だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

初めての『角打ち』

少し前のことですが、初めて、角打ちというものに行ってきました。
『角打ち』という単語を聞いたことが無い方(私も最近までそうでした)の為に、簡単にどんなものかを紹介すると、その場で飲めるタイプの酒屋さんです。

まだ分かりにくいと思うので、もう少し説明してみましょう。
昔は色んな所にあった、町の酒屋ってありますよね。
今ではコンビニなどの台頭によって、徐々に専門店としての酒屋って少なくなってきているイメージの、あの酒屋です。

酒やツマミが売られていて、スーパーでは買えない様なちょっとマニアックな酒なんかが売られていたりする酒屋なのですが、その場で呑んで良い店というのを『角打ち』と呼ぶそうです。
という事で今回は、初めて『角打ち』をした体験を書いていきます。

私が行った場所は、京都の錦市場から歩いてすぐの、『松川商店』
少し前から存在は知っていたのですが、何となく、一人で入る勇気がなかったので、見送っていた店なのですが、この店で待ち合わせをする機会というのがありまして、それを機に暖簾をくぐってみました。
誘っていただいたのは、『BS@もてもてラジ袋』というネットラジオをされている、ぶたお さん。
ネットラジオ BS@もてもてラジ袋

私自身も、今年になって音声ブログを始めたので、その制作の際に使用するマイクの相談をした所、使ってない物を譲っていただけるという事で、ついでにアドバイスやらを頂きに現地に向かいました。
goo.gl

入口だけを観ると、こじんまりとした昔ながらの家屋といった雰囲気だったのですが・・・
中に入ってからの熱気が凄い。

それほど大きいと思えないスペースに、観た限り40人程度がぎっしりと入っている。
私も、それなりに木屋町通などに呑みに行くことがあるのですが、これ程までに満席の店は、イベントでもない限り観たことがありません。
週末でもなく、平日でこの混み具合は、本当にすごい感じですね。

店の内側の壁は、全面、酒の店が並んでいて、商品がズラッと並べられていて、中央付近にカウンターっぽく空間を仕切る感じで長テーブルが2つ並べられていて、その両側に人が群がっている感じ。
誰が客なのか店員なのかが全く分からず、また、仲間同士で盛り上がっているのか、見ず知らずの客通しで盛り上がっているのかもわからないが、とにかく、店の全員が誰かと話している。

角打ちという空間に入ったのは初めてですが、ここまで熱気に溢れた店内に足を踏み入れた経験は無いというぐらいに、何故か盛り上がっていました。

第一印象でショックを受けたわけですが、その後、少し落ち着いたところで店内を見渡すと、一つの疑問が沸き起こりました。
それは、店員がいないということ。

客が40人もぎっしり詰まっている店なんですから、それを回す為には結構なスタッフが必要そうなんですが、この店にはスタッフらしき人が全く見当たりません。
しかし、客はそれぞれにお酒を呑んでいますし、ツマミも食べている…

ですが、そんな疑問は直ぐに無くなりました。
というのも、先に入っていた ぶたお氏が、呑んでいる酒が無くなると、店の外壁に並んでいる冷蔵庫から、無言でビールを取り出して栓を開けたからです。
私と同じように、『角打ち』というシステムを全く知らない読者の方は、この行為に違和感を覚えるかもしれませんが、これが、角打ちのシステムなんです。

つまり、客は飲みたい酒があったら勝手に冷蔵庫を開けて、自分で開けて呑むというスタイル。
私が到着してからは食べ物は食べなかったのですが、つまみも同じようで、棚に並んでいるものを勝手に開けて食べるというスタイルのようです。

ここでまた、角打ち未経験者は、疑問に思うかもしれません。
『そんな方式で、料金がちゃんと分かるの?』と・・・
それが、分かるんです。

というのも、この店のルールでは、飲食した際のゴミを勝手に捨てては駄目というルールがあるからです。
この店では、入店と同時に各自でアルミトレイを取り、そこを自分の飲食スペースとして使うのですが、飲食した際は、お酒の缶やビンなどのゴミは捨てずに自分のトレイに置いておくことによって、その残骸で飲食の計算出来るようになっているんです。
お会計の際には、会計係のお婆さんを呼んで、トレイを見せる。
そうすると、飲食した残骸を観てお婆さんが会計をしてくれるので、そこでお金を払えばよいというシステム…

凄すぎですね!

何が凄いって、このシステムの場合、メニューを用意したりオーダーを聞いたり、といった作業が全く要らない。
という事は、ホール要因が一切必要ないという事。
酒屋が行う作業としては、瓶や缶の廃棄と、ビール瓶を呑む際に使用できるコップを洗う作業程度。
今回お邪魔したお店の場合は、そこそこ広めの店で、客が40人程入っていたのにもかかわらず、お爺さんとお婆さんの2人だけで、余裕を持って作業できるという感じでした。

そして会計ですが、2人でビールをビンで5~6本と、ツマミを食べて、合計で1900円…
正直、安すぎでしょう。 家で飲んでいるのと然程変わらない金額ですよ。

その後は、もう1軒別の店に行くということで、徒歩で河原町丸太町まで歩き、別の角打ちへ。
ここは、先程の店とは違って、注文することで、生ビールや店で用意したウィスキーを使用したハイボールが呑める角打ち。
その値段も、やはり角打ちという事で、激安。

ビールが1リットルで700円。 ハイボールがジョッキに入って300円。
ちなみに、ハイボールに入れているウィスキーですが、木の樽に適当に色んな銘柄のウィスキーを入れている為、銘柄などは不明。
言い方を変えれば、この店独自のオリジナルのウィスキーともいえる商品。

前の店で飲みすぎたせいか、ここではハイボールをちびちびと呑んでいたのですが、丁度、ボジョレーヌーボーの解禁日ということで、他のお客さんがワインを2本ほど抜いて振る舞っておられたので、私達もそのおこぼれに与って、家にかえる頃には結構よってしまいました。
普通のショットバーで呑んだら5千円以上は取られる量のお酒を呑んだのにも関わらず、角打ちなら、おつまみ込みで1000円程度で住んでしまう…

この不景気に、平日にも関わらず混んでいる理由がよく理解できた一日でした。

理想的な結婚の条件

このブログを書いている私は、結構いい年になってまして…
前々からそうだったのですが、周りから『結婚しないの?』的なマウンティングを受けることが多くなってきました。

したい気持ちはあるという事を告げると、大抵の次の言葉は『どんな人が良いの?』と聞かれるので、価値観が合う人とか話が噛み合う人という返答をするのですが、相手の思っている返答とは違うらしく、変な顔をされる。
質問者の期待としては、『胸が大きい』だとか『芸能人だと○○に似てる』だとか『小柄』といった感じの返答を求めていたのかもしれません。
また、『優しい人』といった感じの理想を散々引っ張り出した挙句、『そんな人いないから!』から始まるマウンティングを行いたかったのかもしれない。

そして最終的には、『考えすぎだよ。』とか、『とりあえず、数を当たれば良い』。極端な場合だと、『好きになる前に取り敢えず告白しとかないと』という、よく分からないアドバイスまで頂く始末。
でもね。そんな行動ができる人間であれば、20台前半で出来ちゃった婚とかしてますし、なんなら既に離婚も経験していると思うんです。

では、そんなアドバイスをしている既婚者の人達が幸せなのかというと、必ずしもそうではな。
最近では、シングルマザーも頻繁に見かけるようになりましたし、離婚していない人からも、愚痴を頻繁に聴きます。
『結婚してよかった!!』なんて感想は、新婚ホヤホヤの人ぐらいからしか聞かず、大抵の過程は不満を持っている。

だから、フリーの人を捕まえてはマウンティングをしたいのかもしれませんけど、マウンティングをされているこちら側からすれば、マウンティングをされる度にイチイチ考えてしまうわけですよ。
『結婚できない自分は異常なんじゃないだろうか。』『考えすぎなんじゃないか。』『勢いに任せるのが正解なんじゃないか。』と…

そんな日々を送っていたわけですが、先日から読み始めた本『銃・病原菌・鉄』に、私の納得ができることが書かれていました。
という事で今回は、その内容を紹介したいと思います。


