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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第138回【アルキビアデス】知識や技術の身につけ方 前編

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今回も、対話篇『アルキビアデス』について話していきます。
前回までの回を聞かれていない方は、まずそちらをお聞き下さい。

知識や技術の身につけ方


前回の話を振り返ると、政治家になるために必要な知識を考えていくと、『善悪を見極める為の知識』だということが分かりました。
これは知識であるため、身につけるためにはまず、この知識がこの世に存在していることを知っていて、尚且、自分自身はその知識を持っていないことを自覚している必要があります。
何故なら、その知識が存在していることを知らないと自分にその知識があるのか無いのかがわかりませんし、自分がその知識を持っていないことを自覚していなければ、それを身に着けたいと思うことも無いからです。

これは難しく考えすぎる必要はなくて、医者になりたいと思うのであれば、その前提となる知識である医学の知識が自分にないことを自覚した上で、学校に通って勉強する必要があります。
弁護士になりたいと思うのであれば、法学部にいって勉強するなり、テキストを読んで自習するなりして予備試験に合格し、その後、司法試験に合格するために勉強する必要があります。
その知識を実践で使うためには、試験に合格するだけでなく、実務経験を積むために医者なら研修医として働く必要もあるでしょうし、弁護士なら法律事務所で下働きする必要もあるでしょう。

もっと身近な例でいうのであれば、自転車に乗るという単純なことですら、自分に自転車に乗るスキルがないことを自覚した上で練習しなければ乗ることは出来ません。
この様に知識や技術というのは、自分がそれを身に着けていないことを自覚した上で、勉強するなり練習することで身につけることが出来るものです。
アルキビアデスは、自分が他の人間よりも政治家に向いているから政治家になると主張していますが、これは言い換えるのなら、『善悪を見極める知識』を身に着けていると言っているのと同じです。

無知を認識していた時期


では実際に彼は、『善悪を見極める知識』を身に着けているのでしょうか。
先程も言いましたが、知識を身につけるための前提として、その知識が存在することは知っているけれども、その知識を自分は持っていないことを自覚している必要があります。
何故なら、自分には既に知識が有ると思い込んでいる場合は、その知識を手に入れようと頑張ることがないため、結果としてその知識を手に入れることは出来ないからです。

くどいようですがアルキビアデスが『善悪を見極める知識』を手に入れるためには、まず、彼の人生の中で善悪を見極める知識を持っていなかった時期が存在し、それを彼自身が自覚した上で、その知識を手に入れようと行動する必要があります。
では、アルキビアデスに『善悪を見極める知識』を持っていないと自覚していた時期があったかといえば、彼にはありませんでした。
彼は子供の頃から、友達がインチキをしたらそれを咎めたり、自分が正しいと主張して喧嘩になるようなことがありました。つまり彼は、子供の頃から善悪を見極めることが出来ていたと思っていたということです。

言葉を身につけるように


この事をソクラテスに指摘されると、アルキビアデスは『私は言葉を教えてもらうのと同じ様に、生活を通して一般大衆から善悪を見極める知識を教えてもらった』と主張します。
私自身もそうですし、これを聞かれている方もそうだと思いますが、私達が母国語を勉強するときというのは、母国語の知識がないことを自覚した上で必死に頑張って身につけるなんてことはしません。
日常生活を送る中で親や一般大衆からその都度教えてもらい、いつの間にか話せるようになっています。

アルキビアデスの主張としては、善悪を見極める知識もこの母国語の学習と同じで、日常生活を送っている中で、なにか問題があればその都度、一般大衆から善悪の基準を教えてもらって自然と身に着けたということなのでしょう。
しかしソクラテスはこの主張に納得ができません。
というのも、知識を授ける側というのは、その知識を持っている必要があるからです。

人は知っていることしか教えられない


母国語というのは、普通にコミュニケーションが取れる程度のレベルであれば、その国で生まれて育った人間であれば誰でも最低限の知識は身につけています。
その為、その程度のレベルの言葉であれば、一般大衆でも人に教えることが出来ます。しかし人は、自分が持っていない知識を教えることは出来ません。
医学の知識を持たない一般大衆が、他人に医学を教えることは出来ませんし、数学の知識を持たないものは数学を教えることも出来ないでしょう。

母国語も同じで、日常のコミュニケーションを取る程度であれば誰でも教えることができるかもしれませんが…
説得力の有るスピーチをする方法や人を魅了する文章の書き方といった特別なスキルは、一般大衆の誰もが教えることができるわけではないでしょう。
そのようなスキルを教えることができる人間は、そのスキルを持つものや、それを身につけるための方法などの知識を持つものだけです。

インプットに対するアウトプット


では一般大衆が善悪を見極める知識を持っているのかといえば、持っていません。 それは、世間一般を観察してみれば簡単に分かります。
知識や法則というものは、簡単に言えば数学の公式のようなもので、それに当てはめさえすれば誰でも同じ答えが出せるものです。
つまり、善悪を見極める知識というのを持つ人間が複数集まって特定の問題について考えた場合は、全員の答えが一致するということです。

考えが一致するということは、問題が起こった際に言い争いなどは一切しないということですが、実際にそうなっているのかというと、そんな事はありません。
私達の身の回りでは、家庭や仕事場など様々なところで議論が行われていますし、言い争いに発展するケースも珍しくありません。
現代ではワイドショーなどで政治のニュースを簡単に見ることが出来ますが、善悪を見極める知識が必要な政治家ですら、常に言い争いをしています。

ネットや教育制度など、昔よりかは情報収集の分野で優れていると思われる今現在でもこうなのですから、紀元前の一般市民の多くが善悪を見極める知識を持っていたとは考えづらいでしょう。

知識はテキストで学ぶ


ではこのような環境では、善悪を見極める知識を全く学ぶことが出来ないのかというと、そうとも言い切れません。
人間は文字というものを発明し、文章で残すことで遠く離れたものに対してや、時代を超えた次世代に対しても知識を伝えることが可能です。

つまり、過去に1人でも善悪を見極める知識を身に着けたものがいて、その者が書物にその知識を書き残していれば、それを読むことで知識を身につけることは可能です。
実際に当時でも神話という形で、どのような行動が勇敢な行動か、どのような行動が正義にかなった行動なのかといったことが物語として描かれていて、演劇や吟遊詩人の歌などでも聞くことが出来ました。
例えば、イーリアスで語られているトロイア戦争などでは、アキレスの勇敢さやパトロクロスとの友情など様々なことが語られているので、これを研究することで、何らかの知識が手に入る事ができるかもしれません。

しかし、このイーリアスの中でも、人々だけでなく神々ですら常に言い争いを行い、その争いは戦争にまで発展しているため、これらを研究したとしても『善悪を見極める知識』が身につくとは思えません。
このことから分かることは、善悪を見極める知識について書かれた書物はないため、それを読んで知識を身につけるということも不可能だということです。
これによってアルキビアデスは、善悪を見極める知識を一般市民から学ぶことも書物から学ぶことも出来ないということになってしまいました。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第137回【アルキビアデス】大衆から学ぶ 後編

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知識を持つものは沢山いるのだろうか?


ソクラテスの弁明では、メレトスのこのような主張に対してソクラテスは、競走馬のレースで常にランキング上位に入賞できるような馬を育てることが出来る調教師というのは、誰にでもなれるんだろうか?
それとも、優れた才能や技術を持つ限られた極一部のものだけなのだろうか?という質問を投げかけることによって、その理屈を否定しています。
これはつまり、馬を調教して早く走らせるというだけでも他の人にはない特別な能力が必要なのに、人を正しい方向へと導ける才能を持つ人間がそんなに沢山いるのだろうかと言っているわけです。

もっと身近な例で言えば、プロが行うスポーツの試合を観て、『あ~でもない』『こ~でもない』と監督気取りで文句を言っている人は、この世に大勢います。
ではその人達のは全て一致した一つの答えを言っているのかといえば、そんなことは無いでしょう。それぞれがバラバラのことを言っていたりします。もし一般大衆が勝利の法則を知っているのであれば答えは一致するはずですが、それすらしません。
では、その一般市民達がプロに変わって実際に監督になったとして、プロの監督よりも実績を出せるのかというと、それは不可能でしょう。

プロの監督は、自分のチームを勝利に導くことだけに全神経を集中させて生活をしています。そんな人に、酒を飲みながらテレビを見ているだけの人が、そのゲームの知識で勝てるのかというと勝てるわけがありません。
これがゲームの勝敗ではなく、『ものの良し悪しを見極める事』という真理といっても良いような事柄になれば尚更です。一般市民はそんな事について普段考えたことすら無いでしょうから、そんな知識を持っているはずが無いと思われます。

大衆から実際に学べている


しかしこれに対してアルキビアデスが、そんなことはないと反論します。
彼は、『私は今現在ギリシャ語を喋っている。この言葉は、生まれたときは喋れなかったため、誰かから教えてもらっているはずだけれども、明確な人物の名前が挙げられるかと言えば、そんな事はできない。
しかし、日常生活を送る中で一般大衆たちが取るコミュニケーションを見聞きしたり、実際に話しかけられたりして覚えたことだけは確実だ。』といったようなこと主張します。

これは確かにアルキビアデスの言うとおりで、日本に住む私達は日本語をしゃべることが出来ますが、その言葉を喋れるようにしてくれた特定の人の名前を挙げられるかといえば、挙げることは出来ないでしょう。
親が教えてくれたという方もいらっしゃるでしょうが、確かに、言葉を教えてくれた教師の1人は親かもしれませんが、普段テレビから垂れ流されている言葉が、言語の学習に全く影響がなかったかといえばそんなことはないでしょう。
普段かわされる何気ない会話を日常の中で聞き続けることで、私達は言葉を覚えるため、教師は誰かと聞かれれば、一般大衆に教えてもらったと答えても間違いではないでしょう。

知識のレベルの違い


これに対してソクラテスは、『言葉に関しては、君のいうとおりかもしれないが、しかし、それは善悪を見極める知識については当てはまらない。』と主張します。
何故かといえば、人に知識を授けることが出来るのは、知識を持つものだけだからです。
言葉というのは、一般大衆の大半が知っているため、教えることが出来ます。 特に日常会話程度の言葉であれば難易度は低いため、母国語であれば大抵のものが最低限のコミュニケーションを取れるレベルでは習得しています。

この様に、皆がそれなりのレベルで習得している知識であれば、皆から言葉を教えてもらうということは可能でしょう。 では一般大衆は、母国語と同じ様に善悪を見極める知識を身に着けているのでしょうか。

法則に従えば答えは一致する


例えば、母国語を正しく理解している国民に向かって、右の方に歩いてくれとか、あそこに見える山の方に歩いてくれといった感じで指示をすれば、彼らはその支持を正しく理解してそちらの方へと歩いていってくれるでしょう。
おそらく、指示を意図的に変な方向へ解釈する一休さんのような人でもない限り、素直で理解力のある人は、その指示によって同じ方向に向かって歩いていくはずです。 この様に、正しい知識を身につけていれば、入力に対して出力は同じになるはずです。

では、先程から問題になっている『正義を見極める知識』についてはどうでしょうか。 この知識が既に確立されていて、尚且、一般市民が正しく理解しているのであれば、善悪の判断を委ねられた際に皆が下す決断は同じはずです。
この状態というのはつまり、裁判などで有罪無罪を判別する際には、確実に満場一致で判決が下るということです。では実際にはその様になっているのでしょうか。 
このコンテンツでは以前に『ソクラテスの弁明』という対話編を扱いました。 この対話篇の簡単な内容としては、ソクラテスが今まで論破してきた者たちに訴えられて裁判にかけられた際に弁明を行うというものです。

この対話編で行われる裁判では、約500人の裁判官の多数決によって判決が決まるのですが… もし、アルキビアデスのいうとおり、一般大衆の多くが『善悪の判断を見極める知識』を身に着けているのであれば、判決は500対0で出るはずです。
では実際にはどうだったのかというと、結果は僅差で有罪になっています。 対話篇では具体的な数字は書かれていませんでしたが、30人程度の人間が心変わりをするだけで判決は覆っていたと言われているので、票は割れたわけです。
このことからわかるのは、少なくとも半数ぐらいの裁判官は、善悪の知識を身に着けていなかったということです。

私は善悪の正しい判断をするための知識を持っていないので、どちらに投票するのが正解かはわかりませんが…
対話篇の中で投票した裁判官の中には、知識を持っておらず、感情に任せて投票したけれども結果的に正しい方へ投票できていたという人もいるでしょう。
そういう人を除いてしまうと、もしかすると『正しい知識を身に着けている人』は、一般大衆の中にはいない可能性もあります。

このことからわかることは、一般市民の少なくとも半数は人の行動の善悪の区別がつかない。悲観的に見積もるのであれば一般市民には1人の人間が善人か悪人かを見極める能力がないということです。
人間一人についてのの善悪すら見極められない一般大衆に、果たしてこの世の全ての事柄に当てはまるような善悪を見極める法則のようなものが分かるのでしょうか。

大衆が善悪を正しく見極められるなら…


また、そもそも論となりますが、本当に一般大衆が善悪の区別を正しく見極めるための知識や技術を持っているのであれば、法律もいりませんし、何なら国という枠組みも必要ありません。
何故なら先程も言いましたが、正しい知識を身に着けた状態で何かしらの判断を迫られた場合、自身で感情に任せて考えるのではなく、その知識に照らし合わせることで出てくる答えは毎回同じになるからです。
大抵の問題というのは人と人が関わることで起こりますが、この際、善悪を見極める知識を持つ者同士が知識に照らし合わせてその問題について考えれば、それぞれの人が出す答えはおなじになるため、争いが起こりません。

この争いが拡大すれば戦争となりますが、そもそも知識によって争いが起こらない状態になっているのなら、戦争も起こるはずがありません。
では実際にそんな世の中になっているのかといえばなっておらず、なっていないからこそ、アルキビアデスは政治家になろうとしているわけです。
このような感じでソクラテスに反論されるのですが、アルキビアデスはどうも納得しきれません。

そこで、もう少し、善悪の区別を見極める技術を学ぶ機会があったのかどうかについて探っていくのですが、その話はまた次回に話していきます。

参考文献



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政治家に必要な知識


今回も対話篇『アルキビアデス』について話していきます。 前回の話を簡単に振り返ると…
対話篇のタイトルになっているアルキビアデスは、政治家になることを目指しています。
この政治家ですが、目指せば誰でもなることが出来るような職業ではなく、良い政治家になるためには何らかの能力が必要になります。

この能力について当初アルキビアデスは、外交や内政についての技術や知識があればなれると思いこんでいました。
ですがこれでは、範囲が広すぎます。 和平を結ぶのも同盟を結ぶのも戦争をするのも、一言で言い表せば『外交』の一言で済んでしまいます。
しかし、そんな広すぎる『外交』という分野も、ベースとなっている学問自体は限定されているかもしれません。

例えば、アルキビアデスが人から学んで手に入れたレスリングという技術も、細かく見れば足運びや組み付き方や牽制の仕方など、数多くの動きを組み合わせた運動ですが、そのベースとなっているのは体育術という体を動かす学問です。
人の体をどの様に動かすのが効率が良いのかという学問がベースとなり、レスリングで使われる複雑な動きに発展していっています。
これと同じ様に政治家に必要な能力もシンプルなものである可能性があり、それさえ身に着けていれば、政治家の仕事というのは、その知識の応用でなんとかなるものかもしれません。

知識の身につけ方


それでは、政治家になるのに必要な知識は何なのか。 当初、アルキビアデスは見当もついていませんでしたが、ソクラテスとの対話の結果、政治家に必要なのは『善悪を見極める為の技術や知識』ということが分かりました。
ではアルキビアデスは、その知識や技術を持っているのでしょうか?

