だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【ゲーム紹介】 Gravity Days2

今回の投稿は、久しぶりのゲーム紹介&感想ブログです。
紹介する作品は、Gravity Days2です。


簡単にゲーム内容を書きますと、重力アクションという、ちょっと変わったアクションゲームとなっています。
大きなジャンルでいうと、一応、オープンワールドということになるんでしょうかね。

割りと大きめのマップが用意されていて、その中を自由に動き回ることが出来るんですが、普通のオープンワールドのように、歩いたり車移動をするわけではなく、重力操作によって動きます。
重力操作とは何なのかというと、一度ボタンを押すと、主人公が無重力状態となり、もう一度ボタンを押すと、画面の中心部分に向かって落下していきます。
この落下時に、Xボタンを押すと落下速度が増し、無重力ボタンを押すとその場で停止して無重力状態となります。

この独特のアクションの為か、普通のオープンワールドは平面的な箱庭が多いですが、このゲームでは縦方向に長かったり、街自体が浮遊島って感じで空に浮かんでいるという設定なので、縦方向に街が重なっていたりもします。
上下左右に広がる街を、重力操作で自由に落下して飛び回れるのが楽しいゲームとなっています。

この作品ですが、発売自体は今年(2017年)の1月で、今が9月なので結構前の作品となります。
私自身は、発売直後に購入したのですが、クリアーしたのはごく最近という事で、随分と放置していたことになりますね。

そんなに放置をしていた作品ということもあり、このブログを読まれている方は、『そんなに面白くないのでは?』と思われる方も少なからずいらっしゃるかもしれませんね。
クリアーした結果から言いますと、後から振り返ると非常に面白い作品でした。

この作品、タイトルに2とついているので、同タイトル作品の続編という形で発売されたわけですが、前作が、非常に中途半端な形で終了していたんですよね。
ですが、今回は完結編と銘打っている為、前回 放置されていた謎がやっと解明されたわけですが、そのストーリーが単純に面白かった為、結果から見ると面白いという感想になるんですけれどもね。
私は、ここ最近、余り作品を見て感情が動くという事が減ってきたわけですが、この作品のエンディングでは、久しぶりに結構、泣かされました。
その後も数日は、この作品のエンディングについて考えさせられましたし、プレイして良かったかどうかと聞かれれば、良かったと答えられる作品ですね。

では、何故、クリアーまでにこんなに時間がかかってしまったのでしょうか。
これは、やりこみ要素が凄くて、単純に時間がかかったというわけではなく、私自身の環境と、ゲームの作りの問題ですね。
私の問題としては、この2をプレイする直前に、前作の1をプレイしてクリアーしたんですよ。

というのも、私は`PS plus の会員で、毎月、フリープレイでゲームソフトを手にすることが出来るのですが、2の発売発表があった時点で、1の方がフリープレイで配信されたんですよ。
私はこのゲームを、ダウンロードだけして寝かしておいて、数カ月経ってからプレイしたので、クリアータイミングが2の発売と重なったんですね。
そして、2をプレイしたんですが…

確かに、前作から比べると進化している部分や改善している部分が非常に多く、快適にプレイ出来るようにはなっているんですが、基本的にはやることが前回と同じような感じで、プレイ体験としての新鮮さがイマイチだったんですよね。
マップは、前回のマップに加えて同程度の広さのマップが追加されている為、2倍になっているんですが、その2倍のマップで行うことが一緒。
基本的には、新しい街を見つけては、その街を飛び回って『ジェム』という経験値の代わりとなる縫製機のようなものを集めまくって、自身を強化。
その為、1と2を連続してプレイしていた私にとっては、単純作業の繰り返しで退屈に感じてしまったんですよね。

そんなわけで、最初の大きな街に到達した時点で放置をしてしまっていた為、クリアーが遅くなってしまったというわけです。

こんな感じでスタートしたゲームなのですが、先程も書いた通り、ストーリー自体はそれなりに楽しめるので、ストーリーメインでプレイをすると、結構面白いと思います。
ただ、操作性やマップの作りが良いかといえば、個人的には駄目な印象。
というか、このせいで、私は長時間放置することになってしまいました。

メインとなる重力操作なのですが、確かに、ゲームを始めた当初は面白いと思える要素でした。
しかし、ほぼ全ての移動が重力操作になる為、ゲームが中盤に差し掛かる頃には飽きが来ます。
私の場合は、1をクリアー直後に2を始めたため、重力移動に新鮮味を感じなかった為、『またか』という印象が強かったですね。

そしてマップですが、PS4専用タイトルということで、グラフィックは格段に上昇してはいますが、他のオープンワールドのように、街を散歩やドライブだけする為にゲームをしようと思えるような作りにはなっていない。
島が点在しているようなマップで、島を行き来するだけで数十秒、体感で1分ぐらいxボタンを押しっぱなしで放置のような事が頻繁に起こります。

また、移動の大半を重力移動に頼っているせいか、地上を歩いて移動する際の操作性が非常に悪い。
重力移動があるから、普通に歩くことがないから良いか!と思いきや、クエストで頻繁に重力操作を禁止される為、操作性が悪いアクションを矯正させられるとい事が頻繁に起こる。
その上、カメラワークも良いとはいえない。というのも、重力操作が移動の基本になっていて、重力操作によって方向性を失わせるような感覚を味あわせたいためか、カメラが変な動きをする。
この様な感じで、普通の操作が結構ストレスとなる。

…と、ここまで結構、悪口を書いてきたわけですが、冒頭にも書いた通り、ストーリーは良いです。
主人公の、少し抜けている性格も、終盤に近づくと愛らしくなってきますし、ラストはその性格があって始めて感動できるような内容になっています。
これは、映画などで2時間の尺で見せられたとしても、それ程、心を揺さぶられることは無いのでしょうが、長期間プレイ体験を通してキャラクターに愛着を持たせることで心を動かす様になっている為、ゲームならではという感じで良いです。

ただ、ストーリーに関しても一つ言わせてもらうと、1の続きで、感動のラストというのはオマケ要素となっていることです。
これは、1をやらずに2だけをやっている人に配慮しているからなのかもしれませんけどね。
これ以降、少しネタバレになる為、自力でラストまで行きたい人は、読まないでください。



このゲームのメインストーリーですが、エピソード1~20まで存在するのですが、1で謎の部分とされていた設定の謎を解くのは、エピソード21~26となっています。
エピソードの最後は20なの?26なの?と疑問に思われる方もいらっしゃるでしょうが、本当の最後は26なんですが、エピソード20をクリアーした時点で短めのエンドロールが流れるんです。
その後、何の説明もないまま、クリア後の世界って感じで自宅前に放り出されるんです。
そこから手順をこなしていくと、エピソード21が新たに始まるという設定。。

その為か、エピソード20までクリアーしたところで『全然、完結編じゃないじゃん!』って怒り出す人もチラホラ見かけるという始末。
しかし、26までクリアーすると、それなりに納得できるエンディングになり、今度は本気の長いエンドロールが流れるんですよね。
正直、26までクリアーした自分としては、物語を見事に完結させていて、尚且つ、感動も出来たので良かったという印象ですが、20までしかプレイしていない人にとっては、結構不満がある作りになっています。

若干、文句が多くなった感想にはなりますが、今だと中古で安めで買えると思いますし、PS storeでも頻繁にセールを行っているので、割引で購入するのであれば、結構楽しめる作品となっています。
世界観も、重力と時間何かが関係していますし、登場人物のセリフも意味深なものが多かったりと、楽しめる要素は多いですしね。
深く考えようと思えば、いくらでも深く考えられそうなところも、個人的には大好きな部分でしたしね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第13回 言葉の限界(1)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回までの東洋哲学の放送で、ブラフマンという宇宙の根本原理や、人それぞれが持つ『私』という概念、個人の根本原理である、アートマンについて考えていきました。
そして、宇宙の根本原理と個人の根本原理が同じであることを、体験として知る事が梵我一如という考えだという事について説明してきました。

