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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第8回 西洋哲学と東洋哲学の違い

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

だぶるばいせっぷす

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  • 木村 ゆう
  • 社会/文化
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前回までは、ギリシャ時代を中心とした西洋哲学について、私の認識を元に説明してきたわけですが、今回からは、東洋哲学について考えていこうと思います。
西洋哲学と東洋哲学の違いを簡単に説明すると、西洋哲学は知識や理性を重要視して、順を追って世界を読み解こうとしたり、説明していこう と していきます。

一応 誤解の無いように最初に言っておきますが、東洋哲学は結構早い段階で、仏教といった宗教と結びつきます。
この放送を聞いた方の中には、私が何らかの宗教の勧誘目的で放送していると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなつもりはありません。
というのも私自身、宗教というものを知識で知っている程度で、何かの団体に入信しているわけではないからです。

私自身は、日本人でありがちな、クリスマスにはケーキを食べて、年明けには誘われれば初詣に行く。
まだ結婚はしてませんが、する事になれば結婚式には神父に依頼して来て貰うことになるでしょうし、自分自身や身内が亡くなった場合は、お寺に連絡するような人間なので、そういった心配はありません。

という事で話を戻して、前回までの話を簡単に振り返りながら話しますと、ギリシャ人は最初、自分達の説明の出来ない事を、神様を使って説明しようとしました。
雷が落ちたら、雷の神様であるゼウスが怒ったからだといった感じで説明し、考えても分からないものは神様を使って、神話の世界に押し込むことで説明していきました。

この考え方は、前にも言ったと思うんですが日本でも同じですよね。
日本でも、分からないことが起こった場合は、妖怪のせいにしていましたし、また、全てのものに神様が宿っているという八百万の神という考え方もありますよね。
これと同じような感じで、ギリシャでは自然現象や美といった概念的なものにまで神様を当てはめて、神話によって世界を理解していこうと考えます。
ただ、ギリシャ時代の人口は少なく、様々なところに点在していた為、それぞれの部族がそれぞれの神話を考えて行くことになります。

当時は移動手段も限られていた為、最初のうちは、部族同士の交流なども頻繁にあったわけではなく、それぞれの部族がそれぞれで作った、バラバラの神話を信じていることに問題はなかったわけですが
文明が進んで食料の確保などが比較的容易になる事で、各部族の人口は、どんどん増えていくことになります。
人口が増えると、当然のように、人々が暮らす村や町の面積が大きくなっていきます。そうすると、各町との距離も縮まっていくため、各都市との交流が生まれるようになります。

そうすると、各部族が伝えてきた神話に、矛盾が生じてくるようになります。
これは当然ですよね。各部族がそれぞれ勝手に、解明できない現象や概念に対して神を当てはめていっているので、部族ごとに神様の名前が違ったり、解釈が違ったりする事は仕方が無いことですよね。
この矛盾に対し、相対主義という考えを生み出すことで、解決をはかろうとします。

相対主義は、簡単に言うと、物事の理解というのは人それぞれの主観に委ねられているのだから、人それぞれで感じ方や考え方が違ったとしても仕方のないことだという考え方です。
同じ温度の水を触ったとしても、人によっては『冷たい』と感じるし、別の人は『ぬるい』と感じるかもしれない。
それは、どちらかが間違っているのではなく、人それぞれの考え方次第という考え方で、この考え方に照らし合わせれば、神話の解釈が他人事に違ったとしても不思議ではないという考え方です。

これに対し、ソクラテスが異論を唱えます。
相対主義の考え方では、人それぞれに感じ方が違う為、絶対的な価値観や真理がないことになります。
絶対的な真理が無いとした場合、人はそれ以上に考えることをしなくなる為、ソクラテスは再び人が考える状態を作り出すために、絶対的な真理を担ぎ出して、『無知の知』という考え方を生み出します。

この考えに影響を受けたプラトンは、絶対的な究極の存在を考えるために、イデア論を考え出し、その弟子のアリストテレスは、イデア論を批判し、現実に存在する物を観察する事を重要視して、化学の基礎を作り上げます。
この様な感じで、西洋哲学は、現状の矛盾を理論によって説明しようとしたり、その理論を発展させたり、時には理論を批判することで、新たな考え方を生み出していくという方法で、世界を解明していこうとします。
理論を一段一段積み重ねるように、一歩一歩進んでいく姿勢は、基礎研究を踏み台にして新たな発見や理論を構築する科学の考え方と、基本的には同じですよね。

この様な考え方のため、哲学というのは、読解力さえ有れば、前提書を読んで順を追って知識を吸収して高めていくことで、誰にでも理解をする事が可能となっている構造になってるようなんですね。
とはいっても、哲学書の、特に原書をそのまま直訳したような本は、非常に読みにくい書き方で、学ぼうとする人間をことごとく挫折に追い込むような感じになってますけどね。
正に、初心者殺しって感じの書き方なので、興味を持つ人は多い分野なのに、多くの人が挫折したりします。
こんな放送をしている私も、何回も挫折していたりします。
この様なジャンルのせいか、哲学は、哲学書1冊につき、入門書が1万冊有るなんて言われ方をしているぐらいですからね。
マルクスの本を少し読む)

これに対して東洋哲学は、自分の内面に焦点を当てて考えていき、ある日突然、真理を得た人が登場します。
そして、その人の言葉を基にして、周りの人がそれぞれ解釈を行う事で、大量の解釈が生まれていきます。
前にも紹介した、史上最強の哲学入門という本の東洋哲学編には、悟りを得た人を頂点としたピラミッド状のものが形成されると書いてありますね。

西洋哲学との違いを簡単に書くと、西洋哲学は、自分の外側にある世界や仕組みについて、辻褄を合わせる為の理論や解釈が生まれ、それを踏み台にする形で、新たな理論が生まれていきます。
これをひたすら繰り返して、究極である真理を追求する為に試行錯誤するわけですが、その一方で東洋哲学は、自分の内面に焦点を当てて考察を始め、ある日突然、真理を得た人が登場します。
その真理を得た人が、まだ真理を得ていない人達に、真理とは何なのかという事を解説していき、それを聴いた人達が、解釈本を出していきます。
人には寿命が有るので、悟りを得た人もいずれは亡くなってしまうわけですが、そうなってくると、それ以降の人達は、悟りを得た人に教えてもらった人の解釈本などを読み漁って、また解釈本を出していく。

これをアニメや漫画に置き換えると、オリジナルが発表された際に、コミケで二次制作が大量に生まれ、その二次制作に影響を受けた人が、さらに二次制作を手がけていくように、東洋哲学は、真理を得た人を頂点として、様々な解説や解釈本が出されることで、裾野が広がっていきます。
ただ、裾野の末端の方は、解釈本を呼んで独自解釈して書かれた本を読んで、解釈したものを本にして、その本を読んで独自解釈して書かれた本を…という感じで、大本の真理とはかけ離れたものになっていきそうですけどね。

つまり、西洋哲学と東洋哲学は考え方や構造自体が真逆になっているという見方も出来ますね。
西洋哲学が、無知の状態から順に知識を積み重ねることによって、山頂を目指す一方で、東洋哲学は、ある日『自分は頂上にいる』と宣言した人が出来て、その人を頂点とした山が生まれるからですね。
また、逆という見方でいえば、西洋哲学と東洋哲学は、真理についての捉え方や考え方も違います。



先程から言っている通り、西洋哲学は、理性的に考えて知識を蓄えていき、最終的に知識・理性によって真理に到達しようという考え方です。
その一方で東洋哲学は、、真理は体験だとします。
この、体験という考え方は、かなり斜め上な発想すぎて、西洋哲学的な考えをされる方には受け入れ難い方もいらっしゃるでしょうし、真理が体験と聴いて、余りピンッと来ていない方もいらっしゃるとは思うので、もう少しこの事について説明しますね。