ソクラテスが率直に聞くと、アルキビアデスは『あなたは、私がその知識を持ってないと思ってるんですか?』と反発しますが、それは単なるアルキビアデスの思い込みの可能性もあるので、ソクラテスは質問を重ねることで吟味していきます。
まず前提として知識というのは、『自分が獲得したい』と思っている知識がこの世の中にある状態。これは、既に知識が確定してあるわけではなく、何となく存在するだろうというレベルでも良いのですが…
とにかくそのような知識がある事を知っている状態で、尚且、自分はその知識を持っていない状態で知識を身に着けようと努力することで身につけることが出来ます。

この努力というのは主に、その知識を知っている人に教えてもらうか、自分自身で探求することで身につけることを指します。
わかりやすく科学を例に考えると、私達は科学の基本的な知識というのは、学校で義務教育として習う機会があります。 ここで習う知識というのは、反論することも難しい確からしいと思われている事柄ばかりです。

しかし、この世にはまだ科学で解明されていないものもあります。 科学に興味を持ち、義務教育が終わったあとも大学や大学院で研究する人たちは、まだ解明されてはおらず、知識としてはこの世に存在してはいないけれども…
何らかの法則があるだろうと思われる分野について自身で研究し、それによって新たな法則を見つけ出そうとします。この様に、教師に教えてもらうか、自ら研究することで新たな法則を発見することで、知識というのは身につきます。
もし、そのような知識があると知らない場合は、誰かから教えてもらうことも自ら探求することもしないので、当然、知識は身につきません。

それとは別に、自分に知識がないにも関わらず、その知識は既に知っていると勘違いしている場合も、謙虚に誰かから教えてもらうこともなければ自分で探求することもないため、知識は身につきません。
知識が身につく前提は先程も言ったとおり、その知識が存在する事は知っているけれども、その知識を自分は身につけておらず、知識を身に着けたいと行動する場合だけです。

善悪を見極められるような振る舞い


では、アルキビアデスにその状態、つまり『善悪を見極める知識』がこの世にはあるらしいが、自分はそれを身に着けていないと自覚している時期はあったのでしょうか。
ソクラテスはアルキビアデスのことを少年時代から知っていますが、彼は子供時代ですら、相手の不正を訴えると言ったことを頻繁に行っていました。
子供が不正を訴えるというと大げさに聞こえるかもしれませんが、簡単に言い直せば、子供同士が遊んでいる最中に『誰だれ君がずるをしたとかインチキをしたと言って喧嘩を始めるような感じです。

こういう経験は誰にでもあると思いますが、こういった場面で喧嘩を始めたり文句を言ったりする子供というのは、大抵は相手が不正をした事によって不利益を被ったことで腹を立て、行動を起こします。
このような行動は、当然ですが自分に善悪の判断ができると思っていなければ出来るものでは有りません。
アルキビアデスも、幼年時代は『自分に善悪の判断ができる』と思い込んでいて… というよりも、『実はそれが出来ないのではないか?』という疑いすら持たずにいました。

実際に知識を持っているか持っていないかは別として、『自分は知識を持っている』と思い込んでいる状態では、人はその知識を更に得ようと努力することは有りません。
前回に取り上げた対話篇『饗宴』にも、『美しさを手に入れているエロスという神は、更に美を追い求めるなんてことはしない』というような話が出てきましたが、それと同じで、既に手に入れているものを手に入れようと足掻くものなどいません。
これは先程あげた『知識を得るための前提』にも通じます。

大衆から学ぶ


この指摘を受けてアルキビアデスは、自分では発見しておらず、誰かから教えてもらったと主張を変えます。
これを受けてソクラテスは、そんな教師がいるのならぜひ紹介してほしい、そうしてくれれば、私も正しい善悪の見極め方を学べるんだからといいます。
ソクラテスは自分自身で善悪の見極め方を知らないことを自覚していて、その知識がどこかにあるだろうとは思っていますが、それを知っている人に出会ったことがなかったので、そんな賢者がいるなら紹介して欲しいと思ったのでしょう。

これに対してアルキビアデスは、一般大衆から教えてもらったと主張します。
この意見に対しては、過去に取り扱ったメノンに登場したアニュトスや、ソクラテスの弁明に登場したメレトスも同じような主張をしていました。
彼らの主張がどのようなものだったのかというのを簡単に説明すると、一般大衆というのは、何らかのアクシデントが有った際にアドバイスをしてくれるし、事件や政治的なニュースなどを聞いた際も、持論を展開して善悪を話してくれます。

今でいうと、ワイドショーで取り扱われている事件や政治のニュースなどを見たり聞いたりして、それを受けて井戸端会議やネットなどで持論を展開している人は山ほどいます。
そしてその持論の多くは、最終的には取り扱っている事柄に対する善悪を断言することで締めくくられます。
例えば、今の政権の今の首相の方針は良いとか悪いとか。 あの事件の犯人の行動は良い、悪いといった感じで、人々は頻繁に善悪の判断をして、それを外に発信しています。

そのような人々の話を聞き続けることで、この世の善悪を学べるというのが、これまでの対話篇に登場したアニュトスやメレトス、そして今回のアルキビアデスの主張です。
一見すると最もな意見ですが、では実際にはどうなのでしょうか。

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【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第65回【財務・経済】流動と固定

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前回はこちら

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固定資産


前回までは、減価償却を少し掘り下げた結果出てきた固定資産について話していきました。
少し振り返って復習すると、固定資産とは直ぐに現金化出来ないような資産のことです。
そして、これの反対となる直ぐにでも現金化出来て自由に使うことが出来るような資産や現金そのもののことを、流動資産といいます。

固定資産についてですが、例えば、借金をして事業として使う為の土地や建物を購入した場合、土地と減価償却できていない部分の建物が固定資産となります。
つまり、現金という資産と土地や建物という資産を交換しているだけであるため、土地や建物の購入というのは、購入した本人にとっては消費活動にはならないわけです。
厳密に言えば、建物の減価償却分は毎年価値が消えていっているため、この部分に関しては『お金を使った』と言えるのですが、その他の固定資産部分に関しては、本人にとっては消費していることになりません。

これまで簿記に馴染みがなかった人は、『お金を使って物を買ったのに、お金を使ったことにならないのは意味がわからない』と思われるかもしれませんが、実際問題としてはそのようになります。

資産と資産の交換


分かりやすく他の例で説明すると、円という通貨をドルに変換するようなものです。 ドルも円も外国為替市場で値段が付けられていて、その値段は刻々と変化しています。
つまり国が発行しているお金とは、一種の商品のようなものです。 今の経済では、このお金という物を使ってものと交換している。 つまり物々交換が行われているということです。

こうして考えると、円をドルに両替するとは、円という物をドルという物と交換する。 つまり、円をドルに変換する場合は、円でドルを購入しているということです。
円をドルに両替する行為のことを消費活動とは呼びませんよね? 何故なら、ドルは外国の通貨なので、その通貨を使って他のものを購入できるわけですから。
これは先ほど例として出した、土地や建物も同じです。

土地や建物は、不動産市場を通して売りに出すことが可能です。 つまりは、土地や建物は現金に変換可能だということです。
この様な属性を持つものは、その価値分を資産として計上しないと企業の財務状態が正確にわかりません。
その為、資産として計上するのですが、では、土地や建物は売ると決めれば直ぐに現金化出来るのかというと、出来ません。

直ぐに現金化できない資産


みなさんも、街を散策した際に『売り物件。お問い合わせはこちら』と書かれた紙が貼られている家を見たことがあると思います。
あれは、売りに出されているにも関わらず、買い手が付いていない。つまりは売れていない物件です。
何故、売れていないのかというと、単純に需要と供給が合っていないからです。  需要とは買いたい気持ちで供給とは売りたい気持ちと考えてもらって良いです。

例えば、ある物件が3000万円で売られていたとします。 この3000万円という金額は、誰か権威のある人が決めた定価ではなく、持ち主が『これぐらいの値段で売りたい。』と思っている金額です。
その金額に対し、欲しいと思う人が1人でもいれば、この物件はその人に買われることになります。
しかし、その値段では買いたくないと皆が思ってしまえば、その物件は売れないことになります。 ただ売れないとは言っても、皆がその土地を欲しくないと思っているわけではなく、その値段では買いたくないと思っているだけです。

その為、売り手はその土地を売りたいのであれば、買い手がつく値段まで価格を引き下げていく必要があります。
その物件を買いたいと思う人は、物件価格が下がれば下がるほど増えていくことになります。 しかし土地や建物は全く同じ条件のものが複数あるわけではないので、多くの人が欲しいと思っても意味がありません。
欲しいと思う人の中で一番高い値段を提示する人が現れればそれで良いため、売り手は、その一人が現れる水準まで値段を切り下げていきます。

買い手はというと、ただ待っていれば値段は下がっていくため、基本的には待っていれば良いのですが、値段が下がれば下がるほど、同じ様に『その土地を買いたい!』と思うライバルは増えるため、どこかのタイミングで買う決断する必要があります。
そうして売り手の提示価格と買い手が希望する価格が合致したところで、値段が決まります。
建物などの物件はこういった一連のプロセスを踏んで売却されるため、換金できる資産ではあるのですが、直ぐに換金できるようなものではないため、すぐに使える流動資産には含まれず、固定資産に含まれます。

株式の分類


これは、株などの証券でも同じです。 会社が持っている余剰資産を株式などで運用する会社もあると思いますが、この株は、単に資産運用の一環として持つ場合とそうではない場合があります。
単に資産運用の一環として保有する場合は、会社で現金が必要になった際にはそれを売れば直ぐに現金化出来るため、これは貯金と同じ様な扱いであるため、流動資産として扱います。
しかしその会社が、新事業を立ち上げる際に別会社を作ろうと思い、子会社を立ち上げる目的でその会社の株式をすべて引き受けて、100%子会社とした場合、この会社の株は簡単には売れません。

というのもまず第一に、株式というのは上場していなければ取引市場を通じて簡単に売ることは出来ません。
第二に、この100%子会社の株を売ってしまうということは、自分自身の持つ事業の一部を売却してしまうとういことです。
会社のそれぞれの事業というのは、それぞれが密接に関連し合っているため、お金がないからと簡単に売却できるようなものではありません。

この様な理由から、株というのは売買目的の場合は売買目的有価証券という勘定科目にして、計上します。 この売買目的有価証券は流動資産に分類されることになります。
ちなみにこの勘定科目に割当てられた有価証券、つまりは株式は、時価評価が求められます。 つまり、毎年決算時に簿価と時価との差額を出して、この利益や赤字を計上しないといけないということです。

流動負債と固定負債


このようにして、すぐに現金として使える資産と使えない資産を流動資産と固定資産に分けていきますが、これは貸借対照表の資産の部だけでなく、負債の部に関しても同じことがいえます。
基本的には1年以内に返済する予定のお金は流動負債となり、それ以上先に返済予定の借金は固定負債となります。ここで、不思議に思う方も多いと思います。
というのも、資産として持っている土地や建物などは、いくらで売れるのかもいつ売れるのかもわかりませんから分類する必要がありますが、負債の場合は支払期限が決まっている場合があるからです。

例えば、35年ローンで家を購入する場合、その借金は35年で返済することが基本的には決まっていますし、毎年の返済額も決まっています。
この借金は、破産でもしない限り『返さなくて良い』なんてことにはなりません。 にも関わらず、なぜ、この様に分類するのかというと、大きな理由は、財務分析をする際に必要になってくるからです。
その会社が短期的に見て安心できる状態なのか、それとも危険な状態なのか。 長期的に見て安全なのか、危険なのかというのを判断する方法として、財務分析というものが存在します。

流動比率


この言葉自体は、みなさんも聞かれたことがあると思いますが、では、どのようにして分析するのかというと、この貸借対照表損益計算書の数字を加工することで、安全性を見極めるための数字を出していきます。
ここ最近取り扱っている流動資産や固定資産の例で言えば、この数字を使って計算する流動比率や固定比率という物が存在します。
流動比率というのは短期の企業の状態を見ていくもので、固定比率というのは長期の企業の状態を見ていくものです。

まず流動比率の計算の仕方ですが、これは流動資産を流動負債で割ることで計算します。この数字は、100%以上であることが望ましいと言われています。
これが何を意味しているのかを見ていきましょう。 まず流動資産ですが、これはこれまでに説明してきたとおり、直ぐに現金として支払うことが出来る資産のことです。
一方で流動負債とは、1年以内に支払義務のある借金です。

この流動資産を流動負債で割った金額が100%以上であるということは、流動資産の方が流動負債よりも多いことを意味します。
これはつまり、『少なくとも1年以内に借金が支払えなくなることはない』ということを意味します。 つまりは、直近1年間は破産しないであろうということがわかります。
これは高ければ高いほどよく、仮に200%あれば、多少業績が落ちて赤字が出たとしても破産はしないことになります。

