうかにかかっています。
間違っていても責任は取りませんので、あしからず。

次回からは、この図の読み解き方を少しずつ紹介していこうと思います。

【Podcast原稿】第73回【ゴルギアス】目的は全てに優先される 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
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前回はこちら

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

人を正しい方向へ導くものだけを『力』と呼ぶ

前回は、ソクラテスに弁論術は技術にも達していない迎合でしかなく、低俗なものだと言われたポロスが、弁論術で出世した者は、権力を手に入れて好き勝手しているじゃないかと反論。
それに対してソクラテスが、善悪の見極めも出来ない無知なものが、自分の地位を利用して欲望に従って自由に振る舞ったとしても、それは力があるとは言わないと主張します。

人が起こす行動には目的と、それを実現するための手段があるけれども、目的を見失って、進むべき方向がわからないものは、欲望に流されて悪い方向へ進んでしまう。
自分の思いのままに行動できる人間が、目標を見失った状態で悪い方向へ向かってしまえる力は、力とは呼ばない。力とは、良い方向へ向かう時に使う言葉だと反論します。

力にもいろいろありますが、その1つに、継続するための力として、継続力というものがあります。 継続力を持つことは良いとされていますが、これが悪いことに対して使われる場合は、力と呼ぶのでしょうか。
例えば、無知であるが故に、その行為の行き着く先が良いことなのか悪いことなのかを判断する能力がない人間がいたとして、その人物が、アルコールやパチンコにはまり込んでしまったとします。
この人物は、自分の欲望のおもむくままに、昼間っから酒を呑んで、開店と同時にパチンコ屋に入って大金をすり続けているとしましょう。

酒もパチンコも、毎日欠かすことなく行い続ける この人物に対して、『酒を呑み続ける継続力がある。』とか『パチスロに通い続ける力がある。』というのでしょうか。
この人物は、自分を良い方向に導くために、パチンコに大金を投じているわけでも、酒を呑み続けているわけでもありません。欲望に押し流されて悪い方向へ向かっているだけです。
このような力を継続力とは呼ばない様に、ソクラテスは、自分を悪い方向へ導く事柄を実行できる力を力とは呼ばないと力強く否定します。

皆、楽をして自由に振る舞える権力を欲しがる

ソクラテスの主張は筋が通っていて、理論としても分かりやすく、彼の話を聞いていると納得してしまいそうになります。
しかしポロスは、納得ができません。 確かに、理論的にいえばソクラテスの意見が正しいのかもしれない。 不正に手を染めることは、自分を幸福に導くのではなく、不幸に身を投じてしまう行為なのかもしれない。
でも、みんな、思い通りに自由に振る舞える身分に憧れるじゃないか!と。 権力欲は皆が持っているものだし、手に入れられるものなら手に入れたいと思っている。

誰だって、人を思い通りに支配したいと思うし、自分の価値観を他人に押し付けて生きて行きたいと思っている。誰だって、楽をして優雅な生活を送りたいと思ってるし、やりたい事だけやって生きて行きたいと思っているんじゃないのか?
このポロスの主張は、私たち一般の感覚に近く、多くの人が理解しやすい感情だと思います。 誰だって、今の自分を変える努力もせずに、認められたいし崇められたいと思っているから、『なろう系』のラノベ原作のアニメが流行ったりするわけです。

ラノベ原作のアニメは、大抵は一般人と呼ばれる、現状でスポットライトを浴びてい無い人達が、現在の知識を持った状態で、中世ファンタジーなどの世界に異世界転生をしてしまうという設定で物語が始まります。
技術の進んでいない中世ファンタジーの世界では、大抵、技術が古いがゆえの問題を数多く抱えているのですが、主人公は現代の知識をフル活用して、世界の難問を解決していく事で、その世界の住民から尊敬されるという話です。
この手の話の共通点は、今の自分にそれ程価値がなかったとしても、世界のほうが変わることで、自分の価値が他人によって見出されることです。

この手の話は量産されすぎて、最近では、主人公が努力して報われる話なども出てきてますけれども、基本は、日常的に身に着けた、誰でも持っているような技術や知識が、世界の方が変わってしまうことで、貴重になるという話です。
こういった話が受け入れられやすい状態というのは、言い換えれば、新たな努力しなくても、世界の価値観が変わる事で認められたいと思う人が多いということです。
『認められたい。』だとか『自分の影響力を拡大したい』だとか『注目を集めたい』というのは、まとめれば、権力が欲しいという事と同じです。

これを実現するためには、少数の人しか持たない世界最高峰レベルの高い技術。 専門知識と言ったものを持っていれば、現代でもその分野では有名になれるでしょうし、崇められるでしょう。
でも、そんな努力はしたくない。出来ることなら、口先の技術だけで登りつめたいし、上の立場になれば、自分の欲望のままに力をふるいたいと思うのは、当然のことじゃないのかと、ポロスは言ってるわけです。
そして、口先の技術だけで権力を手に入れて、その地位によって大勢の人間を自分の思いどりに動かせる力を持つ者に対して、憧れるだろ?とポロスはソクラテスに対して聞きます。

『力』そのものは目的ではない

しかしソクラテスは、これに対して毅然とした態度で『羨ましくない!』と一蹴するんです。そして、人から命や財産を奪いとるのは権力者の当然の権利だと、平然と言ってのける連中に対しては、羨望ではなく、哀れんでやるべきだと主張します。
ですがポロスは、力を持つものを憐れむ理由が分かりません。 例えば、権力者のワガママによる行動ではなく、理由がある場合ではどうなんだろうか。
仮に、自分の身内が不当にも何者かによって命が奪われるという理不尽な出来事に巻き込まれたとして、その犯人を捜索して見つけ出し、逮捕して裁くというのは、力を持たなければ出来ることではありません。

一般人でも、警察に言うといった国家の力を頼るという方法で似たようなことは出来ますが、一般人には力がないために、警察に命令して動かすことは出来ずに、お願いして動いてもらうことしか出来ません。
力関係的には警察のほうが上ということになるので、捜査に対する力の入れ具合は、警察によって決められます。 しかし、警察を動かせる権力者であれば、警察に全力を出させることが可能になるでしょう。
地位の高い権力者であれば、自分の受けた理不尽に対して仕返しをする事が出来るし、泣き寝入りしなくても良い、このような力も、羨ましくないのかとソクラテスに尋ねます。

これに対してもソクラテスは、羨ましくはないと答えます。 何故なら、理不尽に対して仕返しをすると言う行為は、目的ではなく手段でしか無いからです。
ソクラテスは、権力者が権力を振るうのに正当な理由がある場合は、憐れむ必要はないけれども、別にその行動を見て羨ましいとは思いません。何故なら、彼らは手段をこうじているだけで、目的を達成したわけではないからです。

つまり、ソクラテスが羨ましいと思うのは、目的を達成したものを見た時だけという事なのでしょう。
受験に合格する為に、頑張って勉強をしている人を見て、同じ受験生が羨ましいと思う事はありません。受験生が羨ましいと思うのは、志望校に合格した人間を見たときです。
ソクラテスが目指しているのは、幸福に向かうことで、幸福に向かうために、その方法を模索しているので、幸福を手に入れたものを見た時には、羨ましいと思うのでしょう。

ポロスは、権力者になること、そのものが幸福だと主張し、それに対してソクラテスは、権力者になることは幸福になるための手段でしか無いと主張しているので、この様に食い違いが発生してします。
でも、ポロスはどうしても納得がいきません。 確かに、物事を細切れにして一つ一つ吟味していくと、ソクラテスの主張は正しくて、それに対して容易に反対できるものではありません。
しかし、細切れにした事実を統合して出来上がった結論には、納得ができません。

【Podcast原稿】第72回【ゴルギアス】『力』の本当の意味 後編

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『手段』と『目的』

そこでソクラテスは、ポロスに理解をしてもらうために、少し話題を変えて、こんな質問を投げかけます。
『人々が、目標に向かって努力をしている場合、努力している本人が本当にやりたい事は、今現在取り組んでいる作業なのか、それとも目標を達成する事か、どちらでしょうか。』
これは例えば、受験生が志願校に受かるために受験勉強を一生懸命している場合、この受験生が心の底から本当に望んでいることは、勉強を続けることなのか、それとも大学に受かることなのか、どちらかなのかという事です。

誰でも、目的を達成する為に手段を行うので、これは考えるまでもなく、目標の達成が優先されるべきです。 手段が目的化するのは、極力避けるべきですよね。
受験勉強のように、目標と手段が比較的分かりやすい場合は、手段と目的を混同する場合は少ないでしょうから、手段が目的化するということは、あまりないでしょう。
まぁ、受験がきっかけで勉強が好きになってということもあるでしょうけれども、この場合は、受験をパスして大学に行った後に行うことは勉強なので、勉強をするという手段が目的化したとしても、問題はないでしょう。やることは同じですからね。

でも、これが複数人の人間が一つの目標に向かって動く仕事などの場合は、手段の目的化が問題になったりもしますよね。
利益を伸ばす為に、社内の情報共有が重要だからと言う理由で、上司に対して報告書を出さなければならないという手段を生み出したとして、その後、IT技術の進歩によって情報共有が簡単になった場合は、その手段は必要がなくなります。
しかし大きな企業で、報告書を書くのが仕事、読むのが仕事といった人がいた場合、この人達の仕事はITの進歩によって無くなってしまい、その人の社内での存在価値が薄くなってしまいます。

こういった場合、本来であれば仕事がなくなったんだから、他の人手がない部署に移動したり社員数を減らしたりといったことが、会社の利益の増加につながるわけですが…
この人達が、職場環境を変えたくないし、仕事も失いたくないと思った場合、効率的なITの導入を様々な手を使って妨害したり、本来は報告が必要のないようなことまで報告させたりして、自分たちの存在価値を高めようとすることもあるでしょう。
この場合会社は、余計な仕事を増やし、新たに増えた仕事の為に人員を確保する必要があるので、本来の目的である利益の増加は達成できずに、逆に利益を圧迫する要因になったりします。

人が行動を起こす場合に重要視しなければならないのは目標の達成であって、手段を行うことではありません。手段のほうが目的化してしまうと、本来の目的を見失ってしまって、最悪の場合、目的とは違った方向に向かってしまう危険性すらあります。
これは仕事に限定された話ではなく、人生においても同じです。 人生において最終目的を明確にして置かなければ、目指すべき方向も分かりませんし、手段を目的だと勘違いしてしまい、見当違いの方向へ進んでしまうかもしれません。

人間の最終目標

では、人間の最終目標とは何なのでしょうか。 最終目標は、人間がもっとも望んでいることと言い変えることができると思いますが、人がもっとも望んでいることは、幸福であることです。
人間は幸福な状態であるために、健康であったりだとか、使い切れないほどの金銭や、誰もが尊敬するような知識、そして多くの人から認められる人望を求めます。
逆に、これらとは真逆のものは、拒絶しようとします。 病気であったり、明日の暮らしも不透明になる貧乏であったり、皆からバカにされる無知、そして皆から失望されて除け者にされることを嫌がります。

何故なら、その様な状態は不幸であり、人が求める幸福とは真逆の存在だからです。
人は、幸福にないたいが為に、自分の状態を良い状態にしようと思って、その努力をしようと思います。
身体が悪くなれば医者にかかり、頑丈な体を手に入れるために運動をする。 貧乏にならない為に働いて、馬鹿にされない為に知識を吸収する。 そして皆から求められるような振る舞いを行う。

決して、トレーニングするために生まれたわけでもなければ、勉強するために生まれたわけでもないし、皆から利用されるためだけに生きているわけではありません。
レーニングをするのも勉強をするのも、人から信頼を勝ち取るのも、全て、自分が幸福になるという目標の為の手段でしかありません。

この理屈を、先ほどの権力者の話に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
ポロスの主張では、権力者は自分の気に入らない人間を自由に捕まえて有罪にすることが出来るし、その気になれば死刑にして殺すことだって出来てしまいます。
自分が持っていない珍しいものや、多額の資産を持っている人間に対しては、その財産を没収して自分のものにしてしまうことだって出来る。 このような、誰もが羨む能力を持っているから、権力者は幸せだというのが、ポロスの意見でした。

しかし権力者は、気に入らないものを捕まえて殺してしまいたいから、権力を手に入れようと頑張ったのでしょうか。 人の財産を自由に奪いたいから、力を身に着けたのでしょうか。
最終目的が、気に入らない人間を殺すことなのであれば、死刑を執行してしまえば、その人物は権力にしがみつく必要がなくなってしまいます。
それだけでなく、単純に人の命や財産を奪いたいだけなのであれば、わざわざ国でトップレベルの地位を目指すよりも、強盗などの犯罪を行う方がハードルが低いようにすら思えます。

権力者も人の子ですから、目指している目標は幸福であるはずです。
では権力者とは、人の命や財産を奪うことが楽しくて楽しくて、そのような行動の中に幸福を見出してしまうようなサイコパスの人達なんでしょうか。
おそらくそんな事はなく、権力者が自分の権力を不正に乱用して、人から何かを奪うという行動では幸せにはなれず、そのような行動をとって欲望を満たしたとしても、得られる満足感はたかが知れているでしょう。

手段の目的化を避けなければならない

先ほど漫画の『デスノート』という作品を例に出しましたが、あの作品の主人公は死神の力を使って自由に人間を殺す力を手に入れましたが、主人公の目的は、人を殺すことだったんでしょうか。
そのノートに名前を書き込んで人を殺していくという作業によって、幸福になれたのでしょうか。 その行動そのものが、幸福に直結していたのでしょうか。
そんな事はないですよね。 主人公の夜神ライトの最終目標は、恐怖によって他人の行動を抑制して、真面目で優しい人間だけの世界を作り出すことでした。

古代でも現在でも同じですが、権力者が行える権力の行使というのは手段であって、権力の行使そのものが目的ではありません。
権力は目的を達成するための手段でしかなく、その手段を使って、目的を達成するというのが権力者の本来の目的のはずです。
裁判にかけて人をさばく場合は、自分の目的の達成の為に邪魔になる人間を裁く。 財産を没収する場合も同じで、最終目的を達成するために行う手段が、権力の行使です。

では、権力者の最終目的は何なのでしょうか。 どんな目的を達成するために、人の命や財産を奪うのでしょうか。
例えば、私腹を肥やす為だとか、自分が行う不正に対して、それを止めるように口やかましく注意をしてくる人間を黙らせる為といった、目的が悪いものであるのなら、権力を使って実行に移してしまうと、悪が達成されてしまうことになります。
悪い目的に向かって、権力という手段を使って突き進むわけですから、その人間は悪い方向に突き進んでいくことになりますが、前に話した通り、悪い方向に進む力は『力』とは呼びません。

