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【Podcast原稿】第69回【ゴルギアス】討論で負ける弁論家 前編

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この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

目次

今回の内容は、プラトンが書いた対話篇の『ゴルギアス』を、私自身が読み解いた上で、解説する内容となっています。
本を朗読しているわけではなく、重要だと思うテーマの部分に絞って解説していく内容となっているので、対話篇のすべての内容を知りたい方は、本を購入して読まれることをおすすめします。

弁論術とは何なのか

前回は、専門知識を必要とせずに説得を生み出す弁論術という技術の詳細がわからないソクラテスが、ゴルギアスに対して弁論術とは何かというのを具体的に聞き出すというのが中心的な話でした。
その結果、弁論術は説得を生み出すとはいっても、聞き手に知識を授けて学ばせることで納得をさせているのではなく、話術によってこちらの意見が正しいように錯覚させて信じ込ませているということが分かりました。
相手を信じ込ませる技術であるため、弁論術を使用する相手は説得する分野に対して無知な人に限定されるので、専門知識は必要がないということでした。

この技術を利用して、他人を支配できるような権力が得られる地位に登りつめる事ができれば、自分の命令一つで、多くの専門家を利用して、自分の思い通りに出来る。
ただ、この技術を悪用すれば、無実の人間を犯罪者に仕立て上げるといったことも可能になってしまう為、扱い方には非常に気をつけなければなりません。
弁論術を教えるものは、弁論術が持つ危険性も教える必要があるけれども、教え子が暴走したとしても、教師を責めてはいけない。 悪用したのは、あくまでもその人個人なので、教えたものが悪いということはないというのがゴルギアスの主張でした。

この最後の、弁論術を悪用するのは、弁論術やそれを教えた教師が悪いのではなく、悪用した本人が悪いのだという意見ですが、ゴルギアスは何故、こんな事をわざわざ言ったのでしょうか。
これは憶測ですが、弁論家という職業は、地位の高い政治家を目指すために学ぶという点でソフィストと同じ為に、一般市民からはソフィストと同一視されていました。
ソフィストという言葉の意味を調べてみると、アレテーの教師という意味だけでなく、詭弁家という意味も含まれていて、一般市民からは『いかがわしい職業』と思われてきました。

この、『いかがわしい』というイメージを払拭する為に、そして、弟子が万一やらかしたとしても自分に責任が来ないように保険をかけたのかもしれません。
しかしこの保険が、新たな疑問を生んでしまいます。

『良さ』を演出するためには『良さ』を知らなければならない

その疑問というのが、前にプロタゴラスの回でも散々取り扱った、アレテーに関するものです。
弁論家の技術が説得を生み出すもので、その説得は、正しい知識を相手に与えることで納得を得るのではなく、自分の意見が正論であることを演出することによって信じ込ませているわけですが…
自分の意見が『正しい』と相手に思わせるために演出をしようとする場合、正しさというものを事前に知って置く必要があります。

自分の正しさを主張するとは、自分が話していることこそが正しくて、私の立ち位置こそが正義。 だから、それに相反するアナタの主張は間違っていて、アナタは悪の側に立っていると説得することです。
この様な主張をして相手を説得する場合、少なくとも、何が悪で何が正義なのかというのを熟知しておく必要があります。
善や悪の基準が曖昧な状態で、自分が正義側で相手が悪だと主張しても、説得力に欠けますし、説得が出来なければ弁論術の意味がなくなりますよね。 弁論術は説得するための技術なんですから。

つまり、弁論術を学んで実行する側は、正義とはどの様な状態のことかというのは熟知しておく必要があるという事になります。
またゴルギアスの話では、弁論家は単に政治集会や裁判などの場で、物事が正当か不正かを言い争う場合だけではなく、説得する事が必要になるあらゆる場面で利用できるとも主張しています。

弁論術は無知な相手にしか効果がない

例えば、建築でもデザインでも何でも良いのですが、コンペ形式でアイデアを争うという方式の企画会議というものが有った場合も、弁論術が役に立つと言っています。
建築のプレゼンでは、他の候補者のアイデアよりも自分のアイデアの方が優れていることを上手く表現する事ができれば、他の候補者を押しのけて、自分の作品が選ばれる可能性が高くなります。
本来であれば、候補として挙げられている建築やデザインの中から一番優秀なものを選ぶことが、その企画を成功するために有益なことになるわけですが、選ぶ側に専門知識がなければ、良い作品は選べません。

