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【Podcast原稿】第72回【ゴルギアス】『力』の本当の意味 後編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

『手段』と『目的』

そこでソクラテスは、ポロスに理解をしてもらうために、少し話題を変えて、こんな質問を投げかけます。
『人々が、目標に向かって努力をしている場合、努力している本人が本当にやりたい事は、今現在取り組んでいる作業なのか、それとも目標を達成する事か、どちらでしょうか。』
これは例えば、受験生が志願校に受かるために受験勉強を一生懸命している場合、この受験生が心の底から本当に望んでいることは、勉強を続けることなのか、それとも大学に受かることなのか、どちらかなのかという事です。

誰でも、目的を達成する為に手段を行うので、これは考えるまでもなく、目標の達成が優先されるべきです。 手段が目的化するのは、極力避けるべきですよね。
受験勉強のように、目標と手段が比較的分かりやすい場合は、手段と目的を混同する場合は少ないでしょうから、手段が目的化するということは、あまりないでしょう。
まぁ、受験がきっかけで勉強が好きになってということもあるでしょうけれども、この場合は、受験をパスして大学に行った後に行うことは勉強なので、勉強をするという手段が目的化したとしても、問題はないでしょう。やることは同じですからね。

でも、これが複数人の人間が一つの目標に向かって動く仕事などの場合は、手段の目的化が問題になったりもしますよね。
利益を伸ばす為に、社内の情報共有が重要だからと言う理由で、上司に対して報告書を出さなければならないという手段を生み出したとして、その後、IT技術の進歩によって情報共有が簡単になった場合は、その手段は必要がなくなります。
しかし大きな企業で、報告書を書くのが仕事、読むのが仕事といった人がいた場合、この人達の仕事はITの進歩によって無くなってしまい、その人の社内での存在価値が薄くなってしまいます。

こういった場合、本来であれば仕事がなくなったんだから、他の人手がない部署に移動したり社員数を減らしたりといったことが、会社の利益の増加につながるわけですが…
この人達が、職場環境を変えたくないし、仕事も失いたくないと思った場合、効率的なITの導入を様々な手を使って妨害したり、本来は報告が必要のないようなことまで報告させたりして、自分たちの存在価値を高めようとすることもあるでしょう。
この場合会社は、余計な仕事を増やし、新たに増えた仕事の為に人員を確保する必要があるので、本来の目的である利益の増加は達成できずに、逆に利益を圧迫する要因になったりします。

人が行動を起こす場合に重要視しなければならないのは目標の達成であって、手段を行うことではありません。手段のほうが目的化してしまうと、本来の目的を見失ってしまって、最悪の場合、目的とは違った方向に向かってしまう危険性すらあります。
これは仕事に限定された話ではなく、人生においても同じです。 人生において最終目的を明確にして置かなければ、目指すべき方向も分かりませんし、手段を目的だと勘違いしてしまい、見当違いの方向へ進んでしまうかもしれません。

人間の最終目標

では、人間の最終目標とは何なのでしょうか。 最終目標は、人間がもっとも望んでいることと言い変えることができると思いますが、人がもっとも望んでいることは、幸福であることです。
人間は幸福な状態であるために、健康であったりだとか、使い切れないほどの金銭や、誰もが尊敬するような知識、そして多くの人から認められる人望を求めます。
逆に、これらとは真逆のものは、拒絶しようとします。 病気であったり、明日の暮らしも不透明になる貧乏であったり、皆からバカにされる無知、そして皆から失望されて除け者にされることを嫌がります。

何故なら、その様な状態は不幸であり、人が求める幸福とは真逆の存在だからです。
人は、幸福にないたいが為に、自分の状態を良い状態にしようと思って、その努力をしようと思います。
身体が悪くなれば医者にかかり、頑丈な体を手に入れるために運動をする。 貧乏にならない為に働いて、馬鹿にされない為に知識を吸収する。 そして皆から求められるような振る舞いを行う。

決して、トレーニングするために生まれたわけでもなければ、勉強するために生まれたわけでもないし、皆から利用されるためだけに生きているわけではありません。
レーニングをするのも勉強をするのも、人から信頼を勝ち取るのも、全て、自分が幸福になるという目標の為の手段でしかありません。

この理屈を、先ほどの権力者の話に当てはめてみると、どうなるでしょうか。
ポロスの主張では、権力者は自分の気に入らない人間を自由に捕まえて有罪にすることが出来るし、その気になれば死刑にして殺すことだって出来てしまいます。
自分が持っていない珍しいものや、多額の資産を持っている人間に対しては、その財産を没収して自分のものにしてしまうことだって出来る。 このような、誰もが羨む能力を持っているから、権力者は幸せだというのが、ポロスの意見でした。

