【Podcast原稿】第70回【ゴルギアス】『技術』と『迎合』 前編
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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
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目次
今回の内容も、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。
良い人間が不正を犯すという矛盾
前回の内容を簡単に振り返ると、弁論術とは相手を説得する技術ではあるれども、専門知識は必要がなく、自分が売り込みたいと思っているものを優れたものだと演出する力だと分かりました。この説得する技術の威力はすごく、極めれば、どんな状態でも自分を正当化できる一方で、無実の相手を陥れることが出来る為、この技術を身に着けたものの中には悪用する者もいる。
しかしゴルギアスによると、悪用されたとしても、この技術そのものが悪いわけでも教えた人間が悪いわけでもない。 悪用した本人が悪いとのことでした。
ですが、この言い訳はおかしいとソクラテスはツッコみます。
自分が売り込みたいものが、他のものと比べて卓越した素晴らしいものだと演出して相手を説得するためには、弁論術を扱う側が素晴らしさというものを理解していなければなりません。
他と比べて卓越した優れたものはアテレーが宿るものと言い変えることが出来ますが、では、弁論術を身につけたものは、アテレーを身に着けているのでしょうか。
ゴルギアスによると、弁論家のもとに弟子入りしてきた人間には、弁論術と共にアテレーを教えるので、弁論術を身に着けたものはアテレーを身に宿しているそうです。
しかしそれでは、先ほどの『弁論術を悪用する人間もいる』という話と矛盾することになります。 アテレーを身に宿す者とは、正義や勇気や節制を身に着けた美しい人のことを指すからです。
ゴルギアスは、自らの発言によって自分の首を絞めてしまったことになるのですが、この場面に割って入ったのがポロスでした。
『技術』と『迎合』
今回は、ポロスとソクラテスの対話について追っていくことにします。前回までは、ソクラテスがゴルギアス陣営に対して『弁論術とは何ですか。』という質問を重ね、ゴルギアスたちがどの様に説明をしても納得をしませんでした。
ポロスはソクラテスを説得できないと思ったのか、逆にソクラテスに対して『弁論術とはどの様な技術だと思うのか。』と尋ね返します。
この質問に対してソクラテスは、『弁論術とは技術ではない。』と意外な返答をします。では、技術で無いなら何なのかというと、弁論術は一種の経験で、迎合を作り出すものだと主張します。
技術ではなく一種の経験で、迎合を作り出すものと言われても、いまいちピン!と来ませんよね。
ソクラテスによると、弁論術と似たようなポジションにある、技術ではなく経験で、迎合を作り出すものの例として料理を挙げます。
料理は技術では無い
料理が技術ではないと聞いて、もしかすると、気分を悪くされる方もいらっしゃるかもしれません。 仕事として料理を作られている方もいらっしゃるでしょうし、現在、料理人の修行をされている方もいらっしゃるでしょう。そんな方が、料理は技術にも到達していない一種の経験だと言われても、納得出来ないかもしれませんが… 後に説明する定義を聴くと納得されると思いますので、そこまで我慢して聞いてください。
料理人に限らず、料理を技術だと思われている方も多いと思います。 料理は、包丁などの様々な調理器具を扱いますし、それを使いこなす技術が必要ですし、食材をどの様に加工すれば良いのかと言った専門知識も必要になります。
専門的な知識が必要で、専用の道具が有って、それを使いこなす技術が必要な料理は、一見すると技術のように思えます。
ではソクラテスは何故、料理は技術ではない一種の経験で、迎合だと呼ぶのでしょうか。 それは、ソクラテスが技術と呼ぶものには絶対に外せない基準があって、料理はそれを満たしていないからです。
『技術』とは何なのか
ソクラテスが考える技術の定義というのは、対象のことを知り尽くして、その知識を元に決まった道筋を通って答えを出すものとしています。例えば、技術にどの様なものが含まれるのかというと、医術や建築技術などがそれに当たることになります。医術の場合は、人間の体の構造を熟知する必要があり、体に変調をきたした場合、その対処法は理論によって、かなり細かい部分まで決まっています。
身体が熱を持った場合や怪我によって傷ついた場合に病院に行っても、医者の対処方法はほぼ決まっていて、どの病院のどの医者にかかったとしても、対処方法は大体 同じでしょう。
怪我以外の病気の場合では対処方法が変わる場合もありますが、それは、医者の見立てそのものが違う場合が殆どです。
精密検査をしない場合は、外側だけで病気を確実に見抜くというのは難しいために、大まかな見立てを行って様子を見るわけですが、その際には病気が確定しているわけではないので、対処もまちまちになったりします。
しかし、病気が確定してしまえば、医師が取る行動は大体決まってきます。
建築の場合も同じで、建造物を建てる為には物理の法則に則っと建てなければ、そもそも建築物が完成しなかったり、完成したとしても、僅かな振動や衝撃で崩れてしまったりします。
素人が適当に考えたデザインの家は建てることが出来ず、それを現実の構造物にしようと思った場合は、強度計算などを行わなければなりません。
建築におけるデザインは、強度が保てるだとか防火対策がしっかりしているとか、日本の場合だと耐震基準を満たしているといった基本的なことをクリアーした後に考えることです。
