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【ネタバレ感想・考察】『トロイ伝説(Netflixオリジナル)』 クズ同士の争いで善人が死んでいく物語?

ここ最近、古代ギリシャについて個人的に調べることが多く、当時の雰囲気を知りたいと思い、Netflixで検索した所、Netflix制作の『トロイ伝説』というドラマが有ったので、観てみました。
今回は、その『トロイ伝説』のネタバレ感想を書いていきます
まだ観てない方で、除法を入れずに観てみたい方は、先に見てから読むことをお勧めします

簡単なあらすじ

トロイ伝説は、トロイとギリシャのポリスの一つであるスパルタとの戦争。トロイア戦争を描いた作品です。
パソコンを使う人などは、コンピューターウイルスでトロイの木馬というのを聴いたことがあると思いますが、その名前の語源になったのが、このトロイア戦争だったりします。
ただ、舞台となったトロイ自体が、架空都市なんて言われていたりしますし、それに伴うトロイア戦争自体も、実際にあった話なのか架空の戦争なのか分からないそうです。

ただ、観た感想から言わせてもらうと、この戦争そのものに神々が絡んでいたり、ギリシャ神話の英雄が出てきたりと、仮に本当だとしても、かなり盛られた話だとは思いましたね。

簡単なあらすじですが、トロイという王国に男の子・アレクサンドロスが生まれるのですが、未来を見通せる力を持つ姉や神官によって、アレクサンドロスが国を滅亡させてしまうことが分かり、生まれてすぐに処刑を言い渡されて捨てられます。
しかし、指示を受けた羊飼いは、赤子を殺すことは出来ないと、王の命令に背いて、男の子にパリスという新たな名を付けて、自分の子として育てます。
パリスはすくすくと育ち、親の目を盗んでは羊飼いの仕事をサボり、女を抱くような青年へと成長していきます。

そんなある日の事、パリスは1頭のヤギを追って森に入った所、ゼウスに頼み事をされます。
頼み事とは、『一番美しいもの』へ宛てた黄金の林檎を、ゼウスの妻ヘラと軍神アテナと、美の女神アフロディーテの誰に託すのか、その選択をパリスに任せる(パリスの審判)というもの。
ヘラは、自分を選んでくれたら支配者にしてやると言い、アテナは、最強の男にしてやると主張。 そしてアフロディーテは、一番いい女をやるといってくる。
権力か、最強の力か、魅力的な異性か… 結構な難問だと思うのですが、パリスは即答で『アフロディーテに!』と答え、選ばれなかった2人の女神は悲しみと怒りが合わさったような表情で雄叫びをあげる。

それから少し経ち、偶然にもトロイの皇子たちと出会ったパリスは、王族たちに勝負をふっかけ、トロイで行われる祭り内で勝負をする事になる。
勝負では負けたのだが、王がパリスの体についているアザを見つけ、自分が捨てた子だと確信し、一度は捨てたけれども、もう一度、家族として受け入れると主張して、パリスはアレクサンドロスとして生きる事になる。

生まれは王族でも、元々が羊飼いとして育っているので、王族として何をして良いのかも分からず、毎日遊び歩いているアレクサンドロスに対して、父である王は、スパルタの王に挨拶に行けと外交の仕事を与える。
付けてもらった貴族の手助けもあり、外交は順調に進んでいたが、アレクサンドロスがスパルタの王女ヘレンに一目惚れし、ここで、アフロディーテとの約束が果たされて、両者は両思いになる。
アレクサンドロスは、スパルタ王が用事で城を開けている間にヘレンを寝とり、ヘレンもすっかりその気になり、アレクサンドロスの荷物に紛れてトロイへと行き、スパルタ王は大激怒。

アキレスやオデッセウスといった英雄の元や、自分自身の兄・アガメムノンの元を訪れて戦力とし、軍隊を組織してトロイへ向かう。
一方、トロイでは、王妃を拐った事を問題にするも、アレクサンドロスを一度捨てた事を負い目に感じてか、強く出ることが出来ず、2人の中を認める事にしてしまう。

スパルタ軍の方は、いきなり攻めるよりも、まずは話し合いという事で、和睦の条件をトロイに対して突きつける。 条件は、王女の返還の他に、金銭や交易ルートなど。
だが、それをのむとトロイが崩壊してしまう程の条件に、トロイの王は激怒。 最初から、トロイ滅亡が目的か!と言わんばかりの勢いで、スパルタとの戦争を決意する…

ネタバレ感想

この話ですが、ひとことで言うと、クズ共が起こした戦争で、良い人たちがどんどん亡くなっていく作品です。
この作品には、基本的に『良い人』というのが出てこない。強いていうなら、スパルタ側のアキレスと、アキレスと対戦したアレクサンドロスの兄が信念を貫いた人という意味では、好感が持てるぐらい…
後は、皆が自分勝手に振る舞った結果、全くの無関係であるトロイの一般市民達を道連れにして死んでいくという話だったりします。

では、各登場人物がどんな人間なのかを私の視点で観ていくと、まず、攻め込まれる側のトロイの王ですが、神託が有ったという理由だけで、生まれたての我が子を殺そうとします。
しかも、自分の手では無く、他人に命令して… 百歩譲って、その子が王国にとって本当に災いが有るのであれば、殺せと命じた羊飼いに『事実を隠して育ててくれ』と頼めば良いのですが、殺せと支持をします。
結果として、羊飼いは赤子を殺せなかったのですが、殺しを支持した王は、何を血迷ったか、殺せと命じた子が成長した姿を目にして、もう一度、自分の子として受け入れます。
じゃぁ、最初の神託を信じたのは、何だったのかって感じですよね。 一国の王なのに、その場の感情で動き過ぎです。

次に、スパルタの王女。 アレクサンドロスが一目惚れして、自分の立場もわきまえずに感情に走ったのは、良しとしましょう。
何故なら、アレクサンドロスは王の子として生まれてはいますが、人生の大半を羊飼いとして過ごしているので、外交とか高度なことは理解できていなくても仕方のないことだからです。
しかし、王女は別です。 ヘレンは、話から察するに、貴族の家の子として生まれて、王に嫁ぐ為の教育を受けた上で嫁に来ています。
自分の立場もわきまえているはずですし、自分が他国の王子に寝取られたとスパルタ王が気がつけば、大事になる事は分かりきっているはずなのに、感情に流されて、自分の判断でトロイに密入国します。

そして更に問題なのが、その密入国をトロイの王族たちが認める点です。
完全に自分たちが悪いのだから、まずは王女を返して、事情を説明すべき所なのに、相手が来るまで何もアクションを起こさない。 王族以前に、まず人としてどうなのかといった感じですよね。
まぁ、当時は船移動ですし、こちらから連絡を取るよりも、相手が先に来てしまったというのは、分からないではないですが、向こうの突きつけた条件が法外過ぎるから戦争だ!ってのは、どうなんだって感じですよね。
そもそも、密入国をしてきたのは王女の方で、拐ったわけではないわけだから、話し合えば和睦出来た可能性も有るのに戦争に突入し、しかも、その戦争で前線に送られるのは市民という… 自分が蒔いた種なんだから、自分が一騎打ちで勝負しろよという感じですよね。

次に、王妃を拐われた被害者側のスパルタですが、コイツラもこいつらで、クズが多い。
まず、スパルタ王の兄・アガメムノンですが、トロイに向けて船を出そうとするも、天候が安定せずに出航できない状態になる。
少し待てば良いものを、一刻も早くトロイを恫喝しに行きたいと思ったのか、部下に解決策を探らせると、部下が『アガメムノンの子を海神の生贄に捧げる』という解決策を持ってくる。
その話を聴いて少しは動揺するが、一刻も早く出向したいアガメムノンは、家族に『アキレスと娘の婚礼を挙げる』と嘘をついて娘と妻を呼び押せて、祭壇で娘の首を切って殺します。

海が永遠に荒れてる事なんて無いのだから、少し待てば良いものを、早く出向したい一心で殺すって、意味不明です。
そのアガメムノンは、その後のトロイとの戦争で、部下が見つけて自分の奴隷にすることにした女性の捕虜を観て、『娘に似ているから』という理由で、その戦利品を取り上げる。
ちなみに、その自分の子に似た娘は、神官の子で神に仕える身、その娘を女として抱く。海を鎮めるために自分の子供を殺して神に捧げた人間が、神に仕える身の女を抱くって、何を考えてるんでしょうね。  それ以前に、アガメムノン。自分の娘をどんな目で見てたんでしょうね。

その後、また天候が荒れるなどが有ったので、神官の子を親のもとに返すように部下から言われ、渋々返すが、抱く女がいなくなったので、アキレスの女奴隷を奪い取る。
アキレスからしてみれば、自分にとってはどうでも良い戦争に担ぎ出されて、その上、戦利品まで王に奪われたので、忠誠心が激下がり。
『もう、私は戦わない。』『そもそも、この戦いに意味は有るのか。意味のない戦いに身を捧げることなんて出来ない』としてキャンプに引きこもるが、アガメムノンは、そのアキレスを戦場に引きずり出すために、アキレスの部下を殺して、『敵が卑怯な真似をして、お前の部下を殺したぞ!』と吹聴して、アキレスを騙して戦場に戻らせる…

では、全ての元凶のヘレンはどうなのかというと、こいつはこいつで、頭がお花畑。 トロイの城内にスパルタのスパイが入り込んでいるのに、報告もせずに見て見ぬふり。
スパルタ軍が多勢で城を包囲し、籠城戦にした上で、スパイの手引きで密かに城内に侵入したアキレスが、ヘレンに『このままだと餓死するから、早めにスパルタに帰国して、戦争を終わらせたほうが良い。』と忠告すると…
『今、地下トンネルを掘って同盟国との通路を作ってて、もうすぐ完成するから、食料も沢山入ってくるから大丈夫。』と、機密中の機密をあっさりアキレスに告げ、そのせいでアキレスの手によって同盟国が焼けうちにされるという…
ちなみに、その際に持ち帰った捕虜が、神官の娘であったりアキレス所有の女奴隷だったりするわけですが、彼女らは、ヘレンのせいで国を滅ぼされて酷い目に有ったといっても良いでしょう。

と、この中で唯一、感情移入できる常識人は、アキレスしかいないわけですが、そのアキレスも、トロイ勢力によって部下を皆殺しにされ、最終決戦で主人公にアキレス腱を射抜かれて死ぬことになるので、本当に救われない。

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最後は、スパルタ勢が何故かスパルタに帰り、海が荒れないように、持っている食料を全て木馬の中に詰め込んで、海神への捧げ物としておいていったものを、トロイ側が略奪し、その食料で宴をあげるも、実はその中にスパルタ王や側近を含めた数人が隠れており、宴で浮かれているトロイ勢を横目に正面の門を開けて、一斉攻撃。
この時、スパルタ王は女子供を含めて全て殺し、ヘレンに対して、『全部お前のせいだ!』と言い放つ。 私はスパルタ王そのものは嫌いですが、この発言には思わず『正にその通り!』と同意しまったり。

後、忘れてはいけないのが、オデッセウスというギリシャ神話で英雄扱いされている人物。
この人物も、アキレスと同じく、王族同士の喧嘩で戦争に行きたくないと思っている人物なのですが…

アキレスとは全く違った性格で、本当に英雄なのかどうかも疑わしい人物。
この人物は、武闘派というよりも知略家で、主に戦略を考えるポジションの人なのですが、オデッセウス本人は平和主義で、できるだけ犠牲は少ないほうが良いと思っているタイプなのですが、基本的には王の言いなり。
アキレスが、王の自分勝手な行動に呆れて、自分の兵を一切出さないという形で抵抗したのに対し、オデッセウスは反論も特にせず、言われたことを嫌々ながら完璧に遂行していくタイプです。

この仕事っぷりは徹底していて、トロイ陥落後、トロイの王族の生まれたばかりの赤ん坊が生き残るのですが、オデッセウスはそれを目撃した上で、見逃します。
ここまでは良いのですが、その後、アガメムノンが赤子の泣き声を聴いてしまい、結局、見つかる。
そして見つかった直後に、アガメムノンオデッセウスに対して、『城壁の上から突き落として殺せ』と命じるのですが… アキレスなら、この命令に背いていたかもしれませんが、イエスマンオデッセウスは嫌な顔をするぐらいが関の山で、母親の目の前で、言われた通りに子供を殺します。

アガメムノンの事ですし、ここで断れば、家にいる自分の家族がどんなめに合わされるかもわからないでしょうから、仕方がないといえば仕方がないのでしょうけれども…
クズキャラが大集合のこの作品において、個人的に一番印象が悪かったのが、オデッセウスでしたね。

少し考察

この物語が、実際の史実を元にしているのか、完全な創作なのかは分かりませんが、仮に創作だとして、この物語では何を伝えたかったのでしょうか。
主人公は最初に、神々によって『権力』『武力』『愛』のどれかを得る権利を提示され、『愛』を求めたわけですが、その『愛』によって、破滅に追い込まれます。
では、主人公が『権力』や『武力』など、他のモノを選んでいたとしたら、主人公は幸福になれたのかというと、トロイの滅亡は免れた可能性は有るでしょうけれども、幸福に離れなかったでしょう。

それは何故かというと、『権力』や『武力』を選んだ人間が物語内に登場し、その人物が幸福になっていないからです。
『権力』の象徴としてのはスパルタ王。 そして、最強の『武力』としてのアキレスですが、アキレスは、王が振るう権力にはびくともせず、自分の意志を貫き通す事が可能でしたが、愛の化身である、主人公のアレクサンドロスに倒されます。
そのアレクサンドロスを倒す事でスパルタ王は戦争を制しますが、自身の家庭は崩壊し、決して幸福な状態とは言えない状態になっているからです。

では、その3つではなく、『知恵』があったらどうなのか。上手く立ち回ることが出来たのかというと、そうでもなく、『知恵』の化身として登場したオデッセウスは、アガメムノンに顎で使われて自身の手を血に染めます。
自身の意思を貫き通すには、『武力』か『勇気』といったものが伴わないと、知恵のある行動を貫き通すことは出来ないのでしょうし、また、それだけでも、上手くは行かないのでしょう。

結局の所どれを選んだとしても、不幸になる。 では、上手くいく為には、つまり、『幸福』になる為には何が必要だったのでしょうか。
古代ギリシャでは、『徳』というものが研究対象になり、『徳』の本質が研究対象になっていて、討論が行われていました。
『徳』の正体について、『正義』であったり『美』『勇気』様々な物が関連しているのではないかということになりましたが、それらだけではなく、『節制』や『分別』といったものも、欠かせないのではないかという事になりました。

つまり、『権力』『武力』『愛』のどれか、または全てを手に入れても、そこに『節制』であったり『分別』がなければ、結局の所、手にした欲望によって身を滅ぼすということなのでしょう。
こうして読み解くと、上手く出来た話だなとは思うのですが… 『分別』や『節制』がない人間が滅ぶのは良いとして、それ以外の、ただ生活しているだけの善良な市民までもが皆殺しにされるというのが、結構、キツイものがありましたね。

Netflixに会費さえ払っていれば、無料で観ることができる作品なので、興味があれば、見てみてはいかがでしょうか。

バンクシーの裁断絵画問題を受けて 『美』について考えてみた

先日のことですが、バンクシーといアーティストが書いた絵がオークションに出品され、競り落とされた直後に、額縁に仕掛けられていたシュレッダーによって、絵画が台無しになったというニュースがありました。
初めて、この話を聴いた時は、アートが持つカンターカルチャー的な側面を表現したのかななんて思ったのですが…
その後のテレビが、美術関連の仕事をしている人に取材して、今回の件についてのコメントを求めていて、その返答に対して『モヤッ』としたので、今回は、何故『モヤッ』としたのかについて、書いていこうと思います。

今回の件では、誰も損をしていない?

私が観ていたニュース番組に出ていた美術評論家によると
『今回の件では、誰も損をしていない。
むしろ、絵がシュレッダーで破壊されたことによって、1点ものになった事で、むしろ価値が上昇した。
関わった全員がハッピーになる演出で、流石、バンクシーって感じですね。』と仰ってました。

・・・
この発言、何か、引っかからないでしょうか。

私は、この発言を聴いて、大いに引っかかり、疑問を持ってしまいました。
この美術評論家にとって、絵画やアートとは何なのでしょうか?
お金を増やしてくれるアイテムなのでしょうか?

アートというものが、単純にお金を増やす為の錬金術の素材なのであれば、確かに、今回の件で損失を出した人間はいないでしょう。
その絵画に、美しさとか思い入れなど、一切の感情を抱くこと無く、単純に、『数年後にお金を数倍にしてくれる道具』であるのなら、この解説は的を得た解説なのでしょう。
しかし、アートとは、そのようなものなのでしょうか?