で…今回の内容なんですが、前回の最後では、仏教について考えていくといっていましたが、その前に、東洋哲学で重要視している『体験によって知る』ということについて、考えていこうと思います。
これは、結論からいってしまうと、言葉や理論というのが不完全なもので、それをもって理解しようと思っても矛盾が生じてしまうからなんです。
なので、イメージによる理解や、それを元にした直感を重んじるということになるんでしょうね。

という事で、本題に入っていきましょう。
単純に、『知る』『知っている』または、『理解する』という状態ですが、日本語で言葉として伝えると、『知る』とか『理解する』としか、言いようのないもので、こう言うしか無い状態になるわけですが
知る・理解するというのには、様々な段階が有るんですよ。
これらの段階を知るために、先ず、様々な『知る』ということについて考えていきます。

まず、知るというのは、誰にでも行うことが出来ます。というのも、知っている人に聴いたり、本やネットの記事を読むだけで、物事を知ることが出来るからなんですね。
では、これらの、聞いたり読んだりする経験によって知ることは、体験によって知る事になるのかというと、そうでは無いんです。
それは、ただ知っているだけで、体験として理解している事にはならないんです。

では、どのようなものが、体験によって知るということなんでしょうか。
少し前の放送の、東洋哲学と西洋哲学の違いという回では、体験によって知るという状態を、自転車に乗る行為に例えましたので、復習のためにもう一度、自転車に乗る例で考えてみましょう。

自転車に乗ることが出来ない人間は、最初、自転車に転ばずに乗る方法を知りません。
その状態で、自転車に乗る方法を知るためには、実際に自転車に乗ることの出来る人間に、教えて貰う必要が有ります。
そして、実際に行動を起こして聴いてみると、『自転車にのる為には、一定以上のスピードを出す必要があるから、思い切ってペダルを踏み込むことが重要だよ』と教えてくれたとします。
この状態で、教えを請うた人間は、自転車の乗り方を知ったことになります。

では、知ったからといって、その知識を得た人間は、その時点で自転車に乗れるんでしょうか。
運動神経の良い人などは乗れるかもしれませんが、多くの人は、乗ることが出来ません。
じゃぁ、なんで乗ることが出来ないのでしょうか。 乗れる人に聞いて知識は持っているはずなので、その通り実行すれば 乗れるはずですよね。
でも乗れないのは、人から聞いて知識を得た人間は、記憶として知識を得ているだけなので、他の人から『自転車に乗るコツを教えて。』と聞かれれば、先程教えてもらったことを復唱することは出来るんですが
それを体験として理解していないので、乗ることは出来ないんですよ。

例えば、この知識を持っているだけの人が、いざ自転車に乗ろうと思った場合には、様々なことを考えます。
乗れる人に教えてもらったのは、『スピード出せば安定するので、思い切って踏み込むこと』ということなんですけれども、実際に実行しようとすると、殆どの場合は出来ないんです。
何故なら、この人は、『ゆっくりの状態でもコントロールが難しいのに、スピードを出すと、操作がより難しくなるのに違いない。その上、もし転んだ場合、スピードが出た分だけ大きな怪我をするんじゃないか。 』
こんなことを考えてしまって、なかなか、実行することが出来ないんです。
結果として、実際に乗りこなすためには、それなりの練習期間が必要となります。

では、何故こんな事が起こるのでしょうか。
この練習している人物は、実際に自転車に乗れる人間に、その方法を教えて貰うことによって、自転車にのるために必要な知識は得ていますよね。
後は、これを実行すれば良いだけなんですが、実際には実行することが出来ない。
これは、教えてもらった知識を、本当の意味で理解できていないから。つまり、体験として理解できていないからなんですね。

では、この人物が本当の意味で、自転車の乗り方を理解する場合は、どうしたら良いかというと、体験として、実際に乗りこなす以外にはないんです。
実際に力強くペダルを踏み込むことで、自転車が安定することを体験を通して実感するしか、理解する道は無いんです。
逆にいえば、この体験をする前の自分というのは、教えてもらったことに対して、心の何処かで教えを信用していなかったとも、本当の意味で理解していなかったともいえますよね。

そして、ここからが、知識や理解、体験として理解するという部分の難しいところなんですが、この人物が練習によって自転車に乗れるようになったとして、自分以外の他の乗れない人から『自転車の乗り方を教えて。』と教えを請われた場合
この人は、『自転車は一定速度以上を出すと安定するから、思い切って力強く踏み込むだけだよ。』としか、答えようがないんです。

でも、このセリフというのは、自分がまだ自転車に乗るという体験ができていない状態で、乗れる人間に乗り方を教えてもらった状態の時に、つまり、乗れないけれども他人から聴いて、知識だけ知っている状態の時に、誰かに尋ねられたとしても、同じ答えが出来ますよね。
つまり、体験として理解していても、体験としては理解が出来てなくて、知識だけを知っている状態の時でも、他人から問われた時には、同じ様な答えしか発言できないということなんです。
ここに、言葉の限界というものが有るんですよね。

つまり、相手が本当に体験として理解できているのか、本当は体験としては理解できておらず、知識として知っているのかというのは、その人間を外側から見ている人間には、見分けがつかないですし
仮に見分けがついたとしても、体験したイメージを、言葉を通して理解することも伝えることも出来ないということなんです。

身近な、その他の例で考えてみると、これを聴いている皆さんの年齢がどれぐらいかは分かりませんけれども、人生のうちで、教える立場になった事がある方も多いと思います。
例えば、職場や学校の部活などで後輩が入ってきたときだとか、子供に対してものを教えるときだとか、様々なところで、教える機会というのが有ると思います。
この際に、自分が教えた内容が相手に伝わっていないという経験をした方って、結構多いんじゃないでしょうかね。

例えば、相手が明らかな間違いをしているので、次から同じ様な間違いを起こさないためにも、言って聞かせようとするとかですね。
でも、日本で育って、同じ日本語を話しているはずの人間に、日本語で注意をしているはずなのに、話が通じない場合というのが、結構有りますよね。
少しシチュエーションは違いますが、ここでいっていることは、そういうことなんです。 先程も言いましたが、これが、言葉の限界なんでしょうね。

私の経験した例で話すと、私も社会人として働いていますし、立場の関係上、指示を出さなければならないことって、結構有るんですね。
で、私が働いている業種は、閑散期と繁忙期が割とはっきりしているので、閑散期は仕事がなく、細々とした仕事と掃除ぐらいしかすることがない事も多いんです。
この閑散期は、私は、技術を必要とする細々とした仕事を片付けたりするんですが、技術が無くて、する仕事がない人には、『掃除をしておいて』と指示をだすんです。
まぁ、この時期ぐらいしか本格的な掃除というのが出来なかったりしますからね。

でも、その指示を受けた人は、やらないんですよ。 というか、本人的にはやっているつもりなんですが、実際にやってる行動は、散らかしているだけなんですね。
もう少し具体的にいうと、忙しい時期でもする掃除というものが有ります。その際の掃除というのは、作業場の床に掃除機をかけるだけなんですね。
その人に対して、『いまする仕事がないから、掃除をしておいて』というと、作業場の床に掃除機をかけるという5分ぐらいの作業だけを行って、後は、床に座って休憩をし続けるわけです。
そこで、『忙しい時期にする掃除と、暇でやることがないときにする掃除は、違いますよね。』と注意して、もう一度、『掃除をしておいて』と指示を出しても、特に行動を起こさないんですよ。