真理が体験とはどういうことかというと、真理は原則的には他人に伝えることが出来ないんですよ。
この部分が、西洋哲学と決定的に違うところです。

例えばですね、ソクラテスに関する話を後世に伝えるために、弟子のプラトンソクラテスについて書いた『ラケス (対話篇)』という話があるんですね。
この話の中で、ソクラテスは有能な将軍に対し、『勇気とはどんなものなのかを知っていますか?』という質問をして、将軍はその質問に対し、『当然、知っていますよ』と答えるんです。
そこでソクラテスは、『勇気について知っているのであれば、当然、その事を言葉にして説明することが出来ますよね。 私に対して説明してくれませんか?』と言うんですね。
その後の展開は、この将軍がどんなことを言ったとしても、様々な可能性を出して、将軍の揚げ足を取り続けて、『貴方は、勇気について知った気になってただけですね』みたいな感じの話になるわけですけども…

このやり取りを見ても分かる通り、西洋哲学は、知っているのであれば、それを言葉にして説明できるということが前提となっています。
逆にいえば、西洋哲学的な考えでは、説明さえ出来れば理解していることになります。

それに対して東洋哲学は体験なので、同じ体験をしている人と共有することは出来ますが、それを言葉によって説明することは出来ないんです。
ですから当然、言葉でどんなに説明をしたとしても、それが体験を伴っていなければ、悟りを得たことにはなりません。

理解しやすいように、例えば、自転車を乗るときのことを考えてみましょう。
自転車というのは、スピードが出れば出るほど安定して、転びにくくなります。
その為、転ばないように自転車に乗るコツは、思い切ってペダルを力強く漕いで、一定以上のスピードを出す以外にはありません。

西洋哲学的な理解でいえば、自転車に乗る方法を知っている状態になる為には、既に乗れる人にコツを聴いて、『スピードを出すと転びにくいよ。』という事を教えてもらって、知った時点でOKのようです。
というのも、先程のソクラテスの勇気の理解を思い出してほしいのですが、西洋哲学での理解は、知識を持っていて、それをもとに他人に説明ができる事が理解なので、それが出来る状態になったということは理解したと言うことになるんでしょうね。

しかし、東洋哲学の場合は違います。東洋哲学での理解は体験なので、実際に自転車に乗ったという体験を得なければ、理解したことにはならなりません。
また、この体験というのは、言葉にして説明がしにくいものなので、言葉にしなくても良いし、それを行ったとしても本当の意味で相手に伝えることは出来ません。
ですから、先程挙げた、将軍とソクラテスの勇気についての問答を思い出してほしいのですが、将軍は、『勇気について知っている』を言ってるわけで、これは、ある種の体験が元になって理解しているわけです。
その為、他人に本当の意味で伝えることも出来ないし、理解しているかどうかを確かめるためには、色んな場面での出来事について、勇気が有るか無いかを判定していくことでしか表現できないことになります。
つまり登用哲学的な観点から見ると、この将軍は、勇気について知った気になっていただけではなく、知っていたと考えることも出来ますよね。

また、理論よりも体験を重視するという事は、他人に説明する時は、他の物事に例えても良いし、時には嘘をいっても良いとも考えられます。
何故、嘘が許されるかというと、嘘を言われた本人が、それをキッカケにして理解を体験できれば善いと考えるからですね。

嘘の例を一つ挙げると、『キサー・ゴータミー』という方についての話が有名です。詳しく知りたい方は、『キサー・ゴータミー』で検索したらたくさん出てくるので、調べてみてください。
簡単に内容を紹介すると、我が子を亡くした母親であるキサー・ゴータミーが、仏陀の下を訪れて、『私の子供が病気なので、知恵を貸してもらえませんか?』と相談に来ます。
抱きかかえられた子供は、どうみても既に亡くなっているのですが、ブッダはその事には触れず、『家族が誰も死んでいない家を見つけ、その家の庭に生えているケシを与えると、病気は完治しますよ』と嘘をつきます。
それを聴いた母親は喜んで、早速、村の家という家を訪れて、『この家では、誰も死んでいませんか?』と聴いて回るのですが、どの家も、誰かが死んでいる事を知り、死別した人間のことを話す家族の何とも言えない表情を何度も見ることで、母親は子供の死を受け入れたという話です。

ブッダの教えは明らかに嘘なのですが、大切な子供の死を受け入れられない母親に向かって、『貴方の子供は死んだので、諦めなさい』と正論を言ったところで、母親は聞く耳を持ちませんよね。
この母親にとって重要なのは、落ち着く為の時間と、同じ様に大切な人をなくした人達から話を聞くことですが、これを告げたところで、母親は聞く耳を持ちません。
そこでブッダは、母親の主張に耳を傾ける形で嘘をいうことで、効果的な行動を取るように導いたというわけなんです。

この様な感じで、東洋哲学では、体験を基にした理解が重要視され、教えも 体験を促すような嘘が散りばめられていたりします。
この辺りの仕組みが、東洋哲学がわかりにくくなっている大きな原因になっているようです。

先程も言いましたが、東洋哲学では、真理を得た人・悟った人というのが、まず最初に現れます。
そして、その人の教えや助言を周りの人間が聴いて書き写した解釈本というものが大量に作られ、その解釈本を読んで理解した人が、さらに自分の解釈をもとに解釈本を作り出すことで、裾野が広がっている状態です。
ここで重要なのは、解釈本を出している人達は、まだ真理を得ていないということです。
その為、ブッダが説明の為に話した嘘も、周りの人間はそのまま書き写すことになります。

ただ、先程の『キサー・ゴータミー』の例を思い出してもらってもわかりますが、この嘘は、我が子を亡くし、その事実を受け入れることが出来ない母親の為に、カスタマイズされた嘘です。
その状態、もしくは似たような状態の人間しか、この嘘によって体験を得ることは出来ないのですが、この嘘の助言も、普通に解釈本に書いてあったりするそうなんです。
この例の場合は、まだ状況が分かりやすいので、間違った解釈をしなさそうですが、こんな分かりやすいものばかりではなく、状況が想定しにくいような微妙なものも結構沢山有る感じなんですね。
なので、同じ様な状況に陥ったAさんとBさんに全く正反対のことを言っていて、それがそのまま解釈本に書かれて、後世の人は、その解釈本を読んで独自解釈を行っていくので、訳がわからないくなっていき、西洋哲学とは違った意味で、難解になっているようですね。

まとめると、西洋哲学は理性を重視したボトムアップ型で、前提本を読むことで、大抵の人の主張は理解できるように作られていて、東洋哲学は体験を重視するトップダウン型で、下に行けばいくほど解釈についての解釈といった感じで、主張がぼやけていってしまうものということですね。

日本の輸送と世界の輸送 【後編】

この投稿は、前回の続きとなっています。
まだ読んでおられない方は、先ず、そちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com
前回の内容を簡単に振り返ると、米中の経済トップ国では、トラックシェアリングというサービスが導入されていて、すごいスピードで合理化が進んでいる。
その上、アメリカでは、Uber社がトラック自動運転の技術を持つ企業を買収したことによって、更に効率化を進めている現状について書きました。

この投稿を読んで、『日本でも、自動配送サービスは実験されているじゃないか!』と言った、反論をされる方もいらっしゃるでしょう。
確かにヤマト運輸は、ロボネコヤマトなる自動配達便を実験しており、効率化を進めようと頑張っています。
http://kimniy8.hatenablog.com/entry/2017/07/15/122944www.roboneko-yamato.com

ですが、Amazonでは、更にその上を行く戦略を考えているようです。
前回も少し書きましたが、Amazonは既に、自前の配送システムを構築する為に動いています。
航空会社との提携も、この一環なんだと思います。
jp.wsj.com

そして、Amazonが次に進めているのが、ラストワンマイル問題への対応。
これは、中継地点から注文者の自宅に、いかにして物を届けるのかという問題です。中継地点や事業所と自宅の距離が1マイルしか離れていないのに、コストが大幅に掛かるという問題。
日本で問題になっている『再配達問題』なども、このラスト1マイル問題に集約されますね。

