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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第11回 東洋哲学(3) 梵我一如の個人的な解釈

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回の放送では、『私』とは何なのかについて、疑問を持ってもらうために、様々な問題を挙げていきました。
そして、『私』とは、ものを観たり感じたりしている主体となっている、『意識』ではないのかという流れになっていきましたね。
では今回は、その『意識』について、もう少し掘り下げて、考えていこうと思います。

そもそも、私達が自分と感じる意識というのは、どこかに有るものなんでしょうか。
意識が、どこかに有ると思っている人の多くは、頭とか、脳に有ると思っておられる方が多いかもしれませんね。
脳というのは、体が感じ取った感覚を最終的に受け取るところですし、脳から電気信号を出して、体その物を動かすことが出来る器官でも有ります。
そして何よりも、情報の大半を占めると言われている、視覚から入ってくるイメージを受け止める目は、脳の前についています。
この為、目や脳の付近に自分の主体である意識が有ると思っている方も、多いと思います。

しかし、意識は本当に、そこにあるのでしょうか。

以前も紹介した本、『史上最強の哲学入門』の東洋哲学編には、脳という機械が行っていることは、脳細胞、ニューロンが、体に何らかの刺激を受けた際に、化学物質をだし、隣のニューロンに渡しているだけだ。
と言った感じのことが書かれています。
この、ニューロンが物質を隣のニューロンに渡し、それを受け取ったニューロンは、また別のニューロンに情報を渡し…といったことが繰り返されているだけの機能で、何故、意識が生まれるのかというのが疑問とされています。

これを聴いた方の中には、脳というのはそういうもんで、それで意識が生まれるんじゃないの?と納得されている方もいらっしゃるかもしれませんが、これは結構、不思議な事なんです。
この本では、これを別の形で例える事で、その不思議さを伝えようとしています。
その例を一つ、紹介してみますね。先ず、大量のミミズを辺り一面に、それぞれの個体が接し合える程度の近距離でばら撒いた環境を作って、脳と見立てます。
この状態で、その内の一匹を手で触れると、触れられたミミズは『大きなものに触られた』という反応をして、身をよじったりして暴れたりして、反応をします。

ミミズは、接することが出来る程の近距離で配置されているわけですから、一匹のミミズが大きな反応をすると、隣のミミズにも触れることになり、触れられたミミズはこれに反応し、また隣り合ったミミズに触れることで、反応は伝播していきます。
このミミズの動きによる伝播は、脳が行っている脳内物質や電流の伝播と同じわけで
脳が行う物質の受け渡しによって意識が生まれるのであれば、このミミズの動きによる反応の連鎖でも、そこに意識のようなものが生まれないとおかしいと主張しているんですね。

この本の中での書き方としては、文章としてハッキリと否定が行われているわけではないのですが、否定しているのではないかという読み解き方しか出来ないような書き方がされています。
本では、このミミズの例の後に、もう一つ同じような例を出した後で、否定的とも読み取れる内容がかかれているので、その部分を修正しつつ引用すると

たまたまミミズの動きのパターンが、『意識が赤いものを観ている状態』と同じパターンになったとしよう(ここでの動きのパターンとは、脳内物質をニューロンが受け渡しをするパターンとミミズの動きが同じ動きをした場合ということですね。)
これで説明がつくと思う人は(ここでいう説明とは、脳内物質をニューロンが受け渡すだけで、意識が生まれて当然だと主張する人のことです。)その時、『あの独特の赤を見ている意識』が、ミミズが散らばった空間に発生していると主張しなければならない。
何故なら、物質的には全く同値なのだから。
だが、少なくともそれは、既存の科学や理屈を超えており、今までにない新しい考え方やものの見方を提示する必要性があるだろう。と書かれています。

つまり、ミミズの動きによって意識が発生することを、明確に否定はしないですが、少なくともその主張は、既存の科学の理屈を超えているという事ですね。
まぁ、意識というのは実態が有るものでもなく、主観的なものですし、観測することも不可能なので、証明することは出来ないですよね。

ただ、私個人の意見を言わせてもらえれば、このミミズの例でいうと、ミミズのそれぞれの動きによって、その場に意識は生まれると思うんですよ。
というのも、世の中には、そう考えたほうが辻褄が合うことが結構有るからなんです。

例えば、私は以前、株式投資を行っていたんですね。今現在も、頻繁に売り買いはしていないですが、買ったまま放置しているという点では、今も行っているといえるんでしょうけれども。
その株式なんですが、株式市場で行われていることは、先程のミミズの例や、脳細胞内で起こっていることと同じことなんですよ。

株式投資は、難しいと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、簡単にいえば、株という商品を扱った、複数同士のオークションです。
株を売りたい人がいて、その人が売り値を提示して、その値段で購入しても良いと思う人がいれば、売買が成立します。
売る人が多いか、買う人が多いかによって、売買のされ方や価格の付き方がかわるというだけで、実際に市場の中で行われていることは、株券と現金との交換なんですよ。
その現金と株との交換が、もの凄い人数で複雑に行われているのが、株式市場です。

先程も言いましたが、脳の構造も同じですよね。脳も、脳内物質をニューロン同士で受け取ったり渡したりしているだけで、株式市場も、現金と株を受け取ったり渡したりしているだけですよね。
で、これらの取引が行われることで、株式市場では何が起こるのかというと、株価というものが、まるで意思を持っているかのように、上に下にと動き回るんですよ。
そしてこの動きの予測は、誰も行うことが出来ないんですね。

株式市場というのは、人それぞれが、自分の意志で持って売り買いを行っているわけで、株式相場とは、その意思を反映させた動きをしているに過ぎないんです。
ですから、主体となるのは取引に関わっている人間のはずなんですけれども、そこに関わる人には誰も、動きを予測することが出来ないんです。
これは、観ようによっては、自由意志を持った一つの生物のようにも見えますよね。

その他の例でいうと、キノコなんてものも有りますよね。
キノコというのは、突き詰めていけば菌ですよね。それぞれの菌は、それぞれの意志でもって動くわけですけれども、でも、その独立した菌が集まると、キノコという一つの物体が生まれるわけです。
不思議ですよね。一つの生物でもなく、全くバラバラのものが、一箇所に集まると、有るものは軸になり、有るものは傘になって、傍から見ると一つの生物のようにみえるわけですから。
これは、一定数の意志のあるものが集まると、その場には、それを統合するような意識が生まれると考えると、説明が付きやすいですよね。

これと似たような例で、昆虫の蟻とか蜂といった物も有ります。
アリやハチは、それぞれが交尾して子を生むわけではなく、女王とされるものが卵を生む役目を負っていますよね。
この女王蟻などは、人間の器官でいうと子宮という役目を負っているようにも見えますよね。
こうして考えていくと、人間でいうところの手の役割をするハチと言った具合に、それぞれの役割を持った個体が集合し、一つの群れで一つの生物という見方も出来ます。
話題になっているヒアリなんかも、群れで団子のようになったり、その状態で水に浸かるとイカダを形成したり…なんて言われていますが、それも、一匹一匹が独立した動物で
コミュニケーションを取って、結果として行動しているのではなく、群れで1体と考えると、素直に納得できそうですよね。

この様な視点で、もう一度、人間の方に焦点を当てて考えて見ましょう。人間は、脳で意識的に考えた通りの行動を確実に行うことって、出来ないですよね。
もし出来るのであれば、英単語なんて覚えるのは簡単ですし、スポーツなんていうのも、目で見たイメージ通りに動かせばよいだけですから、上達も早いはずですよね。
では、全く意識もせずに、完全に体だけが勝手に動いているのかといえば、それも、現実感があまり無いですよね。出来る事と出来ない事が混在している状態ですよね。

で、出来ること、出来ないことは性格などにもよるのではないかという意見もあると思います。意識的にも無意識的にも、その人の性格として、やりたくないことは出来ないという考え方ですね。
でもその性格も、腸内細菌の種類によって、人間の性格が変わるなんて話も有りますよね。その他には、事故や手術なので、大量に輸血をする事で、性格が変わったなんて話も有ります。
この話も、性格というものが、『私』個人を私足らしめてい意識の一部であるなら、血液は別としても、腸内細菌のような外部の者によって影響を受けるというのは、不思議ですよね。

また、外部のものという目線でいえば、人間の細胞の中にあるミトコンドリアは、元々は寄生虫なんて話も有りますよね。
こうして考えると、人間というのは、小宇宙なんて例えをされることも有りますが、腸内細菌であったり、細胞内のミトコンドリアであったり、脳の伝達物質の受け渡しであったりと、物凄い数の生物が集まって
一つの個体として成立しているという考え方も出来ますよね。
そして、それぞれの部位がそれぞれの意識から発する意思のもとで、勝手に動き回ったり、与えられた役目をこなし続ける事で、人という意識が発生しているだけという考え方も出来ますよね。
つまり、意思を持って動き回るものが、限定された空間内に多数ある状態になると、一つ上のレイヤーに、その動きを総合したような意識が生まれるという考えです。

この話は、イメージの話で、かなりフワッとしている為に、聴いている方にどれだけ伝わっているかというのが分からないんですけれども…
人間と腸内細菌の話を、先程の株式相場の話に当てはめると、腸内細菌というのは、株式相場で売り買いをしているプレイヤーの事で、株価の動きというのが、一つ上のレイヤーに生まれる意識としての人間に当てはまります。
ではこの時、主体はどちらにあるのかというと、両方に有るんです。
株価が上に上昇したいと考える時、株価はプレイヤーに命令して、株を買えという指示を出す事はありません。プレイヤーは、それぞれの自由意志に則って、売り買いをするだけの存在です。
では、株価の方は、プレイヤーに踊らされているだけなのかというと、そうではなく、株価は株価で自由意志が有ると思いこんでいて、自分の好きな方向に進んでいるんです。
そして実際に、上に上昇したい時には上昇してみると、プレイヤーはその上昇した動きを観て、行動を変えますよね。
つまり、株価とプレイヤーは、どちらかが主体になって一方を動かしているのではなく、相互に影響を与え合って、一連の動きを形成しているんですよ。

これを人間の行動でいうなら、『将来のことを考えると、今勉強した方が良いのは頭ではわかっているけれども、漫画を読みたいから漫画を読む』みたいな感じですかね。
人間は、これをやっておいたほうが良い。覚えておくべき。といったことは無数にありますけれども、実際には出来ることと出来ないことがありますよね。
興味があると思って読み出した本なのに、全く進まずに頭にも入らないのに、隣で鳴ってただけのラジオのセリフが一発で頭に入ることって有るじゃないですか。
人間が下していく決断というのは、そういう、制限がかかっている中で行う選択じゃないですか。そして、その限定された選択肢を選んで実際に行動を起こすことで、脳に流れる電流の量とか体内の環境は実際に変化するわけで…
その変化を元に、体内の微生物や細胞は行動を変える可能性が有るわけで、これも、相互に影響を与え合っていると考えられますよね。

結構、伝わりにくいことだと思うので、別の例で考えてみましょう。意思を持つものが限定された空間に集まることで意識が生まれるとするなら、人が集まることで、その人達を統合した意識というものが生まれる可能性も考えられますよね。
例えば、人間が10人程で集まって、何か行動しようとした際に、例えリーダーを決めていたとしても、完全にリーダーの思い通りに事が運ぶことって少なかったりしますよね。
また、リーダーという役割を負うことで、その人の性格が急変して、最初思っていたとおりの組織が生まれない場合もありますよね。
これは、その10人が集まって、それぞれが行動したことによって、その限定された空間の10人の行動を前提とした意識が、一つ上のレイヤーに生まれて、それが自由意志を持つかのように振る舞っているだけかもしれないですよね。
この10人の意思を統合したような意識は、元を辿ると、10人の人間に帰結するわけで、当然、一つ上のレイヤーに生まれた意識に影響をあたえるわけですけれども、そこで生まれた意識が元の10人に影響をあたえることで、行動を限定させてしまうという事です。
影響は相互に与えあっていて、双方の意識は、無意識の内に限定された範囲内での行動しか取れない状態といえば良いんでしょうかね。

この考えを、もっと大きな目線で当てはめれば、地球というのは、70億人の人間がいて、その他にも様々な動植物がいるわけで、それらのものがそれぞれに動いているわけですから、地球そのモノに意識があったとしても、不思議ではないですよね。
ここで、地球の意識というのが出てきたわけですが、誤解してほしくないのは、環境破壊は地球が悲しむだとか、地震や火山噴火や温暖化は、地球が人間に対して怒っているという、スピリチュアル的な事を言っているわけではないんです。
例えば、人間の性格に腸内細菌の活動が本当に関係していたとして、人間は、腸内細菌の一匹の行動について、いちいち不満を持ったりしないですよね。
その関係と同じように、仮に地球に意識があったとして、地球は人間の存在なんて感知していないですし、その人間の行動も含めて、地球の意識という感じです。
先程も言いましたけれども、地球という意識は、それを構成しているすべての動植物の意識によって限定されていますし、地球に住む私達の意識は、地球によって限定されているという考え方ですね。

これをさらに発展させると、宇宙の意識となり、その意識を構成しているものを再商談会まで深掘りしていくと、最小単位の意識というものに帰結していくという考えが出来ますよね。
こう考えると、一つのものが全てのものであって、全てのものは一つのものであるという梵我一如的な考え方も、理解できたりしますよね。

ただ、一つ言っておくと、これは私が勝手に考えた事なので、『宇宙はこうなっている』と断定するものではなく、こういう考えも出来ますよというものなので、その点だけは、注意してくださいね。

今回は、私の持論が中心になってしまったので、次回は軌道修正して、インド哲学に戻りたいと思います。

【アニメ・漫画紹介】 幼女戦記

今更になるのですが、今年のはじめに放送された、『幼女戦記』という作品を紹介します。
何故、こんなにも時期を外しての投稿になったのかというと、盆休みにする事が無かったせいか、2周も観てしまったからです。
盆休みに初めて観たんじゃないですよ。 リアルタイムで見ていたにも関わらず、盆休みに更に2周観たんです。
この行動で火がついたのか、Kindle版の漫画も買ってしまい、盆休みは幼女戦記漬けの日々を過ごしておりました。

前置きはこれぐらいにしておいて、では、どんな物語なのかを簡単に説明していきましょう。
この作品は、石を投げれば大抵は当たると言われている程に大量生産されている、異世界転生モノの一つです。
幼女戦記』というタイトル通り、主人公は魔法が存在する異世界に転生し、魔法少女となって大空を飛びながら、お仲間と一緒に平和の為に『いっしょうけんめい』頑張る!って感じのお話です。
タイトルがこれで、話の要約がこんなだと、引いてしまって観たくないと思われる方もいらっしゃるでしょうから、ネタバレも含みつつ、もう少し説明していきましょう。

ネタバレを含むので、情報無しで観たいという方は、これ以降は読まないようにお願いします。
動画は、AmazonプライムNetflixで視聴可能なので、是非、観てみてください。
では、これ以降、ネタバレも含んで説明していきます。宜しいでしょうか。


この作品。主人公は幼女なのですが、生まれ変わる前は、人の心が分からない徹底した合理主義の中年の中間管理職のおじさんです。
主な仕事は、会社で役に立たない人間をリストラしていく仕事で、人の心がわからないという長所?を活かして、心を痛めること無く、淡々と業務をこなしていました。
こんな人ですから、当然のことながら神なんて信じず、科学的な事しか信用せずに生きてきました。

そんな彼ですが、ある日、リストラした元社員に逆恨みされ、線路から突き落とされて殺されてしまいます。
しかし、電車が自分にぶつかる寸前に神が現れ、人間が信仰心を失ってしまったことをボヤき始めます。
そして、合理主義の塊のような主人公が神の存在を信じるようになるのであれば、もう一度、神は力を取り戻せるのに…なんて事を言い始めます。

これを聴いた主人公の中年サラリーマンは、神なんて存在は、科学が発達する前の世界で、理解できなかった存在を神と定義していただけに過ぎない。
現代のように科学が進んだ平和な世界で、神を信じるなんて事は、ありえない。
お前は確かに、電車が衝突する直前に時間を止めて対話をするという超常的な力を持ってはいるが、それを持って神とは言え無い。
仮に神が存在するのであれば、この様な理不尽を許すはずがない。故に、お前は神ではなく悪魔だ。そうでないのであれば、存在xとでも定義しようか…なんて事を言い出します。

これを聞いた神は、『そうか…現状では、神を信じられないということだな。では、全くの逆であればどうだ。
男では無く女で、平和な世の中ではなく戦争状態で、科学ではなく魔法が常識となっている世界に生まれ変われば、信仰心も生まれるかもしれない。』
ってな感じで、この直後に主人公は電車に轢かれて死に、めでたく異世界に転生することになります。(これは漫画版の演出で、アニメ版は若干変わります。)

転生先の世界は、現在の世界でいうところの第二次世界大戦が起こる直前のドイツ。
ただ、第一次世界大戦は起こっておらず、第一次世界大戦という世界レベルの消耗戦を経験していない状態で、第二次世界大戦と同じ様な展開で戦争が起こりそう…って感じのかなりヤバイ世界です。
そんな国で、両親がおらず、孤児院で女性の体を持って転生します。

この世界での科学力は、今の世界でいうところの1900年頃の科学しかないのですが、魔法が発達しており、それによって空を飛ぶことが出きる為、当然のように軍事転用され、航空魔導兵と呼ばれる兵科が存在します。
この兵科は簡単にいえば、音がない戦闘ヘリのような存在。 無音で飛ぶことが出来、携帯したライフルの弾に術式を行うことによって、範囲爆撃や長距離爆撃を行うことが可能。
つまり、最強クラスの兵科という事になります。 では、これを量産すればよいのかというと、それは出来ません。
魔法は、その才能を持って生まれた人間しか扱うことが出来ないため、限られた戦力ということになります。