今回の出来事によって、少なくとも1枚の絵がこの世から無くなったわけですが、その『絵』が無くなった事で喪失感を抱く人間は、いないのでしょうか。

アートとは何なのか

古代ギリシャでは、『美』というものが重要視されましたし、その様な環境に生まれたソクラテスは、漠然とした抽象的な概念を、より具体的に考える習慣を広めました。
漠然とした抽象的な概念である、『美』とは何なのか。 何を持って、『美』と呼ぶのか。 誰の目から見ても確実に『美』と呼べる、絶対的な『美』という価値観は有るのか。
それが有るとして、では、『絶対的な美』とは、どのようなものなのか…
このような事が追求されていた為か、町中には石像や銅像が溢れ、今で言う芸術品と呼ばれるものは、今よりももっと身近にある存在でした。
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(私が現在プレイ中の、アサクリ オデッセイのスクショ)

しかし、現在はどうでしょうか。
古代よりも遥かに技術が進み、豊かになったことで余裕のある私達の身近には、どれ程の美術品・芸術品が有るのでしょうか。
むしろ、時代が進めば進むほど、身近にあるものは工業製品になってゆき、コストダウンの為に余計な装飾は省かれ、身の回りを見渡せば、そこに有るモノはシンプルで無機質な四角いモノや丸いモノだけになっていきました。

美術や芸術品は、美術館にお金を払って、ガラスケース越し観に行くものになり、より遠い存在となって行きました。
それと同時に、『美術品』という性質も、徐々に変わっていきました。
今の世界での『美術』とは、古代人が考えた、『誰にとっても美しいと感じることが出来る絶対的な美』ではなく、より、難解なものへと変化していっています。

今の時代の『美』

昔の『美』というのが、誰にでも直感的に感じることが出来る美しさを追求していたのに対し、そこから2500年たった今では、美術の基準そのものが変わってきたように思えます。
今の時代の『美』というのは、誰にでも直感的に感じることが出来る共通認識としての存在ではなく、勉強して知識を身に着けないと理解出来ないモノへと変わっていきました。

では、勉強をして知識を身に着ける事で、誰にでも『絶対的な美』が理解できるように、『美』が解明されたのかというと、そうでもありません。
『美』は勉強が必要な一方で、その価値基準は一部の人間が独占していて、ブラックボックス化しています。
どこからどう観ても落書きにしか見えないものや、ガラクタにしか見えないものも、美術界の重鎮が『いい仕事してますね』というだけで、天文学的な値段がついたりするのが、今の美術界です。
これを読んで、『いくらなんでも、落書きやガラクタには、美術的価値はないでしょ。』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これは、大げさな表現ではありません。

例えば、美術のカテゴリーの一つで、マルセル・デュシャンが言い出した『レディーメイド』と呼ばれる物が有ります。
レディーメイドを簡単に説明すると、工場で機械的に作られているトイレの便器などを、アーティストが『これは芸術品!』と主張して、アーティストとしての自分のサインを便器に書いて、芸術品として出品したことから始まった流れです。
この便器も、一流の職人が作った一点物とかではなく、工場で大量生産されている、ごくごく普通の便器です。
『レディーメイド』という言葉そのものが、『オーダーメイド』の対義語で、意味合いとしては既成品という意味が有るので、本当に、ただの便器です。
その便器に、アーティストがサインをしただけで、その便器は美術品となり、美術館に飾られて、関連グッツが売り出されるモノとなるのです。

誤解のないようにしておくと、アーティストのサイン自体に価値が有るから、便器の値段が上昇したのではなく、アーティストがサインをした事によって、便器が美術品になったという事です。
この理屈が通るのであれば、対象となるものは何でも良いわけです。 その辺りの河川に流れ着いた流木でも、そこに転がっている石でも、誰かが鼻をかんで丸めたティッシュでも良いのです。
誰かが『これには価値があるよ!』といって、みんながそれを信じれば、対象は何であっても良く、大切なのは、人々を説得する為の権威で有ったり、説得力でしか無いわけです。

美術 = お金

先程の説明で、美術品や芸術品に大切なのは、そこに秘めている美しさではなく、権威付けと説得力だと書きましたが、これと全く同じ構造のものが、私達の身の回りにも存在します。
それが、お金です。 私達は、お金の為に自由時間を削って働き、お金の為に争い、お金の為に一喜一憂する生活を送っています。

しかし、冷静に考えて、お金ってなんでしょうか。 その材料を注意深く観てみると、効果の材料は金属ですし、紙幣の材料は紙とインクでしかありません。
では何故みんなは、この金属や絵が刷られた紙の為に、時には命を失うような危険なことまでするのかというと、これらの金属や紙には、中央銀行と呼ばれる機関が『これらのものには、価値があるんですよ!』と信用を付け加えたからです。
みんなは、権威ある中央銀行を信用して、『お金』というのは価値の有るものだと思いこんでいて、実際にお金で経済が上手く回るというサイクルが出来上がっている。
ですが、このサイクルは皆が『価値が有るもの』と思い込んでいることで成り立つ不安定なもので、背景となっている権威やシステムが崩壊すれば、ただの金属と紙切れになってしまいます。

これは、今の美術品も同じでしょう。 日々、大量に生み出される美術品の中から、美術界の大御所の目に留まりやすく、且つ、プレゼンしやすいものに権威付けが行われて、価値が上昇する。
こういう構造では、アーティストは、自分が考える『美』を追求した品ではなく、大御所の目に留まるような商品を作らなければならない。 これは、アーティストにも生活が有るから、当然ですよね。
結果として、アーティストは評論家の人達の目に留まりやすく、それを使用することで上手い具合の大喜利が出来るような素材を作らされる…

評論家は権威を得る事で、どんなものにでも価値を付加することが出来るようになるので、その権威を得る為に必死に勉強をし、権威を持っている評論家に気に入られる為に、上のものを必死で持ち上げる。この構造により、権威はより強固になり、絶対的なものとなる。
しかし、その大本の権威が揺らいだらどうなるのでしょうか。 現代に生み出された美術品は、それでも普遍的な価値を維持し続けることが出来るのでしょうか。

本当の価値とは何なのだろう

結局の所、現在に置ける価値とは、権威を持つ人間が『これは価値がありますよ!』といったものが価値があるモノなのでしょう。
その根拠は、特に無くてもよいのでしょう。
最初の話しに戻りますが、この絵は、シュレッダーで切り刻まれる前に、一億数千万円の値段が付いていました。 しかし、シュレッダーによって、その絵の価値そのものは無くなったはずでした。

しかし、価値の無くなったはずのその絵は、オークションにかけられた事によって、何故か『完成した』事になり、更に多額の評価額が付くことになりました。
では、最初の値段は何だったのでしょうか。 彼らは、未完成品を絶賛していたのでしょうか。
それとも、最初の絵を評価していたけれども、その絵が作者の仕掛けによって台無しにされてしまった。その状態を放置すれば、今後、オークションで芸術品という名の『資産を何倍かにしてくれる素材』を購入する人が減る可能性が有る。
つまり、オークションの客が減る可能性が有るので、『オークション会場で商品をシュレッダーによって細切れにした』という状態そのものに値段を付けて、購入者の資産の目減りを抑えたのでしょうか。

どちらにしても、詭弁にしか聞こえませんし、そこに普遍的な『美』は無いような気がするのですよね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第39回 神話の時代 (2) 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

厳しい環境が 神話を身近にする

その他にも、大昔というのは現代に比べて、大自然というものが脅威でした。
大自然のちょっとした変化によって人は簡単に死にますし、生きていく事そのものが大変な状態でした。
この様に追い詰められた環境では、人は簡単に幻覚や幻聴を体験してしまいますから、苦しい環境下で、神や悪魔といった人間以外のものを目撃するといった事もあったんでしょう。
幻覚などの症状は、満たされている状態では起こりにくく、追い詰められた極限状態で見やすいため、何らかの危機的状況と幻覚として見える何らかのモノに相関関係を見出して、宗教を作るというケースも有ったんでしょう。

この様な感じで、元々は、大自然というカオスの中から、パターン認識によって法則性を見出す事で、人類は生存率をあげようと頑張ってきたわけですが、その過程で、様々なものが生まれて発展していくことになります。
当時は、今のようにネットで繋がっているわけではない為、それぞれの地域に住む部族は環境的に隔離された状態に有ったわけで、その閉鎖された社会の中で、独自に作られた科学的思考や神話、宗教が発展していったんでしょうね。

パターン認識によって生まれたものが組み合わさり文化が生まれる

文化の成長スピードも人の考え方も、今のような早いスピードではなかったでしょうから、長い年月をかけて作られることになる為、様々な法則が複合的に合わさることで、各部族の文化が生まれていったんでしょう。
例えば、最初は星を観察してパターンを解析するという科学的な手法によって、1年の気候変動のリズムを解析する事で、農作物を育てる為に必要な作業の指示を行えるようになるという所から、文化が始まったとします。
ただ、星の配置を見て法則を見出すというのは、万人が行える事ではありませんし、知識というのは、それそのものが武器になったり部族を統治する道具にもなったりするので、一般人に広く伝えられる事はなかったでしょう。

知識を持たない一般人からすれば、占星術師は未来を予知できる能力者に思えてしまいますから、無知な人々は、天候以外のその他の予言も占星術師に求めるといったことも有ったでしょう。
追い詰められた占星術師が、ある日、幻覚をみて、その幻覚を元に予言を行うと、科学から発生したその文化は、シャーマニズムへと変化していくでしょう。
そして、その予言が見事に的中すれば、その占星術師は神と交信できる人物として部族の中での地位を確立できます。

仮に、その予言がハズレた場合は、神が怒っているとか適当な言い訳を並べれば、当時の人は納得したかもしれませんし、納得しなかったとしても、対案を出せば、時間稼ぎはできます。
どの様な対案を出すのかというと、例えば、生贄とかです。

現代でもそうですが、古代から、何らかのモノを得るためには犠牲を払わなければならないという考え方が受け入れられやすいです。
現代で言うなら、自己責任論がそれに当たりますよね。
成功者は、自分が若い頃、他人が遊んでいる間に自分は苦しみぬいたんだから、成功して当然だと言いますし、逆に、今現在苦しんでいる人を指さして、『努力してこなかったんだから仕方がない』と言い放ちますよね。

苦労と成功というパターン認識

努力したから報われる。 苦痛を受け入れたんだから、それ相応の見返りが有って当然と考える思考の根本的な部分は、古代の生贄の風習と同じです。
苦痛を受け入れたんだから報われるのであれば、言い換えれば、受け入れがたい苦痛を先に体験することで、後の安定を得られるという事になります。
食料が得られなくて死にそうな時に、残りの僅かな食料を、神への供物として食べずに燃やしてしまう事は苦痛です。しかし、その苦痛を実感することで、後にそれ以上のリターンが得られるという考え方もできます。

小動物や農作物を燃やしても効果がなかった場合は、最後の手段になります。
大自然の中で生き抜きたいと思っている人間にとって、最大の苦痛とは、死ぬ事ですよね。 数日の間、食いつなぐ事が出来る食料を燃やしたのも、そうする事で生き残る可能性が増えると考えての行動です。
そんな人間が死を受け入れるという事は、最大の苦痛となります。

なら、誰かを生贄にすることで、最大の苦痛を押し付けてしまえば、事態が好転して、生贄以外の人間が生き残れるとも考えられますよね。
仮に、この決断を実行して、思惑通り、事態が好転なんてしてしまったら、パターン認識によって『効果がある』と思われてしまうわけですから、文化の一つとして組み込まれて行くことになります。
この様な感じで、カオスの中から手探りの状態で法則を見つけ出そうとする行為は、様々な思想や習慣を生み出していく事になり、多くの神話が作られていくことになります。

文化は より 複雑化していく

一度作られた物語は、時間が経つに連れて、そして、文化を作ってきた人間の代替わりが起こったり解釈する人が増えていく事で、儀式や教義といったものはより複雑に変化して壮大になっていきます。
これは、なんでもそうですよね。
現代でいうと、最初はショートストーリーで始まった物語が、爆発的に人気が出て、ファンそれぞれが考察や深読みした結果を発表していくといった感じで盛り上がる。そして、その作品のファンだった人が監督になり…
ファンが肥大化させたイメージを踏まえて、映画化するとかですね。
こういった事が世代をまたいで繰り返されていくことによって、物語はより壮大になり、儀式はより複雑化して、一つの文化が生まれていきます。

つまり、神話の時代というのは、科学や神話・宗教といった区別は特に無く、パターン認識によって見出された法則が、世代を超えて伝えられていったという点では、むしろ同じ様なものとして捉えられていたんだと思います。
ただ、物語が発展するのと同じ様に、科学的な視点も時代を超えて発展していきます。
元々、パターン認識という同じところから出発した文化は、長い年月をかけて成長していき、全く別のものへと進化していく事になります。

派生する思想と文化

これは、生物の進化と似たような感じになるんでしょうかね。
生物も元々は、単細胞生物として最低限の機能しか持たずに生まれたものが、長い年月をかけて環境に適応した結果、複雑な機能を持つようになって、無数の種族に枝分かれしていきましたよね。
一本の大木のシルエットのように、元々は同じものだったものが枝分かれしていくことで、それぞれの枝の末端部分のものは、独自のアイデンティティを確立するようになります。

それと同じ様に、元々、パターン認識によって法則を見つけ出すという行為も、長い年月を書けることで、それぞれの考え方は全く別々のものへと進化していって、次第に、思想そのものがアイデンティティを確立していって、個性を強めていくことになります。
次回以降では、全く違った考え方になっていった思想のその後を、追っていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第39回 神話の時代 (2) 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

前回の振り返り

前回は、神話がどのようにして生まれたのかを、一つの観点から観ていきました。
簡単に振り返ると、人は自然界で起こる現象を情報として受け取って情報を蓄積させていくわけですが、その情報の中から、特定のパターンや法則を無意識的に探してしまいます。
このパターン認識によって、人は、それぞれの自然現象を関連付けていきます。

カオスからパターンを見つける

前回の説明では、星の位置と気候の変化などが関連付けられて、その2つの出来事に法則性を見出されて、暦が出来たとか、そういった事を話していきました。
夜空の星の配置にはパターンがあって、同じ様な周期で動いている事が分かって、それと気候の変化がリンクしていることがわかれば、その関係を更に追求していくというのが、人の性です。
星の位置によって、他の物事が理解できるようになることがわかると、星の位置を正確に覚えることが重要になってくるので、それを覚える方法として、神話が生み出されてのではないかという話でしたね。

星を数個ずつのグループに分けて星座にしてキャラクターを当て嵌めて、そのキャラクターを元にストーリーを作り出せば、そのストーリーを覚えるだけで、星の位置を正確に覚えることが可能になります。
こうして生み出された神話は、単純な語呂合わせに終わらず、壮大なストーリーとなって、発展して盛り上がっていきます。
エンターテイメントとして盛り上がってくると、新キャラがドンドンと生み出されることになって、様々な自然現象や人間が持つ感情や葛藤を擬人化したような神々も生み出されていくようになます。

こうして、物語の厚みが増していって人気が高まってくると、神話の世界のものを現実世界に具現化させるようになっていって、神々の姿は、より具体性を増していくようになっていきます。
神々を祀る神殿なども作られていって、聖地巡礼などによって経済も活発化していきます。

間違いが起こりやすいパターン認識

この様な感じで、様々なもの同士を関連付けて、その中に法則性を見出すというパターン認識は、人が文明を築き上げる為には無くてはならない、便利な物なのですが、万能なのかというと、そうでも無かったりします。
パターン認識は、カオス的なモノの中から法則を見つけ出す訳ですが、本当に相関関係のあるものや因果関係のあるものだけを見分けられるわけではありません。
相関関係が有って法則性が見つけられそうだけれども、、どのように関係があるのかがわからないようなものも多数あるでしょう。
また、それぞれの事柄に全くの無関係と思われるようなものも結びつけますし、その法則同士を更に結びつけて壮大な妄想を作り上げる場合もあります。

例えば、突然の腹痛に襲われた際に、直接、お腹を調べたり、場合によってはお腹を裂いて、直接痛い部分に対処するという形で法則性を見つけ出そうとすると、西洋医学の様に発展していきます。
ですが、同じ様に腹痛に襲われた時に、たまたま、地面にある出っ張りを踏んでしまって、足の裏に刺激を受けた事で症状が和らいだりした場合、足の裏の特定部分とお腹という離れた場所に法則性を見出してしまうことになります。
足つぼや鍼灸などは、全くの無関係なのか、実際に関連性があるのかは分かりませんが、最初のアプローチの違いによって、同じ医学でも違った方向に進んでいくことは、この例をみてもよくわかりますよね。

