だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第92回【メノン】探求のパラドクス 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

メノンのアラ探し

これまでの流れを振り返ると、メノンは当初、『自分はアレテーがどのようなものなのかを知っているけれども、ソクラテスが定義するアレテーとはどういうものなのかを聞いてみたいので、教えて欲しい』といった感じで、ソクラテスの元へやって来ました。
その質問に対し、『私はアレテーが何なのかを知らない』とソクラテスが答えると、少し馬鹿にしたような態度すらとってきました。
しかし、実際にメノンとソクラテスとで対話をおこなてみると、アレテーの意味を知っていると思い込んでいたメノンも、実はその意味を知らなかったことが分かってきます。

アレテーの意味を上手く説明できないメノンに対してソクラテスは、似たような概念を説明してみる事で、アレテーを説明する緒(いとぐち)を見つけ出そうとし、『形』と『色』の説明を試みます。
本来であれば、メノンとソクラテスが一つづつ説明の練習をして、その後、アレテーの説明に挑戦するところですが、メノンはソクラテスに論破され続けたのが面白くなかったのか、自分では説明を行おうとしません。
そして、『色』と『形』の説明をソクラテスに任せて、その説明のあら捜しを必死に始めます。

しかしソクラテスは、説明しようとしている概念を含まないという方法で両方の説明を完璧にしてしまい、再びメノンに順番が回ってきて、アレテーの説明を求められます。
メノンは咄嗟に吟遊詩人の歌の内容を引用し、『美しく立派なものを欲し、それを手に入れる力の事』と答えますが…
この答えを一つ一つ分解して考えていくと、メノンの答えは説明になっていないことが分かりました。

徳の説明で徳目を使用してはいけない

ある概念を説明する場合には、その概念が含まれた説明をしてはいけません。
例えば、右という概念がわからない人間は、左右という概念が無いために右という概念が理解できないので、その説明の中で左右という概念は使ってはいけません。
簡単にいえば、右がわからない人間に『左の逆の方向』といったところで、通じないということです。 何故なら、左右の概念そのものがわからないのに、説明の中で『左』という概念を使っているからです。

『右』という概念を説明する際には、左右の概念を含まない形で説明する必要があります。 例えば、北を向いている時の東の方向と言った具合にです。
同じ様に色を説明するためには、黒色や黄色といった色の概念を含むものを例として挙げて説明するという行為は無意味ですし、『形』を説明するために四角形や三角形の例を挙げることも不適切です。
形や色を説明するためには、それぞれの概念を含んでいない説明が必要です。

しかしメノンの『美しく立派なものを手に入れる力』というのは、その説明を追求していくと、『正義』や『節制』を伴った行動と言っているに等しく、説明にはなっていませんでした。
ゴルギアスから教えてもらった説明も、自分が正しいと思って引用した吟遊詩人の説明も、見事にソクラテスに論破されてしまったメノンは、完全にアレテーの意味を見失ってしまいます。
そしてソクラテスに対して、『アナタはシビレエイのような人だ、関わり合いになる人、全てを、その言葉の毒によって行動不能にしてしまう。』と不満を漏らします。

シビレエイというのは、人間を痺れさす事が出来る毒を持つ魚で、それに触れることで、身動きができなくなってしまうという生き物です。
これと同じようにソクラテスも、『この世の事が理解出来ている』と思っている人に近づいては、言葉という毒によって勘違いであったと思わせて、思考停止にさせていると罵ります。
これが何故、悪口になるのかというと、シビレエイそのものが美しいとは呼べないような魚だからです。 ソクラテス自身も、美しい外見を持っているとは言えない人物だったので、それを踏まえた形でシビレエイに例えたのでしょう。

しかしソクラテスは、この例えに対して反論します。 何故なら、シビレエイは自らの毒で行動不能になることはないが、無知の知によって一番苦しんでいるのはソクラテス自身だからです。
シビレエイが、自分の毒によって行動不能になり、もがき苦しんでいるのであれば、その例は的確かもしれないが、そうではないなら間違っていると指摘します。
ここまでをまとめると、二人で対話を行った結果、議論が先に進んだわけでもアレテーの事が分かったわけでもなく、再び、『アレテーについては何も分からない』という振り出しに戻ってしまいました。

探求のパラドクス

しかし、ここでメノンは、ふと疑問に思ってしまいます。
『わからない者同士で議論して、正解にたどり着くのだろうか。』と。
この疑問は『探求のパラドクス』と呼ばれるもので、単純なようで奥の深い疑問となっています。

『探求のパラドクス』を簡単に説明すると、有る対象物のことを理解しようとするためには、対象物がどのようなものかを知っている人に教えてもらわなければならない。しかし、対象について知っているのであれば、探求は必要がないというものです。
例えば、Xという物質について研究して、何らかの成果が出た場合、その研究成果が正しいかどうかは、Xという物質についての知識がある人に聴いてみないことには分からないという事です。
しかし、Xという物質についての知識を既に持っている人がいるのであれば、そもそも探求する必要がない事になります。

トランプを使った例え話をすると、部屋にあるテーブルを囲んで3人の人間がいて、その内の1人、仮にAさんだとして、Aさんだけがトランプを1枚めくって数字と絵柄を覚えて、それをもう一度山札に戻してシャッフルしたとします。
この時に、めくられたトランプを特定できるのはAさんだけで、他のBさんCさんには、トランプが何なのかは知る由もありません。
この状態で、Aさんだけがテーブルのある部屋を出ていき、テーブルにはBさんとCさんだけが残されたとしましょう。

残されたBさんとCさんだけで話し合ったとして、Aさんがめくったカードが何かを解明できるでしょうか。
その一方で、部屋を出て行ったAさんは、議論をする必要すらありません。 何故ならAさんは、めくられたカードが何かを既に知っているからです。
BさんとCさんが、めくられたカードが何かを知る為には、Aさんに教えてもらう他ありませんが、答えを知らないBさんとCさんには、その答えが正しいかどうかも分かりません。

何故なら、めくられたカードが何かという答えを知らないからです。 Aさんが正直者だということを知っていれば、高い確率で教えられた答えが正しいと思い込むことは出来ますが、仮に嘘をつかれていたとしても見抜くことは出来ません。
教えられた答えが正しいかどうかを確信を持って判断するには、カードがめくられた時に席を立って、Aさんと共にカードが何だったのかを確認して知っておく必要があります。

知らない知識は正しいか解らない

この探求のパラドクスは、全ての事柄について当てはまるので、当然、今現在、発達している科学についても当てはまります。
科学の分野では、数多くの法則と思われるものが見つかっていますが、探求のパラドクスに当てはめて考えると、それらは、絶対に正しいとはいえず、確からしいということしかいえません。
そのため科学の分野では、発見された様々な法則は『正しい法則』とは断言せずに、反論に耐えて続けて生き残っているので、『信憑性が高い』というふうにしか表現できません。

何故なら、人間というのは、既に『動いている法則』の中に暮らしている生物で、その法則を知らない生物だからです。
例えば、人間がコンピューターの中に一つの世界を作り出して、その中にAIで動く人工生命体を作ったとします。
そのAIは、自分が暮らしているコンピューターの中の世界をありのまま受け入れて、その世界を構成している様々な法則を見つけ出そうと頑張ったとして、AIに、その世界で動いている法則を全て見つけ出す事が出来るんでしょうか。

コンピューターの中の仮想世界に済むAI達は、どれだけ頑張って法則を見つけ出したとしても、その法則が正しいかどうかを判断する術はありません。
自分たちが見つけ出した法則が正しいかどうかは、コンピューター内に作られた仮想世界を抜け出して、実際にプログラミングをした人間に聞いて確かめるしかありませんが…
それが可能だったとしても、人間側が嘘をつかずに正しい返答をしてくれているかどうかを、見分ける方法はありません。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第3回 起業とは何なのか

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目次

今回は、企業とは何なのかをテーマに話していこうと思います。

起業とは何なのか

皆さんにお聞きしたいのですが、企業とは、何なんでしょうか。この様な基本的な問いかけについて改めて考えてみると、意外と答えに詰まったりします。
この問いかけで思い浮かべるイメージは、サラリーマンの方と経営者の方で大きく変わると思いますし、サラリーマンをしている方であれば、企業は自分の時間を売る場所と考える方もいるでしょう。
この『企業』という単語をネットで調べてみると、wikiでは『営利を目的として一定の計画に従って経済活動を行う経済主体(経済単位)である。社会的企業を区別するために営利企業とも言う。家計、政府と並ぶ経済主体の一つ。』と説明されています。

結構、小難しく書かれていて、なかなか頭に入ってきませんが、簡単に言い直せば、経済活動を行うモノは大きく分けて3つあり、政府・家計・企業から成り立っているということです。
経済活動というのは、簡単に言い換えれば、『モノとお金の交換』のことです。 このモノというのには、物理的な商品だけでなく、サービスなどの形のないものも含まれます。

例えば政府は、国民から税金という名目でお金を集めて、それを使って新たに道路を作ったり、作った道路をメンテンナンスしたりといったインフラ整備をしたり、福祉政策を行ったりします。
この政府という組織は、国民からお金を集めて物に投資するという経済活動を行ってはいますが、企業ではありません。

次に家計とは、それぞれの人間、個人の事と考えれば分かりやすいかもしれません。
人間個人は、生きているだけでお金を消費しますし、その消費するためのお金を稼ぐために、自分の時間を労働力という形で切り売りしたりもします。
労働を行って得たお金は、市場を通して消費されたり、金融機関を通して貯蓄に回されたりします。

個人的な感覚で言えば、貯金というのはお金を貯めているだけですが、経済全体で見た場合は、金融機関への貯蓄は投資となり、お金が金融機関で止まっているわけではなく流れています。
ここ最近では、経済が成熟しきってしまって歪な形になっているため、貯蓄が本当に溜め込まれているだけの状態になっていることもありますが、通常の経済であれば、金融機関に預けたお金は、金融機関を通して金が必要な人に又貸しされます。
つまり銀行は、家計からお金を借りて、それを企業や政府や家計に又貸しすることで、金利差を得ているわけです。

お金を借りた人は、何らかの事情でお金が必要だったから借りているので、そのお金は何かしらに消費されることとなります。
例えば政府であれば、国の借用書である国債を刷り、それを金融機関が購入することで政府はお金を手にし、金融機関は毎年の利息を手に入れることができます。
政府は、その金を利用して、政策を行ったり、借金の借り換えを行ったりしています。

少し脱線すると、よく、ネットやテレビで、国の借金は数百兆円あり、それを日本国民から借りている。 国民一人当たりで計算すれば、国は国民一人当たり数百万の借金があるなんてことがいわれていたりしますが、あれは嘘です。
日本国は、国債という名前の借用書をお金を出して購入した人から借金をしているのであって、生まれたばかりの赤ん坊から老人まで含めて国民全員から借り入れを行っているわけではありません。

市場とは

話を経済活動の話に戻すと…
この個人の経済活動と、先ほど説明をした国の活動以外の活動が企業の活動と考えてもらって良いです。
この、国と家計と企業の3つの経済主体は、それぞれ市場を通して活動を行います。

市場はマーケットと言ったりしますが、ここを通して、それぞれの経済主体は取引を行い、経済活動を行います。
言い回しがややこしくなりましたが、要は、市場とは、モノやお金を交換する場所のことです。 この場所というのは、現実世界の特定の場所のことではなく、概念的なものと考えてもらって良いです。
この市場というのは経営を行っていく上で重要な概念で、これから先も頻繁に出てくるので、なんとなくで良いので覚えておいてください。

市場についてもう少し説明すると、例えば、特定の物やサービスを販売する商売を始めようとする場合、その商品の市場が大きくなっているのか縮小しているのか、そもそも市場があるのか無いのかというのを把握することが重要となります。
基本的に、市場がない場合や小さい場合は、その商売はうまく行かない場合が多いです。

この部分について、もう少し説明すると…
市場があるというのは、自分が売ろうとしている物やサービスが実際に売買されているのか、実際に売買されていなくとも、その製品やサービスを欲している人がいて、商品を売り出せば取引が成立する場合のことです。
この有る無しというのを判断するのも一筋縄では行かなくて、その商品が画期的で、まだ、世の中に出ていない場合は、その商品について知っている顧客がいないわけですから、当然、市場は無いことになります。

しかし、その商品が便利なもので、人々に広く知らしめることができれば。 これを認知と言いますが、認知度が上がることで、皆が『欲しい!』と思う場合は、潜在需要があるため、市場はあると表現したりします。
この、市場から、ヒト・モノ・カネを集めて、付加価値をつけて市場に流すことが、企業の活動です。ここでやっと、今回のテーマが回収できました。 
企業は、労働市場からヒトを、金融市場から金を、そして、様々なモノが販売されている一般的にいわれている市場からモノを調達して、それに新たな価値を付け加えて、再び市場に流すのが役割です。

付加価値とは

ここで新たに、付加価値と呼ばれるものが出てきましたので、この言葉の説明をすると…
付加価値とは、その企業独自の価値のことです。 私達が物を購入した際に上乗せされる税金として消費税がありますが、この消費税は別名付加価値税とも言い、企業が新たに付け加えた独自の価値に対してかけられた税となります。
つまり、企業というのを『お金』という観点から捉えるのであれば、企業とは付加価値を生み出すものということが出来ます。

もし、付加価値が生み出せない企業があったとすれば、これは厳しい言い方になりますが、経済的にはその様な企業は無くても良いということです。
例えば、企業がヒトを雇って、材料を仕入れて、それを加工して何らかの商品を作ったとします。 当然ですが、その商品の値段は、材料費と人件費を足した金額よりも大きくならないと、仕事になりません。
仮に、材料を買ってきてヒトを雇って加工したのにも関わらず、材料費と同じ値段でしか販売できないのであれば、その企業は無意味なことをしていて、役に立っていないと判断できる為、無くても良いということです。

この付加価値という言葉は、馴染みのない方にとっては小難しく聞こえるかもしれませんが、世間一般でいう仕事というのは、この付加価値を生み出す事と言い替えることが出来るわけです。

具体例を出すと、分かりやすいのが、加工の仕事です。
例えば、森林に生えている木材を切り倒して持ち運べるようにすれば、単に木が生えている状態よりかは高い値段で売れるのではないでしょうか。
その木を、規定の大きさに切りそろえて、角材や板にすれば、更に料金を上乗せして売れそうです。 その木を、製材所から木材屋やホームセンターに運べば、人々は買いやすくなるわけですから、更に値段は上がるでしょう。

その木を買い揃えて、木造建ての家にすれば、その木材は更に高い値段で売れるでしょう。
この様に、何らかの手間を加えることで価格が高くなれば、それが付加価値となります。

GDPとは

この付加価値ですが、起業単体でみると、その仕事の手間賃の額ともいえますが、各企業が出す全ての付加価値の額を合計して、国全体としての付加価値にすると、その国の経済規模が分かったりします。
この『国全体の付加価値の合計金額』がよくニュースなどでいわれているGDPと呼ばれる数値です。
国の成長率というのは、この数値をどれだけ伸ばせるのかというのにかかってくるわけです。