こんな世界で主人公は、最強クラスの魔力をもった状態で生まれてきます。
何故、存在xが主人公に高い魔力を持たせたのかというと、先程書いた航空魔導兵が関係してきます。 航空魔導兵は最強の兵科なのですが、魔法の才能を持つ人間にしかなることが出来ません。
そんなわけで、貴重な魔力保持者は、男女の区別なく、確実に徴兵されてしまいます。
主人公は女として生まれてきているので、魔力さえ持たなければ、か弱い女性を演じ続ければ戦争から逃れることも可能なのですが、魔力、それも最強クラスの才能を持って生まれてきているので、見逃されることもなく徴兵は確実に行われてしまうということ。

前世の記憶を引き継いだ状態で転生し、10歳にして既に合理的な考えが出来る主人公のターニャ・デグレチャフは、『逃れることが出来ないのであれば、徴兵ではなく、敢えて志願して、出世街道を突き進むしかない!上手く行けば、安全な後方で楽が出来る』と軍隊に志願します。
ここで、めでたく魔法少女の誕生です。
まぁ、魔法のステッキなんかは持たず、常に携帯しているのはライフルで、身にまとっているのはコスチュームではなく軍服。
当然、一緒に戦ってくれる仲間は、帝国軍の戦友たちで、相談相手になってくれるのは、花屋や喫茶店の主人ではなく、参謀本部や作戦局のお偉いさんですけどね。


その後、ターニャは軍隊の訓練過程が終わった直後に、北の国境線の警備に派遣されることになります。
丁度その頃、以前から北方諸国(現在でいうところのノルウェー辺り)の内部でナショナリズムが高まり、そのうえ右翼政権が権力を握った事もあり、政治家は国民のガス抜きをする為に、軍隊を南下させて帝国軍領土まで進行してきます。
北方諸国の狙いとしては、国境を超えたという事実だけを国民に見せて、『俺達はいつでもやれるんだぜ!』って事を見せるためのデモンストレーションのつもりだったんですが…

これに対して帝国軍は重野砲を使用しての本気の反撃を行い、見事に北方諸国と戦争状態に。
この時、現場にいて着弾観測を行っていたターニャは、敵魔導兵に見つけられ、司令部に撤退要請をするも拒否され、援軍が来るまで耐えろといわれる。
死にたくないターニャは敵前逃亡も出来ず、全力で必死に戦った結果、デビュー戦でものすごい戦果を上げ、生きている人間で受賞した人間がいないとされる『銀翼突撃章』をもらう羽目に。

完全にエース扱いをされ、最前線送りが濃厚になっていくターニャは、どの様にして生き残っていくのか…

ここまで読んでもらえればわかると思うんですが、此処から先の内容は、完全に戦記物となっています。
ここ最近は、異世界転生ものが流行っていて、尚且つ、魔法少女物も流行っているので、そのミックスでしょ?なんてタイトルだけみて思った方は、完全に当てが外れたことでしょう。

では、シリアスな戦争モノなのかというと、実はそうでも無い。
ターニャは、後方に行きたい一心で、一生懸命、戦略に長けた軍人を演じるのですが、周りはそうとは観ておらず、火力が有って戦術的に長けているのに、戦略まで理解できる有能過ぎる兵士と賞賛したりと、ギャップが凄い。
また、ターニャは基本的に自己保身しか考えていない合理主義者なのですが、部下が死ぬと肉の盾が減る。評価が下がると思い、部下に適切な支持を出して犠牲を減らす。
そして、周りが危険な仕事だと思い込んでいるが、どう考えても楽な仕事は、評価欲しさに率先して行うため、現場から絶大な支持を得て、英雄扱いをされる。

結果として、常に最前線に送られるということになるという、アンジャッシュの漫才のような状態を見れたりもします。
では、コミカルな戦争映画なのかというと、そうでも無い。
主人公は、周りから見れば孤高で、冷酷な人間なのですが、登場人物の中で誰よりも世界平和を願っている人物。
何故なら、平和な世界こそが、安定した暮らしを出来るからです。世界平和の実現のためなら、つまり、早期の戦争終結のためなら、どんなに残虐な命令であろうとも実行するのですが、それを阻止するのが存在x。

神は信じないが、世界平和のために命を賭して戦う人間と、信仰心欲しさに人間を戦争の渦に巻き込んで試そうとする神。
どちらが善なのか。 こんな感じの、哲学的なテーマも盛り込まれていたりもします。

最初にも書きましたが、AmazonプライムNetflixで視聴可能なので、もし興味を持たれた方は、一度観てみてはいかがでしょうか。

京町家をゲストハウスにする投資商品は買いなのか。

先日テレビを見ていると、平日深夜に放送されている経済ニュース番組で、凄い投資商品の説明が結構な尺で行われていました。
何が凄いって、その投資商品の構造です。

構造を簡単に説明してみましょう。
この投資は、基本的に不動産をもとに行われる投資商品です。

先ず、誰も買わないようなボロボロの町家を購入し、それをリフォームした上で、その家屋をゲストハウスとして活用します。
ゲストハウスの運営自体は、資金を集めた会社が3年ほど行い、その後、物件ごと売却。
物件の売却益とホテル収益を投資家に分配することで、年率10%程度の利益が出るかもしれないというという前提で、投資家からネットを通じて幅広く資金を集めるという方式。

物件の売買は主に京都で行われますが、その理由としては、京都に宿泊施設が足りないこと。
京都は、世界中から観光客が訪れるにも関わらず、高さ制限のせいか、大規模なホテルが作りにくい。
その為、供給不足が続いているので、外国人に人気の町家を購入し、おしゃれな感じに改装、その後、3年ほど経営した上で事業ごと売却し、3年分の利益と売却益を投資家に分配するらしい…

一見すると、ものすごい魅力的な投資商品に思える代物で、『今すぐに買いたい!』と思われる読者の方もいらっしゃるでしょうが、この投資商品の本当に凄いところは、こんな構造ではありません。
この投資商品の本当に凄いところは、リスクは全て投資家に押し付けて、運営側だけがノーリスクで確実に儲かる形になっているという事です。

もう一度、冷静になって考えてみましょう。
今の日本の現状は、日銀が国債を市場で買いまくった結果、銀行の買う国債がなくなってしまい、銀行にとっては運用先がないような状態が年単位で続いている状態です。
個人で住宅ローンを借りる際でも、2%台。上手く制度を使えば1%台でも借りることが出来る現状で、何故、年率10%も支払うリスクを犯してまで、ネットを通じて個人から借りる必要が有るのでしょうか。

テレビの中では、取引される町家がボロボロ過ぎて、物件としての価値が全くない為、銀行からは借金出来ないという言い訳がされていましたが、この理屈が既に胡散臭い。
というのも、何年も買い手がつかないボロボロの町家は、確かに物件としての価値はない。しかし、価値が無いということは、建物に関しての購入額もゼロということ。
現状で住むことが出来ないような町家は、市場では資産価値がゼロ、もしくは、購入後に壊さなければならない費用分のマイナス価値、つまり、-300万円ぐらいでしか取引されない。
つまり、この建物を購入する為に銀行からお金を借りる必要性は全く無い。何故なら価格はゼロなんだから。

では物件購入に、何故、お金が必要なのかというと、その建物が立っている土地には値段がついている為、土地取得費用として値段が提示されている。
仮に不動産価格が1300万円だったとして、上に建っているボロ屋が住めないほどのゴミなのであれば、そこから解体費用の300万円を差し引いた、1000万円程度が適正価格とも言える。
そして、土地購入者は先程も書いた通り、そのボロボロの家屋をリフォームする事で、ホテルとして営業できるような物件に建て替える。
リフォーム代金と土地取得費用を合わせて3000万円とした場合、銀行はリフォーム後のきれいな建物が建った不動産に対して担保を設定すれば良いだけ。
なので、不動産の上に経っているボロ屋の価値が無いというだけで、担保が設定できずにお金も借りれないというのは、言い訳になりません。

また、この会社は、既に何軒もホテルを経営していて、経営も順調という感じで報道されていました。
この会社に本当に経営能力が有って、同じ様な計画で何軒もの物件で成功を収めているのであれば、事業計画書を過去の実績とともに銀行に提出すれば、銀行は普通に貸してくれるでしょう。
にも関わらず、この会社は銀行からは借りずに、ネットを介して少額投資を募っている…

これは、銀行から借りたくない理由があるからと、考えざるをえません。
(仮に、業者の言い分が正しく、本当に銀行がお金を貸してくれないんだとしたら、それこそ警戒しなければなりません。何故なら、銀行がお金を貸してくれないのは、業者に返済能力がないと思っているからです。)
では、何故、銀行から借りたくないのでしょうか。

銀行から借りれば低金利で借りることが出来るにもかかわらず、何故、10%以上もの金利を支払うリスクを犯してまで、ネットで投資家を募るのでしょうか。
答えは簡単で、銀行から借りた場合は、返済額が決定してしまうからです。
つまり、仮に事業を行うために3000万円を借り入れた場合、3000万円+利息は、確実に返済しなければならない義務が生じてしまいます。

その一方で、ネットを介して少額投資を募った場合はどうでしょうか。
ネットの投資家募集には、元本保証なんて事は書かれていません。
書かれているのは、3年分の利益と、その後の物件の売却益を分配するということだけ。
仮に、それらの合計が投資額よりも下回ったとしても、投資家は文句が言えない仕組みとなっています。
数字を出して考えてみると、3000万円を投資資金として調達したとしても、3年分の利益と売却益の合計が2000万円にしかならなかった場合、この会社は2000万円を分割して投資家に支払えば良いだけということになります。

ここで、『損を出すという行為は、運営会社も避けたいのでは?』と思われる、心優しい方もいらっしゃるでしょう。
ですが、そんなことはないんです。このシステムは、資金調達さえ行えれば、運営会社は損失が出ることはなく確実に儲かるので、損失は出ようが出まいがどうでも良いんです。

というのも、この会社の本当の狙いは、ホテルの経営管理をする事で、その手間賃である物件管理費を徴収することです。
テレビでは、『今月の予約だけで、○○万円の売り上げがでてます!』と威勢の良い事を言われていました。
仮に月の売上が100万円として、投資というか経営の知識が無い人の場合は、『3000万円の投資で、月に100万の売上だと年間1200万円で、3年で3600万円。これに物件売却額を加えた金額がもらえるなら、確実に儲かる!』なんて甘いことを考えるわけですが…
そんなわけがありません。
ホテル経営には、予約受付や清掃など、管理の為の人手がかかりますし、それらにかかる経費は当然、その売上から差し引かれることになります。
これらの作業は当然のことながら、この投資商品を企画した不動産屋が手がけるわけで、その作業にかかる経費の請求は、この不動産会社の言い値で請求し、売上から天引きします。

つまり、プロジェクトが立ち上がった時点で、この不動産会社は3年分の不動産管理費を得ることが出来るということです。
不動産管理費は、ホテル経営が黒字だろうが赤字だろうが請求し、仮に赤字になった場合は、その損失は投資家の方に回してしまえば良い。
何故なら、投資家には元本保証なんて行ってないわけですから、損失を出したとしても文句はいえないというわけです。

ここが、この投資商品のもっとも重要なところとなります。
先程も書きましたが、仮に、銀行からお金を借りた場合は、借金したお金は利息を加えて全額返済しなければなりません。
しかし、この投資用品の場合は、物件を見る目がなく、思ったよりも儲けることができなかった場合でも、損失分は投資家が支払ってくれます。

また、3年後に売却することが決まっているという事は、とりあえず3年間だけ営業してみて、儲けが出なければ売却し、物凄く儲かるドル箱物件の場合は、不動産屋自身が自分で買い取るという事も出来るということ。
この3年で売却するシステムにより、不動産屋はドル箱物件だけを格安で買い取ることが出来、儲けの出ない不要な物件は、安値で売り抜けることが出来る。
安値で打った場合の損失分は、投資家が支払ってくれるので、不動産会社自体に損失はない。

まぁ、なんて素晴らしいシステムでしょう。
本来であれば、起業した際のリスクは自分で追わなければならないのですが、その損失リスクだけは無知な投資家に押し付けて、利益だけは最大限に受け取ることが出来る。。
これは、人の金で博打をやって、的中したときだけ配当が受け取ることが出来るという仕組みで、考えた人は天才なんじゃないかと思ってしまいます。

これを読まれている方の中には、『放送局が、そんな胡散臭い投資商品を紹介するわけがないだろう!』なんて思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、過去を振り返ってみると、放送局は胡散臭い商品でも平気で紹介していたりします。
例えば、ラブホファンド。この投資商品は、今回紹介しているシステムとほぼ同じで、購入して運営するのが、京都の町家を改装したホテルでは無く、ラブホテルという違いしかありません。
ラブホテルは、かなりの回転率で儲かるにも関わらず、参入障壁が高くて普通の人には算入が出来ないので、ノウハウの有る業者が事業をファンド化して、投資商品として売り出すという行為を行っていた時期がありました。
この投資商品を、何故、私が知っているのかというと、日本経済新聞社の傘下であるラジオNIKKEIで、連日、宣伝がされていたからです。
この『ラブホファンド』が、その後どうなったかは、ご自身で【ラブホファンド】と検索窓に入れてgoogleなどで調べてほしいのですが、痛い目を有った方も多数いらっしゃったようです。

まぁ、今回取り上げている投資商品が、ラブホファンドと全く同じ道をたどるのかといえば、それは分かりません。
この商品の性質上、一定以上の利益を上げ続けなければ、資金の調達がどんどん難しくなていきます。
不動産管理会社は、プロジェクトが成立すればする程、物件管理費名目でお金が貰える仕組みなので、資金は大量に集まって欲しいし、その為には、高利回りを続けなければなりません。
当然、物件選びも慎重に行うでしょうし、確実に失敗するとはいえない商品です。

ですが、私個人の意見を言わせてもらうなら、他人のギャンブルの資金を出すなんてことはしたくない。ってことでしょうか。
例えば、同じ投資をする場合でも、企業の為に発行された株を購入するとかなら、その事業が軌道に乗った場合、とてつもない利益を得る可能性があるのですが、この商品は、3年という限定されたプロジェクトに投資するというもので、リターンは多くても10%前後。
10%しか得られないのに元本割れリスクを背負うなら、上場している株を買ったほうがまだマシって感じがするんですよね。

投資関連の話題では、毎回、同じことを言わざるをえないわけですが、本当に儲かる投資商品が、一般に出回るなんてことはありません。
一般に出回るということは、その時点で、専門家や事情通が『買いたくない』と思って売れ残っているから出回るんです。
投資を行う際は、この事を踏まえた上で行うほうが良いと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第10回 東洋哲学(2)『私』という存在への疑問

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回は、梵我一如という考え方について、簡単に説明していきました。
要約すると、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人の根本原理であるアートマンが同じだと体験によって理解することでしたね。
そして、宇宙の根本原理であるブラフマンは、元々は『言葉』という意味しか持っていなかったのが、異質の2つのものを瞑想によって同一視するという方法によって、最終的には宇宙の根本原理になっていったのではないか、ということについて、話しました。

では今回は、個人の根本原理、『わたし』という存在について、考えていこうと思うんですが…
その前に、この放送では、私自身が理解した事を中心に話していて、私の認識その物が間違っている可能性があると言った注意を度々いわせて頂いてますけれども、この東洋哲学では、その傾向がさらに強くなると思います。
というのも、テーマになるものが主観的なものですし、それを経験によって理解するというのも、主観的なものです。
その為、ここで話すことが理解出来ないと思われるかも、多数出てくると思います。これは、私自身の伝え方が悪いということもありますが
最も大きな理由としては、テーマがそもそも主観的なものなので、それを完全な言葉で他人に伝えることが不可能からです。
ですので、もし、この放送を聞いて興味を持たれた方は、自分自身で考えたり調べたりしてみてください。

『私』という存在について考えていくわけですが、私という存在について考える際に、先ず必要なのが、私という存在について疑問を持つということです。という事で、先ずは疑問を持ってもらうところから始めたいと思います。
『わたし自身』が何なのかと質問された場合、哲学に接していない多くの人は、特に疑問も持たずに、自分自身を指差して、『これが私だ』というと思います。
しかし、東洋哲学に限らず、西洋哲学でも問題とされている『私』という存在は、そういったものではありません。

これは、人間に限らず、『その物』が、何故そこに存在しているのかという、もっと根本的な疑問で、非常に難解で、明確な答えというものは、まだ存在しません。
過去の哲学者達が、それぞれ自身を納得させるような説を打ちだしてはいますが、それを他人が聴いたとして、本当の意味で理解できるかどうかも疑問ですし、哲学者本人が納得しているかどうかも疑問だったりするんですけれどもね。

え…問題をわかりやすくするためにも、先ず、私という存在ではなく、物という概念について考えていきます。
例えば、自転車を思い浮かべてみましょう。自転車は、様々な部品を寄せ集め、それらを組み合わせることによって、この世に『自転車』として存在しています。
では、この自転車から、夜に点灯させる為に取り付けられている『ライト』を取り外してみましょう。
この自転車は、変わらず自転車なのでしょうか。それとも、ライトのない自転車は、自転車ではない、他の何かなのでしょうか。

この場合、多くの人が、『まだ自転車だ』と答えるのではないでしょうか。
では、このライトのない自転車から、ベルを取り外してみましょう。 これは、自転車なのでしょうか?
ベルを取り外した程度では、まだ自転車と主張する人が多いかもしれませんね。 では、サドルを取り外してみたらどうでしょう。
滅多にない事ですが、サドルだけを盗まれるケースというのも考えられますよね。この場合、これは自転車なのでしょうか。
この様な感じで、泥除け・ペダル・チェーン・タイヤなど、一つ一つ取り外した場合、どこからが、『自転車では無い、何か』に変わるのでしょうか。

フレームだけになった場合でも、まだ自転車と呼ぶのでしょうか。
そのフレームを、原料レベルまで戻した場合、それもまた、自転車なのでしょうか。
逆に、パーツを組み上げていく場合、どの段階から、『自転車』が出現するのでしょうか。ただの部品の寄せ集めから、それを組み上げていくことで、どこかの段階で自転車という概念が生まれるわけですけれども、その境界線は何処に有るのでしょうか。
これについて、明確に境界線を引くことが出来た人って、いらっしゃいますかね?