全く無関係のものの中に関係性を見出す

これらの例は、まだ何らかの相関関係があるのかもしれませんが、人は、全くの無関係なものも無理やり結びつける事によって、その中に法則性を見出そうともします。
例えば私は昔、株式投資にハマっていた時期があって、株式関連の情報を日々、漁っていた時期がありました。
株式投資を全くやった事が無い方は、株式投資は、普通の人間には理解が出来ないような物凄い計算を元に株価の価値を見出して、その価格を元に売買していると思い込んでおられる方も多いかもしれません。

しかし実際には、そんな事もなかったりします。
というのも、株価というのは株価が上昇する事そのものが材料になって上がったり、または、下落した事実によって更に下落したりと、予測そのものが出来ません。
企業の業績も、企業単体の努力の他に市場環境なども関係してくる為、先読みすることが難しいですから、適正株価というものをピンポイントで予測することも不可能です。

結果として、アノマリーと呼ばれる超常的な現象を、売買タイミングの見極めの参考にしようとする人達が出てきます。
その中でも有名で、結構よく聞く話が、『満月の日は相場が荒れる』といったものや、もっと壮大な話でいうと、天体の大きな動きと株価をリンクさるなんてものもあります。
天体の数十年に渡る動きの周期と、株価の上下の周期が大きな目で観ると一致しているらしく、そこから、サイクル論なんてものが生まれています。
このサイクル論のセミナーは、ラジオ日経などで大々的に宣伝がされていて、かなりの人気を集めています。

オカルトに支配されている資本主義

ある意味、凄いですよね。株式市場といえば、資本主義経済の中心地の様な場所ですが、その売買に利用されているのが、占星術なわけですから。

この占星術のサイクル論の他にも、アメリカで開催されているアメリカンフットボールのNo.1を決めるスーパーボールの結果によって、株価の動きを予測するというアノマリーも存在します。
スーパーボールは、日本にあまり馴染みが無いと思いますので、日本の例を出すと、金曜ロードショージブリ映画が放送されると相場が荒れるというジブリの法則というものも存在します。

もっと具体的で、一見すると信憑性がありそうなものでいえば、テクニカル分析というものも存在します。
例えば、サイコロジカルラインというテクニカル指標がありますが、この指標は、直近12日間で、株価が上がったのか下がったのかどちらが多いのかをカウントして、グラフ化した指標です。

仮に、上がるか下がるかが2分の一の場合、直近12日間で10日の間、株価が上昇をし続けているとした場合、50%の確率で上がるか下がるのかが決まるのに、10日連続で上昇していると、次は下がりそうな気がしますよね。
この様に、結果に偏りがあり場合は、それをグラフ化して、注意を促すというのが、サイコロジカルラインです。
この説明を聴いて、なんとなく納得された方もいらっしゃるかもしれませんが、冷静になって考えると、このサイコロジカルラインは確率というものの捉え方がおかしいですよね。

というのも、上がるか下がるかが、それぞれ50%の確率で実現するとた場合、10日連続で上昇が続いたとしても、11日目に下落する確率は50%で変わりません。
ルーレットで赤が連続したからといって、黒が出る確率が上昇しないのと同じで、その日1日に上昇するかしないかは、前日までの株価の動きがどんな状態であれ、50%なんです。
だから、このサイコロジカルラインという指標は、そもそも意味がない指標なのですが、結構昔から使われていたりしますし、この考え方は応用されて、RSIという指標に発展していたりします。

パターン認識によって生み出される儀式

話が少し逸れてしまいましたが、人はパターン認識によって、カオスの中から様々な法則を勝手に見出すものなので、このパターン認識によって生まれた文化というのは、合理的なものばかりではないんです。

例えば、ある人が、なにか重要な決断をしなければならない時に、あまりのストレスで精神的に不安定になってしまったとします。
そして、何を思ったか、崖から海の中にダイブしたとします。 その後、気分転換ができて気持ちが切り替えられた結果、決断した物事もうまくいったとすると、その人の中では、崖から飛び降りて生還することが、成功体験とつながってしまいます。
その結果、なにか重要な出来事を決める際には、崖から飛び降りて生還するという儀式が生まれてしまったりします。

ここまで極端な話でなくとも、もっと細かいことで見れば、この様な事は頻繁にありますよね。
例えば、勝負事が職業であるスポーツ選手などは、朝食のメニューを固定していたり、靴を履く場合、右からなのか左からなのかを決めていたりといった事をしていたりしますよね。
野球選手であれば、バッターボックスに入った際に特定の仕草を行うなど、『まじない』的な行動をとったりもしますよね。

これらの行動も、傍からみていてもその重要性は分かりませんが、本人にとっては成功する為に必要な、重要な法則なんでしょう。
この様な行為を行っている人がカリスマ性を持っていて、その不思議な習慣をみて真似をしようとする人達が多数出てきた場合、それが大昔の古代であれば、カルト集団に発展していたかもしれません。
そして、それらの行動を創った教祖的な創始者が亡くなってしまった場合、その人物が創った習慣の意味を知る人間がいなくなるわけですから、後付で、御大層な説明がつけられていくことになります。
kimniy8.hatenablog.com

私がアサシンクリード・オデッセイをプレイする前に行った3つのこと

少し前(2018年10月5日)に、アサシンクリードAssassin's Creed)の最新作。オデッセイが発売になりました。


という事で今回は、このゲームをプレイする前に私がしたことについて、書いていこうと思います。
アサシンクリードシリーズをプレイされていない方にとっては、『ゲームをプレイする前にやる事なんてあるの?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、このゲームを本当の意味で楽しむためには、予習が必要になるんです。

シリーズの簡単な説明

このシリーズを全くプレイしたことがない方向けに簡単に説明をしますと、現代の歴史の影に、フリーメイソンや暗殺教団が関わっていたという感じの都市伝説が、事実であったという話です。
テンプル騎士団フリーメイソンといった団体が、現在に溶け込むためにアブスターゴという企業になり、様々なエンターテイメント事業を行いつつ、そこで上がった収益で、アニムスという装置を作り出す。
アニムスは、人間のDNAの中にある(という設定の)記憶遺伝子を読み解く事により、先祖の記憶を実体験できるVR装置。これを利用して、人類が生まれる前に世界を支配していた知的生命体が残した様々な遺産を見つけだそうとしています。

その遺産は、現代ではオーパーツとして認知されているのですが、実はそれは古代文明の装置を動かす鍵で、それを手に入れることで、古代人が残した先進的な技術を自分のものにすることが出来る。
そのアブスターゴ社の野望を阻止しようとするのが、アサシン教団。 プレイヤーは、アサシンを操作して、歴史の影でどのようなコトがあたのかを自分の目で確かめ、先人が残した遺産をアブスターゴより先に見つけ出すというゲームです。

この簡単な説明でも分かる通り、『歴史の影では、こんな事が起こっていたんですよ!』という部分を楽しむ物語なので、その大本である『歴史』を知らない事には、楽しさが半減どころの騒ぎではなかったりするんです。
『歴史モノなんだから、ゲームをして入れば、その辺りの説明はしてくれるんでしょ?』と思われる方も多いかと思いますが、そんな説明は一切ありません。
歴史を知っていることが前提で、その歴史に詳しいプレイヤーが、『歴史の舞台に立って、自由にキャラクターを操作できますよ!』というのが売りになっている為、細かい説明などは抜きで、知っている前提で進んでいきます。
この様なゲームの作りになっている為、必要になってくるのが、物語の舞台となっている前後の歴史と人物を把握しておく事だったりするんです。

私が勉強したこと

では、何から勉強すればよいのでしょうか。
今回のテーマになっているのが古代ギリシャなので、その前後の事を理解しておくだけで、ゲームに対する理解度がかなり上昇すると思います。
とはいっても、『古代ギリシャ』という情報だけでは、かなり範囲が広い。 という事で、ゲームの舞台になっている時代を調べてみると『紀元前430年ペロポネソス戦争中の古代ギリシア』らしいので、このあたりを中心に勉強すると良いっぽいです。

まず、このゲームを知る上で理解しておくことがひつ表なのが、当時のギリシャという国についてでしょう。
今では、ギリシャといえば一つの国ですが、古代ギリシャ時代は、1つのまとまった国というものではなかったようです。
ギリシャという大きな枠組みの中に、『アテナイ』や『スパルタ』といった国があり、それぞれの国が独立した国のように自治をしていました。 当時は、国ではなく『ポリス』とも呼ばれたそうですが。

その為、アテナイもスパルタも同じギリシャですが、統治している人もシステムも違います。
スパルタは王が治める王政だったのに対し、アテナイは共和制だったりと、国を統治するシステムそのものも違ったりします。
しかし、ギリシャという土地を共同で収めているという意識は有るようで、外敵であるペルシャからの侵攻された時は、兵を送り合ったりして共同戦線を貼ったりもしています。

スパルタ兵は何故 強いのか

このあたりのことがよく分かる映画が、『300』という映画でしょう。
注意:これ以降、複数のコンテンツを紹介しますが、ネタバレを含んだ形で紹介します


この映画は、ペルシア戦争テルモピュライの戦いを映像化した作品です。簡単な説明としては、ペルシア帝国から使者がやってきて、スパルタに服従することを迫ります。
これを跳ね除け、使者を殺したスパルタ王・レオニダスは、ペルシア帝国との戦争を決意するのですが、この当時のペルシアでは、王の一存だけでは決めることが出来ないので、神殿に赴いて、神の使いに支持を仰ぎます。
しかし、この時期は丁度、祭りの開催時期という事で、兵の出兵は認められないのですが、このままではペルシア帝国に攻め込まれて滅ぼされると思ったレオニダスは、スパルタの精鋭300人を連れて、ペルシア帝国を迎え撃つという話。

ただ、向こうの軍勢が100万人に対して、300人では瞬殺されてしまう…
そこでレオニダスが考えたのは、海と崖に挟まれた狭い場所に陣取る作戦。これにより、相手がどれ程の大群であろうとも、少ない人数で対抗できるという戦略を取る。
結果がどうなるのかは、映画を見てみてください。

この作品では、何故、スパルタ兵が強いのかというのを説明してくれています。 これは、映画のストーリーと言うよりも歴史的な事実なので、結果から書くと、スパルタの兵士は全員、職業軍人だったからです。
スパルタでは、子供が生まれてすぐに、体に欠陥がないかを調べられ、問題が有ると、崖の上から落とされて殺されます。 五体満足で問題がない人間だけが育てられ、その人間が職業軍人となり、戦争がない時期であっても、常に訓練をしています。
その一方で、他の国の兵士は、常時は農民や大工、家具職人などの仕事をしている人間が、戦争の時だけ、兵士として徴兵されて軍隊を作ります。
この状態だけを観ても、どちらの方が強いのかがよく分かりますよね。

次に観てほしいのが、その続編?である、『300: Rise of an Empire



この作品は、純粋な続編というよりは、『300』がスパルタを中心に描かれた話だったのに対し、この作品では、何故、ペルシア帝国が攻めてきたのか。そして、『300』の後にどうなったのかを、アテナイの視点から描かれています。

ちなみにですが、このゲームは、このテルモピュライの戦いからスタートします。
そして、ここで活躍するレオニダス王が、主人公の祖父に当たる人物だったりします。チュートリアルの時点で、前提知識が要求されるというわけです。 

スパルタに対するアテナイ

その次に知っておいて欲しいのは、アテナイの状態ですね。
舞台となっている時代で、アテナイで有名な人物といえば、ソクラテスです。
という事で、ソクラテス関連の本を読んでおくのが良いと思います。

先ほど紹介した『300』でも、アテナイ人は議論好きや男色が多いなんて話が出てきますが、そういった雰囲気が感じられるのが、ソクラテスの弟子であるプラトンが書いた、様々な本です。
プラトンが書いた多くの作品は主人公がソクラテスで、彼なら、こんな議論をするんじゃないかという想像と、自分自身の哲学理論を組み合わせた本を多数書いています。
結構多くの作品が書かれているのですが、その中でも私が読んでおくべきだと思うのは、『ソクラテスの弁明』です。


内容を簡単に説明すると、ソクラテスは、当時、主流だった相対主義的な考えに疑問を持ち、絶対主義という価値観を持ち出して、様々な賢人という人々に討論を申し込んで、嫌われて、その結果として裁判にかけられて死刑になった人物なのですが、この本では、その裁判での出来事が細かく描かれています。
この作品では、単なる哲学議論だけでなく、当時のアテナイの議員や裁判官などの公職が、選挙や試験ではなく、くじ引きで決められていた事などが分かります。
また、ソクラテスが訴えられた罪状の一つに、国の定めた神々を信じずに…といった一文がある為、オリンポスの神々の存在の否定や冒涜、そのものが罪になっていたことなどが分かります。

アサシンクリードシリーズでは、当時では異端とされていたカウンターカルチャーを唱える人物が登場し、アサシンは、その人物に味方するというケースが多いです。
アサクリ シンジケートでいうのであれば、共産主義の生みの親である、マルクスなどがそうですね。
この当時のソクラテスも、当時としては異端とされている様な考え方をし、それに多くの若者が影響を受けたのですが、その考え方についていけない人達に恨みを買われ、裁判で訴えられます。
しかしソクラテスは、その後、哲学の祖と呼ばれ、その思想は約2500年後の現在でも、研究対象となっていたりします。 この辺りも、知っておくのと知らないのとでは大違いですので、機械があれば是非、読んでみてください。

絶対主義や相対主義の部分に関しては、哲学的な話になる為、ここで書く事は止めておきますが、これを書いている私自身が、Podcastというサービスを使って『哲学』というテーマでコンテンツを作っているので、興味が有る方は、そちらをお聞きください。

ブラウザで聞きたい方は、こちら。
doublebiceps.seesaa.net

手軽に前提知識が欲しい方へ

最後に、もっと気軽に予習したい方のために、古代ギリシャ研究科の藤村シシンさんとUBIとのコラボ動画を紹介します。
この動画は、実際にアサシンクリードをプレイしながらの解説になる為、ゲームに関係している情報が簡単に得られ、観ることで、ゲームが何倍にも楽しく感じられるようになると思います。






【ネタバレ感想・考察】『哭声 ~コクソン』 疑う事そのものは悪い事ではないんだろう…

少し前のことですが、全国的には分かりませんが、私の近辺で『コクソン』という映画が話題になりました。
少し気になっていた所、Amazonプライムで配信されていたので観てみました。 という事で今回は、コクソンのネタバレ感想&考察を書いていきます。

簡単なあらすじ

冒頭部分。 キリスト教の聖書の引用から始まり、その後、舞台は韓国の農村に移ります。

主人公は、山奥の村の警察官。その主人公が住む小さな村で、家族をめった刺しにして放火するという悲惨な事件が起こります。それも、1件ではなく、間をおいて複数件。
家族が家族を殺して自分の家を放火するという事件は、小さな田舎町であっという間に広がり、様々な噂が囁かれだします。
しかし、噂は噂。 警察は科学的な調査をし、事件の原因は幻覚キノコによって引き起こされたという結論が出ました。

当初は、この検証結果を信じていた主人公の警察官ですが、その主人公に向かって同僚が『本当に、幻覚キノコが原因だと思ってるんですか?』といった疑惑を投げかけます。
それと同時に、最近、近所に引っ越してきた日本人が怪しいという噂をします。
最初はその話を鼻で笑っていた主人公ですが、事件の一部始終を観ていたという白い服を来た女の話を聞いていくうちに、次第にその噂を信じるようになってゆく。

その内、警察とは別に独自で調査する主人公ですが、それと時期を同じくして、主人公の娘が具合を悪くし、皮膚病にかかってしまう。
最初は、ただの病気だと思っていた主人公だが、事件を調査してくうちに、被害家族には共通して、皮膚病患者がいることが分かってくる。

自分の娘が危険な目にあっているという事で、真相を確かめようと、悪い噂になっている日本人に会いに行くと、そこで、何らかの呪術に使う祭壇と、娘の靴を発見する。
犯行を自身で目にしたわけでも、手口の解明や証拠が出てきたわけではないのに、その瞬間に、日本人を犯人だと確信する主人公。
その後、娘の様態が良くならない事など、良くないことが立て続けに起こった為、家族が祈祷師を呼び、お祓いしてもらう。

それでも改善しないため、今度は祈祷師に頼んで日本人を呪い殺してもらうことにするが、その儀式の最中に娘の様態が更に悪化した為、儀式を中止させて、今度は自身の手で日本人を葬ろうとする。
仲間を集め、日本人を襲撃に行く主人公たち。 なんとか日本人を追い詰めるも、あと一歩のところで逃してしまうが、襲撃の帰り道によそ見をしている最中に人を轢き殺してしまい、轢いた人間を確認しに行くと、追っていた日本人だったことが分かる。
周りに誰もいないことを確認し、死体を崖の下に落として証拠を隠して帰路につくと、祈祷師から電話がかかってきて、日本人は自分と同じ祈祷師で、悪魔を退治しようとしていた。本当の悪魔は、白い女の姿をしていると告げられる。