国の経済成長の目安としても使われる、このGDPですが、簿記的には何で見るのかと言うと、売上総利益であったり、営業利益に人件費や支払利息や家賃、税金関係の支出を足し合わせたもので見たりするのですが…
このあたりのことは、会計の知識がないとわからないので、また会計について取り扱った会に取り上げようと思います。

まとめると、企業というのは何かというと、市場からヒト・モノ・カネを集めて付加価値をつけて、再び市場でものを販売する事で経済活動を行うものとなります。
次回は、この企業についてもう少し掘り下げて、企業の利害関係者であるステークホルダーについて話していきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第91回【メノン】美しく立派なモノ 後編

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美しく立派なものは皆が欲しい

つまり、古びた家具や車などの物や反社などの人間関係を、第三者の目線から観て『醜く劣っている』と感じたとしても、その個人の主観で観れば、『美しく立派なもの』に見えているということです。
『美しく立派なもの』に見えているからこそ、自ら近づいていくし、割高な料金などを支払ってでも手に入れたいと思っているわけです。

こうして考えると、この世の全ての人間が、『美しく立派なもの』を欲していると考えられます。
全ての人間が『美しく立派なもの』を欲しいと思っているのであれば、これは特別なことではない為、わざわざ言う必要はありません。
となると、アレテーの正体を探るために注目して考えなければならないことは、後半部分の主張である『それを手に入れる力』という事になります。

ということで、『それを手に入れる力』に焦点を絞って考えていくわけですが、『それを手に入れる力』の『それ』とは、当然ですが『美しく立派なもの』を指しているのですが…
『美しく立派なもの』を、先程のように相対主義的に考えてしまって、『個人の主観ごとに存在する』としてしまうと、収集がつかなくなります。
そこでソクラテスは、メノンが考える『美しく立派なもの』について問いかけます。

欲望は不正な手段で叶えて良いのか

これに対してメノンは、『美しく立派なものとは、金銀財宝や、国家における名誉や要職を任されること』だと答えます。 平たくいえば、富と権力こそが美しく立派なものだということですね。
この答えを聞いたソクラテスは、『その富と権力は、どの様な手段を使って手に入れても良いのか。』つまりは、不正を行って手に入れても良いのかどうかを尋ねると、メノンはそれを否定します。
そして、富や権力を手に入れる手段には、正義や敬虔、これは、相手を敬って慎ましい態度をとることですが、それが伴っていない手段を使って手に入れても意味がないと答えます。

ここまでの意見をまとめると、メノンの主張としては、『財産や権力を手に入れる力を持つこと』がアレテーを宿す事と言い換えることは出来るが、その手段には、正義や節制や敬虔が伴っていなければならないという事になりました。
正義も節制も宿すこと無く、悪い事と分かっていながらも、自分の欲望を満たす為だけに不正に手を染めて、その結果として、国の要職という地位を手に入れて高収入を得られる状態になれたとしても…
それは『優れている』とか『卓越している』とか『徳が高い』とは言わず、悪徳だということです。

ソクラテスは、これまでの流れを確認した上で、次のような質問を行います。
『正義や節制や敬虔を優先した結果、お金や権力を諦めなければならなかった場面に直面した時には、どの様に行動すべきなんだろうか。』

優先すべきは欲望か正義か

例えば、自由気ままに権力を振りかざして不正を行い、自身の欲望を満たしている独裁者がいて、アナタはその下で働いているとします。この独裁者は国のトップの地位にいる為、アナタよりも上の立場という事になります。
この権力者が、自分勝手な都合で一人の無実の人間を捕まえてきて、その人を死刑にしようと目論見、部下であるアナタに処刑を任せてきたとします。
権力者のいうとおりに無実の人間を処刑することは不正行為ですし、当然、良い行為ではなく悪い行為です。 しかし、命令を遂行する事で、アナタは権力者には気に入られるでしょうから、出世出来る可能性が高まります。

仮に、この様な状況に迫られた時に、どの様に行動するほうが良いのでしょうか。
この例の場合は、人の命がかかっていたりと責任重大すぎるので、もう少し軽い例も挙げてみましょう。

スーパーやコンビニなどに買い物に行き、商品をレジに持っていって会計をし、提示された金額のお金を支払った際に、お釣りとして多めの金額が出てきた場合は、どうするのが良いのでしょうか。
間違ったのは店員の方なんだから、店員が悪い。 自分は相手を騙したわけではなく、相手が勝手に間違っただけなんだからと、黙って多めのお釣りを貰って店を去るほうが良いのでしょうか。
それとも、必要以上のお金を貰うことは不正行為となるので、店員の間違いを指摘して、差額分は返すべきなんでしょうか。

この2つの質問は根本的には同じことで、最終目的であるお金を、不正行為を行うことで手に入れられる場合、不正行為を行うほうが良いのか、それとも、不正を行わずにお金の方を諦めるのかという質問です。
この質問に対して、メノンは、『不正行為には手を染めずに、正義や節制を優先して、財産を諦める方が良い。』と答えます。

アレテーとは正義や節制?

この一連のやり取りによって、アレテーを宿す際にメノンが一番重要だと考えていることが明らかになりました。
メノンは当初、アレテーとは何かという問いに対して、『財産や地位を手に入れる力』だと答えていました。 しかし、これが成立するためには、正義と節制が伴っていなければならないとも付け加えました。
では、最終目的である『財産や地位』と『正義や節制』を天秤にかけた場合には、どちらの方が重要なのかというと、『正義』や『節制』。つまりは、不正行為を行わないことの方が重要だという事になりました。

この質問のやり取りによってソクラテスが知りたかった事は、『何を一番に優先するのか』という事です。
メノンは前提条件として、『正義』や『節制』が伴った行動を行わなければならないと主張していましたが、これをこの言葉通り受け取るのであれば、この前提条件は決して覆らずに、これを外して考えることは許されません。
例えば、数学や科学の世界の場合、前提条件を覆してしまえば、話になりませんよね。

しかし、ソクラテスが取り扱っている哲学の分野では、この前提条件は簡単に変わってしまいます。
他の対話篇のゴルギアスにしてもプロタゴラスにしても、議論が進めば進むほどに、聞いたこともない前提条件が突如として追加されたり、逆に、特定のケースに置いては前提条件が削除されたりしていました。
私達が日常の生活を送っていると、事前にマイルールを決めていたとしても、事ある毎に例外を設けて、ルールを破ってしまうということも結構あります。

例えば『ダイエットをする』という目標を掲げて、それを達成するためのルールを決めたとしても、『今日は会社の飲み会だから』など、様々な理由をつけてルールを破るのは珍しいことではありません。
その為、ソクラテスは、メノンが設定した前提条件が、どんな状態であっても揺るがないものなのかを確かめたかったのでしょう。
結果として、後から追加された条件である『正義』や『節制』や『敬虔』を伴った行動を取らなければならないという前提条件が、揺るがないものだという事が明らかになったのですが…

破綻するメノンの主張

これによって、新たな問題が生まれてしまいました。

それは、アレテーの本質が、当初メノンが主張していた『財産や地位を手に入れる力』ではなく、『正義や節制、敬虔を伴った行動』を取ることではないのかという事です。
先程の質問を深掘りしていくと、財産や地位を手に入れられる状態にも関わらず、それを諦めてでも、正義や節制を伴った行動を優先させなければならないという事が分かりました。
最終目標である財産や権力を諦めてまで優先すべき、『正義』や『節制』は、『それが宿った行動』そのものがアレテーとも考えられます。

しかし、そうなってしまうのは問題です。
何故なら、正義や節制はアレテーの一面を表す概念に過ぎないからです。

第90回では、『形』の概念を説明する際に、形に含まれる四角形や三角形という概念を用いて説明するのは不適切だという話をしました。
色の場合でも同じで、説明をする際に、赤色や黄色といった『色』という概念が含まれている言葉を使って説明しては駄目でしたよね。
同じ様に、アレテーを説明する際には、アレテーに含まれている要素である徳目と呼ばれるものは使用せずに説明しなければなりません。

徳目とは、アレテーの要素であると思われる、『正義』や『知識』や『美しさ』善悪を見極める『分別』欲望を抑え込む『節制』恐怖を克服する『勇気』などのことです。
この様な、『持っているだけで優れているとされているもの』を片っ端から挙げていくという説明方法は、色の説明をする際に、黒色・赤色・黄色と色を全て挙げていくのと変わらない行為なので、駄目だとされています。
何故なら、黒色は分解すると『黒』い『色』で、色に黒という形容詞が付いているだけのものなので、そもそも『色』という概念がわからない人間には黒色が理解できません。

同じ様に、そもそもアレテーと言うものを理解していない人間が、アレテーに含まれる概念を例として挙げたところで、説明にはならないということです。
という事で再び、メノンはアレテーの意味を見失ってしまい、『分からない事を分からない者同士で話し合たところで、正解にたどり着けるのか』という事に疑問を持つようになるのですが…
その話はまた次回にしていこうと思います。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第2回 経営知識とは

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前回はこちら
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経営学を学んでも確実に成功できるわけではない

前回は自己紹介回だったので、今回から経営について学んでいくわけですが、皆さんにまず最初に知っておいてほしいことは、経営学を学べば会社が成長して大成功するわけではないということです。
ネットなどでは、『簡単に楽して儲ける方法』や、自分たちに任せれば業績を向上させることが出来ますよとうたっている経営コンサルタントなんかがいたりしますが、そんな方法はありませんし、少なくとも経営学はその様な学問ではありません。

このコンテンツは、中小零細企業の経営者の方に向けて発信していますので、経営者の方も聞かれていることを想定して話すと…
規模の大小に関わらず、経営というのは一筋縄ではいかないことは、経営者ご自身がよく分かっているとおもいます。

もし、経営学やその周辺知識を学ぶだけで、誰でも確実に大儲けが出来るようになるのであれば、そもそも経営学は世間一般に公開されていないでしょう。
何故なら、学ぶだけで大金持ちになれるような方法があったとすれば、普通の人間であれば、その知識を独占しようと思うからです。

経営学部の教授は学生に経営学を教えずに、その知識を使って自ら会社を起こして大儲けすれば良いだけです。
経営コンサルタントも、積極的な営業活動をしたり他人の相談に乗ったりしなくとも、その知識を生かして自ら事業を起こせば良いはずです。
しかし実際には、経営学を教える職業の人が沢山いたり、他人の事業の相談に乗ってお金を得ている人たちが多数います。

では、その様な人たち全員が食べていけているのかといえば、そんな事もありません。
経営コンサルとして独立開業したけれども食べていけないので、起業セミナーに通い続けている人もいます。
教育機関でいえば、ビジネススクールは飽和していて、MBAと呼ばれる経営学修士を取得できる学校は、半数が定員割れで撤退を余儀なくされている状態です。

もし、経営学が万能で、修めるだけで事業の成功が約束されているのであれば、この現状はおかしいですよね。
しかし、いくらおかしいといっても、理論と現実を比べた場合に優先しなければならないのは、結果が出ている現実の方なので、経営知識を教えるビジネススクールが成功していないという現実の方を受け入れるべきです。

では、経営について勉強するのは無駄なのかというと、そういうわけではありません。
経営についての知識を身につけることで、大成功が約束されているわけではありませんが、リスクを避けることは出来ます。

リスクとは

ここでリスクという単語が出てきましたが、ここでいうリスクというのは、世間一般でいわれている危険度としてのリスクではなく、不確実性のことです。
分かりやすくするために例え話をすると、2メートルの脚立から落下する場合と、スカイツリーの天辺から落下するリスクを比べた場合、不確実性という意味合いでのリスクでいえば、2メートルの脚立から落ちる方がリスクは高いです。
これ、リスクという言葉を勘違いして捉えている場合は、スカイツリーから飛び降りる方が危険度が高いんだから、リスクも高いと勘違いしますが、不確実性という意味合いのリスクでいえば、脚立から落ちる方が高くなります。

もう少し詳しく不確実性について説明すると、不確実性というのは将来の見通しが悪く、先行きが不透明な状態であればあるほど、不確実性が高い。つまり、リスクが高い状態となります。
逆に、将来の事柄が確定しているとか、予測の精度が高く、将来起こることが分かっている場合は、リスクが低い状態となります。

ではこれを、先程の例え話である2メートルの脚立から落ちる場合とスカイツリーから飛び降りる場合に当てはめて考えてみるとどうでしょうか。
2メートルの脚立から落ちた場合は、足から着地すれば死ぬことはほぼ無いでしょうし、怪我もしないでしょう。 しかし変な落ち方をすれば怪我をしてしまうでしょうし、後頭部から落ちれば、最悪死んでしまう可能性が有ります。
つまり、2メートルの脚立から落ちた場合は、複数の結果が予測でき、それらを確定することは出来ませんので、確実性が低い、つまりは不確実性が高くなるので、リスクは高いということになります。

一方でスカイツリーから飛び降りた場合はどうでしょうか。
この場合は、足から落ちようが頭から落ちようが関係なく、確実に死ぬでしょう。
つまり結果が確定しているために、リスクはゼロとなります。

経営学を学ぶとリスクが下げられる

経営についての知識の話に戻すと、経営学やその周辺情報を学ぶことで、全く知識がない状態と比べると経営のリスクを下げることが出来ます。
これだと抽象的すぎるので、もう少し具体的に話すと、リスクを下げて不確実性を下げることができれば、先々の見通しが良くなります。
見通しが良くなれば、例えば、新規事業を始めようと思った際に、月にどれぐらいの売上が建てられるかや、計画そのものの成功・失敗が、ある程度予測できることになります。

ここで重要なのは、『ある程度』ということです。 確実にわかるわけではありません。しかし、この『ある程度でも分かる』というのが重要だったりします。
将来の見通しが良くなって、ある程度の予測を立てることができれば、一応のゴールを設定することができますし、ゴールの設定ができれば、その間にマイルストーンをおいて、目標を達成するために何をすれば良いのかがわかります。
ここで、マイルストーンという言葉が新たに出てきたので説明をすると、例えば、1キロ先にゴールを設定した場合に、闇雲にゴールを目指しても、今現在、何をすべきなのか、何から始めるべきなのかが分かりません。

距離感が分からなければ、最初から全力で走って途中でバテてしまい、ゴールできないということもあるでしょう。
しかしここで、マイルストーンという距離を測るための石を500mの位置に置き、この時点では体力がこれぐらいあれば良いという目安を設定すれば、ペースを計算しやすくなります。
500m地点の目標が分かれば、300m地点ではどういう状態でなければならないのかがわかります。この様にまず目標を設定して、その後、現在と最終目標との間に更に細かい目標をおいていくことで、道筋が具体化していきます。

それをどんどんと刻んでいけば、直近で何をすれば良いのかが分かるようになりますし、計画を進めていくうちに目標の達成が無理だと分かれば、早期に撤退をすることも出来るようになります。
早期に撤退をすれば、体力を残した状態で次の目標を目指すという選択もできるようになりますから、選択肢が広がります。
これが、何の計画性も無しに全力で突っ走った場合、体力が切れて、経営の場合で言えば資金が底を尽きて、廃業に追い込まれるかもしれません。

