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ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【映画紹介・感想】 ゲットアウト

今回紹介する作品は、『ゲットアウト』です。



観ようと思ったキッカケ

この作品は、劇場公開が2017年の1月という事で、この記事を書いている1年半前に公開された作品なのですが、公開直後から、結構な話題となっていたので、ずっと気になっていた作品だったんですよね。
何故、気になったのかというと、ホラー作品なんだけれども、普通のホラー作品ではないといった話が漏れ聞こえてきたからです。

私は、それほど映画などを観ているわけではないのですが、ホラーと聞くと、殺人鬼が出てきたり、化物や幽霊的なものが大きな音と共に急に画面に映し出されたりといった感じの、オーソドックスなホラーか、パニックホラー。後は、最近人気のゾンビものぐらいしか観たことがなかったので、『今までにない感じ』と言われると、なんとなく興味がそそられたんですよね。
ただ、気にはなっていたんですが、劇場に足を運んでみようという気は起こらず、なんとなく時間が過ぎていき、1年半以上が経ったわけですが…
ココ最近になって、Amazonでプライム会員なら無料で見れる状態になったので『無料で、尚且、家で見れるなら!』と思い、観てみた次第であります。

ホラー? この作品のテーマ

この作品には、知ってしまうと台無しになるような致命的なネタバレが有るので、取り敢えずは、その部分だけを隠した状態での感想を書こうと思います。
ネタバレ無しとはいっても、全く無いように触れずに感想を書けるほど、私は文章を作るのは上手くない為、私が見る前から知っていた程度の、多少のネタバレは含みます。

という事で、早速、軽いネタバレから始めるわけですが、この作品は、ホラー作品といっても、ゾンビやパニック、怪物や幽霊が登場する様な、ごく普通のホラー作品ではありません。
人種差別問題を多く含んだ… というよりも、それをメインテーマに掲げているような作品です。

人種差別。 特にアメリカで酷く、今でも根強く残っている差別として、黒人差別問題があります。
この作品では、その差別問題を色んな面から捉えて可視化している感じの作品です。
その為、私の様な日本人が観ても、ほんとうの意味で理解はできないのかもしれません。一方で、これは予測に過ぎませんが、アメリカに住む黒人の方が観た場合は、かなり感情移入できる作品なのかもしれません。

簡単なあらすじ

この物語の始まりは、夜中に閑静な住宅街の道を、1人の黒人の方が歩いているところから始まります。
歩いている黒人男性自身が、『場違いなところを歩いている?』『泥棒と間違えられないかな…』なんて思いながら歩いている点を取っても、今だに根強い差別が有る事を感じさせられます。
だって、この男性は、何もやましいことはしていないんですよ? にも関わらず、自分が周りからはどのように観られているのかとか等、見ず知らずの誰かを想定して、気を使い続けなければ、道も歩けない状態に押しやられているわけですから。

そんな状態に追い込まれているので、足早に住宅街を抜けようとしていた男性ですが、後ろから、大きな音楽をかけた車が煽ってきます。
暴力事件に巻き込まれそうだと感じた男性は、面倒事に巻き込まれないようにと、やり過ごそうと、車の進行方向と逆の方向に方向転換し…
って感じの始まり方なんですが… 何度もいうようですが、このシーンだけを観ても、黒人の立場がどれほど弱いかが分かりますよね。

仮に、その場に警官がいたとしたら、その黒人男性は職務質問されていたでしょうし、車で煽ってきた人間と喧嘩になれば、黒人男性だけが逮捕されたりするのでしょう。
日本に住む私達にとっては、何かあれば警官にいえば良いと考えるでしょうし、その場にいてくれたら心強いとすら思う状態なのかもしれないですが、黒人男性にとっては、誰も信用できないので、自分の身は自分で守る意識が強い。
というか、そういう自覚がないと、生きていけない程に大変な環境なのかもしれません。

この様なシーンは、この映画のいたるところに出てきます。
冒頭のシーンが終わると、1組の黒人男性と白人女性のカップルの話に移り、白人女性の両親に彼を紹介しに実家に戻るという話になるのですが、その際のやり取りも、人種問題を連想させるようなやり取りだったりします。
『両親には、彼氏は黒人だと伝えている?』とか、『伝えていない状態で、いきなり家に行って驚かれない?』といった感じの質問が続き、人種差別の被害者である黒人男性の方が気を使っている演出がされます。

その一方で、白人女性の彼女の方はというと、人種差別なんて事は一切、連想させないような振る舞いをしています。
黒人だからとか、白人だからといった固定観念は一切ない感じで、同じ人間で何の違いもないのに、何故、そんな事を気にするの?といった感じで彼氏に接します。
その為、『両親に、彼氏は黒人とかいう必要有るの?』といったド正論で返答してきたり、その他には、彼女の家に、彼女の運転で向かう最中に鹿との接触事故を起こすのですが、その際に警官から、隣りに座っていただけの彼氏の身元確認を求められるのですが、『何の必要があるの? 彼は、ただ隣で座ってただけで、何の関係もありませんが?』と毅然と抗議をしてくれます。

彼女の徹底した態度に、観ている側も、『差別しないって、そういう事だよね。』と思わず思ってしまう程に、【人種】という区別を感じさせない自然な接し方で、彼氏の自虐的な態度の方が目立ってしまう程。
このあたりの演出は、かなり上手いなと思わされました。