では、何故こんな事が起こるのかというと、指示を受けた人は、掃除をするという事が、どういう事かということを、本当の意味で理解できていないからなんですね。
そこで私は、『掃除とはどういうことなんですか?』と質問します。人間は、相手がどの様な考えをしているのかを知るためには、言葉によるコミュニケーションを取る以外の選択肢がないので、相手が理解できていないと思うのであれば、理解度を知るためにも、質問しなければなりませんよね。
そうすると、その従業員からは、『汚いところを綺麗にすることです。』と答えが返ってくるわけです。
この答えは正しくて、私はこう返されると、言葉で何も言い返すことが出来ないわけですよ。 というのも、掃除にそれ以上の理解は必要ないからです。汚いところを見つけて、綺麗にするだけ。それが掃除なんです。

言葉のやり取りとしては、この従業員は、私の指示も理解していますし、掃除の意味も理解しています。
なので、その支持に従ってもらわないと困るわけですけれども、掃除をしないんですよ。では何故、支持された行動を取らないのでしょうか。
答えは簡単で、その従業員は、どの状態が汚れているのか、そして、どのような状態にするのが綺麗になった状態なのかというのが、理解できていないからなんですよ。
だから、その従業員の認識としては、掃除というのは、忙しい時期でも毎日行っていた、作業場の床を掃除機がけする事とイコールになっていて、そこから先の思考というのが無いんです。
その従業員にとっては、汚い場所というのは イコール 作業場の床で、そこを5分間、掃除機をかければ、キレイな空間が出来ると思っていて、そこに疑いを持っていないんですね。

ですから、この言葉のやり取りを、それぞれの認識としてみてみると、私の主観としては、部屋全体を見渡して、整理されていないところは整理して、ゴミを見つけたら拾って、掃除機をかけて、拭き掃除をして…といった感じの事を、まとめて行ってください。
つまりは、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と言っているわけですが、聞いている側の従業員は、部屋の汚いところは作業場の床だけで、その床は、掃除機を5分かければ完璧にきれいになると思い込んでいるんですね。
だから、部屋の汚いところを見つけて、掃除をしてください。と指示をすると、それを聴いた従業員は、作業場の床を5分掃除機がけをして、全作業は終了したとして、休憩するわけですよ。
仮に床にゴミが落ちていたとしても、そのゴミを避けるように掃除機がけをしますし、動かせる荷物が置いてある場合、それを動かして掃除機をかけることもないんです。
ただただ、床に掃除機をかけるだけで、掃除は終了なんです。

ですから… 先程も言いましたけれども、同じに日本語を使ってコミュニケーションを取っているつもりなんですが、実際には、そもそも両者が使用している言語は違うものなので、コミュニケーションはとれていなかったということなんです。
なので、私がこの従業員に掃除を行って貰う場合、全ての箇所について、どの様に作業をしないといけないかを、いちいち支持しないといけないんですね。
床を掃除する場合には、ゴミは拾って掃除機をかけて、移動出来る荷物がある場合には、それを移動させて掃除機をかける。
移動させて掃除機をかけた後は、移動させたものを元の位置に戻すというのも、言わなければなりません。これを言わないと、動かしっぱなしで余計に散らかってしまうという状態になってしまうんでね。

床の掃除が終わったら、置いてある機械のホコリを払うとか、トイレ掃除をするとか、窓を拭く…といった感じで、全てのことに対して言わなければ、やってもらえないんですね。
で、こういう風に、やるべき事を全て言葉で伝えていくと、次に、別の問題が出てくるんです。
それは、聴いている側にとって、そんなに沢山、覚えられないという問題ですね。

確かに、一つ一つを覚えていこうと思うと、膨大な量になると思います。
閑散期の大掃除なんて、やりだしたら、それこそ幾らでも やるべきところを見つけられるもので、5分で終わるようなものでも無いですよね。
それを全て言葉で伝えようと思うと、それこそ、膨大な量になってしまいます。

しかし、実際にこちらが伝えていることは、たった1つのことなんですよ。
それは、『掃除をしてください。』って事で、その意味は、『汚いところを綺麗にする』という意味でしか無いものですよね。
そして、それを聴いた相手は、しっかりと言葉として聴き、その意味を理解しているんです。にも関わらず、意思疎通が出来ないんです。
これは、先程から言っている通り、同じ日本語を話しているにも関わらず、同じ言語を話していないから、意思疎通が出来ない状態になっているわけです。
では、同じ日本語なのにもかかわらず、何故、言語が変わってしまうのかというと、『掃除をする。』という言葉を、知識として知っているか、体験として理解しているかの違いなんです。

それでは、体験として理解するというのはどういうことなのかというと、今まで勉強してきた事に置き換えると… まぁ、厳密に言うと違うんですが、プラトンイデアという考え方が近くて、それを持っているかどうかという事になるんだと思います。
つまり、掃除というイデアを持っているかどうかという事になるのではないか?ということですね。
このイデアというのは、第2回3回辺りの過去の放送で話していますので、まだ聴いておられない方は、そちらを参考にしてください。

ということで次回は、体験をイデアに置き換えて、もう少し掘り下げて、言葉というものについて考えていこうと思います。

人手不足倒産?求人増加はアベノミクスの成果なのか。

最近、人手不足倒産という言葉をよく聞くようになりました。
また、アベノミクスの大成功で求人が大幅に増えて、もう直ぐ完全雇用になっちゃう!なんて話も聞かれるように。

数字しか見てないお偉いさん方や政府の人には、世の中がそのように映っているんでしょうが、現場で働いて経済を肌で感じている私としては、この話に違和感しか感じません。
という事で今回は、人手不足について考えていきます。

個人的に・・・というか、人手不足の原因については10年以上前からいわれていたことですが、今起こっている人手不足は、単純に企業の採用担当が無能だっただけで、景気が良いわけでもアベノミクスの影響でもありませんよね。
では、10年以上前から、労働市場でどのような事が言われてきたのかという事について、振り返って考えていきましょう。

まず、日本というのは基本的には社員をクビにすることが出来ません。
クビにする為には、結構なハードルがあり、社員に余程の非がない限りは首にはなりません。
日本は、戦後の焼け野原からの復興や、生産拠点がアメリカ等から日本に移ったこともあり、高度成長期を迎えました。
その頃は、需要過多からの慢性的な人手不足だったせいもあって、終身雇用制だった為、そもそも、教育を終えた社員をクビにする必要が無かったのでしょう。
この終身雇用も美化されて語られていますが、基本的には供給不足が前提となって生まれた制度です。
供給不足の社会の場合は物が足りないわけですから、人を解雇する理由もない。また、スキルを身に着けて生産性が上がれば、それだけ利益を生み出すわけですから、会社に余裕が出てくる。
せっかく育てた社員が他社に引き抜かれたら、堪ったものではないので、それを阻止する為に給料を上げる。終身雇用制とは、当時は理にかなった制度で、経営者が人格者とかそういったものではありません。

そんな状態が続いて迎えたのが、バブル景気です。
戦後からの長い高度成長期で人口が増え、また、大家族から核家族化が進んだことによって、人々は住む為の家を建てる土地を求めました。
日本は国土面積が狭く、その上、大半が山岳地の為、平地の需要は強く、需給関係から価格は上昇し続けました。
バブル景気は、この『土地の価値が下がらない』という不動産神話を背景に起こりました。
不動産価格は上昇しまくり、不動産の買い占めの為に資金需要が大幅に増加し、貸出の為の金がなくなった銀行は、高い預金金利で一般からお金を集めました。
銀行や郵便局に預ければ、株などのリスキーな事を一切すること無く、元本保証で10年で資金が倍になる程の高金利時代。

これは、仮に、1000万円を預ければ、最初の10年で2000万になり、次の10年で4000万になり、次の10年で8000万になり、次の10年で1億6000万になる。
最初の1000万円が40年後には1億6000万になり、そこまで膨れ上がった元金は、毎年、1300万程度の利息収入が得られる状態。
つまり、20代である程度、節制した生活をして大きな金額を貯金すれば、後は収入を全額使ったとしても、退職後には金利だけで1000万円超えの生活が出来たという事。
この当時は、今ではブラックな運送業で必死に頑張ると3~4年で1000万円程度は余裕で貯まるといわれていた時代。 体力のある若い時代を数年捧げるだけで、定年後には金利だけで1000万。それに年金を加えたら、月に100万程度使える余裕がある生活が送れたわけです。