では、『わたし自身』というものを理解する為に、この、どこからが自転車かという問題を、人間に当てはめて考えていきましょう。
人間の場合、体の部品を切り分けていくと言うふうに考えるとグロテスクな感じになってしまうので、攻殻機動隊風に、体を機械に置き換えていくという形式で考えていきましょう。
攻殻機動隊というのはSF作品で、脳を含めた体のすべての部分を機械化出来る程に技術が進んだ世界で繰り広げられるストーリーです。

まず、貴方が腕を怪我したとして、その傷は治すことが出来ない程に深刻なので、腕を義手に交換するとします。
この時に、手術で腕を切り離して機械化させるわけですが、切り離した腕とそれ以外の体と、どちらが自分自身でしょうか。
殆どの方が、切り離した腕は私ではなく、義手をつけた、わたし自身が『私』だと答えるのではないでしょうか。
この形式で、体のパーツをどんどん機械に入れ替えていきます。
足を機械化して、胴体を機械化する。そんな感じで、頭以外の全てを機械に置き換えた場合、私という存在の大半は切り離されて、機械化されている状態となります。
その時に、私という存在は、何処に存在するのでしょう。

頭を残して全てを機械化ということは、9割以上の部分が機械化されているわけで、言い換えれば自分を構成している9割は別の物に入れ替わっているわけです。
この時に、多くの人は、『それでも脳が残っているんだから、こちらが自分自身だ』と機械の体を指差して答えると思います。
しかし攻殻機動隊の世界が凄いのは、その『脳』も、機械化が可能なんです。
脳というのは、体の五感を電気信号に変えて、その電気信号を脳の中で相互に受け渡しているだけに過ぎません。
この構造を完璧に解明できれば、機械化することは絶対に不可能というわけではないでしょう。そして脳までも電脳化、つまり脳を機械に置き換えた時に、それは果たして私と呼べるのでしょうか。
この時、体の状態としては、元の体の部分は一切残っておらず、100%機械化された状態です。

100%、体のパーツが入れ替わっているにも関わらず、それでも『私』と呼べる状態を考えた場合、それは、100%機械の体に入れ替わった体でも、『私』というものを認識している意識があるかどうかが問題になりますよね。
攻殻機動隊という作品では、その『私』という意識を、『ゴースト』と読んで、そのゴーストを持つものだけを人間だと位置づけているんですね。
というのも、人間の完全義体化が可能で、脳ですらも交換可能となる技術が生まれているということは、AIの研究も相当進んできるわけですし
人間を模した擬態に、人間とそっくりに振る舞い、人間と同じように考えて行動できるAIを搭載した場合、それは人間なのかという問題が出てきます。
しかし、この作品内では、それはロボットと位置づけていて、人間と境界線を引いて区別しています。
何故ロボットと言い切れるのかというと、ロボットには『ゴースト』がないからという理屈ですね。

ただ、攻殻機動隊という作品は、この、『私』や『ゴースト』の存在を考えるための作品なので、作品内で高度に発達したAIが、ゴーストを持つ可能性というのも示されています。
有機物ではない、100%ニンゲンの手によって作られた無機物がゴーストを宿した際に、それは人間と呼ぶのかという問題ですね。

で…こういう話をすると、『それはSFの作られた話であって、現実的じゃないですよね。』という反論をされる方も、いらっしゃると思います。
しかし、一概にそうともいえないんですよ。というのも、この話は、現実の私たちに既に起こっている問題だからです。

人間の体というのは、子供は70%、成人でも60%が水で出来ているなんて話を聴いたことがある人も多いと思います。
この水ですが、私たちは日々、水分補給したり、食事で野菜に含まれる水分等を取ることで補って、余分な分は尿として排泄していますよね。
つまり、体の60%以上の水というのは、定期的に新しいものに入れ替わっているわけです。

それだけでなく、私たちは生きているだけで新陳代謝を行います。
人間を構成しているタンパク質部分は3ヶ月程度で完全に入れ替わり、それよりも長い時間がかかる骨の細胞でも、2年で入れ替わると言われています。
つまり、私達の体は、2年毎に総取っ替えされているのと同じという事です。つまり、考えようによっては、2年前の私と2年後の私は、全くの別人とも言えるわけです。
しかし私たちは、2年前も現在も、同じ『私』だと主張しますよね。 これは、何を根拠にしているのかというと、2年前の自分と現在の自分とで、意識が継続しているからですよね。

では、意識が自分を自分足らしめているものであったとして、この意識とは何処に宿るのか、何故生まれるのか、そもそも、意識なんてものが本当に存在するのかという疑問が生じてきますよね。
そして、仮に、意識というものが存在したとして、その意識は、人間の取る行動にどれだけ影響をあたえるのかというのも、問題になってきますよね。
多くの方は、人間を巨大ロボットに例えると、意識とはパイロットのことで、パイロットの思い描くようにロボットは動くと考えていると思います。
別の言い方をすると、肉体に魂が宿っていて、その魂が肉体を支配して動いているという発想ですね。
この考えに対して、何の疑問も持たない方は多いとは思うんですが、そういう結論は出ていませんし、そう考えると説明できないような現象というのは、世の中には沢山有るんですね。

これらの疑問については、冒頭部分でも話したと思いますが、西洋哲学や、それをルーツとする科学では、今だに結論は出ていません。
意識は『脳』に宿っているんでしょ?と短絡的に思われる方も多いとは思いますが、これも、一概にそうも言えなかったりするんです。

これらの、意思についての考察は、次回、私の持論なども含めて、話してみようと思います。

Netflixがアニメ業界を救う!? のか?

ここ最近、Twitterで、何度か同じような投稿を見かけました。
その内容は、日本のアニメ業界を、Netflixが救うといった感じのツイート。

何故、Netflixがアニメ業界を救うのかというと、予算が全然違うからということらしい。
という事で、今回はこの件について、一旦整理して見ていこうと思います。

私が、ネット記事やラジオで聞いた知識によると、今のアニメ業界というのは基本的に、製作委員会方式と呼ばれるもので、これが結構な曲者のようです。
製作委員会方式というのは、ステークホルダーというのでしょうか。それぞれの利益を得る可能性のある関係者が、業界を超えて金を出し合って、一つのプロジェクトを作っていこうという方式です。

利益を得れる可能性のある関係者を具体的みてみると、ラノベや漫画原作の場合は、アニメ化されることによって原作が売れる可能性がある為、出版社は利益を得られる。
それに加え、アニメキャラクターのフィギュア(人形)等のグッズを作る会社、アニメのサントラを作っている場合、音楽会社。
アニメ原作のゲームを作って販売する場合は、ゲーム会社など、様々な業種からお金を集めて、その金を元に『製作委員会』を発足して、集めた金を予算としてプロジェクトを動かしていく。
これが、全体としての流れ。 製作委員会が生み出した利益は、出資比率によって分配する感じになるようです。

それぞれがバラバラに動くのではなく、一つのプロジェクトとして進められる為、製作委員会方式は一見すると非常に効率が良く見えるのですが…
これが、結構問題になっているようです。

何が問題になるのかというと、業界内の馴れ合いというか談合と言うか…
全体としての予算が、実質、一社によって決められてしまう事が、最大の問題のようです。
もう少し詳しく書くと、製作委員会では、大抵、幹事となる会社が最初に決められるようです。
そして、その幹事が、自身の出資比率と拠出する金額を決定してしまうことによって、全体としての予算が決定してしまうというようなんです。

具体的に数字を出して書くと、A社が幹事となって、『我が社が幹事なので、出資比率は50%とすることにします。そして、我社からは2000万円お金を出します!』と発言する。
この時点で、全体としての予算の上限が4000万円に決定してしまう。
作られた製作委員会は、その予算内でアニメを制作してテレビの放送枠を買う必要が出てきます。

テレビというのは、公共の電波を握っているわけで、放送局自体が少ない。つまりは、チャンネル数は限られているということ。
その上、テレビ業界と出資会社は、それなりに仲が良い。
というのも、テレビの主な収益はスポンサーから得られるCM料で、それを出しているのは、製作委員会の親会社である、おもちゃ外車や音楽会社。

この関係だけを観ると、一方的にスポンサー側の会社が強いようにも思えるが、テレビ側は、番組内で特定のキャラクターを取り扱った特集を組んだり、工場見学ツアーなどの番組を制作して発表することが出来る立場。
スポンサー側からしてみれば、この様なステルスマーケティングは大助かりだったりするわけで、持ちつ持たれつだったりする。
こういうズブズブの関係だと、アニメの放送枠の金額をまけてくれなんて提案もしないでしょう。

となると、そのしわ寄せが来るのが、アニメ制作の現場だったりする。
現場のことを知らない会社が大枠の予算を決めて、その中から友達のテレビ局にお金を渡す。
その搾りカスの様な金で、『クオリティーの高いアニメを作れ!』と言われるわけで、現場は地獄と化してしまう。

結果として、不眠不休で働いても年収が100万円台のアニメーターなんてものが誕生してしまう。

この構造の一番の問題点は、先程も書きましたが、予算が幹事会社によって決定してしまうというところ。
例えば、今、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長している中国企業が、日本のアニメ制作に参入するために出資したいと思い、10億円を用意したとします。
しかし、この10億円という金額は、日本の製作委員会にとっては非常に困ってしまう金額なわけです。
何故かと言うと、10億円も出資されてしまったら、そこで発足される制作委員会で幹事になろうと思うと、幹事会社は最低でも10億円以上を出資しなければならない。
今までと同じように、2000万円しか出しませんなんてことをいってしまうと、出資比率は数%になってしまい、幹事どころか、得られる利益は微々たるものになってしまう。

では、今まで仕切ってきた日本企業はどのように対応するのかというと、中国企業のコンサルをやっている企業に上手く説明してもらい、10億の予算を1000万円の100分割にして、100本のアニメに分散投資されるようです。
この分割によって、日本企業は従来通りの金額で幹事になることが出来、それなりに主導権も握れるというわけです。
また、100分割されて投資が行われるということは、100本以上のアニメを作らなければならないという義務も発生するため、アニメの制作本数だけがドンドン増えていく…

制作本数が増えては行くが、予算の増額が行われない為、アニメーターに支払われる金額は増えることはなく、職場環境だけが悪化していくというのが、今の業界のようです。
この話は、アニメ業界の方か漫画家の方かは忘れたのですが、その方と岡田斗司夫さんが動画などで対談しているのを見て知ったので、元ソースは探せば出てくると思いますので、興味の有る方は探してみてください。

という事で、製作委員会の簡単な説明が終わったところで、冒頭のNetflixの話に戻ろうと思うわけですが、一番、注目すべき点は、Netflixの直接発注の場合、製作委員会と言うものが必要ないという事です。
製作委員会が、なぜ必要なのかという点について思い出してほしいのですが、製作委員会は、出版社や音楽業界、おもちゃ会社等の他業種と利益を分配する為に作られる持ち株会社の・ようなものです。
つまり、一本のアニメで様々なグッツ展開をする事で、制作費を捻出して儲けを出そうという考え方。
しかし、Netflixの場合は話が違います。

ネットフリックスが一番欲しいのは、単純に契約者であって、DVD売上やフィギュア販売なんて興味はありません。
では、契約者を増やすために何が一番重要なのかというと、優良な動画コンテンツです。
動画配信サイトでは、他社が著作権を有する作品の場合は、視聴時間によって、著作者にお金が支払われます。
etflixの単価は知りませんが、Amazonビデオの場合は、1時間で10円が支払われるというのを聴いたことが有ります。

つまり、動画配信サイトの場合、他社が著作権を持つ魅力のある、キラーコンテンツを引っ張ってきたとしても、それが観られれば観られる程、著作権料を支払い続けなければならないという事です。
先程書いた、1時間で10円という話を鵜呑みにすれば、1億人の人間が1時間みただけで、著作権支払いは10億円になってしまいます。
それなら、魅力あるコンテンツを、自分で作ってしまえば良い。自分で作ってしまえば、制作費用はかかりますが、それ以降の著作権料がかからない為、長期間で考えれば得ということになる。
etflixもAmazonも、全世界でサービスを行っている為、魅力のあるコンテンツを作ってしまえば1億人の視聴なんてアッという間に達成するでしょう。

この様な考えで行けば、アニメ1本で10億円の予算をかけたとしても、決して高いものではない。
製作委員会をすっ飛ばして、直接、アニメ製作会社に依頼をすれば、アニメーターもクオリティーに見合った単価で仕事が受けられる為、アニメ制作の救世主になると言われているんですね。

まぁただ、Twitterでは、『Netflixの仕事を受けたとしても、実際に現場が受け取っている金は変わらない』という意見もみましたし、製作委員会を飛ばすというのが難しいのかもしれないですし、飛ばしたとしても、別の中抜き業者がお金を持っていっているのかもしれませんけどね。
ですが、現状、何も変わっていないとしても、変化するのは良いことだと思うので、徐々に変化し、現場の人間が余裕を持って制作できる環境が実現すれば、それに越したことは無いと思いますし、そうなって欲しいものですけれどね。

今の停滞を抜け出す為に必要なのは、ベーシック・インカムではないだろうか ②

前回は、今の経済が置かれている状況を簡単に書いていきました。
kimniy8.hatenablog.com

簡単に振り返ると、資本主義は供給不足の時は順調に進むが、供給過多になると崩壊するという話です。
日本では、人手不足と叫ばれていますが、人手不足なのに給料が上昇しないのは、そもそも供給過多で利益がないので、大部分の中小零細起業は給料を払えないからでしょう。
では、儲かっている大企業はどうなのかというと、給料を上げなくても、労働環境を改善しなくても人が集まるので、給料を上げないし、なんならもっと締め上げる。
結果として、バブル期を超える最高益を出していたりするわけで、不景気様々なんでしょうね。

で、こんな状況で消費が盛り上がるのかといえば、当然、盛り上がるはずもありません。
消費をするには金と時間が必要ですが、労働者は、金を絞られ時間をサービス残業で奪われているわけですから、消費する時間なんて当然無い。
となると、そういう労働者を相手にしていた中小零細のサービス業は更に痛手を喰らい…という負の連鎖が起こる。

結果、富裕層はより豊かになり、貧困層はより貧しくなってしまう。

このサイクルを抜け出すために必要なのは単純な話で、貧困層に金と時間を与えればよいのです。
例えば、年収1000万円以下の人には、毎月定額でお金を渡すというベーシック・インカムの導入です。
こうする事で、何が起こるのかを考えてみましょう。

ベーシック・インカムで渡すお金を、贅沢しなければ普通に暮らしていける金額に設定するとしましょう。
こうした場合、過酷過ぎる労働環境の職場からは、大量の離職者が出ることになります。
当然でしょう。今までは、仕事をしなければ暮らしていくことが出来ない状態に追い込まれていたから、『仕方なく』無理な要求を聞き入れて仕事をしていたわけですが、仕事をしなくても最低限の生活が保証されているのであれば、そんな地獄のような環境に身を置く必要はありません。

これは、労働者だけに限らず、大企業の下請けなどにも言えることです。
今までは、工場や労働者を守るために、大手の無理な要求を笑顔で受け入れていた中小零細起業は、仕事を受けなくても最低限の生活が保証されているのであれば、安心して工場を閉鎖するという選択肢を選ぶことが出来るようになります。
常に仕事を辞めれるという安心感が有れば、その一歩手前の仕事を受けないという選択肢を選ぶことが出来ます。
今まで上から目線で命令してきた大手企業に対して、『そんな値段で仕事を受けるなら、寝てた方がマシだ!』と三行半を突きつけることが出来るようになるわけです。

こうなると、事態は変わってきます。
今までは、『オタクがやらないなら、他に仕事を回すよ!』と上から目線で圧力をかけて無理やりやらせていた大手は、仕事を誰も引き受けてくれないという状況に追い込まれるわけです。
こういう状況になれば、そこで初めて、大手と下請けが本当の意味で対等に交渉をする事が出来ます。

つまり、ベーシック・インカムの導入は、今までは資本主義による強制労働を強いられていた社会的弱者に対して、選択肢を与えることが出来るようになります。

また、この制度の導入によって、一部の人間は労働から開放されます。
労働から開放されるとはどういうことかというと、大量の時間が与えられるということ。
前回の冒頭で紹介した、自殺した現場監督は、月に200時間を超える残業を強いられていたようですが、仮にこの方がベーシック・インカム下で仕事を辞めるという選択をした場合、この人には月に400時間の自由時間が与えられることになります。
人間は、何もしないで過ごすことは出来ないため、暇な時間が出来れば消費をします。
つまり、ベーシック・インカムで与えたかねというのは、結果として大部分が消費されるということになります。

こうなると、今まではサービス残業や実質賃金カット(非正規移行等)に客足を取られていたサービス業が、忙しくなってきます。
なんせ、暇を持て余した人達が大量に増えるわけですから、供給過多状態が需要増によって埋められることになり、サービス業は本当の意味で人手不足に陥ります。
ここでの人手不足は、従来の様な人手不足とは意味合いが異なります。
何故なら、ベーシック・インカム下での人材募集は、ブラックな条件を出した場合は『これなら、働かないほうがマシ。』と労働者候補から切り捨てられるからです。
また、供給不足による人手不足の場合、企業は人を雇うことで売上を伸ばせる可能性が高くなる為、職場環境の改善などをして積極的に人材募集をしますし、教育にも力を入れるでしょうし、辞めないように努力もするでしょう。

