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【Podcast原稿】第71回【ゴルギアス】『秩序』と『混沌』 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

『技術』と『迎合』

前回の話では、人間は体と魂に分けられて、体と魂には、それぞれ2つずつの技術と迎合が有るという話でした。
技術と迎合の違いは目的の違いで、技術の目的は『良い方向へ導く』事ですが、迎合の目的は『快楽を追求する』もので、全く違った目的を持っています。
身体にとっての技術は、医術とトレーニングの技術で、医術の裏側には迎合である料理法が潜んでいて、料理法は医術のフリをして技術のように装っていて、人を良い方向ではなく、楽な方向へと向かわせてしまいます。

では、身体にとってももう一つの技術である トレーニングの技術の裏側には、どの様な迎合が潜んでいるのかというと、化粧法です。 メイク技術といった方が分かりやすいかもしれません。

人間は、規則正しい生活を送って、適切な量の食事を取り、適切な運動を行うことによって、健康で美しい肉体を手に入れることが出来ます。
運動能力や柔軟性が高い優れた肉体を手に入れれば、怪我もしにくいですし、肉体を使って出来ることの幅が広がります。 しかしこの様な肉体を手に入れようと思うと、トレーニングが欠かせません。
しかし、このトレーニングも、ただ単純に体を動かせばよいというわけではなくて、効率よく身体を鍛えようと思うと、トレーニング器具の扱い方や、正しいフォームなどの知識が必要になってきます。

バーベルなどを使ってトレーニングする場合、重量が軽すぎても効果は薄いでしょうし、逆に重量が重すぎると、怪我をしてしまう可能性が高まります。
怪我を極力減らし、その上で効率を最大限に引き上げようと思うと、それなりの専門知識や技術が必要になってきます。
今では、youtubeの様なネット動画やブログなどの記事、書籍などで学ぶことも出来ますが、この様なものが存在しない紀元前の世界では、専門知識や技術を、トレーニングコーチのような職業が伝えていました。

身体を『良くする』のか『良く魅せる』のか

この、トレーニングコーチのような、身体の鍛え方やメンテナンスの仕方を知っている人達が収めているのが技術とするなら、この技術に偽装している迎合は、メイク技術である化粧法や服飾となります。
例えば、血液が良く循環した健康的な顔色を手に入れようと思うのであれば、本来であれば、ポンプの役割を果たす筋肉を増やすだとか、ランニングをして心拍数を上げるなどのトレーニングが必要になります。
しかし、単純に顔色だけを良くしたいのであれば、明るめのファンデーションを塗ったりして顔に化粧を施せば、顔色は良くなりますし、目の下のクマなども隠せます。

辛くて面倒くさいトレーニングなどは一切行わなくても、客観的に見て顔色を良くしたいだけであれば、化粧をする方が手間暇はかかりません。
体型も同じで、裸になると腹が出ていたり脂肪が付きすぎていたりして、決して美しいとは呼べない肉体であっても、その体をごまかせるようなシルエットであったり、縦のストライプ柄など、体型をごまかせるデザインの服を着れば誤魔化せます。
着る服の形や色を工夫して、自分にとって似合うような服を着たり、きらびやかなアクセサリーを身につけることで、全く努力すること無く、自分を美しい存在だと演出することが出来ます。

洗練された美しいデザインの豪華な服を着れば、服の方に目が行ってしまって、その服の下に醜い身体が隠れているとは想像しなくなります。
その上で、服から出ている顔や手足の部分を化粧によって誤魔化してしまえば、人から見た外見だけは、美しく誤魔化すことが出来ます。

しかしこの方法は、前にも説明した料理のように、身体を本当の意味で良い方向に向かわせるものではありませんよね。
顔色が悪いとか、目の下にクマが出来ているというのは、身体が何かしらの不調を訴えているわけですから、トレーニングコーチに話を聞いて自分の生活態度を見直したり、医者にかかって病気かどうかを調べるべきです。
身体がその様になった根本的な原因を探って、それを解決しない限りは、いくら肌にファンデーションを塗りたくっても、身体が良い方向へ向かうことはありません。

迎合には確固たる基準がない

身体のシルエットにしてもそうで、お腹が出ているのは、運動不足や食べ過ぎなどが原因なのですから、それを綺麗な服を着て誤魔化したとしても、身体自体が良くなったりはしません。
人の体を良い方向へ導く。 つまり、力強く柔軟性と持久力を備えた優れた体を手に入れるために必要なのは、バランスの良い適度な食事と運動と休息です。綺麗な服で着飾っても身体に何の変化もありません。
この様に根本原因を一切解決しない化粧術は、これまでの定義に当てはめれば技術とは呼べません。また、この化粧も、迎合にありがちな『確固たる答えが無い』ものに当てはまります。

迎合に当てはまる料理法について前に説明したと思いますが、基本的にはこの考え方と同じです。 料理には絶対的なレシピは存在せず、美味しい料理かどうかは食べる人間によって変わります。
料理人が美味しい料理を作ろうと思う場合に一番必要なのは、食べる人間の好みで、その好みによって調味料の割合や調理時間を変えたりします。