また、子供が出来たとしても、負担は殆どかからないのがこの時期。
一番カネがかかると言われている大学も、子供が一人暮らしをする為のマンションを買い与えれば、子供が大学を卒業した頃にはマンション価格が上昇していて、マンションの売却益によって大学の授業料や生活費が回収できて、上手く行けばお金が余ると言われていた時期。
何も考えずに、行き当たりばったりで生きていても何とかなったのが、高度成長期からバブルにかけての時期。

こんな状態なわけですから、当然、消費意欲も旺盛になり、お金がどうでも良い事にドンドン使われた。
思いつきの事業でも失敗するほうが難しかったでしょうし、経営能力ゼロの馬鹿でも、それなりに事業をやっていけたのがバブル時代。
作ったものは作っただけ売れるので、企業は大量の人を欲しがり、人材獲得合戦へと突入しました。

今では、エントリーシートだけで何十社も送り、面接までこぎつけるのも一苦労…なんて言われている就職戦線ですが、バブル期の就職というのは非常に楽。
まず、会社はいくらでも人を確保したいと思っているので、超が付く程の売り手市場。その為、面接に行くだけで交通費が1万貰えたそうです。
面接を受けに行けば、その場で合格が貰えるのですが、せっかく確保した人材が他の企業に取られると困る為、企業が考え出したのが、内定者の拉致。

拉致といっても非合法なものではなく、グアムなどのリゾート地に、研修という名目で就活期間が終わるまで遊んでもらうというもの。
リゾートから返ってきたら、就職活動期間は終了していて、就職先も決定しているというわけです。

正に、人生、イージーモード。

しかし、こんな馬鹿な時期がそうそう長く続くはずはありません。
バブルは崩壊し、状況は一変してしまいます。
作ったものは売れず、物が余るようになり、企業は在庫の処分や生産設備の活用の為に、商品を安売りせざるを得ません。
バブルによって、本来の価値以上の金額が付けられていた土地価格は一本調子で下落している為、不動産関連の資金需要も無くなった上、今まで貸していた不動産向け貸付が焦げ付き始めて不良債権化し始めます。

資金需要がなくなった上、銀行の自己資本が傷つき始めた為、銀行は一般からの預入を減らそうと、預かり金利を引き下げ始めました。
これによって、退職後の金利生活を夢見ていた人の夢は脆くも崩れ去り、消費は更に落ち込む事になります。

この様な状態になると、企業はバブル期に何も考えずに大量に採用してしまった、不必要な人材を必要以上に大量に抱えることになります。
そしてその人材は、高度成長期から続く終身雇用制によって、気軽に解雇することが出来ない。
既に雇った人間の首を切れないのであれば、企業が社員数の帳尻を合わせる方法は一つしかありません。

それは、新規雇用者数を減らすという方法です。
バブル期に抱えてしまった人材は、定年まで辞めさせる事が出来ないので、新人を取らないことで人件費を抑えようとしたんです。
この行動によって生まれたのが、就職氷河期です。
約10年以上にわたって雇い止めが行われた結果、企業内の年齢層に空洞部分が生まれてしまいました。

そして、ここ最近になり、バブル時代に大量採用した人間が、一気に定年になり始めました。
こうなると、企業は当然のようにに人材不足となります。
その足りない人数を、また、企業間で奪い合っているのが現状です。

つまり、アベノミクスは全く関係がなく、単純に大手企業の採用担当が無能なので起こっている現象というわけです。
仮に、アベノミクスが成功し、経済が発展したことによって人材募集が活発になっているのであれば、人件費は上昇していなくては辻褄がありません。
しかし、起業の募集をみると、人材が足りないと言われている業界でも、正社員で年収200万以下の求人なんてザラ。
フルタイムで働いて貧困層になってしまうような求人で、『経済成長のお陰!アベノミクス様々!!』なんて言われても、説得力が全く無いんですけどね。

ちなみにこんな事は、就職氷河期に突入した序盤から言われていたことです。バブル世代の大量退職時に人が足りなくなるなんてことはね。
にも関わらず、今になって焦って求人。 しかも給料は払わない。 こんなので人が集まるわけがありませんよね。

この現状を何とかする為に、国は動くことになります。
その方法とは、年金支給開始年齢の引き上げと、定年年齢の引き上げ。この策により、企業は5年の猶予が得られ、国は年金支給額を抑えられる可能性が出てきました。
正にwin win ですが、庶民の私達にとっては、とばっちりも良いところですよね。

今の人手不足は、基本、こんな流れで起こっているので、潰れたくないんなら、内部留保貯めずに人件費に当てて、就職氷河期時代に冷遇した人達に土下座して頼めば良いだけなんですが、それすらしたくないのであれば、、勝手に潰れろというのが個人的な意見だったりします。

観光立国とは何なんだろうか

先日のことですが、夜の経済ニューースを見ていると、国は訪日客を1.8倍にする計画が有るらしく、観光シーズン以外でも集客が出来るように、世界各地で行われている世界レベルの様々な会議を誘致する事に力を入れていると行った報道がされていました。
その中でも、特に注目を集めているのが京都で、観光都市としては上位なのにも関わらず、会議の開催が東京の半分以下ということで、より積極的に頑張っていくそうです。

では何故、様々な誘致活動を行ってまで、訪日外国人の数を1.8倍にまで増やしたいのでしょうか。
その理由としては、訪日外国人の消費額が多いことがあげられるそうです。
日本人が国内旅行をするよりも、外国人が日本に着たほうが、一日に消費する金額が高い。
どうせ客を相手にするのなら、単価の高い外国人を受け入れた方が効率が良いということのようです。

しかし私は、ここで一つの疑問が湧いてきます。
訪日外国人が増えて、本当に日本は盛り上がってるの?って事です。

というのも、私が住んでいる場所は京都です。
京都といえば、観光したい都市の世界ランキング上位に入る程の人気都市で、当然、街も観光産業に携わっている人が多くいるわけです。
そんな私も、観光産業に携わっているのですが、訪日外国人の割合が増えれば増えるほど、売上は下がっていますし、当然、収入も下がっているんですよね。

私は趣味で、週末に繁華街を訪れて呑みに行くこともあるのですが、そこで店主の話を聴いても、良い話は殆ど聞かない。
爆買いが話題になったときなどは、京都の有名な繁華街の木屋町通では、『店に入ったら、最低、一人1品は注文してください(TT)』といった感じの張り紙まで貼られるしまつ。

その他には、お土産物屋はドンドン潰れていってますし、取り扱う商品の量も減ってきている。
京都の大手お土産物メーカーは、毎年100億の売上があったのに、去年はそれが半減したという話も聴きました。
京都といえば八つ橋ですが、八ツ橋の売上も、今年だけで3割ぐらいは下がっていますし、その他のお土産物の定番として昔からあった五色豆は、今年、大手メーカーが廃業しました。

国のお偉いさん方は、何らかのデータに基づいて、外国人観光客を呼び込んでいるんでしょうが、実際に住んでいる立場の人間からすれば、外国人観光旅行者が訪れたところで、全く恩恵がない状態。
では何故、こんなにも、国と現場で感じている事に差があるんでしょうか。

という事で、外国人観光旅行者の消費について調べてみると、一つの表が出てきました。
f:id:kimniy8:20170907234340j:plain
この表は、外国人観光旅行者が、どの分野に消費を行っているかを表したものですが、これを見て納得。
訪日外国人の支出傾向を観ると、全体的にほぼ全ての国の人が、支出額を減らしていることが分かります。
伸びているのはロシアとオーストラリアだけで、伸び率の大きいオーストラリアに焦点をあわせて見てみましょう。