もし、選ぶ人間に専門的な知識があって、真実を見極める能力が有るのであれば、そもそもプレゼンは必要がありませんよね。下手にプレゼンを行ったとしても、相手の専門知識が圧倒している状態であれば、墓穴を掘ってしまうかもしれません。
弁論術が必要な場所というのは、相手が無知で、無知な相手に対して素晴らしさを演出することで、こちらの思惑通りの行動をとってもらおうとする場合だけです。

例えば水素水を販売する業者というのは、無知な人達に向かってプレゼンを行って、水素水を飲むことが体に良いことだと信じ込ませて、商品を買わせようとしていますよね。
水素水の業者は、科学や医学の知識に乏しい人たちが集まる場所で、商品の営業を積極的にするのであって、専門知識を持つ科学者が集まっている学会に乗り込んでいって、商品を販売しようとは思いません。

プレゼンの話に戻すと、ゴルギアスは、人の上に立って支配するものには専門知識は一切必要なく、命令だけしていれば良いと主張しているわけですから、専門知識は持ってるはずがありません。
ゴルギアスの言い分では、支配者に見る目がなくとも、見る目がある人間を支配下においてしまえば、自分が見る目を持っているのと同じなんだから、必要ないというわけです。
しかし、見る目がある者に最終判断をする権利があるわけではありません。 最終的にGOサインを出すのは権力者です。 数多くの作品の中から、見る目がある専門家が数点まで絞り込んだとしても、その中から選び出してGOサインを出すのは、権力者です。

良さを演出する弁論術

つまり、最終プレゼンまで残ってしまえば、説得する相手は専門知識を持たない無知な権力者になるわけですから、作品そのものの優秀さよりも、無知な人に対して優秀である事を演出するほうが重要になってくるという事です。
この時に、弁論術を使ってプレゼンをする側は、無知な人間に対してどの様に演出をすれば、作品そのものが優秀だと思い込むのかを重視して話す必要がでてきます。
ということは、無知な人間が想像する『優れている状態』であるとか『美しさ』というのを言葉によって演出する必要が出てきます。

まとめると、弁論術というものは結局の所、正義であるとか正当性であるとか、優れている、美しいと言ったものを言葉によって演出することで、自分の意見が他のものと比べて卓越した存在である事を表現する技術と言えます。
弁論術で表現する『正義』『正当性』『美しい』そして『優れている』という概念は、まとめると、卓越性であるアレテーと言い変えることが出来るため、弁論術とはアレテーを演出するものと言い変えることができます。
アレテーを演出する技術であるなら、少なくとも、アレテーがどの様な存在であるかを知っている必要が出てきます。

『何か』を演出する為には…

例えば、少し状況は違いますが、ものまね芸人が大物芸能人の物まねをする場合、元ネタとなっている大物芸能人の仕草や癖などを観察し、よく知っておく必要がありますよね。
どの様な声質で、どの様な話し方をするのか。 口癖は何なのかや、無意識で行っている仕草など、本人も気が付かないような細かい部分まで観察し、分かりやすい特徴だけをデフォルメして芸に落とし込んでいきます。
このものまね芸人が、元ネタとなる人物のことをよく知らずに行っても、それは芸と呼べるものではないでしょうから、多くの人達に芸が認められることもないでしょう。

ものまね芸人に限らずとも、役者は、貧乏人や金持ち、優しい人や嫌な人や短気な人を、役に応じて演じ分けることが出来ます。
役者たちは、感情を表現するために、どの様な態度を取れば、裕福さや貧しさや優しさが演出できるのかを日々研究し、稽古を通して実践し続けています。
この延長として、優れた人、威厳のある人を演じたり演出しようと思えば、どの様な状態が優れていると呼べるのか、威厳が有る人はどの様な態度をとるのかを知る必要があります。

自分であれ、自分が取り扱っている商品であれ、アイデアであれ、それをアレテーが宿った卓越したものに演出しようと思えば、アレテーがどのようなものかを知っている必要があります。
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