逆に100%を割り込むというととは、直ぐに現金化出来るお金よりも1年以内に返済しなければならない借金の方が多いということになるので、会社は短期的に見て危機的な状態にあるということがいえます。
つまりは、1年以内に借金が返せなくなる確率が高いということです。 かなり余裕がない状態と言っても良いと思います。
この様なときにはどうすればよいのかというと、何らかの方法で流動負債の額は維持しつつも流動資産の額を増やす必要が出てきます。

流動比率の改善方法


理想的なのは、営業を頑張って売上額を上昇させて収入を増やすことですが、そんな事ができるのであれば皆やっています。
もしこれが不可能な場合は、使っていない固定資産を売却して流動資産である現金に変換するか、1年以内に返済の必要がない固定負債を増やして流動資産を増やす。 つまり長期的な借金を増やして現金を手に入れるしかありません。
日本では2019年頃からコロナが問題になり、政府が3年~5年後から返済が始める緊急融資制度を作りましたが、その目的としては、流動比率の改善が挙げられます。

3~5年後に返済が始まるということは、その金は固定負債に計上されますが、その借金によって得た現金は流動資産です。 つまり、固定負債流動資産を同時に増やすことで、流動比率を下げさせて短期的な危険性を低下させているんです。
しかし少し考えれば分かることですが、この改善状態は限定された期間だけです。 この例の場合は、3~5年間の間に限って返済が猶予されているだけなので、その期間が過ぎれば借金は固定負債から流動負債に切り替わります。
この時に、それに応じた流動資産があれば良いですが、流動資産に変化がなければ、借り入れが増えた分だけ財務状態は悪化してしまいます。

この様な感じで会社の未来を占っていくのが財務分析となりますが、これには様々な方法がありますので、次回に、もう少し詳しく見ていきたいと思います

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第136回【アルキビアデス】善悪は誰にでも見極められる? 後編

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善悪を見極める為の知識

ここまで話してソクラテスは、政治家が行う決定というのは『より正義にかなっているか』というのが重要なのではないか?と訪ねます。

そもそも、この正義云々の話というのは、アルキビアデスが政治という分野はどの分野の学問や技術がベースになっているのかがわからないといったところから、ソクラテスが派生させた話でしたが…
何故その様に話をそらしたのかというと、政治家が重要な事柄を決定する際、『より良く』決定する際には、より正義にかなっているかどうかを考えるというのが重要そうに思えたからでしょう。
つまり、政治や外交のベースとなっているのは、正義についての知識だというのをアルキビアデスにわからせるために、敢えて回り道をしたのでしょう。

この意見にアルキビアデスも同意しますが、それによって、一つの疑問が出てきてしまいました。
というのもこの意見によると、秀でた政治家になるということは、一般の人よりも正義や悪を見分ける能力が有ると言い換えることが出来てしまうのですが、アルキビアデスはその技術をいったいどこで身につけたのでしょうか。
繰り返しになりますが、アルキビアデスは楽器演奏と読み書きとレスリングしか教師から教えてもらってはいません。 つまり、正義に関する教師はいなかったわけです。

人から教えてもらっていないのであれば、他に知識を得る方法としては自ら考え出すしかありません。 ではアルキビアデスは、正義と悪を見極める方法を、自ら編み出したのでしょうか。
この流れに当然のようにアルキビアデスは反発し、『私には正義と悪を見極める知識がないと思ってるのですか? 教えてもらわなくても自ら考え出せるとは思わないのか?』とソクラテスに突っかかります。

知識を身につける順番

これはアルキビアデスに限らず、多くの人がアルキビアデスと同じような反応をすると思います。 『ものの良し悪しを知っているか?』なんて基本的過ぎる質問については、当然知っているし、考えればすぐに分かると答える人は現代人でも多いと思います。

しかしここで活きてくるのが、ソクラテスが一番最初に掲げた、知識を有るための前提条件です。
1つは、先程もいったとおり、知識を持つ誰かから教えて貰う方法です。 自分の知らないことを知っている人から教えてもらうことで、自分も同じような知識を得ることが出来る様になります。
そしてもう1つが、自ら考え出すことです。 人は全くのゼロから様々な理論を考え出すことは難しいですが、複数の知識を混ぜ合わせたり、知識に自らの経験を加えることで新たな知識を身につけることが出来るようになります。

知識の身につけ方は基本的にはこの2つですが、この2つに共通する前提として、『そういう知識が存在していることは知っているけれども、今現在の自分はその知識を身に着けていない』と自覚している必要があります。
つまり、『物を知っている』という状態は、まず、物を知らない状態というのが存在し、そこから他人に教えてもらうなり、自分なりに探求するなりして知識を身につけるという工程を経て、人は知識を得るということです。
人は既に知っている知識を身に着けようとはしませんし、存在すら知らない知識を手に入れようとも思いません。

その為、知識があることを知っていて、今現在の自分にはそれが欠けているという状態を認識しているという前提があってはじめて、知識を身に着けようと思い、努力の結果として知識は身につきます。
この前提に照らし合わせれば、アルキビアデスが善悪を見極める知識を持っているということは、以前に善悪の知識を見極められない状態が有ったということになります。
そしてその状態で、『この世には正義と悪が有り、それを正しく見極める知識や技術がある』ということを知り、その知識を誰かから教えてもらうか、あるいは自分自身で探求して編みだす必要があります。

アルキビアデスに知識がなかった時代はあるのか

ではアルキビアデスに、『正義と悪を見極める知識がなかった時期』というのはあるのでしょうか。有ったとすれば、いつなのでしょうか。
ソクラテスはアルキビアデスに対し、『去年はその事を知っていた? 一昨年は?』といった感じで、ものの良し悪しを知らなかった時期を事細かに聞いていきますが…
アルキビアデスは『その頃には、もう既にものの良し悪しについては知っていた』としか答えません。

仮にアルキビアデスが80歳の老人であれば、このやり取りが数十回繰り返されたところで問題は有りません。
しかし彼は青年です。 そんなやり取りを数回繰り返すだけで、『彼は子供の頃から、モノの善悪を見極められた』と言わざるを得ない状態に追い込まれてしまいました。
そして実際に、彼は子供の頃から善悪を見極める能力があるような態度をとっていたとソクラテスから指摘されてしまいます。

善悪は誰にでも見極められる?

このソクラテスが目撃した彼の態度というのは、アルキビアデスの少年時代に限らず、誰しもが目にしたことがある光景のことです。
例えば、保育園に通う子供ですら、子供同士で喧嘩をするというのは良くあることです。ではその子どもたちは、どのようにして喧嘩を始めるのでしょうか。
誰かに気分を害することを言われたとか、物を取られた、ゲームをしている時にインチキをされたといった感じで、何かしらの被害を受けた、つまり相手から悪い行動を取られたので、それに対して反抗するといった感じで口喧嘩を始める。

その口喧嘩が発展する形で、暴力を伴う喧嘩に発展します。
アルキビアデスが取っていた行動もこれと同じで、特別な行動をとっていたというわけではないと思われます。子供同士で遊んでいる時に誰かがインチキをして、それを咎めるといった普通の行動をとっていたのでしょう。
しかしこの行動は、自分の意見が正しく、相手の行動が不正行為であるという事を見極めなければ出来ないことです。

何故なら、何が不正行為なのかがわからない人間は、その行為に対して文句を言うということすら出来ないからです。
これが、ゲームのような明確にルールが決まっているものであれば、それに違反している・していないという判断は楽だと思いますが、それ以外の日常のことで起こる喧嘩の場合は、ものの良し悪しを見極められなければ指摘することが出来ません。
では、子供時代にこのような行動を取っていたアルキビアデスは、善悪を見極める知識を持っていたのでしょうか。 それをソクラテスが尋ねると、彼は自分が誰かに怒ったり指摘したりするときは、正当な理由があったときだけだと答えます。

つまり彼は子供の頃から正当性というのを見極められたということになるので、これによりアルキビアデスは、子供の頃から善悪を見極める知識があったということになってしまいました。

無知を自覚していなかったアルキビアデス

では、アルキビアデスが善悪を見極める知識を持たなかった時代というのは、いつになるのでしょうか。 その少年時代よりも以前でしょうか。
ソクラテスが質問をするも、彼は答えることが出来ません。

これは、彼は、善悪を見極める知識を身につけるために、自身で探求したことがないという事を意味します。
繰り返しになりますが、人がなにかの知識を身につけるためには、その知識がこの世に存在することは知っているけれども、今の自分はその知識を身に着けていないという状態を自分自身で認識し、その知識を身につけるために行動する必要があります。
行動するとは、その知識を知っている人に教えてもらうか、その分野の研究を行うことで自分自身で試行錯誤を重ねながら知識を得ようと努力することです。

しかし先程の対話で、アルキビアデスは物心がついた頃から、『自分は善悪の区別がつく』と思い込んでいた、もしくは、その知識を本当に身につけているのかを考えることすらしていなかったということになります。
つまり、彼は自分に『善悪の区別を見極める能力』が無いと自覚していなかったわけですから、誰かから教えてもらうことも、自ら探求することもしていないということになります。

この指摘を受けてアルキビアデスは、自身の主張を修正することにするのですが、その話はまた次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第136回【アルキビアデス】善悪は誰にでも見極められる? 前編

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政治家に必要な知識


今回も、対話篇アルキビアデスについて話していきます。
前回は、アルキビアデスが政治家を目指すにあたり、どの分野について他の人間よりも優れているのかをソクラテスが彼に問いただすことで、その事について深堀りしていきました。

アルキビアデスが、他人よりも自分のほうが優れていると主張していたのは、『戦争や和平、またはそれ以外の国政に関することについての知識』でした。
戦争を含む外交の知識や内政についての知識は政治家にとって必須の知識と言えるでしょうし、この分野で他の人よりも圧倒する能力があるのであれば、アルキビアデスは確かに政治家になるべきでしょう。
これはソクラテスが活動していた紀元前だけの話ではなく今の政治にも通じる話で、国政や外交についての能力が高いのであれば、政治家に向いていると言えます。

では、この政治家に向いていると思われる『外交』や『内政』の能力というのは、何に裏付けされた能力なのでしょうか。
ソクラテスに言わせれば、能力と呼ばれるものの殆どは『行うべきことを必要なタイミングで行うこと』と言い換えることが出来て、一流であれば一流であるほど、そのタイミングは『より良い』タイミングで行われます。
では、『より良いタイミング』というのは、どのような基準で設定されるのかというと、その分野の基本となる技術や知識となります。

裏付けとなる知識


例えば、ボクシングやレスリングなどの運動の分野では、体育術と呼ばれる知識がベースになっていて、この知識に詳しく、尚且、忠実に体現できることが、優れたスポーツ選手と言われています。
この体育術というのは今現在の言葉でいうのであれば、運動生理学やトレーニング理論と言いかえることが出来るでしょう。
スポーツ選手やコーチは、自分で適当に考えて体を動かしているわけではなく、理想とされている動きを学び、それを体現出来るようにトレーニングを重ねます。

その理想とされている動きというのは、過去から現在に至る人々が経験や分析を積み重ねることによって生まれています。

これは音楽などでも同じです。 音楽は、格闘技や陸上のように結果がわかりにくく、どのような音楽が素晴らしいのかというのは感覚的なものになりますが、それでも『どのようなものが美しいのか』というのは古代から研究されていました。
音楽やダンスというのは感覚的なものであるため、古代では音楽や踊りの良さについては神の名前をつけて研究されていたようです。
これは、前回取り扱った饗宴を思い出してもらえれば分かりやすいかもしれません、饗宴では、人を魅了する美しさについて考える際には、対象をエロスやアフロディーテという神として議論を重ねていましたよね。

これと同じ様に、音楽や踊りといった分野については、ムーサという女神たちを置いて議論が重ねられて理論が作られていったようです。
そして技術の方は、ムーサという彼女たちの名前をとって、ムーシケと名付けられたそうです。このムーシケというのを語源として生まれたのが、現代で言うミュージックという言葉のようです。
古代ギリシャでは、音楽やダンスといった分野ではムーシケと呼ばれる技術や知識が裏付けとなって、優れているかどうかという判断が行われていたようです。

では政治家に必要な知識は何なのか?