一回あたりの旅行の総支出は、平均で24万円程度で平均宿泊日数が13泊。
この24万円の内、宿泊費に10万円使っていて、これを宿泊日数の13日で割ると、1泊当たり7700円ぐらいとなります。
そして交通費が4万円なので、合計で14万円。 この2つで、全体支出の6割となります。

飲食代は5万円なので、これを13日で割ると、一日あたり3846円。
オーストラリアの観光客といえば、長野や北海道にスキーにやって来るイメージが強いですが、シーズン時期の1泊7700円の宿で、2食出るとは思えないので、素泊まりと考えた場合、観光地で3食 外食して4000円未満というのは、結構、節約しているようにも思えます。
こうしてみると、外国人観光旅行客の1回の訪問あたりの支出が多いのは、比較的長期間滞在するから、宿泊代が跳ね上がる(1泊あたりの宿泊費は安い)、欧米からの訪問者の場合、頻繁に来れないから、一回の訪問で色々訪れようと、福岡・京都・大阪・東京など移動しまくるため、電車代で結構使うというのが主な理由ということが分かります。
全体を通して交通費が3~6万の間で推移しているのは、外国人限定の新幹線乗り放題サービスが関係しているのでしょう。
JAPAN RAIL PASSとは? | ジャパン・レール・パス | JAPAN RAIL PASS
f:id:kimniy8:20170907234823j:plain

ちなみにこれは、支出が伸びているオーストラリアの例なので、支出がマイナスの国の場合は、もう少し渋いことになります。
一日あたりの宿泊費は5000円前後まで抑えられ、娯楽・サービス費用は半分から4分の一にまで下がります。
娯楽・サービス費用が下がるのは当然でしょう。先程も書きましたが、オーストラリア旅行客の多くは、冬に長野や北海道に行って、スキー・スノボなどのウィンタースポーツを行うために来日する場合が多い。
その一方、単純に観光で来る場合は、料金の発生する施設にはいかず、ただ散策して眺めて終りとなるわけですから、基本的にはお金は使わない。
全体の平均宿泊日数が10日で、娯楽・サービス費用が4725円という事は、1日あたりの娯楽費は500円以下ということで、本当に消費が行われていないことが分かります。

これを見て、納得。
京都というのは、観光スポットが離れている割には、電車がつながって無くて、観光しにくい土地だったりします。
その為、国内の修学旅行客などは、生徒を4人一組に分けてタクシーを1日チャーターして、ドライバーにガイド役をさせて観光名所を回ってもらったりするんですが、外国人観光旅行客はというと、基本的に移動は歩きかバスかレンタサイクル。長距離移動は新幹線の乗り放題サービスを利用。
極力金を使わない移動手段を選び、伏見稲荷大社など、拝観料の必要が無い観光地に行く。
風貌も、大きなリュックを背負ったバックパッカーみたいな人達ばかりで、富裕層が観光旅行に来ているという雰囲気が全く無い。

また、夜、BARに呑みに行っても、カップルで来て酒を頼むのは男性一人で、それを2人でまわし飲み。
その上、チェック後、チャージ料や消費税にイチャモンを付けて怒り出す客も一定割合でいる。(主に欧米系が多く、アジア人はそもそもBARで余り見ない)その中には、一人で切り盛りしているバーテンを2時間占領して散々接客をさせた上、『他の店に行くから案内しろ』という客も見たことが有ります。
文句が多い上に客単価が非常に少なく、その上、手間がかかる為、正直、来ないで欲しいと漏らす人も結構いたり。


では、買い物代はどうなのかというと、買い物に関しては、欧米などよりも東・東南アジア圏の人達の支出が目立つことが分かります。
中でも突出しているのが中国で、一回の旅行で12万円も買い物をしてくれていますし、台湾や韓国も、宿泊日数の割には買い物をしてくれていることが分かります。

ただ、この近隣の国の買い物というのも、そのまま鵜呑みに出来なかったりもするんですよね。
というのも、iPhoneの新作が発表された時に、中国人が物凄い行列を作り、一人で何台も購入したなんてニュースがありましたよね。
こんな感じで、近隣国の買い物というのは、転売ヤー仕入れも混じっている為、完全に鵜呑みにも出来ないんですよね。

ここで、『売れているんだから問題ないだろう!』という反論もあるんですが、この転売ヤー仕入れによる売上増加は、アッという間に無くなる可能性もあるから、信用出来ないんです。
というのも、近隣国からの訪日客の支出が軒並み大きなマイナスを記録しているのは、単純に転売ヤーが減ったからとも考えられるからです。
転売ヤーというのは、普通の人が買いにくい人気の高い商品を、いち早く仕入れることによって、利益を得ることが出来ます。
例えば、iPhoneが、中国でもネット経由で定価で買うことが出来るようになれば、わざわざ日本まで出かけてきて行列に並んで購入する人がいるでしょうか。

IT革命以降、情報技術はドンドン進んできているので、これを利用した様々な販売方法によって、転売ヤーを通さずに直接、企業が客に届けられるようになってきています。
つまり、アジア圏の買物代というのは、今後、大幅に下る可能性があるということ。

こんな感じで見てみると、『観光立国を目指す!』と言っている割には、観光地で働く人たちにお金が落ちていないことが分かります。
光都市と呼ばれる京都でこんなんだから、全国で見ると、観光産業はもっと酷い状況になってるんだと思います。
簡単に言うと今の日本は、治安が良くて安全で、カネを使わなくても観光できる、バックパッカーにとって良い国という感じになっているんでしょうね。
バックパッカー御用達の国といえば、観光客からボッタクるなんて事をして、他の国は潤っているのかもしれませんが、日本の場合は、それらの国に比べて元の物価が高いので、そんな事もしにくい。
その上、『お・も・て・な・し』で料金が発生しないことにも丁寧な対応を求められるわけで…

私の主観では、ドンドン疲弊していっているようにも見えます。
日本はこのまま観光立国を目指したほうが良いのか、真剣に考える必要があると思いますね。

理系人口が増えないのは何故なのか

ここ最近、『日本で理系が育たない。』という話をよく聞きます。
はじめに聞いたのが何年前だったのかは忘れたしたが、結構前から、この様なことは言われていたような気がします。
にも関わらず、何故、これが改善できないんでしょうか。原因は、何なんでしょうか。
ということで今回は、これらの事について考えていきます。

原因は非常に簡単で、理系は労力の割に儲からないからなんでしょう。
『原因は金だけ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、資本主義社会では、金は評価の全てです。
必要とされるから、評価されるから、資本主義社会では金が得られるのです。

逆にいえば、金が貰えないということは、評価もされていないし、必要とされていないという事。
必要とされていない分野に積極的に行こうと思うのは、余程、その分野が好きな人だけでしょう。
資本主義社会では、特定分野の人口を絶対値として増やしたいのであれば、儲かる環境を作るしかありません。
しかし、日本では何だかんだで、それが出来ていない。それが、理系離れが解消できない唯一の原因でしょう。

これを聴いて、『科学者も、それなりに給料がもらえるんじゃないの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、現在は低所得者層が増えているので、大きな会社の科学者・研究者はそれなりに給料をもらっていると感じる方も多いかもしれません。
文系と理系で平均年収を比べると、理系のほうが高いというデータも多く有るので、平均値で観ると、理系は評価されていることになります。
しかし誤解の無いように書いておくと、ここでいう評価が低いというのは、平均年収とかそういうものではありません。

また、数字において平均値ほど信用できないものはありません。
例えば、年収100万円の人間が100人いたとします。その中に、年収1億人の人間を1人放り込めばどうなるでしょう。
101人の平均年収は、たった一人の富裕層によって、約2倍に引き上げられる事になります。
逆も同じで、極度の貧困層が一定割合存在すると、平均値は大幅に引き下げられることになります。