これを、いかにして解決しようかと考えた結果、Amazonが考え出したのが、アメリカのスーパー大手のホールフーズの買収です。
www.bloomberg.co.jp
何故、スーパーの買収が、配送に関係有るのでしょうか。
これは簡単な話で、私たちは普段の食事を家で食べます。当然、食材はスーパーへと書いに行きます。
なら、このスーパーにAmazonのロッカーを併設し、買い物をしたついでに、ロッカーから商品を持っていって貰えば、『自宅に届ける』という最も手間のかかる作業を省略することが出来ます。
アメリカの場合は、車社会ですし、スーパーへも来るまで行くので、家に持って帰る手間が大幅に増えるわけでもない。
これは、日本で言うところのコンビニと提携してのコンビニ受け取りサービスと同じわけですが、提携ではなく買収をした事で、より自由に手駒として使えるようになります。

そして、実店舗という視点でみれば、AmazonAmazon Goという無人コンビニのテストを行っていますよね。

このテストが上手く言った場合、このシステムを日本に導入する可能性は、非常に高いですよね。
というのも、日本のコンビニも『凄い!凄い!』とは言われていますが、実際には、搾取が酷い業界として有名です。
コンビニの運営元の『お客様』とは、実際にコンビニを利用する利用客のことではなく、コンビニオーナーなんて言われているぐらいですからね。

だって、最初に開業資金として1000万円ほど用意しなければなりませんし、商品は、最低限、決められた量を買わなくてはならない。
24時間営業なので、ちゃんと営業をしようと思うと、バイトもそれなりに雇用しなければなりませんが、儲けが少なければバイトを雇う事もできなくなる為、最終的にはオーナーが頑張って働くしか無い。
オーナーは個人事業主なので、残業という概念もなく、下手をすれば最低時給以下で長時間働かなければならず、途中でやめようと思うと、膨大な違約金が取られる。
何とか必死に営業し、お金をコツコツ貯めたとしても、2年毎に改装という名目で、コンビニのグループ会社にお金を持っていかれる。

余程の好立地でもなければ、ガレージにして貸しておく方がまだましというレベル。
それが、今のコンビニ業界だったりします。

一方で、Amazonが現在テストをしているのは、無人店舗。
基本が無人なので、仕入れした商品を並べる品出し作業と清掃をすればよいだけなので、バイトを雇わなくてもオーナーが単独で営業できる。
また、入り口でAmazonアカウントを提示して入店するため、店に迷惑をかける様な客はアカウントを剥奪してしまえば良いだけ。
Amazonアカウントの剥奪は、かなり不便な生活を強いられてしまう為、客もわざわざ迷惑をかけようなんて思わないでしょうし、無人だから荒らされるなんてこともないでしょう。
また、無人店舗なので、普通の店よりもカメラが多く、何か迷惑をかけた際には証拠映像も残りやすい。
この様な感じで、客側に圧力をかけられるため、コンビニ運営の仕事も減らせます。

この条件で、日本の大手コンビニよりも搾取具合が少ない場合、既存のフランチャイズオーナーはAmazonに鞍替えする可能性は、結構あると思います。
こんな感じで、Amazon無人コンビニが日本中に増えてくれば、この数だけ、Amazonは荷物引取ロッカーを設置できることになる。
この様に、客の生活範囲内で、労せず荷物を取りに行ってもらえるような環境を作ることで、自宅まで運ばなければならない荷物を減らすことが出来る。

また、そこら中に自社の息のかかった店舗を構えることが出来るということは、そこら中に倉庫を分散して持てるということ。
郊外に大きな倉庫を持つのではなく、コンビニのような小店舗を沢山持ち、それを倉庫にすることで、従来のインフラを使用することが可能になる。

例えば、前回の投稿でも紹介したUberは、タクシーのようなサービスだけでなく、宅配サービスも行っている。
これは、シェアリングエコノミーと呼ばれる分野で、既にあるインフラだが、余り使われていなかったり使い方が限定されているものを、もっと効率よく使ってしまおうという考え方です。

例えば、新聞の配達員は、朝刊と夕刊の2回、新聞だけを配っています。
では、今現在の新聞の市場はどうなっているのかというと、ネットに押されて右肩下がり。
しかし、一定数の契約が有れば、運ばなければならないのが新聞。この新聞配達員に、Amazonで販売された本やDVDなど、ポスト投函で大丈夫なものを運んでもらえば、新たにインフラを作ること無く、配達を行うことが出来る。
新聞配達員は、決まった時刻に受け持ち範囲を回らなければならない為、このついでに配達してもらえば、送る方も受け取り側も、そして配達料を貰うことが出来る配達員も、得をすることになる。

この様な目線で考えると、日本には無駄になっている配達インフラが多い。
ピザ屋の配達はピザしか運ばないし、ヤクルトの配達員はヤクルトだけを運ぶ。高齢化で増えてきた宅配弁当は、弁当だけを運ぶ。
この人達に、ヤクルトや弁当のついでに荷物を運んでもらえば、効率はもっと良くなるでしょう。
更にいえば、ヤクルトや宅配弁当を頼んでいる人は、その配達時間には高確率で家にいるわけで、再配達の心配もかなり減る。

こうして考えると、ヤマトや佐川の様に、ドライバーや委託業者の『頑張り』によって支えられているインフラというのは、効率が悪いし、構造としても脆い。
何故なら、『頑張り』によって支えられているということは、携わっている方々が頑張るのを止めた段階で、崩壊してしまうからです。
また会社側は、更なる効率を求めるためには社員を頑張らし続けなければならないため、ブラックになりやすい。
本来、経営者や政治家が考えなければならないことは、頑張らなくても回すことの出来る組織やシステムづくりのはずです。

アメリカや中国に差をつけられまくっている日本ですが、その差を頑張って埋めようとしている時点で、答えは見えているような気がします。
イノベーションて基本的には、『どうやったら楽を出来るか』という感じで進んでいくと思うのですが、頑張って乗り越えちゃったら、イノベーションを起こす必要がなくなるので、新たな技術は生まれにくいんですよね。
そして、イノベーションを起こさずに頑張って乗り越える前提を作ってしまうと、後続するものも、頑張ることを強要されてしまう。
そんな中、海外企業がイノベーションを起こし、頑張らなくても大丈夫なシステムを作っちゃったら、結果的に人がそっちに流れてしまい、ドンドン追い込まれていくことになってしまう。

日本もそろそろ、働き方に対する考え方を考えないと、取り返しのつかない事になるような気がします。

日本の輸送と世界の輸送 【前編】

少し前のことですが、わたしの書いた投稿が、珍しくバズり、多くのアクセスを頂くことになりました。
kimniy8.hatenablog.com
これを読んで、読解力が無い一部の人達からは、『客が運送業者の事を考えなくて良いなんて横暴だ!』『持ち株会社の仕組みを理解してないw』という、よく分からない意見なども頂いたのですが…
この記事で問題視したことは、運送業の現場で働いておられる方々が、搾取対象になっているという事なんですね。
また、持ち株会社の仕組みは理解してますが、その仕組みによって搾取がし易い状態になってることを問題にしてたんです。

ですので、客は運送業者のことを考える必要は、無いんですよ。経営者が、従業員の事を考えればよいだけです。
運送業者が『人手が足りない! 』というのであれば、給料を高くして人手を増やす事で、従業員の待遇は簡単に解決します。
それによって、運送料が高くなるのであれば、それはそれで仕方のないことですし、料金を上げたことで仕事が減って売上が減るのであれば、上層部が搾取率を下げればよいだけです。

まぁ、この様な批判的な意見は実際には少なく、多くの人が賛同してくれましたし、実際に働いておられるドライバーの方からも、実際の荷物量が格段に増えているのに、手取り給料は下がったなんて報告もいただきました。
取扱荷物が増えているのに給料が下がるという現象は、一個あたりの荷物の単価を下げないと起こりようがないので、問題は運送業種の経営者に有るのであって、客に有るという意見はよく分かりませんよね。だって私達客は、運送料の値下げ運動なんて行ってないですし。

この投稿をした直後ぐらいに、ヤマトによる残業代未払いが報道されましたし、この問題は、経営サイドの問題であることは明らかですよね。
また、運送業といえば、大半の人が業務請負で仕事をこなしているわけですが、この方達に関しては個人経営者扱いなので、残業代なんて概念が存在せず、不当な値下げ圧力をヤマト等から受けている可能性も有ります。
闇はまだまだ深そうです…

