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【Podcast原稿】第72回【ゴルギアス】『力』の本当の意味 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次

今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

納得ができないポロス

前回の話を振り返ると、人間の身体は魂と肉体の2つに分けられて、その2つにはそれぞれ、技術と迎合が存在する。
技術は常に身体や魂を良い状態に向かわせるものだけれども、迎合は、良さではなく快楽や堕落を追求するもので、良いものとは言えない。
人間が良い優れた状態になろうとするのなら、本来であれば、迎合は無視して技術の習得を目指すべきだけれども、迎合は技術に偽装をしているので、日頃からよく注意をしていないと見極めが難しいという話をしていました。

そしてソクラテスは、その話に説得力を持たせるために、人間は何故、肉体と魂に分類できるのかという話を秩序と混沌を例にして話しました。
この世界が存在するにも認識するにも必要なのは秩序で、魂に秩序を宿すために必要な技術が司法と立法。 弁論術はその技術に偽装している迎合に過ぎないというのがソクラテスの意見でした。

しかしポロスは、この意見に納得ができません。 というのも、理論の世界ではなく現実の世の中を見てみると、弁論術によって無知な市民を説得したり、権力者にゴマすりをした人間が出世して、権力を手に入れているからです。
権力を手に入れた彼らは、自分の気に入らない者に対して罪をでっち上げて逮捕して命を奪ったり国外追放をしたり、財産を奪ったりと好き放題しています。
弁論術が、人を良い状態に導く『技術』ではなく迎合でしか無いのであれば、弁論術を駆使した彼らは何故、市民より上の支配者層に上り詰めることが出来たのかの説明がつきません。

良い方向へと向かうものだけが『力』

しかしソクラテスは、その様な支配者が振るう権力は力ではないと断言します。
何故なら、権力者が振るうとされている絶大な力と呼ばれれいるものは、その力を振りかざしている権力者本人の為になっていないからです。
力というのは、それを行使する事によって自分に何らかの利益があるモノの事であって、力を使うことで自分にマイナスにしかならないのであれば、それは力とは呼ばず、欠点になってしまいます。

ただソクラテスは、弁論家達は、自分の為になることは何一つしてはいないけれども、自分たちにとって一番良いと思いこんでいる事は進んで行っていると主張します。

しかし、ポロスはこの意見も納得ができません。 というのも、自分たちにとって一番良いことが出来るということは幸せなことですし、幸せを手に入れる能力こそが力であり、支配者の権力だと思っているからです。
古代ギリシャでは、労働は奴隷に押し付けられていましたが、この奴隷には自由がありませんし、欲しいと思うものを自由に手に入れることもできません。 欲しいものが手に入れられないという点に置いては、一般市民も同じでしょう。
でも権力者は、その力を持っている。 その気になれば、気に入らない金持ちに罪をでっち上げて裁判にかけ、財産を自分のものにしてしまうことだって出来てしまう。これを力と呼ばずして、何を力と呼ぶのかと

これを聞かれている多くの方も、このポロスの主張には納得してしまうと思います。
しかし、ポロスが力だと主張するものは、ソクラテスに言わせれば、『それは彼らが好きでやりたいと思っている事であって、それ自体が彼らを最善の道へ導くことはない。』と主張します。

欲望と幸福

ここで、ポロスとソクラテスの意見が食い違うのは、そもそも、幸福の捉え方が違うからです。
ポロスが考える人間の幸せとは、夢を実現するとか、欲しいものを手に入れるだとか、人から認められたり、高い地位に就いたりして満足感を得るといった、欲望を満たす行為と言えます。
幸せをこの様に考える方というのは多いと思いますが、ソクラテスは幸せをその様な状態とは捉えていません。

というのも、自分の欲望を満たすという行為は、自分の利益になるかもしれませんが、誰かの損失に繋がる可能性もあるからです。
誰かが得をして誰かが損をするという構造は、人間社会に対してマイナスの感情を発生させてしまう事になり、そのマイナスの感情は回り回って自分を不幸にしてしまう可能性があります。
またソクラテスは、欲望を満たすことそのものが、人にとって良いことであるとも考えていません。 プロタゴラスとの対話でも、快楽そのものは人間にとって良いものなのかという問いかけをしていましたよね。

ソクラテスは、欲望を満たすという行為そのものが人にとって良い行動とは思っていないために、権力者が欲望を満たすために行動して、満足感を得る行動が幸せにつながるとは思っていません。
人を良い方向に導くのは、快楽ではなく、別のものだと主張しているわけですね。
という事で、これから先の議論は、人を幸せにする為に必要なのは何なのかというのを意識しながら聞いてもらうと、良いかもしれません。

力は手段でしかない

ポロスとの対話に戻ると、ソクラテスは、権力者が行っていることは、自分の欲望を満たす為に行っていることだけれども、その行為そのものは彼らを良い方向に導いているわけではないので、力を持っている意味がないと主張します。
例えば、権力者が無知であるが故に、自分の進むべき道が分からない状態におちいっているとします。 幸せになれる場所が何処かにあることは分かっているけれども、その方向が分からない。
この様な状態で、手の届く範囲に快楽が転がっていたとします。 権力者は、権力があるが故にその快楽を手にする力を振るえるわけですが、実はそれが罠で、その快楽の方向へ進むと不幸になってしまう場合を想定してみてください。

この状態であれば、権力者は快楽を手にできる力を持っていない方が、悪い方向へ進まないだけ良いと言えます。
力がなければ、道を誤ることもなかったのに、力があったからこそ、間違った道に進んでしまうという場合、権力者が持つ力というのは、本当に力なのでしょうか。
破滅の方向に全力疾走できる力を持っているぐらいなら、その力を持たない方が幸せに近づける可能性があるとは考えられないでしょうか。

力というのは、幸せになる為に使うものであって、不幸になるために使うものは力とは呼べない。 であるなら、権力者が力を持つと主張するのであれば、権力者は善悪の区別がつく人間だということを証明しなければならない事になります。
この証明が出来ないのであれば、権力者が無知であるが故に、自分を優れた存在にする為には何をすればよいのかわからない状態のまま、自分の欲望を満たすためだけに好き勝手している可能性を払拭する事はできない。
そして、最善の道を見失っている状態で好き勝手な行動をしている人間は、力を持っているとは言わないと主張します。

ですが、ポロスはこの主張に納得ができません。 誰にも命令されず、逆に立場の弱い人間に命令して好き勝手出来る立場は心地よいし、その状態を持続できれば幸せだと思っているからです。
ムカついた相手がいれば、権力を利用して仕返しをしたり、自分が考える正義に反する事をする人間が現れたら、自分の基準で裁いてしまう。
この様な力を持つ人間を権力者と呼びますが、ポロス自身も含めて誰もが、この様な権力者に憧れます。 現代でも、デスノートの様な漫画が流行りましたよね。 

デスノートは、名前を書くだけで、契約した死神を動かして、自分が手を下さなくても、相手を思いのままに殺すことが出来るノートですが、この力は、古代や中世の権力者の力と同じとも考えられます。
誰もが自分基準の正義を持っていて、その正義に反する行動をした人間を悪とみなしています。そして、人はその様な人間を成敗したいと思い、その様な力が手に入るのであれば、手に入れたいと思っています。
ポロスの主張は、別に特別な意見ではなく、多くの人間が考えている事だと思いますが、それ故に、ポロスはソクラテスの主張が理解できません。
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