では、アルキビアデスが他の人間よりも優れていると主張している『外交』や『内政』といったものは、どのような知識や技術が裏付けとなっている能力なのでしょうか。
戦争するタイミングをより良くはかり、都合が悪い時には和平を持ちかけて時間稼ぎし、戦争すべき時にはより良いタイミングで相手に攻め込む。
このような判断を行わなければならない国の政治判断を、より良いタイミングでよりよく行うためには、どのようなベースとなる技術や知識が必要となるのでしょうか。

ソクラテスはこの事を、内政や外交に対する能力が人一倍あると主張するアルキビアデスに対して質問します。
しかしアルキビアデスは、このソクラテスの質問に対して答えることが出来ません。つまり彼は、内政や外交について裏付けとなっている知識や学問について知らないということです。

戦争は正義を行使するために行う


この答えを受けてソクラテスは、『戦争をするには何かしらの原因があるけれども、その原因もわからないか?』と訪ねます。
これに対してアルキビアデスは、『戦争に突入するのは、戦争を起こす国が相手から国益に反することを行われたと主張して始める』というぐらいは知っていると答えます。
これは今現在の世界情勢についてのニュースを観てても分かりますが、例えば、自分のものだと主張している領土が別の国に侵略されたとか、資源を勝手に奪われたとか約束を反故にされた際に、話し合いで解決できなければ、最終的には戦争に発展します。

この戦争ですが、政治家や権力者が単に主張しただけでは、なかなか戦争にまで発展しません。 何故なら、権力者は口で命令すれば良いだけですが、現場で働く兵士は、実際に戦争なってしまうと自分の命をかけなければならないからです。
その兵士にも、彼らを心配する家族がいるでしょうから、戦争にまで発展させる場合は民意を得なければなりません。
この民意を得るために政治家はよく、自分たちの正当性や正義を主張し、自分たちが正義で相手が悪なのだと印象づけたりします。

これは、自分の国が戦争の当事者になる場合だけではありません。 同盟国や国交のある国を支援する際の言い訳としても、正義がどちらに有るのかというのは重要視されます。
この様に戦争というのは、正義とその正義に反する悪とういう存在から切り離せないわけですが…  ここでソクラテスが新たにアルキビアデスに対して基本的な質問をします。
それは、『政治家は、正義に則った行動をしているものか、正義に反する行動をとっているもの、どちらに対して『攻撃を加えよ』と支持するのだろうかと。』という質問です。

この質問を受けてアルキビアデスは、『ソクラテス、あなたは恐ろしいことを言いますね!
仮に正義に反した側についた方が自分たちが有利になるため、悪の側に付きたいと思ったとしても、それをそのまま正直に民衆に向かって言う政治家なんているはずないじゃないですか!』といった感じで突っ込みます。
先程も言いましたが、権力者は戦争をするかしないかを決めればそれで良いですが、市民たちはその決定によって戦場に行かなければなりません。

その際、権力者の利益のために自分の命をかけて悪事を働く市民はいないでしょうから、市民に対して悪に加担するために戦争をしようなんて演説をする政治家なんていません。
戦争なんて大勢の人間が命をかけて参加する物事を決定する際には、それなりの正当性、つまりは正義が有るかどうかを考えなければならず、決定する場合にはその正義を全面に押し出すことで悪に立ち向かっていこうと演説しなければなりません。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第64回【財務・経済】固定資産

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固定資産と減価償却


前回は、固定資産の大まかな説明をしてきました。
簡単に振り返ってみると、固定資産とは会社が購入したもので減価しないモノ、もしくは減価していないものの事とでした。
例えば車を購入する例で考えてみると、車というのを買うためには現金という資産が必要になりますが、その現金と引き換えにして手に入れた車というものは、売却することで再び現金を手に入れることができるものとなります。

つまり、その気になればいつでも現金という資産と交換が可能なものであるため、この車も会社が持つ資産の1つとして考えます。
このようにして考えると、前に紹介した減価償却という考え方も、より理解しやすくなると思います。
車の場合は、購入した翌年に売る場合と、2年後に売る場合とで考えるのであれば、当然、1年しか使用していない状態の方が高く売れます。

その車を10年間使い続けてから売却しようと思うと、さらに価値は目減りしてしまいますし、15年も使えば、買い取りどころか逆に処分費用を請求されてしまうかもしれません。
この様に車というのは、新しければ新しいほど資産としての価値が高く、古ければ古いほど、その資産の価値は減っていくことになります。
この減った価値の部分に関して経費扱いしようというのが、減価償却費の考え方の基本となります。

土地は減価償却できない


当然ですが、価値が減らない部分については会社内に資産として残り続けることになります。
何故なら、その資産は売却すれば現金化することが出来るからです。これは簡単に言えば、売却して現金化出来るようなものであれば、全て資産とみなされるということです。
ということは、購入後に経年劣化しないものについては、経年劣化部分が存在しないために経費計上する金額がなく、全額が資産に計上されます。

会社が実際に買う資産で分かりやすい例で言えば、土地がこれにあたります。
土地は、取引タイミングによって価値は変わりますが、それはその時々の経済状態や需要と供給によって価格が変動しているだけで、基本的な価値には変化がありません。
その為、土地は経年劣化しないと考えますし、当然、減価しないわけですから減価償却もないことになります。

何故経年劣化しないのかは、土地の用途を考えればわかります。
土地というのは、都市部の場合は主にその上に建物を立てたりするために使いますが、この土地は、購入後10年経とうが100年経とうが、変わらず使用することが出来ます。
購入後100年経った土地だから、家をたてることが出来ないほど土地が老朽化するなんてことにはなりません。 その為、機械のように購入から年数が経ったから、その本質的な価値が下がるなんてことにはなりません。

土地は購入すると、毎年、その土地を持っていることに対する税金である『固定資産税』が請求されるため、分かりやすいと思います。
仮にこの土地の上に建物を建てたとすると、その建物に関しては経年劣化していきますので、劣化して価値が減る分に関しては経費として計上できることになります。
つまり、土地の上に立てる建物に関しては、減価償却費として毎年経費を計上できることになります。

建物の修繕


ここで余談ですが、建物の場合は雨漏りや外壁の塗装が剥げたりといった破損が起こり、それを直すということがよくあります。
これに関しては、仕事で使う建物を維持管理するために必要な出費であるため、当然、この出費は修繕費という経費になるわけですが…
この建物を改装し、大幅に寿命を伸ばしたり、建物の価値を上げるような規模の修繕を行うと、修繕費には計上できなくなったりします。

何故なのか。 この基本的な考え方としては、これまでに説明してきたことと基本的には同じで、修繕費として出費したのではなく、固定資産を購入したと思われるからです。
わかり易い例で言えば、ある建物があったとします。この建物は、倒壊寸前で売ることすら出来ず、売却するためには建物を壊さなければならないようなものだとします。
この場合、建物に価値はなく、実質解体費用分だけマイナスになっているわけですが、この建物に2000万をつぎ込んで、骨格は残しつつ大胆なリフォームをしたとします。

建物の骨格は残っているわけですから、『これは建物を直して使えるようにしただけだ!』と主張することも出来ますが、実際問題として、直した後の建物には資産的価値が生まれてしまいます。
つまり、直した後の建物は、売ろうと思えば普通に売れてしまう程に資産的価値があるわけです。
であるのなら、当然、この建物のリフォームにかかったお金は修繕費という経費で一括で落とすのではなく、一旦固定資産に組み入れて、減価償却で落とすべきです。

つまり考え方としては、新たに建物を購入したと考えるわけです。
2000万もかけて建物を直しているわけですから、当然、建物の価値も上昇していますし、対応年数そのものも上がっています。
その為、これまでの考え方に照らし合わせれば、出費した2000万円は伸びた対応年数分で分割し、減価償却費として毎年経費を計上すべきとなります。

資本的支出


この様に、修繕費として計上できないタイプの出費のことは、専門用語で資本的支出と呼んだりもします。
自分が出した金がこの資本的支出に属するのか、それとも修繕費に属するのかは、個人の判断ではしにくい場合もあるかもしれませんが、その場合は、税理士などの専門家に相談したほうが良いと思います。
というのも、この辺りの出費は結構難しかったりするからです。

ただ、会社に余裕がなく税理士に相談する金も節約したいという方のために簡単にいえば、固定資産の原状回復については修繕費で、それ以上の価値を加える様な工事については資本的支出と考えれば良いと思います。
このあたりの詳しいことは国税庁のサイトに書かれているので、そのサイトを参考にしてみるのも良いかもしれません。

債権


余談はこのあたりにして、話を固定資産に戻すと、建物や設備以外の固定資産としては、1年以上現金化されないような金融資産も含まれます。
金融資産とは、株式や債券と考えてもらえれば良いです。債権とは、他人に貸している金と考えれば分かりやすいと思います。
国や大きな会社というのは、金融機関からお金を借りる方法以外に、自ら債権を発行してお金を調達する手段があります。

国で言えば国債がこれにあたります。 国は国債という借用書のようなものを発行し、それと交換でお金を手に入れています。
例えば、額面が100万円の借用書を用意し、それを100万円で販売するといった具合にです。 これは借用書を発行している側からすれば借金なので、当然、金利も支払われます。
国債にはクーポンというものがついていて、それが一定期間ごとに現金化されるため、それが金利の役割を果たします。

この国債は、最終的に償還期限を迎えると元本が戻って来るという仕組みです。 この償還期限に関しては、発行する国債ごとに決められていますので、期限が短いものも長いものも存在したりします。
国債は国が発行している借用書ですが、会社が同じ様な仕組みで借用書を発行すれば社債となります。
この様な国債社債を買うという行為は、会社や国にお金を貸しているという扱いになりますが、貸した金は相手が潰れない限り基本的にはそのまま戻ってくるため、その借用書は資産扱いとなります

一年基準


ただ、1年以内に直ぐに現金化されるというわけではないため、固定資産として扱います。
ちなみにですが、実はこの国債というのは、償還期限が何年であろうとも直ぐに現金化出来たりします。 というのも、国債という金融商品は投資対象になっていて、国債を売買する市場が存在するからです。
その為、仮に償還期限が10年の国債であろうとも、取引市場で償還期日前に売ってしまえば現金化は出来るわけですが、それでも、1年以上持ち続ける目的で国債を購入したのであれば固定資産となります。

こういう話をすると、少し混乱してしまうかもしれませんが、この、『数年持ち続ける目的で購入した』というのが重要だったりします。
というのも、先ほど紹介した国債の場合は償還期限というものが決まっていて、一定期間が過ぎれば現金化されるわけですが、全ての金融資産がこの様な性質を持っているわけではありません。
例えば株式の場合は、その会社が存続し続ける限り存在し続けますし、償還期限なんてものも存在しません。

では、株式は購入すると全て固定資産になるのかといえば、そんな事はありません。 1年以内に売却予定の株は、固定資産には含みません。
なら1年以内に売却予定の資産はどこにいくのかといえば、流動資産という項目に行きます。 この流動資産という項目には、すぐに対価として支払えるような資産が含まれています。
馴染みのあるもので言えば、現金や銀行預金などです。 これらは、何かを仕入れるといった出費の際にすぐに使えることが出来ますし、現金売上なども入ってくるため、常に出し入れが行われている類の資産です。

この様な資産は、流動資産としてまとめられています。 1年以内に売却予定の株式などは、このカテゴリーに入れます。
これは株式だけでなく貸付金なども同様です。 数年間貸していた金の期限が迫って、1年以内に貸した金が戻ってくる状況になれば、固定資産から流動資産に振り替えます。

1年の基準


この流動資産と固定資産の分類ですが、結構、経営者の裁量に任されている部分が多いなと感じた方も多いかもしれません。
というのも、債権ならまだしも、株なんてどのタイミングで売るのかは割と自由に決めることが出来ますし、自分の思惑通りに売買できるとも限りません。
1年以内に売却する目的で購入したのに、思った以上に値下がりしてしまって売るに売れないなんてこともありえますし、長期で持つ目的だったにも関わらず、予想外に値上がりしたので利益確定の売りを出してしまったなんてこともありえます。

ただ、ここに関しては正直、そこまで厳密に分類しなくても良いです。 というのも、流動資産に分類仕様が固定資産に分類しようが、支払い税額が大きく変わるなんてことはありませんから、税務署も細かくツッコんでは来ないからです。
この分類は、税金計算というよりも財務分析の際に必要になってくるものですので、個のコンテンツで想定しているリスナーである中小零細企業の場合は、あまり深く考えなくても良いと思います。
ちなみにですが、流動資産と固定資産の分類は、それぞれに対応する勘定科目で分類します。貸付金の場合は、短期貸付金と長期貸付金で分けるといった感じです。

今回は主に、貸借対照表の資産の部について見ていきましたが、次回は資産や負債などを流動と固定に分ける意味について考えていこうと思います。

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人が求めるのは専門知識を持つ人


では、なんと言って人の関心を引けばよいのでしょうか。
この議論が行われている当時のギリシャは神々が信じられて、神からのメッセージが政治に大きな影響を与えていた時代ですが、アルキビアデスは神の声を聞くことが出来ると演説で主張すべきなんでしょうか。
もし彼に神の声を聞く才能や神についての知識があるのなら、それについて話すのも良いかもしれません。しかし先程も言ったとおり、アルキビアデスが学んで得た知識は『読み書き』と『楽器演奏』と『レスリング』だけです。

彼は神について研究したり人から教えてもらった経験はありませんし、神の声を聞く能力も持ち合わせてはいません。 他にアルキビアデスが持っているものといえば、天から授かった美貌や家柄・資金力ぐらいです。
もし仮に、政治の場面で神からのメッセージが必要になるような状況に陥ってしまったとしましょう、神の声を聞ける予言者か、生まれが良いだけで予言についての知識も才能も無いアルキビアデスか、どちらかに助言を求めなければならなかった場合。
当然ですが、アルキビアデスにアドバイスを求めるものなどおらず、人々は神の声を聞く能力を持つ予言者の意見を求めるでしょう。

これはあらゆる知識について言えることです。例えば建築についての知識が必要な際に声をかけられるのは建築の知識を持つ建築家であって、見た目が美しいものではありません。
病気になった際に人々が頼るのは、唸るほどの金を持ってる資産家ではなく、医学の知識を持つ医者であるはずです。
国を揺るがすほどの伝染病が流行してしまった場合も、政治家に知恵を貸すのは感染病に関する専門知識を持つ専門医でしょう。

では、この感染病によって経済が大打撃を受けてしまった場合はどうでしょう。 経済の立て直しをするために感染病の専門医に話を聞いても意味はありません。
経済を立て直すためには、実際に事業を営んでいるものやマクロ的な視点で経済を分析している経済学者の話を聞くべきでしょう。
この様に、人々が困った際に頼るのは、その分野の専門家が持つ知識です。

それぞれの分野にはそれぞれの専門家が存在し、普通の人間は専門分野では専門家には及びません。その専門家も、専門が変われば無知となるでしょう。
医者は賢いからと言ってなんでも知っているわけではありません。 建物を建てるという分野においては建築家には遠く及ばないでしょう。
建物の専門家も、設計専門の人間であれば、家を実際に体を動かして建てるという分野では現場の大工さんには技術で勝てないでしょう。

政治家に必要な知識


アルキビアデスが政治家を目指すのであれば、彼は政治に必要な知識で他を圧倒していなければなりません。では政治家になるためには、どのような専門の能力や知識が求められるのでしょうか。
これに対してアルキビアデスは、『戦争や和平、またはそれ以外の国政に関することについての知識だ』と主張します。
先程も少し話しましたが、当時のギリシャギリシャ内のポリス同士の内戦やペルシャといった外側の勢力からの軍事侵攻などが頻繁に起こっていました。

このような状況では、戦争をするのか外交でかたをつけるのかを決断するだけで市民の生き死にが大きく変わって来ますから、戦争という手段も含めた外交というのは政治に置いて最優先事項と考えられます。
アルキビアデスは、この部分の知識について、自分は他を圧倒していると主張します。

この主張に対してソクラテスは、その外交というのは、相手を見てタイミングを図り決断を下すことなのかと問いかけます。
外交というのはきっちりとした方法が確立しているわけではなく、当然、その方法が体系立てて何らかのテキストにまとめられているなんてこともありません。
外交は突き詰めれば権力者どうしの腹のさぐり合いなので、適切なタイミングで適切な判断を下すというのは政治にとって必要なことなのでしょう。