そして自体は、ヤマトによるAmazon脱退というところまで進展しました。
まぁ、先程書いたような文脈の読めない一部の人達を除き、少し考えれば経営サイドの問題であることは明白なので、その状態を放置すると経営陣は責められてしまうので、何らかの対処をしなければならない。
結果として、安く請け負っていたAmazonから撤退するという選択をしたのでしょう。それはそれで、経営判断なので、良いと思います。

この件を受けてネットでは、『Amazonが、ヤマトに見捨てられたw』といった感じの意見が見られるようになり、Amazonが他の業者に頼んだ事で、配送ミスが発覚すると『ザマァ!』といった書き込みも見るようになりました。
その後、Amazonが独自の配送ネットワークを作る可能性が示唆されると、『日本の運送業が、どれだけのコストをかけて作ってると思ってんだ?今から参入して、出来るわけ無いだろw』と、これまた、上から目線での書き込みが多数。
日本を愛する気持ちは私にもありますし、その気持もわかりますが、それ故に、『日本が最先端!』と思い込むのは、視野を狭めてしまい、まともな思考ができなくなってしまうと思うんですよね。

という事で前置きが長くなってしまいましたが、今回は、配送やネット通販の未来について考えていこうと思います。


まず、今から運送のインフラを作ることは不可能なのでしょうか。
結果からいえば、出来ます。 しかも、ほぼコストを掛けない形で。

先日、WBSというテレ東の経済ニュース番組で特集していたことですが、日本人の多くが散々バカにしている中国で、トラックシェアリングというサービスが登場し、既に動き始めています。
この事業には、中国国内の企業だけでなく、システム開発にアリババも参入し、かなり本格的に行われている事業です。

では具体的に、トラックシェアリングとは何なのか。
簡単にいえば、トラック版のUberです。
Uberとは、簡単に言えばカーシェアリングサービスアプリの一種なのです。
先ずアプリを導入し、利用者は、車に乗せて欲しい時に配車を依頼する。そうすると、Uberアプリを導入している近くのドライバーが通知を受けて、その場所まで迎えに来てくれるサービスです。
誰でも登録できるタクシーサービスといえば、分かりやすいでしょうか。
端末のGPSを利用して、全てがアプリ内で完結するため、オペレーター要らずの優れものですね。

このUberですが、日本では一部地域を除いて禁止されています。
理由は色々言われていますが、一番大きな理由としては、既存のタクシー業者からの反対でしょう。
まぁ、聞こえの良い言い方をすれば、『日本には、タクシーという優良なインフラがすでに有るので、そんなものはいらない』ということなんでしょうけども、実際に導入されれば、タクシー会社というのは存続が難しいのでしょう。
何故なら、ドライバーがみんな、Uberに行ってしまうから。
そりゃ、ドライバーからしてみれば、タクシー会社に就職すると、会社にノルマ課せられる上に売上をピンハネされるわけですから、そんなサービスが始まったら、みんな、Uberに行っちゃうでしょう。

トラックシェアリングというのは、このUberのトラック版。
荷物を運びたい人が、トラックシェアリングアプリでトラック呼び出しボタンを押すと、アプリを導入しているトラックに集荷場所と目的地が通知される。
トラック運転手は、自分の通る経路と相談しながら、その発注に対して受注するかどうかを決める。
このシステムの凄いところは、集荷した荷物を、中継地点に持っていかなくても良いというところ。
集荷場所と目的地が配信されているので、例えば、自分が既に荷物を運び終わっていて、後は家に帰るだけの状態でアプリを確認した時に、自分の帰り道にの範囲内に集荷場所と目的地がある場合、そのドライバーは、家に帰るついでに荷物を配達することが出来る。
つまり、ドライバーに負担をかけること無く、当日配達が可能になっているところ。

では、物凄く遠くの場合はどうなのかというと、これも、バトンタッチが出来るような共有の荷降ろし場所というのが用意されていれば、何の問題もない。
特に中国などは、良くも悪くも共産党の一党支配で、土地も全て国有地なので、その様な土地を用意することは容易いのでしょう。

近い場所であれば、ダイレクトに運ぶことで当日配送が可能。遠くの場合も、中継場所を用意すれば問題なく届けられる。
また、集荷や荷降ろしと行ったデータは、ビックデータとして全て蓄えられている為、それを利用することで、どの場所に中継場所を作るとか、トラックの台数をどの地域にどれ位にすれば良いのかというのが、数値としてわかる。
このアプリを利用しているドライバーの多くは個人事業主なのですが、アプリで、どの地域にトラックが不足していて、どの地域では余っているというのが公開されていれば、仕事が欲しい人はトラックの少ない場所に陣取ってくれるため、効率も上がる。
つまり、このアプリが行っている事というのは、運送業者のホワイトカラーが行っている仕事を、ほぼ全自動でやってくれているというわけ。

更に凄いのが、このアプリの利用は無料ということ。
アプリが無料なだけで、実際に配送を利用する場合には運賃が当然かかるが、ドライバーからしてみれば、ピンハネ経営陣がいなくなって手取りが増える上に、効率よく仕事が得られるわけですから、一石二鳥というわけです。
荷物が破損した時はどうするんだといった話は、そのアプリ利用者が保険に入れば良い話で、保険は保険会社に頼めば作ってくれるでしょう。

この様なトラックシェアリングアプリは、中国だけではなくアメリカでも導入されていて、動きは更に進んでいます。
先程紹介したUberは、トラックを中心とした車両の自動運転技術開発を手掛けるスタートアップ企業、オットー(Otto)を買収したようです。
smartdrivemagazine.jp
Uberの配車システムと、トラックの自動運転。。。深く考えなくてもわかりますが、輸送の無人化、低コスト化の実現に向けて、着実に進んでいる感じです。

【つづく】
kimniy8.hatenablog.com

日本での『脱時間給』という考えが 不安しか無い件について

Twitterを観ていたところ、トレンドのところに『脱時間給』というワードが入っていました。
少しし食べてみたところ、働き方改革の一環のようで、従来の時間給という労働形態から、本当の意味での成果報酬にするという制度のようでした。

もう少し具体的に書くと『高度プロフェッショナル労働制』というもので、一日の成果によってお金が支払われるので、その成果を出すのに、何時間かけようが支給額は一緒という事。
つまり、2人の人間が同じ仕事をする際に、1人は12時間かかり、もう1人は2時間で終わったとしても、支払われるお金は一緒という事になり、拘束時間がないために、実質残業というものが存在しない。
早く帰りたい人は、効率的な仕事を行って早く帰れば良いという考え。
全産業に適応されるわけではなく、年収1000万を超えるようなホワイトカラー層にのみ適応されるという制度。

この話を聴いた率直な意見を言わせてもらうと、これを最初に観た時には、『日本もようやく、この様な考えに…』と、制度そのものには好感を持てたのですが、その直後に、嫌な予感がしてきたというのが素直な感想です。
では何故、短時間で正反対の印象を持ってしまったのかを、書いていこうと思います。

まず、最初に好印象を持ったのは、日本の働き方そのものが、生産性を低くしている原因だと、私は思っているからです。
時間給という働き方は、会社が個人から拘束時間を買い上げることで成立しているわけですが、これが結構、曲者だったりします。

残業をしなければ生活が困難な程に低い基本給の人は、就業時間に出来るだけ仕事をサボって仕事を遅らせて、毎日残業を一定時間こなすことで、一ヶ月の給料を確保するという事が起こってしまう。
基本が真面目でサボりをしない人も、仕事を運営する上では特にしなくて良い仕事を、残業のために作り出して仕事をするということをやっていたりする。
この様な行為は、会社側からすると『やってもやらなくても業績に関係のない仕事』なので、サボられていることと同じになる。