化粧も同じで、化粧で一番重要なのは、他人が自分をどの様に見ているかです。 高い化粧品を購入して、時間をかけて一生懸命に化粧をした結果、誰の印象にも残らない顔が出来上がったとしたら、その化粧は成功といえるのでしょうか。
化粧は、単に生きていく上では本来はする必要がないものです。
それをわざわざ、お金と手間ヒマをかけて化粧をするのは、『キレイに見られたい』とか『可愛く見られたい』とか『優しくみれたい』『頼りがいが有るように見られたい』など、自分を見る相手に何らかの印象を与えるために行うものです。

人の好みというのは、時代によって、また流行り廃りによっても変わるので、化粧の流行も時代に合わせて変わっていきます。 どれだけ時代が変わっても揺るがいないような、絶対的な美しさを生み出す化粧は存在しません。
今現在ではありえないような価値観の化粧であっても、かなり先の未来では価値観の方が追いついて、受け入れられる事もあるかもしれません。
平安時代の日本人が行っていた化粧の正解と、今現在の女子高生の間で流行している化粧の価値観は、かなりかけ離れているでしょうし、現在の女子高生と30代の価値観にも違いがあるでしょう。

化粧法で重要なのは、他人が作った価値観で、他人が自分をどの様に見ているのかを考慮して、他人が考える美しさを自分の体を使って体現する事です。
これを聞かれている方の中には、この意見に批判的な方もいらっしゃるかもしれません。 でも、想像してみてください。 仮に、自分ひとりが無人島で遭難するという事態に追い込まれた場合、それでも化粧をして着飾るのでしょうか。
自分が絶対に、誰の目にも触れることがない状態でも、自分自身の満足の為だけに着飾る人は少ないでしょう。 着飾るという行為は、人からどの様に思われるのかというのがセットになっている行為で、見る人がいなければ成り立ちません。

料理法と同じく、化粧は他人の価値観に忖度する形で行われるために、迎合であると言えます。
一方で、力強く柔軟性と持久力を備えた、鍛えられた美しい体を手に入れる技術であるトレーニング技術には、基本的に流行り廃りはありませんし、他人の価値観が入り込む余地もありません。
人間の構造が解明されるに連れて、良い方向に改善していくことはありますが、他人からどの様に見られているかという他人の価値観でトレーニング方法が変わる事は無いでしょう。

人の魂の技術は『司法』と『立法』

この様に、身体の技術である医術には料理法という迎合が潜んでいて、体育術・トレーニング法には化粧やファッションなどの迎合が潜んで、技術に擬態しています。
同じ様に、魂の技術である政治術の立法と司法という魂に秩序をもたらす技術にも、それぞれ迎合が技術に擬態した形で潜んでいます。
立法に潜んでいる迎合がソフィストの達の術で、司法に潜んでいるのが弁論術に当てはまります。

人間は、社会性を持つ動物で一人では生きていけませんが、社会の中に順応して生きていこうと思うと、自由気ままに振る舞うことは出来ません。
やって良い事と悪い事を教育されたり、経験によって学び取っていくわけですが、何をやって良いのか悪いのかを判断するのが司法で、悪い事だからやってはいけないと決めるのが立法と考えると分かりやすいかもしれません。
弁論術とは、何をやってよいのか悪いのかを判断する司法の技術に擬態して、自らも技術だと言い張っているだけの迎合だというのが、ソクラテスの弁論術に対する解釈です。

そして、ソフィスト達と弁論家が行っていることは、共に魂の技術になりすますという事なので、この事についての分析を行っていない一般人には、ソフィストと弁論家の区別がつかない。
また、詳しく考えたことがないという意味においては、弁論家やソフィストですらも、自分たちの職業を分析した事がないので、よく分かっていないと主張します。

魂とは精神であり理性

ここまでの説明は、ソクラテスが主張するように、人間は体と魂の2つに分けられることが前提の話でした。
しかし、人間には魂がないだとか、そういった反論を持つ方もおられると思います。ソクラテスはそのような方のためにも、魂がどのようなものかというのを説明してくれています。

ソクラテスによると、もし、人間には魂や肉体と行った区別がないとするのなら、つまり人間の肉体には魂は宿っておらず、肉体は肉体のみで欲望を満たす為に勝手に動いているというのであれば、この世界はカオス的な世界となると主張します。
イオニアからギリシャに哲学を持ち込んだとされるアナクサゴラスの主張によると、この世界はスペルマタと呼ばれる極小の粒子によって構成されているそうです。
この理論は、現在の科学でいうと原子論の原型になっているような考え方で、別に ぶっ飛んだトンデモ理論という話ではありません。

アナクサゴラスの説によると、宇宙誕生の際には様々なスペルマタが混ざり合って混沌とした状態になっていたが、そこに理性が宿ることによって、混沌の中に秩序が生まれて様々な物が誕生し、今現在の世界が生まれたと主張しているようです。
まず、混沌と秩序の話からしていくと、この話は神話の世界の話ではなく、現在ような科学的な考え方が浸透した世界でも、似たような考え方があったりします。

秩序と混沌の関係というのは、時間が何故、一方通行にしか動かないのかという説明で出てきたりします
私達は、時間が一方通行で進むことに疑問を持ちませんが、何故、時間が一方方向にだけ進み続けるのか。 そもそも、時間が経過するとは、どの様な状態なのか。これって、結構、難しい問題だったりするんですね。
というのも、力学的な観点から観ると、時間が逆行したとしても、辻褄が合うからです。

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