もう少し具体的に書いてみると、文系の給料は平均値は理系よりも低いが、桁外れの高所得者層がそれなりにいる。
ただ、その一方で、貧困層もそれ以上に多く、結果として平均値では文系の方が低い値になっている。
その一方で理系というのは、技術職的な側面が有る為、何も特技を持たない人間よりも、基本的には給料は高いんですが、桁外れの高所得者層は少なく、その一方で貧困層も少ない。
つまり、平均値の人が多い。

苦労した上で平均値よりも少し上ぐらいの給料をもらって、平穏に暮らしたいと思っている人は、理系の道を選ぶのが良いのかもしれません。
ですが、出世して平均値を大きく超える給料をもらいたいと思うのであれば、文系一択になってしまうのが、今の日本なんでしょう。

簡単にいえば、文系は上手く行けば、楽して一攫千金のチャンスが有るが、理系は苦労して平均所得より少し上という事。
もっと噛み砕いていえば、文系は夢が有るが、理系に夢は望めないということでしょうか。

これは、実際に世の中に出回っている商品を見てもわかりますよね。
例えば、ペットボトルに入った水素水を堂々と販売するなんて事は、理系には無理でしょう。
そもそも水素を口から取ったところで、ゲップやオナラで出てくだけですし、水素分子は小さいので、ペットボトルでは閉じ込められず、出ていくそうです。
つまり、科学的根拠はなんにもないわけですが、それで結構なお金が動いたりします。

水関連でいれば、水に『綺麗だよ』なんて言葉を投げかけると、水の分子がきれいになって、それを飲むと健康に良いなんて話もありましたよね。
それを鵜呑みにした教育環境の人が、その話を道徳の時間に教えたり、『綺麗だよ』と投げかけて出来た水で牛を育てる酪農家なんてもの登場しましたが、そんな事が理系の人に出来るでしょうか。
先ず無理でしょう。まともな神経を持った理系の人は、そんな非科学的なことを堂々と発言することは、恥ずかし過ぎて出来ないでしょう。

こういったことが出来るのは、科学的な知識がないからこそ、それを無視して背景にストーリーを作ることが出来る、文系の人だけでしょう。

その一方で理系はというと、中村さんという方が苦労して青色発光ダイオードを作ったら、『会社の金と設備を使って作ったんだから、会社のもんだよね。』と作ったものを取り上げてしまう。
その日亜化学工業という会社の行為にあまりにムカついて、日亜をやめてアメリカの別会社に再就職したら、日亜がアメリカの再就職先の会社に嫌がらせをしてくるしまつ。
その嫌がらせに耐えきれなくなった中村さんは、とうとう裁判を起こすという事態にまでなってしまった。
しかし日本のメディアは、日亜の嫌がらせ部分には触れず、『発明が成功した途端、今まで支えてくれていた会社をやめてアメリカに!』って感じの報道しかしない。
中村修二 ‐ 通信用語の基礎知識

青色発光ダイオードなんて世紀の大発明をした人ですらこんな扱いをされるわけですから、他の無名な科学者なんで、本当に飼い殺し状態なんでしょう。
その一方で文系は、先程も書いた通り、科学理論なんて無視して、聞こえの良いストーリーやベースさえ作ってしまえば、一攫千金が可能です。

この前も、ほぼ日手帳が上場しましたよね。
科学者が、試行錯誤をしながら理論や実験を繰り返す一方で、手帳のレイアウトで上場まで出来てしまうのが文系の凄いところです。
手帳が大ヒットして売れるだけでも濡れ手に粟状態なのに、創業者は株式上場に伴う株の売却益でも、ものすごい額を手にしたことでしょう。

本来、上場というのは、資金が必要な企業が株主を公募することによって返済不要の資金を得て、それを設備投資などに使って、更に成長するというのが目的で行われます。
キャッチコピーや手帳のレイアウトなんて、基本的には大掛かりな設備投資は必要ないので、上場目的は、株式売却による上場益以外はない。つまり、上場ゴールなんですが、創業者の方は、ここでも独自のストーリーを展開して、周りを納得させていましたよね。
そのストーリーは、自分がいなくなったとしても、会社が残るようにだそうです。 別に、上場しなくても会社は残りますよね。
でも、こんなストーリーを作って誤魔化すことが出来るのが、文系の強みです。

ただのバッグも、ストーリーを付けて、有名なロゴを付けるだけで、5万のものが150万になる。
LSDをキメながら、上から絵の具を垂らしただけの作品も、ストーリー次第で150億で売れる。
これらの文系の可能性を考えたら、今の社会で理系を選ぼうとは思えません。
だって、理系で同じぐらいの注目を浴びようと思ったら、ノーベル賞が必要ですから。。

ノーベル賞を取ることに比べたら、一つのストーリーで一発当てる方が、確立は遥かに高いでしょう。
本当に理系を増やしたいと思うのであれば、単純に助成金を出すといった短絡的なものではなく、理系が認められやすいように社会構造から変革させていく必要があると思うんですけどね。

政府主導の情報銀行は うまくいくのだろうか

少し前ぐらいから、情報銀行という言葉を聞くようになりました。
情報銀行とは何なのかというと、物凄く簡単にいえば、今、氾濫している情報をまとめて、それを企業に有効活用して貰うことによって、経済活動をより活発にしよう!といった感じの高層です。
国が主導して積極的に行っていくようです。

ビッグデータの活用といえば聞こえは良いんですが、私個人の意見としては、今更感が非常に強い印象しか受けません。
というか、新たな天下り先を作っただけとしか思えないんですよね。
私のブログでは、あまり政府を褒めるといった記事は書いていないので、また文句かと思われるかもしれませんが、過去に作った政府主導の組織を見てみると、文句も言いたくなりますよ

例えば、クールジャパン戦略の一環として立ち上がった、アニメ制作とかね。
wedge.ismedia.jp

日本を元気にするコンテンツ総合戦略60億円の負の遺産:ALL NIPPON ENERTAIMENT WORKS4年間の杜撰な経営実態と公的資金投資評価hiromasudanet.wordpress.com

この例でいえば、政府主導で世界に通用する日本のアニメ作品を作ろう!と60億円程の資金を投じた結果、今だに一本も発表されていないという状態だったりします。
私はアニメ業界に詳しいわけではないですが、地上波テレビなどで放送される30分枠のアニメ(実質20分の動画)を制作するのに、1話あたり1300万程度という話を聴いたことが有ります。
1クールが13話程度なので、動画の時間としては260分で1億6900万円。

映画の場合は放映時間は120分程度が多いですが、クオリティーが勝っている部分が多いので、予算は地上波アニメよりは掛かるようですが、それでも10億円以下というのが主流のよう。
あのジブリが傾いて経営危機になったと言われている『かぐや姫の物語』でも、かかった費用は50億のようですが、公務員が行ったクールジャパン戦略では、それ以上の予算を使って、未だ1本も公開されていない。

というか、そもそもが日本のコンテンツを世界に売り出そうという趣旨で組織されたのに、何故、ハリウッドに制作を投げるのかも意味不明。
こんなことなら、日本に有るアニメ製作会社20社程に、3億円ずつ配って『好きなアニメ作って!』って言ったほうがマシだったんじゃないかとすら思えます。

公務員が行う事業なんて、こんなものなので、組織は作るだけ無駄。
その上、その組織が損失を出した場合の原資が税金だというもの腹立たしい。
まぁ、損失を出したところで、担当者が借金を背負ったり、株主から責められるなんてことが無い立場なんで、こんな環境で上手くいくと考えるほうが、どうかしているのかもしれませんが。
優秀な公務員というのは、少ないコストで高いパフォーマンスを出すことではなくて、思いつきの案で大量の予算を確保出来ることですからね。

と、余談が長くなってしまいましたが、とりあえず言いたいことは、国が絡むと余計にややこしくなる上に、効率が悪そうとい事。
税金関係でもなんでもそうですが、国が作る仕組みや書類というのは、基本的には利用する人間のことは考えていない作りとなっています。
ユーザービリティが低いというのでしょうかね。

そんな国の作る仕組みだから、今回の銀行も、非常に面倒くさそうな感じなんじゃないか感が凄い。
って事で、軽く調べてみることにしました。
www.sankeibiz.jp

今、考えられている仕組みとしては、先ず、個人が『情報銀行』にアカウントを作り、そのアカウントに個人情報を入力していくらしい。

…まず、この時点で普及する見込みがなさそうな感じ。
情報銀行では、情報を集めた上で、企業に優良でそれを貸し出し、その利益の一部を個人にも還元する仕組みを想定しているそうなんですが…
物凄く面倒くさそう。

先ず、アカウントを作るのが面倒くさいし、現金を受け取るのであれば、そのアカウントに口座やクレジットカード情報を打ち込まないといけない。
そして、睡眠時間や歩いたルートなどなど、様々な情報を打ち込むか、専用アプリをダウンロードした上で、アプリ同士の連携をさせなければならない。
こんな面倒くさいことをして、一体いくらぐらいのリターンが返ってくるのだろうか?