最近のテレビなどを見ると、『日本は真面目で、作り出すもののクオリティーも凄い!』なんてのが繰り返し放送されている為、そうなのかと思ってしまうが、実際の海外の反応としては『日本人は働いているフリをしているだけ』という意見も観られる。
news.mynavi.jp
そういう目線で見ると、日本の生産性は、日本のワイドショーが散々バカにしていたギリシャよりも低いわけで、その原因の一つになっているのが時間給なので、この考え方が根本的に変われば、少しは改善するのではないかと思ったわけです。


しかし、少し間を置いて考えると、おそらく日本ではうまくいかないのではないかという不安しか残らない。
というのも、これと似たような事が以前に提案され、それが巡り巡って、貧困層をより増やすことになったからです。
その似たようなことというのが、派遣労働です。

この派遣労働は、当初は、通訳などの高度な技能を持つ人間だけに適応される制度のはずでした。
高度な技能を持つ人というのは希少価値がある為、そこら中から引く手数多の状態。そんな状態の人の働く幅を増やす目的で作られたのが、派遣労働だったと記憶しています。
この考え方も、普通に考えれば悪い制度ではありません。
希少価値の有る人間は、需給関係からみれば強い位置にいるため、値段交渉なども優位に進めることが可能です。
また、一つの企業に拘束されるわけではないので、自由な働き方を選択することが出来る。
雇う企業側も、常時必要というわけではなければ、必要なときだけ覇権を頼めば良いため、win winの状態となります。

しかし、この制度。何故か、単純労働・低賃金の職場にまで適応されることになります。
その結果として行われたのが、正社員を派遣社員に入れ替える行為。
多くの企業には、閑散期と繁忙期が存在します。閑散期は人が必要ないし、繁忙期には人手が足りない。
従来までの経営であれば、繁忙期であれ閑散期であれ、正社員で対応し、繁忙期の忙しい時にはバイトで補充としていたわけですが、派遣の導入によって、閑散期に人員カットが可能となりました。
こうなると、今までは『暇な時期に有給取っておけ』となっていたのが、絶えず人数ギリギリで仕事を行う為、有給もとれずに働き続けることになる。
誰かが休むだけで、その埋め合わせをする為に残業しなくてはならないようになる。

ここまで読んで、最初に書いていた『日本人は仕事をするフリをしている』という話と、今書いた『派遣労働によって、現場は常に人がギリギリ』という話は、矛盾するのではないかと思われる方も、いらっしゃるのかもしれません。
確かに、私の表現力不足も合って、この文章だけを読むと、そう読み取ってしまってもおかしくはないのですが、そうなってしまうのには理由が有って、日本は現場にお金を払わないという独自の風習が有るからです。

例えば、震災で原発が事故を起こした後、東電が被災処理をする人を確保するために、募集をかけたという話は記憶に新しいですが、その際、何故か派遣会社が間に8個ぐらい挟まっていたという事が起こりました。
つまり、東電が人員募集し、それを派遣会社が派遣会社に発注し、それを受けた派遣会社が派遣会社に発注して…という無意味なことを8回繰り返し、その全てで中抜きが行われ、現場で支払われたお金は、危険な仕事にも関わらず最低時給並ということが起こったのです。
これは極端な例ですが、これと同じようなことはどの業種でも起こっていますし、会社内でも起こっています。
少し大きな企業に勤めている方なら、『この上役の人は、何のために存在しているんだろう』という人が一人や二人はいるのではないでしょうか。
また、現場で働いている人は、『この間に挟まっている会社は、何のために存在しているんだろう。』と思うことはないでしょうか。

この様な、特にどこからも必要とされておらず、むしろ、間に挟まることで伝言ゲームに失敗し、足しか引っ張らないような中間搾取企業が日本には大量に存在し、その人達が、仕事をしているフリをしている。
仕事をしているフリをしているだけなので、当然のことながら、生産性が上昇するわけもない。
一方で、現場に一番近いところで働く人たちは、中間搾取者がピンはねし切った微々たるお金で、身を粉にして働いている。
本来なら不可能なはずの高品質で、大量の数の製品を安価で生産させられるため、ここもまた、生産性という観点からは低くならざるを得ない。

この様な、ちょっと変わった風習を持っている日本ですから、『脱時間給』の旗のもとに改革が行われると、当然のように、第二の小泉・竹中の様な人間、もしくは当人が現れて、単純労働や低所得の仕事にも『脱時間給』を強いるようになる。
そうなると現場の人間は、一日では到底生産できないような量を『一日分の仕事』と押し付けられ、労働を強いられることになる。
当然のことながら、『脱時間給』なので、支払われる金額は一日20時間働こうが、貰える金は一定となる。
その一方で、『何のために存在しているのかわからないような上役』や『何のために存在しているのかわからない中間搾取企業』の人達は、上から来た情報を伝言ゲームのように下に伝えるだけなので、一日10分ぐらいの勤務で、同じ様な給料をもらうことになるんでしょう。

日本のような環境では、この新制度により、より二極化が進む可能性が有ります。
では現政権は、これを解消するために何か取り組んでいるのかといえば、『金持ちが豊かになれば、お金を使ってくれるはず!トリクルダウン』と有りもしない理論を打ち立て、二極化をより促進しようとしている。

資本主義というのは、放って置いても二極化するものなのに、富裕層優遇政策をとれば、それが加速するだけで、豊かなものはより豊かになり、貧しいものはより貧しいものになるだけ。
でも、それをより促進させようとしている現政権が進めている『脱時間給制度』には、不信感しか無いということ。

『制度』というのは、単に枠組みに過ぎず、結局のところは、それを運用する人間によって、良くも悪くもなります。
日本では、『お客様は神様だろ!』という自称神様が、上から目線で制度を悪用して押し付けてくるので、結局のところ、他国で成功している制度を輸入したとしても、良くはならないような気がします。
大切なのは、『制度』では無く、労働と言ったものに市民がどのように向き合うかという国民性。

カネさえ払えばお前は奴隷で、俺は神様という考えでは、結局のところ、労働環境は改善しないのではないでしょうか。

今 話題?になってるVALUについて感じる違和感

ここ最近、VALUという名前を目にしだしました。
気になって調べてみたところ、自分という個人を株式会社に見立て、株を発行して売り出す事が出来るサービスのようです。

売買そのものは現金ではなく、ビットコインという仮想通貨を使うわけですが、ビットコイン自体が実際の現金で取引されている通貨なので、現金といっても過言ではない。
つまり簡単に説明すれば、自身を市場に売りに出して、他人に購入してもらうという仕組みが、『VALU』というわけです。

まぁ、何というか…
凄いサービスが出てきたものですよね。
何が凄いって、個人が発行する株(VA)のようなVALUには、何の裏付けもないという事。
この、何の裏付けもない株のようなものを、何の裏付けもないビットコインで売買するわけですから、旧式の価値観しか持ち合わせていない私の様な人間には、とてもじゃないが、ついていけない。
というか、違和感しか無い感じです。

という事で今回は、『VALU』のどの辺りがついていけないか、違和感があるのかを、書いていこうと思います。

先程は、VALUは個人を株式会社のようなものに見立て、株式(MY VALU)発行をするという説明をしました。
しかし実際に観てみると、株式会社の株式発行とは似ても似つかない構造だったりします。

どのあたりが違うのかというと、株式会社が発行する株は、会社の価値を等分割した値段がついています。
つまり、会社に1億円の価値がついていて、100万株の株式を発行している場合は、1億を100万で割った100円というのが、1株の値段ということになります。
では、会社の価値はどの様にして計算されるのかというと、一番指標になりやすいのが、PBRという指標。
これは、会社が持っている資産を全て売却し、会社が持つ現金資産などと合算した数字である『会社の資産』と、株価との比率で観ます。

仮に例で出した会社の資産が1億円の場合、会社としての価値である時価総額(発行株式数と株価をかけ合わせたもの)と会社の資産が釣り合う為、PBRは1倍となります。
会社の資産が2億円の場合は、PBRは0.5となり割安とされ、資産が5000万しか無いのに1億の時価総額の場合は、PBRは2倍となります。