そして彼女の家に到着。物語は、ここから本編に入る感じです。
黒人に対する差別が全く無い彼女の両親という事で、彼女の家族の方も、人種差別はしないのですが…

その一方で、黒人の持つ肉体的特徴を、褒めまくるんです。
貶しているのではなく、褒めているんだから差別じゃないだろ!?と言わんばかりの褒め方で、それを言われている黒人男性は、褒められているにも関わらず、逆に萎縮してしまう程。

そうこうしているうちに、近々、彼女の実家で、親戚獣が集まるパーティーが有る事を聞かされます。
両親は、『来る人間は、みんな良い人だから、一緒に楽しもう!』と言ってくるのですが、彼女は帰りたそう…
しかし主人公は彼女の両親に気を使って、パーティーに参加をする事を決めるのですが、そのパーティーが、彼女の両親に輪をかけた様な感じで、黒人男性を褒めちぎってくるんです。

パーティー参加者は白人ばかり。その中で、好奇の目にさらされて褒められている主人公は、『動物園で見世物にされている感じで不愉快だ』と感情をあらわにする程、苛立っている様子。
このあたりは、非常に考えさせられますよね。

『善意』で偽装した『悪意』

このような事って、人種差別に関わらず、他のことでもありがちですよね。
例えば、自身は大金持ちなのに『私は自分の事を金持ちだとも、優秀だとも思ってない! 休日は安い居酒屋などに通って、庶民の話を聞いたりする事が楽しみなんだ!』とか言っちゃう人っているじゃないですか。
でもね、本当に自分を特別だと思っておらず、安い居酒屋に通う人間を見下してない人間は、わざわざ、他人にそんな事を自分から言ったりしませんよね。

聞かれてもいないのに、わざわざ自分から、そんな事を発信している人間は、実際には自分は優秀だから金持ちになれた特別な人間だと思っていて、安い居酒屋にいる人間を見下し、その中で楽しんでいる自分に酔っていて、優越感に浸ってますよね。
でも、態度としては、高圧的な態度も取らないし、『こういう居酒屋で呑むのが楽しいし、こういう場に集まる人と話すのが有意義だ。』と言われれば、言われた側は悪口を言われているわけではないので、怒ることもない。
ただ、どことなく、嫌な感情は抱いてしまう。

誤解しないで欲しいのは、ストレートにヘイトスピーチをして人種差別をするほうが良いと言っているわけではありません。
人が嫌がる事をあえて言うのは駄目に決まっているわけですが、では、それを偽装した形で表現するのは良いのでしょうか。
『褒める』という偽装した形の主張は、読解力の低い人が聞けくと、まるで良い行いをしているようにも取れてしまう。

世の中には、相手の意図を読み取る能力が高い人ばかりではないので、この様に偽装した形で主張する人は、なんなら人々から尊敬されたりしてしまう。
何らかの形で差別をしているのに、その被害者は反論することも出来ず、何ならその主張によって、差別をしている人間が地位を高めてしまう。
差別されている側は、嫌な思いをした上に、相手のセルフブランディングにも手を貸すことを共用されてしまう… とも考えられますよね。

『一人呑み』は『課金ガチャ』

私は、20代半ばぐらいから、週末になると一人で呑みに行くという行動をとっていました。
別に、お酒が特別好きだからとか、酔っ払う感覚が好きといったわけではなく、基本的に家ではお酒を飲まない生活を送っている為、お酒を呑むのは呑みに出かけたときだけ。
その為、20代の頃は毎週土曜日に欠かさず呑みに行くという生活を送っていたにも関わらず、呑んでいるのは月に4日程度。

現在に至っては、月に1~2回しか呑みに出かけることがないので、呑む回数自体が減っているわけですが…
間隔は空いても、『一人で呑みに行く』という習慣は続けていました。

しかし、最近になって、この私の『一人で呑みに行く』という行為そのものが、スマホゲーの課金ガチャと変わりがないんじゃないかと思い始めました。
何故、そう思ったのかについて、今回は書いていこうと思います。

そもそも何故 呑みに行っていたのか

今現在では、『一人で呑みに行く行為』そのものを、課金ガチャと同じとまで思ってしまっている状態なわけですが、そもそも何故、そんな行動をとっていたのかという事について考えてみます。
結果からいえば、寂しさが紛れるとか、リア充っぽく振る舞えるといった事が目的で、通っていました。

では何故、寂しさが紛れたり、リア充っぽく振る舞えたりするのでしょうか。
私が毎週のように呑みに行っていた店は、キャバクラとかクラブといった、女性がもてなしてくれる様な店ではありません。
チャージ無し~1000円までのショットバーがメインで、バーテンダーも、女性の店よりも男性が切り盛りしている店の方に頻繁に通っていました。

この様な経験をあまりしていない方にとっては、男性が切り盛りしているショットバーやパブに男性客が1人で行って、ストレス発散が出来るのかと不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。
しかし、そういう店って、意外と私のような男性の一人客が多かったりします。何なら、女性客が入ってきたら、その場にいた客がみんな、浮足立つなんて事もあるぐらいだったりするんです。
では、こういう店に来る男性客は、何を目的にして、店に通っているのかというと…

店員と話したり、同じ様に一人で来た男性客と話したりして、時間を潰す為に行ってるんです。

男性が一人で切り盛りしている様なこじんまりとした雰囲気の店は、新規客がほとんど来ることはありません。
その為、定期的に店に通っていれば、その店での馴染みの顔になりやすく、それ程時間をかけずに、店員や常連客から声をかけられる、なんて事が結構あります。
そうすると、店や客が主催する遊び(バーベキューやスポーツイベントなど)にも誘われる事もあり、寂しさも紛れ、リア充っぽく振る舞う事が出来るようになるわけです。