実際には、『銃・病原菌・鉄』に書かれていた内容ではなく、その作中で引用されていたトルストイアンナ・カレーニナで書かれた言葉です。

気になるその言葉はというと
『幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。』という言葉。

トルストイがいうには、幸福な結婚には条件が有るらしく、その条件が一つでも欠けると不幸になってしまう。
その為、幸福な家庭は条件をすべて満たしていることになり、『どれも似たようなもの』に落ち着くのですが、不幸な家庭はそれぞれの理由で不幸というもの。

では、その幸福な家庭の条件とは何なのでしょうか。

まず大前提として、互いが互いの事に好意を持っていなくてはなりません。
何十年も連れ添うんだから当然ですよね。

次に、金銭感覚が一致していなくてはならない。
どちらかが倹約家で、もう一方が浪費家の場合は、消費が行われる度にどちらかがストレスを抱えることになってしまいます。
消費の度に喧嘩のタネが生まれるわけで、この様な家庭は幸せとは程遠いといえるでしょう。

3つ目は、子供の躾に関して同じ価値観を持つこと。
一方が、子供の好みに合わせた自由な育て方を求める一方で、もう一方が学歴優先で詰め込み教育を行いたい場合、子供の進路の度に喧嘩が起こってしまいます。
また、この手の喧嘩は、子供が上手く育たなかった場合は繰り返し蒸し返されて喧嘩の種になる為、この価値観が一致していない人間同士が結婚した場合、子供が生まれてから20年は争いの種が耐えないことになります。

その他には、宗教観・親戚づきあいに関する価値観など、男女が一緒に過ごす上で必要な価値観が統一されていることが、幸せになる為に絶対に必要な条件ということです。

いわれてみれば、その通りですよね。
これらの価値観が同じ場合は、二人が共同生活を送る上で余計なストレスを感じる場面というのが劇的に下がります。
また、子供に関する躾の価値観が同じ場合などは、正に『子は鎹(かすがい)』といった感じで、パートナーは同じ目標に向かって困難を乗り越える仲間になるわけですから、家族の一体感はより増す事となるでしょう。

つまり、互いに互いを必要として、お互いの存在が幸福に繋がる為のパートナーというのは、最低限の価値観というのは完全一致している必要があるということです。
こういう事をいうと、『でも、価値観が違う人と一緒にいるほうが、新たな価値観が知れて面白いでしょ。』と言い出す人が一定確率で沸きますが、ここでいう価値観というのは、そういう事ではないんです。。

例えば、クラシック音楽を聞くのが好きな人と、ロック音楽が好きな人が結婚した場合、互いに別の価値観を知ることが出来て、面白いということは有るでしょう。
しかし、これらの人は、『音楽を聞くのが好き』という根本的な部分が一致しているから、相手の別ジャンルの音楽を聴く余裕があるだけです。
仮にパートナーが、『音楽を聴く時間が勿体無い!家では無音が基本でしょ。 暇な時間が有るなら、ためになる学術書などを読むべき!』って主張だったらどうでしょう。
音楽を聴くという生活を捨てて、無音で学術書を読むという新たな価値観に鞍替えするのでしょうか。

人が考える『常識』や『普通』という価値観がありますが、実際の世界にはそんなものはありません。
有るのは、『貴方が考える常識』であり、『貴方の価値観での普通』だけです。なら、普通の生活をストレス無く行う為には、『普通』や『常識』といった概念を、同じ価値観で共有することが必要となります。
これらの価値観を常に一緒にいる人と共有できていない場合、事ある毎にパートナーと些細な争いが起こり、その度に不平不満が溜まっていくことになります。

では、生活する上で最低ラインの価値観を共有する為には、何が必要なのかというと、対話と長時間同じ時間を過ごすことによる観察しか無いと思います。
ですが実際の社会では、特に日本などでは、その機会は結構少ないようなきがするんですよね。
kimniy8.hatenablog.com

上のリンクは昔に書いた記事ですが、日本の場合は出会って最初の段階で付き合うかどうか決め無くてはならない空気感がありますし、何も進展のない状態で誘ったとしても、3回目以降は告白という儀式が無いと会いたくないという雰囲気があります。
既婚者からのアドバイスでも、先ず既成事実を作れとか付き合ってから考えろと言われたりするんですよね。
しかし、これらの行動は、どう考えても『幸福な家庭』を築くためのものではなく、博打要素のほうが強くなってしまいます。

しかし、私も含めて多くの人は、博打がしたいんじゃないと思うんです。
『幸福な家庭』を築きたいと思っているんです。

そして、その前提条件となる価値観を合わせるために必要になってくるのが、対話なわけですが、先程、紹介した過去に書いた記事でも取り上げた告白でもそうですが、日本では、この対話が軽視されているように思うんですよね。
容姿や年収と言った表面的なものだけに焦点が当てられ、本当に大切な価値観の摺り合わせが行われていない様な気がします。
 (共に、厚生労働省調べ)
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ここ最近は、少子化やら晩婚化やらいわれていて、結婚件数自体が右肩下がりなのに、離婚件数が右肩上がりなのは、これが原因のような気がするんですよね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第18回 ゴータマ・シッダールタ(4)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、般若心経の解釈について、途中まで行っていきました。今回は、その続きを行っていこうと思います。
前回までで読み解いた部分を簡単に振り返ると、この世の全ての現象は実態が無いもので、縁起の法則に則って、循環を繰り返しているだけに過ぎない。
人間が有ると思いこんでいるものは、その循環の中にある現象の一部分だけを取り出して名前を付けて、それに対して『有る』と思い込んでいるだけで、その物自体には実態はないもので、時間とともに変化してしまうもの。

この世の全てのものに実態が無いのであれば、それを感じ取っていると思いこんでいる人間の五感にも実態はないし、その五感を統合して感じ取っている意識といったものも存在しない。
だから、この世に醜い、美しいといった価値観もないし、綺麗・汚いといった価値観もない。当然のように、不幸や幸福といったものも無い。実態のないものが、生じて滅するわけもなく、我、つまりはアートマンも存在しないという所までやりました。
そして、この無我について、全く新しい境地に到達したのか、それとも梵我一如の考えの範囲内なのかというのに解釈が二分しているというところで、前回は終わりました。

今回は、その続きから始めていきます。
復習のために、梵我一如の考え方を簡単に説明すると、宇宙のと個人の根本原理は同じものなので、この世の全ての法則、つまり宇宙の法則を知りたければ、自分自身である個人の根本原理を見つめ直すべきというのが、梵我一如の考え方です。
この個人の根本原理の事をアートマンと呼ぶのですが、では、アートマンとは何なのかというと、『非ず、非ず』つまり『そうじゃない、そうじゃない』としか表現できないものだとされています。

つまり、私自身の体が私なのかというと、『そうじゃない』としか言いようがないですし、感情がアートマンなのかというと、『そうじゃない』としか言いようがない。
あらゆる物を例に出されたとしても、『そうじゃない』としか言いようがなく、だからこそ、壊れることもなければ死ぬことも無い存在。
アートマンとは、ただ、認識するだけのもので、認識するものを認識することは出来ない。その様な存在こそが、アートマンだといっているわけです。

その一方で、ブッダは無我を主張して、アートマンなんてものは存在しないと主張しています。
この主張に対し、『一歩進んだ考え方』という意見と、『基本的な考え方としては、梵我一如と同じ考え方ですよね。』という2つの解釈に二分しているわけなんですが…
個人的な解釈で言わせてもらうと、梵我一如のアートマンと無我の考え方は、同じものだという意見を推したいですね。

というのも、アートマンの説明を思い出してほしいのですが、あらゆるものについて『そうじゃない』としか言えないものというのは、果たして存在しているのかという疑問が沸き起こらないでしょうか。
言葉とは、便利なようで不便なもので、本来は存在していないものであったとしても、定義付けをして名前をつけると、存在している事になってしまいます。
アートマンも同じことで、そもそも存在していないものに名前をつけてしまったことによって、有ると誤解されてしまった概念なんでしょう。

数字で言うところのゼロの様な存在で、アートマン=0と主張するために、あらゆる物を引き合いに出したとしても『そうじゃない』としかいえないものと表現した結果
『あらゆる事について「そうじゃない」といえるものが、アートマンなんですね。』と誤解された…ってことなんでしょう。
ゼロの概念がわからない人間に、1から1を引くと、ゼロになるんだよ。といった場合、ゼロというものになるんですね。と誤解されるわけですけれども、ゼロというのは無いというのを記号で表したものなので
ゼロというものに成るわけでは無く、無いという概念にゼロという記号を当てただけなんですが、ゼロという概念がわからない人は、ゼロという物になると思ってしまう。つまり、無という存在が有ると思ってしまうんですね。