この様に、リスクを避けることができれば、計画を立てやすくなり、結果として事業の安定性が増したりします。
この安定性が増すというのは、実際に経営をされている方なら分かると思いますが、かなり重要なことだと思います。

ただ、冒頭でも言いましたが、経営の安定性が増すことと、事業が大成功することは全く別の問題です。
経営が安定するから、大成功が約束されているわけではありません。
また、この事を知っているか知らないかというもの、同じぐらい重要だと思います。

というのも、この事を知っているだけで、変なコンサルに騙されるということが少なくなるからです。
コンサルというのはピンキリで、優秀なところもあれば、相談するだけで悪影響を受けるようなところまで様々ですが、その見極めがつきやすくなります。例えば、簡単に売上や利益が上がると言って擦り寄ってくる人は、警戒すべきです。
何故なら、もしそんな方法が本当にあるのであれば、そのコンサルは自分自身にその手法を使えば、自ら営業をかけるなんて事はしなくて良いからです。

ということで、今回は経営学や経営に関する知識というのはどのようなものなのかというのを、大雑把に話していきました。
次回は、経営理念について話していきます。

【Podcast #カミバコラジオ 原稿】第1回 番組紹介

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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目次

自己紹介

はじめまして、木村と申します
まず、この番組の説明からさせてもらいますと、『専門知識がゼロでもイチから経営学を学べる』番組です。
こういう学習番組は、どの様な人間が配信しているのかで、語られている情報が信用できるか出来ないかが変わってくると思いますので、まず最初に、私の自己紹介をさせてもらうと…

私自身は、京都で紙で作った箱の製造販売や、手提げ袋や包装紙やトレーの卸販売をしている者です。
ここで、『町工場で働いている人間に、経営学のことが分かるの?』と思われた方も多いと思います。それは、正しい反応だと思いますので、もう少し、私のことを話していきますと…
ここ約1年ほどですが、集中して経営の勉強をしていました。

勉強を始めた理由としては、私は将来、今携わっている事業の経営を任されることになるというのが1つ目の理由で、、2つ目は、携わっている業種に物凄い逆風が吹いているからです。
逆風というのは、世界的に巻き起こっている『過剰包装を止めよう!』という動きのことです。
先程も言いましたが、私は紙の箱や包装紙、手さげ袋などの製造卸をしていますが、この過剰包装をやめようという動きは、私どもの事業にピンポイントで影響を与えます。

この逆風で、じわじわと業績が下がってきたところに、コロナが襲いかかってきました。
ウチの取引先は、八つ橋を始めとした和菓子屋メーカーが多く、観光産業といっても過言ではありません。
今、全世界的に行われているコロナ対策としては、人の移動をやめようというものばかりなので、観光客が激減した今の状態というのは、かなり厳しい状況です。

この状況を何とかするためにも、勉強をはじめました。
ただ漠然と勉強を始めるといっても、何からはじめて良いのかがわかりません。そこで、経営全般のことが学べるという経営コンサルの国家資格があるのですが、その資格取得に向けて勉強をしました。
この資格ですが、7科目からなる1次試験と、4科目からなる2次試験の両方に通る必要があり、1次試験と2次試験の両方の合格率がそれぞれ2割程度なので、最終的な合格率は4%の試験です。

今年は年初からコロナの影響で仕事が暇になったということで、この試験の勉強に打ち込んで、結果としてこの資格の勉強と簿記の勉強を合わせて、トータルで約2000時間ほどの勉強を行いました。
そこで得た知識を元に、このコンテンツを制作していきます。

このコンテンツのターゲット

次に、このコンテンツのターゲットについて話していきます。
ターゲットというのは、どのような方に向けてコンテンツを配信するのかということですが、ここでは、中小零細起業やこれから起業をする方のための情報を発信していきます。

経営学の勉強にターゲットの設定がいるのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、理由としましては、経営においてやらなければならないこと、又は出来ることというのは、会社の規模によって変わるからです。
どういうことかというのを、もう少し具体的に話すと、大企業が導入して大成功を収めたシステムを中小企業が導入したとしても上手く行かないし、逆に零細企業が持つこだわりを大企業が取り入れても成功しないということです。

具体例を挙げると分かりやすいかもしれませんので、例え話をすると、パンの大手メーカーと、家族で経営されている個人が行うパン屋の2つの企業があるとします。
個人経営のパン屋が売上を増やすために、大手のパンメーカーと同じ様なプロモーション戦略を行ったとしても、効果は出ないでしょうし、むしろ広告費が膨れ上がって赤字になり、倒産してしまう可能性すらあります。
逆も同じで大手メーカーが、個人店が行っているような製品戦略を取り入れたところで、コストが合わずに利益が出ない可能性が有ります。

これは、人事でも同じです。大企業が求めている優秀とされている人材と、中小零細企業ベンチャー企業が求めている優秀な人材は違います。
その為、大企業で優秀だった人間がベンチャーに行くと無能扱いされてしまうこともありますし、ベンチャーで優秀だった人が大企業に行くと力を発揮できない可能性も高いです。
人事も経営の中の一つですが、これも、会社の規模によって変わってきます。

この様に経営というのは、規模にあった戦略を選んでいかなければ、うまくいきません。

では次に、会社の規模について詳しく見ていきます。会社の規模やステージといわれるものは、大きく4つに分かれます。 専門用語を使ってその4つを挙げていくと、起業家段階・共同体段階・公式化段階・精巧化段階の4つに分かれます。
この4つは、また別の機会に詳しく話すと思いますが、簡単に説明をすると、起業家段階から精巧化段階に向けて起業が成長して大きくなっていきます。

このコンテンツのターゲットとしては、主に、起業家段階と共同体段階の企業が中心となります。
この、起業家段階と共同体段階というのを、別のわかり易い表現で行うと、中小零細企業や、これから起業しようとしている方といった、比較的小さな組織となります。
つまりこのコンテンツは、繰り返しになりますが、小規模の事業を行っている方を対象にしたコンテンツとなります。

配信する目的

次に、配信する目的ですね。
今の時代、情報をタダで配信すると情報商材でも売りつけられるのではないかと警戒されたりするので、目的を最初に明確にしておきます。これは3つあるのですが、まず1つ目から言いますと…経営者や起業家の仲間が欲しいからです。
今のネット社会というのは、誰とでも簡単に繋がれて、個人間の取引も簡単に行えたりしますが、その一方で関係性が希薄になりがちですし、信頼関係も築きにくい状態になってたりします。

個人的には、この様な状態というのが、面白くないんです。 信頼し会える人たちと出会いたいし、一緒に仕事の話なんかをしたいんです。
私も含めて、小さい規模で経営している事業者というのは、単独では出来ることが限られていたりするんですが、いろんな業種の方が一つの場所に集まることで、1社では出来なかったことが実現できたり、思いつかないようなアイデアが出てきたりすると思います。
そういったアイデアを実際に形にして、実現していけるような仲間が欲しくて、このコンテンツを立ち上げました。

『異業種交流回にでも行けば良いのでは?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは私自身の勝手な思い込みや決めつけなんですが、そういった場所はどことなく、ナンパなイメージがあるんです。
私自身は警戒心が強いほうなので、そういったものに参加するだけで、簡単に仲間が作れるとは思えないんですね。
なので、こういうコンテンツを通して、長いスパンで経営に興味がある人達と繋がりたいと思ったのが、1つめの理由です。

2つ目の理由としては、本業の売上につなげるためです。
繰り返しになりますが、私の仕事は紙箱の製造をメインにしていますが、この仕事というのは、相手をあまり選びません。
今現在は、和菓子屋さんを中心とした得意先の構成になっていますが、紙の箱は使おうと思えば業種を選ばず使えるものです。

例えば、酒の小瓶を入れる箱を受注したこともありますし、飲食業の方から、調味料を販売する際に箱に入れて売りたいからといった感じで受注をもらったことも有ります。
その他には、個人の方から結婚式の引出物を自分たちで選んで、それを箱に詰めて配りたいという相談を受けて箱を作ったことも有ります。
この様な感じで業種を選ばないため、多くの方と知り合いになることで、私の本業の売上が上る可能性があるからです。

つまり、このコンテンツ自体が経営戦略の一つなんですね。
紙箱というのは差別化するのが難しいので、何も行動を起こさなければ価格競争になってしまいます。
その結果、同業他社はどんどん潰れていって、今現在、箱屋の数そのものが急激に減少してきている状態です。

その中で生き残ろうと思うと、価格競争から脱出しなければならないんです。
では、どの様に商品に付加価値をつけていくかといえば、『この人から商品を買いたい!』と思ってもらうしかありません。
そう思ってもらうために、かなりの時間を使って学んだ知識を、出し惜しみすること無く吐き出していこうと思ったのが2つ目の理由です。

最後の理由は、自分自身の勉強のためです。
経営についての勉強をして思ったのですが、この分野の勉強というのは、本を読んで知識を得たから経営がうまくなるといったものではありません。
冒頭で、経営コンサルタントの国家資格の勉強をしたと言いましたが、仮にこのペーパーテストに合格したとしても、経営コンサルタントにはなれません。

何故なら、この手の勉強というのは、実務と結びついてはじめて、生きた知識になるからです。
つまり、問題を見つけて課題を設定して、それを乗り越えた経験を得てはじめて、生きた経営の知識になるということです。
ですが、私自身が自分の会社で出来ることというのは限られてきます。

なので、ある程度のコンテンツが出揃った後に、リスナーの方から質問などを募集して、その相談に乗るといった感じのことをやりたいんですね。
これによってもし、問題が解決されれば、その方は私に好印象を持つでしょうし、私自身も自分の提案に対するフィードバックが得られるので、WIN-WINの関係になると思います。
で、そういった方に最初に挙げたコミュニティーに入ってもらえれば、仲間が増えていくので、良い循環が生まれると思うんです。

そういった事を目的として、これからコンテンツを発信していこうと思っていますので、興味を持たれた方は、チャンネル登録・購読をお願いいたします。それではまた、次回。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第91回【メノン】美しく立派なモノ 前編

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前回はこちら
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今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分に絞って考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

概念の説明

前回の内容を簡単に振り返ると、アレテーを知っているというメノンの主張を深掘りしていくと、メノンはアレテーを知らなかったことが判明し、二人は共にアレテーを探求していくことにしました。
しかし、アレテーについて知らないもの同士で考えていくため、いきなりアレテーについて考え始めても、答えが出そうにありません。
そこで、似たような概念の説明をしてみて、アレテーについて考える取っ掛かりを掴むことにします。

アレテーの代わりに考えることにした概念は、『形』と『色』です。『形』も『色』も、概念としては一つですが、その概念の中には無数のものを含んでいます。
例えば『形』は、その中に円形や三角形や四角形など、様々な形を含んでいて、全ての例を挙げていく事は不可能です。
『色』も同じで、色という概念は一つですが、その概念の中には黒色や赤色や黄色といった様々な色を含んでいます。

『形』や『色』は、概念としては一つだけれども、その中に無数の要素を抱えているという点では、アレテーと似ている部分があります。
アレテーも、概念的には一つだと思われますが、その中には、『美しさ』や『知識』『勇気』『節制』『正義』など、様々な要素を含んでいます。
似たような概念を説明することが出来れば、それと同じ様な説明方法でアレテーも説明できそうですし、メノンが今まで主張してきたアレテーの答えが、どの様に間違っていたのかも分かりやすくなります。

アレテーとは

本来なら、ソクラテスとメノンの2人が、形と色の説明を試みて、どの様に説明すべきかという練習を行うべきなのですが、メノンはソクラテスにさんざん、自分の意見を否定され続けてきたので、この説明をソクラテスだけにやらせます。
メノンとしてみれば、この説明の中で納得出来ないことがあれば、今までの仕返しに指摘してやろうと思っていたのでしょう。

しかしソクラテスは、形を『立体における形とは、立体が終わる所。』と説明し、色の説明を『目によって受け取る情報』と解説して、メノンを納得させてしまいます。
その概念の中に複数の要素を含む、色や形の説明を見事に行ったので、次はメノンが、アレテーの存在を答えなければならないことになりました。

これに対してメノンは、自身の考えではなく、吟遊詩人の歌を引用する形で、『美しく立派なものを欲しいと思い、それを手に入れる力このとだ』と答えます。
この主張は、対話篇のゴルギアスに登場するカリクレスの考えと似た主張となっています。

アレテーは欲望を満たす力

カリクレスの主張は、人間が幸福になるために必要なのは欲望で、欲望を満たした時の満足感が、人を幸福に導いてくれるという主張でした。
その為、人は常に欲望を抱いていないと駄目だし、肥大する欲望はそのままにしておくべきで、決して抑制すべきではない。
欲望を叶えるために動き回る事こそが人生であって、欲望を抑え込んで、何も望まずに静かに暮す人生は、人の人生ではないと言っていました。

メノンとソクラテスが正体を明かそうとしているアレテーも、最終的には、人を幸福へと導いてくれる手段だということは分かっています。
そして、メノンによると、人を幸福へと導いてくれるアレテーとは、『美しくて立派なものを欲しいと思い、それを手に入れる事』のようです。
『美しくて立派なものを欲しいと思う気持ち』は、簡単には手に入らないものを欲しいと望んでいるわけですから、言い換えれば欲望です。

それを手に入れる力をアレテーと呼ぶということは、『欲望を叶える力を手にする事』と言いかえることが出来るので、カリクレスと似たような主張と言えます。
では、この主張は正しいのかについて考えていきます。

美しくて立派なもの

ソクラテスは先ず、メノンの主張は2つに分割できると指摘し、『美しく立派なものを欲する』という部分と、『それを手に入れる力』に分割し、それぞれ1ずつに分けて考えていきます。
まず、『美しく立派なものを欲する』とう行為そのものが、特別なものかどうかについて考えていきます。
『美しく立派なものを欲する』という行為が特別なもので、普通の人間にはなかなか出来ない事柄である場合、大多数の普通と呼ばれる人達は、『醜くて劣ったもの』を欲していることになります。

しかし、少し考えてみれば分かりますが、世の中の大半の人は、『美しくて立派なもの』が欲しいと思っているはずです。

では、『醜くて劣ったもの』を欲しいと思う人は全くいないのかというと、そうではなく、そういった人たちも探せばいます。
例えば、テーブルやイスなどの家具を買う場合、全ての人が、新品の新しいデザインの物を買うわけではないでしょう。 古くて、機能的にも耐久的にも劣っているものを、好んで買う人達がいます。
地震が少ないヨーロッパなどでは、家なども同じ様に、新しく機能的なものではなく、古く劣化しているものを好んで買う人達も多く、そういった物件は数も限られているため、新築よりも高い場合もあるそうです。

では、彼らは、敢えて『醜くて劣ったもの』を購入しているのでしょうか。

相対的なモノの見方

おそらく、古い家具や家を割高な値段で購入している人たちは、古い事を劣っているとは考えておらず、むしろ、そこに価値を見出していると思われます。
製造から長い年月が経って古びたものを、経年劣化したと考えずに、味わい深くなったと解釈して、新たな価値を見出しているのでしょう。
ビンテージの市場というのは家具だけに限らず、車や服など、様々な分野に存在します。 私のような無知な人間からしてみればガラクタにしか見えないものにも、価値を見出す人たちは沢山います。