家に帰ろうとする途中で、悪魔と言われた白い服を着た女と出会い、問い詰めると、白い服を着た女の方は、日本人が悪魔で、祈祷師はそいつの仲間だと訴える。
どちらを信じて良いのか分からなくなる主人公だが、女の事を信じきれなかった男は、女を無視して家に帰り、悲惨な最後を迎える…

考察

何が何だか分からない作品なのですが、それでも観れてしまうというのは、所々にメッセージは散りばめられているからでしょう。
という事で、この散りばめられたメッセージを独自に読み解いていこうと思います。

先程、わけのわからない作品と書きましたが、この映画を観ると、何かの物語に非常に似ている事が解ります。
それは、キリスト教の聖書。『ヨブ記』です。

ヨブ記の話を簡単に説明すると、ヨブという、富にも子供にも恵まれた人物がいて、この人物は、非常に強い神に対する信仰心を持っていました。
神はヨブの信仰心に満足し、サタンを呼び寄せて自慢しますが、サタンはその信仰心に疑念を持ちます。 サタンは、『ヨブが神に対して信仰心を抱いているのは、恵まれているから。 また、信仰心を抱くことで、何らかの見返りを期待しているからだ』と主張します。
その主張を聴いた神は、『ヨブは、例え満たされていなくとも、信仰心を途切れさせることはないし、何の見返りも求めていない。 何なら、試してみると良い。』と、神は、ヨブから命以外の全てを奪うことを許可します。

サタンはヨブの全財産を奪い子供を殺しますが、神の言う通り、ヨブは信仰心を絶やしません。
サタンは、『ヨブから奪い取るという行為をしても、信仰心を絶やすことはない。』と悟り、ヨブの体に呪いをかけて、酷い皮膚病にします。
神の指示によってサタンから全てを奪われ、自身もボロボロになりながらも、ヨブは信仰心を絶やすこと無く神を信仰し続け、その姿をみたサタンは神の主張に納得します。

サタンの屈服に神は大いに満足し、ヨブにサタンが奪い取った以上の財産を与え、失った子どもたちと同じ数の新たな子供を授けたという話です。

この映画には、疑惑の日本人に接触した人間は、酷い皮膚病に感染して苦しむことになりますし、祈祷師は呪いを解くという名目で、多額の金を奪い取ります。
白い服を着た女は、それらの事を全て知った上で、その行為に介入しようとは思いません。
最後の最後で、主人公が『私がなにか悪いことをしたのか!』といった言葉に対して、『疑って、罪を犯した。』と答え、家に帰ろうとする主人公に対して、『私を信じて、ここに留まれ』と試すだけです。

結果、主人公は白い服を着た女を信じ切ることが出来ずに、最悪の最後を迎えてしまうのですが、これは、信仰心を保てなかったヨブの成れの果てを描いているのでしょう。

これを読まれた方は、『キリスト教の神様って、酷いな』という感想を持たれる方も多いかもしれませんが、この『ヨブ記』のエピソードで聖書が何を伝えたいのかというと、人間は、極限状態で本性が現れる。その本性が『善』でなければならない。という事でしょう。
この映画の主人公は、日本人がすべての元凶という『噂』を聴いただけで、確認したわけでも証拠が有るわけでもないのに、その日本人を殺すという罪を犯します。
主人公は、何もかもが満たされている時は、スキあらば仕事をサボろうとするだけの、その辺りにいる普通の人ですが、極限状態に陥った時に、主人公自身が持つクズ性が露わになったわけです。

『主人公は、キリスト教徒じゃないでしょ。』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、元々、キリスト教の神という概念は、古代ギリシャ時代の哲学者、ソクラテスが訴えた絶対主義が派生して生まれたものです。
絶対主義とは、絶対的な『善』や『勇気』『美』『徳』といったものが有るという考えを元に、それらを研究するという考え方ですが、一神教の神という概念は、この『絶対的な概念』をイメージ化したものです。
神を信じないという人も、善や悪なんて存在も等しく無いなんて人は、少ないでしょう。 絶対的な善とは何なのか、勇気とは? それらの究極の形を統合したイメージが、『神』問いても良いのかもしれません。

絶対主義や相対主義なんて言葉に馴染みがない人でも、神といった存在をイメージする時、無意識的に絶対的な『善』や『美』というものをイメージしてしまいます。 それを、物語に落とし込んで、物語を通して様々な警告を行っているのが、聖書でしょう。

聖書に出てくる物語のように、絶対的な善を貫ける人間ばかりであれば、例えば、国同士が宣戦布告をして戦争になった場合、戦争は成り立ちません。
しかし、世の中の人間というのは、戦争を言い訳にして人殺し、身内を殺された事を言い訳にして仕返しする事が、『普通』とされています。

そういった『普通の人間』が世の中に溢れかえっている現状では、何かのキッカケが有るだけで、この世は簡単に地獄に変わってしまいます。
そういった事に対する戒め的な意味を込めたエピソードが、ヨブ記で、その影響を受けていると思われる『コクソン』も、そういったメッセージが込められているのかもしれませんね。

感想

この映画ですが、ジャンル的には、ミステリーとホラーを合体させたような話といえば良いのでしょうか…
舞台となっている村や主人公たちに対して害をなしている人物が、誰かというのが最後の最後まで全く分かりません。
最終的には、怪しい人物は『白い服を着た女』『日本人』『祈祷師』の3人に絞られるのですが、誰場嘘を付いているのかが、全く分かりません。

また、この話自体が、現実の話なのか夢の話なのか、何処から現実で何処から夢なのかが分からない様な作りになっています。
最初の部分で、主人公が同僚から初めて『怪しい日本人がいる』という話を聞いたときも、その話口調が怪談を話す様な感じになっており、その直後に、窓の外に裸の女がずぶ濡れで立っていて驚くというシーンが入った後に、主人公が悪夢から冷めた感じで自宅で目覚めるというシーンが挟まる。
この、『悪夢から目覚める演出』というのが2回ぐらい挟まり、どの部分が夢で、どの部分が現実なのかが全くわからない作りになっていて、かなり不思議な体験をさせられました。
もしかしたら、全編、夢の話なのかもしれないとも思ってしまったり。

そして、終盤。 疑惑の3人が出揃い、主人公に対し、それぞれ独自の主張をしだすのですが…
これが、誰が本当のことをいっているのか… というか、本当の事を話している人間が存在するのかも、誰が悪者なのかというのが全く分からない。

わからないもの尽くめなのに、何故か魅入ってしまう、不思議な作品でした。

現代には哲学が足りない

少し前に、ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の漫画版を読んだのですが、そこには、『経済学者は哲学者でなければならない』といった事が書かれていました。
この意見に激しく同意したので、今回は、今の世の中に足りない『哲学』について考えていこうと思います。

ちなみに、ケインズの本の要約と感想はこちら。
kimniy8.hatenablog.com
kimniy8.hatenablog.com

今の世の中に哲学は必要ないのだろうか

私自身は、哲学というものは現代に限らず、どの時代であっても重要な物だと考えています。
そんな思いもあって、哲学を1から勉強し直し、その過程をネットラジオという形で配信していたりもするのですが…
goo.gl

世の中には、そう考えていないような方がかなり多いようです。
まとめサイトなどを読んでも『哲学なんて、何の役に立つの?』といったスレが定期的に建ちますし、飲み屋などで哲学的な問い掛けをしてみても、次の瞬間に『で、答えは?』と言われて、議論すら成立しない状態。
中には、『そんな訳のわからないことを考えるよりも、もっと、生産的なことを考えろよ!』と説教する人まで出てくるします。

多くの人が必要ないと思いこんでいる『哲学』ですが、では本当に、必要ないものなのでしょうか。

哲学とは何なのか

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哲学と聞くと、馴染みのない方にとっては、小難しい学問のように思えますが、実際に勉強してみると、実はそんな事はありません。
具体的に、どういった事を考える学問なのかというと、一言で簡単に説明するのであれば、『ゴールを決める学問』といえるのかもしれません。

ラソンの様な競技でもプラモデル制作などの趣味でも、何にでも当てはまることですが、ゴールが明確に定まっていなければ、進むべき方向もペースもわかりません。
その状態で走り出したとしても、当然、目的地に到達する事も出来ません。
それと同じで、人生における目標が決まっていなければ、自分が進むべき方向もわかりませんし、向かうべき方向がわからないということは、今、何をすべきかという事もわかりません。

ここで定める目標は、単純に、『将来は医者になりたい』とか『弁護士になりたい!』『一生、遊んで暮らせる金がほしい!』といった浅はかなものではありません。
もっと、根源的なもので、答えがあるのかどうかも分からないものです。 それを、自分自身の経験や知識を総動員して考えてゆくのが、哲学といっても良いかもしれません。

自分の夢は本当の夢なのか

抽象的な事ばかり書いていても理解し難いと思うので、例を挙げて少し具体的に書いてみます。
例えば、夢はなんですか?と聞かれて、『ポルシェに乗ることが夢だ!』と語る青年がいたとします。
彼の夢は、本当にポルシェに乗ることなのでしょうか。

例えば、彼の目の前に大富豪が現れて、その青年にポルシェをプレゼントしたとします。 その青年は、自分の夢がかなったので、この世で思い残すことはなく、死を迎えることが出来るのでしょうか。
おそらく青年は、ポルシェを手に入れたら、次の願望を口にしだすでしょう。 では、そもそも何故、ポルシェに乗りたいのでしょうか。
ポルシェに乗りたいだけであれば、高級車専門のレンタカーを借りれば済む話ですが、青年は、それでは納得しないでしょう。 『ポルシェに乗りたい』というのは表面的な願望で、本当の願望は、ポルシェを購入して維持できるだけの経済力なのかもしれませんし、その経済力に群がってくる人々かもしれません。

ほんの少し願望を吟味しただけで、青年の本当の夢は、ポルシェに乗ること自体では無い事が解りましたね。では、青年の本当の夢は、ポルシェを維持できる経済力、そして、それに群がる人々という事に仮定しましょう。
青年の願望はポルシェから、『お金持ちになって、異性など多くの人からチヤホヤされたい』という事に置き換えられたわけですが、この願望も深く掘り下げてみましょう。

経済力とはイコールお金ですが、そのお金は、不正な手段で手に入れても良いものなのでしょうか。お金を手に入れる事だけが最終目的なのであれば、その手段は何でも良いことになります。
グレーな仕事や違法な手段を使ってお金を手に入れ、大金持ちになったとして、それが青年の願望なのでしょうか。それとも、お金は、正攻法で手に入れるべきものなのでしょうか。
不正な手段でお金を手に入れるのを良しとする場合、そうしてまでしてお金を手に入れても、寄ってくる人間が目当てにしているのは、青年自身ではなく、青年が持つお金そのもので、青年の背後に有るお金に対してチヤホヤする事でしょう。
何らかの原因で、青年が全財産を失うなんて事になれば、カネ目当てで集まってきた人は、蜘蛛の子を散らすように消えるでしょう。青年が夢にまで観た『手に入れたかったモノ』は、そんな人間関係なのでしょうか。
それとも、青年がどの様な状態であれ、付き合ってくれる人間関係なのでしょうか。

青年が『不正は駄目だ!正攻法で!』と答えたとして、では何故、不正は駄目なのでしょうか。 捕まって刑務所に入れられるからでしょうか? 仮にそうだとして、絶対に捕まらない方法が有るとすれば、青年は不正を許すのでしょうか。
捕まる、捕まらないが問題ではなく、不正そのものが駄目だとする場合、最終目的には『正攻法で成し遂げられなければならない』という条件がつくわけですが、何故、その条件を付けなければならないのでしょうか。

青年が『正攻法で手にしなければ、他人からの尊敬を手に入れることは出来ない。 私が欲しい人間関係は、私が無一文になったとしても、私の元を去らない様なものだ。』と答えたとしましょう。
では、その人間関係を構築するのに、多額の金は必要なのでしょうか?人から尊敬される手段は、正攻法で多額の金を稼ぐことだけなのでしょうか?
そもそも、何故、人から尊敬されたいのでしょうか? 人から尊敬されることで、『幸福』が得られるからでしょうか?

そもそも『幸福』とは、何なのでしょうか?

この様に、世界に対して興味を持ち始めた子供のように、『何故? 何故?』という疑問を問い続ける事で、自分が本当に求めているものを発見することが可能です。

今の世の中に『徳』はあるのか

この様な考え方は、古代ギリシャソクラテスが生み出したと言われています。
人は、自分の体の外側の世界に興味を持ちがちですが、そんな中でソクラテスは、自分自身の内面に焦点を当て、徳とは何なのかについて、生涯をかけて考え抜きました。
結果としては、万人に伝えられるような形で言語化された答えは出ず、その後を継いで考えている哲学者も答えには辿り着いていないので、『徳』といったものがどのようなものなのかは判りませんが…

多くの人が分かるように表現するのであれば、『正義』『節制』『善』『勇気』といった、それぞれ別の価値観が持つ、共通する概念の事です。
先程あげた4つの言葉は、それぞれは別々のものを指し占める言葉ですが、共通する概念を含んでいそうですよね。 そういったものが、『徳』と呼ばれるものに近いものだと思われます。

この、『徳』がなぜ必要なのかというと、どんなに優秀なシステムを作ったとしても、そのシステムを利用する人間に『徳』がなければ、そのシステムは上手く機能しないからです。

企業は、利益率を最高レベルに上げる為に、派遣社員を雇って必要な時期だけ雇います。 派遣業者は、そういう企業に人材を派遣してピンはねする事で、多額の利益を上げます。
大企業から発注を受ける中小零細企業は、脅しに近い値下げ要求によって利益を挙げられず、ブラック企業になっていく。 何故、こんな事になるのかというと、投資家が、目先の利益を求めて四半期決算ごとに、つまり、3ヶ月毎に高い収益を求めるからです。
これらのサイクルに関わっている人達に、はたして『徳』は有るのでしょうか?

企業の究極的な目標とは何でしょう? 直近3ヶ月間の高い利益なのでしょうか。 それとも、持続的に利益を稼ぎ出すことなのでしょうか?

経済というのは『循環』です。
大企業が生産供給した商品は、誰が買うのかといえば、さんざん搾取してきた労働者たちです。
しかし、その労働者に満足な対価が支払われていなければ、当然、労働者は消費活動を行うことが出来ません。 消費が行われないということは、当然、企業が生産した物やサービスも売れません。
物が売れない中で、企業が利益を得ようと思えば、仕入れや人件費を削減する以外ありません。 ですが、それらの金を削減してしまうと、消費は更に落ち込んで、企業の売上は更に落ちます。

企業が本来の目的である持続可能な売上増を求めるのであれば、生産に関わる人達には、それ相応の対価を支払わなければなりません。 
市場に潤沢な資金を投入し続けなければ、経済活動は縮小していき、結局は、自分の首を絞める事に繋がります。

『情けは人の為ならず』なんて諺がありますが、自分の利益を追求するのであれば、自分に関わる人達みんなの利益を考える事が、一番の近道です。
労働者や下請けから、恫喝まがいで搾取しても、その企業のファンは増えずに、恨まれるだけです。皆から恨まれている企業が、未来永劫、存在し続けることが出来るのでしょうか。

この様なサイクルは、主に資本主義の国で起こりがちですが、そもそも国が資本主義を採用しているのは、何故なのでしょうか?
資本主義を採用することが、国民の『幸福』に直結すると思ったからではないのでしょうか? では、その資本主義の国に住む私達は、幸福なのでしょうか?