では、PBRが1倍を超えるものは全て、割高となるのかといえば、そうではありません。
会社というのは業務を行うことで利益を出す為、会社の経営がうまく言っていれば、毎年のように資産が増えていきます。
それらを想定して計算された結果が、現在の株価というわけです。

また、会社=株式であるため、会社が株を発行して他人に販売するということは、会社を切り売りする事と同じです。
毎年のように株式総会を開かなければなりませんし、経営に関して株主が口を出してきますし、保有割合によっては、株主の意見を聞かなくてはならない義務も生じます。
この様に、株式の発行は会社の切り売りである為、株券には会社という存在そのものが裏付けになっています。

一方、『VALU』ですが、先程も書きましたが、何の裏付けもありません。
株と同じというのであれば、個人を売り出すということは個人を切り売りするということで、過半数の株を抑えられてしまえば、本来であれば、株主の奴隷となります。
しかし、『VALU』では、そのような事は一切ないようです。
当然といえば当然ですよね。そんな制度にしてしまえば、それは立派な人身売買に当たるわけですから、規制の対象になるでしょう。

では、裏付けが何もないとはどういう事なのでしょうか。
これは簡単にいえば、購入したところで特に意味はないという事で、さらにいえば、発行元である個人が、自分のMY VALUを売るだけ売って、在る日突然、『VALUやめま~す』という事も可能ということ。
そもそも、何の裏付けも無いものを購入しているわけだから、購入者はこれに対して、『買い戻しをしろ!損失補てんしろ!』と強制することも出来ない。

じゃぁ、購入者は何のために買うのか。
これは、端的に言ってしまえば、『転売して利益を得る為』でしょう。
VALUは転売できる為、価格が上がりそうな人間のVALUを購入し、高値になったところで他人に売りつければ、利益を得ることが出来る。
株で言うところの、譲渡益を得るための売買と同じで、これが、『株式投資と似たような』というところでしょう。(裏付けがない時点で、根本的には全く違うわけですが。)

しかし、これはこれで問題が有る。
というのも、本物の株式投資と違い、そもそも何の裏付けもない物の値段が変動し、それが転売できるとなると、当然のように投機対象になり、仕手戦や情報戦が行われることになる。
実際の株式市場の場合は、こういうことが出来ないようにインサイダー取引に目を光らせているし、買占めによる価格吊り上げを抑止するために、3%以上の株を買う際には公言しなければならないなんてルールも有る。
会社が不正会計を行ったら取引所が監理ポストに入れたりする。
不正会計などをやれば、上場廃止なんてことにもなり、投資家保護を全力で行うわけですが、VALUにはこれが全く無い。
当然のことですが、株価に大きな影響を与える新規で株式発行をする増資の際には、投資家に話を通す必要が有ります。

その一方で、VALUはこの辺りのルール整備がされていない以上、規制するための判断材料も無いため、買占めによる価格吊り上げやインサイダーもやりたい放題。
また、新株発行に当たるMY VALUも、1回ごとに500円の手数料を払えば行えるようで、発行上限も特に見つけられなかった。
これでは、時価総額が高くて1VAの価格が高い人間は、増資しまくって売りまくれば、かなりの利益を得られるが、投資家側はVAの希薄化によって損失を被る。
結局、立場の強い人間だけが利益を得られる、投資において一番ダメな構造になってしまっている。

こう書くと信者の方は、『VALUは、投資目的での利用を推奨していない!』と反論するだろうが、では何故、価格が変動するような構造にし、転売できるようにしているんだろうか?
そもそも、他人のアイデアや考えを純粋な意味で応援するだけなのであれば、価格が変動する必要はないし、転売できなくても良い。
『こんなアイデアを実現したいから、お金が必要なんだ!』と投資を募るマイクロファイナンスなんて、そこら中に有る。

また、ブログやPodcast等の何らかのウェブコンテンツを作っている方を応援する場合、『いつも楽しませていただいています!』と一言伝えるだけで、応援は出来る。
お金を支払いたいのであれば、『感謝の気持ちとして、Amazonギフト券か現金振込をしたい。』と伝えれば、受け取ってくれる人も多いだろう。
絵や物を作っている方を応援する場合、実際に商品を購入するという形での応援も出来る。
なぜ応援するために、わざわざビットコインで投資をする必要が有るのだろうか?
VALUが利益目的の投資ではなく、『応援だ!』と主張する方には、是非、このあたりの疑問に答えてもらいたい。

その他の反論として考えられるのが、『VALUには優待制度があり、購入した人間もメリットが得られる!』というもの。
しかしそれは、本当にメリットなんだろうか。
例えば、『仕事として経営コンサルタントをしているので、VALU購入者には、経営の相談にのることが出来ますよ!』という優待があったとしよう。
普通に考えればわかることですが、この優待はそもそもVALUを通す必要がない。
仕事としてコンサルタントをしているのであれば、正規で依頼すれば良いだけです。
投資家がメリットを得られるとすれば、優待のほうが正規で依頼するよりも価格が安いときだけですが、『安いから』という理由で優待狙いで買うのであれば、それは応援していることになるんだろうか?
その人を、本当の意味で応援したいのであれば、料金が高い方を選んであげれば良いのではないでしょうか。

価格が変動し、尚且つ、それを転売できるシステムである以上、投資目的での参加は想定内と考えるべきだろう。そう書かないのは、法律に引っかかる可能性があるとか別の理由で、実際に投資目的での参入がないと流動性が確保できない。
流動性が確保できないということは、手持ちのVAを売りたい時に売れないとう事。売って資金回収が出来ない投資は、ただの寄付でしか無い。

寄付なら寄付で、そう説明すればよいのだが、運営側はそうは書かずに、VAを資産だと言い張っています。
個人が個人に寄付をするなんて説明しても、『寄付なら、わざわざVALUを通してやらなくても良くない?』と突っ込まれるでしょうし、市場流入する人も少ない状態となる。
そうなると、手数料収入で稼ぐVALUにとっては痛手という事になる。
だから、『もしかしたら、儲けが出るかもしれない』という可能性で、情弱を釣るしか無い。買ったが最後、売れない可能性がある事は隠して。

また、運営側のこの動きは、既にVAを発行していて時価総額が高い人間とも、利益が合致する。
VAが投資で、儲けを出す為の絶対条件は、自分が購入した後に売りつける相手を見つけることです。
その条件を満たしているのは、時価総額が高くて出来高が高い人間ということになり、市場参加者が集まれば集まるほど、時価総額出来高上位に取引が集中することになり、バブル相場になりやすい。
そうなった時に一番利益が出るのは、500円で新株発行が出来る上位者なので、この人達は自身の利益のためにも、死に物狂いで市場に呼び込みをかけるでしょう。

こうした視点から見ると、VALUに対しては違和感しか感じないんですよね。

ホワイト企業を叩く精神によって追い詰められる日本

Twitterを観ていたら、TLにこの様なツイートが回ってきました。

内容は、ホワイト企業にバイトに行った方が、ゆとりを持って仕事を出来る環境に感動してツイートした事に対し、『甘え』『ホワイト企業というより、だらしのない企業』『仕事を舐めてる』といったバッシングが返信されたというもの。
まぁ、この辺りの認識が、日本がドンドン貧しくなっていっている原因なんだろうなと思いました。
www.from-estonia-with-love.net

という事で今回は、ゆとりのある企業を叩くと何故、貧しくなっていくのかについて考えていきます。

貧しい会社とゆとりのある会社に分かれてしまうのは、資本主義の構造的な問題で、資本主義を長く続けていれば、この現象は確実に起こっていきます。
というのも、資本主義というのは良くも悪くも競争社会。
他よりも優位に立つことが出来れば、利益を独占しやすくなる構造に有るからです。

その業界で利益を独占できれば、当然のように会社には金銭的な余裕が生まれるわけで、職場環境を良くすることが可能となります。
具体的にいえば、よりたくさんの人員を雇うことが出来るし、給料も沢山支給することが出来る。