適切なタイミング


この適切なタイミングで適切な判断を下すというのは、なんとなく意味はわかりますが具体性に欠けるので、他の職業に当てはめて考えてみると…
例えばプロボクシングのトレーナーが、対戦相手の候補を観て挑戦を受けるのか受けないのかを、自分が担当している選手の体調を踏まえた上で決めるような感じです。
ボクシングは双方が試合に合意してはじめて試合が決定するため、ランキング的には格下だけれども実力的には強そうな相手とは試合をしない方が自分のランキングを守れます。

その為、ボクシングのトレーナーには試合前に双方の実力を踏まえて勝ち負けがある程度予測できなければなりません。
また、担当選手のランキングを上げていくためには、適切なタイミングでランキング上位者に挑戦し、試合を受けてもらわなければなりません。
つまりここでも、政治の世界と同じ様に、相手のトレーナーと腹の探り合いをし、適切なタイミングで適切な判断を下すことが求められます。

もう一つ別の例えをすると、芸術の分野においても、適切なタイミングで適切な判断を下すことが求められます。
ジャズのようなアドリブ性を求められる音楽では、音を鳴らすべき時に適切な音を鳴らし、鳴らしてはならない時には音を鳴らしません。
ストリートダンスのバトルのように即興性を求められるダンスを極めた人たちは、ステップを踏まなければならないタイミングでステップを踏み、大技を出すべきタイミングで技を出します。

この様に、行うべきタイミングで行うべきことを確実に行っていくことが、多くの分野で求められます。
この際、タイミングは『より良い』タイミングで適切に行うべきことを行うべきで、このタイミングは良ければ良いほどよく、最も良いタイミングで適切なことを行えることが一流の証と言っても良いでしょう。
では『より良い』とは何を指しているのでしょうか。 タイミングが良ければ良いほど良いというのは、言葉で聞けば何となく分かった気にはなりますが、では何を持って『良し』とするのでしょうか。

『適切さ』を生み出す『知識』


アルキビアデスはこの質問に答えることが出来ません。 そこでソクラテスは助け舟を出します。
先程ソクラテスは、政治の仕事について説明する過程で、『あらゆることに関して適切なタイミングで適切な事柄を行うこと』と説明しましたが、このことは先程から言っているように、政治だけに限らずあらゆることに当てはまります。
先程の例ではボクシングトレーナーを上げて説明しましたが、これは選手であるボクサーも同じで、ボクサーが行うことは適切なタイミングで防御をして適切なタイミングで攻撃するだけです。

音楽やダンスも同じで、適切なタイミングで適切な行動を取る事が求められますが、その『適切なタイミング、適切な行動』というのは、その技術に則って生じているものです。
ソクラテスは他の対話篇でも『自分の感情や考えに流されず、行動は技術に即して行わなければならない』と言い続けていますが、今回の話もそれと同じで、適切な行動というのは伝えられてきた確固たる技術に裏打ちされています。
例えばボクシングを始めとした格闘技では、攻撃する際の型は防御を兼ねています。 格闘技の技術というのは、単に乱暴に形振り構わず攻撃するものではなく、攻撃しながら同時に防御を行う型を無意識レベルで出来るようにする技術です。

音楽や踊りも同じで、単に自由に音を鳴らしたり体を動かしたりすれば良いのかといえばそんなことはありません。 仮にピアノの奏者が無作為に鍵盤を叩けば、それは音楽とは言えない単なるノイズになってしまうでしょう。
ジャズピアニストが行うアドリブにも、美しく聞かせるためには何らかの技術や知識の裏付けがあるはずです。

これは、アルキビアデスが『他人よりも優れた能力を持っている』と断言した政治や外交についても同じはずです。
つまり、政治のタイミングをはかる為の裏付けとなる技術が有るはずだということです。 では、政治や外交についてはどのような知識が技術の裏付けが必要になるのでしょうか。
この事を、ソクラテスはアルキビアデスに問いただすのですが、この質問についてのアルキビアデスの回答は、次回に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第135回【アルキビアデス】政治家に必要な知識 前編

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前回の振り返り


今回も、対話篇『アルキビアデス』について話していきます。簡単に前回の流れを振り返ると…
アルキビアデスは、金・人脈・家柄・美貌と、皆が羨むあらゆるものを持った状態で生まれてきましたが、持って生まれた強欲な性格のせいで、それだけでは満足できず、国を治める統治者になろうと政治家を目指すことにしました。
ただ政治家を目指すとはいっても、当時のギリシャはスパルタやアテナイといったそれぞれの都市国家が独立して国家運営を行っていて、統治システムもそれぞれの都市国家ごとに違っていました。

このそれぞれの都市国家はポリスと呼ばれていました。これは、大都市を表すメトロポリスの語源にもなっているようです。このポリスの統治システムは繰り返しになりますが、それぞれのポリスごとに決められています。
これは、同じギリシャ内であったとしても、ポリスによっては王様が独裁的に統治していることもあれば、現在の民主主義に近い統治システムもあったということです。
ギリシャ内がこのようなシステムであったため、いくら能力があったとしても、生まれる国によってはシステム的に政治家に成りたくても成れない場合もありました。

この為アルキビアデスは、市民でも能力があれば政治的な影響力を持てる、民主主義誕生の地であるアテナイにやってきて、市民権を得ようとします。
アルキビアデスとしては、単なるいちポリスの代表ではなく、もっと広大な土地を支配したいという野望を持ってはいたようですが…
当時のギリシャはポリス間での戦争も結構あったようなので、どこかの国で統治者に成りさえすれば、そこから他のポリスを制圧してギリシャのトップになることも可能ではありました。

ギリシャ全土を統治して、その後遠征をして他国を次々に制圧したマケドニアアレクサンドロス大王などが、その具体例と言えるでしょう。
アルキビアデスに彼ほどの力量があるかどうかは置いておいて、彼もアレクサンドロス大王と同じような野心を抱いていた人物だということです。
この様にアルキビアデスは大きな野心を抱く青年として育つわけですが、そういう状態になってはじめて、ソクラテスは神からアルキビアデスと話をすることを許されます。

ソクラテスとアルキビアデス


ソクラテスとアルキビアデスは、随分と前から知り合いではありましたが、ソクラテスは神からアルキビアデスとの会話を止められていたようです。
しかしアルキビアデスが大きな野望を持って実行しようというタイミングで、神…というかソクラテスにだけ聞こえる声がアルキビアデスと話すことを許したため、ソクラテスはアルキビアデスの人生の手助けをするために対話を持ちかけます。
この手助けですが、あくまでもアルキビアデスの人生の手助けであって、彼が世界を征服するための手助けを行うわけではありません。

これは、国の代表になって他のポリスを制圧し、戦線をペルシャやヨーロッパなど他に伸ばして大帝国を築き上げる能力がアルキビアデスに無いのであれば、アルキビアデスのために反対するということです。

街頭演説


さて、アルキビアデスは市民権を取ろうとアテナイにやってきたわけですから、地盤やアテナイでの知名度があるわけではありません。
そのために、彼は街頭演説などで市民に対して自分が如何に優れているのかについて語り、市民を説得しなければなりません。
では何を持って市民を説得するのかといえば、自分には他の者にはないような優れたものがあると言って説得するしかありません。

優れたものというのは、この場合は技術か知識と言いかえることが出来るでしょう。 顔が良いだけで良い統治者になれるわけではありませんし、持って生まれた優れた肉体があれば良い政治が行えるわけでもないでしょう。
上手く政治運営を行うのであれば、知識や技術が必要となるので、アルキビアデスはその点を市民に対してアピールする必要があります。

アルキビアデスが持つ知識


この知識と技術、ひとまとめにして以降は知識としますが、これを身につけるための段階としては、まず、その知識を身に着けていない状態があり、その状態で知識を持つ人に教えてもらうことで、知識を知っている状態に移行します。
もう一つ知識を手に入れる方法としては、自分で考え出すという方法です。 人はゼロから知識を生み出すことは難しいですが、既に学んで保有している知識AとBを組み合わせて、知識Cを作り出すことは出来ます。
いま人類が持っている知識も、人類誕生と同時に、この世の全ての知識を収めた書物が生まれ、人類はそれを読むことで知識を得たというわけではないため、今ある知識はすべて、誰かが考え出した知識であるはずです。

つまり『自分が身に着けた知識』というのは、まず知識を持っていない状態というのが存在し、その状態から『誰かから学ぶ』か『自分で考え出す』事によって、『知識を身に着けた状態』へと移行します。
では、アルキビアデスが教師から学んで見に付けた知識には、どのようなものがあるのでしょうか。 それは、『読み書き』と『楽器演奏』と『レスリング』です。
ソクラテスはアルキビアデスが子供の頃から知っていて、彼を気にかけていたためにある程度の行動は把握していましたが、アルキビアデスはこれ以外には習ってはいません。

街頭演説の内容をどうすべきか


ではアルキビアデスは、『読み書き』や『楽器の演奏』や『レスリング』の知識があると言って、自分の凄さを市民に訴えればよいのでしょうか。
アルキビアデスは当然、そんなもので自分の優位性を示そうなんて思っていないと主張します。これは当然で、現代の私達が選挙に行く際に、街頭演説で『私は笛を吹くのが上手いんです!だから1票入れてください!』と言われても、投票しませんよね。
これは『読み書き』であっても『レスリング』であっても同じでしょう。

現代の日本のように平和な状態であれば、色物議員でも当選する機会があるでしょうが、当時のギリシャのように内戦が頻繁にあった状況では特に、そんなことでは票を獲得出来ないでしょう。

もしアルキビアデスが、『読み書き』と『楽器を演奏する技術』と『レスリング』の知識を活かして仕事をしようと思うのであれば、彼が選ぶ職業は政治家ではなく、これらを教える教師になるべきです。
学校に教師として勤めるのであれば、人一倍『読み書き』が出来るのであれば国語の教師になれるでしょう。 楽器演奏を教える技術が人より秀でているのであれば、音楽教師になっても良いかもしれません。
アルキビアデスが一番得意なことがレスリングであれば、体育教師になってレスリングを教えるのもよいでしょう。

どの道を選ぶにせよ、アルキビアデスが学んできたことを市民に対してアピールするだけでは、学校の教師には成れても政治家の道を進んでいくのは難しそうです。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第134回【アルキビアデス】本当の助言 後編

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フリーライダー

繰り返しになりますが、アルキビアデスは多くのものを持つものなので、当然、彼に助言を与えるような人も沢山います。
その人達は、善意からアルキビアデスに対してアドバイスを与えている場合もあるでしょうが、多くの場合は、彼が権力を握った後を見越して近づいている取り巻きでしょう。
この様な取り巻きは、基本的には担ぎ上げている人に対してお世辞を言ったり、能力を課題に評価して相手に伝えることで、無謀な挑戦をさせようとします。

何故なら、挑戦して駄目だった場合にダメージを受けるのは挑戦した人で、その取り巻きはダメージを受けないからです。
その為取り巻きは、人に高いハードルを飛び越えることに挑戦させて、成功したらその恩恵に与ろうとし、失敗すれば別の人を担ぎ上げます。
この様な態度を取る人たちからのアドバイスは、果たして本当に正しいアドバイスと言えるのでしょうか。

彼らは人に挑戦させ、その挑戦が成功したら恩恵に与ろうとするフリーライダーなので、本気で担ぎ上げている人を心配しているわけでも大事に思っているわけでもないでしょう。

本当の助言

しかしソクラテスは違います。 アルキビアデスのことを本当に大切に思っていますし、彼のことを本当に心配しています。
その為、もし、アルキビアデスが取り巻きたちの言うことを真に受けて無謀な挑戦をしようとしているのであれば、目を覚まさせようと思っています。

そしてその為に必要であれば、彼に助言を与えた人たちを片っ端から論破していくのも吝(やぶさ)かではないと思っています。
何故なら、そうすることで、彼の取り巻きたちが全員役立たずであることを証明することが出来、それと同時に自分の重要性をアルキビアデスにアピールできるからです。
これで導入部は終わり、これからは本編に入っていきます。

街頭演説

アルキビアデスは政治家になるつもりだと言いましたが、そのために必要となるのが国民の説得、つまりは街頭演説です。
今の日本でも同じですが、政治の基本は街頭演説などを通して自分の意見や有能性を国民に伝えるところから始まります。
これを怠って選挙に立候補したところで、当選することはまず無いでしょう。 日本の様に3つのバンである『地盤・看板・鞄』を親から引き継いで二世議員として出馬するのなら、当選する可能性も少しはあるかもしれません。

しかしこの対話編によると、アルキビアデスは政治家になるためにアテナイにやってきて市民権を得ようとしているため、そんな物は持っていません。
その為、1から自分の名前を売っていく必要性があります。
ではアルキビアデスは、何について演説をするのでしょうか。

名前を売るための街頭演説では、自分の持っている能力を言葉で説明しなければならないわけですから、当然、市民や他の政治家達に比べてアルキビアデスが優れている点について述べるべきでしょう。
言葉で政治家として優秀であると説明する時に、その方法として一番手っ取り早いのは、他の人達は知らないけれども自分は知っている知識を突きつけることです。
そうすれば、他の人がわからないことに対して知恵者として助言をすることが出来るわけですから、彼らからは頼りにされることになります。

ではどのような知識を披露すればよいのか、それを考えるの前に、この『知っていること』という事に焦点を当てて考えてみましょう。

知識の身につけ方

知っていることというのは、知識と言い換えても良いでしょう。
これを聞かれているみなさんも、『この分野については詳しい。』といえる知識を持っておられることと思いますが、その知識というのはどのようにして身につけたのでしょうか。
おそらくですが、誰かから教わる。この教わるというのは誰かが書いた本を読んで学ぶというのも含みますが、この様に誰かから教わるか、それとも自分自身で発見したかの2通りの方法で身につけていると思われます。

知識はこの2通りの方法で身につくわけですが、この2通りしか無いとすると、知識というのは自分自身が『学びたい! 探求したい!』と思わなければ身につかないことになります。
逆に言えば、何の興味も関心もない事柄について詳しくなることもなければ、その分野で新たな発見をすることはないということです。
また、既に自分が知っていると思っていることについても、人は関心をなくします。 既にこの分野の勉強は終わらせたと思いこんでいる分野について、改めて興味関心を持って1から勉強することはないでしょう。