労働環境が良くなり、労働者の仕事と報酬の割合が改善すれば、労働者は受け取った給料を、更に消費に回すことも考えるでしょう。
何故なら、仮に職を失ったとしても、ベーシック・インカムが有れば最低限の生活は保証されているわけですから、漠然とした心配の為に貯めておく必要もない。
企業が給料として支払った分がそのまま消費に回ると、更なる好循環が起こり、景気は上向くし、結果として税収も増え、それを再分配することで、更に暮らしやすい国になるのではないでしょうか。

少なくとも、『金持ちがより豊かになれば、トリクルダウンで貧困層も救われる!』なんて嘘で固めた主張で富裕層優遇し、一方で、年金支給開始年齢を75歳からにズラして貧困層を殺そうとするような世の中よりは、良くなるような気がします。

ただ、こういう提案をすると、大抵の場合は決まって、『財源は?』とドヤ顔して否定してくる人がいます。
そういう人に限って代案は無いわけですが、そういう人の前で現政権の批判をすると、『対案は?』とドヤ顔して詰めてくるので困りものだったりするんですが…

一応、私なりに考えた財源としては、消費税増税によって捻出するしか無いと思っています。
消費税は低額所得者にとって不公平だという批判に対しては、軽減税率の導入では無く、高価格帯商品に対する増税などの贅沢税によって対処すべきだと思っています。
高価格帯商品に対しての増税とは、簡単に言うと、車を買う際に1台目で200万以下なら5%で良いけど、300万を超えると10%、500万超えなら20%、1000万超えるようなものは、100%の消費税を払ってね。2台目以降の購入は、更に税率アップね。
という感じで、高所得者が好みそうな商品に対しての税率を上げることで対処すべきだと思います。
当然、これが家とかになると価格帯が変わってくるので、増税幅は売買される品物によっても変わるべきだとは思いますが、基本的には、高所得者層が取りそうな行動に対して増税するスタンスで行えば、消費税の不公平性も緩和されるとは思います。

何故、所得税法人税ではなく消費税なのか。これは、以前の投稿で既に書いているので、時間が有る方は目を通してみてください。
kimniy8.hatenablog.com

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簡単に説明すると、法人税所得税は、本社を海外に移転したり自身が大半を海外で過ごすなどによって、合法的に税金を減らすことが可能だからです。
大手コーヒーチェーンを例に考えると、コーヒーチェーン会社は、先ず、法人税が安い国に本社を構え、完全子会社のコーヒー豆生産会社から原料を非常に安い値段で豆を購入します。
この時の値段は、経費を差し引いた際に子会社の利益がゼロ。つまりは、原価で購入します。
そして次に、本社の豆を世界各国に有る小売店に、物凄く高い値段で販売する。この時の値段も、小売店が人件費を含む経費を差し引くと、利益が出ないようになる高額な値段で売却します。
これにより、豆の生産と小売店の利益の全てが、本社に集まることになります。そして本社は、法人税が一番安い国に存在する。

このようなことが可能である以上、税金を経済活動が行われた地域で徴収しようとすると、消費税しか無いという状態になってしまいます。
財源に関しては消去法なので、もっと良い提案があるなら、そちらでも全く構わないんですけれども、要は何が言いたいのかというと、適切な再分配が行われていないということです。
今の経済が停滞している最大の原因は、お金が本当に必要な人達に循環しておらず、金持ちがより豊かになる為にお金が使われ、そして、追い詰められて選択肢が無くなった貧しい人達からは、搾取が行われているからです。
本当にお金が必要な層にお金が循環する。例え、貯金を使い果たしたとしても生活には心配がないという状態を作り出すことが出来れば、経済はより安定的になると思うんですけどね。

今の停滞を抜け出す為に必要なのは、ベーシック・インカムではないだろうか

最近のニュースで、オリンピック関連の建設業に携わっている方が、残業が200時間を超えるような労働を強制され、結果として自殺してしまったというニュースを聴きました。
その時の会社側の言い分としては、自殺した社員はチームで動いていて、他の人間は自殺していない為、業務が原因で自殺したとは言い切れず、原因究明をしていくという主張をしていました。
既に1人が自殺しているんだから、チームの他の人間も自殺する可能性はあるとは考えず、自殺する人間に問題が有ったという考えなのでしょう。
社員をまさしく家畜程度にしか捉えていない上層部の考えには、ゾッとしてしまいますね。

そして、こういうことが起こると、『会社を辞めるという選択肢は無いのか』という話になるのですが、この問題は、実質的に辞めるという選択肢が無い事が問題なんだと思います。
というのも資本主義社会の場合、仕事を辞めたら生活ができなくなるという問題が出てきます。
資本主義では、最低限の生活をするにも最低限のお金が必要なわけで、それを得る為には、仕事をしなければならない。
結果として、労働者は労働をしなければならない。

この話を聴いて、『何を当たり前の事をいっているんだ?』と思われる方も多いと思います。
確かに日本では、国民の三大義務で労働を強いていますので、働くことは当然なのでしょう。
働くことで、お金も得られますし、社会にでることで社会に関わる実感も得られることが出来ます。
仕事を通して、普段で走ることが出来ないことを知るキッカケにもなりますし、働くこと事態を否定はしません。

ただ、今の現状を観ると、余りにも環境が悪すぎるような気がします。
そして、選択肢がなく、働かなければならない状態のせいで、結果として経済が停滞しているようにも思えます。

もう少し具体的に書いてみましょう。
資本主義というのは、基本的には放っておけば、金持ちはより金持ちになります。
これは当然で、資本主義では何をするにも資本が必要で、それを集めるためいには自らが資本家となるか、資本家から投資してもらわなければなりません。
投資を受けた企業は資本家の所有物となり、企業が得た利益はすべて資本家が取っていきます。
このサイクルで得た利益を別の事業家に投資することで、資本家はドンドン利益を溜め込んでいくことになります。

では、企業で働く人たちは、資本家にとってどのように移っているのでしょうか。
自分に利益をもたらしてくれる、力強い味方と思っているのでしょうか。
そんなことはありません。投資家にとって労働者はコストであって、その目には削減対象としか写っていません。
その為、投資家は事あるごとに『効率化』を掲げ、人員削減や給料の上昇を抑制するといった、コストカットを要求してきます。

つまり、企業で働く労働者と資本家は、基本的には利益を巡って敵対している関係に有るということです。

しかし、よくよく考えると、おかしな話ですよね。
投資家からしてみると、頑張って労働者に働いてもらわなければ、利益を上げることは出来ません。
利益が上がらなければ、結果として、事業は縮小していく為、投資家の利益は減ってしまいますし、投資家自身も痛手を負うことになってしまいます。
投資家としては、本来は味方になってもらわなければならないはずの労働者を、何故、敵視して追い込むようなことをするのでしょうか。

これは簡単な話で、需給バランスが狂ってしまったからです。

では、需給バランスが狂うとは、どういうことなのか。
企業というのは、最初は社会から必要とされることで誕生します。つまりは、需要が有って供給がない分野に対して、起業が行われるわけです。
供給不足の状態では、製品は作れば作っただけ売れる。また、欲しい人が多い場合は、強気の値段設定でも意外と売れるもので、起業としての利益も大きい。
利幅が高いものを作ったら作っただけ売れるわけですから、投資家は、より利益を得る為に、大量の人員を雇おうとします。
また、せっかく一人前として育った社員が辞めてしまうと、また一から教育をし直さなければならない為、多くの時間と手間が無駄になってしまいます。
その為、人員を募集する一方で、既に雇った社員を逃さないために、手厚い待遇で社員を引き留めようとします。

この時期の起業というのは、投資家と労働者は二人三脚の関係で、互いに互いを必要とし、双方が敬意を持って相手に接することが出来る、理想的な関係といえます。
しかし、この蜜月の時も長くは続きません。
一度、儲かる市場と認知されてしまえば、こんな美味しい市場を放っておく人はおらず、新規参入が増えてきます。
また、既存の起業の投資家も、より生産性を上げる為に、自動化出来る部分は自動化し、どんどん効率を求めるようになってきます。
そうして起こるのが、供給過剰状態です。

供給過剰状態になると、その業界は地獄です。
市場にものが余っている為、それを吐き出す為にも、販売価格は下げなければなりません。
販売価格を下げると、当然、利益は下がってしまいますが、資本家は自分達の取り分を減らそうとはしません。何故なら、それが資本主義だからです。
資本家が資金を投資するのは、自分達が儲けるためなので、儲からないと分かれば、出来るだけ早い段階で売却して、その市場から逃げようとします。
逃げ遅れた投資家は、何とかやりくりして、安定した投資収益を得ようとします。
その、やりくりというのが、ブラック会社化です。

そもそも利益が出ない市場なんだから、そこから利益を手っ取り早く出そうとするなら、生産コストを下げるしか無い。
コストで最も大きい部分は人件費なので、当然、人件費を削ることが最大の仕事になります。人件費を削るとはどういうことかというと、人員カット、サービス残業の強要、正社員からバイト・非正規への移行。
ドンドンと労働者の待遇は悪くなっていくわけですが、労働者はやめれば良いという判断は下せません。何故なら、更に苦しい状況に追い込まれる可能性が有るからです。

こうなると、更なる悪循環に突入してしまいます。
というのも、技術が発展すると、単純労働は機械化されていく為、生産や加工業に必要な人材は減っていく傾向に有ります。
となると、大半の人間は第三次産業であるサービス業に従事することになるわけですが、サービスを利用しようと思うと必要になってくるのが、お金と時間です。
第三次産業中心の経済では、お金と時間を消費する事でしか経済は回らないわけですが、起業がブラック化してしまうと、消費に最も必要な金と時間が労働者から奪われていくことになります。

こうなると、お金と時間がないから消費出来ず、消費できないから経済が回らず、そのしわ寄せが労働者にいって、更にブラック化するという事態に陥ります。
では、この悪循環を断ち切る為には、何が必要なのかというと、労働者に金と時間を与えればよいということになります。
どのようにして、金と時間を与えるのかといえば、一定レベル以下の給料しか貰っていない人に対する、ベーシック・インカムの導入ではないでしょうか。

【つづく】
kimniy8.hatenablog.com

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第9回 東洋哲学(1)梵我一如

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回は、東洋哲学と西洋哲学の違いを、簡単に説明しました。
内容を簡単に振り返ると、西洋哲学は自分の外側に有るもの、つまり、観察できるものを中心に、世界や、物、概念を、理性的に考えることで解き明かそうとします。
自分がどのように考えたのかを順を追って説明して、世間に発表し、それを受けて周りは、その主張を踏み台にして発展させたり、批判したりする事で、様々な理論を生み出していきます。

その一方で東洋哲学は、瞑想などを行うことによって、自分の内面に焦点を当てて、ある日突然、真理という体験を得た人が登場します。
真理をまだ得ていない人達は、その人に教えを請う形で知識を得て、それを基にして解釈本をだして…といった具合に、真理を得た人をトップとしたピラミッド状の組織が生まれるといった感じでしたね。
この様な感じで、東洋哲学は、真理を得た人に教えを請うといった感じの組織なので、宗教化しやすい一面もある形態といえますね。

では早速、東洋哲学についてみていきたいと思います。

ギリシャ時代の哲学は、奴隷という存在によって労働から開放された人達が、有り余る時間を使って世界の法則、真理について考えだしたことがキッカケで起こっりましたが、この流れは、東洋哲学でも同じです。
紀元前13世紀頃に、インドにアーリア人が侵入し、先住民族を支配して奴隷にするところから始まります。
西洋哲学と違うところは、東洋哲学の場合は、支配しているアーリア人が、現代のヒンドゥー教の大本になるバラモン教という宗教を起こし、カーストの最上位をバラモンという僧侶にしたことです。
一応いっておきますと、アーリア人侵入説には疑問の声も上がっている様なんですが、このコンテンツは歴史をテーマにしているのではなく哲学をテーマにしているので、この辺りは深く考えません。

この様な流れで東洋哲学というのは生まれたので、東洋哲学の考えというのは、バラモン教聖典であるヴェーダを作っていくという過程で生まれていくことになります。
このヴェーダは、宗教的な儀式の手順を示すような内容のものから、哲学的な内容を記してある奥義書と呼ばれるものまで4種類あり、更に各部門が『リグ・ヴェーダ』『サーマ・ヴェーダ』『ヤジュル・ヴェーダ』『アタルヴァ・ヴェーダ
の4種類に分かれることで、4×4で都合16種類に分かれるようですね。
ただこれも、大きく分けて16種類なので、更に細分化していくと膨大なジャンルに分かれていくようです。
夢枕獏さんという方が書いた小説で、ブッダが主人公になって旅をする『涅槃の王』というものがあるんですが、この小説の中にもヴェーダは登場するんですが、そこでは、一人の人間が人生をすべて使っても読み切れない量の書物と表現されていますね。

東洋哲学の中でも、この様なヴェーダを元にした哲学を、ウパニシャッド哲学というそうなんですが、この分野では最終的に、『梵我一如』という考え方が生まれます。
この梵我一如ですが、これは、どういうものかを理解する為に、一つ一つ分解して考えていきましょう。
『梵』とはブラフマンの事で、全宇宙を支配する原理の事です。

ブラフマンは、元々は『ことば』を意味する言葉で、呪力に満ちた「賛歌」「呪」を表していたようですね。
言葉というのは、呪文や魔術的なものと結びつきやすいようです。先ほども紹介した、夢枕獏さんの小説で、映画化もされた『陰陽師』という作品があるのですが、そこで、言葉と呪文についての関係性が書かれています。

例えば、あなたが男性だとして、好きな女性が、貴方の周りに円を書いて、『私が帰ってくるまで、そこから出ないでくださいね』と言ったとしましょう。
こう言われた場合、多くの人は、その円から出ないんじゃないでしょうか。それは、言葉によって行動が縛られているとも考えられるわけで、傍から見れば魔法のようにも見えますよね。
実際には、言われた方の男性の思考としては、この程度の事を守れないようでは、信用を勝ち取ることも出来ないし、仮に破った場合、今まで積み上げてきた信用を失うかもしれない。
ただ、円の外に出ないという程度の頼みであれば、聞き入れたほうが良いという計算が働いての事なんでしょうけれども、結果的に起こった現象だけ観てみれば、女性が言葉を発して、男性がその通りに動いたと見ることが出来るわけです。

これを、相手がこちらの提示する条件を聞き入れやすい状況を作り出すという、現実的な方向に置き換えると、現代で言うところの交渉術といった物に変わりますよね。
そして、この、女性が円を書いて、戻ってくるまでという条件を、円を祭壇などに置き換えて、戻ってくるまでという条件を、何らかの儀式に置き換えた場合、魔法や呪術のように神秘的なものにも置き換わりますよね。
ブラフマンというのは、この言葉に内在する神秘的な力という意味に徐々に変わっていったようです。

そしてまた、ウパニシャッド哲学では、瞑想によって、異なる2つのものを1つの物へと同一視するといった試みが、頻繁に行われます。
AとBとは同じもので、CとDは同じもので…といった感じで、あらゆる物が同一視された結果、全てのものがブラフマンと同一視され、宇宙の根本原理になっていったってことなのでしょうかね。
この辺りのことは、かなり怪しいので、興味のある方は、自身で本などで調べてみてください。

このブラフマンですが、後に仏教に取り込まれた際には梵天様になり、ヒンドゥー教には、ブラフマーという形で取り込まれています。
そして、ヒンドゥー教のシヴァやヴィシュヌと同一視される事になります。

梵我一如の梵がブラフマンということが分かったので、次は『我』『われ』とは何なのかについてみていくと…
『我』というのはアートマンの事で、個人を支配する根本原理の事です。つまりは、皆がそれぞれ持っている『わたし』という概念のことですね。
一如とは、この2つのものは同じ1つのものという意味で、つまり『梵我一如』とは、宇宙を支配する原理と個人を支配知る原理は同じものだという説です。

先程も言いましたが、ウパニシャッド哲学では2つの異質のものを、瞑想によって同一視するという試みが行われているので、その一環として生まれたのが『梵我一如』という事でしょう。
この『梵我一如』を考え出したのは『ヤージュニャヴァルキヤ』という人物で、この人物は、およそ紀元前750~前700年頃の人だとされています。

ちなみにですが、この考え方に大きな影響を受けて作られたゲームに、『デジタルデビルサーガ アバタールチューナー』という作品が有ります。
かなりネタバレを含んだ内容になるので、興味があって、情報がない状態でプレイしたいという方は、少し飛ばしていただければと思います。
とはいっても、13年ぐらい前に発売されたPS2のソフトなので、これを聴いて出来るかどうかは疑問が有りますけれどもね。

この作品ですが、女神転生の外伝という位置づけで作られたPS2のゲームなんですけれども、ラスボス・最後の敵ですね。これが、ブラフマンなんです。
そして、主人公たちは、アートマを宿していて、悪魔に変身する能力を持っているんですね。
説明しておくと、このゲーム内では、人間以外の存在を悪魔と読んでいるので、実際の宗教で神様扱いされているものも悪魔と呼ばれています。
実際に主人公達が変身するのは、アグニやヴァーユといった、ヒンドゥー教の中では神様扱いされているものに変身するんですが、設定上は、悪魔と読んでいます。

このゲームは、ロールプレイングゲームなので、道中で敵が出てきた際に戦う事になるんですが、敵を倒した際には、カルマと呼ばれる経験値が得られて、敵を食べて自分と一体化させることで、自身を強くしていきます。