何故この様な誤解が生まれるのかというと、無という存在を理解するのが、非常に難しいからなんでしょう。
例えば、数字で1-1=0と書き表すと、ゼロという概念は何となく分かった気になれます。でも、本当の意味で無という概念が理解が出いているのかというと、それは難しかったりするんです。
何故なら大半の人は、無という概念を有るという概念の対比でしか考えられないからです。

例えば、科学的な観点から、宇宙というものの外側は無いとされています。この概念を、本当の意味で理解できる人がどれだけいるでしょうか。
今主流なのは、ビックバン理論が主流ということになっていますが、そのビックバンによって、時間と空間が生まれ、今も膨張しているとされています。
では、空間の外側はどうなっているの言えば、そんなものは無いんです。何故なら、時間と空間はビックバンによって生まれているので、その外側には何もないんです。

でも多くの人は、宇宙という限定された空間が有るのであれば、それを包み込んでいるような、それよりも外側の世界も、発見がされていないだけで有ると考えますし、宇宙の外側にも時間という概念はあると思ってしまいますよね。
でも、そんなものは無いんです。何故なら、時間と空間は、宇宙の誕生と共に生まれたものだからです。
空間がないのであれば、宇宙の果には壁があるのかというと、そんなものも無いんです。
つまり、宇宙の外側は無という概念が適応される世界なんですが、それを想像できる人がどれだけいるでしょうか。
大半の人は、無と言うものが有る。もしくは、有るという概念の対比として無という存在を考えますが、無というものを単体で考えることは、かなり難しいですよね。

梵我一如を唱えたヤージュニャヴァルキヤは、その無というものを説明しようとして、あらゆる対象とアートマンは違うとして表現しようとしたんでしょう。
しかし、多くの人が『無』という概念を理解できなかった結果、あらゆる対象と比べて違うものがアートマンなんだね!として、アートマンというものが『何にも当てはまらない存在』として有るものだと誤解してしまったんでしょう。
それをもう一度、軌道修正したのが、ブッダの唱えた無我なので、基本的な主張は変わらないんじゃないかという意見の方の方で、私は納得しました。

ここまでの話をまとめると、イメージとして、自分を取り囲むように世界が存在するわけですけれども、その世界に存在する全てのモニには、そもそも実態というものが存在しません
そして、自分というものに焦点を当ててみると、自分を構成する全てのもの、つまり、肉体や、時分が行動を起こそうとすること、何かを見て感じること、そして、それらの元になっている五感、見たり聴いたり味わったり触れたりする事の全てが、
無いものだという事です。

とは言っても、私たちは普段の生活で、見て触れて味わって感じることによって、何かを感じ取りますし、何かをしようと思います。
この感覚が無いといわれても、いまいちピン!と来ないですよね。
ただ、この考え方は、西洋哲学の世界にも存在しますし、現代哲学のテーマになっていたりもする事なんです。

西洋哲学では、デカルトという人物が、方法的懐疑と言う方法によって、似たような境地に達しています。その際にデカルトが残した言葉が、『我思う故に我あり』という名言ですね。
この方法的懐疑を簡単に説明すると、自分というものを本当の意味で知る為に、一つ一つ信用できないものを取り除いていきます。

先ず、人間が一番情報を得ている目から考えていきましょうか。
人間の目は、可視光線と呼ばれる範囲内の電磁波を目から取り入れて、それを脳の中でイメージとして映し出すことで、物を見るという行為を行います。
しかしこのシステムは、頻繁にエラーを引き起こします。 いわゆる、錯覚ですね。

人間は、目から入ってきた光を直接投影しているわけではなく、一度、電気信号に変えて視神経から脳に情報を送り、その情報を元に、脳が中で像を作り出すわけですが、電気信号に変換する際に、
ノイズなどが入った場合は、見えていないはずのものが見えたりもします。
人の体は機械ではなく、生きているものなので、疲労によって本来の機能を行えなくなるといったことも頻繁に起こります。例えば、荒行や長期間労働によって、体を限界近くまで追い込むことによって、
このエラーは多くなっていき、幻覚が見えるようにもなります。
その他にも、ある種の薬物、幻覚剤を投与することによって、本来は見えていないものを観るといったことも体験できるようです。
この様な観点から観ると、人間の目というのは非常に不確かなもので、とても信頼できるようなものではないことになるので、本当の自分を構成するものからは取り除いて考えます。

これは、耳も同じですよね。自分が誰かに呼ばれた気がしたと言った勘違いは日常的にありますし、空耳なんて事もありますよね。
また、ある種の病気になってしまうことで、絶えず幻聴が聴こえるなんてケースも、よく耳にします。

では、もっと確かものだと思える、触ったり、痛みを感じるといったような感覚はどうでしょうか。
これも、到底信用できるようなものではありませんよね。例えば、事故などで手足を失った人が、無いはずの腕や足が痛いと訴える話はよく聞きます。
もっと身近な例でいえば、スマートフォンをマナーモードにして、バイヴ設定にしている状態で、ポケットに入れている人は結構いると思います。
この人達の中に、携帯が震えてメールが来たような感覚を感じたのに、実際に確認してみるとメールが来てないという経験をした方はいないでしょうか。

この様に人の感覚というのは、携帯が震えてもいないのに『震えた』と感じるし、手足が無いはずなのに、無いはずの手足が痛いと感じてしまう程度のものだったりします。
そんな感覚を、到底、信じることなんて出いません。
この様な感じで、どんどん信用出来ないものを切り捨てていった結果、全てのものが切り捨てられ、何も残らない状態になってしまいました。
しかしデカルトは、『何も信用出来ないとしても、それでも信用出来ないと疑っている自分という存在は確実に存在する』として、『我思う故に我あり』という言葉を残しました。

この様な感じで、人が有ると思いこんでいる全てのものは曖昧なものだという考え方は、後に西洋でも出てくるのですが、この西洋哲学でも、最終的に疑っている自分という存在だけは残しました。
ですが、東洋哲学ではその自分・我といった物も、無いものだと主張している分、考えとしては過激ですよね。

では、自分やそれを取り囲むものには、実態がないと思えた場合、どうなるのでしょうか。
この世界にあるものすべてには実態がなく、それを受け取る私達にも実態が無いのであれば、そもそも、苦しむといった概念が存在しませんし、死ぬといった概念も存在しないことになります。
無いものを壊すことは出来ませんし、無いものがこれ以上無くなることもありません。この境地に辿り着ければ、あらゆる苦痛と死の恐怖から脱することが出来るようになります。

では、この境地に達するために必要なことは何なのかというと、執着を捨てる事。言い換えると、煩悩を捨てる事です。
このあたりの理解というのは、非常に感覚的なもので難しいと思うので、言い方を変えて何度も説明しますが、煩悩というのは、単純な欲望のことではなく、私達が縛られている常識や概念の事でもあると私は解釈しています。
例えば、この地球上に住んでいる私たちには、上とか下といった、方向という概念が存在します。しかし、地球という環境から離れた環境に身をおいたとして考えてみてください。

下という概念は、固定された方向があるわけではなく、地球の中心部分の方向を指して下と呼んでいます。
しかし、地球の重力から開放されて無重力状態の環境になった瞬間から、下という概念は無くなりますし、当然、その反対の上という概念も無くなります。
上や下を基準に作られた右や左といった概念も無くなるため、方向という考え方が無くなります。

これと同じように、私たちは普段生きているだけで、様々な概念によって縛られていますし、それを基準にして物事を決め、その役割を果たす物に名前を付けていきます。
名前を付けることによって、役割を持った物という概念が存在し、役に立つものという概念が生まれると、役に立たないものといった概念が生まれて、優劣が生まれます。
ですが、その基準は誰が作ったのかというのを、縁起の法則に則って元を辿って考えてみると、概念や価値判断は人間によって勝手に決められたものであることに気付かされます。