国家運営にしても企業経営にしても、その根幹の部分から『徳』が失われれば、最終的には破綻します。そして現在、そうなりつつ有ります。
こんな時代だからこそ、もう一度、哲学を勉強すべきなのではないでしょうか。

ケインズの経済理論が現在で通用しないのは哲学が欠けているから

この記事は、前回からの続きとなっています。
まだ読まれていない方は、まずはそちらから読まれることをおすすめ致します。
kimniy8.hatenablog.com

前回は、ケインズが古典経済学を否定し、新たな経済学に着手するというところまで書きましたので、今回は、その新たに作られた経済学を、より具体的に観ていこうと思います。

『需要』と『供給』 不景気の原因はどちらなのか

前回にも少し書きましたが、古典経済学とケインズが生み出した経済学の決定的な違いは、古典経済学が原因を供給サイドに求めたのに対し、ケインズは需要サイドに求めた事でした。
ケインズ以前は、モノの生産設備を持っている供給側が、価値の有る商品を生み出せば生み出すほど、価値が創造されていることにあんるので、経済が上昇すると考えられていました。

ものが作りすぎて余った場合は、値下げをすれば良く、生産能力をひたすらに上げていけば、企業は儲かり、商品の値段も下がっていく。
商品の値段が下がれば、労働者の実質賃金が上昇するので、その上昇分を給料カットで調整すれば、企業は同じ人件費の出費で、より多くの人間が雇えるようになるので、失業率も低くなる。
景気は自身でバランスを取るので、上手くいくという考えでした。

しかし、そのまま放任主義を貫いても、大恐慌で悪化した景気は一向にバランスをとることもなく、失業者は25%まで上昇し、景気の悪化に拍車をかけている。
この状態に対してケインズは、今まあでの経済学の考え方が間違っているのではないかと、新たな経済学を生み出すことになりました。

不景気の鍵は金利

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ケインズは、今までの自由放任主義を否定し、経済に対して政府が介入すべきだと訴えました。
市場に自由な振る舞いをさせるのではなく、政府が経済に積極的に働きかけることによって、景気を誘導しようというが、今までの経済理論と大きく違う部分です。

では、何処に働きかけるのかというと、金利です。
確かに、高金利状態が維持されていれば、お金は積極的に貯蓄しようと思います。仮に、年に7.2%の金利が貰えれば、預け高値は福利計算で10年で倍になるわけで、この事が理解できている人間であれば、お金を使おうとは思いません。
また、預け入れ金利が高いということは、借りた際の金利はそれ以上に高いことになります。 仮に、お金を借りて新規事業や設備投資をしようと思った場合、その高利の貸付金利以上のリターンが得られなければ、借金の返済が出来ません。

つまり、金利が高すぎた場合は、消費者はお金を使わないし、企業は投資を行わない。
逆に金利を引き下げて低金利の状態にすれば、消費者は預金をするメリットが無くなりますし、企業にとっては、借金をするためのハードルが下がるため、設備投資の需要が伸びる。
消費者の行動は、貯蓄から消費に流れやすくなりますし、企業の設備投資は伸びやすくなる。 2つの要因によって需要が伸びやすい地合が生まれるわけです。

金利の下げ方

金利を引き下げることで、経済を刺激することが出来る事がわかったところで、では、どうすれば、金利を引き下げることが可能なのでしょうか。
結果から書くと、市場に出回っている債権を購入し続けて、債券価格を上昇させてしまえばよいのです。
例えば、10万円で販売されていて、10年後に15万円になって返ってくる債権が有ったとすると、この債権を購入した際の利率は5%です。

利率とは年計算なので、10万円の投資で5万円の利息が貰えるのであれば、1年あたりの利息は5000円になるので、10万円の5%という事になりますよね。
余談になりますが、金利は年計算というのを覚えておくと、銀行などが行うキャンペーン金利詐欺に引っかかることが無くなるので、便利です。

キャンペーン金利詐欺とは、『今、オーストラリアドルを購入すると、金利が30%付きますよ!(3ヶ月限定で)』という広告で預金を集める方法です。
3ヶ月限定で金利30%と聞くと、人によっては、3ヶ月で元金が倍ぐらいになるのでは?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、先程も書きましたが、金利は年計算です。
つまり、30%を12で割っ2.5%の金利を3ヶ月貰えるだけです。 外貨預金の場合は、為替手数料なども取られる為、それを差し引くと、大した金額にはならなかったりします。

話を戻しましょう。 10万円で販売していて、10年後に15万円になる債権が有った場合の金利は、先程も書いた通り、5%となります。
この利率を下げようと思うと、債券価格そのものが上昇すると、利息は下がることになります。
例えば、10万円で販売されていた債権が、12万円に値上がりしたとしましょう。 12万円に値上がりしたとしても、10年後に返ってくるお金は15万円なので、投資額に対する利益は3万円となります。
12万円を投資して1年で3000円しか貰えないわけですから、利率は2.5%まで下落することになります。

逆に、債券価格が下落して9万円になったとしましょう。 9万円の投資で15万円が帰ってくるわけですから、1年あたりの受取利息は6000円になりますから、利率は6.6%程度まで上がることになります。

政府による市場介入

債権も市場で売られている以上、価格は需要と供給で成り立っています。 つまり、債権を買いたい人間と売りたい人間を天秤にかけた場合、買いたい人間の方が多ければ、債券価格は上昇することになります。
では、誰が買うのか。 ここで、ケインズの政府による市場介入の話が出てきます。
政府が、お金を刷って債権を購入することによって、債券価格を高騰させて利率を下げ、更に、市場に現金を供給するという事です。

現金というのも、市場で取引される『価値を持つモノ』である為、政府によって市場に大量供給されてしまうと、価値が下がります。
現金の価値が下がるという事は、今までと同じ量のお金を出したとしても、同じだけの量の品物が買えなくなることを意味します。 簡単にいえば、物価が上昇します。
物価を上げることが出来れば、企業の業績は上昇しますし、企業の業績が安定的に上昇するのであれば、労働者の給料も上昇しやすくなります

労働者の給料が上昇すれば、その上昇分の何割かは消費に当てられる為、更に需要が伸びることとなる。
需要が伸びれば、企業には生産能力を更に上昇させる動機が生まれ、設備投資が更に上昇し、需要が伸びて、社会全体の景気は更に上向きになる。

企業が儲かる → 労働者の給料が上がる → 需要が伸びる …

政府による市場介入によって、このサイクルに持ち込むことが出来れば、大恐慌を抜けて、好景気に持ち込むことが出来て、失業問題も解決する。

経済学の存在意義

この様に、ケインズの経済理論は、どの様にして需要を生み出すのかという部分に注力して生み出されました。
古典経済学の様な自由放任主義ではなく、政府が積極的に市場に介入することで、経済の舵取りをするという発想を生み出したのは、経済学の存在理由を明確にしたとも言えますよね。
というのも、昔ながらの自由放任主義で、『経済は勝手にバランスが取れるから、人間は何もしなくても良いよ』という意見は、経済学者の存在意義がありません。

だって、放って置くだけで何もせずに、ただ観てるだけの存在なんて、この世に必要がありませんよね。
仮に、あなたが病気になって病院に行った際に、医者から『人間の体は、勝手にバランスが取れるように出来てるから、何もせずに放っていおくといよ。 とりあえず、私が観察しておいてあげます』って言われたらどうでしょう?
あなたはきっと、『医者って、この世に必要な職業なの?』と思うはずです。 何もしなくても、時間が勝手に解決してくれて、それが一番良い方法なのであれば、専門家なんて必要ありません。

では、実際の経済はどうだったのかというと、自由放任主義で何もしなかった結果、大恐慌に突入してしまったわけです。
そんな状態に疑問をいだいたのがケインズで、『自然に身を委ねるのではなく、経済学を利用して、不景気を抜け出すために積極的に行動を起こしていくべきだ』と訴えたんです。

ケインズの経済学と現状

経済の仕組みを考え、積極的に行動を起こすことを訴え、行動の起こし方を発明したケインズですが、では、その経済学は現在でも通用するのでしょうか。
結果としては、現状の世界経済を観てみれば分かりますが、上手く機能しているとは言えません。

では何故、上手く機能していないのでしょうか
答えは簡単で、ケインズの経済学の基礎となっている哲学部分が無視されているからです。
ケインズの経済学では、多国間の貿易については深く語られることはありませんでしが、それは何故かというと、国境を超えた貿易というのは、最終的には奴隷貿易や戦争に発展してしまうからです。
貿易というのは、1つの国が黒字を出せば、相手国は赤字を出すことになります。 世界全体の赤字と黒字は全て足し合わせるとゼロになるゼロサムなので、最終的には、弱い国に負担を押し付ける結果となってしまいます。
ケインズは、その事を予測していた為に、無駄な争いを避けるため、貿易に関しては積極的には言及しなかったようです。

これは、別に貿易に限ったことではありません。
人々が、自分の利益のみを追求すると、どんな素晴らしい理論を組み立てたとしても、結局は上手くいきません。
ケインズが否定したアダム・スミスの自由放任主義も、その根底には、利益を独占するのではなく、得た利益は社会に還元することが前提となっていたわけですが、それが無視された為に、上手く機能しなくなりました。

有名な経済学者が口を揃えて主張するのは、利益の独占ではなく、社会に対しての還元が行わなければならない。
その為には、一人ひとりが経済の構造をしり、徳を高めて、社会全体の利益を考えなければならないわけですが、競争社会の資本主義社会の元では、そんな精神は鼻で笑われ、皆が他人よりも一歩先を進む事しか考えません。
結果として、企業が挙げた利益は労働者に還元されること無く、資本家や企業が貯め込む形で肥大していき、二極化が進んでいます。

ケインズが、自身が編み出した理論で本当に伝えたかったことは、その根底にある哲学だったわけですが、その部分が無視され、小手先の技術だけを参考にされた為、上手く機能しなかったのでしょう。
最近では、『哲学なんて、何の役に立つの』なんて意見も頻繁に聞くようになりましたが、そんな状態では、どんな理論を持ってしても、結局は行き詰まる様な気がしてしまいます。

『神の見えざる手』に対するカウンター ケインズとは

私は昔、株式投資をやっていた頃に、独学ではありますが、それなりに経済について勉強した時期がありました。
当時は、主に株式に寄せた勉強をしていた為、それぞれの経済学者が書いた本を読むといった事はしていなかったのですが…
先日、まんがで読破シリーズのセールが行われていて、Kindle版が1冊10円で販売されていたので、改めて読んでみたので、その内容紹介と考察を書いていきます。

ケインズとは

本名:ジョン・メイナード・ケインズ
少しでも経済を勉強したり経済系の番組などを見ていれば、一度は、目にしたり聴いたりしたことはある名前だと思います。
この方の主張を積極的に取り入れている人などを、『ケインズ主義』なんていったりもしますよね。

では、この方は、どんな主張をした事で有名になったのか。 その事を、1から10まで分かりやすく説明されているのが、先ほど紹介した本だったりします。
有名なものでは、株式投機を美人投票に例えたりして、分かりやすく説明したり…
『不況の時には、公共事業をすれば良い。事業のネタがないのであれば、穴を掘ってアナを埋めれば良い』といったものがありますよね。

様々な発言で有名になっているのですが、この方を表舞台に引っ張り出したキッカケというのは、古典経済学の否定と、新たな経済学の創設です。

古典経済学とは

古典経済学とは、その範囲も居広いのでしょうが、先程溶解した本で説明されているのは、主に、アダム・スミス国富論で主張した理論です。
おそらく最も有名な話として世に広まっているのは、『見えざる手』によって経済はバランスを保っているので、その経済に手を加える必要は無いという主張です。
自由放任主義ともいえる主張で、これが本当であれば、なんの為に経済学者が存在しているのかが理解出来ない様な理論ですが、ケインズが登場するまでは、この主張が王道でした。

では、『見えざる手』とは何なのかというのを簡単に説明してみましょう。
経済というのは、基本的には需要と供給で成り立っていて、『需要』と『供給』が合致したところで、『価格』が決まります。
商品の『価格』が安すぎれば、買いが殺到して、商品の供給が間に合わなくなる為、価格が上昇する。 価格が上昇すると、消費者の『買いたい気持ち』が減少していき、需要が減る。
価格の上昇と需要の減少が『丁度良い所』まで下がったところが、商品の適正価格という事。

つまり、商品価格というのは価格がついている時点でバランスが取れているという事になります。
この、バランスというのは全てにおいていえることで、誰かが『こんな商品が欲しい!』と思えば、そこに商機が生まれるわけだから、自ずとその商品を作る企業が生まれる。
逆に、世の中に必要ないと思われているモノやサービスは、取引が成立しない為、市場から無くなる。

経済は自然とバランスを取ろうとするものなのだから、仮に、不景気といったイレギュラーな事が有るとすれば、それは、国が余計な規制をしているせいだから、国は規制緩和を積極的にすべき。
といった感じの理論です。
民間が出来ることは民間に任せて、国は、文化を守るとか、青少年の教育。 直ぐに利益に直結しないような、科学技術の研究といった事に専念すべきだとしました。
これをそのまま実行したのが、日本でいうと小泉政権ですよね。 規制緩和をしまくって、派遣労働者を単純労働にも使える様にしましたが…

その結果、今現在はどうなったでしょうか?

世界恐慌

アダム・スミスが提唱した自由放任主義が、そのまま上手く機能していたのであれば、ケインズは新たな説など作る必要はありませんでした。
しかし実際には、ケインズが生きた時代に世界恐慌に突入してしまいます。 町は失業者で溢れ、失業率は25%まで上昇。 経済は、全くバランスを取ろうと頑張ってくれません。

そこでケインズの妻リディアは、ケインズに、こんな感じで質問します。『何故、町に失業者が溢れているの? 景気は良くなるの?』
ケインズは、そのリディアの問いに対し、『経済学上は、失業者なんか1人も居ないよ。』と答えます。
町に失業者が溢れているはずなのに、経済学上は1人も失業者が居ないとはどういうことなのでしょうか。
当時の失業者の定義では、『働きたくないと思っている人』と『別の職場に移るから、今仕事をやめている人』の2種類しか無いとされていて、そのどちらも『自己責任による失業』である為、失業で困っている人間などは居ないというのが、経済学での常識だったようです。
しかし、実際の町には、『働きたいけれども、職がない』という人達が溢れている…

学問としての経済学と、実際の経済とがあまりに乖離し過ぎていた為、今までの理論を一旦捨てて、新たに理論を構築し直さなければなりませんでした。

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古典経済学とケインズの主張の違い

古典経済学で重要視されていたのは、供給サイドの話でした。 
当時の考え方としては、モノを生産すればする程に、価値有るものが創造されるわけだから、企業はただ、生産性の上昇のみを追い求めていれば良いという考え方でした。

ただ、生産性を向上させて物を大量に生産すると、実際には大量の売れ残りが出てきます。 その売れ残りを捨てると、生み出した価値が無意味なものになる為、企業は値下げによって対応します。
価値の有るものを値下げするわけですから、その値下げに応じて需要が生まれ、企業は商品を売り切ることが出来、わずかならが、利益が出る。その利益を、さらなる生産性の上昇のために再投資し、売れ残れば値下げして…
という事を繰り返していきます。 すると、市場の全体い的な物価が下がっていくので、労働者の実質賃金は上昇することになります。 つまり、モノ全体が安くなっているので、相対的に観て、給料が高くなっているという事。
不況になると、実質賃金が上昇する事になるので、労働者の賃金をその分カットすれば、企業の採算は悪化しない。

それに対してケインズの主張は、需要サイドを中心に考えるという主張です。
企業がどれだけ生産性を上げてモノを生産したとしても、値下げを行ったとしても、人は要らない物まで買おうとは思いません。
家庭に必要な冷蔵庫の数は、1個。広い家だとしても、2個もあれば十分で、いくら値下げされたとしても、それ以上、買おうとは思いません。

また、不況によって実質賃金が上昇し、その上昇分をカットした場合、労働者の実質の手取りは同じだけれども、名目上の賃金は減少していることになり、労働者の不安を煽ることになる。
労働者はそのまま消費者となる為、消費者が経済状態に不安を持つと、財布の紐は固くなり、結果として、消費はより抑制されてしまい、ものが売れなくなる。
後は、デフレスパイラルの循環によって、景気はどんどん悪くなり、失業者が街にあふれてしまうという事です。

アダム・スミスの理論によれば、放っておけば経済はバランスを取るはずなのに、実際の経済では、そうはなっていない。
その机上の理論と実体経済とのミスマッチを埋める形で新たに生み出したのが、ケインズの経済理論だったようです。

結構長くなってきましたので、具体的な話については、また次回にすることにします。
kimniy8.hatenablog.com

資本主義と、お金と愛情

先日、マルクスが書いた『共産党宣言』を読みました。
kimniy8.hatenablog.com
その際、最後に書かれていた部分で、かなり共感できる部分が会ったので、今回は、その部分だけに焦点を当てて考えていこうと思います。

最初に注意として書いた置きますが、『共産』という言葉にアレルギーがあり、こういう言葉を聞くとすぐに、『ソビエトで失敗してるのにw』とかいう方は、社会主義共産主義を勘違いしていますので、一度、共産党宣言を読むことをお勧めします。
社会主義は、資本家の代わりに国が搾取するという構造で、『共産党宣言』の中でも否定されている考え方ですので、お間違えないようにお願い致します。