これは、先程説明した、異質のものを同一視する考え方に通じる部分が有りますよね。
そして、物語を進め、最終的にブラフマンに到達した時に、ブラフマンは主人公たちに向かって、こういうんですよ。『自分自身と戦え』と
しかし実際に戦うのは、自身でも自身の分身でもなく、ブラフマンと戦うんですね。
これは、宇宙の根本原理であるブラフマンと個人であるアートマが同じという、梵我一如の考えですよね。

もう少しこのゲームについて話していくと、このゲームの面白いところは、あらゆるものを循環によって説明していくところなんです。
循環とはどういうことかというと、例えば、この世界では水が循環していますよね。
海に貯まっている大量の水は、太陽のエネルギーによって蒸発し、空気中に溶け込みながら上層へと登っていき、雲となって漂いますよね。
この雲は、様々なキッカケによって、雨となって地上に降り注ぎ、人の飲水になったり植物の糧となったり、地面に落ちて地下水になったり川に流れ込んだり、あるいはそのまま海に落ちたりするわけですが
流れを追っていくと、最終的には、また海に戻りますよね。これが、循環なんですよ。

これを、人や世界に置き換えるとどうなるのかというのが、このゲームの面白いところで、このゲームでは、今 私達が住んでいる世界は、情報の循環によって構成されていると考えいます。
先程の水の循環でいえば、海とはカオスで、あらゆるものが融合した世界で、その情報が雲のようになり、あるキッカケによって、雨のように大地に降り注ぎます。
その雨粒一つ一つが、私達が個体として認識している、自分達が考える『この私』とう意識ですね。つまり、この世界観の中では、物心がついて死ぬまでの間というのは、雨粒が誕生してから地上に落ちるまでの間という事になるわけです。

この人生の中で人は、様々な情報を受け取るわけですけれども、この情報の事を、カルマと呼びます。先程も言いましたけれども、このゲーム内では、敵を倒すと経験値としてカルマが貰えて、一定値以上貯めることで、レベルアップできます。
このカルマは、漢字で書くと『業(ごう)』という字になります。他人、もしくは先人が持つカルマである業を、何らかの形で授かる事によって、自身の情報量を上げるわけですけれども、この、業を授かるという行為を漢字二文字で表すと、授業になりますよね。
学校などで受ける授業ですね。こうした観点から見ると、授業というのは物事を暗記すると言ったことではなく、自分自身では到達できなかった、または、考えもよらなかった情報を得ることで、自分自身の考え方をアップグレードするものとも考えられますよね。

そして、また梵我一如の考え方に戻るわけですけれども、それぞれの個体は、一生を終えると、つまり、雨粒の例で例えると地面に落ちると、自分自身の自我を保つことができなくなります。
例えば、洗面器に水を入れて、その中にめがけて水を1滴だけ垂らして落とした場合、その水滴は、一度洗面器の水と同化してしまうと、二度と、その一滴だけを選り分けることができなくなりますよね。
これと同じで、自分という自我を保っていられるのは、意識が体の中に押し込まれている間だけ、雨粒の例で言うと空中にいる間だけなので、肉体が滅ぶ事で自我が情報の海であるカオスと同化してしまうと、二度と元の自分には戻れないということなんです。

ですので、この世界を情報の循環と捉えて、意識といったものも循環しているという思想は、一見すると輪廻転生的な考え方と思われるでしょうし
実際にそうなんでしょうけれども、ここで言う輪廻とは、皆さんが考えているような輪廻転生とは違うということですね。
つまり、『わたし』という自我を持った状態で、別の個体に乗り移るのではなく、死んでしまった段階で自分の意識はカオスの中へと取り込まれるので、次に形成される意識の材料にはなるかもしれないけれども
そのままの『わたし』という存在が生まれ変わるわけではないという事です。

この考え方で言うと、私という存在の元をたどると、あらゆる物が融合したカオスだということになりますよね。そして、全てモノもがそのカオスから生まれて、一時期だけ個体として切り離されるわけですけれども
最終的には、再び全てのものと融合し
次に、再び個体として『わたし』が誕生する際には、前に存在していた『わたし』というものを含む、全てのものが混ざりあったものから、別の『わたし』という存在が誕生するわけで
『わたし』という存在と『カオス』という存在は同じものだという考え方も出来ますよね。

誤解の無いように言っておきますけれども、この考え方はヒンドゥー教の考えがそうだと言ってるんじゃなくて、このゲームでの解釈がそうだと言ってるだけですからね。

他には、結構人気のある漫画でアニメ化もされた、『鋼の錬金術師』という作品が有ります。
この作品の中には、頻繁に、あるワードが出てくるんです。それは、『全は一 一は全』という言葉で、全てのものは一つであり、一つのものは全てであるというものですね。
この『全て』という言葉を宇宙の根本原理に置き換えて、一つのものを個人の根本原理に置き換えると、梵我一如の考え方になりますよね。

こじつけだと思われる方もいらっしゃるかしれませんが、一概にそうともいえないんですよ。
この作品は、錬金術という名の魔法のようなものが出てきて、それを駆使して様々なことを行っていくんですけれども、タブーとされている事が有るんです。
それが、人体錬成なんですね。この世界での錬金術は、理論によって魔法陣を構築して、錬成に必要な材料を揃えることで、様々なものを作ることが出来るという設定なんですね。
作品の中で、これまた頻繁に出てくる言葉の中に、『等価交換』という言葉があるんですが、無から有を作り出すことは不可能なんですが、最終的に錬成される物の原材料さえ揃っていれば、それを元にしてモノを錬成することが可能なんです。

しかし、人間を錬成する人体錬成はタブーとされていて、それを犯してしまうと、自分自身の中に存在する真理の扉の前に連れて行かれることになるんです。
その真理の扉の先には、この世のあらゆる知識、つまり宇宙を貫くだた一つの法則、真理があるんですが、それの ほんの一部手だけでも手に入れるためには、扉の鍵として、自分の体の一部を持っていかれる事になるんです。
ここでも、情報と自身の体の等価交換が行われているということですね。

この描写からも分かる通り、この世のあらゆるものを貫く究極の知識を守っている真理の扉は、自分自身の中にあって、その扉の先には、真理が有るんです。
この心理は、宇宙の根本原理にともいえるもので、それは、個人の中に存在するんです。
つまり、真理と個人は同一のもので、これは、作品の中に度々出てくる言葉である『全は一 一は全』という言葉に帰っていくわけですよね。
なので、梵我一如の考え方といった見方も出来るんですよ。

この作品は、先ほど紹介したゲームのように昔のものではなく、連載もここ数年で終わった、比較的新しい作品ですし、人気も高かったので、現在でも本屋で揃えることが出来ると思いますので、興味が有る方は読んでみてください。

で、前回の放送でも触れたんですけれども、東洋哲学では、知識による理解ではなく、体験によって理解をしなければなりません。
つまり、梵我一如という考え、人の根本原理と宇宙の根本原理とが、同一のものだというのを、知識ではなく体験として知ることが、重要になってくるようなんですね。

ということで今回は、梵我一如という考え方を軽く説明してきたわけですが、次回からは、より理解をるかめるために、梵我一如の『我』つまり、私という存在とはどういうものなのかという事について、考えていきます。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第8回 西洋哲学と東洋哲学の違い

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

doublebiceps.seesaa.net

前回までは、ギリシャ時代を中心とした西洋哲学について、私の認識を元に説明してきたわけですが、今回からは、東洋哲学について考えていこうと思います。
西洋哲学と東洋哲学の違いを簡単に説明すると、西洋哲学は知識や理性を重要視して、順を追って世界を読み解こうとしたり、説明していこう と していきます。

一応 誤解の無いように最初に言っておきますが、東洋哲学は結構早い段階で、仏教といった宗教と結びつきます。
この放送を聞いた方の中には、私が何らかの宗教の勧誘目的で放送していると思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そんなつもりはありません。
というのも私自身、宗教というものを知識で知っている程度で、何かの団体に入信しているわけではないからです。

私自身は、日本人でありがちな、クリスマスにはケーキを食べて、年明けには誘われれば初詣に行く。
まだ結婚はしてませんが、する事になれば結婚式には神父に依頼して来て貰うことになるでしょうし、自分自身や身内が亡くなった場合は、お寺に連絡するような人間なので、そういった心配はありません。

という事で話を戻して、前回までの話を簡単に振り返りながら話しますと、ギリシャ人は最初、自分達の説明の出来ない事を、神様を使って説明しようとしました。
雷が落ちたら、雷の神様であるゼウスが怒ったからだといった感じで説明し、考えても分からないものは神様を使って、神話の世界に押し込むことで説明していきました。

この考え方は、前にも言ったと思うんですが日本でも同じですよね。
日本でも、分からないことが起こった場合は、妖怪のせいにしていましたし、また、全てのものに神様が宿っているという八百万の神という考え方もありますよね。
これと同じような感じで、ギリシャでは自然現象や美といった概念的なものにまで神様を当てはめて、神話によって世界を理解していこうと考えます。
ただ、ギリシャ時代の人口は少なく、様々なところに点在していた為、それぞれの部族がそれぞれの神話を考えて行くことになります。

当時は移動手段も限られていた為、最初のうちは、部族同士の交流なども頻繁にあったわけではなく、それぞれの部族がそれぞれで作った、バラバラの神話を信じていることに問題はなかったわけですが
文明が進んで食料の確保などが比較的容易になる事で、各部族の人口は、どんどん増えていくことになります。
人口が増えると、当然のように、人々が暮らす村や町の面積が大きくなっていきます。そうすると、各町との距離も縮まっていくため、各都市との交流が生まれるようになります。

そうすると、各部族が伝えてきた神話に、矛盾が生じてくるようになります。
これは当然ですよね。各部族がそれぞれ勝手に、解明できない現象や概念に対して神を当てはめていっているので、部族ごとに神様の名前が違ったり、解釈が違ったりする事は仕方が無いことですよね。
この矛盾に対し、相対主義という考えを生み出すことで、解決をはかろうとします。

相対主義は、簡単に言うと、物事の理解というのは人それぞれの主観に委ねられているのだから、人それぞれで感じ方や考え方が違ったとしても仕方のないことだという考え方です。
同じ温度の水を触ったとしても、人によっては『冷たい』と感じるし、別の人は『ぬるい』と感じるかもしれない。
それは、どちらかが間違っているのではなく、人それぞれの考え方次第という考え方で、この考え方に照らし合わせれば、神話の解釈が他人事に違ったとしても不思議ではないという考え方です。

これに対し、ソクラテスが異論を唱えます。
相対主義の考え方では、人それぞれに感じ方が違う為、絶対的な価値観や真理がないことになります。
絶対的な真理が無いとした場合、人はそれ以上に考えることをしなくなる為、ソクラテスは再び人が考える状態を作り出すために、絶対的な真理を担ぎ出して、『無知の知』という考え方を生み出します。

この考えに影響を受けたプラトンは、絶対的な究極の存在を考えるために、イデア論を考え出し、その弟子のアリストテレスは、イデア論を批判し、現実に存在する物を観察する事を重要視して、化学の基礎を作り上げます。
この様な感じで、西洋哲学は、現状の矛盾を理論によって説明しようとしたり、その理論を発展させたり、時には理論を批判することで、新たな考え方を生み出していくという方法で、世界を解明していこうとします。
理論を一段一段積み重ねるように、一歩一歩進んでいく姿勢は、基礎研究を踏み台にして新たな発見や理論を構築する科学の考え方と、基本的には同じですよね。

この様な考え方のため、哲学というのは、読解力さえ有れば、前提書を読んで順を追って知識を吸収して高めていくことで、誰にでも理解をする事が可能となっている構造になってるようなんですね。
とはいっても、哲学書の、特に原書をそのまま直訳したような本は、非常に読みにくい書き方で、学ぼうとする人間をことごとく挫折に追い込むような感じになってますけどね。
正に、初心者殺しって感じの書き方なので、興味を持つ人は多い分野なのに、多くの人が挫折したりします。
こんな放送をしている私も、何回も挫折していたりします。
この様なジャンルのせいか、哲学は、哲学書1冊につき、入門書が1万冊有るなんて言われ方をしているぐらいですからね。
マルクスの本を少し読む)

これに対して東洋哲学は、自分の内面に焦点を当てて考えていき、ある日突然、真理を得た人が登場します。
そして、その人の言葉を基にして、周りの人がそれぞれ解釈を行う事で、大量の解釈が生まれていきます。
前にも紹介した、史上最強の哲学入門という本の東洋哲学編には、悟りを得た人を頂点としたピラミッド状のものが形成されると書いてありますね。

西洋哲学との違いを簡単に書くと、西洋哲学は、自分の外側にある世界や仕組みについて、辻褄を合わせる為の理論や解釈が生まれ、それを踏み台にする形で、新たな理論が生まれていきます。
これをひたすら繰り返して、究極である真理を追求する為に試行錯誤するわけですが、その一方で東洋哲学は、自分の内面に焦点を当てて考察を始め、ある日突然、真理を得た人が登場します。
その真理を得た人が、まだ真理を得ていない人達に、真理とは何なのかという事を解説していき、それを聴いた人達が、解釈本を出していきます。
人には寿命が有るので、悟りを得た人もいずれは亡くなってしまうわけですが、そうなってくると、それ以降の人達は、悟りを得た人に教えてもらった人の解釈本などを読み漁って、また解釈本を出していく。

これをアニメや漫画に置き換えると、オリジナルが発表された際に、コミケで二次制作が大量に生まれ、その二次制作に影響を受けた人が、さらに二次制作を手がけていくように、東洋哲学は、真理を得た人を頂点として、様々な解説や解釈本が出されることで、裾野が広がっていきます。
ただ、裾野の末端の方は、解釈本を呼んで独自解釈して書かれた本を読んで、解釈したものを本にして、その本を読んで独自解釈して書かれた本を…という感じで、大本の真理とはかけ離れたものになっていきそうですけどね。

つまり、西洋哲学と東洋哲学は考え方や構造自体が真逆になっているという見方も出来ますね。
西洋哲学が、無知の状態から順に知識を積み重ねることによって、山頂を目指す一方で、東洋哲学は、ある日『自分は頂上にいる』と宣言した人が出来て、その人を頂点とした山が生まれるからですね。
また、逆という見方でいえば、西洋哲学と東洋哲学は、真理についての捉え方や考え方も違います。



先程から言っている通り、西洋哲学は、理性的に考えて知識を蓄えていき、最終的に知識・理性によって真理に到達しようという考え方です。
その一方で東洋哲学は、、真理は体験だとします。
この、体験という考え方は、かなり斜め上な発想すぎて、西洋哲学的な考えをされる方には受け入れ難い方もいらっしゃるでしょうし、真理が体験と聴いて、余りピンッと来ていない方もいらっしゃるとは思うので、もう少しこの事について説明しますね。

真理が体験とはどういうことかというと、真理は原則的には他人に伝えることが出来ないんですよ。
この部分が、西洋哲学と決定的に違うところです。

例えばですね、ソクラテスに関する話を後世に伝えるために、弟子のプラトンソクラテスについて書いた『ラケス (対話篇)』という話があるんですね。
この話の中で、ソクラテスは有能な将軍に対し、『勇気とはどんなものなのかを知っていますか?』という質問をして、将軍はその質問に対し、『当然、知っていますよ』と答えるんです。
そこでソクラテスは、『勇気について知っているのであれば、当然、その事を言葉にして説明することが出来ますよね。 私に対して説明してくれませんか?』と言うんですね。
その後の展開は、この将軍がどんなことを言ったとしても、様々な可能性を出して、将軍の揚げ足を取り続けて、『貴方は、勇気について知った気になってただけですね』みたいな感じの話になるわけですけども…

このやり取りを見ても分かる通り、西洋哲学は、知っているのであれば、それを言葉にして説明できるということが前提となっています。
逆にいえば、西洋哲学的な考えでは、説明さえ出来れば理解していることになります。

それに対して東洋哲学は体験なので、同じ体験をしている人と共有することは出来ますが、それを言葉によって説明することは出来ないんです。
ですから当然、言葉でどんなに説明をしたとしても、それが体験を伴っていなければ、悟りを得たことにはなりません。

理解しやすいように、例えば、自転車を乗るときのことを考えてみましょう。
自転車というのは、スピードが出れば出るほど安定して、転びにくくなります。
その為、転ばないように自転車に乗るコツは、思い切ってペダルを力強く漕いで、一定以上のスピードを出す以外にはありません。

西洋哲学的な理解でいえば、自転車に乗る方法を知っている状態になる為には、既に乗れる人にコツを聴いて、『スピードを出すと転びにくいよ。』という事を教えてもらって、知った時点でOKのようです。
というのも、先程のソクラテスの勇気の理解を思い出してほしいのですが、西洋哲学での理解は、知識を持っていて、それをもとに他人に説明ができる事が理解なので、それが出来る状態になったということは理解したと言うことになるんでしょうね。

しかし、東洋哲学の場合は違います。東洋哲学での理解は体験なので、実際に自転車に乗ったという体験を得なければ、理解したことにはならなりません。
また、この体験というのは、言葉にして説明がしにくいものなので、言葉にしなくても良いし、それを行ったとしても本当の意味で相手に伝えることは出来ません。
ですから、先程挙げた、将軍とソクラテスの勇気についての問答を思い出してほしいのですが、将軍は、『勇気について知っている』を言ってるわけで、これは、ある種の体験が元になって理解しているわけです。
その為、他人に本当の意味で伝えることも出来ないし、理解しているかどうかを確かめるためには、色んな場面での出来事について、勇気が有るか無いかを判定していくことでしか表現できないことになります。
つまり登用哲学的な観点から見ると、この将軍は、勇気について知った気になっていただけではなく、知っていたと考えることも出来ますよね。