普通にサラリーマン生活をして、人と知り合う機会が多い方にとっては、何故、この様な回りくどい事をしなければならないのか理解に苦しむという方もいらっしゃるでしょう。
しかし、私のような家族経営の製造業などをやっていると、家族以外とそうそう知り合う事もなく、人間関係が広がらない。
そういった人間が避難するように行うのが、一人呑みだったりするんです。

一人呑みは博打

ここまでの話を聞いて、一人呑みに興味を持って、自分もやってみたい!と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、この一人呑み。結構、博打要素がデカかったりします。
というのも、友だちを連れて誰かと呑みに行く場合は、店に期待するのは、金額に見合った商品やサービスと、席が空いていることぐらいです。
しかし、単独で行くとなると、それに加えて、『その日に呑みに来ているメンツ』も、重要な要素になってきます。

同じ店に顔を出しているからといって、その客の全員と気が合うわけでも、仲良く慣れるわけでもありません。
中には当然、鬱陶しい客も結構います。 例えば、自分が話題の中心にならずにいられない人だったり、他の人同士が会話している中に強引に入ってきて、自分の話題に持っていったりする人達など。

こちらは、お金をもらって接待しているホストでは無いんですから、そういった客に気を使う義理もありません。
義理はないのですが、こういう人達は周りの人間に関心がなく、自分の欲求を満たせればそれでいいと思っているのか、その店の中心人物のように振る舞ったりします。

こういった人や、その人の太鼓持ちの様な人が数人いるだけで、その輪に入っていない他の人間にとっては最悪の時間に成り果てます。
目が合うと話しかけられ、よくわからない理論でマウントを取られてしまう為、目を合わせては駄目。かといって、お酒を一気飲みして直ぐに帰るのも変だし、何よりも、その客に負けたような気になってしまう。。
結果として、その場に居合わせた人間の取れる行動は、スマホニュースを見るという一択になってしまい、騒ぎ立ててる数人を覗いて、全員がスマホを凝視するなんて事もしばしば…

結果、スマホを観て2000円払って帰ってくるという現象が起こってしまいます。

店側は、そういった人間を出入り禁止にしないのかと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、別に、その人達が全員から嫌われているわけではありません。
人の観点はそれぞれなので、そういう賑やかな人が好きな人もいるでしょうし、私のようにスマホをガン見して関わらないようにしている人間を観て、気分を悪くする人もいるでしょう。
これは、人の性格と組み合わせの問題なので、誰が悪いというよりも、組み合わせの良し悪し、つまり運としか言えないようなものなんです。

一人呑みは課金ガチャ

ここまでの話を読んでもらえれば分かりますが、一人呑みは、その場に居合わせている人間によって、当たり外れが非常に大きな遊びとなっています
自分と気が合い、話が弾む客が来ていれば、その場は至福のひと時となりますが、そうでなければ、一人で1時間ほどスマホを凝視して2000円払って帰るという…
ストレス発散をしに行ってストレスを貯めて、お金払って帰ってくるという苦行に成り果てます。

これは、2000円で10連ガチャを回して、SRやレジェンドが出れば報われるが、ゴミみたいなHRしか出なかったらドブに捨てたのと一緒という課金ガチャと同じです。
しかも、その活動を辞めたら今までの投資が無駄になるという所まで同じです。
スマホゲーは、どれだけ課金しても、ゲームに飽きたりサービス終了したら終わりなのと同じで、一人呑みも、店が潰れたり、その店から足が遠のいた時点で終了です。

『一人呑みは、今までに築き上げてきた、人間関係は残るんじゃ?』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、大抵は残りません。
毎週の様に通って、店のスタッフとタメ口同士で話すような中になったとしても、会うのは店にいる時だけ。 店に行く間隔が空いたとしても、大抵は心配して連絡してくるなんて事もありません。
客も同じで、アルコールが入っている上に、いつでも好きなときに来て好きな時に帰れるという独特の空間だから、一緒に飲んで騒いでいただけなので、個別で連絡をとって呑みに行くなんて事も、無い事は無いですが少ないです。
スマホゲーで、たまたまチャットが盛り上がり、『ID教えあって、次のゲームに移っても一緒にやろう!』って事が起こるぐらいの低確率です。

店の店主にとっては、呑みに行く人の出費がイコール売上に直結するので、足が遠のいた人に気を使うより、現状で金を使ってくれている人を優先するのは、仕事として当然。
人間的に余程気が合うなんて事が無い限り、店にいかなくなる=縁が切れると考えても良いのでしょう。

課金は計画的に

ここまで、一人呑みと課金ガチャには共通点が有るということを書いてきました。
読む人にとっては、一人呑みにネガティブなイメージを持たれた方もいらっしゃるかもしれませんが、誤解しないで欲しいのは、『一人呑みは無駄なのでやめましょう。』と主張しているわけではないということです。

スマホゲーも、イラストを書く人やプログラムする人、ゲームバランスを考える人やシナリオを考える人、サーバーメンテナンスをする人など、様々な人の手によって、運営されています。
その為、ユーザーが全員、無課金だと、システム的に成り立ちません。 その為、ゲームを楽しんだと思っている人の中には、御布施と称して月に数千円づつ課金すると決めている人もいらっしゃいます。
これは個人的な意見になりますが、スマホゲーは、これぐらいの課金の方が健全ですし、長く続けられるような気がするんですよね。