しかし権力者は、気に入らないものを捕まえて殺してしまいたいから、権力を手に入れようと頑張ったのでしょうか。 人の財産を自由に奪いたいから、力を身に着けたのでしょうか。
最終目的が、気に入らない人間を殺すことなのであれば、死刑を執行してしまえば、その人物は権力にしがみつく必要がなくなってしまいます。
それだけでなく、単純に人の命や財産を奪いたいだけなのであれば、わざわざ国でトップレベルの地位を目指すよりも、強盗などの犯罪を行う方がハードルが低いようにすら思えます。

権力者も人の子ですから、目指している目標は幸福であるはずです。
では権力者とは、人の命や財産を奪うことが楽しくて楽しくて、そのような行動の中に幸福を見出してしまうようなサイコパスの人達なんでしょうか。
おそらくそんな事はなく、権力者が自分の権力を不正に乱用して、人から何かを奪うという行動では幸せにはなれず、そのような行動をとって欲望を満たしたとしても、得られる満足感はたかが知れているでしょう。

手段の目的化を避けなければならない

先ほど漫画の『デスノート』という作品を例に出しましたが、あの作品の主人公は死神の力を使って自由に人間を殺す力を手に入れましたが、主人公の目的は、人を殺すことだったんでしょうか。
そのノートに名前を書き込んで人を殺していくという作業によって、幸福になれたのでしょうか。 その行動そのものが、幸福に直結していたのでしょうか。
そんな事はないですよね。 主人公の夜神ライトの最終目標は、恐怖によって他人の行動を抑制して、真面目で優しい人間だけの世界を作り出すことでした。

古代でも現在でも同じですが、権力者が行える権力の行使というのは手段であって、権力の行使そのものが目的ではありません。
権力は目的を達成するための手段でしかなく、その手段を使って、目的を達成するというのが権力者の本来の目的のはずです。
裁判にかけて人をさばく場合は、自分の目的の達成の為に邪魔になる人間を裁く。 財産を没収する場合も同じで、最終目的を達成するために行う手段が、権力の行使です。

では、権力者の最終目的は何なのでしょうか。 どんな目的を達成するために、人の命や財産を奪うのでしょうか。
例えば、私腹を肥やす為だとか、自分が行う不正に対して、それを止めるように口やかましく注意をしてくる人間を黙らせる為といった、目的が悪いものであるのなら、権力を使って実行に移してしまうと、悪が達成されてしまうことになります。
悪い目的に向かって、権力という手段を使って突き進むわけですから、その人間は悪い方向に突き進んでいくことになりますが、前に話した通り、悪い方向に進む力は『力』とは呼びません。

苦労をして、国のトップにまで駆け上がった上で行った事が、その辺にいる盗賊と同じであれば、世間一般の評価は『盗賊』でしかありませんからね。誰も盗賊を見て、立派で卓越した人なんて思いません。
世間の評価が、国の指導者から盗賊に変わってしまうような力は、力とは呼ばないということです。
しかし、最終目的が自由気ままに行動する事で、その行動の結果として自分自身が悪いものになってしまったとしても、その人物が自分の思い通りに行動していることには違いがないことになります。

力の使い方を間違えば不幸になる

冒頭部分で、『弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないけれども、自分たちにとって一番良いと思い込んでいる事は進んで行っている。』というソクラテスの意見を紹介しましたが、彼が主張していることはこのことです。
権力者が無知であるが故に、善悪の区別がつかずに、どのような行動を取ればよいのか、逆に、とっては駄目なのかというのがわからないまま、自分の欲望に従って悪い方向に突き進むことは、権力者の主観でみれば、良いことのように見えるでしょう。
感情に任せて、人の命や財産を自由に奪えるというのは、優越感を刺激されて、一時的には心地よい状態になれるかもしれません。

しかし、進んでいる方向が悪い方向であるなら、その行動の結果として、権力者は悪くなってしまって、誰からも優れた卓越した人間とは認められずに、盗賊と同じ様に、蔑んだ目で見られることになります。
その道を突き進むことは、本来の目的である幸福とは逆の方向に突き進んでいるのと同じことになるので、権力者の権力が大きければ大きいほど、速いスピードで幸せな状態から遠ざかることになります。
結果的に、幸福な状態から離れて不幸に向かって全力疾走していることになるわけですが、その全力疾走できる能力は、力と呼べるものなのでしょうか。

冒頭でも言いましたが、ソクラテスは、そのようなものは力とは呼ばないと否定します。
このソクラテスの主張は、論理的に正しいですし、順序立てて考えていけば、誰でも理解することは出来ると思います。
しかしこの説明でも、ポロスは納得ができません。 ソクラテスに対し、『権力欲はないのか?』と食らいつきます。 これに対する反論は、次回に話していこうと思います。