これは、物以外の人間関係でも、同じことが言えます。 人間には、関わり合いになるだけで被害を受けたり、自分自身が相手の考えに汚染されて悪くなってしまう様な人間がいます。
例えば、反社会的と呼ばれる組織の人たちが、これに当たるわけですが、では彼らは、皆から無視されて完全に孤立しているのかといえば、そんな事はありませんよね。
彼らに自ら近寄っていく人達は少なからす存在するわけですが、その人達は、彼らのことを悪いものだと思って近づいていくのでしょうか。

実際にはそんなことはなくて、反社会的な人たちに近づいていく人は、彼らの背景にある暴力だとか、お金だとか、様々なものに魅力を感じて近づいていくわけです。
暴力を背景に他人を脅して、自分の意のままに動かすことを格好良いことだと思っているし、お金にしても、どんな手段で得られたものかは関係なく、金は金だと思っている。
反社会勢力に自ら近づいていく人は、彼らが持つ暴力性やお金に惹かれ、例え彼らが秩序を乱す者達であったとしても、関わり合いになることで自分には利益がある必要悪と思いこんでいるから、近づいていくわけです。

自分には利益があると思っているわけですから、そんな人達から見れば、反社会的勢力の人たちが持つ暴力や人脈や金は、格好良いもので立派なものに見えているのでしょう。

悪いものを良いものと錯覚する

この他にも、反社会勢力ではなく、体制側にも汚職をする警官や政治家などが存在します。
これまでに、対話篇の『ゴルギアス』や『プロタゴラス』で勉強してきた内容を踏まえると、彼らは、汚職をしているという点に置いて悪であり、醜い存在といえますが、そんな彼らに近づいていく人達も存在します。
善悪を見分ける能力があり、理性を宿している人間であれば、醜くて劣っている彼らには近づかないはずですが、警察官にしても政治家にしても、汚職が成立するということは、彼らに近づいてお金を渡して仕事をさせる人たちがいるわけです。

では、汚職警官や政治家に近づいていって金を渡し、関わり合いを持とうとする人たちは、何故、わざわざ『醜くて劣ったもの』に近づくのかというと、そうする事が自分の利益になるからです。
人に近づいていって汚職をさせようとする人間は、どの様な手段であっても金が稼げたり、自分が有利な状態になれればそれで良いと考えているような人たちです。
彼らからしてみれば、自分ができないようなことをやってくれる汚職警官や政治家の力は素晴らしいものだし、立派なものだと考えているでしょう。

これは、犯罪者達にも当てはまります。 老人宅に電話をかけてオレオレ詐欺をする若者たちは、どんな願いでも叶えてくれる『お金』そのものを、『美しく立派なもの』だと思いこんでいます。
その『美しく立派なもの』はどの様な手段で手に入れても良いと思っている。 だから、他人を騙して奪い取ろうとするわけです。
何なら、高度成長時代やバブル期に現役時代を過ごし、労せず大金を手に入れた彼らから、恵まれない世代の自分たちが金を奪うことは、良い事だとすら思っているかもしれません。

【Podcast原稿】第90回【メノン】『形』と『色』という概念とは 後編

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縛りプレイ

この難癖については、さすがのソクラテスも少しカチンときてしまい、『君は、対話に来ているのか、それとも口喧嘩で勝ちたいだけなのかどっちなんだ?』と言ってしまいますが、すぐに冷静さを取り戻して、メノンの要望を聞き入れます。
そして、次は『色』という言葉も使わずに、『形』の説明を行います。

ソクラテスはメノンに対して、『終わり』や『限界』『末端』といった言葉を理解しているかどうかを尋ねて、メノンがこれらの概念を知っている事を確かめます。
そしてその後、『立体における形とは、その立体が終わる所、その立体物の限界を表している』と説明します。

少し分かりにくいかもしれないので、説明を加えると、立体には、立体である部分と立体ではない部分の境目、境界線が存在し、その部分は手で触れることで確かめることが出来ます。
例えば、目の前にサイコロが有ったとして、サイコロである部分と、サイコロの外側の部分には境界線が有って、その部分に手が触れる事で、手はサイコロの感触を得ることが出来ます。
つまり立体における形とは、手で触れて確かめることが出来るものということになります。

今回の質問が『形』全体についての説明なのに、立体物だけに絞って説明しているのは、色という概念を使ってはいけないという縛りがあるためです。
その為、手で触れる感触というのを、立体の限界として説明しています。 ですので、紙に印刷した四角形であったり円形などのプリントされた形というのは、この説明文では除外されています。
何故なら、紙に印刷された形を手で触れることで読み取ることは出来ないからです。 2次元の形を認識するためには、最初の説明文の様に『色』を使わなければなりません。

この説明文も、先程の説明文と同じ様に、説明しようとしている概念が説明文の中に入っていない為、『形』という概念を知らない人が聞いたとしても、『立体物の限界』という言葉が理解できれば、形の概念が理解できることになります。
また、三角形や四角形や、言葉では言い表すことが出来ないような複雑な形なども全て、例外なく、この説明文だけで説明できる事になります。
メノンは、この説明に納得したのかしていないのかは分かりませんが、この答えを聞いてすぐに、『じゃぁ次は、色の説明をしてください。』と言い出します。

物体が存在するとは

順番的には、メノンが説明の仕方を実践してみるターンですが、メノンは『アレテーとは何か』を質問された際の返答で散々ダメ出しをされているので、ソクラテスにも似たような体験をさせたかったのかもしれません。
ソクラテスは文句を言いつつも、次は『色』の説明に入りますが、ただ、先程の説明が思ったよりもウケが良くなかったので、今度はメノンに気を使って、メノンが好きそうな回答を試みます。

『色』を考える前に、先ず、物体の存在について考えます。 物体が存在している状態とはどういう状態なのかというと、その物体とされている物から何らかの情報が常に垂れ流されている状態の事です。
例えば、物体が実態として存在している場合、光がその物体に当たると、特定の色だけが吸収されて、吸収されない光は反射されて、その物体は吸収しない光を反射という形で垂れ流すことになります。
また実態である場合は、観測者が身体で触れるなどして、感触として物体の情報を得ることが出来ます。

その物体が、何らかの物質を発散させることで匂いを放っている場合は、匂いという情報を垂れ流していることになります。
その物体自身が動くことによって、何らかの音を垂れ流す場合もあるでしょう。 

この様に、物体が存在するということは、その物体が何らかの情報を垂れ流しているから存在していることが認識できるわけで、様々なセンサーを使ったとしても情報が得られないものは、存在しているとは断言できません。

観測できないものは存在していない?

例えば、オカルト vs 科学などの番組で、科学サイドが幽霊の存在などを否定するのは、幽霊が客観的な立場から観測できないからですよね。
人間には感知できないような電磁波や音波を感知できるセンサーを使ったとしても、対象となる幽霊を観測できない場合は、それが存在しているとは確定できないから、論争になるわけです。

逆にいえば、存在していると確定しているものは、何らかの方法で存在を認識できるだけの情報が、その物体から垂れ流されているモノのことです。
ですが、情報が垂れ流されているだけでは、感知することは出来ません。 人に、その情報を受け取る為の器官がなければ、人は物体からの情報を得ることが出来ずに、認識することは出来ません。

人には、自分の外側の世界からの情報を受け取れるように、様々な器官が備わっています。
例えば、耳は音を感知しますし、鼻は匂いを感知します。 口は味を感じることが出来ますし、肌は振れた感触を感じることが出来ます。
そして、目が感じることが出来る情報が、色です。 人は、目から入った光を色として処理して、光の違いを色の違いだと認識しする。 つまり色とは、目から入った情報を認識するものとして説明できます。

難しい説明を好む人達

メノンは、ソクラテスが行った小難しい説明を聞いてテンションが上り、目を輝かせながら『こういう説明が聞きたかった!』といった感じで感心します。
人間は誰しも、その分野に入りたての頃は、専門用語を多用する、一般人には伝わりづらい表現のことを、格好良いと思いがちですし、他人が理解できない言葉や文章を理解できると、優越感を感じたりもします。
もっと簡単な説明ができるにも関わらず、敢えて難しい言葉づかいをすることで、自分がすごい人間であることを演出する人もいます。

ここで取り扱っているメインテーマの哲学も同じで、日本の哲学書は、本当に日本語で書かれているのかと思ってしまう程に、難しい言い回しで書かれています。
まるで哲学書を読む目的が、本を読んで内容を理解することではなく、小難しい本を読んでいる自分は格好良いと思わせるためだけに書かれているんじゃないかと思うほどに、よくわからない書き方がされています。
哲学書というのがあまり読まれず、哲学という分野がマイナーになっているのは、哲学書全般が難しく書かれすぎているというのも、それなりに大きな原因なんじゃないかとすら思ってしまいますが…

その一方で、この様な難しい書き方を好む人達も一定数存在します。 現代に発行されている哲学書も、資本主義経済の下で執筆されているので、需要がなければ、敢えて難しく書くなんてことはしないでしょう。
おそらくですが、哲学書はその様な層に向けて書かれているので、無駄に難しくなっているようにも思えてしまいます。

誤解のないように付け加えておくと、自分の言いたいことを正確に伝える為に言葉を厳選した結果、回りくどい言い回しになったり、専門用語を使った結果として、難しくなってしまうというケースもあります。
これは仕方のないことで、その様な本を読むためには、その本を理解するための前提の知識を手に入れるために、前提として読んでおかないといけないと言われている本を順を追って読むことが必要になってくるというのは、仕方のないことなのですが…
そういった理由だけで、難しく書かれているとは思えないんですね。

簡単な説明こそ価値がある

というのも、今回取り扱っている『メノン』にしてもそうですが、プラトンが初期に書いた対話篇というのは、哲学の専門家に向けて書いているというよりも、哲学に馴染みがない人たちに向けて書かれているように思えるからです。
『メノン』や『ゴルギアス』や『プロタゴラス』などの対話篇にはストーリーが有り、その中の登場人物たちが対話をするという形式で書かれています。
登場人物の中には、市民が常日頃から思っていることを言語化して、討論に挑んでくるキャラクターも登場します。

ゴルギアスに登場したポロスやカリクレスの主張は、世間一般の人達の感覚に近いものですが、その感覚からでてきた理論をソクラテスにぶつけることで、本当の正義や勇気や幸福について考えるように誘導しています。
この様な構造になっているために、プラトンがこの作品を書いた時に想定していた読者というのは、哲学者や研究者ではなく、普段は哲学に興味を持たずに生活しているような一般人だったと思われます。
一般人に向けて書かれている本なので、小難しい単語も使わずに、出来るだけ簡単な言葉で説明しようとしていることが、内容を通して伝わってくるのですが…

それが日本語訳されると、人によっては読む気が失せてしまう程に難しくなってしまいます。
何故この様になるかというと、先程も言ったように、この様な難しい書き方を好む人達が一定数いて、その人に向けて書かれているからなんでしょう。

若くしてゴルギアスの弟子になって勉強してきたメノンもこれと同じで、同じ様な説明である場合は、より難しい説明の方が格好が良いと思っているし、その会話に参加している自分自身も格好いいと思い込んでいるんでしょう
しかしソクラテスは、説明としては、誰が聞いてもすぐに分かるような簡単な説明のほうが優れているとして、形を説明した際の『色を伴って現れるもの』という説明のほうが優れているとします。

話がそれてしまいましたが… この、『色』と『形』の説明の仕方によって、概念をどの様に説明すればよいのかがわかったので、次からは再び、『アレテーとは何か』の説明に取り組んでいくことになります。

【Podcast原稿】第90回【メノン】『形』と『色』という概念とは 前編

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今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

概念の説明

前回は、アレテーとはどういうものかを知っていると思い込んでいたメノンに対し、ソクラテスが厳しい追求をした所、とうとうメノンが折れて、『私はアレテーと言うものを理解していないかもしれない』と認めさせることに成功し…
その後、ソクラテスが自分の無知を受け入れたメノンに手を差し伸べて、共に考えていくという所まで話しました。
今回は、その続きとなっています。

2人は共にアレテーについて解明しようとするのですが、何のヒントもない為に、どの様に解明していけばよいのかがわかりません。
ということで、先ず、話の取っ掛かりを見つけるために、アレテーと同じ様な根本的な概念で、皆が分かっていると思いこんでいるけれども、実際にはその概念について考えたことが無いようなものについて、説明をしてみようということになります。
何故、このような事が必要なのかというと、現状では、アレテーという概念の説明の仕方が分からないからです。

メノンは、ソクラテスのアレテーとはどの様なものかという質問に、答え続けているわけですが、ソクラテスは自分の思っている答えではないとして受け入れません。
回答する側にしてみれば、どの様に答えれば良いのかという答え方の具体例がなければ、相手が求める形式での答えを提供することは出来ません。
また、その回答を自分が持っておらず、これから考える場合においても、答えの方向性が分からなければ考えようもありません。

そこで、正しい答え方の例を示すために、身近にある別の概念を使って、その答えを導き出す事で、アレテーについて考えやすくしようというわけです。
身近にある概念の説明といっても、固有名詞であったり、イメージが固定化されているようなものは説明しても意味がないので…
ここで取り扱う概念は、幅広く様々なものに宿っていて、一つの概念となって皆が知っていると思いこんでいるけれども、いざ説明しようとすると答えに困ってしまう、『色』と『形』の概念です。

『色』の説明

この世に存在する多くのものは、形や色を伴ってこの世に存在しているわけですが、では、形や色は一言で説明できるのでしょうか。
『形』には、様々な形が存在します。 円形であったり三角形であったり四角形であったり正方形であったり。
この様にしっかりと定義できるものばかりではなく、フリーハンドで適当に書いた、言葉では説明ができないような物も、形には違いがありあせん。

色も同じで、色には無数の色があります 原色と呼べれているような基本的な色から、それらを混ぜ合わせた、名前もついていないような色まで。
色というのは配合が可能なので、沢山の絵の具を買ってきて自由に配合すれば、それこそ無限の色が生まれてしまいます。
『形』や『色』は、それぞれの概念の中に無数のものが含まれますが、では、『色』や『形』はどの様に説明すべきなのでしょうか。

例えば色の説明の場合、自分の目の前に黒いスピーカーが有ったとして、それを指さして、『これは、色の中でも黒い色です。』といって説明する行為は、説明になってるのでしょうか。
その方法で説明した場合、説明を受けた側が少し離れた位置にある赤いポストを指さして『ではあれは、色では無いんですね?』と質問してくるかもしれません。
それに対して『あれは、赤色という別の名前の色で、色に含まれる。』と答えても、その次の瞬間には、指を空に向けて『じゃぁ、あれは色じゃないんですか?』と聞いてくるでしょう。

質問者は、いろんなものを指さして『あれは色じゃないんですか?』と質問を繰り返し、アナタは、その度に『あれも色です。』と、対象となっているものが何色かを説明することになります。
この様な答え方というのは、色の説明をする際に『【色】とは、赤色や青色や黄色や白色や、それらを混ぜ合わせた色全般のことである。』といっているのに等しいわけですが…
その説明を聞いた質問者は、『私は、色というただ一つの概念の説明が聞きたいだけなのに、何故、質問する度に色が増えていくのですか?』と、不満を漏らしてくるでしょう。