苦労をして、国のトップにまで駆け上がった上で行った事が、その辺にいる盗賊と同じであれば、世間一般の評価は『盗賊』でしかありませんからね。誰も盗賊を見て、立派で卓越した人なんて思いません。
世間の評価が、国の指導者から盗賊に変わってしまうような力は、力とは呼ばないということです。
しかし、最終目的が自由気ままに行動する事で、その行動の結果として自分自身が悪いものになってしまったとしても、その人物が自分の思い通りに行動していることには違いがないことになります。

力の使い方を間違えば不幸になる

冒頭部分で、『弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないけれども、自分たちにとって一番良いと思い込んでいる事は進んで行っている。』というソクラテスの意見を紹介しましたが、彼が主張していることはこのことです。
権力者が無知であるが故に、善悪の区別がつかずに、どのような行動を取ればよいのか、逆に、とっては駄目なのかというのがわからないまま、自分の欲望に従って悪い方向に突き進むことは、権力者の主観でみれば、良いことのように見えるでしょう。
感情に任せて、人の命や財産を自由に奪えるというのは、優越感を刺激されて、一時的には心地よい状態になれるかもしれません。

しかし、進んでいる方向が悪い方向であるなら、その行動の結果として、権力者は悪くなってしまって、誰からも優れた卓越した人間とは認められずに、盗賊と同じ様に、蔑んだ目で見られることになります。
その道を突き進むことは、本来の目的である幸福とは逆の方向に突き進んでいるのと同じことになるので、権力者の権力が大きければ大きいほど、速いスピードで幸せな状態から遠ざかることになります。
結果的に、幸福な状態から離れて不幸に向かって全力疾走していることになるわけですが、その全力疾走できる能力は、力と呼べるものなのでしょうか。

冒頭でも言いましたが、ソクラテスは、そのようなものは力とは呼ばないと否定します。
このソクラテスの主張は、論理的に正しいですし、順序立てて考えていけば、誰でも理解することは出来ると思います。
しかしこの説明でも、ポロスは納得ができません。 ソクラテスに対し、『権力欲はないのか?』と食らいつきます。 これに対する反論は、次回に話していこうと思います。

【Podcast原稿】第72回【ゴルギアス】『力』の本当の意味 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

納得ができないポロス

前回の話を振り返ると、人間の身体は魂と肉体の2つに分けられて、その2つにはそれぞれ、技術と迎合が存在する。
技術は常に身体や魂を良い状態に向かわせるものだけれども、迎合は、良さではなく快楽や堕落を追求するもので、良いものとは言えない。
人間が良い優れた状態になろうとするのなら、本来であれば、迎合は無視して技術の習得を目指すべきだけれども、迎合は技術に偽装をしているので、日頃からよく注意をしていないと見極めが難しいという話をしていました。

そしてソクラテスは、その話に説得力を持たせるために、人間は何故、肉体と魂に分類できるのかという話を秩序と混沌を例にして話しました。
この世界が存在するにも認識するにも必要なのは秩序で、魂に秩序を宿すために必要な技術が司法と立法。 弁論術はその技術に偽装している迎合に過ぎないというのがソクラテスの意見でした。

しかしポロスは、この意見に納得ができません。 というのも、理論の世界ではなく現実の世の中を見てみると、弁論術によって無知な市民を説得したり、権力者にゴマすりをした人間が出世して、権力を手に入れているからです。
権力を手に入れた彼らは、自分の気に入らない者に対して罪をでっち上げて逮捕して命を奪ったり国外追放をしたり、財産を奪ったりと好き放題しています。
弁論術が、人を良い状態に導く『技術』ではなく迎合でしか無いのであれば、弁論術を駆使した彼らは何故、市民より上の支配者層に上り詰めることが出来たのかの説明がつきません。

良い方向へと向かうものだけが『力』

しかしソクラテスは、その様な支配者が振るう権力は力ではないと断言します。
何故なら、権力者が振るうとされている絶大な力と呼ばれれいるものは、その力を振りかざしている権力者本人の為になっていないからです。
力というのは、それを行使する事によって自分に何らかの利益があるモノの事であって、力を使うことで自分にマイナスにしかならないのであれば、それは力とは呼ばず、欠点になってしまいます。

ただソクラテスは、弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないけれども、自分たちにとって一番良いと思いこんでいる事は進んで行っていると主張します。

しかし、ポロスはこの意見も納得ができません。 というのも、自分たちにとって一番良いことが出来るということは幸せなことですし、幸せを手に入れる能力こそが力であり、支配者の権力だと思っているからです。
古代ギリシャでは、労働は奴隷に押し付けられていましたが、この奴隷には自由がありませんし、欲しいと思うものを自由に手に入れることもできません。 欲しいものが手に入れられないという点に置いては、一般市民も同じでしょう。
でも権力者は、その力を持っている。 その気になれば、気に入らない金持ちに罪をでっち上げて裁判にかけ、財産を自分のものにしてしまうことだって出来てしまう。これを力と呼ばずして、何を力と呼ぶのかと

これを聞かれている多くの方も、このポロスの主張には納得してしまうと思います。
しかし、ポロスが力だと主張するものは、ソクラテスに言わせれば、『それは彼らが好きでやりたいと思っている事であって、それ自体が彼らを最善の道へ導くことはない。』と主張します。

欲望と幸福

ここで、ポロスとソクラテスの意見が食い違うのは、そもそも、幸福の捉え方が違うからです。
ポロスが考える人間の幸せとは、夢を実現するとか、欲しいものを手に入れるだとか、人から認められたり、高い地位に就いたりして満足感を得るといった、欲望を満たす行為と言えます。
幸せをこの様に考える方というのは多いと思いますが、ソクラテスは幸せをその様な状態とは捉えていません。

というのも、自分の欲望を満たすという行為は、自分の利益になるかもしれませんが、誰かの損失に繋がる可能性もあるからです。
誰かが得をして誰かが損をするという構造は、人間社会に対してマイナスの感情を発生させてしまう事になり、そのマイナスの感情は回り回って自分を不幸にしてしまう可能性があります。
またソクラテスは、欲望を満たすことそのものが、人にとって良いことであるとも考えていません。 プロタゴラスとの対話でも、快楽そのものは人間にとって良いものなのかという問いかけをしていましたよね。

ソクラテスは、欲望を満たすという行為そのものが人にとって良い行動とは思っていないために、権力者が欲望を満たすために行動して、満足感を得る行動が幸せにつながるとは思っていません。
人を良い方向に導くのは、快楽ではなく、別のものだと主張しているわけですね。
という事で、これから先の議論は、人を幸せにする為に必要なのは何なのかというのを意識しながら聞いてもらうと、良いかもしれません。

力は手段でしかない

ポロスとの対話に戻ると、ソクラテスは、権力者が行っていることは、自分の欲望を満たす為に行っていることだけれども、その行為そのものは彼らを良い方向に導いているわけではないので、力を持っている意味がないと主張します。
例えば、権力者が無知であるが故に、自分の進むべき道が分からない状態におちいっているとします。 幸せになれる場所が何処かにあることは分かっているけれども、その方向が分からない。
この様な状態で、手の届く範囲に快楽が転がっていたとします。 権力者は、権力があるが故にその快楽を手にする力を振るえるわけですが、実はそれが罠で、その快楽の方向へ進むと不幸になってしまう場合を想定してみてください。

この状態であれば、権力者は快楽を手にできる力を持っていない方が、悪い方向へ進まないだけ良いと言えます。
力がなければ、道を誤ることもなかったのに、力があったからこそ、間違った道に進んでしまうという場合、権力者が持つ力というのは、本当に力なのでしょうか。
破滅の方向に全力疾走できる力を持っているぐらいなら、その力を持たない方が幸せに近づける可能性があるとは考えられないでしょうか。

力というのは、幸せになる為に使うものであって、不幸になるために使うものは力とは呼べない。 であるなら、権力者が力を持つと主張するのであれば、権力者は善悪の区別がつく人間だということを証明しなければならない事になります。
この証明が出来ないのであれば、権力者が無知であるが故に、自分を優れた存在にする為には何をすればよいのかわからない状態のまま、自分の欲望を満たすためだけに好き勝手している可能性を払拭する事はできない。
そして、最善の道を見失っている状態で好き勝手な行動をしている人間は、力を持っているとは言わないと主張します。

ですが、ポロスはこの主張に納得ができません。 誰にも命令されず、逆に立場の弱い人間に命令して好き勝手出来る立場は心地よいし、その状態を持続できれば幸せだと思っているからです。
ムカついた相手がいれば、権力を利用して仕返しをしたり、自分が考える正義に反する事をする人間が現れたら、自分の基準で裁いてしまう。
この様な力を持つ人間を権力者と呼びますが、ポロス自身も含めて誰もが、この様な権力者に憧れます。 現代でも、デスノートの様な漫画が流行りましたよね。 

デスノートは、名前を書くだけで、契約した死神を動かして、自分が手を下さなくても、相手を思いのままに殺すことが出来るノートですが、この力は、古代や中世の権力者の力と同じとも考えられます。
誰もが自分基準の正義を持っていて、その正義に反する行動をした人間を悪とみなしています。そして、人はその様な人間を成敗したいと思い、その様な力が手に入るのであれば、手に入れたいと思っています。
ポロスの主張は、別に特別な意見ではなく、多くの人間が考えている事だと思いますが、それ故に、ポロスはソクラテスの主張が理解できません。
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【Podcast原稿】第71回【ゴルギアス】『秩序』と『混沌』 後編

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時間は何故 一方通行なのか

例えば、ボールを壁に向かって投げて、跳ね返ってきたのをキャッチするとう行動をカメラで録画するとしましょう。  カメラを壁側に向けて、ボールが当たって跳ね返る動画を、普通に再生しても逆再生しても、力学的には矛盾がありません。
ビデオの再生機を操作している人以外が、壁に当たるボールの映像を見たとしても、どちらが逆再生の動画かというのは見破れないでしょう。
時間というのは、目に見える形で液体のように一方方向に流れているわけではないので、物質がどの様に動くのかで見極めるしか無いのですが、力学的に矛盾がないとすると、一方方向に動いているのをどの様に見極めるのでしょうか。

それを見極める方法として、エントロピーの増大というものが有るんですね。
エントロピーとは乱雑さを表すもので、エントロピーが増大するとは、乱雑になっていくということです。

エントロピーは数値で表されるんですが、エントロピーが小さい状態を秩序がある状態と呼び、エントロピーが大きい状態を無秩序な状態と呼びます。 無秩序は、混沌やカオスと言い換えても良いかもしれません。
例えば、バケツいっぱいの水の中に、牛乳を1滴たらしたとすると、時間経過と共にその牛乳はバケツの水と混ざり合い、バケツ一杯の薄い牛乳が出来上がりますよね。
白い牛乳が秩序ある状態とするなら、それを液体に入れてしまうと、液体同士が混ざり合ってしまって、秩序は保つことが出来ず、崩壊して時間と共に拡散していき、いずれは均一のものになってしまいます。

宇宙はいずれ 熱的死を迎える?

別の例でいえば、熱もこれに当てはまります。
例えば、マグカップに入った熱々のコーヒーが有ったとして、これを飲まずに数時間放置していれば、そのコーヒーは冷めてしまいます。
何故、コーヒーは冷めてしまうのかというと、コーヒーの熱はマグカップに伝わり温まったマグカップの熱は、その外側の空気に伝達することで、コーヒーの熱が部屋全体に拡散していくからです。

時間経過と共にコーヒーは部屋の温度と同じレベルにまで下がり続け、逆に、部屋の温度はわずかながら上昇することになり、いずれは、コーヒーと室内温度は同じになります。
熱がコーヒーという一箇所に集まっていた状態を秩序ある状態とするならば、冷めていってる過程はエントロピーが増大して熱が部屋全体に拡散している状態といえます。
ここでも、熱というのは、秩序ある状態から無秩序の状態に一方方向に突き進んでいます。 この様な状態をエントロピーが増大していると表現して、エントロピーは増大し続けるので、時間は一方方向に進んでいるといえるわけです。

因みにですが、この熱が拡散して均一になる法則は、熱力学第二法則というそうですが、この理論を突き詰めて究極レベルで考えると、宇宙は熱的な死を迎えてしまうことになります。
この法則は、漫画の銃夢にでてくるディスティ・ノヴァ教授が憎んでいたことでも有名ですよね。
宇宙空間というのは、絶対零度に近い温度のようですが、そのだだっ広い空間の中に、わずかに星が浮かんでいるのが宇宙です。

太陽などの熱を放出する星も、いずれは、宇宙空間の絶対零度に近い温度に吸収されて、宇宙の温度は限りなく低いところで安定してしまうというのが、この法則の行き着くところです。
熱に限らず、あらゆる秩序が時間をかけて無秩序に向かっていき、完全なカオスになれば、そもそも世界が存在できるのかということになってしまいます。
ただ、アナクサゴラスの説によると、宇宙はそもそもカオス状態だったものに、知性または理性が宿ることで秩序が生まれたとしています。

カオスに理性が秩序を与える

この理性・知性というのを、神と呼ぶのか、何らかの法則と呼ぶのかは置いておいて、無秩序な状態が、理性によって秩序ある状態になり、今の世界が存在していると考えられます。

この秩序と混沌を、人間が捉える世界に当てはめて考えると、世界は認識して初めて存在するという考え方もできます。
人間は、五感を通して世界がどの様な状態にあるかという情報を仕入れている訳ですが、単純に情報を仕入れているだけでは、世界がどの様になっているのかは分かりません。
では、世界を知るにはどうするのが良いかというと、五感を通して入ってきた情報を元に、世界を認識することで、世界のあり方を理解することが出来ます。

例えば、脳の障害などで、一部の情報だけが認識できないということがあります。
私が聞いた話では、耳は正常に機能していて、会話も普通にできるし音楽も聞くことが出来るけれども、鳥の鳴き声が認識できない為に、音は聞こえるけれども鳥の鳴き声だと認識できないという症状があるそうです。

その他にも、ディスレクシアと呼ばれる学習障害がありますが、これは、目は正常に機能しているし、知能的にも問題はないけれども、文字だけが認識することが出来ないというものです。
文字が認識できないので、文字を見ても何らかの図形のようにしか認識できないし、文字の読み書きも出来ないという障害のようですが…
これは、頭が悪いから覚えられないという事ではありません。 この人達は、教科書を読むとかメモをとるという事が出来ないけれども、教師の発言を丸暗記するなどの方法で勉強を行って、文字が認識出来る人より好成績の方もいらっしゃるようです。