また、理論よりも体験を重視するという事は、他人に説明する時は、他の物事に例えても良いし、時には嘘をいっても良いとも考えられます。
何故、嘘が許されるかというと、嘘を言われた本人が、それをキッカケにして理解を体験できれば善いと考えるからですね。

嘘の例を一つ挙げると、『キサー・ゴータミー』という方についての話が有名です。詳しく知りたい方は、『キサー・ゴータミー』で検索したらたくさん出てくるので、調べてみてください。
簡単に内容を紹介すると、我が子を亡くした母親であるキサー・ゴータミーが、仏陀の下を訪れて、『私の子供が病気なので、知恵を貸してもらえませんか?』と相談に来ます。
抱きかかえられた子供は、どうみても既に亡くなっているのですが、ブッダはその事には触れず、『家族が誰も死んでいない家を見つけ、その家の庭に生えているケシを与えると、病気は完治しますよ』と嘘をつきます。
それを聴いた母親は喜んで、早速、村の家という家を訪れて、『この家では、誰も死んでいませんか?』と聴いて回るのですが、どの家も、誰かが死んでいる事を知り、死別した人間のことを話す家族の何とも言えない表情を何度も見ることで、母親は子供の死を受け入れたという話です。

ブッダの教えは明らかに嘘なのですが、大切な子供の死を受け入れられない母親に向かって、『貴方の子供は死んだので、諦めなさい』と正論を言ったところで、母親は聞く耳を持ちませんよね。
この母親にとって重要なのは、落ち着く為の時間と、同じ様に大切な人をなくした人達から話を聞くことですが、これを告げたところで、母親は聞く耳を持ちません。
そこでブッダは、母親の主張に耳を傾ける形で嘘をいうことで、効果的な行動を取るように導いたというわけなんです。

この様な感じで、東洋哲学では、体験を基にした理解が重要視され、教えも 体験を促すような嘘が散りばめられていたりします。
この辺りの仕組みが、東洋哲学がわかりにくくなっている大きな原因になっているようです。

先程も言いましたが、東洋哲学では、真理を得た人・悟った人というのが、まず最初に現れます。
そして、その人の教えや助言を周りの人間が聴いて書き写した解釈本というものが大量に作られ、その解釈本を読んで理解した人が、さらに自分の解釈をもとに解釈本を作り出すことで、裾野が広がっている状態です。
ここで重要なのは、解釈本を出している人達は、まだ真理を得ていないということです。
その為、ブッダが説明の為に話した嘘も、周りの人間はそのまま書き写すことになります。

ただ、先程の『キサー・ゴータミー』の例を思い出してもらってもわかりますが、この嘘は、我が子を亡くし、その事実を受け入れることが出来ない母親の為に、カスタマイズされた嘘です。
その状態、もしくは似たような状態の人間しか、この嘘によって体験を得ることは出来ないのですが、この嘘の助言も、普通に解釈本に書いてあったりするそうなんです。
この例の場合は、まだ状況が分かりやすいので、間違った解釈をしなさそうですが、こんな分かりやすいものばかりではなく、状況が想定しにくいような微妙なものも結構沢山有る感じなんですね。
なので、同じ様な状況に陥ったAさんとBさんに全く正反対のことを言っていて、それがそのまま解釈本に書かれて、後世の人は、その解釈本を読んで独自解釈を行っていくので、訳がわからないくなっていき、西洋哲学とは違った意味で、難解になっているようですね。

まとめると、西洋哲学は理性を重視したボトムアップ型で、前提本を読むことで、大抵の人の主張は理解できるように作られていて、東洋哲学は体験を重視するトップダウン型で、下に行けばいくほど解釈についての解釈といった感じで、主張がぼやけていってしまうものということですね。

日本の輸送と世界の輸送 【後編】

この投稿は、前回の続きとなっています。
まだ読んでおられない方は、先ず、そちらからお読みください。
kimniy8.hatenablog.com
前回の内容を簡単に振り返ると、米中の経済トップ国では、トラックシェアリングというサービスが導入されていて、すごいスピードで合理化が進んでいる。
その上、アメリカでは、Uber社がトラック自動運転の技術を持つ企業を買収したことによって、更に効率化を進めている現状について書きました。

この投稿を読んで、『日本でも、自動配送サービスは実験されているじゃないか!』と言った、反論をされる方もいらっしゃるでしょう。
確かにヤマト運輸は、ロボネコヤマトなる自動配達便を実験しており、効率化を進めようと頑張っています。
http://kimniy8.hatenablog.com/entry/2017/07/15/122944https://www.roboneko-yamato.com/www.roboneko-yamato.com

ですが、Amazonでは、更にその上を行く戦略を考えているようです。
前回も少し書きましたが、Amazonは既に、自前の配送システムを構築する為に動いています。
航空会社との提携も、この一環なんだと思います。
jp.wsj.com

そして、Amazonが次に進めているのが、ラストワンマイル問題への対応。
これは、中継地点から注文者の自宅に、いかにして物を届けるのかという問題です。中継地点や事業所と自宅の距離が1マイルしか離れていないのに、コストが大幅に掛かるという問題。
日本で問題になっている『再配達問題』なども、このラスト1マイル問題に集約されますね。

これを、いかにして解決しようかと考えた結果、Amazonが考え出したのが、アメリカのスーパー大手のホールフーズの買収です。
www.bloomberg.co.jp
何故、スーパーの買収が、配送に関係有るのでしょうか。
これは簡単な話で、私たちは普段の食事を家で食べます。当然、食材はスーパーへと書いに行きます。
なら、このスーパーにAmazonのロッカーを併設し、買い物をしたついでに、ロッカーから商品を持っていって貰えば、『自宅に届ける』という最も手間のかかる作業を省略することが出来ます。
アメリカの場合は、車社会ですし、スーパーへも来るまで行くので、家に持って帰る手間が大幅に増えるわけでもない。
これは、日本で言うところのコンビニと提携してのコンビニ受け取りサービスと同じわけですが、提携ではなく買収をした事で、より自由に手駒として使えるようになります。

そして、実店舗という視点でみれば、AmazonAmazon Goという無人コンビニのテストを行っていますよね。

このテストが上手く言った場合、このシステムを日本に導入する可能性は、非常に高いですよね。
というのも、日本のコンビニも『凄い!凄い!』とは言われていますが、実際には、搾取が酷い業界として有名です。
コンビニの運営元の『お客様』とは、実際にコンビニを利用する利用客のことではなく、コンビニオーナーなんて言われているぐらいですからね。

だって、最初に開業資金として1000万円ほど用意しなければなりませんし、商品は、最低限、決められた量を買わなくてはならない。
24時間営業なので、ちゃんと営業をしようと思うと、バイトもそれなりに雇用しなければなりませんが、儲けが少なければバイトを雇う事もできなくなる為、最終的にはオーナーが頑張って働くしか無い。
オーナーは個人事業主なので、残業という概念もなく、下手をすれば最低時給以下で長時間働かなければならず、途中でやめようと思うと、膨大な違約金が取られる。
何とか必死に営業し、お金をコツコツ貯めたとしても、2年毎に改装という名目で、コンビニのグループ会社にお金を持っていかれる。

余程の好立地でもなければ、ガレージにして貸しておく方がまだましというレベル。
それが、今のコンビニ業界だったりします。

一方で、Amazonが現在テストをしているのは、無人店舗。
基本が無人なので、仕入れした商品を並べる品出し作業と清掃をすればよいだけなので、バイトを雇わなくてもオーナーが単独で営業できる。
また、入り口でAmazonアカウントを提示して入店するため、店に迷惑をかける様な客はアカウントを剥奪してしまえば良いだけ。
Amazonアカウントの剥奪は、かなり不便な生活を強いられてしまう為、客もわざわざ迷惑をかけようなんて思わないでしょうし、無人だから荒らされるなんてこともないでしょう。
また、無人店舗なので、普通の店よりもカメラが多く、何か迷惑をかけた際には証拠映像も残りやすい。
この様な感じで、客側に圧力をかけられるため、コンビニ運営の仕事も減らせます。

この条件で、日本の大手コンビニよりも搾取具合が少ない場合、既存のフランチャイズオーナーはAmazonに鞍替えする可能性は、結構あると思います。
こんな感じで、Amazon無人コンビニが日本中に増えてくれば、この数だけ、Amazonは荷物引取ロッカーを設置できることになる。
この様に、客の生活範囲内で、労せず荷物を取りに行ってもらえるような環境を作ることで、自宅まで運ばなければならない荷物を減らすことが出来る。

また、そこら中に自社の息のかかった店舗を構えることが出来るということは、そこら中に倉庫を分散して持てるということ。
郊外に大きな倉庫を持つのではなく、コンビニのような小店舗を沢山持ち、それを倉庫にすることで、従来のインフラを使用することが可能になる。

例えば、前回の投稿でも紹介したUberは、タクシーのようなサービスだけでなく、宅配サービスも行っている。
これは、シェアリングエコノミーと呼ばれる分野で、既にあるインフラだが、余り使われていなかったり使い方が限定されているものを、もっと効率よく使ってしまおうという考え方です。

例えば、新聞の配達員は、朝刊と夕刊の2回、新聞だけを配っています。
では、今現在の新聞の市場はどうなっているのかというと、ネットに押されて右肩下がり。
しかし、一定数の契約が有れば、運ばなければならないのが新聞。この新聞配達員に、Amazonで販売された本やDVDなど、ポスト投函で大丈夫なものを運んでもらえば、新たにインフラを作ること無く、配達を行うことが出来る。
新聞配達員は、決まった時刻に受け持ち範囲を回らなければならない為、このついでに配達してもらえば、送る方も受け取り側も、そして配達料を貰うことが出来る配達員も、得をすることになる。

この様な目線で考えると、日本には無駄になっている配達インフラが多い。
ピザ屋の配達はピザしか運ばないし、ヤクルトの配達員はヤクルトだけを運ぶ。高齢化で増えてきた宅配弁当は、弁当だけを運ぶ。
この人達に、ヤクルトや弁当のついでに荷物を運んでもらえば、効率はもっと良くなるでしょう。
更にいえば、ヤクルトや宅配弁当を頼んでいる人は、その配達時間には高確率で家にいるわけで、再配達の心配もかなり減る。

こうして考えると、ヤマトや佐川の様に、ドライバーや委託業者の『頑張り』によって支えられているインフラというのは、効率が悪いし、構造としても脆い。
何故なら、『頑張り』によって支えられているということは、携わっている方々が頑張るのを止めた段階で、崩壊してしまうからです。
また会社側は、更なる効率を求めるためには社員を頑張らし続けなければならないため、ブラックになりやすい。
本来、経営者や政治家が考えなければならないことは、頑張らなくても回すことの出来る組織やシステムづくりのはずです。

アメリカや中国に差をつけられまくっている日本ですが、その差を頑張って埋めようとしている時点で、答えは見えているような気がします。
イノベーションて基本的には、『どうやったら楽を出来るか』という感じで進んでいくと思うのですが、頑張って乗り越えちゃったら、イノベーションを起こす必要がなくなるので、新たな技術は生まれにくいんですよね。
そして、イノベーションを起こさずに頑張って乗り越える前提を作ってしまうと、後続するものも、頑張ることを強要されてしまう。
そんな中、海外企業がイノベーションを起こし、頑張らなくても大丈夫なシステムを作っちゃったら、結果的に人がそっちに流れてしまい、ドンドン追い込まれていくことになってしまう。

日本もそろそろ、働き方に対する考え方を考えないと、取り返しのつかない事になるような気がします。

日本の輸送と世界の輸送 【前編】

少し前のことですが、わたしの書いた投稿が、珍しくバズり、多くのアクセスを頂くことになりました。
kimniy8.hatenablog.com
これを読んで、読解力が無い一部の人達からは、『客が運送業者の事を考えなくて良いなんて横暴だ!』『持ち株会社の仕組みを理解してないw』という、よく分からない意見なども頂いたのですが…
この記事で問題視したことは、運送業の現場で働いておられる方々が、搾取対象になっているという事なんですね。
また、持ち株会社の仕組みは理解してますが、その仕組みによって搾取がし易い状態になってることを問題にしてたんです。

ですので、客は運送業者のことを考える必要は、無いんですよ。経営者が、従業員の事を考えればよいだけです。
運送業者が『人手が足りない! 』というのであれば、給料を高くして人手を増やす事で、従業員の待遇は簡単に解決します。
それによって、運送料が高くなるのであれば、それはそれで仕方のないことですし、料金を上げたことで仕事が減って売上が減るのであれば、上層部が搾取率を下げればよいだけです。

まぁ、この様な批判的な意見は実際には少なく、多くの人が賛同してくれましたし、実際に働いておられるドライバーの方からも、実際の荷物量が格段に増えているのに、手取り給料は下がったなんて報告もいただきました。
取扱荷物が増えているのに給料が下がるという現象は、一個あたりの荷物の単価を下げないと起こりようがないので、問題は運送業種の経営者に有るのであって、客に有るという意見はよく分かりませんよね。だって私達客は、運送料の値下げ運動なんて行ってないですし。

この投稿をした直後ぐらいに、ヤマトによる残業代未払いが報道されましたし、この問題は、経営サイドの問題であることは明らかですよね。
また、運送業といえば、大半の人が業務請負で仕事をこなしているわけですが、この方達に関しては個人経営者扱いなので、残業代なんて概念が存在せず、不当な値下げ圧力をヤマト等から受けている可能性も有ります。
闇はまだまだ深そうです…

そして自体は、ヤマトによるAmazon脱退というところまで進展しました。
まぁ、先程書いたような文脈の読めない一部の人達を除き、少し考えれば経営サイドの問題であることは明白なので、その状態を放置すると経営陣は責められてしまうので、何らかの対処をしなければならない。
結果として、安く請け負っていたAmazonから撤退するという選択をしたのでしょう。それはそれで、経営判断なので、良いと思います。

この件を受けてネットでは、『Amazonが、ヤマトに見捨てられたw』といった感じの意見が見られるようになり、Amazonが他の業者に頼んだ事で、配送ミスが発覚すると『ザマァ!』といった書き込みも見るようになりました。
その後、Amazonが独自の配送ネットワークを作る可能性が示唆されると、『日本の運送業が、どれだけのコストをかけて作ってると思ってんだ?今から参入して、出来るわけ無いだろw』と、これまた、上から目線での書き込みが多数。
日本を愛する気持ちは私にもありますし、その気持もわかりますが、それ故に、『日本が最先端!』と思い込むのは、視野を狭めてしまい、まともな思考ができなくなってしまうと思うんですよね。

という事で前置きが長くなってしまいましたが、今回は、配送やネット通販の未来について考えていこうと思います。


まず、今から運送のインフラを作ることは不可能なのでしょうか。
結果からいえば、出来ます。 しかも、ほぼコストを掛けない形で。

先日、WBSというテレ東の経済ニュース番組で特集していたことですが、日本人の多くが散々バカにしている中国で、トラックシェアリングというサービスが登場し、既に動き始めています。
この事業には、中国国内の企業だけでなく、システム開発にアリババも参入し、かなり本格的に行われている事業です。

では具体的に、トラックシェアリングとは何なのか。
簡単にいえば、トラック版のUberです。
Uberとは、簡単に言えばカーシェアリングサービスアプリの一種なのです。
先ずアプリを導入し、利用者は、車に乗せて欲しい時に配車を依頼する。そうすると、Uberアプリを導入している近くのドライバーが通知を受けて、その場所まで迎えに来てくれるサービスです。
誰でも登録できるタクシーサービスといえば、分かりやすいでしょうか。
端末のGPSを利用して、全てがアプリ内で完結するため、オペレーター要らずの優れものですね。

このUberですが、日本では一部地域を除いて禁止されています。
理由は色々言われていますが、一番大きな理由としては、既存のタクシー業者からの反対でしょう。
まぁ、聞こえの良い言い方をすれば、『日本には、タクシーという優良なインフラがすでに有るので、そんなものはいらない』ということなんでしょうけども、実際に導入されれば、タクシー会社というのは存続が難しいのでしょう。
何故なら、ドライバーがみんな、Uberに行ってしまうから。
そりゃ、ドライバーからしてみれば、タクシー会社に就職すると、会社にノルマ課せられる上に売上をピンハネされるわけですから、そんなサービスが始まったら、みんな、Uberに行っちゃうでしょう。

トラックシェアリングというのは、このUberのトラック版。
荷物を運びたい人が、トラックシェアリングアプリでトラック呼び出しボタンを押すと、アプリを導入しているトラックに集荷場所と目的地が通知される。
トラック運転手は、自分の通る経路と相談しながら、その発注に対して受注するかどうかを決める。
このシステムの凄いところは、集荷した荷物を、中継地点に持っていかなくても良いというところ。
集荷場所と目的地が配信されているので、例えば、自分が既に荷物を運び終わっていて、後は家に帰るだけの状態でアプリを確認した時に、自分の帰り道にの範囲内に集荷場所と目的地がある場合、そのドライバーは、家に帰るついでに荷物を配達することが出来る。
つまり、ドライバーに負担をかけること無く、当日配達が可能になっているところ。

では、物凄く遠くの場合はどうなのかというと、これも、バトンタッチが出来るような共有の荷降ろし場所というのが用意されていれば、何の問題もない。
特に中国などは、良くも悪くも共産党の一党支配で、土地も全て国有地なので、その様な土地を用意することは容易いのでしょう。