これは学問というくくり以外の知識についても同じでしょう。プラモデルになんの興味も関心もなく、当然、買ったこともなければ作ろうと思ったこともない人間が、プラモデルに関して他を圧倒するほどの知識を持てるわけがありません。
ゲームに興味がなく、無料のスマホゲームすらダウンロードしたことがない人間が、ゲームについての知識をみにつけることもないでしょうし、ゲームの攻略法を発見することもないでしょう。
知識というのは、興味や関心をいだいて実際に学んでみたり、四六時中、そのことばかりを考えていた結果、誰も見つけることができなかったものを発見することで身につけるものです。

これは、『既に知っていること』についてもそうで、自分が深く理解できていると思っている事柄について改めて調べることなんてしないでしょう。
皆さんがネットでウィキペディアを使って調べることは、自分の知らない事柄についてであって、自分が深く知っている事柄についてウィキペディアで調べることなんて、ほぼ無いはずです。

ということは、この知識というのは興味や関心をトリガーにして何らかの行動を起こした人間のみが身につけることが出来るものと言い換えることが出来るわけですが、そうすると当然ながら、知識を身につける前というのが存在します。
つまり、今現在保有している知識には、その前段階として何の興味も関心も持っていなかった状態、または、興味や関心は持っていたが、まだ勉強を始める前の状態があるということです。
この状態のことを、知識を身に着けていなかった状態『知らない状態』としましょう。これで、『知っていること』と『知らない状態』というのがわかりました。

アルキビアデスの強み

これを踏まえた上で、アルキビアデスの演説内容について考えていきましょう。
ソクラテスはアルキビアデスと話すことを神から禁止されてはいましたが、アルキビアデスには興味を持っていたので彼の行動はおおよそチェックしています。
彼の記憶によると、アルキビアデスは『読み書き』と『キタラという楽器の演奏』と『レスリング』を学んでいましたが、それ以外には誰かから学ぶという行動はとっていなかったようです。

先程の知識についての話に照らし合わせれば、アルキビアデスが他人から教えてもらったのは『読み書き』と『楽器演奏』と『レスリング』の知識となり、彼が持っている知識もそのような知識となるのですが…
ではアルキビアデスは、『普通の人よりも読み書きが出来る!』と言って自分の優位性を示せばよいのでしょうか。それとも、楽器演奏やレスリングについて助言できると言う点で人より優れていると主張すべきなんでしょうか。
これに対してアルキビアデスは、当然のように『そんなことで優位性を示そうとは思ってない』と主張します。

何故ならアルキビアデスが目指しているのは政治家です。 国会の場で読み書きの仕方や楽器演奏の方法、レスリングのやり方なんて議論はしませんから、そんな事ができると街頭演説で述べても無意味です。
では他にどのような知識を持っていると言って自分の優位性を示せばよいのでしょうか。
そのことについては次回、話していこうと思います。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第63回【財務・経済】固定資産

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減価償却


前回は、減価償却の話をしました。
減価償却の話を簡単に振り返ると、複数年にわたって使用する機械や設備などを購入した際に、それを経費として購入した年度に一括で引き落とすと問題があるので、使用年数に応じて経費化すべきだという考え方が減価償却でした。
減価償却の減価とは、『使用年数内で価値が減少する』ということを意味するので、費用化できるのは購入費用全額ではなく、価値が減価する部分のみとなります。

具体的にいうと、車を200万円で購入して10年間使う場合で考えると、10年後に下取りで20万円で購入してくれると想定した場合、10年間で180万円分の価値が減少することになります。
この180万円を10年間にわたって経費として組み込んでいくのが減価償却費という考え方です。

償却方法は主に2つあり、それが定額法と定率法です。
定額法は簡単で、減価した金額を使用年数で割ったものが1年間に組み込む経費となります。
先程の例で言えば、減価する金額が180万円で使用年数が10年なので、180万円を10で割った18万円が1年に組み込める経費となります。

計算もしやすく、何の届け出も必要がないため、普通の経理処理であればこちらの計算方法のほうが良いでしょう。

定額法以外の償却方法


もう一つが定率法で、こちらは減価する金額に一定の償却率をかけたものを毎年経費として組み込む方法です。
同じく先程の例で言えば、仮に償却率が40%とした場合、180万円に40%をかけた72万円が経費として計上されて、翌年は、180万円から先ほどの72万円を差し引いた108万円に対して40%をかけた43万2千円を経費化します。
この計算方式の場合は、設備を購入した年に近い年度ほど多くの金額が経費化され、購入から時が経てば断つほど経費化される金額は減っていくことになります。

どちらを選択するのかは、利益の上がり方や設備の使い方などを見て考えていった方が良いでしょう。
こちらの償却方法を選択する場合は、届け出が必要になるようです。

前回に取り上げた減価償却方法はこれだけですが、実はこの他にもあります。車の例で言えば、走行距離で割って出すといった考え方もあります。
仮に10万キロを走行すると想定した場合、180万円の車を10万で割れば走行距離1キロあたりの値段が計算できます。 この場合は18円となります。
この18円に年間の走行距離をかければ、その年の使用割合を出すことが出来たりします。 この様な感じで、複数年にわたって使うものは1年間の使用率に応じて経費に組み込んでいくというのが減価償却という考え方です。

今回のテーマである固定資産は、この減価償却の考え方が結構関連しているので、これを理解していないと理解が難しかったりします。
では、どの様に関連してくるのでしょうか、それを見ていきます。

出費と経費の差額


先ほどの減価償却の説明を聞いた際に、ある疑問を持たれた方がいらっしゃるかもしれません。
それはどのようなものかというのを先ほどの車の例で説明すると、車を200万円のお金を出して購入したのにもかかわらず、経費として18万円しか組み込めないのであれば、差額の182万円はどこに行ってしまうのかという疑問です。

結論から書くと、この差額の182万円が、今回のテーマである固定資産にいくわけです。
経理の処理としては、車を200万円の現金で購入した場合、200万円分の現金資産が減って、200万円分の車という固定資産が増えます。
この200万円の車という固定資産から、減価償却費として毎年18万円が差し引かれて経費化されていくという考え方です。

これはつまり、購入した車は資産になるということです。
これは何故かというと、車というのは使わなくなった際に売れるからです。
200万円で購入した車を1年間で売却すれば、事故車でもない限りはそれなりの金額で売却できます。

減価償却の説明で、経費化できるのは価値が減少する部分に関してのみだと説明したのは、このためです。
固定資産は会社の資産です。 この資産の購入にお金を使ったから、その使った金額を経費として利益から差し引いて税金が節税できるとしてしまうと、おかしな話になってしまいます。

もし出費=損金になるのなら…


この事を他の例で説明すると、例えば美術品や土地を購入するという例で考えてみると分かりやすいです。
私が前に聞いたことがある話として、ある料理屋が数百万円するお皿を買って経費計上したら、税務署からクレームが来て経費にできなかったという話を聞かされたことがあります。
店側の理屈としては、店の目立つところや各個室に高価なお皿を飾っておくことで、それを見に来る客がいるから、集客効果がある。 その為、この皿は売上を上げるために必須であるため、経費扱いされるべきだというものでしたが…

この理屈は簿記を勉強したことがあればありえないことだとすぐに分かりますし、税務署としては当然のクレームで、こんなことがまかり通ってしまえば、誰も税金なんて払いませんし、脱税し放題となります。
何故、店の集客のために必要なものなのに経費化出来ないのかというと、この美術品としてのお皿は消耗品ではなく固定資産だからです。
その数百万円する皿は、おそらく10年後に売却したとしても同じ値段で売れるでしょうし、何なら、10年間の間に価値が上昇して、購入費用よりも高く売れる可能性があります。

先程、減価償却費の説明でも話しましたが、会社が経費として組み込める金額は、価値が減少する部分に関してのみです。
200万円の車の例で言うのであれば、200万円の車を10年後に売却して20万円で売れるのであれば、その車は10年間で180万円の価値が減少することになるため、この部分に関してのみ費用化出来ます。
これを先ほどの芸術品としてのお皿の例で見ていくと、このお皿を経費化しようと思うのであれば、数百万円のお皿が経年劣化して毎年のように価値が落ちていくということを証明していかなければなりません。

それが出来ないようなものであれば、経費として計上することは出来ません。 もし、この様なモノを購入したとすれば、それは会社の資産として固定資産に計上します。

簿価と時価


では実際に売却をした際に、価値が下がっていて損失が出たらどうするんだと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その時は、固定資産の売却損を損失として計上します。
つまり、営業にかかわる経費ではなく資産売却損として別に計上するわけです。 この損失も利益から差し引くことが出来るため、仮に売却して損失が出たとしても、それが事業の一環であれば損金計上して節税につなげることが出来ます。

これは土地などでも同じです。
仮に、事業で使うための倉庫や新たな営業所を作るために土地を購入し、その上に建物を立てたとしても、土地の値段は経年劣化しないために経費扱いできませんし、全額が会社の資産として固定資産に計上されます。
しかしこの例で言えば、土地の上に建てた建物は経年劣化で時と共に価値が減少していくため、その減った価値に対しては減価償却費として経費化することが出来ます。

これはシンプルにいいうのであれば、経費化できるのは会社として損失が出た部分のみだということです。
もしこれが、『お金を使った分はすべて経費化できる』なんてことになれば、どのようなことになってしまうのかは、考えてみればわかりますが、これを悪用して税金を支払わない企業が乱立します。

例えば、何らかの事業が大当たりして多額の利益が出た会社があったとしましょう。
もし、お金を使った分が全て経費化できるのであれば、この会社はその利益を全額『土地の購入』や『美術品の購入』、価値が減りにくい高級車の購入費用などに使ってしまえば、利益がなくなることになります。
前にも話したことがありますが、会社の税金は利益に税率をかけたものになるため、利益を全額使ってこのようなものに消費してしまえば、税金は払わなくて良いことになってしまいます。

会社で利益が出たとしても、それで土地や美術品を購入すれば税金を払わなくて良いなんてことになれば、国には税金が入らないことになってしまいますから、こんなことが認められるはずがありません。
その為、お金を使って購入したとしても、それが経年劣化せずに価値あるものとして残る場合は、それは会社が持つ資産として固定資産に計上されるというわけです。
高級車や、先ほど例に上げた芸術品としてのお皿などは、業務でも使う可能性があるためにわかりにくいですが、これをもっと分かりやすい固定資産に例えると分かりやすいと思います。

車や土地以外の固定資産


分かりやすい固定資産とは、株式や数年後に償還される国債などの事です。
会社で利益が出たから、資産運用のために株式投資をして、その投資金額が経費として認められて利益から差し引けるとなれば、利益が出ている会社の社長は、利益を全額株式投資国債に投資してしまいますよね。
なぜならそうすることで、税金を支払わなくて良くなるわけですから。 仮に税率が20%とすれば、購入した株式が20%以上値下がりしなければ得ということになってしまいます。

国債などの場合は元本保証なので、これが経費化できるのであれば確実に利益を出すことが出来てしまいます。
ちなみに国債というのは、国が発行している借用書のことです。 よくテレビで『国は1000兆円の借金がある。国民一人あたりに直すと…』といった感じの解説があります。
しかし正確には、国は国債を購入した人から借金しているのであって、国民全員から借金をしているわけではありません。

この国債という借用書ですが、これを購入するということは、国に対して金を貸している債権者になれるということです。
借金というのは借りている側が破産しない限りは元本と利息がもらえるわけですから、基本的に元本保証です。 この元本保証の商品を購入することで節税対策になるのであれば、会社は出た利益の全額を国債購入に当ててしまいますよね。
こんな事にならないために、資産を購入しても経費扱いにはならないということです。

これは、会社の設備や機械や建物でも同じだということです。売却してお金に出来るものは基本的には会社の資産として貸借対照表に記入されることになります。
これで固定資産の簡単な試算は終わります。 次回はもう少し詳しく、この固定資産について考えていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第134回【アルキビアデス】本当の助言 前編

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アルキビアデスという人物

前回は、アルキビアデスについての簡単な説明と、彼が政治家になるためにアテナイにやってきたという話をしました。
アテナイは民主主義の父と言われているペリクレスによって民主化されていたため、国民に自分の力を示すことが出来さえすれば、国を動かせる立場である将軍にまで登りつめることが出来ました。

そういう事もあってか、アルキビアデスは政治家になるためにアテナイを訪れて市民権を得ようとします。
彼がなぜ政治家になりたかったのかというと、自らの欲望を満たすためでしょう。
彼は、資産や人脈を持つ良い家柄出身の両親を親に持ち、美しい姿で生まれました。 ソーシャルゲームのガチャで例えるなら、生まれガチャで最高ランクの星5やLRを引いたようなもので、流れに身を任せるだけで将来は約束されていたはずです。

しかし彼はそんな現状に満足せず、努力をして学問や芸術や運動などに打ち込んで、自らの能力をさらに高めています。 その上で更に求めたのが、国を動かせる立場になるということでした。
政治家になって権力者に登りつめることができれば、単なる資産家では得られない権力を持つことが出来ます。外交や戦争、防衛や内政といったものは、金を積んだからと言って出来るものではありません。
そんな一般市民が手に入れることが出来ないような権力を手に入れるために、アルキビアデスは政治家を目指したのだと思われます。

幸せとは欲望を満たし続けること

この様な考えのアルキビアデスをソクラテスは、『彼は今ある状態では満足する事はできない。常に更に多くのものを手に入れようとする人間で、それが出来ないのであれば死んだほうがマシだ』と思う様な人物だと評価しています。
前にゴルギアスという対話編を紹介したことがありましたが、そこに登場したカリクレスは、人は欲望を満たすために生きているのだから欲望を満たすために行動し続けることこそが幸福へと向かう道だと主張していましたが…
アルキビアデスは、カリクレスと同じ様なタイプの人間と言えるのかもしれません。

対話篇ゴルギアスでは、このカリクレスの主張に対してソクラテスが『目の前に大きな樽が2つあり、双方が幸福という液体で満たされているとする。 しかし一方の樽には穴が空いていて、時間と共に幸福は流れ出てしまうとする。
この時、どちらの樽の番をする方が幸福だろうか?』と言ったような質問を投げかけています。
カリクレスの主張は、幸せになるために行動し続けることこそが幸福だとというものなので、この例え話の場合は、穴の空いた樽の番をする方が幸福だと主張しているのと同じことになります。