この様に、五感がしっかりと機能して情報が入ってきているけれども、その情報を認識することが出来ない為に、その存在を理解することができないという事があります。
ディスレクシアの様に文字だけでなく、五感から入ってくる全ての情報が認識できない場合、人は情報を受け取っても、世界がどの様になっているのかを認識することは出来ません。
認識が全く出来ない人にとっては、この世界は全てが混ざりあったカオスにしか捉えられないという事です。 人は認識することによって、情報を秩序立てて整理することが出来て、把握することが出来ます。

では、物事を認識して、自分の周りの世界を把握して、自分がどの様に動けば良いのかを判断して、自分の体に司令を出して体を動かすというのは、人間の体のどの部分がやっているのか。
この部分の役割を負っている部分のことを、ソクラテスは魂と呼んでいるんでしょう。 魂が存在せず、肉体が欲望のままに自動的に動くのであれば、この世界を認識するものは居なくなるので、カオスと変わらないってことでしょう。

それでも納得が出来ないポロス

魂の話が長くなったので、弁論術は迎合だという話に戻ると…  ポロスはこの話に納得ができません。
というのも、ポロスが今まで政治経済について観察してきた経験では、有名な権力者はみんな弁論術の使い手で、彼らは弁論術を使って周りの人間を説得することで、自分の力を示してきた様に見えていたからです。
そして自分も、その人達と同じ様な立場に立てる様に、弁論家として有名なゴルギアスに弟子入りしたからです。 その弁論術を、技術ですら無い下らない迎合だと否定されたので、納得できなかったのでしょう。

また実際に世の中を見てみると、政治家達は口先の技術によって巨大な権力を得て、その権力によって市民を支配している。
その権力者が、市民に対して迎合しているというのは矛盾しているように思えたのでしょう。

しかしソクラテスは、ポロスのいう権力は力とは呼ばないとして否定するのですが、此処から先の話は、また次回にしようと思います。
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【Podcast原稿】第71回【ゴルギアス】『秩序』と『混沌』 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

『技術』と『迎合』

前回の話では、人間は体と魂に分けられて、体と魂には、それぞれ2つずつの技術と迎合が有るという話でした。
技術と迎合の違いは目的の違いで、技術の目的は『良い方向へ導く』事ですが、迎合の目的は『快楽を追求する』もので、全く違った目的を持っています。
身体にとっての技術は、医術とトレーニングの技術で、医術の裏側には迎合である料理法が潜んでいて、料理法は医術のフリをして技術のように装っていて、人を良い方向ではなく、楽な方向へと向かわせてしまいます。

では、身体にとってももう一つの技術である トレーニングの技術の裏側には、どの様な迎合が潜んでいるのかというと、化粧法です。 メイク技術といった方が分かりやすいかもしれません。

人間は、規則正しい生活を送って、適切な量の食事を取り、適切な運動を行うことによって、健康で美しい肉体を手に入れることが出来ます。
運動能力や柔軟性が高い優れた肉体を手に入れれば、怪我もしにくいですし、肉体を使って出来ることの幅が広がります。 しかしこの様な肉体を手に入れようと思うと、トレーニングが欠かせません。
しかし、このトレーニングも、ただ単純に体を動かせばよいというわけではなくて、効率よく身体を鍛えようと思うと、トレーニング器具の扱い方や、正しいフォームなどの知識が必要になってきます。

バーベルなどを使ってトレーニングする場合、重量が軽すぎても効果は薄いでしょうし、逆に重量が重すぎると、怪我をしてしまう可能性が高まります。
怪我を極力減らし、その上で効率を最大限に引き上げようと思うと、それなりの専門知識や技術が必要になってきます。
今では、youtubeの様なネット動画やブログなどの記事、書籍などで学ぶことも出来ますが、この様なものが存在しない紀元前の世界では、専門知識や技術を、トレーニングコーチのような職業が伝えていました。

身体を『良くする』のか『良く魅せる』のか

この、トレーニングコーチのような、身体の鍛え方やメンテナンスの仕方を知っている人達が収めているのが技術とするなら、この技術に偽装している迎合は、メイク技術である化粧法や服飾となります。
例えば、血液が良く循環した健康的な顔色を手に入れようと思うのであれば、本来であれば、ポンプの役割を果たす筋肉を増やすだとか、ランニングをして心拍数を上げるなどのトレーニングが必要になります。
しかし、単純に顔色だけを良くしたいのであれば、明るめのファンデーションを塗ったりして顔に化粧を施せば、顔色は良くなりますし、目の下のクマなども隠せます。

辛くて面倒くさいトレーニングなどは一切行わなくても、客観的に見て顔色を良くしたいだけであれば、化粧をする方が手間暇はかかりません。
体型も同じで、裸になると腹が出ていたり脂肪が付きすぎていたりして、決して美しいとは呼べない肉体であっても、その体をごまかせるようなシルエットであったり、縦のストライプ柄など、体型をごまかせるデザインの服を着れば誤魔化せます。
着る服の形や色を工夫して、自分にとって似合うような服を着たり、きらびやかなアクセサリーを身につけることで、全く努力すること無く、自分を美しい存在だと演出することが出来ます。

洗練された美しいデザインの豪華な服を着れば、服の方に目が行ってしまって、その服の下に醜い身体が隠れているとは想像しなくなります。
その上で、服から出ている顔や手足の部分を化粧によって誤魔化してしまえば、人から見た外見だけは、美しく誤魔化すことが出来ます。

しかしこの方法は、前にも説明した料理のように、身体を本当の意味で良い方向に向かわせるものではありませんよね。
顔色が悪いとか、目の下にクマが出来ているというのは、身体が何かしらの不調を訴えているわけですから、トレーニングコーチに話を聞いて自分の生活態度を見直したり、医者にかかって病気かどうかを調べるべきです。
身体がその様になった根本的な原因を探って、それを解決しない限りは、いくら肌にファンデーションを塗りたくっても、身体が良い方向へ向かうことはありません。

迎合には確固たる基準がない

身体のシルエットにしてもそうで、お腹が出ているのは、運動不足や食べ過ぎなどが原因なのですから、それを綺麗な服を着て誤魔化したとしても、身体自体が良くなったりはしません。
人の体を良い方向へ導く。 つまり、力強く柔軟性と持久力を備えた優れた体を手に入れるために必要なのは、バランスの良い適度な食事と運動と休息です。綺麗な服で着飾っても身体に何の変化もありません。
この様に根本原因を一切解決しない化粧術は、これまでの定義に当てはめれば技術とは呼べません。また、この化粧も、迎合にありがちな『確固たる答えが無い』ものに当てはまります。

迎合に当てはまる料理法について前に説明したと思いますが、基本的にはこの考え方と同じです。 料理には絶対的なレシピは存在せず、美味しい料理かどうかは食べる人間によって変わります。
料理人が美味しい料理を作ろうと思う場合に一番必要なのは、食べる人間の好みで、その好みによって調味料の割合や調理時間を変えたりします。

化粧も同じで、化粧で一番重要なのは、他人が自分をどの様に見ているかです。 高い化粧品を購入して、時間をかけて一生懸命に化粧をした結果、誰の印象にも残らない顔が出来上がったとしたら、その化粧は成功といえるのでしょうか。
化粧は、単に生きていく上では本来はする必要がないものです。
それをわざわざ、お金と手間ヒマをかけて化粧をするのは、『キレイに見られたい』とか『可愛く見られたい』とか『優しくみれたい』『頼りがいが有るように見られたい』など、自分を見る相手に何らかの印象を与えるために行うものです。

人の好みというのは、時代によって、また流行り廃りによっても変わるので、化粧の流行も時代に合わせて変わっていきます。 どれだけ時代が変わっても揺るがいないような、絶対的な美しさを生み出す化粧は存在しません。
今現在ではありえないような価値観の化粧であっても、かなり先の未来では価値観の方が追いついて、受け入れられる事もあるかもしれません。
平安時代の日本人が行っていた化粧の正解と、今現在の女子高生の間で流行している化粧の価値観は、かなりかけ離れているでしょうし、現在の女子高生と30代の価値観にも違いがあるでしょう。

化粧法で重要なのは、他人が作った価値観で、他人が自分をどの様に見ているのかを考慮して、他人が考える美しさを自分の体を使って体現する事です。
これを聞かれている方の中には、この意見に批判的な方もいらっしゃるかもしれません。 でも、想像してみてください。 仮に、自分ひとりが無人島で遭難するという事態に追い込まれた場合、それでも化粧をして着飾るのでしょうか。
自分が絶対に、誰の目にも触れることがない状態でも、自分自身の満足の為だけに着飾る人は少ないでしょう。 着飾るという行為は、人からどの様に思われるのかというのがセットになっている行為で、見る人がいなければ成り立ちません。

料理法と同じく、化粧は他人の価値観に忖度する形で行われるために、迎合であると言えます。
一方で、力強く柔軟性と持久力を備えた、鍛えられた美しい体を手に入れる技術であるトレーニング技術には、基本的に流行り廃りはありませんし、他人の価値観が入り込む余地もありません。
人間の構造が解明されるに連れて、良い方向に改善していくことはありますが、他人からどの様に見られているかという他人の価値観でトレーニング方法が変わる事は無いでしょう。

人の魂の技術は『司法』と『立法』

この様に、身体の技術である医術には料理法という迎合が潜んでいて、体育術・トレーニング法には化粧やファッションなどの迎合が潜んで、技術に擬態しています。
同じ様に、魂の技術である政治術の立法と司法という魂に秩序をもたらす技術にも、それぞれ迎合が技術に擬態した形で潜んでいます。
立法に潜んでいる迎合がソフィストの達の術で、司法に潜んでいるのが弁論術に当てはまります。

人間は、社会性を持つ動物で一人では生きていけませんが、社会の中に順応して生きていこうと思うと、自由気ままに振る舞うことは出来ません。
やって良い事と悪い事を教育されたり、経験によって学び取っていくわけですが、何をやって良いのか悪いのかを判断するのが司法で、悪い事だからやってはいけないと決めるのが立法と考えると分かりやすいかもしれません。
弁論術とは、何をやってよいのか悪いのかを判断する司法の技術に擬態して、自らも技術だと言い張っているだけの迎合だというのが、ソクラテスの弁論術に対する解釈です。

そして、ソフィスト達と弁論家が行っていることは、共に魂の技術になりすますという事なので、この事についての分析を行っていない一般人には、ソフィストと弁論家の区別がつかない。
また、詳しく考えたことがないという意味においては、弁論家やソフィストですらも、自分たちの職業を分析した事がないので、よく分かっていないと主張します。

魂とは精神であり理性

ここまでの説明は、ソクラテスが主張するように、人間は体と魂の2つに分けられることが前提の話でした。
しかし、人間には魂がないだとか、そういった反論を持つ方もおられると思います。ソクラテスはそのような方のためにも、魂がどのようなものかというのを説明してくれています。

ソクラテスによると、もし、人間には魂や肉体と行った区別がないとするのなら、つまり人間の肉体には魂は宿っておらず、肉体は肉体のみで欲望を満たす為に勝手に動いているというのであれば、この世界はカオス的な世界となると主張します。
イオニアからギリシャに哲学を持ち込んだとされるアナクサゴラスの主張によると、この世界はスペルマタと呼ばれる極小の粒子によって構成されているそうです。
この理論は、現在の科学でいうと原子論の原型になっているような考え方で、別に ぶっ飛んだトンデモ理論という話ではありません。

アナクサゴラスの説によると、宇宙誕生の際には様々なスペルマタが混ざり合って混沌とした状態になっていたが、そこに理性が宿ることによって、混沌の中に秩序が生まれて様々な物が誕生し、今現在の世界が生まれたと主張しているようです。
まず、混沌と秩序の話からしていくと、この話は神話の世界の話ではなく、現在ような科学的な考え方が浸透した世界でも、似たような考え方があったりします。

秩序と混沌の関係というのは、時間が何故、一方通行にしか動かないのかという説明で出てきたりします
私達は、時間が一方通行で進むことに疑問を持ちませんが、何故、時間が一方方向にだけ進み続けるのか。 そもそも、時間が経過するとは、どの様な状態なのか。これって、結構、難しい問題だったりするんですね。
というのも、力学的な観点から観ると、時間が逆行したとしても、辻褄が合うからです。

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【Podcast原稿】第70回【ゴルギアス】『技術』と『迎合』 後編

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『技術』を装う『迎合』

技術と迎合を理解するために、まずは肉体についての技術と迎合について考えていきましょう。

技術は肉体を善い方向へと導くものですが、迎合はというと、技術ではないために、体を善い方向へと導くことはできません。 しかし迎合は、技術を装って人間の習慣の中に入り込んできます。
例えば料理法は、納豆を食べると体に良いだとか、朝にココア飲むと良いだとか、無農薬の有機野菜が良いとか菜食主義が健康に良いなど、身体を良くする技術を装って、人の生活の中に入ってきます。
しかしそれらの主張は、何十年にも渡って特定の物を与え続けた人と、全く与えなかった人で比べてデータを取ったりしたんでしょうか。

食の専門家は、合成着色料や添加物が悪いと言って、自然由来の手間かかったものを勧めたりしますが、技術を使って作られた農薬や合成着色料や添加物が発明される前と現在で寿命を比べたら、添加物入りの食事を食べている現代人のほうが寿命は長いですよね。
当然ですが、寿命の長さは医学の進歩を外しては考えられません。  技術は、人間の寿命を伸ばすために貢献していますが、料理法を提案する人間は、これに貢献しているのでしょうか。
例えば、ほうれん草に含まれている特定の栄養素が健康に良いとわかったとして、ほうれん草を使った料理を提案する料理研究家は、その栄養素を活かすための最適な油の量や調味料の量を計算してだしているのでしょうか。

ほうれん草に含まれる栄養素を効率よく引き出すために調理した結果、その料理がクソまずかったとしても、料理研究科は、まずい料理をレシピ本に載せるのでしょうか。
しませんよね。料理法を身に着けた人が行うのは、特定の食材を使って美味しい料理を作る方法であって、不味いけれども、食べると確実に健康になる料理を提案する事ではありません。
料理人が提供するのは、第一に美味しいもの、そして奇抜なものや珍しいものなど見て楽しめるものなど、楽しむという快楽を追求する事を目指しているのであって、最終目的は善ではありません。

『技術』と『迎合』の違い

技術と呼ばれるものは、常に目標を『善』において、物事を善い方向へと導こうとするものです。
足の一部が壊死した人間が担ぎ込まれて来て、医者が、壊死した部分を切り離さなければならないと判断したら、患者が『私は陸上選手なので、切り離されると困るんです。』と懇願したとしても、命を助けるために壊死した部分を切り離すでしょう。
しかし、迎合の目的は快楽のみを追求する事です。 塩分のとりすぎは体に悪いと分かっていても、美味しい味を作り出すためには塩を多めに入れてしまうのが料理法です。