一人呑みも同じで、居心地が良く、楽しめる確率が高い店を見つけたら、その場所を維持する為にも、月に数千円は課金するぐらいの気持ちで行く方が、健全な気がします。
これが、『せっかく店に来たんだから、楽しんで元を取らないと!』とか『頑張って粘れば、面白い状態に遭遇できるかもしれない…』と思って頑張るのは、あまり得策では無いということです。
課金ガチャでも『今回のイベントで上位50位に入りたいから、絶対に特攻付いたSR以上を引き当てる!』なんて回し方をしていたら、続かないし、ゲームに冷めた時に後悔すると思うんですよね。

『一人呑みは課金ガチャ』『楽しめる場所を守るために、御布施の意味を込めて課金する。』これぐらいのスタンスが、後悔もしない丁度よいスタンスのような気がします。

【アニメ・映画紹介】 イヴの時間

今回紹介する作品は、『イヴの時間』です。



作品を観ようと思ったキッカケ

私は、この作品自体は知らなかったのですが、この作品とは別に、少し前に個別でディープラーニングについて調べていた事がありました。
pythonというプログラム言語を勉強する過程で興味を持ったのですが、関連書籍を購入していると、Kindleのおすすめの欄に『人工知能は人間を超えるか』という本が、頻繁に出てくるようになったんです。

この本の表紙を頻繁に目にするようになり、表紙の絵が、なんとなく印象に残っていたところに、Twitterのタイムラインに、この様な つぶやき が流れてきました。

なんとなく印象に残っていた絵とほぼ同じ雰囲気のTOP絵に興味を持ち、先ほど紹介した本と関連があるのかなと思い、ツイート投稿者に聞いてみたところ、内容的に関連がありそうだったので、早速、観てみました。
プライム会員は無料で見れますしね。

簡単なあらすじ

物語の簡単なあらすじとしては、今よりも少し技術が進んだ未来の日本が舞台。
今よりも科学技術が進み、人間の身の回りの世話をするアンドロイドが実用化された社会の、日常を描いた作品です。

アンドロイドは、見た目がほぼ人間と同じで、頭の上にリングと呼ばれる目印がなければ、人間とは見分けがつかないほどに精巧に作られている為、アンドロイドを人間扱いする人達も増えている。
この様な人達を『ドリ系』と呼び、倫理委員会という一部の人達が問題視し、それに対して警告するというテレビCMを放送していたり…

そんな感じの世界観で、主人公の少年が所有するアンドロイドが、命令以外の場所に立ち寄っていることが分かるところから、物語は始まります。
主人公はGPSで正確な場所を割り出すと、そこには裏路地でドアだけが有る変な場所。 勇気を振り絞って中に入ってみると、そこはオシャレな喫茶店
でも、ただの喫茶店ではなく、入り口には立て看板が立ててあり、そこには店のルールとして、『人間とロボットを区別しない』と書かれている。

この作品は、この喫茶店を中心とした、人間とアンドロイドの関係を描いていく物語です。

観てみた感想

ホラーカテゴリーという枠組みで紹介されていたので、結構、シリアスな展開を予想していたのですが…
実際に見た感想としては、『簡単なあらすじ』でも書いた通り、日常系のほのぼのとした感じの雰囲気の作品でした。

まぁ、ところどころ、ホラーっぽい演出も有るにはあるのですが、その演出も、ほんの数秒間行われた後には、コミカルシーンが挟まって…といった感じで進んでいくので、ホラーが苦手という人でも大丈夫に出来ています。
というか、Amazonがホラーカテゴリーに入れてるだけで、もともとはホラー作品として作られていないと思われるので、その点は安心して観ることが出来ると思います。

アンドロイド系といえば、結構、ディストピア系が多く、殺伐としているものが目につくと思います。
例えば、ブレードランナーであったり、攻殻機動隊であったり、最近発売された、『Detroit Become human』であったり、フォールアウトであったり。
kimniy8.hatenablog.com
この手の作品は、『アンドロイドに感情が芽生えたとしたら?』といった感じの切り口で、アンドロイドを引き合いに出して、『人間とは何なんだろう…』と考えさせることがメインである場合が多い。
また、アンドロイドと人間との対立、そこから発展しての争いや戦争も描かれる場合が多く、殺伐とした雰囲気のものが多いイメージなのですが…

この作品は、終始、日常系を貫いている感じで、結構、不思議な印象を持った作品です。
また、先程あげた多くの作品のように、『人間とは何なんだろう?』という疑問は湧き出てこず、逆に『アンドロイドとは何なんだろう?』という思わせてくれた点も印象的でした。

その他に印象的だったのが、他のアンドロイド作品に比べて、アンドロイド=機械というイメージ付が強烈な印象でした。
主人公は、アンドロイドにコーヒーを入れてもらったことに対して、『ありがとう』といった感じでお礼をいうというシーンがあるのですが、そのやり取りを隣で聞いている姉は『なにそれ? 相手は機械だよ? キモい!』って感じで、もの凄い嫌悪感をいだきます。
また、主人公が下校時に雨が降ってきた際に、アンドロイドが傘を持ってきてくれるのですが、その際に、1本の傘を、人間とアンドロイドとで指しているという事だけで、主人公が弓を刺されて笑われたり…

ここまで徹底して、機械と人間とを区別し、機会に対して人間のように接している人間=異常者とイメージ付ける作品も、結構珍しいなと思ってしまいました。
例えば、雨の中を相合い傘で帰るというのは、アンドロイドを濡らさないという点で、そこまで変なシーンでも無いはずです。
仮に、完全防水であったとしても、アンドロイドは服を来ているわけですから、傘をささないとびしょ濡れになる。 その状態で家に入られるよりは、傘を指してもらったほうが効率的だと思うのですが…
その行為すらも異常としている点で、徹底しているなという印象でした。