今の社会でいうと、人々はただ、生活をしているだけなんですが、その生活のスタイルに対して『勝ち組』『負け組』という言葉を生み出して、特定の人達をジャンル分けすることによって、優劣が生まれます。
この優劣という概念に囚われて執着してしまうと、そこに優越感や苦しみといった概念が生まれます。ですが、その『勝ち組』『負け組』といった言葉は、絶対的な価値基準によって作られた言葉ではなく、誰かが自由気ままに勝手に作り出した概念です。
その言葉は、どこかの新聞社が自分達の新聞を売りたいが為に勝手に創り出した言葉であって、世界にその様な概念はそもそも無いんです。
そもそも無いという事に本当の意味で理解できれば、この言葉によって生み出された優劣に執着することもありませんし、よって、苦しむ必要もない事になります。

般若心経には、宗教的な事も書いてはあるのですが、敢えてそれは飛ばして、哲学的な部分にだけ焦点を当ててみたのですが、どうでしょうか。
ブッダは真理を得た後に、むかし一緒に修行をしていた5人の仲間に真理を伝え、その教えを聴いた5人が仏教を作ったとされていて、自身で宗教を起こしたわけではないとされていますが、この解釈を聞くと、何となくそれが分かるのではないでしょうか。
というのも、真理を得ようと一心不乱に修行を行うことは、その時点でブッダという存在が話した言葉に囚われて、執着している事になります。
ブッダは、真理を得るのに必要なのは執着を捨てる事だと主張しているので、宗教化した時点で、矛盾が生じてしまいます。

宗教とは、何らかの対象を崇拝して信仰し、その教えを守ろうとするわけですが、それこそが概念ですし、執着の元ですよね。
ブッダは、積極的に文章などを残していなかったようですが、それは、ブッダ自身がこの構造を理解していたからなのかもしれませんね。
この様な感じで、仏教の大本であるブッダは、宗教というよりも、かなり哲学的な考え方をしていたんですね。

では、これが真理ということで、一件落着なのかというと、個人的にはかなり疑問が残ります。
というのも、矛盾や説明不足の部分が存在するからなんですね。 これは、私が単純に悟っていないからとも言えるんですが、その立場からいうと、納得できない部分も有ります。

一番大きな疑問を挙げると、自由意志の有無ですね。
今回、話した事をまとめると、どの様に解釈したところで、人間に自由意志は存在しないことになります。何故なら、人間の五感も、それによって形成される心ですらも無いわけで、存在するのは縁起の法則だけということになります。
これは、普通に解釈すると、自由意志がなく、全ての物事は縁起の法則によって、運命として決定しているとも読み取れます。
ですがブッダは、この解釈を否定しているようなんですね。
つまり、人間に自由意志は存在しているとしていますし、運命論というのは無常という概念と対立する為、これも受け入れていないようなんですね。

そして、全ての煩悩、執着を捨てた果に涅槃にたどり着いたものは、果たして生きていると呼べるのかという問題です。
あらゆる煩悩が喪失した人間というのは、何も求めない者であり、そこには喜びも悲しみも楽しみも苦しみも存在しません。感情というものも失せてしまう事になる可能性が高いですが、それは人間なんでしょうか。
この疑問に対しては、後にニーチェという哲学者が、そんな状態においてでも人生を楽しめるものが『超人』だと主張していたりするんですけれどもね。

長く続いてきたブッダの話ですが、一応、今回で終了予定です。
次回についてですが、せっかくなので、仏教について少しだけ話していきたいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第17回 ゴータマ・シッダールタ(3)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前々回で、仏教が誕生するまでの簡単な流れを説明し、前回では、その全体的な流れの中から、苦しみと荒行について、ピックアップして説明していきました。
苦しみについては、前々回で語った大きな流れとしての苦しみの概念。これは、苦しみというのは相対的なもので、絶対的に無くすことは出来ないという事と、前回で語った、カースト制を肯定して仕組みを強化する為に作り出された、概念です。
前回の放送では、カースト制を現在の価値観に照らし合わせて、批判的な立場で語りましたが、この当時の考え方としては、ある意味、仕方のない仕組みだったのかもしれません。

というのも、今も一部の地域では当てはまるのでしょうが、紀元前の世界では、全ての人がしっかりとした教育を受けているわけではありません。
当然、識字率も低いですし、物事を論理建てて考えるというのが貧民層にまで定着しているはずもありません。
この様な世界で、治安を維持出来るような社会システムを作ろうと思うと、分かりやすい考え方が必要となります。
その考え方がカースト制だったのでしょう、現世で悪いことをしたら、低い身分に落ちて苦労するよという考え方によって、人が悪い行いをしないようにするという考え方ですね。

また、紀元前の世界は機械なども存在しないですから、誰かが肉体労働を行わなければならない時代です。
この時代の肉体労働は、生活に直結しているものが大半ですし、大量に人数も必要だった為、肉体労働に携わる人間を効率的に集める為にも、必要なことだったんでしょう。
それに加えて人間社会は、『敵』や『いじめ対象』を作ると、それ以外が団結するという特徴も有ります。
一度システムを作ってしまえば、『イジメ対象』となる人々を生かさず殺さず管理するだけで、その他大勢を用意に管理することが出来る為、カースト制は効率的な方法だったんでしょう。
また、この方式は、地獄や天国といった、有るか無いかが分からないような世界ではなく、実際に苦しんでいる人を目で見ているわけですから、『あの様になりたくない』という思いを抱かせ易かったのかもしれませんよね。

それに、イジメ対象を作るといっても、高い身分の人が、それに胡座をかいて下の身分の者に対して辛くあたるという行為その物が悪行でしょうし、それを行うことで、来世で自分が奴隷の立場になる可能性も有ります。
逆に、弱者に施しをするといった行為を行うことで、来世で高い身分を維持できるというシステムなので、上手く回れば、効率的なシステムだったんでしょうね。
ただ、完全に人権は無視なので、現在の価値観で照らし合わせると、ダメでしょうけどね。

この様なカースト制なのですが、上手く回れば、それなりに効率的なシステムでもあるんでしょうけれども、身分制度や組織というのは、長期間続けていれば腐敗していきます。
腐敗によって、強者はより強くなり、弱者はより弱くなり、その差はドンドン開いていき、決定的なものへとなっていきます。

このカースト制に異論を唱えたのが、ブッダとされています。
ブッダの考え方としては、悟りを得ることで輪廻転生の輪から解脱する。つまりは、抜け出す事を主張しているわけで、これは言い換えれば、カースト制からの脱却ともいえます。

では、どうすれば真理に到達できるのかというと、『悟りを得た』と自身で明言しているブッダの教えを、体験として理解するしかありません。
それではブッダは、どの様な教えを説いているのでしょうか。
ブッダ自身は、他のものには理解することが出来ないとして、後世に伝える為に、自身で考えを体系立てて書物に記したりするといった行為は、積極的に行っていなかったようなので、その様な作業は全て、弟子が行っています。
これは、第8回の西洋哲学と東洋哲学の違いでも話した事なんですが、東洋哲学の考え方というのは、基本的には、悟りを開いた本人ではなく、弟子が自分の解釈を元にして書いていきます。
そして、それよりも後の時代に生まれた人は、その解釈本を読んだ上で自分なりの解釈をし、その解釈を更に本に書いたりします。

では何故、悟った人間が自身の手でしっかりと説明しないのかというと、これは、第13回14回の言葉の限界でも話しているんですが、言葉は、考えやイメージをそのまま相手に伝えられるほど優れているツールではないからでしょう。
言葉で悟りの本質を書いたとしても、悟りを得ていない人間は、それを読んで、確実に誤解してしまいます。
例えば、大乗仏教の教えの中に、悪人正機(あくにんしょうき)というものがあり、意味は、「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」
と言うもので『善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。』という考え方です。
この考えは、普通に読み取れば、善人よりも悪人のほうが良いっているわけですが、これを知識のない人が読んだ場合は、確実に誤解しますよね。

人間というのは、基本的には自分に都合の良い解釈しかしません。 観たいものを観たいように観て、聴きたいものを聴きたいようにしか聴けません。
その為、言葉で体系立てて説明したところで、誤解されるだけで、余計な混乱を生むだけだと考えたのかもしれないですね。