この様に、そもそも技術と迎合は目的が全く違うところに設定されているのですが、迎合は技術に偽装しているために、注意深い人間以外は、迎合も技術の一種だと勘違いをしてしまいます。
そして、人というのは辛い事というのは苦手で、楽なことや気持ちの良い事は好きだという特徴があります。 誰だって、辛く厳しいことしか言わない人よりも、優しい人を好みます。
この状態でもし、技術と迎合を代表するものが討論をした場合、無知な一般大衆はどちらの意見を聞き入れるのかというと、迎合の方に説得されてしまう可能性が高いでしょう。

もっともらしい『迎合』

例えば、迎合側代表の料理人がこの様にプレゼンをします。
『人間の体というのは、欲しているものを与えてやると、気持ちよくなる様に出来ています。
例えば、喉が渇いた時に水を飲んだら、美味しいと思いますよね。 同じ様に、お腹が減っている時にご飯を食べれば、美味しいと思う。
人間は、体が本当に求めているものを補給すると、気持ちよくなるように出来ているんです。

これは、人間個人のことだけに当てはまるのではなく、人類全体についても当てはまります。
人間には寿命がありますが、人は子供を生む事で種族全体として、長い期間を生き残ることが出来ます。 子供を生むことは非常に重要な行為なので、その為に必要な行為は快楽を生むように出来ています。
そういったものだけではなく、人類全体の為になる事をして褒められれれば、達成感や承認欲求が満たされて、気持ちよくなれるでしょう。

この様に人間は、自分自身の体や種族全体の為になる事を行った場合は、気持ちが良くなるように出来ています。
これを食事に当てはめればどうでしょうか。 当然の事ですが、人間の味覚は、体が本当に欲しているものを食べれば美味しいと感じます。逆に、欲していないものを食べても美味しいとは感じません。
水を飲んで美味しいと思うのは、喉が渇いているときだけで、喉が全く乾いておらず、お腹が水分でタプタプになっている時に水を飲んでも、苦痛でしか無いですよね。

この理屈を料理に当てはめると、人が食べるべき食品は、美味しいと思う食材だし、その食材をどの様に調理すればよいかというと、美味しく調理をすれば良い。
美味しいものを欲しいと思うだけ食べ続ければ、身体は健康になるし、病気にもならない。』と主張したとします。

一方で技術代表の医者が、美味しいものを自分が欲しいと思うだけ食べ続けると、栄養バランスも崩れるし、人によっては食べ過ぎになってしまうかもしれません。
ですから、身体を健康に保ちたいのであれば、食事の量は適切な量に抑えるべきです。 また、美味しくなくとも体に良いものはあるので、偏った食事はやめるべきです。と主張した場合、どちらの意見が支持されるでしょうか。

例えば、プレゼンする両者の格好が、料理研究家はカジュアルな格好をして、医者は白衣を着ていて、胸のところに料理研究家・医者というように名札がついていれば、医者という権威によって医者の意見を信じる人も多いでしょう。
しかし、迎合する側である料理研究家が、観客の信用を勝ち取るために白衣を着て医者の格好をしていたらどうでしょう。
一方が、プレゼンを聞いている人間の身体を心配して、厳しいことをいうのに対し、もう一方が、『無理をしなくてもよいのですよ。
好きなことを好きなだけする事が、アナタのためになるんですから。』といった場合、楽な方に流れる人間は割と多いと思います。

人間は信じたいものを信じる

何故なら、専門知識を持たない民衆は、正しいことではなく、自分に都合の良い信じたいことを信じるからです。

これは、炭水化物を抜けば、タンパク質はどれだけ食べても大丈夫という炭水化物抜きダイエットが流行ったりする現状を見れば分かりますよね。
単純に痩せるというのではなく、身体を健康で優れた状態にしようと思えば、適切な量の食事と運動と休息が必要だということは、既に分かりきっていることです。
ですが、この方法は辛い上に、続けるのが面倒です。 それなら、炭水化物さえ抜けば、食べたいだけ食べても痩せるといわれている方法の方を信じたいですよね。

何故なら、誰だって辛いことはしたくないし、心地よい状態を維持できるなら、それに越したことはないんですから。

身体についての技術は、医術とトレーニングの技術がありますが、医術の裏側には料理法という迎合が潜んでいて、迎合は技術に偽装していることが分かりました。
では、もう一つのトレーニング技術の方はどうなのでしょうか。 これについてはまた次回、話していきます。

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【Podcast原稿】第70回【ゴルギアス】『技術』と『迎合』 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

良い人間が不正を犯すという矛盾

前回の内容を簡単に振り返ると、弁論術とは相手を説得する技術ではあるれども、専門知識は必要がなく、自分が売り込みたいと思っているものを優れたものだと演出する力だと分かりました。
この説得する技術の威力はすごく、極めれば、どんな状態でも自分を正当化できる一方で、無実の相手を陥れることが出来る為、この技術を身に着けたものの中には悪用する者もいる。
しかしゴルギアスによると、悪用されたとしても、この技術そのものが悪いわけでも教えた人間が悪いわけでもない。 悪用した本人が悪いとのことでした。

ですが、この言い訳はおかしいとソクラテスはツッコみます。
自分が売り込みたいものが、他のものと比べて卓越した素晴らしいものだと演出して相手を説得するためには、弁論術を扱う側が素晴らしさというものを理解していなければなりません。
他と比べて卓越した優れたものはアテレーが宿るものと言い変えることが出来ますが、では、弁論術を身につけたものは、アテレーを身に着けているのでしょうか。
ゴルギアスによると、弁論家のもとに弟子入りしてきた人間には、弁論術と共にアテレーを教えるので、弁論術を身に着けたものはアテレーを身に宿しているそうです。

しかしそれでは、先ほどの『弁論術を悪用する人間もいる』という話と矛盾することになります。 アテレーを身に宿す者とは、正義や勇気や節制を身に着けた美しい人のことを指すからです。
ゴルギアスは、自らの発言によって自分の首を絞めてしまったことになるのですが、この場面に割って入ったのがポロスでした。

『技術』と『迎合』

今回は、ポロスとソクラテスの対話について追っていくことにします。
前回までは、ソクラテスゴルギアス陣営に対して『弁論術とは何ですか。』という質問を重ね、ゴルギアスたちがどの様に説明をしても納得をしませんでした。
ポロスはソクラテスを説得できないと思ったのか、逆にソクラテスに対して『弁論術とはどの様な技術だと思うのか。』と尋ね返します。

この質問に対してソクラテスは、『弁論術とは技術ではない。』と意外な返答をします。では、技術で無いなら何なのかというと、弁論術は一種の経験で、迎合を作り出すものだと主張します。
技術ではなく一種の経験で、迎合を作り出すものと言われても、いまいちピン!と来ませんよね。
ソクラテスによると、弁論術と似たようなポジションにある、技術ではなく経験で、迎合を作り出すものの例として料理を挙げます。

料理は技術では無い

料理が技術ではないと聞いて、もしかすると、気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれません。 仕事として料理を作られている方もいらっしゃるでしょうし、現在、料理人の修行をされている方もいらっしゃるでしょう。
そんな方が、料理は技術にも到達していない一種の経験だと言われても、納得出来ないかもしれませんが… 後に説明する定義を聴くと納得されると思いますので、そこまで我慢して聞いてください。

料理人に限らず、料理を技術だと思われている方も多いと思います。 料理は、包丁などの様々な調理器具を扱いますし、それを使いこなす技術が必要ですし、食材をどの様に加工すれば良いのかと言った専門知識も必要になります。
専門的な知識が必要で、専用の道具が有って、それを使いこなす技術が必要な料理は、一見すると技術のように思えます。
ではソクラテスは何故、料理は技術ではない一種の経験で、迎合だと呼ぶのでしょうか。 それは、ソクラテスが技術と呼ぶものには絶対に外せない基準があって、料理はそれを満たしていないからです。

『技術』とは何なのか

ソクラテスが考える技術の定義というのは、対象のことを知り尽くして、その知識を元に決まった道筋を通って答えを出すものとしています。例えば、技術にどの様なものが含まれるのかというと、医術や建築技術などがそれに当たることになります。
医術の場合は、人間の体の構造を熟知する必要があり、体に変調をきたした場合、その対処法は理論によって、かなり細かい部分まで決まっています。
身体が熱を持った場合や怪我によって傷ついた場合に病院に行っても、医者の対処方法はほぼ決まっていて、どの病院のどの医者にかかったとしても、対処方法は大体 同じでしょう。

怪我以外の病気の場合では対処方法が変わる場合もありますが、それは、医者の見立てそのものが違う場合が殆どです。
精密検査をしない場合は、外側だけで病気を確実に見抜くというのは難しいために、大まかな見立てを行って様子を見るわけですが、その際には病気が確定しているわけではないので、対処もまちまちになったりします。
しかし、病気が確定してしまえば、医師が取る行動は大体決まってきます。

建築の場合も同じで、建造物を建てる為には物理の法則に則っと建てなければ、そもそも建築物が完成しなかったり、完成したとしても、僅かな振動や衝撃で崩れてしまったりします。
素人が適当に考えたデザインの家は建てることが出来ず、それを現実の構造物にしようと思った場合は、強度計算などを行わなければなりません。
建築におけるデザインは、強度が保てるだとか防火対策がしっかりしているとか、日本の場合だと耐震基準を満たしているといった基本的なことをクリアーした後に考えることです。

医者の技術は、人間の体を健康体にしてくれる。 建築技術は、基準を満たした安全な建物を作ってくれる。技術と呼ばれているものは目標がしっかりとしているわけですが…

料理は『迎合』

その一方で、迎合だと言われてしまった料理の方はどうなんでしょうか。 目標はしっかりとしているのでしょうか。
料理に求められるものは、美味しさであったり、何度食べても飽きない味といったものが目標に置かれると思いますが、この味というのは、絶対的なものではなく、人の好みでしかありませんよね。

例えば、うどんを茹でる場合を考えてみましょう。 硬めのうどんが好みの人と、唇で切れるほど柔らかいのが好みの人では、料理人が茹でる時間は変わってきます。
うどんの茹で方に絶対的な価値観は存在せず、美味しいとされるうどんに絶対的な硬さは存在しません。 世界70億人が食べて絶賛するうどんの茹で方は無いということです。

味付けにしても同じで、薄味で素材の味を活かした料理が好きという方もいれば、塩が多めに振ってある、味の濃い料理が好きな人もいるでしょう。 塩加減に絶対的な量は存在しません。
他の調味料も同じで、辛いのが苦手な人もいれば、味噌汁にも七味唐辛子を入れる人もいますが、これはどちらかが間違っているわけではありません。 食べる人の好みなので自由です。
辛いものを食べれるから偉いわけではなく、味の素を大量にかけるから悪でもなく、これらは全て、食べるものの好みの問題です。

この様に、料理というのは食べる人によって好みが変わるため、絶対的な正解が有るわけではなく、美味しい料理を作ろうと思うと、食べる人の好みに合わせる必要が出ています。
ということは、料理において一番重要視することは、食材を知り尽くすことでもなく、食材の知識を元に決まった筋道で調理することでもなく、食べる人の好みを知って、それに合わせることになります。
料理というのは食べる人の好みに忖度して、迎合して作るものだという事です。 調理法や調味料の入れ方が間違っていると言われようが、食べた人間が『美味しい』といえば、それが正解なのが料理です。

弁論術は『迎合』

これが、先ほど技術として挙げた医者の場合だとどうなるでしょうか。 例えば、体調を崩して発熱して病院に行ったとします。
医者が診察をした結果、病名が分かって、処方する薬も用意したけれども、患者が苦いのが苦手だとわかったから、患者の好みに忖度して薬を出さないなんてことをするでしょうか。
そんなことはしませんよね。 似たような効果が得られて、飲むのが苦しくない薬が有るような、選択出来る場合は別として、選択肢がなければ、客である患者が苦いのが苦手であっても、処方する薬は変わりません。

建築に関しても同じで、出来上がった設計図を客が見て、『この柱が邪魔だから取って。』と要望を出したとしても、構造物の強度的に柱が必要であれば、建築家は反対するでしょう。
しかし料理の場合は違って、素人である客が『パクチー苦手なので入れないでください。』といえば、プロの料理人は素人に迎合して、パクチーを入れませんし、肉は半生よりもよく焼いたほうが好きと言われれば、よく焼きます。

ソクラテスは、この料理のような明確な目標が決まっていないものを技術とは呼ばず、客の好みによって完成形を変化させる迎合と呼ぶと主張しているわけです。
そして、メインテーマになっている弁論術も、技術ではなく、この迎合に分類されると主張し、立派な技術どころか醜いものだと一刀両断します。
では何故、弁論術は醜いものなのでしょうか。 先に答えを言ってしまうと、技術は秩序に則って良い方向へ導くものですが、迎合は快楽のみを追求するものだからです。

人間における技術

これだけではわからないと思うので、もう少し具体的に説明していきます。まず人間を大きく身体と魂の2つに分けます。そしてこの2つには、良い状態と悪い状態があるとします。
身体にとっての良い状態とは、健康な状態の事。そして悪い状態とは、怪我や病気で身体が傷んでいる状態のことです。
魂というのは、人間の精神と考えてもらえればよいでしょう。 人間は、意志の力で体に命令を出して、動かしています。 最近の研究では、別の意見が出ていたりもしますが、紀元前の世界ではそう考えられていました。

つまり、目的地にたどり着きたいと思うから、身体をそちらの方向へ歩かせるといった具合に、まず精神が先に思い立って、体を動かすという考え方です。
この魂、精神にも、良い状態と悪い状態があります。 精神の悪い状態は、現在では精神病とか心の病気と言われていますよね。 精神が良い状態とはその逆で、精神的に健康な状態です。
精神と肉体には良い状態と悪い状態だけでなく、悪い状態だけれども良い状態だと錯覚する場合もあります。 自覚症状がない病気とか、二日酔いで体調が悪い時に向かい酒をすると一時的に改善するとか、そういった状態のことです。

そして精神と肉体には、それぞれ、技術と迎合の2種類の対応が存在します。
肉体における技術とは、医者の技術であったりトレーニング技術がこれにあたります。 簡単にいえば、人間の体をメンテナンスする技術といえばよいでしょうか。
肉体が病気になったり傷ついたりした場合は、医者が肉体を良い状態である健康体に治そうとしますし、健全な良い肉体をキープしたり作ったりするには、トレーニングの技術が必要になってきます。