これと全く同じような事をしている民間企業のCCCを例に、考えてみましょう。
『CCC』なんて、聴いたこと無いよ?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、『Tポイントカード』を発行しているTSUTAYAの母体です。

このTカードですが、普通の小売店が顧客囲い込みの為に発行しているポイントカードとは、根本的に違います。
普通のポイントカードと混同している方などは、『同業他社のようなライバル企業も導入しているし、囲い込みにならないよね?』なんて発言をされる方もいらっしゃいますが、Tカートの本当の狙いは囲い込みではなく、情報収集です。
簡単にいえば、買い物履歴を全て記録し、そのデータをCCC本社に溜め込む事が目的なんです。

では、CCCの情報収集に、何故多くの企業が協力をするのかというと、CCCが溜め込んだ大量のデータというのは、加盟店であれば有料でレンタル出来るからです。
これにより、大手企業は情報収集の手間が大幅に省けるだけでなく、同じ様に加盟している他社の販売履歴も閲覧ができるようになる為、戦略上、非常に優位に立てるということです。
例えば、映画館に行っている客の20%が、その後、ファミレスで食事をしたというデータが有ったとします。
この場合、ファミレスが独自でポイントカードを発行して顧客データを集めた場合は、自分の店舗と映画館の売上の相関関係が分かりません。
しかし、Tカードに加盟して相関関係が分かった場合、映画の半券を持ってくると、ドリンクバーを無料にしますよというキャンペーンを行うことで、映画館帰りの客をピンポイントで狙い撃ちすることが出来、映画館帰りの客の比率を20%だったものを40%に増やせるかもしれません。

こんな感じで、他業種の消費動向も含んだ戦略が立てることが出来る為、効率的だということでTカードを導入しているんです。
では、Tカードの消費者への還元率はどれぐらいなのかというと、200円の消費で1円程度。つまり、0.5%しか還元されていません。
私は、還元率の低さが馬鹿らしくてTカードは持っていませんが、民間企業が経営として個人に支払う情報利用料は0.5%だということです。
提携先サービス早見表 | Tサイト[Tポイント/Tカード]

では、情報銀行はどれぐらい貰えるのでしょうか。
これは、まだ始まってないので何ともいえませんが、データ販売量がCCCと同じ場合、1年間せっせと情報を打ち込んだとしても、年間で1000円も貰えないような気がします。
と言うかそもそも、消費に結びつくような分野では、既にCCCやAmazongoogleなどがビックデータ市場を押さえ込んでいるので、今更どの分野で情報を集めるんでしょうか。

ビッグデータというのは、それなりの人数とデータが揃わないと、そもそも意味を成さないものです。
それなりの人数からデータを集めようと思う場合、誰でも簡単に使えて、尚且つ、個人のリターンが大きい仕組みを作らなければ、個人は情報を提供しようとすらしないでしょう。
仮に、提供しても良いと言ってくれる人がいたとしてお、入口部分で面倒くさければ、手続きを行うこと無く、それで終了です。

国は余計な組織を作ろうなんてせず、民間を効率的に動かすための法整備だけに特化したほうが、良いと思うんですけどね。
そういえば国は何年も昔に、『病院ごとに診察券を作らず、1枚の診察券に統合しよう! カルテも電子カルテ化することで、効率が上がるぞ!』なんて事を言ってましたね。
ある病院で検査をして、設備的に手術が無理だから、別の病院を紹介されたら、そこでも同じ検査をされるというのが頻繁に起こっているので、診察券を統合して、電子カルテで情報も共有すれば、無駄がなくなって医療費削減にもなるといった感じで。

それって、まだ実現してませんよね。
今でも、薬局に行くと『お薬手帳』を作られて、印刷されたシールを自分で貼らなければならないし、病院に行く度に、手帳を持参しなければならないので荷物が増えている状態なんですけど…
医療業界という一つの業種内での情報の集積が出来てないのに、何故、分野を跨いで出来ると思ったんでしょうかね。

まぁ、情報銀行なるものが出来る前から文句ばっかり言っていても仕方のないことなのかもしれないですし、2018年中には出来るそうなので、私の予想に反して、この銀行によって世の中がより暮らしやすくなってくれれば良いんですけどね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第12回 東洋哲学(4) アートマン

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回は、『私』というものや、『意識』と言うものについて、私の考えを踏まえた形で話していきました。
意識は何故宿るのか、そもそも本当に存在するのかというのは、主観的な問題で、明確な答えや証明などは出来ない為、知識として理解することは難しいと思います。
東洋哲学では、知識として得ることではなく、体験として得ることが大事だと前に話しましたが、主観的な問題だからこそ、体験でしか理解できないとしたのかもしれませんね。

では、東洋哲学の基礎となったインド哲学では、どの様な解釈がされていたのでしょうか。

前回までに話してきて、『私』という意識ですが、インド哲学ではアートマンと呼んでいます。
インド哲学では、この、アートマンと、宇宙の根本原理であるブラフマンが同じという梵我一如という思想が生まれるわけですが、この梵我一如という考えが、何故、重要なのかというと
個人の根本原理と宇宙の根本原理が同じであるという事を、体験によって理解できた人間は、あらゆる苦悩から開放されて、究極の心理に到達できるとされていたからです。
『あらゆる苦悩から開放されて』という言い回しに、宗教臭さを感じる方も多いとは思いますが、ベースになっているのがバラモン教という宗教なので、その辺りは、仕方のないこととして、心のなかで線引して置いてください。

前回は、私の考えも踏まえて、意識とは何なのかということを考えてきましたけれども、では、インド哲学においての『私』アートマンとは何なのかというと、『非ず 非ず』としか表現できないものとされています。
この『非ず』というのは、簡単に説明すると、『そうじゃない』ということです。更にいうなら、『認識できないもの』という意味です。
『認識するもの』を『認識すること』は出来ないということです。

例えば、何の前提条件も付けずに、普通に、『私』とは何ですか?と訪ねた場合、多くの人が自分自身を指差して、『これが私』と答えそうですよね。
でも、その指差した私というのは、自分自身の体を観察したり、鏡に体を投影させることで認識が可能ですよね。『非ず・非ず』というのは『そうじゃない』としか言いようが無いって言ってるわけです。
自分の体は私なのかというと、『そうじゃない』というしかないし、鏡に写った自分は私かというと、『そうじゃない』としかいえないという事。
簡単に認識可能なものは、アートマンではなく、アートマンとはそもそも認識できず、捉えることが出来ず、故に壊れることもないものだと言ってるんですね。

では、イメージの世界ではどうなのでしょうか。
私たちは、イメージによって、認識している自分を認識することが出来ますよね。
例えば、目の前にコップがあったとして、それを目で見て認識している自分というのをイメージの世界で作り出すことによって、認識することが可能ですよね。