余談が長くなりましたが、では、どの解釈を読むのが良いのかというと、これも、人によって解釈の仕方も読んでいる量も違うので、一概にはいえないのですが、このコンテンツでは、般若心経を取り上げていこうと思います。
取り上げる理由としては、最大の理由としては短いという事ですね。
般若心経というのは、内容が同じ大般若経をコンパクトにまとめたものなのですが、大般若経というのが600巻あるらしいんですね。その一方で般若心経は同じ内容で262文字でまとめられている様なので、概要を理解するには便利なものですよね。
ちなみに、仏教の経典は般若経だけではなくて大量にあって、正確には数えられていないようなんですが、形容詞的にいわれているのが8万4千の経典が有るといわれているようなので、とても読んでられないですよね。
それなら、262文字で大まかに理解できた方が効率的ですよね。 般若心経は日本でも大人気なんですが、人気の理由として、短いというのが結構なウェイトを占めていると思いますね。

余談になりますが、この般若経をインドから持ち帰ったのが、玄奘三蔵という中国のお坊さんで、この人物は、西遊記の登場人物としても活躍しますよね。
斉天大聖という猿の悟空と、沙悟浄猪八戒の3匹の妖怪をつれて、天竺を目指すアレですね。
三蔵法師は、経典をインドから中国に持ち帰るだけでなく、中国に伝わる経典の多くを翻訳したことでも有名なようです。

前置きがかなり長くなってきましたので、内容の方に入っていきましょう。
この般若心経ですが、大乗仏教の経典という事になっています。 仏教は大きく分けると、大乗仏教上座部仏教の2種類に分けることが出来るのですが、両者の違いを簡単にいうと、
ブッダの主張をより忠実に守っているのが上座部仏教で、より宗教色を強くしたのが大乗仏教です。
もう少し説明を加えると、自身で涅槃の境地に至って真理を得ようと頑張ることを推奨しているのが、上座部仏教で、大乗仏教は、仏の教えを持って多くの人を救おうという事を目的とした宗教ですね。
上座部仏教の場合は、自身で真理に到達する為に知識や体験を得ようと頑張るのですが、大乗仏教は、大衆に広げる為にドンドンと簡略化されていきます。

その結果、お経はブッダの教えを理解するためのものではなく、呪術的な呪文となりますし、意味を理解するよりも、紙に書き写す写経が重要視されますし、写経した紙はお守りとして扱われます。
知識を得ることや瞑想や禁欲生活といったものも必要なく、お坊さんにお金を渡す御布施が修行の一部とされ、徳が高まるとされるようになります。
その為、仏教に詳しい方は、ここで般若心経を取り上げることに違和感を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、単純に短い事と、人気が高い為に現代語訳が簡単に手に入るということから、
般若心経を読み解くことで、ブッダの主張を追って行くことにします。

では、早速みていきましょう。
先ず冒頭部分で、世界は5つの要素、五蘊(ごうん)によって構成されていると主張しています。その5つ。色受想行識の5つです。
一つ一つ説明していくと、色とは、元々は人間の肉体の事だったようですが、その後、すべての物質、物そのモノの事になったようです。受とは、感受作用。花を見て美しいと思う事。
想とは、表象(ひょうしょう)作用。頭のなかで、花を思い浮かべること。行とは、意志作用。頭のなかで、綺麗な花を摘み取ろうと思い、それを体を動かして実行しようとする事。
そして最後の識とは、花というモノ・概念を認識する事です。

考え方のベースになっているのがウパニシャッド哲学で、その中では、真理を得る為には、自分そのものであるアートマンを理解することが重要という話でしたよね。詳しいことは、第9回~12回の中で話しているのですが
自分自身を知ることが真理に繋がるというのがベースになっている為、この世の構成要素の5つは、自分自身を5つに分解したものになっています。
この5つの構成要素ですが、よくよく考えてみると、全てのものに実態がない事に気が付きます。自分を構成している全要素に実態がないということは、人間が抱えている全てのものに実態がないということで、人が抱えている苦しみといった概念も、
実態がないことを意味します。

では何故、実態がないのか。それは、自身と同一の存在である、宇宙、つまり、自分の外側の世界を見て見れば分かります。自分自身と自分の外の世界である世界が同じというのは、梵我一如というのを解説した回でも話しましたよね。
では、外の世界で起こっている物質的現象、つまり、外の世界での色について考えてみると、自分の外の世界の物質的現象の色にも実態がないことが分かります。
例えば植物の例でいうと、種子の段階では、タネという名前がついています。では、タネという絶対的で不変の物がこの世にあるのかというと、そうではありません。
タネは、養分が有る土に植えて適切な水を与えることで、発芽して成長し、植物になります。 新芽が出て、葉や茎が成長し、最終的に花を咲かせて、実をつけ、またタネを生み出します。

この世にあるものは全て同じで、この一連の動きの中の一時的な部分を取り出して、それぞれに名前をつけているに過ぎません。
世界は絶えず変わり続けているわけですが、その変化の一部分だけを人間が切り抜いて、その特性に名前を付けて、カテゴリー分けしていっているだけということですね。
この考え方は西洋哲学にもあって、ヘラクレイトスによって万物流転と名付けられます。ヘラクレイトスといっても、God of warの主人公でも、ギリシャ神話の神と人間の間の子の英雄でもないですからね。

これらの考え方は、ブッダヘラクレイトスのどちらが先に唱えたのかは分かりませんが、当時、この様な考えに至る地盤があったということなんでしょうね。
ヘラクレイトスが出した例で有名なものは、『同じ川に二度と足をつけることは出来ない』というのが有名なようです。
川というのは、絶えず、川上から川下に向けて水が流れています。また、その流れによって動植物も流されているでしょうし、生息場所を変えたりしています。
流れてくる土砂や石も、川の流れによって常に配置を変えているので、川というのは、常に形状を変え続けていることになります。 つまり、同じ川と言うものは存在しないということで、存在しない物に足をつけることは出来ないということですね。

この理屈は、人間にも当てはまります。 人間は、タンパク質部分は3ヶ月で、代謝の遅い骨でも2年で完全に入れ替わるそうです。
また、生活を送っていく上で知識や経験は常に上書きされますし、考え方も微妙ながら、常に変化し続けています。 そしてその形状も、成長や老いによって変化します。
つまり、自身を含めた、この世にある全てのものは、常に変化し続けているわけで、同じ状態を維持し続ける不変の状態ではないということです。

では、こんな世界で、変わらず存在し続けるのは何なのかというと、縁起だけは変わらず存在し続けます。
縁起とは、事が起こる前には、それが起こる原因となるものが存在し、その原因によって結果が起こり、結果が次の原因になって、更なる結果を生むという考え方です。因果関係とも言いますよね。

タネは、土に植えられて水を与えられたという原因で発芽し、発芽して土の中から顔を出したという結果によって、光合成が出来るようになり…といった事が繰り返されることで、成長をしていきます。
そして、寿命を終えた植物は微生物に分解されて土へ返っていきます。では、植物のサイクルは植物内だけで完結しているのかといえばそうではなく、実をつけることで他の動物に食べられる物や、種子その物が人間の食べ物になる米のような作物も有ります。
全ては縁起の法則によって、溶け合いながら存在している現象に過ぎず、全てのものは空。 つまりは実態のないものということです。

つまり、この世には『実態がない』という現象だけが存在していると言えるわけです。
この世の全てのものは空であるため、生じたものでも滅したものでも無いことになります。 ある側面から見た現象が生まれるという現象であっても、それは、別の側面から見れば死という現象になります。
米は人に食べられると死にますが、人は米を食べることで生きるためのエネルギーを得ます。 植物が枯れることは植物にとっては死ですが、微生物にとっては解釈が変わりますし、微生物によって性質が変えられる土壌にとっても解釈は変わります。

あらゆる出来事は、汚れたものでもなければ清浄なものでもなく、醜いものでもなければ美しいものでもなく、増えることもなければ減るものでもないということです。
人が、何かの数が減ると認識するのは、その対象に名前をつけて特別視しているからで、その対象が減った一方で、別の何かは増えているという事です。
世の中は、縁起の法則に則って、ただ変化をし続けているだけに過ぎず、故に、実態はないということです。