同じことが精神にもいえて、精神における技術とは政治術の事で、政治術は司法と立法の2つで成り立っているとソクラテスは主張します。
つまり、身体にとっての技術が、身体を良い方向へメンテナンスることだったのに対し、精神にとっての技術は、精神を良い方向へ軌道修正することで、その為に必要なのは秩序ということです。
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【Podcast原稿】第69回【ゴルギアス】討論で負ける弁論家 後編

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弁論家はアレテーの教師か

言い換えれば、弁論術を学ぶものは皆、アレテーがどのようなものであるのかを知っている事になります。
では、弁論家は弟子をとって教育をする際には、弁論術と同時にアレテーも教え込むのでしょうか。 それとも、アレテーを既に理解しているものだけを弟子にとって教育をするのでしょうか。

というのもアレテーというものは、前に勉強をしたプロタゴラスの中でも語られてしましたが、ギリシャの中でもトップレベルの賢者であるプロタゴラスですらも、それが伝えられるものなのか伝えられないものなのか分からない存在でした。
それでも、プロタゴラスはアレテー教師と名乗っていたのは、自分自身がアレテーについて理解していると信じ込んでいたからですが、ソクラテスとの対話を続ける中で、自分が本当に理解できているのかがか分からなくなっしまってました。

ゴルギアスたち弁論家も同じ様に、自分たちはアレテーを知っていると信じ込んで、それを教えられると思い込んでいるのでしょうか。
アレテーについて自分自身は知らないと自覚しているから、弟子たちの前では自分たちはアレテーを宿していると装って、弁論家たちがアレテーを知っていると信じ込ませているのでしょうか。
それとも、アレテーは教えられないから、既に理解しているものだけを弟子に取るのでしょうか。

このソクラテスの疑問に対してゴルギアスは、入門してきた人間にはアレテーを教えていると言ってしまいます。
ギリシャでトップレベルの賢者であり、自分自身をアレテーの教師と言っていたプロタゴラスですら、最終的にはアレテーは教えられないかもしれないと言った、あのアレテーを、弁論家であるゴルギアスが教えられると言ってしまいました。
しかし、この発言によって、先ほどのゴルギアスの主張に矛盾点が生まれてしまいました。 その矛盾とは、アレテーを身に着けたものが不正に手を染める可能性を示してしまったことです。

アレテーを伝えた生徒は不正を犯すのか

先ほどゴルギアスは、弁論術を習いに来た人間に対しては、同時にアレテーも教えていると主張していました。 アレテーという卓越性を知らなければ、自分が紹介するものが卓越していると演出することが出来ませんからね。
そしてアレテーとは、それを身につけることで卓越した人間になれると言われているものです。卓越している人間とは、知識があり、勇気があり、善悪を見極める分別があり、勇気を持つため、美しいとされている人間のことです。
では、自分の欲望をコントロールできて、善悪の分別がつくような人間が、自分の欲望を満たすためだけに不正に手を染めるのでしょうか。

アレテーを備えるものは、正義の心を持ち、善悪を見極める能力を持っているわけですから、本当の意味でアレテーを学んで自分の身に宿すことが出来るような人間なら、そもそも不正は行わないはずです。
これがもし、弁論家はアレテーを教えているのではなく、アレテーが宿っている雰囲気だけを伝えているというのであれば、矛盾はありません。

例えば、ジョジョの奇妙な冒険という漫画作品にはDIOというキャラクターがでてきますが、このキャラクターは生まれついての悪党でゲロ以下の匂いがプンプンするとゴロツキに言われてしまうような人間です。
しかしこのキャラクターは、貴族の家に養子として迎え入れられることになるのですが、その貴族の家の財産を乗っ取るために、紳士のマナーを身に着けて、見かけ上ではイギリス紳士になりすまします。
DIOは、イギリス紳士のマナーを身に着けたことで精神まで紳士になったわけではなく、あくまでも、財産を乗っ取るために演技をして、紳士のような立ち振舞を身に着けているだけなので、本性は変わらずに、悪党のままです。

紳士の立ち振舞だけを身に着けて、イギリス紳士を演じているDIOの様に、実際にはアレテーを身に着けているわけではないけれども、アレテーを宿した人間のフリをしているだけだというのであれば、不正を行うことに何の疑問もありません。
現実世界にいる詐欺師も同じで、最終目的が金を奪い取るという不正行為だったとしても、相手の信用を勝ち取らないとお金を奪えないので、自分自身を善人で信頼の置ける人間だと演出して近づいてきます。
この人達は、誠実なわけでも親切なわけでも信頼できるわけでもなく、むしろその逆ですが、親切で誠実で信頼出来る人を観察することで表面的な上辺の部分だけを取り入れて、演技をする能力は持っている人達です。

弁論家の場合も同じ様に、自分たちがアレテーを宿しているわけではないけれども、アレテーを宿しているんじゃないかと思われる人を観察し、その人達の仕草や言動を研究して、演技しているだけだというのであれば、矛盾点はなくなります。
何故なら、そもそも悪党だったものが、優れている人の表面的な部分を真似しているだけなので、本質的な部分では変わっていないというのはありうることだからです。
この事を考慮して、ソクラテスは質問する際には、『アレテーを宿している演技をしているだけなのか?』といった選択肢を入れていました。

しかしゴルギアスは、弁論家はアレテーを身に着けているし、アレテーを宿していないものが弟子になった場合は、それも一緒に教えていると主張する一方で、卒業生の中には弁論術を悪用して不正を働くものがいると言ってます。
これは、明らかに矛盾ですよね。 本当に弁論家がアレテーを宿した卓越した人間で、その優秀さを弟子にも正確に伝えているのであれば、弟子は、不正を行わない正義と勇気を宿した尊敬すべき人間になっているはずです。
正義を宿した尊敬すべき人間が、自分の欲のために不正を働くことは絶対に無いので、仮に、弟子が不正を働いたとするならば、師匠である弁論家がアレテーを正しく弟子に伝えられていなかったことになります。

アレテーを正しく伝えきれていないのにも関わらず、アレテーを宿した一人前の弁論家として卒業させてしまったのであれば、それは師匠である弁論家に落ち度がありますよね。
にも関わらず、師匠側に全くの落ち度がないという主張は、矛盾しています。
ゴルギアスは、自分の立場を守るための保険として付け加えた余計な一言によって、自身の理論を破綻させてしまい、自分の過ちを受け入れなければ先に進まないような状態になってしまいました。

しかしここで、弟子のポロスが議論に割って入り、これ以降はソクラテスとポロスとの間で対話が行われます。

討論で負けてしまう弁論家

ポロスの主張によると、ゴルギアスは場の雰囲気を読んで、ソクラテスに調子を合わせて気にいるような答えを選んであげたまで、弁論家がアレテーを身に着けているとは、ゴルギアスは本心では思っていないと言い出します。
そして、そんな事もわからないままに、揚げ足を取って矛盾点を挙げて攻め立てるのは、卑怯なやり方だと非難しだします。
しかし、この理屈も少しおかしいような気がします。

というのも、ゴルギアスの職業は何なんでしょうか。 弁論家ですよね。 しかも、ただの弁論家ではなく、様々なところから弟子入りを志願してくる人が集まってくるほどの、有名な弁論家です。
弁論術とは、ゴルギアス自身が主張しているように、相手を説得する技術です。 その技術が凄いことで有名になり、その弁論術を教えることを生業としている人間がゴルギアスです。
なら、ソクラテスとの対話の際にも、その弁論術を使ってソクラテスを説得すればよいだけなのに、その対話の中で空気を読んで答えた事が矛盾していて、揚げ足と取られるというのは、弁論家としてどうなんだという気がしないでしょうか。

先ほどから何度も言ってますけれども、弁論家は、話術によって自分の意見が素晴らしいような演出をして、相手を説得する技術です。
その技術に長けたものが、素人相手の対話で口車に乗ってしまって墓穴を掘るというのは、色んな意味で駄目ですよね。
その上で、相手のやり方が卑怯だと罵る行為は、むしろ、自分の師匠の立場を惨めにしているような気持ちにすらなってきます。

例えば、最近話題のeスポーツの教義でストリートファイターVというのがありますが、このストVのプロで、世界で活躍しているプロゲーマーが、素人のガチャプレイ相手に負けてしまったら、どんな言い訳も虚しくなりますよね。
この上、『何の戦略性もなく、ただレバーをガチャガチャされると、動きが読めないから負けるよね。』なんて言い訳をしてしまえば、惨めどころじゃなくなりますよね。
恥の上塗りも良いところなんですが、唯一の救いは、ゴルギアス自身が言い訳をしたわけではなく、ゴルギアスよりも遥かに劣る弟子のポロスが、強引に対話に割り込んで主張したという点でしょうね。

自分が尊敬している師匠が、素人相手に負けるかもしれないというのが許せなくなって、感情に任せて乱入してきたと思えば、ポロスの行動も理解できなくはありません。
という事でポロスが乱入し、ソクラテス 対 ポロスの対話が始まるのですが、この続きは次回に話していこうと思います。
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【Podcast原稿】第69回【ゴルギアス】討論で負ける弁論家 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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今回の内容は、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

弁論術とは何なのか

前回は、専門知識を必要とせずに説得を生み出す弁論術という技術の詳細がわからないソクラテスが、ゴルギアスに対して弁論術とは何かというのを具体的に聞き出すというのが中心的な話でした。
その結果、弁論術は説得を生み出すとはいっても、聞き手に知識を授けて学ばせることで納得をさせているのではなく、話術によってこちらの意見が正しいように錯覚させて信じ込ませているということが分かりました。
相手を信じ込ませる技術であるため、弁論術を使用する相手は説得する分野に対して無知な人に限定されるので、専門知識は必要がないということでした。

この技術を利用して、他人を支配できるような権力が得られる地位に登りつめる事ができれば、自分の命令一つで、多くの専門家を利用して、自分の思い通りに出来る。
ただ、この技術を悪用すれば、無実の人間を犯罪者に仕立て上げるといったことも可能になってしまう為、扱い方には非常に気をつけなければなりません。
弁論術を教えるものは、弁論術が持つ危険性も教える必要があるけれども、教え子が暴走したとしても、教師を責めてはいけない。 悪用したのは、あくまでもその人個人なので、教えたものが悪いということはないというのがゴルギアスの主張でした。

この最後の、弁論術を悪用するのは、弁論術やそれを教えた教師が悪いのではなく、悪用した本人が悪いのだという意見ですが、ゴルギアスは何故、こんな事をわざわざ言ったのでしょうか。
これは憶測ですが、弁論家という職業は、地位の高い政治家を目指すために学ぶという点でソフィストと同じ為に、一般市民からはソフィストと同一視されていました。
ソフィストという言葉の意味を調べてみると、アレテーの教師という意味だけでなく、詭弁家という意味も含まれていて、一般市民からは『いかがわしい職業』と思われてきました。

この、『いかがわしい』というイメージを払拭する為に、そして、弟子が万一やらかしたとしても自分に責任が来ないように保険をかけたのかもしれません。
しかしこの保険が、新たな疑問を生んでしまいます。

『良さ』を演出するためには『良さ』を知らなければならない

その疑問というのが、前にプロタゴラスの回でも散々取り扱った、アレテーに関するものです。
弁論家の技術が説得を生み出すもので、その説得は、正しい知識を相手に与えることで納得を得るのではなく、自分の意見が正論であることを演出することによって信じ込ませているわけですが…
自分の意見が『正しい』と相手に思わせるために演出をしようとする場合、正しさというものを事前に知って置く必要があります。

自分の正しさを主張するとは、自分が話していることこそが正しくて、私の立ち位置こそが正義。 だから、それに相反するアナタの主張は間違っていて、アナタは悪の側に立っていると説得することです。
この様な主張をして相手を説得する場合、少なくとも、何が悪で何が正義なのかというのを熟知しておく必要があります。
善や悪の基準が曖昧な状態で、自分が正義側で相手が悪だと主張しても、説得力に欠けますし、説得が出来なければ弁論術の意味がなくなりますよね。 弁論術は説得するための技術なんですから。

つまり、弁論術を学んで実行する側は、正義とはどの様な状態のことかというのは熟知しておく必要があるという事になります。
またゴルギアスの話では、弁論家は単に政治集会や裁判などの場で、物事が正当か不正かを言い争う場合だけではなく、説得する事が必要になるあらゆる場面で利用できるとも主張しています。

弁論術は無知な相手にしか効果がない

例えば、建築でもデザインでも何でも良いのですが、コンペ形式でアイデアを争うという方式の企画会議というものが有った場合も、弁論術が役に立つと言っています。
建築のプレゼンでは、他の候補者のアイデアよりも自分のアイデアの方が優れていることを上手く表現する事ができれば、他の候補者を押しのけて、自分の作品が選ばれる可能性が高くなります。
本来であれば、候補として挙げられている建築やデザインの中から一番優秀なものを選ぶことが、その企画を成功するために有益なことになるわけですが、選ぶ側に専門知識がなければ、良い作品は選べません。

もし、選ぶ人間に専門的な知識があって、真実を見極める能力が有るのであれば、そもそもプレゼンは必要がありませんよね。下手にプレゼンを行ったとしても、相手の専門知識が圧倒している状態であれば、墓穴を掘ってしまうかもしれません。
弁論術が必要な場所というのは、相手が無知で、無知な相手に対して素晴らしさを演出することで、こちらの思惑通りの行動をとってもらおうとする場合だけです。

例えば水素水を販売する業者というのは、無知な人達に向かってプレゼンを行って、水素水を飲むことが体に良いことだと信じ込ませて、商品を買わせようとしていますよね。
水素水の業者は、科学や医学の知識に乏しい人たちが集まる場所で、商品の営業を積極的にするのであって、専門知識を持つ科学者が集まっている学会に乗り込んでいって、商品を販売しようとは思いません。

プレゼンの話に戻すと、ゴルギアスは、人の上に立って支配するものには専門知識は一切必要なく、命令だけしていれば良いと主張しているわけですから、専門知識は持ってるはずがありません。
ゴルギアスの言い分では、支配者に見る目がなくとも、見る目がある人間を支配下においてしまえば、自分が見る目を持っているのと同じなんだから、必要ないというわけです。
しかし、見る目がある者に最終判断をする権利があるわけではありません。 最終的にGOサインを出すのは権力者です。 数多くの作品の中から、見る目がある専門家が数点まで絞り込んだとしても、その中から選び出してGOサインを出すのは、権力者です。

良さを演出する弁論術

つまり、最終プレゼンまで残ってしまえば、説得する相手は専門知識を持たない無知な権力者になるわけですから、作品そのものの優秀さよりも、無知な人に対して優秀である事を演出するほうが重要になってくるという事です。
この時に、弁論術を使ってプレゼンをする側は、無知な人間に対してどの様に演出をすれば、作品そのものが優秀だと思い込むのかを重視して話す必要がでてきます。
ということは、無知な人間が想像する『優れている状態』であるとか『美しさ』というのを言葉によって演出する必要が出てきます。