人が潤沢な場合は、仕事を分割する事で早く終わらせることが出来る為、労働時間の短縮につながります。
労働時間が短縮されれば、無意味なサービス残業などが無くなる為、労働者は就業時間に帰宅でき、趣味などに時間を費やすことが出来ます。
この上、同じ業界内でも給料が高いとなれば、この会社の人気は非常に高まります。
すると優秀な人材は、この会社への就職を第一志望とする為、この会社は優秀な人材を選び放題となります。

余裕が有れば、人材の上澄み部分だけではなく、従来の考え方とは違った人も冒険的に雇うことが出来る為、多様な人材を確保できる。
こうなると、会社の考え方も柔軟になりますし、そもそも優秀な人達が集まっているので、仕事の効率も非常に高い元のなる。
すると当然のことですが、新しいアイデアを元にしたサービス・製品などが、この『ゆとりの有る会社』から多数発売されることとなり、この会社は、さらに業界内での地位を高めていく。

後は、この循環をキープするだけ。
それだけで、世界中から優秀な人材を集めることが出来て、最終的には世界と戦える企業へと挑戦できる可能性が出てくる。

その一方で、この様な流れを『甘え』『だらしのない企業』『仕事を舐めてる』と批判している方が勤めている会社はどうでしょうか。
普通に考えればわかりますが、先程の『ゆとりのある会社』とは真逆の循環が起こります。

つまり普通の人は、過酷すぎて勤めたくないと思っているような会社なので、普通の人は面接に来ず、『内定が取れないし、ここでも仕方がない』と考える学生や、他の会社で辞めたり捨てられたりした人が、生活する為の資金を稼ぐ為、仕方なくこの会社に面接しに来る。
労働環境が過酷な会社は、そもそも求人をかけても人が来ないような人気のない会社なので、そんな人材でも面接に来てくれたら雇うしか無い。
しかし、そういう消極的な理由で面接に来た人が、効率の良い仕事ができるはずもない為、予算内で仕事を納める為には、サービス残業をせざるを得ない。
この会社で働く労働者は、家と仕事の往復で、家に帰ってもご飯を食べて寝るだけで、当然、趣味などに費やする時間などもない。
というか、趣味なんてやってることが会社にバレたら、『そんな事をしている暇があったら、仕事をしろ!』『社会人が趣味とか、甘え』とバッシングされる為、精神的プレッシャーからも出来ない。
仕事しかしていない人は多様な考え方が出来ないため、当然のように、新しいアイデアなども浮かぶはずもなく、目の前にある仕事を低コストで受注する事しか出来ないので、ますます悪循環に突入する。

分かりやすくする為に少し極端な書き方をしましたが、今、起こっている事は、概ねこのようなことです。
そしてこの現象は、世界で起こっています。

つまりは、本当の意味で優秀な人材は、日本企業ではなく、AppleAmazonGoogleなどを目指すという事。
日本人に生まれたから、日本で就職しますというのは、今や常識ではなかったりする。

そういった目で、改めて日常の生活場面を振り返ってみると、先程のリンクではないが、日本の地位は年々下がっていることがわかる。
私がまだ子供だった頃、つまりは二十数年前は、自分の家に合った家電の殆どは、日本製でした。

しかし、今改めて家の中を見渡すと、PCはNECでは無くHP製だし、テレビは東芝からLGに変わってる。
冷蔵庫は三菱からハイアールに変わってるし、壁掛け時計は台湾製
PS4はソニーなので、日本の会社なのですが、保有しているソフトは90%以上がアメリカを代表とする海外製。
今や手放せないiPhoneはもちろん、中に入っているアプリでも、頻繁に使うものに日本製のものなんて無い。

当然といえば当然でしょう。
社内環境が良かった!と感想を書いただけで、様々な方面からバッシングされるわけですから、そんな国で新しいものを作れる柔軟な発想ができるはずがありません。
日本はとっくの昔に、下請け国に成り下がり、コストでしか張り合うことが出来ない国になっていたということなんでしょう。

戦時中のテレビや新聞は、日本軍が明らかに負けているにも関わらず、他の国を圧倒しているという情報を流していたと聴いたことが有ります。
今の日本のテレビ番組を見ると、『ホルホル番組』と呼ばれる、『日本はこんなに凄いんだ!』番組が多く制作されていますね。
新聞の方はといえば、中国や韓国の悪口が、さり気なく織り込まれていますね。
歴史は繰り返すのだとするならば、日本では、ある日突然、敗戦したと告げられるんでしょうね。

そういえば、中国企業が新卒を初任給40万円で雇用すると行った話が有りましたね。
news.yahoo.co.jp
これによって、日本から出ていきたくないと思っている優秀な人材も、他国の企業に吸い取られやすい状況が生まれましたね。

今現在、アジア各国では最低賃金の引き上げが行われているようですが、最低賃金比較で日本が最安値となった時、一体どうなるんでしょうね。
日本は、上から目線で『人手不足解消のために、外国人労働者を…』なんていってますが、外国人労働者にそっぽ向かれるどころか、日本人の中でも優秀な人間が、中国などに出稼ぎに行く未来も考えられますね。

そうなる前に、日本の労働者は『奴隷の鎖自慢』なんか止めて、自身の権利を訴えるべきだし、と思うんですけどね。
いきなり訴えるのは難しいのであれば、まず、職場環境が良い企業の話を聴いた際には素直に、『うらやましい』というところから、はじめてみるべきなんでしょうね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第7回 西洋哲学 (6) 自由は皆が欲しているのだろうか

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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  • 木村 ゆう
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前回は、アリストテレスが、国家の構造をどのように認識していたのか。そして、それを構成している奴隷について、どの様に考えていたのか
また、その思想が現代にどのような影響を与えてきたのかについて考えていきました。

今回は、では何故、『奴隷は奴隷になるために生まれてきた』といった考え方になったのかについて考えていきます。
これは、アリストテレスが主張した、四原因説という考え方が、元になっているんだろうと思います。
四原因説は、この世にあるもの全ては、四つの原因によってもたらされているという考え方です。

この考え方は、まず、物事を2つに分類します。
質料因と形相因ですね。
この四原因説の説明で頻繁に用いられる銅像を例に挙げて話してみますと 
銅像というのを質料因と形相因に分けるわけですが、この時に質料因は何に当たるのかというと、原材料となっている銅に当たります。
では形相因とは何かというと、その銅を銅像たらしめているものですね。

この形相因は、更に2つの事柄に分けることが出来ます。作用因と目的因です。
作用因というのは、原材料の銅を、像のように見せるために加工する作業のことです。
そして目的因は、その銅像を作ろうと思った目的です。 この4つの原因 質料因・形相因・作用因・目的因は、全て、目的因によって主導されます。

例えば、ソクラテスという偉大な人物を後世に伝えたいと思った時に、その方法・手段として、銅像をつくって残そうという目的が生まれます。これが、目的因ですね。
その目的によって、青銅が取り寄せられて(質料因)、それが職人の手によって加工されて(作用因)、ソクラテスという人物をかたどった像(形相因)を伴った、銅像が出来上がります。
つまり、物事をなしている原因となっているものを探ると、4つの原因が出てきて、その原因を主導しているのが目的というわけですね。
この銅像の場合、銅像を作る目的がなければ、そもそも銅を発注しなかったし、職人も雇わないので銅像というものがこの世に誕生しませんよね。

この四原因説に基いて考えると、この世にある物事には全て目的があって、その目的を遂行するために存在しているって事です。

これを奴隷に当てはめると、奴隷というのは、奴隷となる目的で生まれてきたので、体も頑丈に出来ているし、肉体労働をした程度では壊れないように出来ている。
その一方で、目的が奴隷である以上、自分自身で考える理性は持ってないので、理性のある人間が主人となって、指示出ししてあげるべきと考えたんです。
だから、アリストテレスは、奴隷には政治の参加、つまり選挙権などを認めていないんですね。

この考えは、前回にも話した通り、今の世の中で暮らしている私達にとっては、レイシスト的な考え方のようにも感じるんですが、ただ、だからといって、一概に完全否定することも出来なかったりするんですよね。
誤解しないで欲しいのは、奴隷の子は生まれながらにして奴隷だって言っているわけではないですし、人が人を支配すべきという考えでもないですからね。
ただ、皆が全て、自由を求めているのかというと、違うという話なんです。