医者の技術は、人間の体を健康体にしてくれる。 建築技術は、基準を満たした安全な建物を作ってくれる。技術と呼ばれているものは目標がしっかりとしているわけですが…
料理は『迎合』
その一方で、迎合だと言われてしまった料理の方はどうなんでしょうか。 目標はしっかりとしているのでしょうか。料理に求められるものは、美味しさであったり、何度食べても飽きない味といったものが目標に置かれると思いますが、この味というのは、絶対的なものではなく、人の好みでしかありませんよね。
例えば、うどんを茹でる場合を考えてみましょう。 硬めのうどんが好みの人と、唇で切れるほど柔らかいのが好みの人では、料理人が茹でる時間は変わってきます。
うどんの茹で方に絶対的な価値観は存在せず、美味しいとされるうどんに絶対的な硬さは存在しません。 世界70億人が食べて絶賛するうどんの茹で方は無いということです。
味付けにしても同じで、薄味で素材の味を活かした料理が好きという方もいれば、塩が多めに振ってある、味の濃い料理が好きな人もいるでしょう。 塩加減に絶対的な量は存在しません。
他の調味料も同じで、辛いのが苦手な人もいれば、味噌汁にも七味唐辛子を入れる人もいますが、これはどちらかが間違っているわけではありません。 食べる人の好みなので自由です。
辛いものを食べれるから偉いわけではなく、味の素を大量にかけるから悪でもなく、これらは全て、食べるものの好みの問題です。
この様に、料理というのは食べる人によって好みが変わるため、絶対的な正解が有るわけではなく、美味しい料理を作ろうと思うと、食べる人の好みに合わせる必要が出ています。
ということは、料理において一番重要視することは、食材を知り尽くすことでもなく、食材の知識を元に決まった筋道で調理することでもなく、食べる人の好みを知って、それに合わせることになります。
料理というのは食べる人の好みに忖度して、迎合して作るものだという事です。 調理法や調味料の入れ方が間違っていると言われようが、食べた人間が『美味しい』といえば、それが正解なのが料理です。
弁論術は『迎合』
これが、先ほど技術として挙げた医者の場合だとどうなるでしょうか。 例えば、体調を崩して発熱して病院に行ったとします。医者が診察をした結果、病名が分かって、処方する薬も用意したけれども、患者が苦いのが苦手だとわかったから、患者の好みに忖度して薬を出さないなんてことをするでしょうか。
そんなことはしませんよね。 似たような効果が得られて、飲むのが苦しくない薬が有るような、選択出来る場合は別として、選択肢がなければ、客である患者が苦いのが苦手であっても、処方する薬は変わりません。
建築に関しても同じで、出来上がった設計図を客が見て、『この柱が邪魔だから取って。』と要望を出したとしても、構造物の強度的に柱が必要であれば、建築家は反対するでしょう。
しかし料理の場合は違って、素人である客が『パクチー苦手なので入れないでください。』といえば、プロの料理人は素人に迎合して、パクチーを入れませんし、肉は半生よりもよく焼いたほうが好きと言われれば、よく焼きます。
ソクラテスは、この料理のような明確な目標が決まっていないものを技術とは呼ばず、客の好みによって完成形を変化させる迎合と呼ぶと主張しているわけです。
そして、メインテーマになっている弁論術も、技術ではなく、この迎合に分類されると主張し、立派な技術どころか醜いものだと一刀両断します。
では何故、弁論術は醜いものなのでしょうか。 先に答えを言ってしまうと、技術は秩序に則って良い方向へ導くものですが、迎合は快楽のみを追求するものだからです。
人間における技術
これだけではわからないと思うので、もう少し具体的に説明していきます。まず人間を大きく身体と魂の2つに分けます。そしてこの2つには、良い状態と悪い状態があるとします。身体にとっての良い状態とは、健康な状態の事。そして悪い状態とは、怪我や病気で身体が傷んでいる状態のことです。
魂というのは、人間の精神と考えてもらえればよいでしょう。 人間は、意志の力で体に命令を出して、動かしています。 最近の研究では、別の意見が出ていたりもしますが、紀元前の世界ではそう考えられていました。
つまり、目的地にたどり着きたいと思うから、身体をそちらの方向へ歩かせるといった具合に、まず精神が先に思い立って、体を動かすという考え方です。
この魂、精神にも、良い状態と悪い状態があります。 精神の悪い状態は、現在では精神病とか心の病気と言われていますよね。 精神が良い状態とはその逆で、精神的に健康な状態です。
精神と肉体には良い状態と悪い状態だけでなく、悪い状態だけれども良い状態だと錯覚する場合もあります。 自覚症状がない病気とか、二日酔いで体調が悪い時に向かい酒をすると一時的に改善するとか、そういった状態のことです。
そして精神と肉体には、それぞれ、技術と迎合の2種類の対応が存在します。
肉体における技術とは、医者の技術であったりトレーニング技術がこれにあたります。 簡単にいえば、人間の体をメンテナンスする技術といえばよいでしょうか。
肉体が病気になったり傷ついたりした場合は、医者が肉体を良い状態である健康体に治そうとしますし、健全な良い肉体をキープしたり作ったりするには、トレーニングの技術が必要になってきます。
同じことが精神にもいえて、精神における技術とは政治術の事で、政治術は司法と立法の2つで成り立っているとソクラテスは主張します。
つまり、身体にとっての技術が、身体を良い方向へメンテナンスることだったのに対し、精神にとっての技術は、精神を良い方向へ軌道修正することで、その為に必要なのは秩序ということです。
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