ネタバレ感想

先程は、出来るだけ、ネタバレをしない形で感想を書きましたが、ここからは、ネタバレも含んだ形での感想を書いていきます。
ネタバレを嫌う方は、此処から先は読まずに、作品を見てから読んでみてくださいね。



この物語ですが、ネタバレ無しの感想では、ホラー要素はないと書きましたが、確かに演出上のホラーは少ないですが、よくよく考えると怖い要素も含まれた作品だったりします。
というのも、この作品に登場するアンドロイドは、人間の前では、『自分は機械ですよ。』とアピールする為なのか、必要なこと以外は一切話しませんし、話し方も、いかにも機械的な話し方をします。

しかし、それは人間の前でだけです。
メインの舞台となる『イヴの時間』という喫茶店に入ると、アンドロイド特有のリングも消え、途端に仕草が人間らしくなり、興味のあることを積極的に聞いてきたり、悩みを相談するといった事を行います。
表情も感情豊かになり…というか、実際に感情を持っているかのように振る舞うようになります。

このあたりが、非常に怖いといえば怖いですよね。
というのも、人間がアンドロイドと徹底的に線引をし、道具のように扱っているのは、『アンドロイドは機械で、人間の命令がなければ何も出来ない不完全なもの』と見下しているからです。
人間であり、アンドロイドの上に立つ自分という存在に優越感を抱いているから、徹底した道具扱いも出来るし、差別も出来る。

しかしアンドロイドたちは、『イヴの時間』の様な特定の空間では、自分で判断もするし、感情も持っているように振る舞える。
どのように振る舞えば、主人の機嫌を良く出来るのかといった事を真剣に悩み、相談するという知性や共感性も持ち合わせている。
アンドロイドと相合い傘をしているだけで、指を指して笑ってしまう人類よりも、明らかに上位の存在なわけですが、そんなアンドロイドが、アホな人類の前では、知性のないロボットのように振る舞ってくれているんですよ。

そんな事は一切、分からずに人類は、低レベルの自分達の位置までレベルを下げてくれているアンドロイドに対して、高圧的な態度を取り続ける。。
なんか、色んな意味でホラーですよね。
人類に生まれた自分たちは、それだけで、賢くて優秀だと思い込んで、自由に振る舞うわけですが、その自由なふるまいも、人類よりも遥かに優秀で共感性が高く、懐も深いアンドロイドが合わせてくれているから成り立つだけ。

アンドロイドに愛想を尽かされた時点で、おそらく人間は、彼らに対して怒りを持って壊すことぐらいしか出来ないのでしょう。
そして、この作品から離れて現実に目を向けてみると、同じ様な光景が広がっていることに気が付きます。

たまたま時代が良くて、大企業に苦もなく入れて、終身雇用、年功序列で偉くなった気になった、勘違いした人達が威張り散らしている一方で、知識と技術を持った若者が、建前上、理解を示すふりをして合わせてくれているのが現状。
そしてそんな大人達が築き上げてきた、『大人たちが暮らしやすい社会』から、若者たちが一定の距離を置き始めているのが現代だったりします。

アンドロイドに完全に依存した人類に、アンドロイドが愛想を尽かしてしまった場合、この作品で描かれる社会はどうなってしまうのでしょうか。
漠然と、『自分たちが偉い』と思い込み、そこに何の疑問も持たないことが、いかに愚かなことなのか、その事に気がつくと、結構、怖い思いを箚せられてしまうのが、この作品だったりします。

そこそこ楽しめた作品ですが… ただ、一つ思うところがあるとすれば、物語の根底を流れるストーリーが完結してないっぽく、色んな謎が残ったままだったりするんですよね。
続編を作る気満々って感じで終わってるのに、その後、続編が発表されてないって感じの終わり方が、なんとなく消化不良を起こしそうではありましたが… まぁ、無料で観れた作品にそこまでいうのは酷ですよね。
プライム会員であれば、まだ無料で見れると思いますので、興味のある方は、是非、観てみては如何でしょうか。

【本の紹介】 「量子論」を楽しむ本

今回紹介する本は『「量子論」を楽しむ本 ミクロの世界から宇宙まで最先端物理学が図解でわかる! 』です。


購入したキッカケ

この本を購入したキッカケとしましては、私は趣味で、哲学や思想を取り扱うPodcastをやってまして、その原稿を書いている中で、量子論の内容を簡単に知りたいと思ったからです。
ちなみに、私がやっているPodcastはこちら
goo.gl
youtubeチャンネルも有るので、興味の有る方はチャンネル登録して観てみてくださいね。
www.youtube.com

読んだ感想

量子論と聞くと、『理解するのが、もの凄く難しい』とか『理系の人じゃないとついていけなさそう…』という印象を持つと思いますが…
この本は、理系や文系の区別がない様な高校出身で高卒の私でも最後まで読み切れる様に書かれている、分かりやすい本でした。

では、私はこの本を読んで、量子論を理解できたのかというと…
結論からいうと、全く理解は出来ていません。
『最初に言ったことと矛盾しない?』と思われる方も多いでしょうが、この本は、量子論というものを使って、世の中は思っているよりも複雑ですよというのを表現しているような本なので、この本を読んで『世の中って分からないことだらけで、不思議』と思えれば、それだけで、この本は役割を果たしているのだと思います。

それに、量子論という分野は、専門の学者でもよく分かってない分野なので、素人が簡単に『わかった!』なんて言えるものでも無かったりします。
その事について、分かりやすく丁寧に説明しているといった感じでしょうか。