有名な野球選手にイチローという選手がいますが、その方は、最高の自分を作り出すために
『自分の斜め上にはもう一人自分がいて、その目で自分がしっかりと地に足がついているかどうか、ちゃんと見ていなければならない。』と言ったそうですが、この様に、自分をイメージによって客観視する事は可能ですよね。
では、それがアートマンなのかというと、それはアートマンではないんです。

先程の、イメージによって自分自身を観察する客観視ですが、これを行った際に、自分の主体はどの立場になるでしょうか。
例えば、コップを見つめる自分を客観視した場合、主体となる自分は、コップを観ている自分なのでしょうか。それとも、コップを観ている自分を客観視している自分なのでしょうか。
客観視のイメージを行った場合、自分の主体は、客観視をしている方に移ってしまい、コップを観ている自分というのは観察対象であって、自分自身ではないですよね。
となると、『私』という認識しているもの『そのもの』を観察することは出来ないことになります。
つまり、客観視によって観察されている自分というのはアートマンではないという事です。

これは、何回繰り返しても同じです。コップを観ている自分を客観視している自分を、更に客観視したところで、最終的な意識であるアートマンを認識することは出来ません。
認識するものを認識しようとして、無限に近いほどに客観視を繰り返したところで、認識するものは一番最後に俯瞰したところから認識するわけですから、その認識するものを認識することは出来ないということです。
その、『認識するもの』がアートマンとしています。
そして、アートマンについては、『非ず。非ず。』としか表現することが出来ないものとしています。

ここら辺りからの解釈が、かなり難しく、人によって解釈が変わってくると思います。
というのも、これを体験として、本当の意味で理解できるのであれば、それは悟った人なので、格としてはブッダと同じということになるんですよ。
しかし、私は当然のように悟ってないですし、東洋哲学系の本を出版している人達も、悟ってはいないはずなんですね。
また、仏教や、ヒンドゥー教に入信して修行している人も、悟ってない人達ばかりだと思うので、当然、解釈はそれぞれ変わってくると思います。
その為、ここで話すことが、確実に正しいとは思わずに、自分自身で考えて、自分なりの解釈を見つけてみてくださいね。

前から紹介させていただいている、史上最強の哲学入門の東洋哲学編には、人の不幸の最大の原因は、自分の認識とアートマンとのズレに有ると書かれています。
先程から説明している通り、アートマンとは捉えられないもので、客観視出来るものでは無いとされています。
しかし、現実の私たちはどうでしょうか? 現実に存在する私達は、自分のことを指差して、これが自分と言いますよね。
この認識のズレが、全ての不幸の元凶になっているという考え方です。 この本の中では、映画館と観客という例を使って、説明されています。

アートマンとは、認識するだけのものなので、捉えようがない存在なんです。つまり、映画館と観客という例でいえば、観客ということになります。
観客は、映画に映し出された主人公の人生をただ観ている。つまり、ただ認識し続けているだけの存在なのですが、無意識の内に観客である自分は、映画の主人公に感情移入をしすぎて、自分が映画の主人公だと思いこんでしまいます。
その結果として、主人公が痛い目にあうと、アートマンも痛いという感情を受けてしまうわけですが、そもそも、映画の主人公が殴られたり不幸になったところで、観客には何の関係もないですよね。
つまり、本当の意味での自分自身は、認識しているだけの存在である事を再認識することで、映画の主人公と本来の自分である観客を分けることが出来る為、そこには幸福も不幸も無いという事なんですね。

結構わかりにくいと思うので、私の解釈も付け加えると
この世にある物事全ては、ただそこに事実があるだけの状態でしか無いものなんですよ。つまり、不幸や幸福を纏ったものがそこに有るのではなく、事実がそこに有るだけなんですね。
でも、その事実を認識する際に、人間は自分のポジションによって、その事実の受け入れ方を変えますよね。
そして、ただの事実でしか無いものに、不幸であったり幸福であったりと言った意味を、自分自身で付け加えていきますよね。

例えば、自転車を盗まれたという事実が有ります。
この事実は、自分が必死にお金を貯めて購入したものが盗まれた場合、不幸な出来事として認識されますよね。
でも、盗難保険に入っていて、全額保証してもらえるなら、不幸の度合いは全く違いますし、盗まれる前に転倒していて、自転車が傷物になっていた場合、得した気分になるかもしれません。
また、長い年月使い続けていて、買い換えようと思っていたけれども、その踏ん切りがつかなかった時に盗まれたら、それは不幸な出来事ではなく、良いきっかけと捉えられますよね。

この様に、実際には『自転車が盗まれた』という事実だけが、世の中では事実として存在するんですけれども、その捉え方は、認識するものの状態によっても変わりますよね。
認識の仕方によって世界が変わるというのは、一時期、世界系というジャンルが、そのようなことをテーマにおいて、ヒットしていましたよね。

世界系で有名なものでいえば、エヴァンゲリオンがありますが、エヴァンゲリオンの主人公であるシンジ君は、エヴァに乗りたくないと思っていて、その環境に馴染めずに、ずっとウジウジしていましたよね。
でも、シンジ君のクラスメートのミリオタは、巨大兵器に乗って世界のために戦うヒーローに憧れていたため、シンジ君を凄く羨ましく思っていましたよね。
そのうち、仲良くしているもう一人の友達までパイロットに選ばれると、自分だけが選ばれない状態に気を落としてしまいましたよね。

ここでも、巨大兵器に乗って戦うという事実だけが有るんですが、その捉え方によって、事実の性質が変わってきますよね。
逆にいえば、事実の認識の仕方さえ変えてしまえば、世界の観え方が変わるという考えも出来ますよね。

ここで、そんなに簡単に、事実の受け入れ方を変えるなんて無理でしょと思われる方も多いと思うんですが、そもそも事実の受け入れ方を変えれないのは、『私』というものとアートマンとの間に、認識のずれが有るからなんですよ。
先程から何度も言っているわけですけれども、アートマンと呼ばれる人間の根本原理は、あなたが指(ゆび)を指して、これが私と言っているものではないんですよ。
ましてや、学歴や、社会的地位、どれほど財産を持っているかという、本人につきまとう付加価値のことでもないんですよ。
『私』とは、ただ、認識するだけのものなんですよ。
ただ、そこに有るだけの事実を認識するだけの存在が、『私』なんですよ。

これを、自分を指さして、これが自分と言い、この大学を出てこの会社に入り、年収1000万の私が自分と言ってしまうと、そこに価値判断が挟まってしまうので、その価値が揺らいだ時に、不幸が訪れてしまいますよね。
でも、それは自分じゃないんですよ。認識できるもの全ては『私』では無く、『私』とは認識できないもので、捉えようのないものなんですよ。
これは、全宇宙のものがそうで、この世の中には、ただ、事実が有るだけなんですけれども、『私』とか『自分』といった物の解釈を間違ってしまうと、その事実に、自分自身で線引を行って、レッテルを貼っていってしまいますよね。
つまり、この事実は不幸で、この事実は幸福と言ったぐあいにですね。

ただ、先程から言ってますけれども、その事実は、ただそこに有るだけなので、他の人間から観ると、その幸・不幸は変わってきますよね。
ある人物にとっては幸福でも、ある人物にとっては不幸と言った具合に。

これが分かりやすいのが、株式市場だったりしますよね。
株式市場では、決算などで、ただひとつの事実だけが伝えられます。
しかし、その事実の捉え方は、『これから株を購入しよう』としている人と、『売り抜けよう』としている人と、『買い増ししよう』としている人と、『既に空売りをしている』人とで、認識が変わりますよね。
何故、認識が変わるのかといえば、株に対してアクションを起こそうとする事に、とらわれているからですよね。
もし、株に何の興味のない人が、決算発表のニュースを観たとしても、ただ、事実を認識するだけですよね。

これを、体験によって、本当の意味で理解することを重要としたのが、インドのウパニシャッド哲学です。
次回は、この後に発展した、仏教について、考えていこうと思います。