色の説明で色を用いてはいけない

そもそも、『色』という概念の説明をする際に、赤色や青色といった『色』を含む概念を例に出して説明するには、無理があると思われます。
何故なら、質問者は『色』という概念が分からないから質問しているのに、返ってきた答えが『あのポストは赤色です。』という答えだった場合、『だから、その赤い『色』って何?』となってしまいます。
色を説明する場合は、『色』を使わない方法で説明する必要があります。

また、この流れは、ソクラテスがアレテーというただ一つのことを質問したのにも関わらず、その答えとして『知識』や『節制』『美しさ』『勇気』などを含むものという返答が帰ってきているのと同じ状況です。
アレテーという概念そのものがわからない人間が、アレテーの構成要素を答えられても、大本の概念は理解できません。
色の説明に赤色という例を使っては駄目なのと同じ様に、アレテーという概念の質問に対しては、アレテーを構成している要素で答えてはいけないということです。

同質の概念を含まない説明

概念や単語を説明しているものとして、辞書がありますが、その辞書を制作する過程を物語にした、『舟を編む』という作品があります。
漫画原作で映画化もされている作品ですが、その作品の中で『右』という概念をどの様に説明するのかというシーンがあります
『右』というのは、『左』という概念の逆のものですが、『右』が分からない人間は当然のように『左』もわからないと思われるので、説明として『右とは左の逆方向』というのは不適切となります。

では、どの様に説明すべきなのかというと、左右という概念を使わずに説明する必要があります。
この作品の中では、『右』という概念の説明を、『自分が北側を向いた際に東に当たる方向が右』という風に表現していますが、この説明の場合では、左右という概念がわからない人間でも、東西南北の概念が理解できていれば、左右を理解することが出来ます。
『色』という概念の説明も同じで、『色』の概念がわからない人に説明をする際には、その説明の中で『色』という概念を使ってはいけません。

これは、『形』という概念を説明する場合でも同じです。
三角形や四角形は、三角という形であったり四角という形なわけですが、これらを『形』を表現する際の説明として使ってしまうと、説明としては成り立ちません。
三角形や四角形や円形といった、形という概念を含んでいるものを利用ししないで説明する必要があります。

ソクラテスによる形の説明

では、形や色を、どの様に説明をするのか。 今まで散々、メノンに対して厳しい追求を行っていたソクラテスが、手本を見せる形で解説を披露します。

ソクラテスによると、『形とは、常に色を伴って存在するモノのこと』と言います。
例えば、空気は私達の身の回りに存在していますが、空気そのものを観ることは出来ない為、空気の形は認識することが出来ません。
私達が形を認識する際には、その形は何らかの色を伴っているからこそ、その形を認識できるわけです。

『水は透明じゃないか』というツッコミが入るかもしれませんが、私達が、雨粒やコップに入った水を認識することが出来るのは、その透明のはずの水と空気とを明確に分ける色の差が有るからです。
光の屈折であったり反射であったり、とにかく、周りと違う色を放っているから、水を認識することが出来るんです。
3次元のものであっても2次元のものであっても、形というのは色を伴っているからこそ、認識できるというわけです。

この説明は、先程、言ったように説明文の中で『形』という言葉を使っていません。 その為、説明文の中に出て来る色を認識できる人であれば、この説明で形というものがどういうものかを想像することが出来ます。
しかしメノンは納得せず、この回答に難癖をつけます。 言い分としては『その説明では色という概念を知らない人には、形という概念が理解できない。』というものです。
つまりメノンは、今の議論の前提としては、色と形が分からないという状態なんだから、形の説明文の中で形を使わないことはもちろん、色も使うなと言ってるわけです。

【Podcast原稿】第89回【メノン】メノンが考えるアテレー 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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アレテーを宿す人

では、アレテーを宿した人が人々の前に現れたとしたらどうでしょうか。 アレテーとは卓越性や優れているとか徳といった言葉で表されるものですが…
徳が高く、他の人間よりも遥かに卓越した優れた人物が眼の前に現れて、それを前にした貴方自身も相手の優位性を認識できた場合、その人物が何かいえば、その人の言うとおりに動かないでしょうか。
その人物が、『アナタの取るべき行動はこれです。』と主張した場合、自分よりも遥かに優れた人間のアドバイスを聞き入れようと思うのではないでしょうか。

弁論術によって説得した人間も、アレテーによって自分の方が優れていることを納得させた人間も、結果だけを観れば、相手を自分の思い通りに動かせていることには変わりはないので、この2つを混同したのかもしれません。
しかし、人を思い通りに動かすというのは、果たして支配している事になるのでしょうか。

下のものが上のものを支配できるのか

例えば、アレテーを宿す優れた子供がいたとして、その子供は、親を支配して意のままに操ることが可能なのでしょうか。
古代ギリシャの奴隷は、単純労働だけを行う者ではなく、優れた知識を生かして働く者もいましたが、この奴隷が正義と節制という前提を宿し、アレテーをも宿していたとして、主人を意のままに支配することが出来るのでしょうか。
卓越した優秀な兵士は、自分の上官である将軍を支配下に置いて、コントロールすることが出来るんでしょうか。 卓越した役人は、一国の王を支配下に置いて自由に振る舞うことが出来るんでしょうか。

これは、絶対に出来ないとは言いませんが、ここまでの状態にする事は、相当難しいと思います。
優秀であるけれども立場的に弱い者と、無能だけれども立場が強い者という関係性の場合は、大抵、無能な上司の方が支配を強めようとします。
下の者の意見は、優秀な意見であれば採用される機会は増えるでしょうけれども、それがそのまま『支配する』事になるのかどうかと問われれば、微妙に違うような気もします。

ただ、絶対に不可能というわけでもないでしょうから、メノンの主張通り、アレテーとは人を支配する能力だという事で話を進めると…
人を支配する際にも、そこには前提として正義と節制が必要となるでしょう。
人は様々な方法で支配し、また、されるものですけれども、支配が可能だからといって、暴力で脅したり、子供を人質にとったり、不正に手を染めるといった方法で支配するのは、アレテーが宿った行動とは言えません。

支配者=卓越者ではない

また支配を行っている間も、支配者は自分自身の欲望を抑え込んで、支配しているものを正しい方向に導く為に調整をすべきです。
その為、『支配を行う』または、『支配を行っている』という結果でもって、『支配できているんだから、支配者にはアレテーが宿っている』とすべきではないでしょう。
何故なら、アレテーによって人を支配する時の前提となっているのが『正義』と『節制』だからです。 もし前提条件を無視してしまえば、支配者層は自動的にアレテーを宿した卓越した人になってしまいますからね。

支配者が全てアレテーを宿した卓越した人であれば、不正などは犯さないはずですし、その共同体に属している人々は幸せになっているはずですが、現実を観ると必ずしもそうはなっていないので、支配者=アレテーを宿す者ではありません。
以上のことを踏まえると、純粋なアレテーを定義するためには、前提条件が必要で、それは『不正行為に手を染めずに、正しく支配する場合に限ってであり、不正な手段で支配する場合には、その支配はアレテーを宿さない。』というモノになります。

メノンは、これまでのソクラテスの推測に同意し、アレテーに関わる『正義』や『節制』などの前提条件は、2つだけではなく、まだ有るのではないか? として、他に『勇気』『節度』『知恵』『堂々たる度量』を付け加えることを提案します。

1つの概念の答えが多数あるのか

しかしこの提案に対してソクラテスは、不満を漏らします。
ソクラテスからしてみれば、『アレテー』というただ一つの概念の意味を知りたいだけなのに、『正義』や『節制』だけでなく、『勇気』や『節度』や『知恵』などの様々な要素が新たに出てきて、更に複雑になっていっているからです。
そして再び、『全てに当てはまる、ただ一つの概念であるアレテーとは何か。』をメノンに対して質問してきます。

ただ、このソクラテスの主張には、正直な所、疑問を感じてしまいます。というのも、『アレテーをシンプルに説明できる』と主張するソクラテス自身が、アレテーとはどの様なものか、想像すら付いていないからです。
ソクラテスは自分自身で何度も言っている通り、彼は無知であるが故に、アレテーとはどの様なものかが分からない人物です。
どの様なものかが分からないという事は、アレテーがシンプルに説明できるものなのか、複雑なものなのかも分かっていないはずです。 にも関わらず、複雑ではないと断言するのは、シンプルであって欲しいという願望に過ぎません。

これは、シンプルに説明出来るはずという決めつけによって、議論を誘導しようとしているようにも思えてしまいます。
自分の知らない未知のものを前にした際には、とりあえず分かりそうな部分ごとに分解して、その物事の構造を理解しようとするのは、一つの方法として間違っていないと思われます。
未知のものが物質である場合は、それを分解していけば良いわけですが、概念のようなものである場合は、実際に手にとって分解することは出来ないので、どの様な材料から出来ているのかを推測することも有効な手段でしょう。

しかしソクラテスは、その手段をも否定して、メノンがアレテーというものが出現するためには複数の前提条件が有るかもしれないと言い出すと、それを否定します。
未知なものに対しては手探り状態なわけですから、理解できそうな部分から攻めていくしか無いわけですし、その結果として複雑になりそうであったとしても、他に道がないなら、とりあえずその方向で考えていくしかありません。
それを否定されてしまうと、結構つらい状態に追い込まれますよね。

卓越しているとは

また、メノンがソクラテスの意向に沿ってシンプルに答えたとしても、ソクラテスは納得しなさそうです。

アレテーとは何かという質問に、他のものよりも『卓越している』事と答えたとしても、『何に対して優れているのか』とか、卓越しているとはどういう事かを聞いてくるでしょう。
それを考える為には、様々なケースで『卓越している』状態というのを考えていくのも、一つの方法としては否定されるものではないでしょう。
例えば、運動能力や手足の長さなど、生まれ持った肉体やセンスによって他のものを圧倒する人は卓越した人と呼ばれるが、肉体的な才能に恵まれていなても、他の要因で卓越していると尊敬される場合もあります。

数多くのケースを上げて、それぞれに共通している部分を見つけ出すことで、『卓越している』という言葉の説明を見つけるというのは、先程ソクラテスが行いましたよね。
メノンが男性や女性などのそれぞれの理想像を上げてアレテーを複数上げた時に、その共通点を見つけ出して、今現在の『アレテーとは支配する事』について話し合ってるわけですからね。

この様に、様々なケースを挙げて考えていく過程で、『「卓越している」というただ一つの状態について聞いているのに、何故、そんなに沢山の答えが出てくるのか。』と横槍を入れられてしまえば、考えることができなくなります。
ソクラテスが明確な答えを持っているのであれば、誘導の意味も込めて物言いを付けるのも分からなくはないですが、ソクラテスがアレテーの本質を分かっていない状態での物言いは、どうなのかなと思ってしまいますが…
彼が何故、ここまで強引なまでの責めを子供に対して行ったのかというと、メノンは、この時点でまだ、『アレテーについて理解している』と思い込んでいるからでしょう。

メノンは実際にはアレテーの意味を見失い、わからなくなっているからこそ、前提条件を後から付け加える。 それも断言ではなく、推測で『前提条件かもしれない』という事を言っています。
態度としては、アレテーについては分からない者の振る舞いなのに、メノン自身は心の奥底ではアレテーを理解していると思い込んでいるので、『その事柄については知らない』事を自覚させる為に、強引に責め立てたのかもしれません。
この責に対してメノンは、ついに、『自分はアレテーを知った気になっていただけで、実際には知らないかもしれない。』と認めます。

メノンが自分の無知を認めたところで、ソクラテスは再び『共に、アレテーについて考えていこう。』と手を差し伸べます。
そしてこれ以降の展開では、メノンはソクラテスと共に再び、『アレテーとは何か』について考えていくわけですが、この続きは次回にしていこうと思います。

【Podcast原稿】第89回【メノン】メノンが考えるアテレー 前編

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今回も前回と同じ様に、プラトンが書いたメノンの読み解きを行っていきます。
著作権の関係から、本を朗読するわけではなく、私が読んで重要だと思った部分を取り上げて考察する形式になっていますので、興味のある方は、ご自身で本を読まれることをお勧めします。

前回の振り返り

前回は、ゴルギアスにアレテーを教えてもらったと思い込んだ弟子のメノンが、ソクラテスにマウントを取りに来るも、それに失敗し、自分自身もアレテーの意味を見失ってしまうという話をしました。
メノンがいうには、アレテーとは、男や女、子供や老人などそれぞれの立場ごとに存在するとのことでした、男には男の理想があるし、女性には女性の理想像があり、子供や老人にも、それぞれの理想像がある。
しかし、ソクラテスが求めているのは、人間に共通に宿るアレテーです。 理想的な状態そのものを宿すにはどうしたら善いのかを聴いているのに、人それぞれに理想があると言われても答えにはなりません。

ソクラテスがその事を指摘すると、メノンは自分がアレテーを理解できていなかった事を悟るのですが、分からないなりにも、人それぞれの立場ごとにアレテーは存在すのではないかと言います。
それに対してソクラテスは、『では、一緒にアレテーについて考えていこう。』2人で一緒に考える事になりました。

ただ、アレテーについて考えるとはいっても、メノンを論破したソクラテスの方には何も考えがありません。
当然ですよね。 何故ならソクラテスは、アレテーとは何かを知らないと公言している人物なんですから。

ですが、それでは前に進まないので、メノンの主張をとっかかりにして考えていくことにします。

メノンの主張

メノンの主張では、成人男性のアレテーとは、国家公共のために尽くして、国を良く治めること』でした。
その他の、『上司や目上の人に媚びて人間関係を広げる』とか、『同じ考えの友人を大切にして、反対意見の者を敵対視する』というのは、先程のアレテーを成し遂げるために必要な手段と考えて良いでしょう。

一方で成人女性のアレテーは、国を良く治める為に外で働いている男性に変わって、『家を守り、良く治めること。』でした。
子供や老人のアレテーについては、メノンが具体例を挙げていないので、ここは一先ず置いておいて、具体例が上がっている部分にだけ焦点を当てて考えていくことにします。
アレテーと言うものが、全ての事柄に対して同じ意味を持つ共通の概念であるとするのなら、この両者は、何かを『良く治めること』という部分で共通している事になります。

という事は、共通している『よく治めること』という考えを深掘りしていくことで、アレテーに辿りつけるかもしれません。ソクラテスは、早速、この部分を深堀りしていく事にします。
まず基本的な事として、『良く治める』為に必要なのは何でしょうか。 メノンは、成人男性のアレテーを語る際に、単純に『国を治める力』とは言っていません。
『国を、良く治める』と言っています。

ソクラテスは、この『良く』という部分に着目し、国を良く治める為に必要になるのは、正義であり、その正義を実行するために必要なのは、自分自身の欲望を抑え込む節制ではないのかと推測します。
そして一応の結論として、何らかのものを『良く治める』ために必要なのは、正義と節制ではないかと主張します。