まとめると、弁論術というものは結局の所、正義であるとか正当性であるとか、優れている、美しいと言ったものを言葉によって演出することで、自分の意見が他のものと比べて卓越した存在である事を表現する技術と言えます。
弁論術で表現する『正義』『正当性』『美しい』そして『優れている』という概念は、まとめると、卓越性であるアレテーと言い変えることが出来るため、弁論術とはアレテーを演出するものと言い変えることができます。
アレテーを演出する技術であるなら、少なくとも、アレテーがどの様な存在であるかを知っている必要が出てきます。

『何か』を演出する為には…

例えば、少し状況は違いますが、ものまね芸人が大物芸能人の物まねをする場合、元ネタとなっている大物芸能人の仕草や癖などを観察し、よく知っておく必要がありますよね。
どの様な声質で、どの様な話し方をするのか。 口癖は何なのかや、無意識で行っている仕草など、本人も気が付かないような細かい部分まで観察し、分かりやすい特徴だけをデフォルメして芸に落とし込んでいきます。
このものまね芸人が、元ネタとなる人物のことをよく知らずに行っても、それは芸と呼べるものではないでしょうから、多くの人達に芸が認められることもないでしょう。

ものまね芸人に限らずとも、役者は、貧乏人や金持ち、優しい人や嫌な人や短気な人を、役に応じて演じ分けることが出来ます。
役者たちは、感情を表現するために、どの様な態度を取れば、裕福さや貧しさや優しさが演出できるのかを日々研究し、稽古を通して実践し続けています。
この延長として、優れた人、威厳のある人を演じたり演出しようと思えば、どの様な状態が優れていると呼べるのか、威厳が有る人はどの様な態度をとるのかを知る必要があります。

自分であれ、自分が取り扱っている商品であれ、アイデアであれ、それをアレテーが宿った卓越したものに演出しようと思えば、アレテーがどのようなものかを知っている必要があります。
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【Podcast原稿】第68回【ゴルギアス】人を説得するとは 後編

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支配者に専門知識は必要がないのか

しかしソクラテスは、ここで新たな疑問が浮かんでしまいます。 先程もからも言っている通り、弁論家は専門知識を持たずに演出によって相手を説得するわけですが… 専門知識が必要な場面では、どの様に立ち振る舞うのでしょうか。
例えば、弁論術を駆使して国の重要なポジションを獲得したとしましょう。その国の中で、大掛かりな建築物を建てる公共事業の計画が立ち上がったとします。例えば、オリンピックを誘致したから国立競技場を作るなどですね。
この時に必要なのは、口先の技術ではなく、建築の専門知識のはずです。 何の専門知識も持たない、口先の技術や演出法に長けただけの政治家が集まったところで、この計画はうまくいくはずがありません。

物事を計画して実行するのに必要な知識や技術は弁論術ではなく、専門知識。この場合であれば建築に関する知識や技術が必要になります。
この公共事業の計画や実行において、弁論術を修めただけの政治家に、一体何が出来るのでしょうか。

この質問に対してゴルギアスは、待ってましたとばかりに持論を展開します。 
確かに、大型建築物を建てる公共事業の計画や実行において必要なのは、建築に関する専門的な知識や技術を持つ職人だが、では、その職人たちに命令を下すのは誰なんでしょうか。
その計画に対してGOサインが出せる権力者だよね。 

権力者は、医術の心得も建築技術も知識も持たないけれども、その事業を行うという決定を下すことが出来る。
アテナイで建築された港や城壁も、実際に計画、実行出来る知識人や専門家に命令を下したのはテミストクレスであり、テミストクレスが何故その様な決断を下したのかというと、ペリクレスが助言したからじゃないか。
実質的には、ペリクレスの意思によって公共事業が行われているのであって、建築の知識を持つ、現場で働く作業員の意思ではないよね。

この一連のやり取りは、よく小中学生が『ひっかけクイズ』として行っていたりもしますよね。
出題者が、『大阪城を建てたのは誰?』と質問をして、回答者が『豊臣秀吉』と答えると、『正解は大工さん』といった遊びがありましたけれども、そのやり取りに通じるものがありますよね。
建築物は、それを建てられるような技術や知識を持つ職人の手によって建てられるわけですが、その職人に命令と給料などの手当を出す人間が居なければ、建築物が建てられることはありません。

ゴルギアスが、人を支配する能力が有ると言っていたのはこの事で、自分自身に能力が備わっていなかったとしても、能力の有る人間に命令を下すことができれば、その能力は自分のものと変わらないという事です。

専門知識なしで本当の支配は出来るのか

しかしこの説明でも、まだ理解できない部分があります。
例えば、権力者が自分の趣味全開でデザインをした建物を作れと、専門知識を持つ職人に命令を下したとします。
その職人は専門知識を元に、その建物が立つ予定の土地の地盤の強度やデザインそのものを見直した結果、強度計算的に無理があるとして拒否した場合はどうするのでしょうか。

他の例でいえば、建築家同士がお互いのプランを競い合うコンペ形式のプレゼンが行われた場合、建築の専門知識を持たない権力者たちは、何を基準にして複数出されたアイデアの中から、もっとも優れたアイデアを選び出すのでしょうか。
専門知識があれば、その知識に照らし合わせて考えればよいわけですが、全く知識なない口が上手いだけの人が、どの様に優れた建築を選び出すのでしょうか。

重要なのは知識ではなく演出

なかなか納得しないソクラテスに対し、ゴルギアスは自分の経験談を語ることで、弁論術の凄さを理解させようとします。
ゴルギアスはその昔、医療現場で医者に反発する患者を目撃したそうです。 医者は、大怪我を負った患者に対して、傷を直したいのであれば傷口を焼く必要があるし、苦い薬も飲まなければならないと説明しますが、患者は納得しません。
医学の知識がまったくない患者にとっては、ただでさえ痛い思いをしているのに、これ以上に痛い思いも苦しい思いもしたくはないというわけです。

しかし医者としては、適切な処置をしなければ患者を見殺しにしてしまうことになってしまう。 医者が途方に暮れていたところにゴルギアスが登場し、その患者を弁論術によって説得させて、治療を受けさせたそうです。
医者は、医術の専門知識を持っていながら、その知識で患者を説得することが出来ずに居たわけで、この無知な患者の前では無力だったわけですが、何の専門知識も持たないゴルギアスが説得したことによって、患者は助かったわけです。
医者の方は、専門知識を持ちながら患者を救うことが出来ない可能性があった一方で、弁論術を身に着けたゴルギアスは、何の専門知識も持たずに命を助けたことになります。

また この例でいえば、そもそも医者が弁論術を学んでいれば、患者をうまい具合に説得できていた可能性も大きいです。
この様に弁論術というのは、人を支配する権力が欲しい者だけが身につけて役立てることが出来る技術ではなく、相手を説得する必要があるすべての職業の人にとって役立つ技術だと主張します。

強力過ぎる武器になる弁論術

この様に、弁論術は相手を説得する場面に遭遇する可能性のある全ての人に役に立つ技術といえますが、有効過ぎる技術であるが故に、その使い方には慎重にならなければならないとも主張します。
例えば、空手やボクシングなどの格闘技の技術は、自分自身の身を守るために有効な技術といえますが、その技術は同時に、相手を攻撃するための武器にもなります。
人を説得する技術というのは、悪用することで簡単に他人を陥れることが出来るため、悪用しないように気をつけなければならない。

だが、使う者が人間である以上、自分自身の我慢が足りないなどの理由で、その力を自分の欲望を満たす為に使って不正を働くものも出てくるかも知れない。
しかし、その様な状態になったからといって、その弁論術を教えた教師の方を責めてはならないと、ゴルギアスは念を押します。 
弁論術を生徒に授けた教師の方は、生徒一人ひとりが良い人間かという事は分からないので。 仮に、大勢の生徒の中の1人が不正を働いたからといって、それを事前に知ることは出来ないだろう。

不正を行うものは、不正を行った当の本人が悪いのだから、責められるのはその人間であって、教師の方ではないということ。 これは、自分自身の立場に保険でも書けているんでしょうかね。

武器が悪いのか 使用者が悪いのか

この主張は、今でいうと銃問題と似ているのかもしれません。銃は本来、力の弱いものが自分よりも強いものに対して抵抗する為に存在します。
アメリカで銃犯罪が多いにも関わらず、銃の所持が認められたままなのは、国が暴走した際の対抗策を民衆側が確保しておくためですし、銃があることで、力の弱い人間が自分よりも身体が大きく力の強い人間に襲われた場合も、対抗できます。
もし銃がなければ、弱い立場に有るものは強いものに蹂躙され続ける危険性すらでてきます。 しかし銃の存在が抑止力になって、襲われる可能性を下げることもあるでしょう。だから、銃そのものの存在は悪いとはいず、良い面も有ると考えられます。

しかし、その銃を使って、無実の人間を一方的に攻撃する犯罪も存在します。この様な犯罪は、銃がなければ起こらなかった犯罪ともいえます、銃そのものを悪としてしまえば、銃の良い面まで失ってしまうことになってしまいます。
こうして、銃の所持を肯定する人間から生まれた言い訳が、銃を使って犯罪を犯す者が悪いのであって、銃が悪いわけではいという言い訳です。
この銃を、弁論術に言い換えると、同じ様な理論となりますよね。

ただ、ゴルギアスが保険をかける為に言った一言が、新たな疑問を生んでしまうことになってしまいますが、それは次回に話していこうと思います。
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【Podcast原稿】第68回【ゴルギアス】人を説得するとは 前編

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今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

弁論術は説得して支配する力

前回の話を振り返ると、弁論家のゴルギアスに対し、ソクラテスが『弁論家とはどの様な職業なのですか。どの様な技術を身につけられるのですか。』という質問を投げかけて、弁論術を使う弁論家とはどの様な職業なのかを解き明かそうとしました。
しかしゴルギアスや弟子のポロスは、『弁論家の技術とは、一番優れた凄い技術だ。』といった感じの曖昧な答えしかしてくれません。
ソクラテスは、弁論術を身につけることによって、どの様な能力を手に入れられるのかを言葉巧みに聞き出し、弁論術とは『説得を作り出すもの。』で、その説得によって、人々を支配する事が出来るということだと教えてもらうことが出来ました。

人を支配する能力は、他人の力を自分のものの様に使える能力なので、これが本当のことであれば、かなり強力な能力です。
では弁論家は、どの様に言葉を使って相手を説得するのでしょうか。 医者に対して医学の知識で勝とうと討論をしても、口先の技術だけでは限界があります。 
これは、どのジャンルの専門感に対しても同じことで、専門家に対して専門知識で張り合っても、口先の技術では勝てないでしょう。 では、弁論家は、どの様な場面でどの様な事柄について相手を説得することで、人を支配するのでしょうか。

ゴルギアスによると、弁論術は法廷や政治の場などの集会で効果を発揮する技術で、主に、何が正しくて何が不正なのかといった事について説得する技術だと答えます。
ソフィスト達が主張する相対主義の価値観では、全ての人が、自分のスタンスこそが正義だと考えていますし、その反対意見は悪だと決めつけています。
この様な価値観の中では、自分の立場こそが正義で、その意見に反対する相手は悪だというのを何らかの形で納得させることができれば、自分の正義を相手に押し付けることが可能になります。

例え、自分自身が不正を犯していたとしても、それを口先の技術で正当化してしまえば、自分は罪に問われる事はありませんし、なんなら、相手が言いがかりをつけてきたとして名誉毀損で相手を訴えることも可能です。
この様な感じで、自分の言っていることが正しく、それに反抗する人間は悪だというふうに周囲や反発している本人を説得することで、自分の主張を押し通して自分の思い通りに動かすことが出来るというわけです。

自由を勝ち取れる弁論術

また、ゴルギアスの主張では、弁論術を身に着けたものが、本当の意味で自由になれると主張していましたが、確かに、弁論術にはそれ程の能力があるかもしれません。
例えば、私が不正を行ったとして、その事を警察が嗅ぎつけて捕まえに来たとしても、自分の正当性を主張して警察を説得して納得させることができれば、警察は私を捕まえることは出来ないでしょう。
警察というのは取締システムの部門に過ぎないわけですが、その警察を動かす権限を持つ人間を説得できれば、そもそも警察は動かないでしょう。

この様に、自分よりも権力がある上のものであったとしても、自分の正当性を訴えて説得に成功すれば、相手はこちらに手出ししなくなるわけでうから、弁論術を身に着けたものは自由に振る舞えることになります。
何をしても咎められることがないし、なんなら、権力者を説得することで自分の味方に引き入れてしまえば、その権力者が持つ力も使えるようになるわけですから、凄い力と言えます。

この話が本当であれば、弁論術を学ぶ為に膨大な金を出すことは惜しくはないでしょう。
しかし、その様な弁論術は本当に存在するのでしょうか。 本当に存在するとして、その本質・正体はどのようなものなのか。
ソクラテスは、説得を生み出す弁論術を吟味する為に、まず、ゴルギアスとの間で前提条件の確認を行います。 違う前提のもとで議論をしても、意見が食い違うだけですからね。

人を説得するとは

ソクラテスはまず、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでしまっている状態』の2種類の状態があるかどうかの確認をゴルギアスに対して行います。
学んでしまっている状態とは、学校で勉強をするとか、本を読むとか、ゴルギアスに弟子入りをして師匠から教えてもらうなどして、特定の分野のことを学んで知っている状態の事です。
信じ込んでしまっている状態とは、例えば宗教に入信するなどして、自分で見て確認をしたわけでもないのに、その宗教のベースになっている世界観を信じ込んでしまっている状態と考えれば、分かりやすいかもしれません。

この他にも、自分の信頼している人やネットのサイトに書かれていることを、裏付けも取らずに信じ込んでいる状態も含まれます。
実際に自分が学んだわけでも研究したわけでもなく、ただ、自分が信頼している人の言葉だからといって、無条件で信じ込んでいる状態のことです。

次に、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでしまっている状態』の2つは、同じことなのかを考えていきます。
学ぶという行為は、教科書を読むだとか教師から教えてもらうなど、誰かが書いた書物や専門知識を持つ人から教えてもらう事で学ぶわけですが…
その情報源を信頼できるかどうかが重要になってくるという点においては、信じ込んでしまっている状態と同じと言えなくはありません。 教師の発言や教科書に書かれている内容が本当のことである事を信じていないと、学べないということです。