この自然現象に照らし合わせれば、人間の五感なんてものは存在しないですし、心なんてものも存在しないことになります。
というのも、人間の意識というのは、感覚器官を統合するために存在しているようなものです。 実際に見えるから・聴こえるから・触ることが出来るから・臭いを感じるから・味がするからといった、感覚器官が有るからこそ、人はそれによって、
何かを想うわけです。
しかしブッダは、その感覚器官その物が無いものだと否定します。

先程から言っている通り、この世にあるあらゆるものには実態がないわけですから、対象物を観て・聴いて・感じて・臭いで・味わうといった五感も実体のない物という事になります。
実態のない対象を感じる五感も実態がないわけですから、それによって感じる心も実態がないことになります。
これが、無我。つまり、我というものが存在しないという境地になります。

今までの梵我一如は、宇宙の根本原理と個人の根本原理は同一のものだから、個人の根本原理であるアートマンを理解することで、全ての物事を理解できるようになるという考え方だったのですが、ブッダの説では、
そのアートマンは無いですよという主張をしたことになります。
この考え方についてですが、ブッダアートマン皆が追い求めていたアートマンという存在を無いというところにまで到達した!から偉大だと主張する人と、梵我一如の考え方から進んだわけではないと主張する人に、解釈が二分していていたりもします。

話の途中にはなるんですが、これについての詳しい説明と、般若心経のこれから先の解釈については、また次回ということにさせて頂きます。

【ゲーム紹介】 ドラゴンクエスト Ⅺ

今更ながら、ドラゴンクエスト11を購入しました。
発売が夏なのに、何故、いまさら購入したのかというと、FF15をプレイした事で、スクエニとは距離を取りたかったからです。
FF15は、最初は楽しめていたのですが、後半部分が結構、苦痛でしたし、プレイ後もモヤモヤしたものしか残らなかったので、スクエニのRPGに軽いトラウマになっていたんですよね。

ですが、気がついたらAmazonで検索していることが多く、『何ヶ月も気になってるんなら、購入してみよう』と思い、今更購入してみたというわけです。



        

やってみた感想としては、普通に面白いですね。
音楽もシステムも、子供自体にプレイしていた『ドラクエ』と殆ど変わらず、懐かしさがこみ上げてくる感じですね。
一部では『おっさんホイホイ』なんて言われていて、ノスタルジックな雰囲気に浸りたい人向けのゲームなんて言われていましたが、正にそんな感じの作りとなっています。

では、昔にドラクエをプレイしていた層しか楽しめないのかというと、そうでも無い。
この作品は、今までのシリーズと関わりが深いと言われていたりもしますが、昔の作品を知らなかったとしても普通に楽しめるように作られています。
ストーリーも、大きな流れがあって、その中に小さなストーリーが敷き詰められているという感じの作りなのですが、そのストーリーも、どストレートでわかり易い内容で面白い。

年齢を重ねた人は、その直球過ぎる表現に心を打たれるでしょうし、直球なので、子供にも分かりやすい。
脚本家の価値観を押し付けるのではなく、ストーリーを進めることでプレイヤーが何を感じるのかというの大切にして作られている感じが、印象が良かったですね。

ゲームプレイに関しては、レベル上げなどに関しては特に面倒くさいと思うこと無く、サクサクと進む感じ。
道中に登場する敵を適当に倒すだけで適正レベルになり、エリアボスを倒すと大量の経験値が入って、レベルアップ。
そのまま次の目的地に行っても困らないという感じで、ストレスを感じること無く、クリアーまでは進めることが出来ました。

一方で、鬱陶しいなと思う点は、街の徘徊ですね。
昔ながらのドラクエの使用で、街の至る所に配置されているタルやツボを壊してアイテム回収をしたり、本棚を調べて、各アイテムを制作するためのレシピを見つけなければなりません。
その為、ストーリーと直接関係の無い民家に入り込んで、シラミ潰しみ探す必要があるのが、結構ダルい。

また、この作業は一回だけで終わらず、ストーリーが進む事で散策できるようになるスペースや、新たに解読できる本が増える為、それらを見つける為に再度、散策をしなければならない。
この時間がかなり面倒くさい。
私は、プレイ中にラジオなどを聞くことで、何とか気を紛らわせながらやってますが、もう少しシンプルでも良かったような気もします。
ただ、これらのアイテムは無くてもストーリー進行には問題はない為、やりこみ要素と考えると、これぐらいでも良いのかもしれませんけれども。

また、やりこみ要素としては、最強の武器や防具は、ダンジョンで拾うのではなく素材を拾って作ることになります。
この素材集めで、全国を飛び回ったり敵と戦ったりする必要でてくるのですが・・・ こちら場合は、私は比較的楽しんで行うことが出来ました。
これも、人によっては面倒くさいと思う人も出てくる要素だとは思いますけれどもね。

ただ、どちらの場合も、あくまでもやりこみ要素であって、やらなければクリアーは無理と言うものではなく、選択肢が用意されているので、その面では親切設計だと思いますね。
武器なども、最強装備が面倒くさければ、道具屋に売っているものでも何とかなったりしますし。

ちなみに、このタイトルですが、PS4版とDS版が出ています。
単に出るハードが違うだけかと思いきや、DS版だけに収録されている要素などがあったりするので、どちらか一方だけを買う場合は、注意が必要となってきます。
一番大きな違いとしては、『ヨッチ族』の存在でしょう。

ヨッチ族は、PS4版でも存在はしているのですが、こちらでは話しかけることも出来ずに、本当に『ただ存在しているだけ』の存在だったりします。
しかしDS版の方では、ヨッチ族が物語に関わってきているようなので、追加要素のストーリーを楽しみたい人は、DSの購入を検討したほうが良いのかもしれませんね。

一方、PS4版の方ですが、こちらの方は、当然のことですがグラフィックが非常に良くなっています。
フィールドに歩いているモンスターも、それぞれの行動を取りますし、観ているだけでも楽しくなってきます。
例えば図書館では、龍族の賢者が他のモンスターに対して講義をしていたり、フィールドでは、太鼓を叩いているモンスターの後ろを、スライムが楽しそうについていったり等。
(大部分は、勇者である自分が殺すんですが・・・)
モンスターの生態系が演出されいて、本当に自分がその世界に入ったかのような体験ができるところが良いですね。

私は現在、やりこみ要素を潰しつつ、プレイ時間としては100時間ぐらいプレイをしているのですが、それほどダレること無く、時間を忘れてプレイできています。
本当に、FF15のトラウマで買うのを躊躇していたのが悔やまれるほどです。

世界観自体が楽しいですし、ストーリーも、ホロッと来るものが多い。
現実逃避にはもってこいのゲームだと思うので、もし気になっている方がいらっしゃれば、試しにプレイしてみてはいかがでしょうか。

【本の紹介】 誰がアパレルを殺すのか

いつものようにTwitterのタイムラインを眺めていると、結構おもしろそうな本のタイトルが目に入り、興味が出たので読んでみました。
という事で今回あh,その本『誰がアパレルを殺すのか』の紹介です。


      

この本は、日経ビジネスの記者が記事を書く際にアパレル業界を取材したのを、まとめた本となっています。
タイトルには『誰が 殺すのか』といったショッキングなワードが含まれていますが、本の内容的には、アパレル業界や、それを取り巻く小売業の問題点を挙げ、その後、その問題点に対して真っ向から挑む企業を紹介するという構成の、業界本。
私は、アパレル業界の人間ではないので、その立場から読むと、書かれている内容で知らない点も多く、単純に勉強になった面が大きい、良い本でした。

また、専門用語なども極力使わずに書かれていますし、業界のことを全く知らない人間が読んでも理解できます。
文章自体も、難しい言い回しなどはされておらず、サラサラと読める様に書かれています。
また、記者らしく? 要所要所でグラフや具体的な数字を出してくれるため、興味をなくさずに最後まで一気に読める点も良いですね。

ですが、Amazonレビューなどで他の方が書かれている内容を見ると、アパレル業界に勤めている人にとっては常識的な事が羅列されているだけで、得られるものも少ない本のようですね。
ただ、本に限らず、特定分野のことを知らない人に業界内のことを知らせる本というのは、業界人にとっては常識的なことばかりなのは当然です。
これらの本は、その業界を知らない人に業界の常識を教えるという目的で書かれているので、アパレル業界に携わってはいないけど、その業界の事を知りたいと思う人にとっては、面白く読める本だと思います。