何故なのか。 穴の空いた樽の番をする場合、幸福度を一定水準に保ち続けるためには、流れ出た分の幸福をどこかから探してきて樽に注ぎ続けるという行動を休まず行う必要があります。
繰り返しになりますが、カリクレスの主張は幸福のために行動を起こし続ける事こそが幸福へとたどり着く道だというものなので、彼の主張では、穴の空いていない樽の前でじっと座って見守り続けるという選択肢は無いことになります。

欲深いアルキビアデス

対話篇アルキビアデスに登場するソクラテスのアルキビアデスに対する評価というのも同じようなもので、運良く恵まれた状態で生まれてきたのだから、それで満足していれば良いのに、彼はそうすることはしない。

もし仮に神から『アルキビアデスはヨーロッパ地方を統治すると良い』というお告げを受けたとしても、彼はそれで満足はしない。お告げ通りにヨーロッパ全土を支配したら、その次はペルシャだ、アジアだと領土を拡大することを考える。
自分が想像しうる全ての人間にアルキビアデスという人間を認めさせ、彼らの頭を自分で一杯にさせないと満足できない。』
ソクラテスは、もし仮にアルキビアデスと肩を並べるような人物がいるとすれば、それはキュロスかクルセクルスぐらいだろうと主張します。

キュロスとクルセクルスというのは両方とも、ペルシャの王様です。
ペルシャというのは今で言うところのイランになるのですが、当時のペルシャというのは国土が今と比べ物にならないほど広く、その国土はインドのすぐ東側から始まって、西はギリシャのすぐ隣まで制圧していました。
ギリシャの対岸にあるエジプトも、アレキサンダー大王が遠征するまでペルシャの傘下に入っていたので、相当巨大な帝国でした。 それほどの大国であったペルシャは、更に領土を拡大しようとしてギリシャに複数回攻め込んできています。

この時の様子は映画化もされていて、300などがそれに当たります。 映画300は前にも一度紹介したことがありますが、内容としてはペルシャの兵士10万以上に対してスパルタの兵300人で立ち向かうという話です。
テルモピュライの戦いと言われている戦争が舞台で、この戦争は、オリンピック開催中で戦争ができない状態のギリシャに対して、その時期を見計らってペルシャが攻め込んでくるというものです。
この時に攻め込んできたペルシャの代表が、クルセクルスです。 それに対して迎え撃ったのがレオニダスというスパルタの王様です。

夢は世界征服?

前にも話したと思いますが、スパルタという国は王様だけが統治しているわけではなく、宗教家と権力を分けていました。 その為、軍の派兵は宗教サイドの許可が必要だったようですが…
オリンピックという神様に捧げる祭の最中で、尚且、その祭の最中は争いごとをしてはいけないという決まりがあったため、宗教サイドは派兵を許可しません。その為、スパルタ側は兵を大々的に兵を出すことが出来ませんでした。
そこで、レオニダスは側近300人だけを連れて、ペルシャを足止めするというのがテルモピュライの戦いです。

話が少しそれましたが、この様に、ペルシャは広大な領地を持ちつつも、常に新たな領地を求めて戦争を仕掛ける国家でした。
アルキビアデスも同じで、仮にアテナイで大成功をして最高権力者になったとしてもそれでは満足せず、その夢が実現すれば直ぐに次を考えます。
ギリシャの他のポリスをどんどんと制圧してギリシャ全土を支配下に置いたとしても、彼はそれでは満足出来ません。 ペルシャのクルセクルスと同じ様に、更に支配地域を拡大させていくような人間だということです。

アルキビアデスに手助けをするソクラテス

ソクラテスが言うには、この様な野望を持つアルキビアデスを手助けするために、神はソクラテスがアルキビアデスと話すことを許したのだろうと言います。
ここでいう神とは、ソクラテスにだけ聞こえる声のことです。 ソクラテスとアルキビアデスは随分前から知り合いでしたが、ソクラテスはアルキビアデスと一定の距離を保ちつつ接していたようです。
その理由というのが、彼にだけ聞こえる声が反対していたからなのですが、ここに来て彼と親密になれる許可が出たため、アルキビアデスの手助けをしようとして、彼に話しかけました。

ただ手助けといっても、彼が様々なポリスや国を制圧していくための助言をしようとしているわけでないようです。
これまでの対話篇と同じ様に、彼が持つ願望が本当に正しいものなのかどうか、また、彼に国の代表を務めるだけの知恵があるのかどうかを、対話を通して解明していこうとします。
何故これが手助けになるのかというと、仮に彼に国を導くだけの力量がない場合、彼に統治された国の国民も困りますし、何よりも彼自身が困ることになるからです。

参考文献



【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第62回【財務・経済】減価償却

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利益と税金の関係


前回は、利益と経費と税金の関係について話していきました。
簡単にいえば、利益は売上から経費を差し引いたもので、税金はその利益に対してかかります。
これは、もし『税金を払いたくない』と思うのであれば、経費を増やせば良いということを意味します。

しかし、会社が出費した費用全てが利益を減らせるわけではありません。 社長が個人的に飲み食いした費用や、自分のために買った高級腕時計が経費扱いになって、それで税金を減らせるなんてことが有って良いはずがありませんよね。
その為、利益を減らすことが出来る出費は会社の営業活動にかかわる出費に限定されます。
逆に言えば、会社を運営させていくために、そして会社を成長させていくために必要なお金は経費扱いできて、それによって支払う税金を安くすることが出来るということです。

この経費は、現段階で利益を生み出しているものに限定されているわけではなく、未来への投資も含まれます。その為、会社が何らかの理由で大きな利益を上げてしまった場合は、未来への投資を行えば支払う税金を圧縮できることとなります。

未来への投資で大金を使う出費となると、真っ先に思い浮かぶのは設備投資です。
製造業であれサービス業であれ、事業で使うための何かしらの装置や器具というのは存在するでしょうから、利益が出た際にそれらを買うというのは、真っ先に思い浮かぶ出費といえます。
しかしここで重要になってくる概念が、今回のテーマにもなっている減価償却という考え方です。

損益計算書


前にも言ったと思いますが、会社が制作しなければならない書類というのは『貸借対照表』と『損益計算書』で、経理がつけている複式簿記では、最終的にこの2つの書類に全ての情報が集約されます。
貸借対照表』では会社の資産と負債と純資産の内訳、そして『損益計算書』では、1年の売上から経費を引いて、最終的には税引き後の利益を算出します。
この税引後利益は、最後には貸借対照表の純資産に組み込まれるので、『貸借対照表』が会社設立から現在までの活動の結果、『損益計算書』がその年の利益と考えると、分かりやすいかもしれません。

つまり、その年の税金に関係してくる書類は『損益計算書』ということになります。ここで重要になってくるのが、『損益計算書は1年の活動の記録』だということです。
なぜ、この認識が重要になってくるのかというと、会社の出費はその年だけに関連する出費ではないからです。

先ほど、『会社が思いがけない利益を出した場合は、未来への投資をすれば良い』と言いましたが、未来への投資が業績に寄与するのは未来の話であって、お金を使ったその年の話ではありません。
では具体的に何年後に業績に寄与するのかというと、この判断も非常に難しくなります。 未来投資と言いつつも、お金を使ったその年に利益に寄与するかもしれません。
この様に、企業が使う出費はその年だけに関係するものも存在しますが、数年間に渡って業績に寄与するものもあります。

この様な出費を、その年の費用として1度に計上してしまうのは、色々と問題が出てきます。
1番の問題は、現場で働いているわけではない関係者、主に株主が利益の推移を見る際に、利益構造がわかりにくいという問題が出てきます。
例えば、毎年1000万円の利益を出している会社があったとして、その会社が1000万円する機械を10年使用する目的で購入したとします。

その費用を1年間で全額経費として落としてしまった場合は、購入したその年の利益はゼロになりますが、翌年からは機械購入費用がかからないわけですから、普通に利益が出る構造となります。
この様に機械を10年ごとに買い替えるとした場合、10年ごとに利益がゼロになる年が出てきて、それ以外の9年は普通に利益が出る状態となってしますが、現場にいない株主にとっては10年ごとの利益減少の理由がわかりません。
もちろん説明を受ければ分かるでしょうけれども、上場会社の様に誰でも株を購入出来る企業などの場合は毎日株主の構成が変わるため、この様な表記の仕方では問題が出てきます。

減価償却


そこで登場するのが、減価償却という考え方です。
減価償却を簡単に説明すると、設備投資などで使った費用をお金を支払った年に一括で経費として落とすのではなく、使用年数に応じて経費に組み込む額を変える方式のことです。
この使用年数。または耐用年数ですが、税法と会計で考え方が少し違ったりします。

税法の場合は、固定資産、これは購入した設備や車や建物のことですが、その種類ごとに耐用年数が決められています。
一方で企業会計の方では、その固定資産を実際に使用する年数で考えることになってします。
この様に税法と会計で分かれているのは、2つの会計の考え方がそもそも違うからです。

企業会計の方は先ほども少し話しましたが、企業の利益構造を分かりやすくするために帳面をつけているので、購入した固定資産を実際に使用する年数を耐用年数だと考えます。
例えば車の場合、週に1回だけ近所に配達に行く様な仕事と、運送業として毎日10時間ほど運転をしている業種とでは、車の寿命が変わってきます。
前者の場合は10年持つかもしれませんが、後者の場合は5年ほどしか持たないかもしれません。

この様に、車の使用頻度によってクルマそのものの寿命が変わってくるため、企業会計の場合は企業が過去の経験等に照らし合わせて耐用年数を決めて、毎年どれだけ費用に計上するのかを計算します。
しかしこれが税法となると変わってきます。 というのも、税金というのは公平性が求められるからです。
もし、購入した固定資産がどれぐらい使えるのかというのを個人が勝手に決められる場合、『今年はたくさん利益が出たから車を買って、耐用年数1年で全額今年の経費で落とそう』なんてことが出来てしまったりします。

そうすると、簡単に税金逃れが出来てしまうため、税法ではそういった事が出来ないように、国によって耐用年数が決められています。
耐用年数は、各固定資産によって細かく決められていて公開もされているので、ネット検索で『減価償却 耐用年数』なんかで検索をかけると、税務署が出している耐用年数表をダウンロードできたりもします。
もしこれを調べるのが面倒くさいのであれば、実際に税務署に聞きに行くなり税理士さんに相談するなりしてみてください。

最近の会計ソフトの場合などは、固定資産を購入して会計ソフトに入力する際に、固定資産のジャンルが選べるようになっていて、それを選択するだけで耐用年数が自動入力できるようになっているものもあったりします。

減価償却費の減価


減価償却についての耐用年数の考え方については以上ですが、では次に、実際に経費として落とす金額をどの様に決めるのかというのを考えていきます。
それぞれの固定資産の毎年の減価償却費額の計算方法ですが、名前に減価とついているため、基本的に価値が減った分に限定して費用化します。
つまり極端な話し、購入した固定資産が対応年数を過ぎた後も同じ値段で売れる場合は、費用にはならないということです。

もし仮に200万円で車を購入し、対応年数が過ぎた後に20万円で下取りしてくれる場合は、200万円から下取り価格の20万円を差し引いて、180万円分を費用化します。
この価値が減った部分、つまり減価した部分の費用化ですが、この計算方式は大きく分けて2種類あります。
それが、定額法と定率法です。

定額法は、対応年数の期間を通して毎年同じ金額を減価償却費として計上する方法です。
分かりやすい様に先ほど購入した車の対応年数を10年と仮定すると、減価した分の金額である180万円を10で割ることで1年ごとの費用を計算します。
この場合であれば毎年18万円となるので、それを10年にわたって10回費用にすることで、180万円が全額費用化出来ます。

もう一つの定率法は、180万円を毎年同じ率で費用化していく方法です。
仮に、費用にする率を40%とすると、1年目は180万円に40%をかけた72万円を費用として計上します。
翌年は、180万円から初年度に費用化した72万円を差し引いた108万円に対して40%をかけて43万2千円を費用にします。

これを繰り返していって、最終的に対応年数が切れた時に180万円が費用化されている状態を作ります。
ただ、この計算方法の場合、確実に対応年数内に償却できないケースが出てくるので、その場合は、取得金額に指定された償却率をかけた金額を費用化して計算を合わせていきます。
この計算方法の場合は、当然のことですが初年度の償却費が大きくなり、後半になればなるほど償却費は少なくなっていきます。

定額法と定率法


どちらを選択するのかは、正直なところ、経営者の経営に対するヴィジョンの持ち方で変わってきますので、ここでは一概にいえませんが、数年間に限定して稼げるような商品に対する投資の場合は、定率法のほうが良いかもしれません。
例えば、自社製品の1つが大ヒットしてブームとなり、受注が大幅に増えてラインの増強を求められるというケースで考えた場合、そのブームが一過性で数年で終わってしまうのであれば、その数年だけ利益が跳ね上がることになります。
限定された数年間だけ利益が上がり、その後は普通に戻るのであれば、利益が上がり始める年に多額の償却額を計上できる定率法の方が良いことになります。

逆に、定期的な機械の入れ替えで利益の変動が大きくない場合は、定額法で良いと思います。
これらの償却方法は一度決めたら最後まで貫き通すものなので、単純に税金計算のためだけに帳面をつけるのであれば、計算が分かりやすい定額法を選択したほうが良いと思います。
私は定額法でしか会計処理したことがありませんが、定率法を選択する場合は税務署に届け出が必要なようです。

これで減価償却の計算法の話は終わりですが、ここで一つの疑問が出てくると思います。
それは、費用化できていない差額はどうなるのかという問題です。
先ほどの200万円の車の例で言うなら、初年度は減価する分の180万円のうちの18万円しか費用化出来ていないため、元の200万円と比べると差額が182万円出てきます。

この182万円は車の販売会社に車代として既に支払ってしまった金の1部ですが、これはお金を支払ったにも関わらず費用に出来ないかねとなりますが、どこに行ってしまったのでしょうか。
これについては次回に考えていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第133回【アルキビアデス】完璧超人アルキビアデス 後編