しかし、学ぶというのは誰かから教えてもらう以外にも、自分自身の経験によって法則性を見つけ出すという事もあります。また、教師から教えてもらった事を疑って、そこから新たに理論を発展させて違った法則性を見出すという場合もあるでしょう。
一方で『信じ込んでしまっている状態』というのは、そこに学びが必要ない場合もあります。 有名な人物が主張しているから無条件で信じるというのは、学ぶことではありませんよね。

これらの事を考慮すると、『学んでしまっている状態』というのは、『信じ込んでしまっている状態』とは違った状態であることが分かります。

信念と知識の真偽

次に、信念と知識には、偽物と本物が存在するのかを確認します。まず、信念ですが… 信念とは、それが正しいと固く信じていることですが、これには真偽があるのでしょうか。
人というのは、なにか大きな決断をしたり、それを行動に移したりする際には、信念を持って行うと思います。間違っていると分かっている状態で、敢えて自分の状況を悪くする決断を行うといった人は少ないですよね。
しかし、その決断が間違っていることはよくあります。 事前の情報が不足していたり、勘違いしていたり、間違った介錯をすることによって、悪いものを正しいと思い込んで行動することは、少なくありません。

では知識はというと、知識には真偽は存在しません。 何故なら、間違った知識は知識とは呼ばないからです。
例えば、誰かが貴方に対して『金持ちになる為の知識を教えてあげる。』といって、お金と交換で間違った知識を教えたとします。 教えられたアナタは、教えられた通りに実行するも、全く儲けられません。 当然ですよね知識が間違っているのですから。
この場合にあなたは、どの様な行動に出るでしょうか。 間違った情報を少なくない金で売った相手に対して『嘘を教えたな!』とか『騙したな。』といった感じで詰め寄ると思います。

間違った知識というのは、間違っている時点で知識ではなく、それを知識と言ってしまうと嘘になってしまうものなので、知識に真偽は存在しません。 正しい情報だけを知識と呼びます。

ここまでに出揃った前提条件をまとめると、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』が存在し、その2つは同じではない。
信念には真偽がある一方で、知識には偽物がなく、本物しかない。 ソクラテスゴルギアスはこの前提条件を確認し合い、本格的な対話に入っていきます。

説得された状態とは

まず考えていくのは、弁論術が生み出す『説得する状態』。 言い換えるなら、弁論術が作り出す『説得された状態』について考えていきます。
説得された状態というのは、『学んでしまっている状態』と『信じ込んでいる状態』の両方に当てはまります。 知識を伝えることによって、相手が知識を受け取って学んでしまえば、こちらの主張に納得し、説得された状態になります。
知識に偽物はないので、知識を授かったと認識した時点で、相手は説得されている状態になるわけです。

一方で、知識を伝えなかったとしても、演技や演出によって相手がこちらの言い分を信じ込んでしまえば、相手はこちらの言い分に説得されたことになります。
こちらが騙そうとしている場合、相手は、こちらの口先の技術や演出などによって騙されている事になりますが、先ほどの前提条件で信念には真偽があると確認しあっているので、間違ったことを信じることに問題はありません。
相手が、こちらの嘘を真実だと思い込んで信じ込んでしまうという状態は、こちらの嘘に説得されてしまっている状態と言えます。

つまり説得というのは、相手に知識を授けて学んでしまっている状態にするのと、相手に知識を与えずに、こちらの言い分を信じ込ませている状態の2種類がある事になるわけですが…
では、ゴルギアスが教えている弁論術は、学んでしまっている状態と信じ込んでいる状態のどちらの状態を作り出す技術なのでしょうか。 この質問に対してゴルギアスは、『信じ込んでいる状態を作り出すものだ。』と答えいます。

これまでの内容をまとめると、ゴルギアスが提供する技術とは、相手を説得する技術ではあるけれども、聞き手に知識を与えるための技術ではないことが分かります。
政治や法廷の場で、相手をうまく誘導して自分の思い通りに事が運ぶようにする技術ではあるけれども、決して、正しい知識が必要なわけではありません。
相手は、正しい知識を得る事によって説得させられるのではなく、議論の演出の仕方によって、正しいのではないかと信じ込まされて説得させられるだけということです。

ゴルギアスは、弁論家は医学などの専門的な知識は一切教えずに、弁論術だけを教えると主張していましたが、これで謎が解けました。
弁論術とは、説得しようとしている人に知識を伝えて納得させるのではなく、相手がこちらの言い分を信じ込むように言葉巧みに演出する為の技術だったわけです。

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第67回【ゴルギアス】最強の能力を手に入れる為の技術 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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人が一番求めているものとは何か

そこでソクラテスは、ゴルギアスから具体的な答えを引き出す為に、世間一般で大衆が関心を持って求めているものを3つ挙げることにします。 もしかしたら、その中にゴルギアスが主張する人間が一番求めているものがあるかもしれませんからね。
この当時は、酒の席などで頻繁に歌われていた詩の中で人間が求めるものとして、1番目は『医者の技術』2番めは『健やかで優れた肉体』3つ目は『正しい方法で手に入れた財産』。この3つに大きな関心を持っていると歌われていました。

ひとつひとつ見ていくと、まず3つ目の正しい方法で手に入れた財産とは、不正を行わずに事業などを起こしてお金を儲ける方法と言い変えることができます。
何故、不正をしてはいけないかというと、捕まる可能性にビビりながら生きていかなければならないからでしょう。
現在でも、お金の稼ぎ方に興味を持つ人も多いですよね。 情報弱者を相手にした意識高い系の会員制サロンなども、犯罪などを犯さずに出来るだけ楽に金儲けをする方法を匂わせて、人の関心を引いていますよね。
お金は、無くて困ることは有っても、有って困ることは少ないので、みんな、犯罪を犯さずにできるだけ楽にお金を稼ぐ裏技には関心があると言えます。

次に、健やかで優れた肉体。 これが2番目に来ている理由も、何となく分かりますよね。
いくら事業で成功して、不労所得によってお金が大量にあっても、病気や怪我によって、一生、病院のベッドの上で過ごさなければならなければ、持っているお金も使えない為、無意味となってしまいます。
逆に、お金がなくても健康的な身体を持っていれば、贅沢は出来なくても、小さな幸せを見つけて生きていくことが出来るので、健康で、尚且、いろんな事にチャレンジできるような優秀な身体は、お金以上に大切なものだと言えます。

またこの時代は、頻繁に戦争が行われていて、スパルタのように職業軍人が居ないアテナイでは、戦争のたびに市民が徴兵されて参戦しなければならない事態も多かったようです。
優れた健康的な肉体を持つものは、戦争中でも生き残る確率が格段に上がるでしょうから、この様な肉体を維持する事は、自分自身を長く生きながらえさせることにも繋がります。

最後に一番関心のあるのが、医者が持つ技術です。 仮に、大きな病気や怪我をしたとしても、優れた技術を持つ医者がいて、その人間を金で雇うことで自分の体を治せるのであれば、それは大きな関心になりますよね。
また、自分自身が優れ技術を持つ医者を目指すことで、お金も健康も手に入れることが出来る可能性があります。
こうしてみてみると、一番に重要視されるのは健康的な状態で生きることで、その上で、お金があって自由に振る舞える事が一般市民の考える幸福な状態ともいえるんでしょう。

人を支配する能力

これらの技術を職業に当てはめて考えていくと、1番目は医者だし、2番めはトレーニングコーチですし、3番目は実業家という事になってしまい‥ ゴルギアスが主張する弁論家というのは、入っていません。
ゴルギアスの言い分としては、酒を呑んで騒いでいる人たちの間で好まれている詩は、その人達でも理解できるような分かりやすい言葉だけで作られているために、真実が含まれていない。
物の道理が分かっているものにとっては、弁論術こそが一番重要な技術で、この重要さが理解できれば、皆がこの技術を習得したいと思うような技術だと言いたいようです。

では、皆がその技術を習得したいと思う、最も素晴らしい技術とは何なのか。 それを身につけると、どのような事が出来るのか。
ゴルギアスによると、弁論術を身につけることによって、人を支配して自由に操れる能力が身につき、その能力により、どの様な権力にも縛られずに自由に生きることができるそうです。

ようやく、弁論術がどのようなものかが分かり始めてきました。
家を建てる能力があるのが大工、絵を描く能力があるのが画家とするなら、弁論家は人を支配する能力を持つものということのようです。
確かに、口の上手い人間というのは、他人を自分の意のままに動かせたりします。
オレオレ詐欺なども、電話で話しかけるだけで、相手に何百万という大金を自分の口座に振り込ませることが出来るわけですから、口の上手さというのは人を支配できそうな気がします。

先ほどソクラテスが宴会の場などで好まれる詩に出てきた、医者や実業家などの職業の人も、言葉巧みに自分の味方に引き入れてしまうことができれば、彼らの能力をタダで利用することが出来るかもしれませんし…
何なら、彼らを自分の支配下に置いて、彼らに働かせて、その利益だけを自分のものにするなんてことも可能かもしれません。

自分より上の立場の権力者が、自分に対して命令を下させる立場であったとしても、言葉巧みに権力者を説得して操ることができれば、その権力からも逃れることが可能になります。
この、相手を説得する技術こそが、ゴルギアスが主張するこの世で最も優れた技術というわけです。

最強の能力とは支配

確かに、相手を説得することで自分の意のままに操ることができれば、それは最強の能力とも言えます。
例えばアニメ作品で、『コードギアス 反逆のルルーシュ』という作品がありますが、この主人公は、相手の目を見て命令を下すと、相手が絶対に命令を聞いてしまうという絶対遵守の能力を手に入れます。
この能力を手に入れたことによって、学生の身でありながら、個人で世界最大の軍事力を持つブリタニア帝国に匹敵する力を手に入れます。

人を支配するということは、その人間が持っている能力も自分のものとして利用することが出来る為、自分に力がなければ力を持つものを仲間に引き入れればよいし、戦略を練るのが苦手なら、戦略家を引き入れれば良い。
自分に足りないものを、人を支配下に置くことで補っていくことが出来るのであれば、最強の能力といっても過言ではない能力です。

ゴルギアスから、弁論術はどのようなものかという答えは聞き出せたのですが、しかしここで新たな問題が出てきます。
説得とは、何についての説得なのでしょうか。 医者に対して医学の分野で説得をしようと思った場合は、少なくとも、説得をしようとする相手以上の専門知識が必要になります。
医学に限らず、その道の専門家を説得しようと思えば、その人物以上の専門知識が必要になりますが、この様な人たちをどの様に説得するのでしょうか。

専門知識では張り合わずに、別の分野に土俵を移して説得するのでしょうか。では、その別の分野とはどの分野のことでしょうか。

その事については、また、次回に話していこうと思います。
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第67回【ゴルギアス】最強の能力を手に入れる為の技術 前編

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今回の内容は、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

ソフィストと弁論家

第57回~前回までは、『プロタゴラス』というソクラテスを主人公とした、プラトンが書いた対話編を、読み解いていきました。
ものすごく簡単に要約すると、人を立派で卓越した人間にすると言って人を集めて、授業料を取って人々を教育するソフィストの代表格であるプロタゴラスという人物に、ソクラテスが会いに行って…
『立派で卓越する』とは、どの様な状態になることなんですか? 立派な人間というのは、人に教育を通して伝えられるようなものなんですか? という質問をしていき、そもそも人を立派な存在にするアレテーとは何かを追求していくという話でした。

今回から読み解いていく『ゴルギアス』は、プロタゴラスのように自分をアレテーの教師だとはいっていません。では、ゴルギアスという人物はどの様な人物なのかというと、弁論家という職業の人です。
弁論家とは、弁論術を使用する人のことで、弁論術とは、例えば裁判などで主張の違う相手と言い争いをしなければならない状態に陥った時に、話を有利に進めるための技術と考えてもらって良いと思います。
当時のアテナイではアテナイ代表の将軍であるペリクレスが国の役職を抽選制にしたために、誰でも、大物政治家になれるチャンスが有りました。

このチャンスをものにする為に、討論を有利に進めるための弁論術というものが求められて、それを教える弁論家が登場し始めました。 ゴルギアスもそんな中の一人です。
この弁論家ですが、弁論家の弟子も政治家を目指していて、アレテーを教えるソフィストの弟子も同じ様に政治家を目指していた上に、はたから見ると似たような技術にも見えたので、一般市民には混同されていたようです。
その為、ソフィストという職業は、アレテーの教師という意味合いの他に、詭弁家といった意味合いも含んでいたようです。

という事で、前置きが長くなりましたが、早速、メインのゴルギアスを読み解いていこうと思います。
この対話編にも、前回取り扱ったプロタゴラスのように、一応ストーリー的なものは存在するのですが、そのストーリーが直接本編に関わってくるというものでもないので、その辺りは飛ばして、ソクラテスゴルギアスの対話から始めていきます。

弁論家とは どの様な仕事なのか

ゴルギアスと対話をする機会に恵まれたソクラテスは、ゴルギアスに対して『あなたの職業は何ですか?』という基本的な質問をします。
当然ですが、ソクラテスはわざわざゴルギアスに会いに行っているわけですから、ゴルギアスが弁論家であることも知っていますし弟子を抱えていることも知っています。
ソクラテスが本当に聞きたかったことは、弁論家とはどの様な仕事内容で、どの様な技術を身に着けて使っているのですかということです。

この質問に対して、ゴルギアスの弟子のポロスが会話に割って入って、『この世には、様々な技術があって、その技術を磨くことで様々なことが出来るようになるけれども、先生が教えているのはそれらの技術の中でも最も凄い技術だ。』と答えるんです。
この答えを聞いて、中には納得される方もいらっしゃるかもしれませんが、この答えをよくよく聞いてみると、ポロスは何も答えていないですよね。偶に居ますよね。何か答えているようで何も答えていない人。
哲学者は疑うことが仕事みたいなところがあるので、当然ですが、ソクラテスはこの答えに納得せずに、もう一度、今度は分かりやすく、同じ質問をしていきます。

例えば、医者に対して『医者とはどの様な仕事なのですか?』と聞いたら、人の傷や病気を直したり、健康に保つために助言をしたりする職業ですと答えてくれるでしょう。
デザイナーに対して『あなたの仕事はなんですか?』と聞いたら、『私の仕事は、物が売れやすくするために人の目を引くデザインをする仕事です。依頼があるのは本の表紙が多いので、今はそれ専門でやってますね。』と答えてくれるでしょう。
大工なども同じで、複数の大工を集めて、『あなたの仕事はなんですか?』と聞いたら、『神社仏閣専門の宮大工です。』とか、『鉄筋コンクリートの建物専門の型枠大工です』といった具合に答えてくれる。