では何故、この2つが必要なのかを、少し考えていきましょう。

『善く』治めるとは

国を『良く』治めるのではなく、単に納める場合は、様々な治め方が存在します。
前に取り扱った対話篇の『ゴルギアス』に登場したカリクレスは、どんな手を使ってでも権力を手に入れるべきだと主張していましたが、何故かというと、それが個人の幸福につながるからでした。
誰にも裁かれることのない様な絶対的な権力さえ手に入れれば、不正は行い放題だし、気に入らない奴からは自由に財産を奪ったり殺したり、国から追放することが出来る。

そうすることによって、自分が住みやすい環境を手に入れることが出来て、幸せになることができると主張していましたが、このカリクレスが主張する『国の治め方』は、良い治め方とは言えませんよね。
カリクレスは、自分の幸福の追求の為に、欲望を抑え込まずに叶え続ける道を示したわけですが、それは、他人から見ると迷惑でしかありません。
その国に暮らす大半の人間が迷惑に思っているのに、国という組織の上層部だけが甘い汁を啜っている様な状態は、とても良い統治とは言えないでしょう。

これは、家庭を治めるという事についても当てはまります。家を治めるべき人が、自分の欲望を満たすことだけに夢中になっていれば、それは良く治めているといえるのでしょうか。
性欲が赴くままに浮気をして、家庭を運営するために預かったお金をパチンコに使うような人がいた場合、自由気ままに振る舞っている『その人、個人』に限っていえば、良いことだし幸福だと思うかもしれません。
しかし、その家庭内に子供がいた場合、その子供は幸福になれるんでしょうか。

現代では、女性が働きに出て、男性が家に入るということもあるでしょう。
この家に入った夫が、家族に暴力をふるって支配するような人物だったとしたらどうでしょう。 実際に暴力は振るわなくとも、それを背景にして自分の考えを相手に押し付けるような人もいます。
この様な人は、家庭内では王様を気取って自由に振る舞えるかもしれませんが、そんな人物に支配されている家庭に属している人は、自分が置かれている環境を幸福だとは思わないでしょう。

人を支配する力

では、他人から見ても、そして、国や家族に属している人達にとっても幸福な国や家庭とはどのようなものかというと、正義を重んじて、自分の勝手気ままな欲望を抑え込める精神を持った、立派な人間が治める状態です。
統治者が、自分自身の勝手気ままな欲望を制し、組織を正しい道へ導こうと行動することで、その組織は良い方向へ向かうことになり、『良く治められている』事になります。
この『正義』と『節制』は、何かを良く治めるという役割を負っていない、老人や子供の行動にも当てはまります。

全ての人間がとる行動は、正義や節制が前提として宿っていなければ、立派な行動にはなりません。
では、正義や節制が前提条件となる、全人類に共通するアレテーとは、一体どのようなものなのでしょうか。
これに対してメノンは、『人を支配する能力だ』と答えます。

この答えは、メノンの師匠であるゴルギアスの考えに近いものがあります。
全く同じではなく『近い』という表現をしたのは、対話篇のゴルギアスに登場するゴルギアスという弁論家は、アレテーではなく、弁論術を身につけることによって得られる能力として、『人を支配する事が出来る』と言っていたからです。
自身がタイトルになっている対話篇に登場するゴルギアスは、ソクラテスとの対話によってアレテーを知らないことを気付かされますが、自身が教える弁論術の能力として、『人を支配する能力が身につく』と説明しています。

メノンは、この弁論術の能力とアレテーとを混同している可能性があります。というのも、最終的な結果だけを観ると、似たような結果になるからです。
ゴルギアスによると、弁論術とは説得を生み出すもので、例え自分自身に専門知識がなかったとしても、様々な演出によって相手を説得してしまえば、自分の意のままに操れるし相手の能力も手に入れられると言っていました。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第88回【メノン】ゴルギアスの弟子メノン 後編

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1つの質問に無限の回答

しかしソクラテスは、この意見を受け入れません。 何故なら、ソクラテスが知りたいのは『人が宿すアレテー』であって、大人や子供や老人や男女といった、それぞれ別々の理想像ではないからです。
自分の体にどのようなものを宿せば、人間として優れて卓越したものに成れるのかという、たった1つの事を知りたいのに… メノンの答えは1つの答えではなく、沢山の答えが出てきてしまいました。
まぁ… 聞く人によっては、このメノンの答えでも良いのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが…

では何故ソクラテスは、メノンの答えが気に入らなかったのでしょうか。
それは、この様な答え方の場合には、無尽蔵にアレテーというものが量産されてしまうからです。

今回のメノンの回答では、人間を性別の違いや年齢の違いでざっくり分けただけに過ぎませんが、この分類は、行おうと思えばいくらでも細分化が可能です。
例えば、金持ちと貧乏人で分けるとか、人脈の広さ。 今でいうなら、SNSのフォロワー数で分けるとか、顔の造形美。 その他には、人種や身体的特徴などです。
人を肌の色でざっくり分けるというのも、更に細分化が進めば、髪の色や瞳の色や体格によっても細分化されるかもしれません。

そうなると、優秀な黒人の条件は… とか、白人の中でも赤毛の人間は、こうあるべき。 といった感じで、際限なく、アレテーが増えていく事になりかねません。
当時のギリシャは日常生活に必要な労働を奴隷に押し付けていましたが、主人や奴隷といった考えは、この地球に元から存在した普遍的な価値観というよりも、人間が後から生み出した価値観です。
人間が文明を持ってから、新たに生み出した主人や奴隷といった価値観に対して、優れているだとか劣っていると言えるのであれば、労働者のアレテーや貴族のアレテーなど、新たに価値観を生み出していくことで、人間を無限に分類することが出来ます。

もっと極端な話をいえば、今、コンテンツを通して話をしている『私』と、このコンテンツを聴いているリスナー方とでは、話し手と聞き手という意味では立場が違います。
誤解しないで欲しいのは、これは、どちらが偉いかとかそういった話ではなく、単純な立場の違いです。
その立場の違いによって、『優れて卓越している話し手とは、こうあるべきだ。』とか、『善いリスナーは、この様に有るべき』といった感じで分けてしまえるとすれば、人の立場の数だけアレテーが存在することになってしまいます。

1人の人間には、仕事場であったり家であったり趣味の場などで、それぞれの立場が存在するわけですから、地球上で70億人いる場合で考えれば、それを遥かに超える立場が存在することになります。
その立場一つ一つにアレテーが有ると主張した場合、この世には、数百億を超えるアレテーが存在することになります。

求めているのは1つの答え

しかし、ソクラテスが求めているのは、普遍的な、ただ一つの法則です。細分化された人間の、それぞれのアレテーではありません。
つまり、子供のアレテーや男性のアレテーや女性のアレテーといった、後から生まれた価値観に対するアレテーではなく、人間という種族に共通するアレテーの事です。

ソクラテスは、この事をわかりやすく説明するために、昆虫のミツバチを例にして話し始めます。

仮に『ミツバチとはどういったものか』という質問を投げかけた場合に、質問された人間は、どのように答えるのでしょうか。
先程のメノンの答えと同じように、『メスのミツバチはこの様な役割があり、オスにはこの様な役割があり、年老いたミツバチは… とか 子供のミツバチは…』といった返答をするのでしょうか。
おそらく大半の人が、そのような事は言わないでしょう。 『ミツバチとは何か』と聞かれた場合には、ミツバチという昆虫の全てに共通する概念を説明するはずです。 

ミツバチも、生き物である以上、人間と同じように、個体ごとに様々な違いが存在するでしょう。 
しかし、個体ごとに微妙に違うからといって、その個体の違いごとに、いちいち別の説明をするなんてことはしません。
『ミツバチとは何か』と聞かれれば、ミツバチという種族はどの様な種族なのかという、1種類の答えで答えます。 例えば、『蜂という種族の一種で、植物の蜜を集める昆虫。』といった具合にです。

定義の説明

この辺りのやり取りというのは、プラトンが書いた対話篇では定番のものとなっています。
プロタゴラスでもゴルギアスでもそうですが、ソクラテスが1つの概念の意味を聴くと、大量の答えが返ってくる場合が多いです。
このやり取りが繰り返し用いられるというのは、この様な返答は、世間一般でも弁論の場でも有効とされているけれども、実際には全く意味がない事なので、何度も用いて否定する事で、警告しているのかもしれません。

例えば、プロタゴラスとの対話では、アレテーとは何かとソクラテスプロタゴラス聴いたた際には、『アレテーとは、知識や分別や節制や勇気』といった感じで、複数の答えに分割されました。
これは、自転車とは何かと聞かれた時に、『ハンドルとベダルとチェーンとフレームとサドル』と言っているのと変わりがなく、自転車の説明にはなっていません。
この様に、一つのものを複数個に分けて説明するのは、説明しているようで何も説明されていないことが多く、この説明で説明した気になっている人は、何も理解していない場合が多いので、複数回に渡って何度も例をだして警告しているのでしょう。

修飾語

少し話がそれたので、『人間が宿すアレテー』に話を戻しましょう。
アレテーとは、人間に宿ることで、その人間を優秀で卓越した存在にしてくれる概念です。
この考え方というのは、ベースとなる人間に、何らかの概念が宿ることで、そのベースとなる者の状態が変わるという考え方なので、宿るのはアレテーだけとは限りません。

例えば、人間の精神に『悲しみ』であるとか『怒り』といった感情の概念が宿れば、悲しむ人であったり怒っている人になります。
人間の肉体の方に、悪いであるとか病気といった概念が宿れば、ベースとなる人間は病気や怪我をした人間というふうに変わります。
この流れの一環として、人間にアレテーというものが宿ると、人間は優れた卓越した存在と成れるという考え方が有るわけです。

では、病気や怒りや悲しみや喜びや快感といった概念は、男女の違いや年齢の差によって、変わるのでしょうか。
何を持って快楽を得るのかや、何故、悲しむのかといた理由については、それぞれの立場によって変わるでしょうけれども、悲しんでいる状態や快楽を得ている状態そのものは、男女や年齢の差は存在せず、同じ概念であるはずです。
奴隷であっても主人であっても男であっても女であっても、楽しいと思っている時に宿っている概念は、共通の楽しいという概念であるはずです。

主人が喜んでいる状態と奴隷が喜んでいる状態は、それぞれ、何を理由にして喜ぶのかというきっかけは別にあったとしても、『喜んでいる状態』というのは共通しているでしょう。
例えば、夫婦が念願の子供を授かって出産した場合、男女それぞれで喜ぶ理由は微妙に違うかもしれませんが、『喜ぶ』という概念そのものは共通している為、喜びは共有することが出来ます。
小さな子供が感じる悲しみも、いい年をした中年のオッサンが感じている悲しみも、悲しむにいたった経緯は違ったとしても、悲しんでいる感情そのものは共通するものがあるでしょう。

ソクラテスは、アレテーもこれらの概念と同じ様に考えていて、アレテーというただ一つの概念が人に宿った際に、その人は優れていて卓越した状態になると思っているのでしょう。
哲学は真理を追い求めるものですし、これをベースにしている科学もそうですが、法則はできるだけシンプルな状態の方が望ましいと考えているんだと思われます。
状況に応じて考え方がコロコロ変わるというのは、法則とは呼べませんからね。

答えを見失うメノン

このソクラテスの言い分を、メノンは理解はするのですが… しかし、肝心の答えが見つかりません。
メノンは、先程の答えを自分自身で考えて用意したわけではなく、師匠のゴルギアスに教えてもらって受け売りをしただけなので、その理論を否定されてしまっては、それ以上の答えは出せないということなんでしょう。
また、メノンが生きていた2500年前の時代は、今よりも人々の生き方が区別されていた時代でもあったので、その常識に囚われすぎていて、そこから先を考えられなかったのかもしれません。

スパルタでは、スパルタ人は全員が戦士として育てられることが生まれた頃から決められていますし、障害を持って生まれてしまうと、それが判明した途端に、崖から捨てられて殺されてしまう時代です。
こんな時代であれば、『男性として優れている状態』と『女性として優れている状態』は別だと考えていても、自然だと思われます。
その為かメノンは、感情や病気など、その他の人間の状態には共通のものが宿っていると思われるが、アレテーだけは違うものだと思うと、自信なさげに答えます。

この態度を観たソクラテスは、『では、私と一緒に考えよう』と、メノンと一緒に『アレテーとは何か』を考えていくことにするのですが…
この続きは、また次回ということで。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第88回【メノン】ゴルギアスの弟子メノン 前編

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対話篇『メノン』

今回からは、プラトンが書いた対話篇のメノンを読み解いていきます。
この『メノン』は、入門書的な位置づけで書かれたものなので、本来であれば最初に取り扱ったほうが良かったのかもしれませんが…
描かれている時代的には、対話篇のゴルギアスプロタゴラスの後を想定して書かれているようで、この対話篇の中にもゴルギアスプロタゴラスの名前が登場したりします。

名前だけではなく、彼らと話し合ったテーマや、その結末を踏まえた上での討論が行われていたりもするので、この『メノン』を後から取り扱うことにしました。
前に取り扱った『プロタゴラス』や『ゴルギアス』で討論した内容も出てくるので、復習がてら、聞いていただけると理解が深まって良いと思います。

この対話編も今までと同じ様に、私が読んで重要だと思った部分をピックアップしして、その部分について考察する形式となっています。
対話篇の全体を知りたい方は、本を購入して読まれることをお勧めします。

少年との対話

まず最初に、今回取り扱うメノンと、前回までのプロタゴラスゴルギアスとの対話篇の違いですが… 前に紹介した両者は、お金をもらって他人にものを教える教師という職業という点で共通していました。
教えている対象としては、プロタゴラスがアレテーを教えていたのに対して、ゴルギアスは弁論術で、一般市民から観ると似通ったものですが、深く追求していくと『全く別のもの』といったものでしたが…
今回の『メノン』では、対話相手は教師ではありませんし、ソクラテスよりも年上の賢者でもありません。

タイトルにもなっているメノンは、ゴルギアスの元で弁論術を学んだ青年で、ソクラテスよりもかなり年下の子供です。
対話篇のプロタゴラスゴルギアスに登場したソクラテスは、議論の際に相手が矛盾したことを言うと厳しい追求をしていましたが、今回は子供相手ということで、一緒に寄り添って考えるスタンスを取っています。
よく、ソクラテスの人物紹介で、大物政治家や賢者と呼ばれる人には果敢に立ち向かっていき、若者に対しては『共に考えていこう』という人物だったと評価されることが多いですが…

それは、この『メノン』や、また別の機会に取扱う『テアイテトス』といった対話篇で描かれているソクラテスの態度が影響していると思われます。
これらの作品では対話相手が子供で、無知である事が前提の子供との対話を通して、同じ様にアレテーについて考えたことがない一般市民でも、ソクラテスの主張を理解できるような書かれ方をしています。
子供が相手なので、先程も言った通り、大人相手のような厳しすぎる追求はせずに、子供が自分の意見を言いやすいような雰囲気を演出しているので、ソクラテスは大人には厳しいが若者には優しいというイメージが付いたのでしょう。

ということで、前置きが長くなってしまいましたが、本題に入っていきます。

野心に燃えるメノン

対話篇の冒頭部分では、裕福な家に生まれたメノンという青年が、ソクラテスの元へとやってきて『アレテーとは何か』と尋ねてくるところから始まります。
一見すると、物を知らない青年が、多くの賢者と対話を行っているソクラテスに教えを請いにやってきたようにも思えてしまいますが、実際には事情が違っていて、ソクラテスに対してマウントを取る為にわざわざやって来たんです。