近い場所であれば、ダイレクトに運ぶことで当日配送が可能。遠くの場合も、中継場所を用意すれば問題なく届けられる。
また、集荷や荷降ろしと行ったデータは、ビックデータとして全て蓄えられている為、それを利用することで、どの場所に中継場所を作るとか、トラックの台数をどの地域にどれ位にすれば良いのかというのが、数値としてわかる。
このアプリを利用しているドライバーの多くは個人事業主なのですが、アプリで、どの地域にトラックが不足していて、どの地域では余っているというのが公開されていれば、仕事が欲しい人はトラックの少ない場所に陣取ってくれるため、効率も上がる。
つまり、このアプリが行っている事というのは、運送業者のホワイトカラーが行っている仕事を、ほぼ全自動でやってくれているというわけ。

更に凄いのが、このアプリの利用は無料ということ。
アプリが無料なだけで、実際に配送を利用する場合には運賃が当然かかるが、ドライバーからしてみれば、ピンハネ経営陣がいなくなって手取りが増える上に、効率よく仕事が得られるわけですから、一石二鳥というわけです。
荷物が破損した時はどうするんだといった話は、そのアプリ利用者が保険に入れば良い話で、保険は保険会社に頼めば作ってくれるでしょう。

この様なトラックシェアリングアプリは、中国だけではなくアメリカでも導入されていて、動きは更に進んでいます。
先程紹介したUberは、トラックを中心とした車両の自動運転技術開発を手掛けるスタートアップ企業、オットー(Otto)を買収したようです。
smartdrivemagazine.jp
Uberの配車システムと、トラックの自動運転。。。深く考えなくてもわかりますが、輸送の無人化、低コスト化の実現に向けて、着実に進んでいる感じです。

【つづく】
kimniy8.hatenablog.com

日本での『脱時間給』という考えが 不安しか無い件について

Twitterを観ていたところ、トレンドのところに『脱時間給』というワードが入っていました。
少しし食べてみたところ、働き方改革の一環のようで、従来の時間給という労働形態から、本当の意味での成果報酬にするという制度のようでした。

もう少し具体的に書くと『高度プロフェッショナル労働制』というもので、一日の成果によってお金が支払われるので、その成果を出すのに、何時間かけようが支給額は一緒という事。
つまり、2人の人間が同じ仕事をする際に、1人は12時間かかり、もう1人は2時間で終わったとしても、支払われるお金は一緒という事になり、拘束時間がないために、実質残業というものが存在しない。
早く帰りたい人は、効率的な仕事を行って早く帰れば良いという考え。
全産業に適応されるわけではなく、年収1000万を超えるようなホワイトカラー層にのみ適応されるという制度。

この話を聴いた率直な意見を言わせてもらうと、これを最初に観た時には、『日本もようやく、この様な考えに…』と、制度そのものには好感を持てたのですが、その直後に、嫌な予感がしてきたというのが素直な感想です。
では何故、短時間で正反対の印象を持ってしまったのかを、書いていこうと思います。

まず、最初に好印象を持ったのは、日本の働き方そのものが、生産性を低くしている原因だと、私は思っているからです。
時間給という働き方は、会社が個人から拘束時間を買い上げることで成立しているわけですが、これが結構、曲者だったりします。

残業をしなければ生活が困難な程に低い基本給の人は、就業時間に出来るだけ仕事をサボって仕事を遅らせて、毎日残業を一定時間こなすことで、一ヶ月の給料を確保するという事が起こってしまう。
基本が真面目でサボりをしない人も、仕事を運営する上では特にしなくて良い仕事を、残業のために作り出して仕事をするということをやっていたりする。
この様な行為は、会社側からすると『やってもやらなくても業績に関係のない仕事』なので、サボられていることと同じになる。

最近のテレビなどを見ると、『日本は真面目で、作り出すもののクオリティーも凄い!』なんてのが繰り返し放送されている為、そうなのかと思ってしまうが、実際の海外の反応としては『日本人は働いているフリをしているだけ』という意見も観られる。
news.mynavi.jp
そういう目線で見ると、日本の生産性は、日本のワイドショーが散々バカにしていたギリシャよりも低いわけで、その原因の一つになっているのが時間給なので、この考え方が根本的に変われば、少しは改善するのではないかと思ったわけです。


しかし、少し間を置いて考えると、おそらく日本ではうまくいかないのではないかという不安しか残らない。
というのも、これと似たような事が以前に提案され、それが巡り巡って、貧困層をより増やすことになったからです。
その似たようなことというのが、派遣労働です。

この派遣労働は、当初は、通訳などの高度な技能を持つ人間だけに適応される制度のはずでした。
高度な技能を持つ人というのは希少価値がある為、そこら中から引く手数多の状態。そんな状態の人の働く幅を増やす目的で作られたのが、派遣労働だったと記憶しています。
この考え方も、普通に考えれば悪い制度ではありません。
希少価値の有る人間は、需給関係からみれば強い位置にいるため、値段交渉なども優位に進めることが可能です。
また、一つの企業に拘束されるわけではないので、自由な働き方を選択することが出来る。
雇う企業側も、常時必要というわけではなければ、必要なときだけ覇権を頼めば良いため、win winの状態となります。

しかし、この制度。何故か、単純労働・低賃金の職場にまで適応されることになります。
その結果として行われたのが、正社員を派遣社員に入れ替える行為。
多くの企業には、閑散期と繁忙期が存在します。閑散期は人が必要ないし、繁忙期には人手が足りない。
従来までの経営であれば、繁忙期であれ閑散期であれ、正社員で対応し、繁忙期の忙しい時にはバイトで補充としていたわけですが、派遣の導入によって、閑散期に人員カットが可能となりました。
こうなると、今までは『暇な時期に有給取っておけ』となっていたのが、絶えず人数ギリギリで仕事を行う為、有給もとれずに働き続けることになる。
誰かが休むだけで、その埋め合わせをする為に残業しなくてはならないようになる。

ここまで読んで、最初に書いていた『日本人は仕事をするフリをしている』という話と、今書いた『派遣労働によって、現場は常に人がギリギリ』という話は、矛盾するのではないかと思われる方も、いらっしゃるのかもしれません。
確かに、私の表現力不足も合って、この文章だけを読むと、そう読み取ってしまってもおかしくはないのですが、そうなってしまうのには理由が有って、日本は現場にお金を払わないという独自の風習が有るからです。

例えば、震災で原発が事故を起こした後、東電が被災処理をする人を確保するために、募集をかけたという話は記憶に新しいですが、その際、何故か派遣会社が間に8個ぐらい挟まっていたという事が起こりました。
つまり、東電が人員募集し、それを派遣会社が派遣会社に発注し、それを受けた派遣会社が派遣会社に発注して…という無意味なことを8回繰り返し、その全てで中抜きが行われ、現場で支払われたお金は、危険な仕事にも関わらず最低時給並ということが起こったのです。
これは極端な例ですが、これと同じようなことはどの業種でも起こっていますし、会社内でも起こっています。
少し大きな企業に勤めている方なら、『この上役の人は、何のために存在しているんだろう』という人が一人や二人はいるのではないでしょうか。
また、現場で働いている人は、『この間に挟まっている会社は、何のために存在しているんだろう。』と思うことはないでしょうか。

この様な、特にどこからも必要とされておらず、むしろ、間に挟まることで伝言ゲームに失敗し、足しか引っ張らないような中間搾取企業が日本には大量に存在し、その人達が、仕事をしているフリをしている。
仕事をしているフリをしているだけなので、当然のことながら、生産性が上昇するわけもない。
一方で、現場に一番近いところで働く人たちは、中間搾取者がピンはねし切った微々たるお金で、身を粉にして働いている。
本来なら不可能なはずの高品質で、大量の数の製品を安価で生産させられるため、ここもまた、生産性という観点からは低くならざるを得ない。

この様な、ちょっと変わった風習を持っている日本ですから、『脱時間給』の旗のもとに改革が行われると、当然のように、第二の小泉・竹中の様な人間、もしくは当人が現れて、単純労働や低所得の仕事にも『脱時間給』を強いるようになる。
そうなると現場の人間は、一日では到底生産できないような量を『一日分の仕事』と押し付けられ、労働を強いられることになる。
当然のことながら、『脱時間給』なので、支払われる金額は一日20時間働こうが、貰える金は一定となる。
その一方で、『何のために存在しているのかわからないような上役』や『何のために存在しているのかわからない中間搾取企業』の人達は、上から来た情報を伝言ゲームのように下に伝えるだけなので、一日10分ぐらいの勤務で、同じ様な給料をもらうことになるんでしょう。

日本のような環境では、この新制度により、より二極化が進む可能性が有ります。
では現政権は、これを解消するために何か取り組んでいるのかといえば、『金持ちが豊かになれば、お金を使ってくれるはず!トリクルダウン』と有りもしない理論を打ち立て、二極化をより促進しようとしている。

資本主義というのは、放って置いても二極化するものなのに、富裕層優遇政策をとれば、それが加速するだけで、豊かなものはより豊かになり、貧しいものはより貧しいものになるだけ。
でも、それをより促進させようとしている現政権が進めている『脱時間給制度』には、不信感しか無いということ。

『制度』というのは、単に枠組みに過ぎず、結局のところは、それを運用する人間によって、良くも悪くもなります。
日本では、『お客様は神様だろ!』という自称神様が、上から目線で制度を悪用して押し付けてくるので、結局のところ、他国で成功している制度を輸入したとしても、良くはならないような気がします。
大切なのは、『制度』では無く、労働と言ったものに市民がどのように向き合うかという国民性。

カネさえ払えばお前は奴隷で、俺は神様という考えでは、結局のところ、労働環境は改善しないのではないでしょうか。

今 話題?になってるVALUについて感じる違和感

ここ最近、VALUという名前を目にしだしました。
気になって調べてみたところ、自分という個人を株式会社に見立て、株を発行して売り出す事が出来るサービスのようです。

売買そのものは現金ではなく、ビットコインという仮想通貨を使うわけですが、ビットコイン自体が実際の現金で取引されている通貨なので、現金といっても過言ではない。
つまり簡単に説明すれば、自身を市場に売りに出して、他人に購入してもらうという仕組みが、『VALU』というわけです。

まぁ、何というか…
凄いサービスが出てきたものですよね。
何が凄いって、個人が発行する株(VA)のようなVALUには、何の裏付けもないという事。
この、何の裏付けもない株のようなものを、何の裏付けもないビットコインで売買するわけですから、旧式の価値観しか持ち合わせていない私の様な人間には、とてもじゃないが、ついていけない。
というか、違和感しか無い感じです。

という事で今回は、『VALU』のどの辺りがついていけないか、違和感があるのかを、書いていこうと思います。

先程は、VALUは個人を株式会社のようなものに見立て、株式(MY VALU)発行をするという説明をしました。
しかし実際に観てみると、株式会社の株式発行とは似ても似つかない構造だったりします。

どのあたりが違うのかというと、株式会社が発行する株は、会社の価値を等分割した値段がついています。
つまり、会社に1億円の価値がついていて、100万株の株式を発行している場合は、1億を100万で割った100円というのが、1株の値段ということになります。
では、会社の価値はどの様にして計算されるのかというと、一番指標になりやすいのが、PBRという指標。
これは、会社が持っている資産を全て売却し、会社が持つ現金資産などと合算した数字である『会社の資産』と、株価との比率で観ます。

仮に例で出した会社の資産が1億円の場合、会社としての価値である時価総額(発行株式数と株価をかけ合わせたもの)と会社の資産が釣り合う為、PBRは1倍となります。
会社の資産が2億円の場合は、PBRは0.5となり割安とされ、資産が5000万しか無いのに1億の時価総額の場合は、PBRは2倍となります。

では、PBRが1倍を超えるものは全て、割高となるのかといえば、そうではありません。
会社というのは業務を行うことで利益を出す為、会社の経営がうまく言っていれば、毎年のように資産が増えていきます。
それらを想定して計算された結果が、現在の株価というわけです。

また、会社=株式であるため、会社が株を発行して他人に販売するということは、会社を切り売りする事と同じです。
毎年のように株式総会を開かなければなりませんし、経営に関して株主が口を出してきますし、保有割合によっては、株主の意見を聞かなくてはならない義務も生じます。
この様に、株式の発行は会社の切り売りである為、株券には会社という存在そのものが裏付けになっています。

一方、『VALU』ですが、先程も書きましたが、何の裏付けもありません。
株と同じというのであれば、個人を売り出すということは個人を切り売りするということで、過半数の株を抑えられてしまえば、本来であれば、株主の奴隷となります。
しかし、『VALU』では、そのような事は一切ないようです。
当然といえば当然ですよね。そんな制度にしてしまえば、それは立派な人身売買に当たるわけですから、規制の対象になるでしょう。

では、裏付けが何もないとはどういう事なのでしょうか。
これは簡単にいえば、購入したところで特に意味はないという事で、さらにいえば、発行元である個人が、自分のMY VALUを売るだけ売って、在る日突然、『VALUやめま~す』という事も可能ということ。
そもそも、何の裏付けも無いものを購入しているわけだから、購入者はこれに対して、『買い戻しをしろ!損失補てんしろ!』と強制することも出来ない。

じゃぁ、購入者は何のために買うのか。
これは、端的に言ってしまえば、『転売して利益を得る為』でしょう。
VALUは転売できる為、価格が上がりそうな人間のVALUを購入し、高値になったところで他人に売りつければ、利益を得ることが出来る。
株で言うところの、譲渡益を得るための売買と同じで、これが、『株式投資と似たような』というところでしょう。(裏付けがない時点で、根本的には全く違うわけですが。)

しかし、これはこれで問題が有る。
というのも、本物の株式投資と違い、そもそも何の裏付けもない物の値段が変動し、それが転売できるとなると、当然のように投機対象になり、仕手戦や情報戦が行われることになる。
実際の株式市場の場合は、こういうことが出来ないようにインサイダー取引に目を光らせているし、買占めによる価格吊り上げを抑止するために、3%以上の株を買う際には公言しなければならないなんてルールも有る。
会社が不正会計を行ったら取引所が監理ポストに入れたりする。
不正会計などをやれば、上場廃止なんてことにもなり、投資家保護を全力で行うわけですが、VALUにはこれが全く無い。
当然のことですが、株価に大きな影響を与える新規で株式発行をする増資の際には、投資家に話を通す必要が有ります。

その一方で、VALUはこの辺りのルール整備がされていない以上、規制するための判断材料も無いため、買占めによる価格吊り上げやインサイダーもやりたい放題。
また、新株発行に当たるMY VALUも、1回ごとに500円の手数料を払えば行えるようで、発行上限も特に見つけられなかった。
これでは、時価総額が高くて1VAの価格が高い人間は、増資しまくって売りまくれば、かなりの利益を得られるが、投資家側はVAの希薄化によって損失を被る。
結局、立場の強い人間だけが利益を得られる、投資において一番ダメな構造になってしまっている。

こう書くと信者の方は、『VALUは、投資目的での利用を推奨していない!』と反論するだろうが、では何故、価格が変動するような構造にし、転売できるようにしているんだろうか?
そもそも、他人のアイデアや考えを純粋な意味で応援するだけなのであれば、価格が変動する必要はないし、転売できなくても良い。
『こんなアイデアを実現したいから、お金が必要なんだ!』と投資を募るマイクロファイナンスなんて、そこら中に有る。

また、ブログやPodcast等の何らかのウェブコンテンツを作っている方を応援する場合、『いつも楽しませていただいています!』と一言伝えるだけで、応援は出来る。
お金を支払いたいのであれば、『感謝の気持ちとして、Amazonギフト券か現金振込をしたい。』と伝えれば、受け取ってくれる人も多いだろう。
絵や物を作っている方を応援する場合、実際に商品を購入するという形での応援も出来る。
なぜ応援するために、わざわざビットコインで投資をする必要が有るのだろうか?
VALUが利益目的の投資ではなく、『応援だ!』と主張する方には、是非、このあたりの疑問に答えてもらいたい。

その他の反論として考えられるのが、『VALUには優待制度があり、購入した人間もメリットが得られる!』というもの。
しかしそれは、本当にメリットなんだろうか。
例えば、『仕事として経営コンサルタントをしているので、VALU購入者には、経営の相談にのることが出来ますよ!』という優待があったとしよう。
普通に考えればわかることですが、この優待はそもそもVALUを通す必要がない。
仕事としてコンサルタントをしているのであれば、正規で依頼すれば良いだけです。
投資家がメリットを得られるとすれば、優待のほうが正規で依頼するよりも価格が安いときだけですが、『安いから』という理由で優待狙いで買うのであれば、それは応援していることになるんだろうか?
その人を、本当の意味で応援したいのであれば、料金が高い方を選んであげれば良いのではないでしょうか。

価格が変動し、尚且つ、それを転売できるシステムである以上、投資目的での参加は想定内と考えるべきだろう。そう書かないのは、法律に引っかかる可能性があるとか別の理由で、実際に投資目的での参入がないと流動性が確保できない。
流動性が確保できないということは、手持ちのVAを売りたい時に売れないとう事。売って資金回収が出来ない投資は、ただの寄付でしか無い。

寄付なら寄付で、そう説明すればよいのだが、運営側はそうは書かずに、VAを資産だと言い張っています。
個人が個人に寄付をするなんて説明しても、『寄付なら、わざわざVALUを通してやらなくても良くない?』と突っ込まれるでしょうし、市場流入する人も少ない状態となる。
そうなると、手数料収入で稼ぐVALUにとっては痛手という事になる。
だから、『もしかしたら、儲けが出るかもしれない』という可能性で、情弱を釣るしか無い。買ったが最後、売れない可能性がある事は隠して。

また、運営側のこの動きは、既にVAを発行していて時価総額が高い人間とも、利益が合致する。
VAが投資で、儲けを出す為の絶対条件は、自分が購入した後に売りつける相手を見つけることです。
その条件を満たしているのは、時価総額が高くて出来高が高い人間ということになり、市場参加者が集まれば集まるほど、時価総額出来高上位に取引が集中することになり、バブル相場になりやすい。
そうなった時に一番利益が出るのは、500円で新株発行が出来る上位者なので、この人達は自身の利益のためにも、死に物狂いで市場に呼び込みをかけるでしょう。