大工やデザイナーなど、大まかに分かれたカテゴリーの職業の人に仕事の質問をしたら、具体的に何をやっているのかを教えてくれる。
当然、弁論家に対しても同じ様な答えを期待したのに、返ってきた答えが、『数ある技術の中で一番すごい技術!』って言われても、何の答えにもなっていないし 意味がわからない。そこでソクラテスはもう一度質問します、あなたの職業は何ですか?
こういった感じで聴くと、弟子のポロスは『ゴルギアスは弁論術を教えている弁論家だ。』と、これまた分かりきったような抽象的な答えを返してくれます。

ゴルギアス登場

この弟子の失態に目が当てられなくなったのでしょうか。 ソクラテスが道場破りとするならば、弟子のポロスを手のひらで転がされたのを観た上で、コイツは私と戦う資格があるなと思ったからか、師匠のゴルギアスが登場します。
真打登場でソクラテスも本気になったのか、前回取り扱ったプロタゴラスでも出てきたソクラテスメソッドやソクラテス式問答法と言われるルールを持ち出して、『このルールに従って対話をしましょう』と持ちかけます。
ゴルギアスは弁論術を極めて、その実力が多くの人に認められて弟子が押しかけてくるほどの実力者です。弁論術を知らないソクラテスは、いいように丸め込まれて不本意な形で議論を終了させられてしまうかもしれません。

その可能性を事前に回避する為にも、ソクラテスは独自のルールを持ち出して、一方が主張をし続けて、疑問点があれば質問者は質問を短く簡潔にまとめ、回答者は短い言葉で答える。
質問者が行う質問内容の中に理解できない部分があれば、回答者が質問側に回り、先ほど質問をした人間は、何故、その様な質問をしたのかという主張を行う為に攻守逆転するというソクラテス問答法での対話を提案します。
これは、弁論家は言葉を扱う専門家なのだから、素人の質問に対しては、短くわかり易い言葉で答えて欲しいという要望を出した形ともいえます。素人にそう言われたら反論も出来ないので、ゴルギアスは、この要求をのみます。

準備が整ったところで、ソクラテスは再び、ゴルギアスに対して『あなたの仕事はなんですか?』と聞きます。
弁論家は、話す技術を駆使して様々なことを実現させていく技術を使うもので、その技術を弟子に教えることで授業料を受け取っていたりもする仕事なのですが、では、どの様なジャンルのどの様な言葉の扱いに長けているのでしょうか。

弁論家の仕事(再)

一言で話し方を教えるといっても、様々な分野に話し方というのがあります。 例えば、聴くだけで健康を維持できたり、身体の扱いについて詳しくなるような言葉を使いこなす技術を教えてくれるのでしょうか。
それとも、聴くだけで音楽の歴史や成り立ちが理解できたり、音楽の作り方や楽器の奏で方が理解できるような言葉の授け方を教えてくれるのでしょうか。
そういうものではなく、弁論家の技術は、落語家の弟子のように、大昔から有るような昔話を面白おかしく話せるような、話術や間のとり方を教えてくれるのでしょうか。

ゴルギアスソクラテスの質問に対して、『弁論術は、医学や音楽などの特定の専門知識について勉強するようなことはしない。』と否定して『人々に話をする能力を授けている。』と主張します。
この回答は、普通に考えれば分かりそうなものですから、普通の人なら質問すらしない問いかけですが、ソクラテスは何故、この様な質問をしたのでしょうか。
それは、教育を含めた人とのコミュニケーションの大半が、言葉によるものだからです。 その為、人に話をする能力を授けているという回答は、教育のほぼ全てに当てはまってしまうからです。

例えば、医学を専門的に勉強して、人の体の構造を勉強すれば、どの様な食習慣をすれば体に良いか、又は悪いかを知識を持たない人達の前で話すことが出来ます。
これはジャンルを変えても同じで、数学についての知識を高めて、数学の知識が様々な事に利用できることを理解できるようになれば、身の回りの問題を数学で解決できると人に伝えることが出来ます。
大工も同じで、その技術を高めれば、他人に頑丈な家の建て方を伝えることが出来るでしょう。 弁論術に限らず、全ての知識や技術は、それを深く勉強して身につけることによって、他の人間に自分が学んだ事を話して伝えることが出来るようになります。

これらの、弁論術以外の知識や技術と弁論術との差は、何なのでしょうか。 ゴルギアスによると、弁論術は言葉のみで完結するのが弁論術だと主張します。
確かに、家を建てる技術や知識をみにつける場合は、実際に木を切ったり木を組み立てたりと、体を動かして実践を積み重ねていかなければ、その技術や知識は身につきません。音楽の場合も同じでしょう。
医者にしても同じで、医学書を呼んだだけの人に手術などは絶対にして欲しくはありませんよね。 実戦経験を積んで、信頼できる技術を持つ人間が、医者と呼ばれることになります。

弁論術と座学の違い

しかし、数学などの座学だけで完結するものはどうでしょうか。 数学は、勉強する際にテキストやノートを使うという意見もあるでしょうが、それなら、弁論術も師匠のいっていることをメモするといったことがあるでしょう。
メモをとっても良いのであれば、ノートを取るのも良いでしょうから、数学などの座学の場合は、ゴルギアスが主張する弁論術と変わりがないことになります。 それなら、学校の教師の大半は弁論家ということになるのでしょうか。
もちろん、ソクラテス自身は、学校の教師と弁論家が同じだとは思ってはいません。 しかし、専門家である弁論家自身に、他の座学と弁論術の違いをビシッと線引してもらいたいと思い、質問を続けます。

手を動かさない、単純に言葉だけで伝えられる他の学問と弁論術には、どの様な違いが有るのでしょうか。 弁論家は、言葉によって生徒に何を伝えるのでしょうか。

この質問に対してゴルギアスは、『人間は、いろんな事に関心を持つ。 金持ちになりたいだとか、モテたいとか、様々なことに関心を持つが、その中で一番重要な事を教えている。』と答えます。
ただ、この答えは、ポロスが先ほど答えた『数ある技術の中で一番すごい技術!』という返答とほぼ同じ回答と言えます。 言葉を発して何かをいっているようで、実のところ何もいってないのに等しい回答です。
具体的にどの部分が重要で、他の技術と比べてどのような点で勝っているのかというのが、何一つ伝わってきませし、そもそも、人間が一番求めているものすらも明言されていません。
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第66回【プロタゴラス】まとめ回 後編

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アレテーは気高いもの?

アレテーを構成している徳目と呼ばれるものは、今回取り扱ったものでいうなら、『正義』『節制』『敬虔』『知識』『勇気』の5つという事になりましたが、これらに共通する感覚として、崇高で尊いイメージを抱いてしまいます。
この中で、例えば『正義』を抜き出して考えたとしても、正義を宿すのは生半可な努力では駄目でしょうし、正義を宿した人間には、気高く偉大なイメージを抱いてしまいます。
絶対的な正義の前には、多くの人が ひれ伏してしまうでしょうし、皆が、身につけたいと思いつつも、何処か近寄りがたいようなイメージがあります。

それもそのはずで、この対話篇を書いたプラトンは、後に『イデア論』を唱えて、何かに宿った徳目ではなく、それ単体の概念の存在に言及し始めます。
例えば、目の前に美しい花があったとしましょう。 その花は、『美しい』という概念が宿った花ですが、その概念は花という物質に宿ってこの世界に現れてきています。
美しいという概念は、それが宿っている花が消滅してしまうと、人間には認識不可能なのですが、プラトンイデア論では、何者にも宿ることの無い、それ単体として存在する概念の存在を主張します。

つまり、美しい花であるとか、美しい人と言ったように、何かの形容詞として宿る『美しい』という概念ではなく、概念単体として『美しい』というものが存在するというわけです。
美しさも一つの徳目として捉えられているわけですが… これらの徳目全てが、何かに宿るという形ではなく、独立した絶対的な概念として存在するというのが、イデア論です。
当然のことですが、徳目をすべて合わせるとアレテーになり、このアレテーにもイデアとしてのアレテーが存在します。

イデアとしてのアレテーとは、絶対的な正義であり、全ての事柄を認識する頭脳を持ち、もっとも美しい存在です。
このアレテーのイデアというのは、何かと似てないでしょうか。

イデアとしてのアレテーと神

アレテーとは、言い換えれば、絶対的な『善』の基準であり、言い換えるなら、一神教の神とも言える存在と同じです。
この、尊敬すべき神のような存在の一部である『勇気』が、単なる知恵のあるものが行う打算的な行為だというのは、かなりの侮辱とも捉えられます。

まぁ、この時代では、一神教というのはメジャーではないですし、ここに登場するソクラテスプロタゴラスも、ギリシャ神話の神々を信じている為に、少しニュアンスは変わってくるわけですが…
一神教ではないにせよ、勇気を持つものは、同じ様に勇気を備えた神が宿っているという考え方もあったようなので、どちらにしても、神と同等のものを侮辱されたという感じを受け取ったのでしょう。

しかし、プロタゴラスはこれに反論をする事が出来ません。
というのも、仮に、勇気とは知恵のようなものではないと言い切ってしまうと、勇気ある者と、臆病者や大胆なだけの人達とを見分ける方法が無くなってしまいます。
また、『勇気が知識のように、教える事が出来るようなものでは無い』としてしまうと、これは、一番最初にソクラテスが指摘したとおりの主張になってしまいます。

ソクラテスが最初にした指摘とは、『アレテーとは、知識のように他人に教えられるようなものではなく、運動の才能のように、持って生まれたものではないのですか?』という指摘です。
もし、この指摘を受け入れて、『アレテーは、持って生まれた才能に恵まれたものしか身につけることが出来ない。』としてしまうと、ソフィストという、自分たちの職業そのものの否定に繋がってしまいます
何故ならソフィストとは、アレテーを他人に教え伝える事が仕事だからです。 この仕事によって、多額のお金をもらい、彫刻家などの技術を伴う職人たちよりも良い暮らしが出来ています。

そんな身分なのにも関わらず、アレテーとは選ばれた人間だけが持つ事が出来る才能だとしてしまえば、では、今までは何を教えてお金を得ていたのだという事になってしまいます。
結局、プロタゴラスは、ソクラテスの主張に対して明確に否定することも出来ないけれども、だからといって、肯定することも出来ない状態に追い込まれてしまいます。

勝負の行方は・・・

では、この勝負はソクラテスの勝ちなのかというと、そういうわけではありません。
絶対主義者のソクラテスが求めるのは、絶対的な基準となるアレテーを知ることです。
この世に、もっとも根本的で何にでも当てはまる単純な法則、つまり真理があるのだとすれば、それを解明することが、真に求めていることです。

しかし、その追い求めている事を、ギリシャの中でもトップレベルの賢者と対話する事によって、見つけることが出来たのかというと、それは出来ていないんですね。
今回の対話によって、プロタゴラスは、自分が知っていると思い込んでいたアレテーを、実は知らなかった事が分かり、ソクラテスの方はというと、相変わらず、何も知識を得られずに無知なままという状態を維持しています。

無知の知

これを最後まで聞かれた方の中で、せっかちな方は、『で、結局、答えは何なの?』と思われるかもしれませんが…
これは前にも言ったと思いますが、この対話編が書かれた2500年後の現在であっても、答えは出ていません。
もし、ソクラテスが求めるような絶対的な基準となるアレテーが解明できていれば、当然ですが、その構成要素となっている『正義』の絶対的な価値観も分かっているわけですから、この世で争いなんて起こるはずがありません。

では、この対話編では何を伝えようとしているのかというと、人間は、社会生活を営む上でもっとも必要な事柄ですら、理解していないんですよという事を、対話を通して教えてくれているわけです。
この『プロタゴラス』という作品に限らず、多くの作品では答えは出ません。 それどころか、既に知っていると思いこんでいる事柄すら、対話編を読み解くことで分からなくなっていきます。
メノンという青年は、ソクラテスと対話をした際には、『貴方は、シビレエイのような人だ。 関わり合いになった人すべてを、その毒でもって痺れさせて動けなくさせてしまう。』といったことを言っています。

これは、別の表現で言い直せば、当然のように知っていると思いこんでいて、それで何不自由ない生活を送っていたのに、ソクラテスと対話をした事によって、知っていると思い込んでいたものが分からなくなってしまう。
思考停止状態になって、最も根本的なことすらも分からなくなってしまうといっているわけです。

勉強する程に分からなくなる哲学

この対話編を、私と一緒に読み解いた皆さんも、同じ様な感覚に襲われたのではないでしょうか。
おそらくですが、この対話編に接する前は、正義であるとか勇気について、明確ではないにせよ、どのようなものかというイメージが頭の中に有ったはずです。
そして、そのイメージを疑うこと無く抱き続け、その事によって何の不自由もなく、今まで暮らしてこれたはずです。

ですが、ソクラテスの質問を一つ一つ考えて行くに連れて、そのイメージが破壊されてはいかなかったでしょうか。
では、何故、この様なイメージの破壊が必要なのでしょうか。
普通の学問であれば、教師から教えを受けて、勉強をすればする程、多くの事を知る事が出来て、知識を蓄えることが出来ます。

その知識を応用して、今まで分からなかった事も推測することが出来るので、勉強することで、自分が前に進んでいる感じが得られたりもします。
しかし、哲学の場合はその逆で、勉強をすればする程、物事がよく分からなくなってきたりします。
今回のように、今まで知っていると思い込んでいたものが、実は知らなかったと判明することも多いので、知識的には、得ることよりも失うことの方が多いかもしれません。

それでも、根本的な疑問を投げ続けるのは何故かというと、ソクラテスによれば、そうする事が幸せにつながるからだそうです。

幸せの場所

幸せとは何なのか、絶対的な幸せの基準は存在するのかを考えなければ、最終的に幸せにたどり着くことは出来ません。
どんなものにも当てはまりますが、まず、ゴールを設定しなければ、ゴールに向かうことが出来ませんし、ペース配分も出来ません。
目的地を見失っている状態で走り始めても、目当ての場所に到達できるはずがありません。 当然ですが、間違った方向にゴールが有ると思い込んで走り始めるのは最悪で、これではどれだけ頑張ったとしてもゴールに到達することはありません。

目的地を設定しないと、目当ての場所には到達できないというのは当然のことですが、全ての人類は、この目的地を知りません。
にも関わらず、人類は目的地を知っていると思い込んで満足している。 この状態に対して、『知ってるつもりで満足するぐらいなら、知らない事を自覚した方が、まだマシだ。』という意味を込めて、この対話篇が書かれたのかもしれません。
知らない事を認識すれば、人は知ろうと頑張るものですからね。

という事で、今回でプロタゴラス編は終わりまして、次回からは、ゴルギアスを読み解いていこうと思います。
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