また、この本の面白いところは、アパレル業界に興味がない人が読んだとしても、それなりに楽しめるということでしょう。
というのも、この本の構成としては、前半部分でアパレル業界の衰退の理由を挙げ、後半部分で、その原因を打破すべく立ち上がった経営者たちの新たな試みを取り上げるという作りになっているのですが、前半部分の衰退の理由は、どの業界にも当てはまるものだからです。

では簡単に、その内容を紹介していこうと思います。
あくまで『簡単に』なので、興味をもった方は購入して読んでみてくださいね。

ここ最近では、アベノミクスの影響で、株価も右肩上がり。 不景気なんてどこ吹く風で、日本経済はバブル期を超えて絶好調!
・・・なんて言われたりもしますが、実際に平均所得やそれ以下の給料しか貰っていない私達にとっては、そんな実感は全く感じなかったりします。

その実感とシンクロするように、アパレル業かも衰退していってるらしく、このままジリ貧になるのが目に見えている。
では、誰がそんな状態を生み出したのか。『誰がアパレルを殺すのか』を探るというところから、この本は始まります。

タイトル内では『誰が』と書かれているので、誰が特定の人物や企業、業種が存在するのか?といった感じで犯人探しが始めるわけですが、記者が取材を進めていく過程でわかってきた事は、業界全体が高度経済成長のぬるま湯に浸かり、改革を怠ってきたということ。
高度経済成長時代からバブルにかけては、百貨店は新規店舗を作るだけで簡単に売上が稼げたし、利益も伸ばせた。その百貨店が取り扱う商品の中でも、婦人服はかなりのウェイトを占めていたので、アパレル業界も恩恵に預かれた。
この『ぬるま湯時代』に、業界が推し進めてきたことが、商品の大量生産化です。

百貨店やショッピングセンターは、売上や利益を伸ばすために新規店舗を立て続けるのですが、取り扱うブランドが同じものだと、客も飽きてしまうし売上も伸びづらい。
そこで、アパレル業者と共に行ったのが、ブランドの大量生産です。
元は同じ会社なのに、名前が違うブランドって結構有りますよね。有名な会社でいうと、オンワード樫山には、同じ傘下のブランドとして『組曲』『自由区』『23区』なんてのが有ります。
この様な感じで、同じ会社がブランド名を変えて活動する事で、種類を水増ししたんです。

また、伸び続ける需要に応えるために、アパレル業者は生産体制も整えることになります。
ですが、ただ整えるだけでは利益が薄いので、更に利益が出るように、日本の工場との契約を切って中国企業と契約を行い、素材の大量買い付けと大量発注で、服の一枚あたりの単価を引き下げようとします。
この戦略も大当たりで、アパレル企業は大幅な利益を手に入れることになります。
その一方で、日本の服飾科工業は衰退するわけですが…

そして、販売点数もブランド数も増え続けるという状態が長く続くことになると、アパレル企業は服の企画その物を外注しだします。
いわゆるOEM(相手方ブランドでの製造)というもので、デザインも下請け工場に丸投げし、服の大量生産大量販売を行っていくことになり、アパレル業者の企画力も徐々に衰退していくことになります。

その結果として生まれたのが、どこのメーカーの服も見た目が同じという現象。
OEMによってブランドの個性が失われ、差別化がなくなったことで、客はどのメーカーの服を購入しても同じという状態になってしまった。
しかし、そんな状態でも服は売れ続けたのですが、それがバブル崩壊や、その後の失われた20年とやらで変わってしまった。

というのが、大まかな流れです。 
気になる方は、本を購入して読んで下さいね。

この他にも、アパレル業界で働く人たちの使い捨てという問題も、結構響いているようです。
これを書いている私の知り合いにも服の販売員がいますが、自分で働くブランドの服を定期的に買わなければならなかったり、休日休みがほとんど採れなかったりと、結構キツイよう。
その上、未来への展望も描けない職場も多い。

例えば、20代をメイン顧客にしているブランドに販売員として就職した場合、30代になると販売員としての需要は徐々に減っていき、40代になると現場に立つのが厳しくなるのは、素人目に見ても想像できます。
その販売員が、経験を活かして店長になったりバイヤーになったり本社の販売戦略部に入れるのかといえば、多くのメーカーではその様な配置換えは行っていないらしく、従業員の使い捨てになっていたりするようです。
折角、顧客と直に接している人が身近にいるのに、それを活かさず、OEMで下請けにデザインと生産を丸投げし、販売も使い捨ての販売員にノルマだけ課して丸投げしてたら、業界として衰退するのも理解できますよね。

この流れをみると、確かに納得できる部分が結構有ります。
ブランド毎の特色がなくなって、どのメーカーを購入しても同じなのであれば、ユニクロでも十分ということになりますし、『ユニクロでも高い! GUか しまむら のセールで十分』と考える人が増えても仕方がない。
ここ最近では、『ノームコア』なんて流行も有りましたが、ノームコアは、特徴がないのが特徴という、なんとも不思議な特徴で、ブランドの完全敗北を意味します。

服に何の特徴も必要ないのであれば、高い服を買うことに意味がなくなる。
その結果として服の市場は、1991年には15兆あったものが2013年には10兆円と3分の2に減少。
その一方で、供給されるアパレルの数は20億だったものが40億と2倍に増加するという、取扱商品数が倍に増えているのに市場規模が縮小しているというよく分からない状態になってしまいました。

では、もう一度、基本に立ち返ってやり直せばよいのかといえば、そんなことは出来ません。
何故なら、長年続いたOEMによる生産によって、アパレル企業には提案力と技術力がないので、自分達で新たなものが作れません。
また、日本の工場で作ってもらおうにも、日本の生産工場を切り捨てて生産拠点を中国に移してしまった為、廃業が進み、日本には引き受けてくれる工場がありません。
まだ生き残っている数少ない生産工場は、技術力が高いから生き残っているわけですが、そういう企業はヨーロッパ有名ブランドからの受注を受けていたりするので、日本のアパレルに入る隙間は無い。

で、この構造ですが、他の業者にも当てはまりますよね。
例えば、アパレルとは離れてそうな東京電力などの電気会社。この電気会社も、本社の人間は下請けに仕事を振るだけで、本社に職人は抱えていなかったりします。
私の知り合いは、東京電力に就職したのですが、知識的には学校で習った程度しか無く、その後、実践で知識を身につけようにも、業務は下請けに丸投げしているらしく、そんな機会もないようです。

NTTなども、そうですよね。
家や職場には、NTTを名乗る業者から、『フレッツ光回線に変えませんか?』という営業電話が結構かかってきますが、よくよく聴いてみると、NTTと代理店契約しているだけの業者が多い。
つまり、営業は代理店に丸投げで、営業のノウハウなどはNTT本社にはないということです。
テレビなども同じで、流されている番組の多くは、制作会社が作っていたりします。

百貨店も、多くのフロアがテナント貸しになってきてますし、服飾も委託販売という形で、働く販売員も服飾メーカーからの派遣なので、百貨店その物に販売力はなく、単なる不動産業と課している。
メーカーからすると、百貨店は商品を売る為の単なるプラットフォームにすぎないので、ネット販売などが台頭してプラットフォームの乗り換えが起きてしまうと、百貨店側は為す術がない。

全ての企業に言えることですが、社会の構造的に上層部に存在していたからという理由で利益が出ていて、そこに何の疑問も持たずに胡座をかいた結果、顧客から見放されて自滅している感じですね。
百貨店は、ネット通販の台頭でメーカーに見捨てられ、そのメーカーは、ブランドイメージに胡座をかいて行動を起こさなかた結果、消費者から見捨てられた・・・

そもそも生活に必要なかったものが切り捨てられているだけなので、当然といえば当然なのですが、この流れは、全産業で今後も加速していくことになるのかも。
時分が生き残るために、これらの現象を反面教師として利用するという意味でも、読んで損はない本だったと思います。

独身や子供のいない家庭に増税をしてまで少子化は克服すべきなのだろうか

かなり前からなのですが、ここ最近、更に『少子化』について語られるようになりましたね。
プラス方向で増やそうと思う人達は、一人産むと2000万円以上の費用がかかると言われている子供の育成費を引き下げる為に、学費の無料化などを訴えていますし、子供を抱えながらでも経済的にマイナスにならないように、保育所等の預けられる施設を増やすべきだと主張していたりもします。
その一方で、国民にとってマイナス方向で少子化に歯止めをかけようとする人は、独身税や、子供がいない家庭に対して増税しろといった方面から、出生率を上げようとしている感じですね。