とはいっても、現状で分かっている事や、有力な仮説などはわかり易い言葉を使って説明してあるので、読んで知識が増えないというわけではありません。
また、有力な仮説は、議論が分かれている部分について説明する際には、数式などは使わずに、出来るだけ言葉を使って、誰にでも分かりやすく説明されているので、数式アレルギーの人にも読みやすく書かれています。

量子論とは何なのか

量子論とは何なのかという事を、簡単に説明すると、ミクロの世界で起こっている事を解明していこうという分野の事です。
この世にある全てのもの、あらゆる大きさのものも、元を辿ればミクロの世界に辿り着きます。
どんな大きさの物質であったとしても、最小単位のモノの集合に過ぎないので、ミクロの世界を解き明かせれば、真理がえられるかも?といった感じの学問という捉え方で良いと思います。

ちなみに、この量子論を、数学的に解き明かそうとし、難しい計算式などで表そうとしているのが、『量子力学』と呼ばれるモノのようです。

光は粒子なのか波なのか

この量子論ですが、発表された時期がアインシュタイン相対性理論と同じ様な時期で、なおかつ、相対性理論と相容れないところがある為、アインシュタインからかなりの批判を受けていることでも有名な理論のようです。
そして、発表された時期が被るだけでなく、この理論が生まれた経緯も、どことなく相対性理論と似ていたりします。

相対性理論は、光の観察から始まったようですが、この量子論も、光の観察から始まっているようです。
光といえば、私達は毎日にように目にしてしますし、光がないと物が見えない為、かなり重要なものなのですが、その光そのものが何なのかという事については、分かっていなかったようなんです。

そして調べた結果…光は、粒子という証拠と波という証拠が出てきたんです。
アインシュタイン相対性理論が、光速度不変の原理に辻褄を合わせるように、空間と時間の解釈を買えたのと同じ様に、量子論では、光は『粒子』であり『波』であるという前提に立って作られた理論のようです。

今までの常識を覆す量子論

一つのものが『粒子』という物質であり、尚且『波』であるというのは、従来の常識では受け入れられないものだったようです。
というか、今でも、完全に受け入れられているかどうか…といった感じで、反論している人もかなり居る解釈だったりします。

何故、『粒子』と『波』の性質を併せ持つことが受け入れられないのかは、考えてみれば解ります。
例えば、ライヴ会場のステージに自分が立って、観客席の沢山の人達に向かって、野球ボールを投げた場合、そのボールを受け取るのは1人です。
この野球ボールというのは、1つの粒である為、粒子と考えると、粒子1つを投げると受け取れるのは1人という事になります。

その一方で、ステージの上にスピーカーを用意して、そのスピーカーから音を出すとします。
音は空気の振動、つまりは『波』ですが、その波を受け取るのは1人だけでしょうか? そんなことはなく観客席全員が音の『波』を聞くことが出来ます。

粒子は特定の位置に存在するものですが、波は、広い範囲に同時に存在できるわけですが…
その相反する特性を同時に持っているというのは、人間が持つ想像力では、なかなかイメージできません。
しかし、それが観測されて『事実』だったりするんです。

物質は確率の波

先程、光は『粒子』であり『波』であると書きましたが、話はこれだけでは終わりません。
光という、もともとが『波』と思われていたものに『粒子』の性質が見つかったという事で、その逆も研究も進み、物質と思われていたものにも、『波』の性質が見つかることになります。
しかも、その波は、確率的な波という、更に意味不明なものだという事が分かってきました。

更に重要なのが、ここでいう確率とは、計算上の仮の確率ではないという事です。
例えば、中が見えないコップの中にサイコロを入れて、少し振った後に地面に蓋をするようにして置いたとします。
この際に、中のサイコロの目は、確認できないだけで、実際には確定しているはずですよね? でも、確認できないから、6分の1という確率で答えているだけで、現実の世界では、出目は確定しているというのが、常識です。

しかし、量子論で出てくる確率の波の『確率』は、物質を観測して初めて確定するというもので、観測するまでは、確定したものは無いという、意味不明なものだったりします。
この『確率』という考え方をアインシュタインは批判し、『神はサイコロ遊びを好まない』という有名な言葉を残した程です。

また、この『確率』を掘り下げた上で、素直に解釈すると、多世界解釈、つまり、パラレルワールドが実際にあるという理論にまでつながるらしく、『現実は小説よりも奇なり』と本気で思わせてくれますね。

量子論は机上の空論?

簡単に説明しただけなので、『粒子』と『波』の両方を併せ持つという観測結果が出たから、つじつまを合わせた机上の空論でしょ?と思われる方も多いかもしれませんが…
この量子論を研究した結果、半導体を作ることに成功したようなんですよね。

半導体といえば、PCやスマホに絶対に入っている素材なので、このブログ読む為には必要不可欠といって良い物なのですが、そんな実用的なものが、量子論の理論の延長線上にある為、机上の空論でもなかったりします。

今回は、ほんの紹介という事で、本の一部だけを紹介しましたので、これを読んで興味が有る方は是非、購入して読んでみては如何でしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第35回【ヒッピー】ティモシー・リアリー(11) ~ムーブメントの終わり (後編)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
goo.gl

youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
www.youtube.com

前回分はこちら
kimniy8.hatenablog.com

解体される反体制運動グループ

新左翼と呼ばれる人達や、その中でも更に過激思想をもつテロ集団のウェザーマンと呼ばれる団体と、非武装、非暴力、平和主義を訴えるヒッピーやイッピー達との中は悪くなり、それぞれのグループは分断されていきます。
この、反体制運動グループの解体は、自然発生的に起こっただけではなく、政府側のスパイが紛れ込んでいたという話もありますね。
反体制グループは、身元調査をするわけではなく、集まってくる人間なら誰でも受け入れるグループが多く、CIAの諜報員などが紛れ込みやすい状態にありました。