どの部分に共感をしたのか

『個人が個人を搾取することがなくなれば…
それに応じて、国民による搾取も無くなってゆき

国民内部の階級対立がなくなれば…
諸国民同士の敵対関係もまた 無くなってゆく

そして家族にも、金銭的な打算的キズナでなく、愛が取り戻される』

この文章の全般に共感したのですが、特に共感できた部分が、最後の一文です。
どういう事かを一言で言うと、資本主義の世の中では、愛情というものが欣然的な打算的キズナに劣化してしまい、本当の意味での愛情を育む事ができないという事です。

金銭的な打算的キズナ

資本主義というのは、言い換えれば、お金を稼ぐ為の競争社会のことです。では、その競争は平等に行われるのかというと、そうではありません。
資本を持つものと持たないもので、最初からスタートラインが違うのは勿論ですが、スタート後に引かれている道も違います。

金持ちの子供は、持って生まれた資本によって道が整備されているだけでなく、父親やその上の代から受け継いできた人脈といった人間関係という強い追い風が吹いている状態です。
一方で貧乏人は、資本がない為に、最初は絶対に搾取対象の労働者にならなければなりませんし、人脈なども当然ありません。
それどころか、家が貧乏だと学校にも通えなかったりする為、低学歴といった烙印も押され、マイナスからのスタートとなります。

マルクスが生きた時代は、現状の私達よりも搾取がキツイ時代だった為、夫だけでなく、妻も、そして子供も働かなくては暮らしていけない程の搾取っぷりで、そこまでの搾取をしている分、資本家たちは裕福な暮らしをしていました。
この様な状況では、貧乏人にとっての家族は、最低限の生活を維持する為に必要な、金を稼ぐコマと成り果ててしまいます。
夫は肉体労働で体を酷使し、妻は、働くだけでなく、資本家が求めれば体も売る。 子供も、学校などには行かせてもらえずに、下働きをさせられる…

生きていくだけで精一杯の状態では、金銭的にも精神的にも余裕はなくなり、家族に愛情を注ぐ事もできなくなる。

では、金を持つ資本家はどうなのでしょうか。
資本家にとっての子供は、自分の財産を次の世代につなげる為の手段となる為、幼い頃から、その資産を継ぐのに相応しい人間へと教育させられます。
『子供が本当になりたいもの』『やりたいこと』なんてのは二の次三の次で、第々受け継いだ資産を、最低でも維持、出来るなら増やして、次の世代に託す事のみを望まれて育てられます。

人間関係も限定され、財産を増やす為に必要な人材を紹介されて、付き合うことになる。
結婚も同様で、資産をより増やすために必要な人脈作りの一環として行われ、全てが道具で、家族を繋げるものは、金銭的な打算的キズナだけとなる。

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資本主義と愛情

つまり、資本主義社会に置いては、労働者も資本家も、真実の愛というものが何か、わからなくなってしまうという事です。
資本家にとっては、自分の財産を全て譲り渡すことが、最大の愛情なのだと思いこんでいるのかもしれませんが、それは本当に、真実の愛なのでしょうか。

貧困にあえぐ労働者階級は、最低限の生活を行うための金銭を稼ぐだけで、日々の生活は終わっていきます。
その様な疲れ果てた家庭では、相手を思いやるといった精神的な余裕もなくなり、些細な事で揉めてしまうという事も、頻繁に起こるでしょう。

では、『子供だけには、こんな思いはさせたくない』と、勉強や習い事を強制させる行為は良い行動なのかというと、そうでもない。
確かに、全ての金銭を子供の注ぎ込む事で、子供が労働者階級から抜け出る可能性はあるかもしれませんが、それは結局の所、資本家が我が子に対して行っている事と同じで、金銭的な打算的キズナでしかありません。

『お金を稼がなければならない』
『稼いだお金は維持しなければならない』
これらの事が強制される資本主義の世の中では、人々の行動は『お金を稼ぐ』という一点において強制される為、そこに発生するのは純粋な愛情では無く、金銭を得る手段という皮を被ったものとなる。

現代における金銭と愛情

先程書いた事は、マルクスが生きていたような搾取がキツイ状態だから成り立っていた事で、現状では大丈夫と思ってはいないでしょうか。
少し考えてみれば分かりますが、この状態は、搾取の度合いによって起こっているわけではなく、全ての価値がお金に換算される資本主義だから起こっている事なので、当然のように、現在でも起こっています。

例えば、最近では『婚活』という言葉が定着していましたが、婚活パーティーやアプリ、なんでも良いのですが、何故、『年収』を書く欄が有るのでしょうか。
システムによっては、年収で足切りを決めていて、年収◯◯以上じゃないと参加できない。もしくは、それ以下を非表示にする機能なんかが付いていたりしますが、何故、そんな機能が付いているのでしょうか。
これは簡単に言えば、人間性を金に換算できると思い込んでいる人が多いから、そういう機能を便利だと思うし、付いていても不思議とは思わないんでしょう。

低学歴と高学歴、どちらがモテるのかといえば、高学歴が持てますが、何故、高学歴がモテるのでしょうか?
高学歴の方が、高い年収を稼ぐ可能性が高いから、モテるんですよね。 仮に、東大卒の借金数千万円のホームレスがいたとして、その人はモテるのでしょうか?
医者・弁護士といった人がモテるのは、何故でしょうか? 困っている人を助けるような職についているから、人間的に優れていると思う人が多いから、モテるのでしょうか? それとも、年収が高いからでしょうか?

子供が生まれた際に、良い保育園や学校に入れたいと思うのは、何故でしょうか? そうすることで愛情が注げるからでしょうか? それとも、そうする事で高い年収が得られるからでしょうか?

人間関係と金

これは、家族といった間柄だけの話ではありません。
例えば私は、独りで呑みに行く事があり、10年以上に渡り、月に数回は呑みに行くという生活をしています。
月に数回なので、それ程、回数が多いというわけではありませんが、10年以上も続けていると、馴染みの店も出来ますし、そこで人間関係なども生まれたりもします。

ですが、例えば、店を経営している人と、本当の意味での人間関係が築けているのかというと、それはわかりません。
というのも、私は、特定の店に行って『お金を払って注文する』という行為を行っているわけです。 私の行動は、店側にとっては利益に直結する問題なので、そこで純粋な人間関係が築けていると思うのは、純粋過ぎるでしょう。

向こう側からすれば、私の機嫌を損ねると、売上が減る可能性があるわけですから、気分を害する用な事は極力言わないように気をつけるでしょう。
しかし、そんな関係が、本来の意味での人間関係なのでしょうか? 本来の人間関係であれば、私が傷つくような事で有っても、言わなければならない事も有るでしょう。
ですが、それが『営業』であるならば、そんな事は言わないでしょう。
こういう事は、一度、疑い出すとキリが無くなります。例えば、店側の人が、私と本当に人間関係を築きたいと思っていたとして、店が休みの日に、私を遊びに誘ったりしたとします。
ですが、そういった『営業』も有ります。 私はいった事がありませんが、キャバクラなどは、同伴やアフター、休日を使った『営業』を積極的に行っているわけで、ショットバーでそれがないとも言い切れない。

結局の所、疑おうと思えばいくらでも疑えるわけで、その真相は、相手が店をやめて、利害関係が無くなったとしても人間関係が切れていないという事実を持ってしかわかりません。

こういう意味合いでいうと、社会人になってからの交友関係というのは、『利害関係がない』事が重要になっていたりします。
『利害県警がなく、その人物と一緒にいても、金銭的なメリットがない。 けれども、一緒にいたいと思うから、その人の事を大切に思っているのだろう。』という事です。
ただこれも、資本主義的な人間関係に対するカウンターとしての考え方に過ぎないわけで、本来の意味で縛られない考え方をしようと思うのであれば、資本主義からの呪縛から開放されない限りは無理なんでしょう。

絆・愛情・信頼関係。
私は、幸福というものがどういうものかというのが、まだ、わかりませんが、幸福という状態になる為には、先程、挙げた3つは、欠かせないものだと思っています。
しかし、それすらも金銭に置き換えて考えてしまうというのは、『幸福』というものから、どんどんと遠ざかっているような気がしてならないんですよね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第38回 神話の時代 (1) 後編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

現実世界に影響を与え始める『神』

神話そのものがメインになり、現実世界にも登場人物を祀る神殿などが作られるようになっていきます。
神殿が作られて、そこに聖地巡礼をしに来る観光客などが訪れるようになると、大都市と聖地を結ぶ道に飲食店や土産物店などが出来るようになって、経済的にも潤うようになってくる事もあるでしょう。
経済的に利益が得られるのであれば、辺鄙な場所にある地域なんかは、観光客を誘致するために、自分達の地域ゆかりの登場人物を神話に登場させて、観光収入を得ようと頑張る地域も出てくるでしょう。

また、神話は経済面だけでなく、人々のコミュニケーションも円滑にします。
今の私達もそうですが、日々、顔を合わすだけで、特に繋がりのない人間であったり、繋がりはあってコミュニケーションを取りたいけれども、何を話して良いのかわからないと言ったことはよくありますよね。
でも、そういった際でも、共通の話題があれば、話しかける際のハードルは一気に下がったりしますよね。

神話を共同体全体で共有するということは、共同体の中で価値観を共有するのに役立ちますし、コミュニケーションを円滑に進める為にも効率的です。

古代に生み出された神々を現代に置き換えると?

この神話の成り立ちがピンとこない場合は、この出来事を現代の出来事に当て嵌めてみると分かりやすいかもしれません。
例えば、数年前に『ゆるキャラブーム』というものがありましたが、あの時は、いろんな自治体がキャラクターを一斉に作って、地域を盛り上げようとしましたよね。

地域の宣伝としては、アニメなんかも貢献していたりします。
特定の地域を舞台としたアニメ作品が公開されると、そのアニメの舞台を聖地として、聖地巡礼などがファンの間で行われます。
名シーンに使われた場所などを特定し、その場所に行って同じ様なシチュエーションで写真を撮ったりといった行動を行う人達も少なからず存在します。
そういう人たちが増えていけば、一時的には、その地域の経済も潤うこともあるでしょう。

現代の神話

そして、2018年の今、現在進行形で作られている、世界レベルで有名な神話といえば、マーベル・シネマティック・ユニバースでしょう。
アイアンマンから始まったシリーズは、その後、新たに誕生した数々のヒーローが登場するようになり、アベンジャーズシリーズではそれぞれのヒーローが共演します。
ここで描かれる物語は、単純な勧善懲悪のストーリーではなく、それぞれの立場の違う人達に寄り添った物語となっています。

最初のアイアンマンこそ、事業家として成功したチョイ悪オヤジが、自分のやってきた事を反省することで、正義に目覚めたヒーローになるという分かりやすいストーリーとなっていますが…
それ以降、ストーリーが派生してきて新たに登場するキャラクターたちは、アイアンマンとは別の正義を掲げて戦っていたりします。
そして、それぞれの観点の元に出来上がった価値観が衝突したりもします。

マーベル・シネマティック・ユニバースに登場するキャラクターは、敵も味方も含めて、神話に登場する神レベルの能力を持っているので…
そんなキャラクター達が、全力を出してそれぞれの正義の元に戦うわけですから、無力な人類は、ただただ、逃げ惑うことしか出来ません。
この構成というのは、自然災害を巻き起こす神々から逃れることしか出来なかった人々を描いた、昔に生み出された神話そのものですよね。

強大な力を持ったキャラクターが大量に生み出されて、そのキャラクターはそれぞれの信じる正義を遂行する為に行動します。
映画を見た人たちは、純粋な人であっても、捻くれた人であっても、サイコパスだったとしても、登場人物の誰かに感情移入できるように作られています。
映画の中で取り上げられる問題は、世の中で実際に起こりそうな問題を、より派手に、ドラマティックにした内容で、その問題に対して、それぞれの正義を持つキャラクターが、自分の信念の元に行動をしていく。

この様な、映画の中で語られる神話の物語を共有している人の間では、会話をする際のハードルがかなり引き下げられますよね。
だって、合計で数十時間を超えるような時間を一つのシリーズに注ぎ込んでいる者同士なわけですから、その作品を観た感想を語り合うだけで、一気に打ち解けることが出来ます。
また、その登場人物の誰を支持するのかによって、その人の性格を短時間で深く知る事も可能になります。

これは、古代ギリシャで生み出された神話にも当てはまります。
星座から派生して生み出された神々というキャラクターは、ナイルの反乱や山火事、噴火など、人には不可能な天変地異を起こすことが可能だったりします。
神々には、それぞれに生い立ちがあって、それぞれの観点からみた正義を持っていて、そのように振る舞います。

これは、マーベル・シネマティック・ユニバースの構造と同じですよね。
また、神話という物語が発明されて、それが発展していって膨張していくと、神話を発展させる為のキャラ付けというのも生まれてきます。
ギリシャ神話でゼウスという最高神がやたらと浮気をして子供を作りまくるというキャラクターだったりするんですが、これも、物語としてのキャラ付けだったんでしょう。

膨張していく神話

既にある程度完成している神話に、新キャラを生み出して加えようと思うと、単独でいきなり出すよりも、何らかの有名キャラクターと紐づけて出す方が覚えてもらいやすいです。
有名なキャラクターであればある程、覚えてもらいやすくなる為、一番有名なゼウスの親族として登場させるという方法が多用されたんでしょう。
そして、それを正当化するように、ゼウスの性格も、そこら中で子供を作るキャラクターへと変貌していったんでしょう。

夫が浮気ばかりをすると、妻の性格もいじらざるを得なくなります。
物語というのは感情移入出来なければ面白さは半減してしまいますから、浮気をしまくるゼウスの妻のヘラは、嫉妬深いキャラクター像へと固定されていきます。
浮気グセがあるゼウスとヘラとの喧嘩は、現実世界で起こりうる何らかの不幸とリンクされて、神話というのは、より、具体性を増していき、物語として膨らんでいったのでしょう

これは、現代の神話であるマーベル・シネマティック・ユニバースでも同じですよね。
例えば、スパイダーマンですが、スパイダーマンは単体でも有名なキャラクターですが、改めて、マーベル・シネマティック・ユニバースという神話に組み込もうと思うと、何らかのキャラクターと紐付けなければ孤立してしまいます。
結果としてMCUでは、アイアンマンがスポンサーになって、アベンジャーズ内での父親の代わりをアイアンマンが演じることで、スパイダーマンが神話の中に自然と溶け込めるような環境が作られています。

神話は現実を取り込み リアリティーを増していく

また、世界大戦等の大きな事件も、その影にはヒーローに匹敵するような力を持ったヴィランが暗躍していたりしますし、そのヴィランとヒーローが対峙して対話することで、物語や現実の歴史が進んでくように描かれています。
今の時代は、この様なエンターテイメントがそのまま神話として定着することもないでしょうし、世界大戦の裏側にはヴィランが居たなんて本気で信じる人もあまり居ないとは思いますけれども…
今のように印刷技術も録画技術も無く、情報の伝達手段も限られている古代では、このようにして作られていった神話が、人の口によって伝えられて受け継がれていくことで、一般層を中心に信じられて、信仰対象になる事は十分考えられますよね。

まとめると、人は自然界で様々なものを観た際に、パターン認識によって、自然界に一定の法則を見出して、その知識を蓄積していきました。
そして、膨大な量に膨れ上がった情報を覚える為に、物語を作っていったということなんでしょう。

今回、語った神話の成り立ちについては、調べたり勉強した事を元にして、私の推測をかなり加えて話したものですが、古代には、多くの部族があって、その部族ごとに神話が有ったわけで、全ての神話がこの様にして生まれたわけではないでしょう。
ただ、大本を辿ると、人が持つパターン認識によって、現実世界の法則に物語が付け加えられることで、生まれていったんだと思います。
次回以降では、このようにして生まれた神話から、どのようにして哲学的な思想が生まれていったのかについて考えていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】 第38回 神話の時代 (1) 前編

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回はこちら
kimniy8.hatenablog.com

注意点

前回までで、長く続いてきたヒッピー回が終了しましたので、今回から、新しいテーマに移っていこうと思います。
今回から取り扱うテーマは、もう一度基本に戻って、『ギリシャ哲学』を最初から勉強していこうと思います。

最初に言っておきますと、このコンテンツ全体について言えることなのですが、このコンテンツは、私自身が勉強して理解した範囲の事を話しているに過ぎません。
現在進行系で勉強しながらのコンテンツ制作なので、読んでいない本も知らない情報も多く、中には、私自身が誤解して理解していることも多数あると思います。
もし気になった点や、興味のある部分が見つかった際は、自分自身で情報を集めて勉強することをおすすめします。

話を戻しますと、このコンテンツでは、第2回からギリシャ哲学のソクラテスプラトンアリストテレスをテーマに取り上げましたが、その時は、もの凄く簡単にしか触れていませんでした。
その理由としましては、このコンテンツの立ち上げ当初は、文字で書いていたブログの延長としてやって行くつもりだったというのが大きいです。
文字で書くだけだと伝わらないようなニュアンスを、音声で読み上げることで伝えようとして始めたので、テーマも哲学や思想に関わるものだけではなく、日々思った事を話すようなコンテンツを想定して立ち上げたのですが…

アリストテレスをテーマに取り上げたくらいからですかね。
アリストテレスの主張を簡単に伝えることは難しいなと思い始めて、もっと詳しく丁寧に説明しようと思い、哲学や思想に限定したコンテンツに方向転換したんです。
その為、それ以前のソクラテスプラトンについては、本当に簡単に触れただけ…
というより、私自身が勉強不足で知らない事が多過ぎた為に、簡単にしか紹介できませんでした。

今回からの回は、その部分について、私自身も改めて勉強しながら、作り直していく回となります。
という事で今回は、哲学の祖とも呼ばれているソクラテス以前の話からしていこうと思います。

このコンテンツの第2回では、元々は世界のあり方は、神様が登場する神話などで説明していたという話をしました。
元々は小さな人々の集団が、それぞれの文化の中で神話を作り出していく。そして、時間の経過と共に共同体の人数が大きくなっていって、人が住む土地の広さが拡大していく。
そこら中に点在していた小さな集団が、同じように住む地域を拡大していくことで、違った神話を持つもの同士がふれあって、そこで違った価値観に出会う事で、相対主義が生まれたという話をしたんですが…

まず、その話は一旦、忘れてください。
完全に間違った話といったわけでは無いと思いますが、全体の話を大雑把に理解する為の話になるので、一旦忘れて、まっさらな気持ちで聴いてください。

神という概念は最初から有ったのだろうか

前に説明した際には、物事を神話によって説明していたと言いましたが、果たして本当にそうなのかという事について考えていきます。
人間が意識を持って、自分自身の頭で考えるという行動を取れるようになって、一番最初に考え出すことって、神様の存在なんでしょうか?