プラス方向の政策で誘導させるというのは良いとして、子供のいない家庭に課税するという事までして、子供の数は増やすべきなんでしょうか。
今回は、このことについて考えていきます。

この少子化ですが、何故、ここまで一生懸命になって上げようと思っているのかといえば、最大の理由は年金なんですよね。
様々なところで言われていますが、今の年金システムは、積立方式ではなくて、今のお年寄りの年金を現役世代が払うという支払い方式です。
年金積立資金が150兆円あると言われていますが、一年間の年金支払が50兆程度とされているので、国の持つ積立金は3年分しか持っていないことになります。

ここ最近では、年金資金を株式投資で運用するという話を聴いたりもします。
私は、この運用方法には賛成はしないのですが、仮に、ここで数百億円程度の損益が出たところで、そんなものは1年分にも満たない金額だったりします。
では、何故、こんなに積立金が少ないのかというと、そもそも年金の設定が、人口ピラミッドが三角形の状態を維持しながら人口が増えていくという事を前提として作られているからです。

現役世代から集めた金を、そのままリタイアした人達に渡すだけなので、そもそも運用なんて必要ないですし、国の予想よりも国民は早く死ねば、国が儲かるぐらいしか考えてなかったからだと思われます。
『政府が、そんな甘い計算するわけがないだろう!』と思われるかもしれませんが、それがするんですよ。

何故なら、今のような雰囲気での少子化にならなかったとしても、日本の人口減少はいずれ起こっていた現象だからです。
人口ピラミッドというのは、三角形の状態を維持し続けようと思えば、人口は増加し続けなければなりません。当然ですよね。今の老人よりも若者の人数のほうが多くなければならないのですが、その人口の多い若者はいずれ老人になるわけで、ピラミッドを三角形に保つためには、それ以上の子供を産む必要があります。
しかし日本という国は、島国で国土面積も広いとはいえない国です。その国で、人口増を続けていれば、いずれ、土地という物理的な条件で人口は制限されてしまいます。

それでも増やそうとする場合、土地という制限をぶち破る為には、当然のように、新たな土地が必要となります。
埋め立てても拡張できる土地は限られるという事から、大幅に新たな土地を獲得するためには、他国に侵略戦争を仕掛ける他ありません。
日本が国民健康保険料を徴収し始めたのが昭和36年らしいですが、日本が第二次世界大戦に参戦したのが昭和39年。
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国民年金保険料の変遷|日本年金機構

日本年金機構より

この2つに直接的な繋がりがあるのかどうかは分かりませんが、他国を占領して国土を広げることを前提にして作られたシステムと思われても、仕方のないタイミングですね。
まぁ、敗戦によってその野望は潰えたわけですが、そうなってくると、人口増を維持し続けるというのが難しくなってくる。
敗戦直後の早めの段階で、年金システムを積立方式などに方向転換していれば良かったのでしょうが、その後も人口増を前提としたシステムを継続し続けた為、現在の少子化によってシステムが狂ってきたわけです。

では、この年金問題を除外して考えた場合、少子化というのは本当に日本にとってはマイナスなのでしょうか。

個人的には、それほどマイナスが無いようにしか思えないんですよね。
例えば、日本は食料自給率が低いと言われ続けています。

日本の食料自給率は、カロリーベースというよく分からない指標を使っていますし、日本で生まれた子牛を日本で育てたとしても、与えている餌がアメリカ産コーンだと牛の方も輸入牛肉にカウントされてしまうという不思議な計算方法ですが、とにかく食料自給率は低いと言われています。
ですが、人口が半分になればどうでしょう。
同じ食料を生産していたとしても、人口が半分になれば、それだけで食料自給率は倍になります。

震災以降、原発が止まって『電気代が…』みたいな事になってますが、人口が半分になれば、使用電力も減るでしょう。
実際には、世界に輸出している製品用の工場などもあるでしょうから、単純計算で半分になるわけではないでしょうが、減ることには違いありません。
また、人口が半分になれば、単純に住居の量が半分で済みます。

日本は、狭い国土に大量の人がひしめき合っているので、平地が足りません。
その少ない平地に家や道路を敷き詰めているので、下がったとはいえ不動産価格は高く、下手をすると家の購入で一生奴隷になりかねません。
また、そもそも土地が狭いので、そこに敷かれている道路も狭く、運送業者などが配達でトラックを停車させると、他の人が通れないなんて事が多い。
これも、人口が半分ぐらいになると、少しはマシになるかもしれない。

また、少子化の日本は人口減少リスクを過剰に訴えるが、地球規模で見ると人口増加の方が問題で、地球の資源料などを勘案すると、世界人口は30億人ぐらいが丁度よいなんて意見も有る。
こうして考えると、人口減のリスクは、然程、無いような気もします。

にも関わらず、声高に少子化対策を叫び、必死になって子供を産ませようとするのは、やはり、最初に主張した通り、年金が破綻しそうだからなんでしょうね。
後は、経済力の低下によって、他国への発言力まで下がってしまう事でしょうか。

まぁ確かに、資本主義社会では経済は大切ですし、お金も大切。
ですが、独身税や子供がいない家庭への増税してまで、増やすべきなんでしょうか。

結構前に、『ヤバイ経済学』という本が出版されました。


      

この本は、様々な社会現象を統計によって読み解いていくコンセプトで書かれているのですが、この中に、犯罪率について取り扱った項目が有ります。

その中で、ニューヨークの犯罪率低下について、結構、興味深いことが書かれていました。
ニューヨークの犯罪防止政策といえば、ジュリアーニ市長が掲げた『割れ窓理論』が有名ですよね。
道端に多数のゴミが落ちていると、ゴミを捨てるのに抵抗が無くなるのと同じように、割れた窓を放置しておくと、他の窓も割られるし、心も荒むので他の犯罪も増えていく…
その為、街を清潔に綺麗に保つことが、犯罪率の低下につながるという理論です。

そして実際に犯罪率が低下して、この政策は脚光を浴びたわけですが、実際には、犯罪率の低下に『割れ窓理論』は殆ど影響を与えていなかった事を、この本では主張します。
では何故、犯罪率は低下したのか。 答えは、『割れ窓理論』が行われる20年前に実施された、中絶の合法化です。
当時のアメリカでは、キリスト教の考え方により、中絶は禁止されていました。

その為、本来は子供を望んでいなかった人でも、子供が出来てしまったら産むしか無かったわけです。
望んでいなかった子供に対する親からの風当たりはキツイもので、そういう家庭の子供の多くは、辛い幼少期を過ごすことになります。
親からの愛情も、まともな教育も受けられなかった子供は、普通の家庭で育てられた子供よりも高い確率で犯罪を犯すというサイクルが続いてきたわけですが、中絶の合法化により、子供を望まない家庭は中絶することが可能になった。
これにより、不幸な幼少期を過ごす子供の割合が減ったわけです。
その結果として、20年後に10代の犯罪率が激減し、トータルでの犯罪率も低下するという減少が起こったわけです。

これを、日本の少子化に当てはめてみましょう。
独身税や、子供がいない家庭への増税によって、仮に子供の数が増えたとして、そこ子供は、親から望まれて生まれてきたのでしょうか。
それとも、節税対策として『取り敢えず作られた』だけなのでしょうか?
もし、節税対策として作られただけで、親から『欲しい』と思われずに生まれた子供である場合、その子は辛い幼少期を過ごす事になるでしょう。

そして20年後、アメリカの現象とは逆に、日本では犯罪が増える可能性も有るでしょう。

テレビや、それに映し出される政治家は、『少子化が問題!』と言い続けているので、何となく、『少子化が問題なんだ・・・』と思っておられる方も多いかもしれませんが、何故、問題なのかを、自分の頭で考える必要があるのではないでしょうか。
無理やり産ませたり、移民を大量に受け入れたりする事で、結果として国民が幸福になるのであれば、良いでしょう。
しかし、単に経済面のことしか考えず、計算上の辻褄だけ合わせるような対応なのであれば問題でしょう。

何故なら、そのツケを支払うのは国民なんですから。