こういうグループでは、前に出て積極的に行動を取るタイプは重宝される為、仕事として入り込んでいる優秀なCIA職員にとっては、グループ内での昇進も楽だったのでしょう。
そして、ある程度上り詰めてグループ内である程度の地位を確保した上で、その立場を利用して、別グループに対する不平不満や罵声を投げかけます。
この様なスパイは、当然ですけれども、相手側のグループにも紛れ込んでいるので、その職員同士で派手に喧嘩を演じる事で、それぞれのグループをバラバラにするような活動も行っていたようです。

この様な状況に耐えられなかったのか、サイケデリック文化の黎明期から活動しているヒッピー達は、ヘイト・アシュベリー地区から逃げ出すようにして、他の地域に散らばっている、考え方が似通っているヒッピーコミューンへと移っていきます。
サイケデリック文化を担ってきた、中心的な人々がヘイト・アシュベリー地区から出ていく事で、この地区は、ニートやジャンキーだけが残され、それを、自称『普通の人』が観光バスから見下すという、異様な町へと変化していきます。
そして、どこの組織にも属していないLSDの売人が、縄張り争いによって殺されるようになります。

元々は、人間が持つ可能性を知る為の意識拡張が重要視され、その体験を促すためのLSDは、求めるものには無料で配布されていた代物だったのですが、
ヘイト・アシュベリー地区の資本主義化によって流れ込んできたマフィアによって、LSDは金儲けの道具と成り果てました。
LSDも、神秘体験を得ることによって、従来の考え方を変えるという目的から、単なる現実逃避や娯楽の一つとして消費されるようになっていきました。
中心となる人がいなくなり、ヒッピーが生み出した文化が金儲けの道具と成り果てることで、この地区でのヒッピーの活動は終わりを告げる事となります。
この様な状況を受けて、黎明期から活動していたディガーズは、『ヒッピーの死』を大々的に演出する為に、ビーズの装飾品など、ヒッピーを象徴するモノを埋葬する葬儀イベントを行い、一つの時代の終わりを決定的なものとします。

資本主義に飲み込まれていくカウンターカルチャー

ここら辺までの流れを、簡単に説明しておくと、最初のヒューマン・ビーインが行われたのが、1967年の1月の話です。
この時期を境に、ヒッピーコミューンに新たな層が大量に流入してくるようになります。 そして約半年後の同じ年の夏には、
モントレー・ポップ・フェスティバルが開催されて、この夏は『サマー・オブ・ラブ』と呼ばれて、ヒッピーにとって象徴的な年となります。
そして、ここから半月も経たずに、同じ年、1967年の10月には、イッピー達によるペンタゴン包囲作戦が行われて、この参加者の一人が、国防総省を護衛する兵士の銃口に、花を挿します。

その一方で、この年は、文化の中心に有ったLSDが規制されて禁止薬物となり、製造を一手に引き受けていたオーズリー・スタンレーが逮捕された時期でもあります。
この逮捕がキッカケとなって、LSDの製造は、資産家のビリー・ヒッチコックが出資者となり、ニコラス・サンドとティム・スカリーの手によって製造され、永遠の愛兄弟団によって市場に流通するようになり、
LSDが資本主義に利用されるようになっていきます。

1967年は、ヒッピーにとって飛躍の年であると同時に、ピークを付けた年ともいえますね。
これ以降は、今回のエピソードでも説明したように、聖地であるヘイト・アシュベリー地区の観光化が進み、時を同じくして街を構成する人間が入れ替わっていき、世間からの評判も悪化していく事になります。
そして1969年1月には、ヒッピーの活動に批判的なサイレントマジョリティーによって、ニクソン大統領が誕生します。
この政権下では、麻薬撲滅キャンペーンが一部地域で行われ、麻薬中毒患者とヒッピーが結びつけら得ることになり、ヒッピーの地位は更に落ちる事となり、黎明期から存在するコミューンのディガーズによって、ヒッピーの葬儀が行われることになります。

ヤケを起こして泥沼化するカウンターカルチャー

1960年はじめから始まったLSDを中心とする活動は、1967年にはピークを迎え、1969年には崩壊に向かっていったということですね。
ここから先の転落っぷりは、結構凄いものがあります。 まず、ヘイト・アシュベリー地区でそこそこ有名人だったチャールズ・マンソンという人物の逮捕です。
この人物はカルトの教祖で、家出少女にLSDを使って洗脳し、男性を誘惑させて自身の元へ引き込む事で、自身の教団を大きくしていった人物なのですが、1969年には、メンバーに無差別殺人を強要して、実際に5人の女性が殺される事となります。

政府やマスコミは、ヘイト・アシュベリー地区の住人という事や、LSDを常用している事から、マンソンとヒッピーを結びつけて避難し、これによって反政府活動を行っているヒッピーも、大きな打撃を受ける事となります。
この事件を受けて反政府活動をしている人達が、マンソンと自分たち活動グループとの関係の否定や思想の違いを強調すればよかったんですが…
何を思ったか、一部のグループは、『マンソンこそが、サイケデリックの聖人だ』といった具合に、偉人扱いをして持ち上げてしまったんですね。