こうした視点から見ると、VALUに対しては違和感しか感じないんですよね。

ホワイト企業を叩く精神によって追い詰められる日本

Twitterを観ていたら、TLにこの様なツイートが回ってきました。

内容は、ホワイト企業にバイトに行った方が、ゆとりを持って仕事を出来る環境に感動してツイートした事に対し、『甘え』『ホワイト企業というより、だらしのない企業』『仕事を舐めてる』といったバッシングが返信されたというもの。
まぁ、この辺りの認識が、日本がドンドン貧しくなっていっている原因なんだろうなと思いました。
http://www.from-estonia-with-love.net/entry/pjapanwww.from-estonia-with-love.net

という事で今回は、ゆとりのある企業を叩くと何故、貧しくなっていくのかについて考えていきます。

貧しい会社とゆとりのある会社に分かれてしまうのは、資本主義の構造的な問題で、資本主義を長く続けていれば、この現象は確実に起こっていきます。
というのも、資本主義というのは良くも悪くも競争社会。
他よりも優位に立つことが出来れば、利益を独占しやすくなる構造に有るからです。

その業界で利益を独占できれば、当然のように会社には金銭的な余裕が生まれるわけで、職場環境を良くすることが可能となります。
具体的にいえば、よりたくさんの人員を雇うことが出来るし、給料も沢山支給することが出来る。

人が潤沢な場合は、仕事を分割する事で早く終わらせることが出来る為、労働時間の短縮につながります。
労働時間が短縮されれば、無意味なサービス残業などが無くなる為、労働者は就業時間に帰宅でき、趣味などに時間を費やすことが出来ます。
この上、同じ業界内でも給料が高いとなれば、この会社の人気は非常に高まります。
すると優秀な人材は、この会社への就職を第一志望とする為、この会社は優秀な人材を選び放題となります。

余裕が有れば、人材の上澄み部分だけではなく、従来の考え方とは違った人も冒険的に雇うことが出来る為、多様な人材を確保できる。
こうなると、会社の考え方も柔軟になりますし、そもそも優秀な人達が集まっているので、仕事の効率も非常に高い元のなる。
すると当然のことですが、新しいアイデアを元にしたサービス・製品などが、この『ゆとりの有る会社』から多数発売されることとなり、この会社は、さらに業界内での地位を高めていく。

後は、この循環をキープするだけ。
それだけで、世界中から優秀な人材を集めることが出来て、最終的には世界と戦える企業へと挑戦できる可能性が出てくる。

その一方で、この様な流れを『甘え』『だらしのない企業』『仕事を舐めてる』と批判している方が勤めている会社はどうでしょうか。
普通に考えればわかりますが、先程の『ゆとりのある会社』とは真逆の循環が起こります。

つまり普通の人は、過酷すぎて勤めたくないと思っているような会社なので、普通の人は面接に来ず、『内定が取れないし、ここでも仕方がない』と考える学生や、他の会社で辞めたり捨てられたりした人が、生活する為の資金を稼ぐ為、仕方なくこの会社に面接しに来る。
労働環境が過酷な会社は、そもそも求人をかけても人が来ないような人気のない会社なので、そんな人材でも面接に来てくれたら雇うしか無い。
しかし、そういう消極的な理由で面接に来た人が、効率の良い仕事ができるはずもない為、予算内で仕事を納める為には、サービス残業をせざるを得ない。
この会社で働く労働者は、家と仕事の往復で、家に帰ってもご飯を食べて寝るだけで、当然、趣味などに費やする時間などもない。
というか、趣味なんてやってることが会社にバレたら、『そんな事をしている暇があったら、仕事をしろ!』『社会人が趣味とか、甘え』とバッシングされる為、精神的プレッシャーからも出来ない。
仕事しかしていない人は多様な考え方が出来ないため、当然のように、新しいアイデアなども浮かぶはずもなく、目の前にある仕事を低コストで受注する事しか出来ないので、ますます悪循環に突入する。

分かりやすくする為に少し極端な書き方をしましたが、今、起こっている事は、概ねこのようなことです。
そしてこの現象は、世界で起こっています。

つまりは、本当の意味で優秀な人材は、日本企業ではなく、AppleAmazonGoogleなどを目指すという事。
日本人に生まれたから、日本で就職しますというのは、今や常識ではなかったりする。

そういった目で、改めて日常の生活場面を振り返ってみると、先程のリンクではないが、日本の地位は年々下がっていることがわかる。
私がまだ子供だった頃、つまりは二十数年前は、自分の家に合った家電の殆どは、日本製でした。

しかし、今改めて家の中を見渡すと、PCはNECでは無くHP製だし、テレビは東芝からLGに変わってる。
冷蔵庫は三菱からハイアールに変わってるし、壁掛け時計は台湾製
PS4はソニーなので、日本の会社なのですが、保有しているソフトは90%以上がアメリカを代表とする海外製。
今や手放せないiPhoneはもちろん、中に入っているアプリでも、頻繁に使うものに日本製のものなんて無い。

当然といえば当然でしょう。
社内環境が良かった!と感想を書いただけで、様々な方面からバッシングされるわけですから、そんな国で新しいものを作れる柔軟な発想ができるはずがありません。
日本はとっくの昔に、下請け国に成り下がり、コストでしか張り合うことが出来ない国になっていたということなんでしょう。

戦時中のテレビや新聞は、日本軍が明らかに負けているにも関わらず、他の国を圧倒しているという情報を流していたと聴いたことが有ります。
今の日本のテレビ番組を見ると、『ホルホル番組』と呼ばれる、『日本はこんなに凄いんだ!』番組が多く制作されていますね。
新聞の方はといえば、中国や韓国の悪口が、さり気なく織り込まれていますね。
歴史は繰り返すのだとするならば、日本では、ある日突然、敗戦したと告げられるんでしょうね。

そういえば、中国企業が新卒を初任給40万円で雇用すると行った話が有りましたね。
news.yahoo.co.jp
これによって、日本から出ていきたくないと思っている優秀な人材も、他国の企業に吸い取られやすい状況が生まれましたね。

今現在、アジア各国では最低賃金の引き上げが行われているようですが、最低賃金比較で日本が最安値となった時、一体どうなるんでしょうね。
日本は、上から目線で『人手不足解消のために、外国人労働者を…』なんていってますが、外国人労働者にそっぽ向かれるどころか、日本人の中でも優秀な人間が、中国などに出稼ぎに行く未来も考えられますね。

そうなる前に、日本の労働者は『奴隷の鎖自慢』なんか止めて、自身の権利を訴えるべきだし、と思うんですけどね。
いきなり訴えるのは難しいのであれば、まず、職場環境が良い企業の話を聴いた際には素直に、『うらやましい』というところから、はじめてみるべきなんでしょうね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 】第7回 西洋哲学 (6) 自由は皆が欲しているのだろうか

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

doublebiceps.seesaa.net

前回は、アリストテレスが、国家の構造をどのように認識していたのか。そして、それを構成している奴隷について、どの様に考えていたのか
また、その思想が現代にどのような影響を与えてきたのかについて考えていきました。

今回は、では何故、『奴隷は奴隷になるために生まれてきた』といった考え方になったのかについて考えていきます。
これは、アリストテレスが主張した、四原因説という考え方が、元になっているんだろうと思います。
四原因説は、この世にあるもの全ては、四つの原因によってもたらされているという考え方です。

この考え方は、まず、物事を2つに分類します。
質料因と形相因ですね。
この四原因説の説明で頻繁に用いられる銅像を例に挙げて話してみますと 
銅像というのを質料因と形相因に分けるわけですが、この時に質料因は何に当たるのかというと、原材料となっている銅に当たります。
では形相因とは何かというと、その銅を銅像たらしめているものですね。

この形相因は、更に2つの事柄に分けることが出来ます。作用因と目的因です。
作用因というのは、原材料の銅を、像のように見せるために加工する作業のことです。
そして目的因は、その銅像を作ろうと思った目的です。 この4つの原因 質料因・形相因・作用因・目的因は、全て、目的因によって主導されます。

例えば、ソクラテスという偉大な人物を後世に伝えたいと思った時に、その方法・手段として、銅像をつくって残そうという目的が生まれます。これが、目的因ですね。
その目的によって、青銅が取り寄せられて(質料因)、それが職人の手によって加工されて(作用因)、ソクラテスという人物をかたどった像(形相因)を伴った、銅像が出来上がります。
つまり、物事をなしている原因となっているものを探ると、4つの原因が出てきて、その原因を主導しているのが目的というわけですね。
この銅像の場合、銅像を作る目的がなければ、そもそも銅を発注しなかったし、職人も雇わないので銅像というものがこの世に誕生しませんよね。

この四原因説に基いて考えると、この世にある物事には全て目的があって、その目的を遂行するために存在しているって事です。

これを奴隷に当てはめると、奴隷というのは、奴隷となる目的で生まれてきたので、体も頑丈に出来ているし、肉体労働をした程度では壊れないように出来ている。
その一方で、目的が奴隷である以上、自分自身で考える理性は持ってないので、理性のある人間が主人となって、指示出ししてあげるべきと考えたんです。
だから、アリストテレスは、奴隷には政治の参加、つまり選挙権などを認めていないんですね。

この考えは、前回にも話した通り、今の世の中で暮らしている私達にとっては、レイシスト的な考え方のようにも感じるんですが、ただ、だからといって、一概に完全否定することも出来なかったりするんですよね。
誤解しないで欲しいのは、奴隷の子は生まれながらにして奴隷だって言っているわけではないですし、人が人を支配すべきという考えでもないですからね。
ただ、皆が全て、自由を求めているのかというと、違うという話なんです。

一つ例を挙げると、アルスラーン戦記というアニメ化もされた物語があるんですね。もとは小説みたいなんですけども。
この物語は架空のもので、舞台となるのは奴隷制度があった古代の都市で、主人公は、大きな国の王子なんです。
そして、絶えず隣国と戦争をしている様な世界設定なんですけれども、ある時、戦争で王である父親が負けてしまい、国を敵に取られてしまうんです。
そこで、自分の国を取り戻すために、王子は少ない部下を連れて、放浪の旅に出るって感じの物語なんですが、旅の道中で、奴隷反対を主張する人物を家臣に加える事になるんです。
理由は、その人物が非常に優秀だったということも有るんですが、王子 自体も、奴隷のあり方に疑問を持っていたということもあって、皆が自由になれる社会というのを目指してたからなんです。

その人物を家臣に加えて、しばらく放浪するんですが、別の土地に訪れた際に、そこを治める領主と争うことになって、結果として領主を倒すことになったんですね。
その後、主人公のアルスラーン王子は、急いで奴隷のもとに向かって、『お前たちは自由だ!』って知らせるんですけれども、奴隷たちは困惑してしまうんです。

そして、その内の一人が、『お前は領主様を殺したのか!』といって、仇を取る為に王子に襲いかかってきて、それを観た他の奴隷も、王子一行に襲いかかっていくんですね。
この奴隷たちの行動を観て、今度は王子は困惑してしまうんです。
それを観た、奴隷解放派の家臣は、冷静に何が起こっているのかを、自身の過去を振り返りながら説明するんです。

この家臣は、自身も領主の家の生まれだったので、奴隷を従えていたんです。
ただ、自身は奴隷反対派だったので、父親が引退して自身が主になった際に、奴隷を開放して自由にしたんです。
その対応に、奴隷は、最初は自由を喜んだわけですけども、それから数ヶ月が経つと、みんな、また自分のところに戻ってきたんです。
そして、元領主に向かって、『また仕事を与えてください』と懇願したんです。

これは、何を意味しているのかというと、良い領主の元では、奴隷は指示された事をこなすだけで、安定した生活が出来るので、自由よりも奴隷のほうが良いと考える人間もいるという事なんです。



他には、銃夢というSF漫画で、こんなセリフが出てくるんです
「自由なんてのは強者の特権だ。俺は自由より犬の首輪が欲しいんだ」
これは、自由というのは、それを勝ち取って使い切れる力量がある者だけの特権であって、自由を使いこなす能力のない人間にとっては、無用の長物だって言ってるんです。
それよりも、他人の支持に従っている方が気が楽で、安心できると言ってるんですね。
この様な考えの人間っていうのは、思っているよりも多いと思います。

例えば、漫画やアニメのようなフィクションの世界ではなくて、私達が住む現実で考えてみましょうか。
高校や大学の卒業が迫ってきた時に、学生というのは、先ず、何を行うでしょうか。 就活ですよね。
自分の考えたプランで、世の中に対して挑戦しよう!っていう意気込みで、起業する人間て、全体の何%いるでしょう。人数でいえば、圧倒的少数になると思いませんか。

ただ、社会人1年目からいきなり企業というのはハードルが高いですから、もう少しハードルを下げて考えてみましょう。
最初はノウハウや技術がないから、それを吸収するためにも、とりあえず就職。という事も考えられます。
けれども、では果たして、その中のどれ位が、独立・起業するでしょう。

最近は、企業がブラック化してきているという話題をよく聴きますけれども、自分で事業を起こしてフリーになれば、休みも自分で設定できますし、人間関係なんてのも自分で選べそうですし、良さそうですよね。
でも実際に起業をしないのは、起業には、それ相応のリスクが伴うからですよね。
まず、仕事を自身で取ってこなければ、収入を得ることが出来ませんし、休めば休むほど、ダイレクトに収入が減ることにつながります。
就職して会社に属する場合は、1ヶ月会社に行けば、とりあえず給料はもらえるわけですけれども、起業して自分で事業を経営する場合は、給料どころか、最初は設備投資でお金が出ていくばかりですよね。

フリーというのは、一見気楽そうに見えて、リスクを自分一人で全部 抱えるわけですから、その覚悟と実力がない人間には、無理なんですよ。

後に、哲学者でサルトルという人物が登場するんですけれども、その人物は、「人は自由の刑に処されている」と主張しているんですね。
自由の刑とは何かというと、人間が本当の意味で自由なのであれば、目指すべき目的・ゴールも全て、自分で設定しなければならないし、見つからなければ探し続けなければならない。
それに伴う苦痛やリスクも、自分が引き受けなければならない。
これは、自由に振る舞わなければならないという刑罰を処せられているようなものだという意味ですね。

この刑罰を避けるために、自分ではこれらのことを考えず、他人に指示を仰いで、ただただ、それをこなしていく という選択をする人も、結構な割合でいるんです。
人に従うという選択肢を選んだ場合は、責任を自分で追わなくて良いですからね。 主人に責任を転嫁できるわけで、考えようによっては楽なんですよ。
この態度は、観ようによっては、奴隷のようにも見えるわけですよ。

誤解しないで欲しいのは、だからといって、指示待ちをして、自ら奴隷に成り下がるような奴は駄目だと言っているわけではないんです。
指示待ちをしてくれる人がいなければ、そもそも、組織というものは生まれませんし、大きな組織でなければ行えない仕事も沢山有るので、人間が社会生活を行う上では、この様な考えの人は絶対に必要ですし
この様な考え方だからといって、見下される事もないんです。

え 前回の差別の話と、今回の話がだいぶ長くなってきてしまって、本題が何だったのかというのがわかりにくい状態になってしまったので、一旦仕切り直して、アリストテレスの政治の話に戻りましょう。

アリストテレスは、共同体である国は、村が集まって出来ていて、村は、家族が集ってできていて、家族は、主人と妻と子と奴隷によって出来ていると主張しましたね。
そして、人間には支配する側とされる側というのが生まれつき決まっていて、支配される側の奴隷などには、考える頭がないので、選挙権は認めてなかったんです。
で、考える頭が有る支配する側の人間である主人は、自身で考える理性を持ってるので、自身が善と思っている行動を取る。そのように出来ていると考えます。

ただ、一人の人間が持っている善の認識が絶対的に正しいかはわからないので、それぞれの家族の主人が善のあり方を意見交換することで、村としての善を打ち出す。
次に、村の代表者が、それぞれの意見を持ち寄って、共同体としての善を検討し合えば、そこで生まれた善の認識は、個人個人のもつ善が反映さて
極端に個人の利益に偏った善などは淘汰された、良い国となるはずと考えるんです。
ですが、そもそも考える能力を持たない奴隷などは、目指すべき善を持たないので、選挙権は与えないとしてるんですね。

これをそのまま現代に適応することは難しいです。 そもそも現代では奴隷を認めてないですし、生まれついての奴隷なんてものを認めるべきでもないですからね。
ですから・・・ これは個人的な考えになるんですけれども、この考えを現代に適応する場合、選挙権を免許制にするって考えもありますよね。
先程もいいましたが、自分自身で考えたくなくて、指示を仰いでいたいって人はいますよね。
また、前回も言いましたが、政治のことを語る、人が話しているのを聴く、そもそも考えるのが面倒くさいと考える人もいます。
こういう人達は、共同体がどのように有るべきか興味が無いわけですから、選挙権は必要ない。

選挙権が欲しい人は、自分が共同体の未来に対してどの様な意見を持っているのかを主張して、勝ち取るような免許制というのも、一つの考えですよね。
ただ、前回のIQテストの くだりでも言いましたが、何らかのテストをして許可を与えるという方式にすると、そのテストによって、特定の思想の人だけに免許を与えるというのも出来なくはないので…
この辺りは、難しいのかもしれませんね。

という事で、時間もいい感じになってきたので、今回はこの辺りにしようと思います。
長く続いてきた西洋哲学シリーズは、一旦休憩ということで、次回から、東洋哲学について少しだけ考えていこうと思います。