私達のように、現代に生まれてきた人間は、小さな頃から『神様』という存在について、親から教えられます。
これは、神様や仏様、お天道さま、なんでも良いのですが、躾の一環として、悪いことをした際などに、同じことを繰り返さないようにと、人間以外の上位の存在から『罰が当てられる』と刷り込まれます。
こうして育った人間が、何らかの超常的な現象を目にしたときや、奇跡のような事が重なった際に、『神』といった概念が頭を過る事は不思議でもなんでもないのですが…

なんの刷り込みもなく、前提とした知識もなく、ただ、大自然の前に放り出された、意識を持った人間が、目の前に起こっていることを理解する為に、神といった存在を持ち出すのでしょうか?
おそらく、持ち出さないでしょう。 仮に、いきなり神という存在を定義して、その神を中心とした神話を作り出せる人間がいたとしたら、その人間は、かなりの天才でしょう。

大部分の普通の人間は、太陽が登ってくるのを目にして『神が最初に『光りあれ!』と言ったから太陽が出来て、その後6日間で世界を作り上げた!』なんて思いません。
普通に、眩しい存在が定期的に光を照らすとしか思いません。
山火事などが起こって火を目撃したとしても、『火の神が!』なんて思わずに、単純に熱いと思うでしょうし、『夜でも明るいな』とか『熱いな』としか思わないでしょう。

『神』という存在は、その存在そのものが一種の発明で、その発明品である『神』という概念が無かった原始の世界では、あるがままをそのまま受け入れるという事しか行われていなかったと考えるのが自然でしょう。
つまり、あるがままをそのまま観察して、経験として蓄積していく、今で言う科学的な態度が最初に生まれたと考える方が自然という事です。

自然の観察とパターン認識

太陽と呼ばれる、光り輝く丸い物体が一定期間ごとに登る事で、昼という状態が生まれる。
それが沈んで暗くなると、その変わりに、月や星々と言った別の物体が夜空に浮かび上がる。
適当に散りばめられていると思いこんでいた星々は、よくよく観察すると、その配置は毎回同じもので、時間と共に場所を移動していく。

人が持つパターン認識によって、大自然の中に法則性を見つけ出していくという事が最初に行われ、その知識は時間の経過とともに蓄えられていったんでしょう。
知識というのは、ある一定以上の蓄積によって、演繹的に発展していきます。
演繹的とは、推測の様なものと捉えても良いと思います。
例えば数学の場合、足し算・引き算・掛け算・割り算を覚えると、頭の良い人であれば、そこから考えを応用して発展させて、方程式という概念を生み出せます。

このようにして、最初は周りの環境を観察して、パターン認識によって法則性を見出して、その情報を蓄積して応用して発展させていったんでしょう。
ちなみに、この科学という言葉ですが、昔は哲学と呼ばれていました。 哲学は『考える事』全般を指す言葉だったので、全ての学問は哲学と呼ばれていたようです。

データの蓄積と その応用

この様な行動が行われることで、古代エジプトでは、天体の動きから暦を発明して、ナイル川の反乱を予測する事に使われるようになりました。
また、ナイル川が反乱することで周囲の田畑が水浸しになり、土地の境界線も消えてしまう為に、土地の大きさを正確に測る計算方法も開発されます。
古代ギリシャ人は、古代エジプト人の平面の計測方法を学んでギリシャに持ち帰り、それを応用する事で、四角形以外の面積も測れることを発見したようです。

この計算方法の応用・発展によってギリシャの数学は飛躍的に進歩したようです。
ただ、この説明では、神話の誕生を説明できません。最初から、哲学や科学だけが存在していたということになります。
では、神という存在や神話は、どのようにして生まれたのでしょか。

生み出される神という概念

これは私自身の推測も多く含まれますが、哲学の始まりと同じように、パターン認識によって生み出されて発展した、一つの発明だったんだと思います。
先程も言いましたが、夜空に輝く星々の配置というのは決まっていて、それを覚える事で、季節や方角と言った情報を知ることが出来ます。
これをパターン認識によって法則化したものが占星術、そして天文学の起源なんでしょうけれども、無数にある星の配置をそのまま覚える事って、かなり難しいですよね。

では、人は、法則性がなく羅列するものを覚える場合は、どうするでしょう。
元素記号でも、ルートの計算でも、歴史の年号でもそうですが、何のつながりもない記号や数字を覚える場合は、単純に丸暗記するよりも、語呂合わせ等によって一つのストーリーにしてしまう方が覚えやすいです。
Hの後にHe、Hが水素で、次がヘリウムと覚えて行くよりも、『すいへーりーべーぼくのふね』と覚える方が楽ですし、順番も間違いにくいですよね。

星座の場合も同じで、単純に星の配置を丸暗記するというのは効率も悪いし、間違いも起こりやすい。
それよりも、数個の星を1グループにして、それぞれのグループに絵を当てはめていく事で星座にして、その星座を役者に見立てて物語を展開させれば、物語を覚えるだけで、星の配置を覚えられる上に、間違いが起こりにくいですよね。
こうして生み出された物語には、当然のように、パターン認識によって蓄えられた現実世界で起こる法則も、組み込まれていったんでしょう。
例えば、特定の星座が特定の位置に来る頃にナイル川が反乱するので、その星や星座の行動と、ナイル川の反乱と結びつけようといった具合にですね。
ナイル川の反乱という現実世界の出来事を物語に投影するわけですから、その星座が持つ役者としての性格も、そのように設定されて作られていきます。

こうして作られた物語は、印刷技術がまだない古代では、演劇などを通して、一般に娯楽として提供されて居たのでしょうし、親が子に語り継ぐなどして、代々と受け継がれていったんでしょう。
そして、代を重ねるごとに、科学や学問としての要素が徐々に削ぎ落とされていって、物語そのものに焦点が当たるようになり、最終的には神話として語り継がれていったんだと思います。
このようにして、一度、神話という概念が生まれると、科学と同じように、応用されて発展していきます。
(つづく)
kimniy8.hatenablog.com

【ゲーム ネタバレ感想・考察】 HEAVY RAIN ~心の軋むとき

この投稿は、ゲーム『ヘビーレイン』をプレイしてのネタバレ感想です。

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まだプレイしておられない方は、注意してください。

物語の始まり

ゲームが始まると、優男風のイケメン、イーサンの操作を迫られることになる。
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最初ということで、チュートリアル的なものも含んでいるんでしょう。
髭をそったりシャーワーを浴びたりと言った事をさせられ、その後、自宅の仕事場に向かって仕事を済ませる。
しばらくすると、妻や子供が2人の子供と一緒に帰ってくる。 妻の家事の手伝いをしつつ、子供と遊んで…といった感じで、絵に描いたような幸せ家族を体験。

これを書いている私は、まだ、結婚はしていませんが、こういう映像を見せられると、『結婚も良さそうだな…』と、つい、思ってしまう。

その後、日を改めて、家族はショッピングモールに出かける。
妻が兄弟の片方と用事を済ませている間、旦那はもう片方の面倒を見る事になるが、遊びたいざかりの子供なのか、まぁ、親の言うことを聞かない。
そして、『風船が欲しい』なんて言い出すので、仕方なく購入してお金を払っていると、風船を手にした我が子が狂喜乱舞して、何処かに走り去ってしまう…
こういうのを観ると、『やっぱり、子供とかいいか・・・』と思ってしまう。

見事に子供を見失ったイーサンは、必死になって子供を探すが、なかなか見つからない。
先程買った風船を目印に必死に探すと、ショッピングモールを出て道路の方に向かっている。
急いで追いかけて声をかけると、子供が周りを見ずに道路に飛び出すものだから、見事に轢かれてお亡くなりに…

幸せだった夫婦は絶望のどん底に突き落とされて、この事がキッカケで離婚。
『やっぱ、結婚も止めといたほうが良いのかな・・・』なんて事が頭をよぎる。

独身生活

このゲーム、まぁ、よく雨が降る。
ヘビーレインなんて名前なので、常に雨を降らしているのか、それとも、主人公たちの真理を天候で表しているのかはわかりませんが、とにかく、よく雨が降る。

そんな中、イーサンはというと、子供が死んだ事で妻と分かれ、もう一人の子供は心を閉ざし、自分は仕事も手につかずにPTSDを抱えている状態。
まぁ、最愛の子供が亡くなったんだから、そうなるのも仕方がないですよね。

離婚してからは、子供は定期的に父親と母親のところに交互に泊まりに行くという生活をしている模様。
そして旦那のもとに子供が泊まりに来る番が来たらしく、子供を迎えに行って世話をする主人公。 でも、子供は全くしゃべらない。まぁ、目の前で兄弟を亡くしているので、そうなっても仕方のない事なのかもしれない。
そんな状態に痺れを切らしたのか、子供に『公園に行こう』と言って2人で遊びに行く。
一通り遊具で遊んだ後、子供がメリーゴーランドに乗りたいというので、お金を払いに行く主人公。

アメリカの公園て、メリーゴーランドとか有るのね。 日本だと、ボール遊びしただけで怒られるため、公園は黙って座っている場所になってるのに、アメリカは凄いですね

公園にあるからといって、ただで乗れるわけもなく、お金を払いに行くと、そこで主人公の記憶が飛び、誰もいない道路に経っている。
そして、手には、折り紙が握られている。。
何がなんだか分からずに、取り敢えず子供を探すために公園に向かうも、子供の姿はない。これで、イーサンが子供を見失うのは2度目です。
私自身は、結婚もしておらず子供もいないので、我が子を目の前で亡くすという経験をした事がないのでわかりませんが、この演出は、若干、納得がいかない。

折り紙殺人

どうやら、このゲーム内では、折り紙殺人という名の連続殺人事件が起こっているようです。
手口としては、まず、子供が拉致されて、その後、数日で、子供が溺死体で見つかるというもの。
拉致された家族のもとに折り紙が送られるという事で、折り紙殺人と名付けられた事件は、犯人がまだ捕まっておらず、今回のケースも、折り紙殺人なんじゃないかという疑いを主人公が持つ。

2人目の主人公 私立探偵 スコット

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主人公が、我が子を拉致されている一方で、もう一人の主人公である私立探偵のスコットも動き出す。
折り紙殺人事件の遺族に頼まれたという事で、折り紙殺人の手がかりを探すという役割を担っていると思われるスコットは、とにかく、遺族の元に行きまくって情報をかき集める。

とはいっても、被害者家族は家族を殺されている上に、警察の操作も中途半端で犯人も見つからず、その上、犯人が見つかったとしても自分の子供が戻ってくるわけではないということで、操作には協力的ではないが、信頼関係を築きつつ、一生懸命に証拠集めをする。
途中で、聞き込みにで合った被害者遺族の1人の女声とパートナーを組んだりしつつも、捜査はかなり進み、金持ちのボンボンが怪しいという所まで突き止める。
外見がそんなに良いわけでもないスコットなのに、紳士的な態度と、警察も突き止められなかった所まで操作を進めたことで、パートナーの女性もスコットにべた惚れ状態に。

3人目の主人公 FBI捜査官 ノーマン

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私立探偵のスコットが、事件の真相をドンドンと解いていってくれているのに、この役割は必要なのか?と思わせてくれる警察サイドの人物が3人目の主人公ノーマン。
一緒に組む事になった市警察の相棒は、犯人らしき人間を捕まえると拷問にかけてしまうようなダメ人間なのに、警察署長はそいつの方を持つというダメっぷり。
そんな気の荒い相棒なので、とにかく、いたるところでトラブルを起こし続ける。

でも、捜査は進み、イーサンが怪しいんじゃないのかという事になる。
というのも、被害者の旦那は、1人目の子供を眼の前で亡くしてしまった事で、心を病み、カウンセリングに通っている様な精神状態だったからです。
カウンセラーの話によると、子供が溺死する夢に苦しめられているといった感じの相談を受けていたようで、警察も容疑者として扱うようになります。

そういえば、子供がいなくなった時、主人公は何故か、誰もいない道路に立っていて、手に、折り紙を握っていましたよね。自分で拉致して、自分で折り紙を追ったと感が得れば、辻褄は合う。
ここまでで、容疑者は2人。 一人は、金持ちのボンボンで、もうひとりは被害者家族の旦那。
この時点で、プレイしている私も、『やったのは、イーサンじゃないのか?』なんて思わせていましたし、シナリオとしては、かなり、上手く出来ている感じで感心しました。

4人目の主人公 ジャーナリスト マディソン

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ここで、全く関係がなさそうな、女性のジャーナリストのマディソンが主人公になります。
不眠症に悩まされていて、定期的にモーテルに行くなどして環境を変えないと寝れないという事で、モーテルに行くと、1人目の主人公が傷だらけで立っているのを目撃。
何で傷だらけなのかというと、子供が拉致された直後に、郵送で数個の折り紙が送られてきたからです。
その折り紙を解いて紙に戻すと、そこに、『高速道路を逆走しろ』とか『指を切り落とせ』といった感じの司令が入っていて、それをクリアーすると、今現在の子供の様子が記録された動画と、暗号的な数字が報酬として得られるからです。

イーサンは、その司令をクリアーする度に傷だらけになっていたというわけです。
その様子を見たマディソンは、警察に通報することもなく、献身的に介護をする。 何かは分からないけれども、命をかけて一生懸命になっているイーサンに行為を持った様子。
その後も、イーサンが危険に陥ると助けに来てくれるマディソン。 ジャーナリストのスキルを生かして、自身も独自で操作をするマディソン。
これで、操作をする人が3人になってしまいましたよ。

意外な結末

3人がそれぞれ操作をする事で、徐々に、事件の全体像が見えてくる。
折り紙殺人の犯人は、どうやら、子供の頃に兄弟を失っているようで、その原因に、自身の父親が絡んでいるということが分かってきました。

雨の日に、2人の子供が工事現場で遊んでいたところ、一人の子供が足を滑らせて、溝に落ちてしまった。その時、うまい具合に底の方に足が挟まったので、自力での脱出は不可能。
雨によってその溝に雨水が大量に集まってきて、このままだと数分で溺れ死ぬ。 唯一助かる道は、近くにいる父親に頼んで、助けてもらう事。

子供は、急いで父親のもとに行くが、父親にとっては母親の連れ子で、愛情も特にない為、助けること無く酒を飲み続ける始末。
結果として、兄弟は溺死。 この悲惨な経験を、他の人間にも味わって欲しい。 そして、自分とは違って、子供のために命をかけて助けにくる父親がいるのかを確認したい。
そんな思いから、子供を拉致しては、折り紙に無理難題を書き、父親に送るという行為をしていたのが、犯人の動機だったんです。

決着

その兄弟の母親が生きているという事を掴んだマディソンは、母親に面会に。
認知症の進んだ母親に、キッカケとなるような情報を与えて、何とか記憶を掘り起こし、生き残った子供の名前を聞くマディソン。

そこで語られた、生き残った方の子供、そして、折り紙殺人の犯人の名前は…



スコット



マジか!!
あれだけ、一生懸命、事件に真摯に向かい合っていたスコットが犯人。
そうか、スコットが必死になって事件の証拠を集めていたのは、証拠隠滅の為…

これはね、完全にやられてしまいましたわ。
劇中で、スコットって一番いいやつだと思って操作してたし、その様な選択肢を選んでいたのに、こいつが犯人かよと…
でも、それじゃぁ、メリーゴーランドの支払い後に記憶をなくしたイーサンに、折り紙を握らせたのもスコット? 記憶をなくしているかどうかは、他人から見てわからないものだと思うけど、自分が犯人だとバレる危険を犯してまで、折り紙を握らせたかったの?