一つ例を挙げると、アルスラーン戦記というアニメ化もされた物語があるんですね。もとは小説みたいなんですけども。
この物語は架空のもので、舞台となるのは奴隷制度があった古代の都市で、主人公は、大きな国の王子なんです。
そして、絶えず隣国と戦争をしている様な世界設定なんですけれども、ある時、戦争で王である父親が負けてしまい、国を敵に取られてしまうんです。
そこで、自分の国を取り戻すために、王子は少ない部下を連れて、放浪の旅に出るって感じの物語なんですが、旅の道中で、奴隷反対を主張する人物を家臣に加える事になるんです。
理由は、その人物が非常に優秀だったということも有るんですが、王子 自体も、奴隷のあり方に疑問を持っていたということもあって、皆が自由になれる社会というのを目指してたからなんです。

その人物を家臣に加えて、しばらく放浪するんですが、別の土地に訪れた際に、そこを治める領主と争うことになって、結果として領主を倒すことになったんですね。
その後、主人公のアルスラーン王子は、急いで奴隷のもとに向かって、『お前たちは自由だ!』って知らせるんですけれども、奴隷たちは困惑してしまうんです。

そして、その内の一人が、『お前は領主様を殺したのか!』といって、仇を取る為に王子に襲いかかってきて、それを観た他の奴隷も、王子一行に襲いかかっていくんですね。
この奴隷たちの行動を観て、今度は王子は困惑してしまうんです。
それを観た、奴隷解放派の家臣は、冷静に何が起こっているのかを、自身の過去を振り返りながら説明するんです。

この家臣は、自身も領主の家の生まれだったので、奴隷を従えていたんです。
ただ、自身は奴隷反対派だったので、父親が引退して自身が主になった際に、奴隷を開放して自由にしたんです。
その対応に、奴隷は、最初は自由を喜んだわけですけども、それから数ヶ月が経つと、みんな、また自分のところに戻ってきたんです。
そして、元領主に向かって、『また仕事を与えてください』と懇願したんです。

これは、何を意味しているのかというと、良い領主の元では、奴隷は指示された事をこなすだけで、安定した生活が出来るので、自由よりも奴隷のほうが良いと考える人間もいるという事なんです。



他には、銃夢というSF漫画で、こんなセリフが出てくるんです
「自由なんてのは強者の特権だ。俺は自由より犬の首輪が欲しいんだ」
これは、自由というのは、それを勝ち取って使い切れる力量がある者だけの特権であって、自由を使いこなす能力のない人間にとっては、無用の長物だって言ってるんです。
それよりも、他人の支持に従っている方が気が楽で、安心できると言ってるんですね。
この様な考えの人間っていうのは、思っているよりも多いと思います。

例えば、漫画やアニメのようなフィクションの世界ではなくて、私達が住む現実で考えてみましょうか。
高校や大学の卒業が迫ってきた時に、学生というのは、先ず、何を行うでしょうか。 就活ですよね。
自分の考えたプランで、世の中に対して挑戦しよう!っていう意気込みで、起業する人間て、全体の何%いるでしょう。人数でいえば、圧倒的少数になると思いませんか。

ただ、社会人1年目からいきなり企業というのはハードルが高いですから、もう少しハードルを下げて考えてみましょう。
最初はノウハウや技術がないから、それを吸収するためにも、とりあえず就職。という事も考えられます。
けれども、では果たして、その中のどれ位が、独立・起業するでしょう。

最近は、企業がブラック化してきているという話題をよく聴きますけれども、自分で事業を起こしてフリーになれば、休みも自分で設定できますし、人間関係なんてのも自分で選べそうですし、良さそうですよね。
でも実際に起業をしないのは、起業には、それ相応のリスクが伴うからですよね。
まず、仕事を自身で取ってこなければ、収入を得ることが出来ませんし、休めば休むほど、ダイレクトに収入が減ることにつながります。
就職して会社に属する場合は、1ヶ月会社に行けば、とりあえず給料はもらえるわけですけれども、起業して自分で事業を経営する場合は、給料どころか、最初は設備投資でお金が出ていくばかりですよね。

フリーというのは、一見気楽そうに見えて、リスクを自分一人で全部 抱えるわけですから、その覚悟と実力がない人間には、無理なんですよ。

後に、哲学者でサルトルという人物が登場するんですけれども、その人物は、「人は自由の刑に処されている」と主張しているんですね。
自由の刑とは何かというと、人間が本当の意味で自由なのであれば、目指すべき目的・ゴールも全て、自分で設定しなければならないし、見つからなければ探し続けなければならない。
それに伴う苦痛やリスクも、自分が引き受けなければならない。
これは、自由に振る舞わなければならないという刑罰を処せられているようなものだという意味ですね。

この刑罰を避けるために、自分ではこれらのことを考えず、他人に指示を仰いで、ただただ、それをこなしていく という選択をする人も、結構な割合でいるんです。
人に従うという選択肢を選んだ場合は、責任を自分で追わなくて良いですからね。 主人に責任を転嫁できるわけで、考えようによっては楽なんですよ。
この態度は、観ようによっては、奴隷のようにも見えるわけですよ。

誤解しないで欲しいのは、だからといって、指示待ちをして、自ら奴隷に成り下がるような奴は駄目だと言っているわけではないんです。
指示待ちをしてくれる人がいなければ、そもそも、組織というものは生まれませんし、大きな組織でなければ行えない仕事も沢山有るので、人間が社会生活を行う上では、この様な考えの人は絶対に必要ですし
この様な考え方だからといって、見下される事もないんです。

え 前回の差別の話と、今回の話がだいぶ長くなってきてしまって、本題が何だったのかというのがわかりにくい状態になってしまったので、一旦仕切り直して、アリストテレスの政治の話に戻りましょう。

アリストテレスは、共同体である国は、村が集まって出来ていて、村は、家族が集ってできていて、家族は、主人と妻と子と奴隷によって出来ていると主張しましたね。
そして、人間には支配する側とされる側というのが生まれつき決まっていて、支配される側の奴隷などには、考える頭がないので、選挙権は認めてなかったんです。
で、考える頭が有る支配する側の人間である主人は、自身で考える理性を持ってるので、自身が善と思っている行動を取る。そのように出来ていると考えます。

ただ、一人の人間が持っている善の認識が絶対的に正しいかはわからないので、それぞれの家族の主人が善のあり方を意見交換することで、村としての善を打ち出す。
次に、村の代表者が、それぞれの意見を持ち寄って、共同体としての善を検討し合えば、そこで生まれた善の認識は、個人個人のもつ善が反映さて
極端に個人の利益に偏った善などは淘汰された、良い国となるはずと考えるんです。
ですが、そもそも考える能力を持たない奴隷などは、目指すべき善を持たないので、選挙権は与えないとしてるんですね。

これをそのまま現代に適応することは難しいです。 そもそも現代では奴隷を認めてないですし、生まれついての奴隷なんてものを認めるべきでもないですからね。
ですから・・・ これは個人的な考えになるんですけれども、この考えを現代に適応する場合、選挙権を免許制にするって考えもありますよね。
先程もいいましたが、自分自身で考えたくなくて、指示を仰いでいたいって人はいますよね。
また、前回も言いましたが、政治のことを語る、人が話しているのを聴く、そもそも考えるのが面倒くさいと考える人もいます。
こういう人達は、共同体がどのように有るべきか興味が無いわけですから、選挙権は必要ない。

選挙権が欲しい人は、自分が共同体の未来に対してどの様な意見を持っているのかを主張して、勝ち取るような免許制というのも、一つの考えですよね。
ただ、前回のIQテストの くだりでも言いましたが、何らかのテストをして許可を与えるという方式にすると、そのテストによって、特定の思想の人だけに免許を与えるというのも出来なくはないので…
この辺りは、難しいのかもしれませんね。

という事で、時間もいい感じになってきたので、今回はこの辺りにしようと思います。
長く続いてきた西洋哲学シリーズは、一旦休憩ということで、次回から、東洋哲学について少しだけ考えていこうと思います。