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夜半を見極められない人間

逆に、善悪を見極める目を持っていない人間は、悪い人を拒絶することが出来ません。 何故なら、何が良くて何が悪いのかがわからないからです。
日本にも、『朱に交われば赤くなる』なんてことわざがありますが、良くない価値観に頻繁に接していると、人はそれが普通のことだと思ってしまいます。
結果として、他者と比べた際に自身の価値観が劣化しているという状態になり、且つ、自身が劣化していることに自分自身で気が付かないため、いつの間にか自身も悪い人間になってしまったりします。

こうなってしまうと、良い人たちは相手にしてくれないですから、幸せとの距離は広がってしまいます。
つまり、最終目的地である『幸福』に辿り着くためには、何が『良いこと』なのかを知る必要があるわけです。
優れた政治家というのは、多くの人たちが『良い』と思えるような国家運営をしなければならないため、それを目指すのであれば、良さを理解していなければなりません。

では果たしてアルキビアデスに、その『良さ』はあるのか。また、『良さ』というものを理解しているのか。
それを解き明かしていくことで、人間の本質を探っていきます。

完璧超人アルキビアデス

何故、対話相手がアルキビアデスなのかというと、アルキビアデスは全てのものを持っていると思われるような人物だったからです。
具体的には、誰もが羨む美貌を持ち、金も潤沢に持っていました。 父方は母方ともに良い家柄で、当人たちもその生まれや能力を生かして幅広い人脈を持っている人物でした。
アルキビアデスはその両親から生まれているため、当然、生まれも良いということになります。

アルキビアデスの両親が築いた人脈は相当なもので、彼の後見人には、あのペリクレスがなっています。
ペリクレスというの人物はアテナイの全盛期に国の代表を努めていた政治家で、パルテノン神殿を立てたことでも有名です。
今の日本で言うのなら、総理大臣が後見人を務めているようなものなので、ステイタス的には相当なものだと考えることが出来ます。

それだけでなく、負けず嫌いで強欲な性格のアルキビアデスは、学問や音楽、レスリングなどの運動にも打ち込んでいた人物でもあります。
つまり、外見や親の家柄、人脈といった自分自身の努力ではどうにも出来ないもの、言い換えれば、努力しなくても手に入るようなものだけに頼っているわけではなく、多くのものを努力して勝ち取ってきた人物です。

生まれが良いのに努力する人物

この様にアルキビアデスのスペックを観ていくと、見た目が非常に良くて大金持ち。家柄も素晴らしく人脈も広く、頭も良くて音楽も嗜み、運動も行っているといった人物です。
一言で言えば完璧超人で、仮に彼が素晴らしく優れた人物でなければ、いったい誰が優れた人物なのかと思ってしまうようなスペックです。
これは今の価値観で見てそうなのではなく、当時の価値観で観てもアルキビアデスは優れた人物だったようで、アルキビアデスは多くの人から言い寄られてきた人物でもありました。

普通の人からすれば、アルキビアデスこそが優れている人で、この様な人物が登場した時点で、『人が優れていることについて』というテーマでは話すことなど無いと考えてしまうかもしれません。
しかし当然のことながら、この様な完璧超人を相手に対話をするということは、アルキビアデスが持っているものでは良さや人の優位性は測れないということになります。
では、何を持って人が優れているとするのか。それを考えていくのが、この『アルキビアデス』という対話編です。

アルキビアデスから距離を取るソクラテス

ということで遅くなりましたが、本題に入っていきしょう。 ソクラテスは、この完璧超人のアルキビアデスと古くから付き合いがありましたが、一定の距離を取り続けてきました。
この事は先程も話しましたが、前に取り扱った饗宴でも少し触れられています。
饗宴に登場するアルキビアデスの話によると、少年時代のアルキビアデスはソクラテスから知恵を授けてもらおうと、彼のベットに忍び込んで関係を持とうとします。

しかしソクラテスは、彼に手を出すことなく朝を迎えてしまいます。
生まれながらの美貌によって多くの人達からチヤホヤされていたアルキビアデスは、ソクラテスに袖にされたことを根に持ち、憎まれ口を叩いた様子が饗宴では描かれています。
では何故ソクラテスは、アルキビアデスと距離をとっていたのでしょうか。 彼のことを嫌っていたのでしょうか?

実はそんなことはなく、ソクラテスはアルキビアデスに興味をいだいていましたし、一定の距離感を保ちつつも普通に人付き合いは続けていました。
しかしそれでも距離を詰めなかった理由としては、ソクラテスにだけ聞こえる何かしらの声が、アルキビアデスと距離を詰めることを反対していたからです。

神の声

この『ソクラテスにだけ聞こえる声』というのは、前に取り扱ったソクラテスの弁明にも登場しました。

ソクラテス自身は、その声は自分が間違った道に進みそうになったときだけ語りかけてくれるので、神様からのメッセージかもしれないと解釈していましたが、これが本当に神様からの声なのか、それとも精神病が原因の幻聴なのかはわかりません。
とにかくソクラテスによると、重要な局面になると彼にだけ聞こえる声が、彼が間違った方向へと進んでいかないように方向を指し示してくれていた様で、彼はその声に耳を傾けて従っていたようです。
ソクラテスの弁明』では、自分が死刑になることが分かっている裁判に向かう際、その声が裁判に行くのを止めなかったため、死刑になって自分が死んでしまうことも悪い事ではないのだろうと言っていたりもします。

今まではアルキビアデスと距離を縮めようとすると、その声が反対してきたわけですが、ここに来て反対の声が聞こえなくなったようです。
その他の理由としては、アルキビアデスの野望を叶えようとするのであれば、ソクラテスの助け、つまり対話による気付き必要だと思ったからのようです。
アルキビアデスは人気者で、彼の周りには沢山の人達がいて、様々なアドバイスをくれるけれども、そのアドバイスは全て意味がないことを証明できれば、アルキビアデスを正しい方向へと導ける。

また、彼の周りの意見が全て間違いであることが証明できれば、アルキビアデスの中でソクラテスの存在が大きくなると思い、声をかけたようです。

政治家になれる国

では、そのアルキビアデスの野望というのは何なのでしょうか。
先程も言いましたが、アルキビアデスは欲が深い人間、良い風に言い換えれば向上心の強い人間です。
手に入れられるものは何でも手に入れようとする彼は、その手段として政治家になることを目指します。そのために、別のポリス、つまり別の都市国家からアテナイの市民になるためにやってきました。

何故、野望を実現するための手段が政治家で、わざわざそのためにアテナイにやってきたのかというと、おそらく政治システムの問題でしょう。
当時のギリシャは、今のように1つの国家ではなくポリスという都市国家が集まった地域の名前で、それぞれのポリスごとに政治システムも統治の仕方も違いました。
例えば、スパルタ教育などで有名なスパルタというポリスでは、神の血を引くと言われている2人の王様と宗教家によって統治されていました。

全市民は生まれながらに軍人になることが決められていましたし、軍人になれないような体、つまり障害を持って生まれてきた場合は崖から捨てられてしまっていました。
この制度では、市民は生まれながらにして生き方を決められている様なものですし、指導者になろうと思ったところで夢を実現するのは厳しいでしょう。

民主国家アテナイ

その一方でアテナイ、今で言うところのアテナは、アルキビアデスの後見人になっているペリクレスが民主主義を導入していました。
政治家を始めとした国のシステムの運営に関する仕事は、市民を対象にしてクジ引きを行い、それに当選した人が仕事を引き受けて行っていました。
また、政治家よりも権力を持つ将軍職は、選挙によって選ばれていました。

つまり、政治に関する知識や実行力があることを市民に対して証明できれば、誰でも国の代表になれる可能性があったわけです。
その野望に突き進むアルキビアデスに対して、ソクラテスが質問を投げかけていくことで対話篇が進んでいくわけですが、その内容については次回以降に話していきます。

参考文献



【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第133回【アルキビアデス】完璧超人アルキビアデス 前編

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対話篇【アルキビアデス】

今回からはプラトンが書いた対話篇、アルキビアデスを読み解いていきます。
プラトンが書く対話篇のタイトルは多くが対話相手となる人物の名前がタイトルとなっていますが、今回の作品もそれに当てはまり、本の中ではアルキビアデスとソクラテスとの対話が行われています。

少し話がそれますが、この作品ですが、本当にプラトンが書いたのかどうかが疑われていたりもする様です。
本当にプラトンが書いたのか、別の人物が彼になりすまして書いた偽物なのかはわかりませんが… 私自身はそこにはあまり興味がないので、この場ではその事については深入りしないことにします。
なぜ興味がないのかというと、その事がわかったからといって、作品の内容や、それを受けての読み手が考える事というのは変化しない様に思うからです。

ここでは、ここ最近はプラトンの作品ばかりを取り上げてきましたが、このコンテンツはプラトンの作品を専門で紹介するためのコンテンツではなく、哲学を学ぶことで私やリスナーの方に考える機会を作ることを目的として配信しています。
そういう意味では、書いた人間が本当にプラトンかどうかは、この番組にとっては関係がありませんので、この辺りのことについては深く考えません。
この辺りのことを詳しく知りたい方は、私が参考にした書籍をご自身で読んでみることをお勧めします。 その本のリンクは、概要欄に貼り付けておきます。

入門編としての対話篇

そんなこの作品ですが、前に取り扱ったメノンと同様に、入門編として勧められていたりもします。
そのためか、他の作品と比べても読みやすく、内容そのものも、それほど難しくない作品です。 哲学書をまだ読まれたことがない方は、この作品から読んでみるのも良いかもしれません。
入門編ということで、これまでに紹介した理論や理屈も多く登場するので、このコンテンツをはじめから通して聞かれている方は、聞いたことがあるような話ばかりだと感じる方もいらっしゃるかもしれません。

ただ、ここで語られていることは基本的なことばかりです。どの分野の勉強にも言えることですが、基本が一番大切だと思いますので、聞いたことがあると思われている方でも復習がてら聞いてもらえると嬉しいです。

人物としてのアルキビアデス

話題が対話篇からそれてしまったので、対話篇の方に話を戻しますと…

アルキビアデスという名前については、このコンテンツを連続して聞かれている方は聞き覚えがあると思います。
彼の名前はこのコンテンツでも何度か出てきていますが、一番最近だと、前回に取り扱った饗宴で登場します。
前回紹介した饗宴という対話篇は、宴会で盛り上がるための余興として行われたゲームを通して、エロスについて考えていく作品でした。

これまでに紹介してきた対話篇では、少数の人物間での話し合いが描写されることが多かったですが、饗宴では内容の性質上、かなりの人物が登場し、持論を展開しました。
今回メインの話し相手となるアルキビアデスは、エロスについての討論が終わったあとで、宴会に呼ばれてもいないのに登場し、ソクラテスに対して憎まれ口を叩きながらも彼を絶賛した人物です。

ソクラテスとアルキビアデス

何故、ソクラテスに憎まれ口を叩いていたのかというと、ソクラテスに対して好意を持っていて彼にアプローチをしたのにも関わらず、振り向いてもらえなかったからです。

古代ギリシャでは、髭が生えるまでの少年は、自分が尊敬する知恵を持つ人に教えを受け、その行為に対して代償を体で払うという行為が行われていたようです。
アルキビアデスは自他共もに認める美貌の持ち主で野心家だったため、多くの賢者を論破していたソクラテスから教えを授かって賢者になろうとしていたのでしょう。
彼はソクラテスの興味を惹こうとアプローチを続けますが、彼が一向に振り向いてくれないため、プライドが傷つけられて拗ねてしまったというわけです。

そのため、彼を手放しで称賛する行為は彼のプライドが許さず出来ないのですが、ソクラテスへの尊敬が無くなったわけではないため、貶めるようなことが出来るのかというと、それも出来ません。
結果として、憎まれ口を叩くのだけれども、その内容はソクラテスを絶賛しているというなんとも可愛らしい態度になってしまったというわけです。
饗宴での彼の主張やソクラテスについての評価は、今回の本題ではないため話しませんが、興味のある方は饗宴を取り扱った回を聞いてみてください。

対話篇の概略

というわけで前置きが長くなってしまいましたが、本題に入っていきます。
この『アルキビアデス』という対話篇では、アルキビアデスとの対話を通して人間の本質について迫っていきます。

物凄く簡単に対話篇全体の内容を説明しますと、野心家のアルキビアデスは、最終的には国を統治したいと思っています。
そのための1歩として、政治家になることを目指します。
この政治家になろうとする青年に対して、政治家とは何か、統治者とは何かを問いただすことで、人間の本質を探っていきます。

政治家について

何故、政治について語ることが人間の本質を探ることにつながるのかというと、人は政治に良さを求めるからです。
人は単独で生きていける生物ではなく、絶えず他人との関わりを持って生きていく社会的な動物です。
その社会をどのように運営していくのかを考えて実行するのが政治家ですが、この政治家には良い政治が求められます。

政治家が良い政治を行うためには、当然のことながら、国民が考える『良さ』『良い国のあり方』『良い統治の仕方』そのための『良い法律』というのを理解していなければなりません。
何故なら、政治家というのは決断するのが仕事ですが、良い結果がどの方向にあるのかがわからなければ、その決断ができないからです。
また、政治家は下せる決断の重要性に応じて役職のようなものがありますが、正しい国家運営を行う場合は、上の役職の人たちは優秀な人でなければなりません。

何故なら、優秀でない者に正しく重い決断は下せないからです。
つまり、政治家として上を目指せば目指すほど、その上を目指す人物は他人よりも優れていなければならないということになります。
では、優れているとは何なのか。 一般人と指導者ではどこが違うのか。 その差を比べてみれば、『人の良さ』『人の本質』が分かるというわけです。

幸せになる方法

人の人生の最終到達地点が『幸せになること』であるとするのなら、その手段は『良くあること』です。
悪い人たちは周りに害悪を振りまくから悪い人たちで、良い人たちは接する人々を良くしようとするから良い人であるとした場合。
悪い人や劣った人の周りには良い人達が集まらず、良い人たちは同じく良い人達同士で集まろうとします。

何故なら、良い優れた人というのは物事の善悪を見極めることが出来るため、自分に悪影響を与える人を見極めることが出来ます。
そういう人達は悪い人たちをそばに置いておいても碌な事はないと知っているため、こういう人たちからは距離を取ります。
また物事を見極める目を持つ人は、自分に好影響を与える人を見抜く目も持っています。 その為、そういう人を見つけた場合は親しくなろうとします。

参考文献