というのも、先程も少しだけ話しましたが、このメノンという青年は裕福な家に生まれているので、その父親は子供に最高の教育を行って優れた人間にしようと、ゴルギアスの元へ送り出して、教育を受けさせています。
メノンという青年は、このゴルギアスの下でアレテーを学んで身につけたと思いこんでいるので、その知識を、有名なソクラテスに見せびらかしに行こうという魂胆でやってくるんです。

ソクラテスという人物は、自分では『アレテーを知らない』と言ってはいますが、数多くの賢者と論戦を行い、相手を黙らせている人物です。
自分自身が無知だと主張しているにも関わらず、賢者として皆から認められている人たちと論戦を交わして互角以上戦いを見せている奇妙な存在の為、喜劇作家や風刺を行うことで有名なアリストファネスによって題材として取り上げられたりもしています。
この取り上げ方も、優秀な人物としてではなく、賢者に絡む詭弁化の代表として演劇などで表現されていて、知名度もかなり高い人物だったようです。

メノンは、その知名度の高い詭弁化に挑戦して打ち勝ち、自分の名前を売ろうという野心を秘めてやって来たという感じです。

アレテーとは何か

メノンはソクラテスに対して、『アレテーとはどのようなものですか。』と尋ねます。 彼の戦略としては、ソクラテスが間違ったことをいえば指摘して、自分がソクラテスに教えてやることで、勝つというプランだったのでしょう。
これに対してソクラテスは『私はアレテーがどのようなものかは知らない。』と告白します。
メノンとしては、何か答えれもらわないと予定が狂うので『では、貴方がアレテーを知らないという事実を言いふらしても良いのか?』と煽ります。

でも、知らないものは知らないので、この挑発には乗らず、更に追加で『私自身は知らないし、アレテーを知っているという人物に会ったことすら無い。』と付け加えます。
メノンは、ソクラテスが自分の師匠であるゴルギアスと面会していることを知っていたので、この答えに少し狼狽えます。
何故なら自分は、ゴルギアスからアレテーを教えてもらったと思い込んでいるわけですが、ソクラテスの言い分が正しいとするなら、師匠のゴルギアスはアレテーを知らないことになるし、その教えを受けた自分もアレテーを知らないことになるからです。

この事実が受け入れられないメノンは、ソクラテスと対話を行うことで、自分はアレテーを知っているということを証明しようとします。

対話のテーマとなるのは、当然ですが『アレテーとは何か』です。
しかし、ソクラテスは先程も言った通り『アレテーがどのようなものかは知らない』と主張しているので、アレテーの事を知っていると主張しているメノンが、持論を展開する事で対話が始まります。

メノンによるアレテーの定義

メノンが主張するアレテーとは複数あり、成人男性のアレテーとは、国家公共のために尽力し、その為に必要な人間関係を構築すること。
自分と同じ様な考え方を持つ人物は友人として大切にして、自分と違った考えを持つ人間に対しては厳しく接するのが、成人男性に宿るべきアレテーだと主張します。
この考えは、対話篇のゴルギアスに登場したカリクレスの考え方と同じですよね。 彼も、国家公共のために尽くして、その組織の中で出世することが一番重要だと主張していました。

次に女性のアレテーは、外に出ている男性に変わって家庭を支えることで、家庭の主である主人に尽くすことになります。
ダイバーシティが叫ばれている今の世の中では、古い考えとして改めなければならないという空気になってきてはいますが、つい最近まで、良い女性とはこの様な女性像だと思われていましたよね。
この他にも、子供や老人や奴隷など、それぞれの立場や年齢に対応したアレテーが存在するとメノンは主張します。

この部分に関する考えもカリクレスと似たようなことをいっていますよね、カリクレスは、子供は子供らしく有るべきだし、大人は大人らしく有るべきだと主張していました。
子供は大人よりも劣っているべきだし、劣っている子供が一生懸命に勉強して、それでも大人にかなわない様子を見ていると可愛らしいと思うが、優秀すぎて大人びたしゃべり方をする子供は、観ていて不愉快になる。
また、大人になっても基礎教養を身に着けておらず、子供のようなしゃべり方をする大人を観るのも不愉快になるので、そんな奴はぶん殴ってやれば良いと言っていました。

これは言い換えるなら、子供は子供らしく。大人は大人らしくと言っているのと同じで、理想とする子ども像や大人像が有ることが前提の主張です。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第87回【ゴルギアス】まとめ③ 後編

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周囲の人達

最終目的地である幸福とは、人にとって良い事だと思われますが、では次に、何を持って善しとするのかというのが、問題になってきます。
カリクレスにとっての幸福が、生きている間に自分がどれ程の欲望を満たすことが出来るのかに注目しているのに対し、ソクラテスが重視するのは、世の中の秩序です。
欲望か秩序か、人間に幸福をもたらしてくれるのは、どちらなのかを考えてみましょう。

まず欲望について、わかりやすくするために極端に考えていくと、個人個人がそれぞれ自分の欲望を満たす為に、『多少の不正を行っても構わない』と自由に振る舞ってしまえば、社会はカオスな状態になってしまいます。
国を収める為の分かりやすい秩序として法律がありますが、皆が、自分の利益の為に法律を無視すれば、そこは国ではなく無法地帯となってしまいます。
カリクレスやポロスをはじめとした弁論家の弟子たちは、政治の場でのし上がって権力を手に入れたいと思って弁論術を習っているわけですが…

政治というのは国という組織の中の役割でしか無いわけですから、無法地帯となった場所に政治の権力なんてないことになります。
自分が政治的に上の立場になったとしても、秩序がなければ、下のものに命令を下したとしても、部下は自分自身の欲望を満たすのに必死になって、上司の命令を聞かないでしょう。
政治的な権力というのは、秩序という前提の上で成り立っているのであって、秩序が無くなってしまえば政治的権力も無くなってしまいますが、ポロス達は、政治的に上の立場になって、率先して秩序を破壊しようと主張しています。

また、対話篇の中では、個人の利益を優先する為には上司に取り入る必要があって、上司に気に入られるためには、上司と同じ様な属性だと思われなければならないとしています。
自分の上司が、自分ひとりの利益を追求するために不正を犯して、無実の罪で他人を訴えて命や財産を奪う人間なら、それを肯定するようなイエスマンにならなければ、気に入られて出世する事はありません。
自分自身がその様な人間でなかったとしても、権力を求めようと思うのなら、上司に合わせて不正を肯定するような人間を演じなければなりませんが、そんな立ち振舞を見て近寄ってくる人間も、同じ様に不正を肯定するような人達ばかりとなります。

類は友を呼ぶと言いますが、自分自身が持っていると思い込んでいる権力が、秩序の上に成り立っている砂上の楼閣ということに気が付かない様な人間の周りに集まってくるのは、同じ様な無知な人間ばかりです。
無知で、不正を行い、他人の命や財産を奪っても問題がないと平然と言ってのける人達に囲まれる人生というのは、果たして、幸せなのでしょうか。
おそらくですが、この様な集まりでは水面下では足の引っ張り合いが行われている為に、誰も信用できず、常に緊張した生活を送る必要があると思います。 それが、幸せな生活なんでしょうか。

幸福とは環境

一方でソクラテスが主張するのは、秩序を重視する価値観です。 不正は駄目なものだとされ、不正を行おうとしている人は注意されるし、不正で蓄財をしたとしても軽蔑される。
秩序を守るとは、社会を維持する事を重視するということなので、社会に貢献するような事をすれば尊敬されるし、皆から褒められるような社会です。
この様な社会では、人々は不正を行わずに、むしろ積極的に社会に貢献しようとするので、社会秩序は維持されるし、その共同体に参加する人達は良い人たちが多くなります。

良い人たちに囲まれているということは、近隣住民と信頼関係も築きやすいことになりますし、自分が窮地に追い込まれた際には助けてもらえる可能性も高いので、共同体の中では安心して暮らすことが出来ます。
カリクレスはソクラテスに対して、『正論を言い続けると皆から嫌われて、陥れられるぞ!』と脅しますが、本当に秩序が機能していれば、そんな心配もなくなります。 その心配をしなければならないのは、秩序が保たれていないからです。
この2つの社会を比べた場合、どちらのほうが暮らしやすいのかというと、秩序が重視される社会のほうが暮らしやすいと感じないでしょうか。

ソクラテスは、この様に秩序を重視した社会を作るべきだと主張しますが、この秩序を作るのに必要なのが、『善悪を正しく見極める技術』になります。
他人の行動を咎めようとする場合、自分の考えが正しくて、相手が間違っているということを確信していなければ、相手の行動にとやかくいう事は出来ません。
他人の行動を正し、社会全体を善い方向へと導こうと思う場合、何が正しくて何が悪いのかを正しく認識する為の絶対的な基準が必要で、その基準に辿り着く為の法則や技術が重要になってきます。

絶対的な正解は見つかっていない

そして、この対話篇を読み解く上で一番重要な事は、それらの技術や法則や絶対的な基準は、まだ見つかっていない為に、誰も知らないという事です。
前に扱ったプロタゴラスでもそうですし、今回のゴルギアスでもそうですが、絶対的に良い、優れているとされているアレテーと言う存在を、誰も明確に定義できていません。
ということは、明確なゴールも定まっていないということになるので、眼の前に選択肢を提示されたとしても、正解を見極める術はないということです。 何故なら、向かうべき方向が定まっていないからです。

また、この、ソクラテスの答弁が『善悪を見極める技術は、まだ発見されていない』ということを前提にしているという事を忘れてしまうと、大変な誤解を生んでしまったりします。
どの部分で誤解してしまうのかというと、人が悪い行動をした際には、それを見つけて、行動を正すために罰を与えるのは良い行為だという部分です。

ソクラテスは、不正を行うのと不正の被害者になるのとでは、不正を行う方が醜くくて悪い状態だとし、そして、その不正はバレないよりもバレた方が本人の為だと言います。
不正がバレた際には、不正を行ったことを後悔し、二度と行わないような罰を受けるのが本人の救済につながるし、矯正が不可能な程に魂が歪みきっているのであれば、他の者の見せしめとして、酷い苦痛を与えるべきだと主張しています。
何度も言いますが、この話は、絶対的な善と、それを見極める技術が発見されたとしたら、この様になるのが良いと主張しているだけで、発見されていない時には、善悪とは何かというのを考え続けなければなりません。

正義の固定

しかし、絶対的な善が発見されたと誤解されてしまったとすれば、自分たちの意見に背く人間を拷問にかけたり殺すことが、良い行動だと誤解されてしまいます。
例えば、漫画でいうとベルセルクという中世ヨーロッパをベースにしたファンタジー作品がありますが、この世界には、大きな勢力を持っている宗教が存在します。
この宗教は、自分の命も顧みずに宗教組織に全てを捧げる人間は肯定されますが、教義に少しでも疑問を持ったり反抗する人間は。捉えられて拷問にかけられますし、時には殺されたりもします。

その拷問はエゲツなく、焼きごてを当てたり、ハンマーで手足を砕いて車輪に固定したりとするわけですが、刑の執行は、聖職者が行います。
神に仕える聖職者が、何故、この様なひどい拷問を平然と行うのかというと、神という絶対的な『善』に対して疑問を持ったり反抗するのは悪なので、本人たちの為を思って、悪を浄化する為に拷問という良い行為を行っていると思い込んでいるからです。
これは、漫画のようなフィクションの世界だけでなく、実際問題として、この様な行為を行っていた宗教団体は過去の歴史に存在しましたし、今も、一部の過激な宗教組織がテロなどを通じて行っていたりします。

宗教だけに限らず、これは現在の国という枠組みでも行われていたりします。
人権上の問題から、酷い拷問は表面上はされなくなっているようですが、法律という『善』とされているものに逆らうものは、罰金や刑務所に入れられるといった行為を強制させられますし、死刑が廃止になっていない国では見せしめの為に殺されます。
この現状は、多くの人が『法律に逆らったんだから酷い目にあっても仕方がない』とか『秩序を乱したんだから当然だ』として肯定するかもしれませんが、それは、法律が本当に『善』であるということが大前提となります。

もし仮に、法律に不備があったり、そもそも間違っていたりする場合は、その法律に従って刑を執行しているものが、不当な扱いをしているということにもなります。
ソクラテスが『見つけなければならない』と言った、善悪を正しく見極める技術というのは、ソクラテスの死後2500年程経った現在でも、まだ見つかってはいません。 これから先、見つかるかどうかもわかりません。
だからこそ、考え続けることが重要だと訴えているわけですが、宗教の教義や国の法律が『絶対的な善』だと信じ込んでしまえば、その時点で思考停止してしまい、どんな酷い仕打ちであっても、良いことだと肯定されてしまいます。

ソクラテスは、『無知の知』という言葉でも有名ですが、争いやイザコザは『善い』という定義を知っていると思い込む事ところから始まります。
何を持って善しとするのかは分からず、善悪を見極める技術を人類は持っていないと認識するところから始めることが重要だということでしょうね。

ということで、今回でゴルギアスは終わります。 次回からは、メノンを読み解いていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第87回【ゴルギアス】まとめ③ 前編

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今回も、ゴルギアスを読んだ上での、まとめ・考察回となっています。
ゴルギアスを読まれたことがない方や、このコンテンツのゴルギアス回を聴いていない方は、そちらから聞かれることをおすすめします。

善悪を正しく見極める技術

前回は、カリクレスとソクラテスがそれぞれ主張する『幸福な人生』の違いについて語っていきました。
ソクラテスが、人生の岐路に立った際には、自分の感情や欲望によって答えを選ぶのではなく、善悪を見極める為の法則に当てはめて出てきた答えを機械的に実行していくべきだと主張し…
それに対してカリクレスが、欲望は人が行動する為の原動力になるし、その欲望を満たすことで、達成感や満足感を得ることが出来て、幸福になれると主張し、意見は対立したままの平行線で終わりました。

ソクラテスは、欲望の赴くままに行動した場合は、判断を誤る場合が多いので、結果として悪い方向へと進んでしまうと言い…
カリクレスは、欲望や、それが満たされた時の満足感というのが生きている証なので、それが無くなってしまえば、人は生きているとは言えない。 道端に転がっている石のように、何の意味もないと主張し…
両者の意見は、相容れる事がないようにも思えます。

しかし、両者の主張の前提となっているものをみると、そもそも、そこから食い違っているように思えます。
というのも、ソクラテスは、その法則に当てはめれば正しい答えが出るような技術が既にあることを前提として話していて、カリクレスは、そんな法則はなく、先の事が分からないことを前提に話しています。
では、ソクラテスの言う通りに、善悪を正しく見極めるような技術が既に存在するのかと言うと、そんな物は存在しません。

存在しないからこそ、ソクラテスギリシャ中の賢者に声をかけて、アレテーへと到達する方法を探しているわけですから。
では何故、ソクラテスは存在しないような技術を前提にした話をしたのかというと、善悪を正しく見極める技術というのは、それ程までに重要な技術で、それを見つけ出すことが出来れば、人の生活や考え方は一変してしまう。
それほどまでに重要なものなんだから、それを見つけ出すための努力をしようと訴えたいのかもしれません。