まぁ、イーサンのくだりは、プレイヤーにミスリードさせる為の演出だったのかもしれないですが、リアリティーに欠けるような気がしないでもない。
後、マディソンがイーサンに簡単に感情移入するのも、意味が分からない。
マディソン パートでは、最初に複数人の男性に襲われる夢を見るというところから始まるんですが、それの意味も分からない。。

この辺りの保管は、DLCでやるつもりだったらしいのですが、ソニーともめて、DLCがなかったコトにされている為、色々と意味不明な点も多かったですが、物語としては楽しめました。
このゲームはマルチエンディングなので、私がたどり着いたエンディングはその中の1つだけで、今回はその事について書いてみましたが、他のエンディングが気になる方は、実際にプレイしてみると良いと思います。

米中貿易戦争 一番困るのはアメリカ人?

今日は、ここ最近、経済界隈で話題になり、また、おさまるどころか白熱してきた貿易戦争について、考えていこうと思います。
事の発端としては、アメリカ大統領のトランプが、貿易赤字が嫌だと言って、アメリカと貿易をして利益が出ている国に対して文句を言い出したことが始まりです。

何故、グローバル化に反するような事を、いまさら言い出したのかというと、トランプ支持者が、白人の貧困層という事が大きく関係しているのでしょう。
アメリカといえば、ITに代表されるような頭脳労働が有名で、ダウの構成銘柄もIT化してきているわけですが…
みんなが皆、googleなんかに入れるわけではないし、頭脳労働に就けるわけでもない。

本来であれば、そういう人達は、単純労働の製造業などに行くわけですが、アメリカは製造業が弱い。
iPhoneなどで有名なアップルも、アメリカ国内では工場を持たず、外。主に、中国の生産メーカーに外注していたりします。

中国に外注する理由 その1 人件費

何故、こんな事になっているのでしょうか?理由はたくさん有るのでしょうが、一番大きな理由としては、人件費でしょう。
wikiによると、アメリカの最低時給は、連邦が定めているものが7.25ドルとなっています。
各国の最低賃金の一覧 - Wikipedia

この数字は、日本の最低時給とさほど変わらないようにも思われますが、アメリカは州という国が合わさって作られた合衆国という連邦制の国なので、州にも法律があり、そこでも最低時給が決められていたりします
多い州だと、最低賃金が日本円で1500円程になる州もあるようです。

その一方で中国の最低時給は、アメリカ連邦や日本が定めている金額の半額。アメリカの州と比べると4分の1程度(漏れ聞こえてくる話では、これより少ない可能性も?)の金額だというのが、大きな理由の一つでしょう。
この人件費ですが、これを読まれている多くの方はサラリーマンでしょうから、いまいちピン!とこないかもしれませんが、支払う立場になって考えてみれば、分かりやすいと思います。

仮に、最低時給1500円で1日8時間で月に20日働くと、企業が支払う金額は約290万円程になります。実際には、これに保険料や交通費なども含まれるでしょうから、300万を超える金額になります。
一方で、中国は最低時給が4分の1の金額なので、単純計算で1人あたりに支払う額が75万円になります。その差額は1人あたり225万円。100人だと2億を超える人件費の差となります。

製品に占める人件費の割合は、業種や何を作っているのかによっても変わってきますが、このサイトによると製造業の場合は、おおよそ人件費率が3割となっています。
www.syachou-blog.com

人件費率とは、売上と人件費の割合です。500万の製品を作るのに人件費が100万かかった場合は、人件費率20%となります。
人件費を売上で割ったものを%表示するだけなので、簡単ですよね。

商品を多くの人に販売するためには、販売価格を手頃な値段にするという事が必須ですが、その一番の方法が、人件費が安いところで作るということになります。

中国に外注する理由 その2 生産設備

先程も書いた通り、製品を製造するのに重要なのは人件費なのですが、理由はそれだけではありません。
単純な人件費だけを見れば、中国よりも安い国は探せばあるでしょう。 しかし、そんな国ではなく中国に発注するのは、中国に受注生産能力があるからです。

中国は、安い人件費を武器にして、世界中から製品の製造や組み立ての仕事を引き受けてきたので、製品製造や組み立てのノウハウがあり、生産設備も持っています。
このノウハウや製品製造の技術は、日本の大手製造会社がコスト削減のために、日本の中小企業の技術を恫喝まがいで奪い取って、中国に流した…なんて黒い噂もありますが、とにかく、安定した製品を出荷する体制というのが整っているんです。

最初は、他国から技術を教えてもらう形で発展しても、それが長年続くと、効率も良くなりますし、独自のノウハウも蓄積されていきます。
結果として、アメリカは国内で製造するよりも、中国に発注した方が話も速いし価格も安いという状態になっているので、中国に受注依頼をして、それを『輸入』する形で引き取っているので、アメリカは、対中国の貿易赤字が膨れ上がるという状態になってしまっているのでしょう。

関税競争で問題解決はするのか

日本の経済ニュースなどでは、米中の関税引き上げ競争は、輸入しているアメリカ側の方が関税をかけられる幅が大きいので、アメリカ側が有利…なんて話をしているところもありますが、実際にはそれ程単純ではありません。
先程書いた、理由の『1』と『2』を観てみれば分かりますが、単純に中国からの輸入に対して関税を上げれば、中国に発注していた企業がアメリカの企業に発注し直すという問題ではありません。

まず、理由『1』でも書いた通り、中国とアメリカの人件費が違いすぎる為に、関税を支払っても中国で作った方が、最終製品価格が安くなる可能性のほうが大きいです。
製造業の人件費率は30%前後と書きましたが、これが4倍になると120%になってしまい、それに応じて製品価格を引き上げると、アメリカ国内で作った方が高くなるという事ですね。
これは、アップルなども主張している事だったりします。
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次に、アメリカ国内に、製造拠点やノウハウが有るのかという話です。
製造拠点がない場合、まず、工場を作るところから始めなければなりません。 工場を作って、製造機械を入れて…となると、膨大な量の出費となり、それを回収する為には、かなりの長い年月がかかります。
そして、ノウハウがない場合は、一からノウハウを作っていかなければなりません。 既にノウハウを持っている中国の技術者を引き抜いて教えてもらうという方法もありますが、そもそも、この関税競争の理由が、アメリカの貧困層に向けた政策なので、中国人技術者を呼んできて作ってもらうというのでは、意味がありません。
まて、中国そのものも、有能な技術者を簡単に手放すとも思えません。

そして最後の理由としては、そもそもトランプ政権が続くのか。 トランプの後任が、同じ様な制作を取るのかという問題です。
トランプ大統領が、思いつきのように言い出しただけで、関税引き上げが可能なのであれば、次の大統領の決断によって、関税が引き下げられる可能性が十分に有ります。
トランプが次の大統領選で受かったとしても、この政策が10年も続かない可能性がある中で、企業が大規模な投資をするのかというのは、かなり疑問です。

結局困るのはアメリカ国民

企業が、生産拠点を中国からアメリカに移すにせよ、そのまま中国に発注し続けるにせよ、確実に起こることは、アメリカ国内での物価の上昇です。
アメリカ企業が中国への発注を止めなかった場合は、関税の増税という形で、製品価格が大幅に上昇することになり、製造拠点をアメリカに移した場合は、製造コストの大幅増という形で、製品価格が引き上げられる事になります。

この関税引き上げ合戦によって、アメリカ国民の年収が、商品価格の上昇分よりも増えれば問題はありませんが、そうではない場合は、給料が上がらない状態で製品価格だけが大幅に引き上げられる事になります。
これは、貧困層にとっては大打撃ですよね…そして、ドランプ大統領の支持者が、この大打撃を受ける貧困層
世間一般では、『アメリカの攻勢が止まらない!!』なんて言われていますけれども、冷静に観たら、追い詰められてるのってアメリカの様な気がするんですよね。

もうすぐ年末になり、アメリカの消費の大半が行われるクリスマス商戦に突入しますが、その時までに関税引き上げが有った場合のトランプ大統領の支持率がどうなるのかが、非常に興味深いですね。

不況の今だからこそ マルクスの『共産党宣言』を知っておくべきではないだろうか

今回紹介する漫画は、経済学を学んだ哲学者、マルクスが書いた『共産党宣言』を漫画にして読みやすくした作品です。
前から少し気になっていたタイトルでしたが、Kindleで10円で売るというセールが行われていたので、それを機に購入してみました。

簡単なあらすじ

妖怪がやってくる… 『共産主義』という名の妖怪が…

産業革命からしばらく時が経ち、資本家が権力者となる資本主義経済になった後の世界。
資本を持たない工場労働者は、人権も剥奪され、劣悪な環境で機械の部品のように働かせ続けられている。

労働者は、そんな状態に耐えられず…だが、家族の生活の事を考えると、資本家に対して牙をむくこともできない。
搾取され続け、惨めな生活を受け入れるしか選択肢が無い状態が続く中、資本家は、さらなる『生産性の向上』を求めて、更にキツイ要求を労働者に対して突きつける。

労働者の環境は更に厳しくなり、資本家に全てを奪われた労働者は、逆に何も捨てるものがなくなり、革命へと向かっていく…
そんな労働者の行く末を、遠目からエンゲルスと共に観ているマルクス
労働者の不満や行動を踏まえた上で、社会の行く末を語ってゆく… という話です。

意外なマルクスの主張

私自身は、マルクスが書いた本は、『経済学・哲学草稿』の途中まで(後半部分はヘーゲル批判で、ヘーゲルに対する知識が必須の為)しか読んだことがなかったので、マルクス共産主義に対する意見というのを詳しく走りませんでした。

その為、経済系の話題になった際に、私が資本主義の欠点を主張したとして、『でも、共産主義国家は全部、潰れてるだろう!共産主義のほうが駄目』という反論が帰ってきた場合、『ぐぬぬ…』となってしまっていたんですよね。

しかし、この『共産党宣言』で書かれていたマルクスの主張は、ソビエト北朝鮮の様な、これまでや今現在に存在している、どの国とも違ったものでした。
というか、今までに存在して崩壊していった、共同体が実権を握るタイプの社会主義を否定すらしていたのです。
よく、『マルクスの主張は誤解されている』なんて言われていますが、この漫画を読むだけでも、それが十分に分かる内容となっていました。

マルクスの主張と実際の共産主義

この作品の中に出てくる労働者は、奴隷…というよりも、家畜同然の扱いを受けていて、尚且、その待遇は世襲され、末代まで同じ様な暮らしをする事を強制されています。
『資本主義国家は、頑張れば報われる世界でしょ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その確率は限りなく低いのが資本主義です。
というのも、資本家になる為にはまず、資本を持っていなければなりません。 資本家の家に生まれた子供は生まれながらにして資本を手にしているわけですから、その意味では将来の資本家が約束されています。

また資本家は、有り余る資本を持っているわけですから、それを使って、自分たちの子供に最高の教育を受けさせる事ができる一方で、貧困層にそんな余裕はない為、教育格差が生まれます。
教育格差は、そのまま待遇の違いに直結する為、貧困層に生まれた家系は代々、貧困に苦しみ、富裕層の家系は、ずっと富裕層という状態になり、格差は固定されます。

この作品では、そんな労働者に対して有る人物が、『労働組合に入って、共産主義を実践している町に移住しないか?』と持ちかけるところから、共産主義の説明が始まります。
この町では、自治体が手動して計画的に生産を行い、賃金も全員同じで平等。 街で生産されたものは、町で消費する為、安くて品質の良いものが買える。
これにより、労働時間は短縮され、労働者は、より豊かな生活をおくることが出来る…

このモデルは、ソビエトや中国が採用していた計画経済ですが、マルクスは、このモデルその物を否定します。
つまり、マルクスが主張する共産主義国家というものは、既に崩壊したものではなく、まだ実現できていないものということになります。

共産主義を利用した勢力争い

真の共産主義が確立するまでには、様々な共産主義思想が生まれ、主張同士が争う事になるようです。
例えば、中世の社会は封建制度でした。 封建制度とは、王や将軍など、ピラミッドの頂点に君臨する人物が存在し、その人物が、自国の領土を収める貴族達に権限を与えているという社会です。
日本も昔は、将軍が実権を握り、それぞれの地域の殿様に自治をさせていましたよね。

この封建制度は、大抵の場合は貴族が搾取し過ぎる事によって市民が暴動を起こし、それが革命につながって終わりました。
では、封建制度が終わった後の世界ではどうなったのかというと、ブルジョア階級の資本家が労働者を家畜扱いして搾取することにより、私腹を肥やすという時代に突入しました。
つまり、労働者が搾取されているという事実そのものは、変わらないという事です。

労働者階級では何も変わりませんが、上層部の構造自体は変わります。
封建制度が革命で潰された貴族たちは、台頭してきたブルジョア階級に対抗意識を燃やし、再び実権を握るために、虎視眈々と機会を伺います。
形勢逆転をする為には何が必要かというと、社会を構成する為の人間です。 そして、自分たちの手足のように働き、尚且、一番、人口が多い労働者層を取り込もうとします。
その為に、労働者にとって聞こえの良い政策を打ち出して、労働者層の関心を惹こうとします。

そうして生まれるのが、『封建的社会主義』などです。 封建社会を復活させようと、社会主義の皮を被って人間を集め、実際には、自分が権力を握ろうということです。

共産主義社会主義の違い

権力闘争によって生まれる社会主義と、マルクスが提唱する共産主義は、全く違うと言ってもよいほどの差があります。
決定的な違いとしては、『所有』というものに対する考えが違います。

既に崩壊している社会主義国家は、全ての実権を『国』が所有していました。
土地は全て国有地で、工場などの生産拠点も国のもので、労働者は公務員。 国の財産は全て、国が『所有』している状態なのですが、これは、裏を返せば、国を治めているものが全てのものを所有している事と同じという事です。
つまり、社会主義国家の代表は『王』と同じということになり、その王につかえている労働者は、相変わらず搾取されるということです。

しかしマルクスは、所有その物を否定します。 この『所有の否定』は、労働者から財産を奪うということではなく、資本を持つ権利その物を認めないということです。
社会主義国家では、国民は全員が公務員で、同じ給料を貰うということになっているようで、それが平等とされている様ですが、マルクスはそんな主張はしていません。
労働者は、働きに見合った給料を貰うべきだし、その人達から、労働の対価であるお金を没収するなんて事は考えていない。

ただ、搾取の原因になる資本。 例えば、工場などの生産設備や、農地などの土地など、独占する事で不労所得を生む『資本』の独占を認めないと言っているんです。
独占を認めないということは、国による独占も認めないという事なので、従来の社会主義国家とは根本的に考え方が違います。

真の共産主義革命に必要なものは何か

マルクスが考える『共産主義』が実現するためには何が必要なのかというと、労働者階級という階級意識と、将来的な目標です。
将来的な目標を明確にしている為、封建制度下では、市民革命を起こすブルジョア階級の手助けもする。 将来的に敵になるブルジョア階級を手助けするのは、最終目標が決まっているからです。

革命は一足飛びで出来るものではなく、段階を踏まないと駄目なので、段階を踏むためにも、将来的に敵となるブルジョア階級を一時的に助けるということ。
最底辺の労働者は、常に搾取され続けるけれども、その都度革命を起こす事で、権限を持っている層が徐々に自分たちに近づいてくる。そして最後の革命によって、最底辺の労働者が権力を握り、その権力を放棄することで、共産主義革命は終わる。
これによって、人は本当の意味での幸福を掴み取ることが出来るというのが、マルクスの主張のようです。

つまり、ソビエトなどの共産圏の失敗を提示して、『共産主義は失敗してるでしょ』というのは、マルクスの主張を全く理解していない意見という事だったんですよね。
マルクスの主張がこのとおりであるのなら、この世にはまだ、真の共産主義というものは存在していないことになります。
言い換えれば、ソビエトの失敗云々でマルクス批判をしている人間というのは、マルクスの本を読んだ事がない人ということが、よく分かる1冊でした。