人は正しい道を進むもの

ではもし、善悪を正しく見極める技術があったと仮定した場合、世間一般の感覚と近いカリクレスは、どの様な人生を歩むのが良いと思うのでしょうか。
例えば、自分の進んでいる道が二手に分かれた場合、カリクレスは、先のことは分からないんだから、今、自分が抱えている欲望に素直になって、後悔のないように、進みたい方向へ進めば良いと言っているわけですが…
確実に右に進んだら成功すると確定していたとしたら、それでも、左に進んでみたいからと左に進むんでしょうか。

左に進むと、一瞬だけ心地よい状態になるけれども、その後で地獄を見る。 一方で、右は一見すると険しいけれども、それを乗り越えると、それまでの苦労が消し飛ぶほどの良い状態が待っていると確実にわかっている状態の場合。
カリクレスは、それでも左の道を選ぶのか。 これを聞かれている皆さんもそうだと思いますが、確実に正解だという道が確定しているのであれば、迷うこと無く、正しい道を選ぶと思います。
人生ではじめての登山をする場合、自分でルートを考えて山登りなんかしませんよね。 標識に沿って登山道を登ると思います。

その道を進むことで、確実に良い状態になれる事が確定していて、それ以外の道を選ぶと損をする事がわかっている状態で、敢えて損をする道を選ぶ人間はいないはずです。
カリクレスが、自分の欲望に素直になれと言っているのは、そういう法則が見つからないことを前提に議論していて、もし、ソクラテスが主張するような善悪を正しく見極めるような技術というものが存在すれば、態度は変わるはずです。
もし、『そんな法則があったとしても、その法則に則って動くのは楽しくないから、そんな法則は知らなくて良い。』とカリクレスが反論したとすれば、カリクレスはただのギャンブラーです。

いや、ギャンブラーでも、自分が勝つために統計をとったり、マネーマネジメントというベットの仕方などのあらゆるテクニックを学ぼうとするわけですから… それ以下の存在と言えます。
先程の登山の例でいえば、登山道の入口で無料で手に入る地図が置かれているのに、『自分で判断しないと、登頂した時の喜びが薄れる。』といって山に入った結果、遭難したとしたら、その人物は馬鹿にされますよね

幸福への最短距離

しかし、カリクレスは優秀とされる人物なので、勝つか負けるか分からない勝負事に人生をかけるような愚かなことはしません。
それは、カリクレスのこれまでの態度を観ていると、良くわかります。

この対話編に登場するカリクレスの態度としては、弁論術を学ぶ事で口先の技術を手に入れたら、その能力を使って権力を持っている人間に近づいて媚びることで、御機嫌を取って気に入られて、自分だけは出世街道に乗れると主張しています。
例え、自分が仕えている権力者が、私利私欲のために不正を犯して、無実の市民の命や財産を奪うような劣った人間であったとしても、その人間の前では地面に頭を擦り付けて御機嫌を取り続ければ、自分も、その様な権力が手に入れられる。
その力さえ手に入れてしまえば、どんな欲望も満たすことができる力を手に入れることが出来るんだから、幸福になれると主張しているのですが…

例え、権力を手に入れたいという目標の為であったとしても、優秀な人間が劣った人間に媚びへつらうのは、苦痛でしか無いと思われます。 その行動で満足感も満たされないでしょうし、楽しいとも思わないでしょう。
にも関わらず、カリクレスがこの方法を推奨しているのは、将来的には『自分が善い』と思っている状態になれると信じ込んでいるからです。
カリクレスが取っている行動は、目先の損得に騙されること無く、善いと思われる目標に向かって最短距離を進むという行動と言えます。

友人を幸福にしたいと思うカリクレス

またカリクレスは、自分が善いと思っている道を、ソクラテスも同じ様に歩むように勧めています。
カリクレスが考える幸福とは、分かりやすく極端に言ってしまえば、自分が快楽を感じられるのであれば、例え他人に迷惑をかけて不幸にしたとしても、自分だけは幸福になれるという考え方です。
つまり、人生の中で自分がどの様に感じるのかが重要で、自分の行動が客観的に見て悪いとか、そういった事は考えずに、今現在やこれから先の未来で、自分に不都合が生じないかとか、快楽を追求し続けることが出来るといった事を優先して考えるので…

この部分だけを観るなら、考え方としては、相対主義的な考え方です。

相対主義的な考え方で言えば、人の幸せは人それぞれなので、他人を支配したいという権力欲を持つ人間もいれば、他人との心のつながりを重要視する人間もいます。
人の価値観はそれぞれ違うので、他人から強制されるものではないはずですし、自分の行動は客観と主観で価値観が変わります。
この理屈でいえば、カリクレスはソクラテスの考える幸福論に賛成はできなくても、反対は出来ないはずです。 何故なら、ソクラテスが考える幸福はソクラテスが定義すべきだからで、カリクレスが決めることではないからです。

ソクラテスが、『人の幸福は、人生の長さでは測ることが出来ず、質によって判断するしか無い。 では、質の良い人生とは何かというと、人々を良い方向へと導く為に尽力する事だ。』と主張して…
この人生をまっとうするためなら、不正を受けて殺されたとしても本望だと考えているのであれば、その考えは尊重すべきなのが、相対主義者です。
しかしカリクレスは、ソクラテスの考える幸福論に反対し、『何も悪いことせずに正しいことをしていても、不正を受けて悪者に殺されてしまえば、不幸になるじゃないか。』と一生懸命説得しようとします。

人は『善い方向』へと誘導したくなる

つまりカリクレスは、自分が考える『良い人生』をソクラテスにも歩ませたいと思い、他人であるソクラテスを必死に説得しているんです。
この行動は、ソクラテスと同じ絶対主義的な考え方が混じっています。

これまでのカリクレスの行動をまとめると、目先に転がっているメリットやデメリットには目もくれず、時には苦痛にも耐える覚悟をして、幸福な良い人生という目標を目指して一直線に進んで行く。
そして、自分の知り合いが不幸な道に入り込もうとしている場合は、進もうとしている道が間違っていることを指摘して、他人を自分が考える『善い』道へと誘導する。
現にカリクレスは、社交性を身に着けてコネクションを作っていけば、幸福な人生を歩む事が出来るよと、ソクラテスに対して丁寧にレクチャーしています。

この行動は、『ソクラテスが主張する、人々を良い方向へと導くことこそが幸福につながる道だ。』という言葉通りの行動と言えます。
突き詰めていくと、ソクラテスとカリクレスで決定的に違うのは、先程も言った通り、『善悪を見極める技術』は存在するのかしないのかという部分になります。
もし、ソクラテスの主張通りに、『善悪を正しく見極める技術』は、まだ見つかっていないだけで、この世の法則として存在するのであれば、この世で一番重要なのは、その法則を見つけ出すことになります。

仮に、その様な技術が見つかったとしたら、ソクラテスの主張に反対し続けているカリクレスも、ソクラテスと同じ行動を取ることでしょう。 何故なら、カリクレス自身も、最終目的地を幸福に据えているんですから。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第86回【ゴルギアス】まとめ② 後編

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人生の歩み方

そのカリクレスが行っている基本的な主張としては、欲望が無い人生には意味があるのかという事です。
ソクラテスの主張というのは、物事の判断材料を直感や感情に委ねてしまうと、ほぼ確実に判断を誤ってしまうので、そういったあやふやな物に判断を委ねずに、確固たる絶対的な基準に判断を任せるべきだと主張しているわけです。
その絶対的な基準というのは、人間のように揺れ動いているものの中には宿っておらず、人間とは別に法則として存在している。 だから、その法則、この対話篇の中では技術と呼んでいますが、判断は技術的に行うべきだと言っているわけです。

カリクレスは知識や知恵を持つ人物なので、ソクラテスの主張は理屈では分かるけれども、ソクラテスが主張するような人生というのは、人の生きる道である人生と呼ぶのかと疑問を持っているわけです。
というのも、ソクラテスの言う通りの世の中になってしまえば、人間というのは考える必要がなくなります。
価値基準を自分以外の絶対的な法則として持っているわけですから、何か困ったことがあれば、自分で考えずに法則に当てはめれば、自ずと答えが出ることになります。

どんな問題が立ちはだかろうとも、自分で判断すること無く、条件を法則に当てはめた結果、出てきた答えを実行していくだけの存在。
果たしてこれが、人が生きる道なのかということです。
この考えを究極的に発展させていくと、人間には自由意志というものは必要なく、この世を動かすシステムの歯車として無心で回り続けていれば善いことになります。

攻略本を読みながらの人生

そんな人生を歩むぐらいなら、例え間違った道になるとしても、自分自身で考えて行動し、仮に間違っていたら全力で後悔し、正解を選べたとしたら全力で喜ぶ。
それこそが、人としての幸せであり人生なんじゃないかというのが、カリクレスの意見でしょう。

もっと具体的に例を交えて考えてみると、仮に、人工知能の研究が更に進んで、常にAIが絶対的な正解を教えてくれるような未来が来たとします。
ソクラテスの主張をそのまま鵜呑みにするのなら、未完成で無知な人間が、無い知恵を振り絞って必死に考えるよりも、絶対的な正解を出してくれるAIのいう通りに動いた方が良いことになります。
AIの支持に従うというのが想像しにくい方は、親が敷いたレールの上を無心で歩き続ける子供を想像してもらうと、分かりやすいかもしれませんね。

親というのは、絶対に正しいというわけではなく、時には感情に支配されて無茶苦茶なことを言ったりしますが、自分のことしか考えないサイコパスでもない限り、基本的には子供の為を思って様々な事を言います。
『宿題をしろ』だとか『勉強をしろ』とか、『ゲームは1日1時間でやめろ』とか、子供に対してイチイチ小言を言ってきます。
これがエスカレートした親などは、『高校は、この学校に行け』とか、『大学はここに入って好成績を出して、この企業に入れ』といった事まで指定してくるでしょう。

ソクラテスの言い分に従うのであれば、親は客観的な目で子供を観て、良い方向に誘導しようとしているのだから、子供は感情に流されずに、親の言うことに反発せずに素直に聞けと言うことになります。
誤解のないように何度も言いますが、このケースの場合は、親が善悪を見極める技術を身に着けている優れた人間であることが前提です。
親の方がダメ親で、善悪を見極める技術も身に着けておらず、自分のことしか考えないサイコパスで、感情に流されて指示だけだしてくるようなヤツだった場合というのは、当てはまりませんからね。

そうではなく、もし、親が善悪を見極める技術を持っていて、その技術を使って子供を善い方向へと導こうとしている場合、子供は一つも文句を言わずに命令を聞き続けるべきで、そうすることで善い方向へと進んでいけると主張してるわけです。
この理屈というのは、確かに、その通りといえばその通りで、絶対的に正しいとされる意見があるのであれば、自分が考えること無く、それを盲信していれば良いということになります。

幸福とは満足感

一方でカリクレスは、『そんな人生が楽しいといえるのか?』と疑問を投げかけているわけです。
ソクラテスが提唱する人生というのは、言ってしまえば、自分以外のものが敷いたレールの上を脱線せずに進み続けるだけの人生です。
そのレールの最終目的地が『幸福』であるのなら、そのレールを踏み外さない限り、確実に『幸福』な状態にたどり着けることになります。

しかし、そのようにして到達したところは、本当に幸福と呼べるものなのでしょうか。
カリクレスに言わせれば、『自分がそうしたい!』と欲望を抱いて、その欲望を満たす為に行動を起こし、結果として成功した時に達成感や満足感が得られて幸福を感じるのであって、それこそが人生だと主張しているように思えます。
判断の基準を自分の外側に置いて自分の感情を一切無視する生活は、道端に転がっている小石と何ら変わらない人生であって、そんなものには何の意味もないと、何度も繰り返します。

カリクレスのこの主張に関しては、納得される方も多いと思います。
他人を観て羨ましく思ったり、自分に足りないものに気がついた時に、自分に無いものを手に入れたいと思う欲望によって、人間は行動する原動力を得ます。
そして、自分に足りないものを手に入れる為には、どうすれば良いのか、どの行動が効率が良いのかを試行錯誤して手に入れる行為が、まるでゲームのように楽しく、結果として手に入れることに成功した時は、達成感や満足感を得て幸せになれる。

これこそが人生で、この環境の中で成功する事こそが幸福だと主張します。
ソクラテスが言うように、自分の欲望を捨ててシステムの一部になってしまえば、確かに、大きな失敗はしないかもしれないけれども、思いがけないような成功をすることもないでしょう。
ゴールも、それにつながる経路も全て予め決まっているわけですから、予定通りの道を通って予定通りのゴールを迎えます。 決められた道を辿ったという達成感は得るかもしれませんが、それが幸福なのかと問われれば、返答に困ってしまいます。

幸福に自由は必要か

この2つの人生を他のものに例えて考えてみるのなら、ソクラテスが提唱する人生がマラソンを走らされるような人生なのに対し、カリクレスの提唱する人生は、地図の無い無人島を探検するような楽しさがあります。
自分が興味のある方向へ行ってみて、思いもよらない絶景が広がっていたら、それに感動する。 しかしその一方で、間違って危険な道に迷い込んでしまう事もある。
道を自分で切り開いて行かなければならないために、それに伴う困難もありますが、困難を乗り越えた先には、思いもよらない物が手に入れることができる可能性もある。

何が手に入るのかが分からないということは、選択によっては何でも手に入れることができる可能性が広がっているという観方も出来るわけで、この世界は可能性で満ちているようにも感じられます。
一方で、ソクラテスが提示する人生は、ゴールも経路も予め決められているわけですから、予想外のものを発見できる楽しみや、自分の力で到達したという満足感は得られないのかもしれません。

また、カリクレスとソクラテスの対話篇では、2人の討論する際の温度差も書き分けられています。
カリクレスが、人の感情に訴えるような話し方で勧めていくのに対して、ソクラテスは、どこか機械的な話し方をしています。
これは、言わばAIと人間の会話のような構造になっているとも読み取れるので、人間味あふれる言葉で訴えるカリクレスの意見に耳を傾けたくなります。

似通った両者の意見

それだけでなく、ソクラテスの主張は結論だけを聴いたとしても理解しにくい主張です。 おそらく、プラトンは敢えてソクラテスの主張を分かりにくく突拍子もない様に紹介して、読者の注意をひこうとしてると思うのですが…
その解説も、読む人によっては理解しにくい形で書かれているので、カリクレスの意見を支持してしまうという人も結構多いと思います。
ソクラテスの主張を分かりにくく、そして、世間一般の感覚と近いカリクレスの主張を感情に訴える形で分かりやすく描き、プラトンは二人の対話を対立する構造のように演出しているわけですが…

この二人の意見というのは、実際にはそれ程かけ離れているわけではなく、割と近い考え方だったりするんです。
ただ、議論の前提条件が違うために、二人の意見がまるで対立しているように感じてしまうんだと思います。
ただ、このあたりの考察について今回語ると長くなってしまうので、続きはまた、次回に話していこうと思います。