反政府活動を行うグループもマンソンも両方、世間一般や政府、マスコミから敵視されているという事で、敵の敵は味方とでも思ったんでしょうかね。
結果として、無差別殺人者を英雄のように祀り上げる反政府グループは、更に評判を落とす事となります。
そして、その中でも、より過激で行動的と言われている『ウェザーマン』と呼ばれる団体。 これは、SDSと呼ばれる革命を目指す学生による反政府グループというのが元々有ったんですが、そこから更に、過激な思想を持つ人間が集まる事で出来た毛沢東思想を掲げるグループなんですが…

このグループが、反政府活動の一環として爆破テロなどを行って、世間から危険団体として認識されるようになります。
そして、テロが報道に取り上げられると、全国で模倣犯が現れだし、1969年の1月から翌70年の4月までで、4300件を超える爆破事件が起こるまでになったようです。

こういった事実が積み重なると、ヒッピー=ジャンキーであったり、犯罪者であったり、落伍者で有るが故に世間を批判するクズといったイメージは決定的となって、固定されていきますので、評判は地に落ちます。
ラブ&ピースや世界平和を掲げていた時代からすると、えらい変わりようですよね。
そんな中で起こるのが、ティモシー・リアリーの逮捕です。 マリファナ所持で逮捕されて有罪判決が出て投獄されるわけですけれども、リアリーは、永遠の愛兄弟団や、
そこから依頼された反政府組織でテロ集団のウェザーマンのちからを借りて、脱獄する事に成功します。
世間からすると、サイケデリック文化の中心人物が、過激派の手を借りて脱獄したという状態になるわけで、世間の目はより冷ややかなものとなるわけですが…
リアリーはその後、脱獄の手助けをしてくれて、その後も面倒を見てくれたウェザーマンの活動を認めて、応援するようになってしまいます。

この影響は、世間一般よりも、サイケデリックの住人たちにとって、大きなショックを与えます。
これは当然ですよね。 リアリーの意識拡張から出発した文化は、その後、大本の主軸とは違ったものに変わって行くわけですが、そんな彼らが訴えかけてきたものは、平和であり、非武装
Love & Peaceがメインだったわけですが、その元祖ともいえる人物が、実力行使である爆破テロを認めてしまったわけですから、その衝撃は凄いものだったんでしょうね。

また、マリファナ所持の逮捕から投獄までの間に時間が有ったんですが、リアリーはその間に、カルフォルニア州知事に立候補しようと活動してたんですね。
サイケデリックの高僧と呼ばれたリアリーの立候補ですから、ヒッピー界隈から手助けをしたいという声も続々と集まります。
そして、その活動の一環で、ジミー・ヘンドリックス、ジョン・レノンオノ・ヨーコなどが動くことで、リアリー自身の知名度も上がっている状態だったんですが、
その状態で、テロ行為を認める発言をしてしまったことで、元々のヒッピーとテロ集団が同一視されてしまいます。

ムーブメントの終わり

つまり一般人から見れば、ラブ&ピースを掲げる集団が、自分たちの主張を受け入れてもらう為に爆破テロを行っていると言った認識になるんです。
この状況は、批判対象となっている政府側にとっては好都合ですよね。 政府にとって痛いところを付かれていたとしても『それを主張しているのは、犯罪集団ですよ?』と言い返すだけで、世間は納得してしまいます。
そして、活動家=犯罪者という構図が決定的になると、警察側にとっても、反政府運動の取締が楽になっていきます。

そんな中で、再びリアリーが再び逮捕されます。 そして司法取引が持ちかけられ、リアリーは結果として仲間を売る結果となります。
パトロンのビリー・ヒッチコックが逮捕され、ここにも司法取引が持ちかけられて、オレンジサンシャインの製造者の2人が逮捕されます。 捜査の手は、ウェザーマンや兄弟団にも伸びていき、ムーブメントに関わった人物が芋づる式に逮捕されていきます。
脱獄の手伝いをしてもらったウェザーマンを警察に売った事で、リアリーは反政府活動家から信頼を失い、その反政府活動家は、世間一般から犯罪者集団として認定されることとなり、この一連のムーブメントは終焉を迎える事になります。

長く続けてきた、ヒッピー・ムーブメントの一連の流れの解説はこれで終わるわけですが、かなり長いコンテンツになってしまったので、次回は、簡単なまとめと、ヒッピー・ムーブメントがその後の社会にどの様な影響を与えたのかについて、
簡単に語っていこうと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第35回【ヒッピー】ティモシー・リアリー(11) ~ムーブメントの終わり (前編)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前回分はこちら
kimniy8.hatenablog.com

イッピーの誕生

前回の放送では、ムーブメントに新たに誕生した新しい層であるイッピー達の出現で、ムーブメントが変化しつつ、盛り上がっっていったという話を中心に行っていきました。
イッピーとは、ムーブメントが盛り上がった事で新たに流入した層で、ムーブメントをファッションやお祭りの様に捉えているともいえる層の事です。
盛り上がっているムーブメントの炎をより大きくする為に、悪ふざけや派手な行動を積極的に行って、メディアなどに積極的に露出することで、自分たちの存在を世の中に知らしめる。
そして、潜在化していた問題を浮き彫りにする事で、それを元にして反体制運動を行っていく。

過熱する反体制運動

この層の出現によって、運動はより大きくなり、現状の社会に対して不満を持っている人達や団体が、このムーブメントに乗る形で存在感を大きくしていきます。
例えば、黒人差別や男女差別、この当時も現在でも、様々な問題が有るわけですが、そのそれぞれの問題を、デモなどを通して社会に対して目立つ形で提示していくという運動が盛んになっていきます。
そして、これらの組織は、この当時のアメリカで最も大きな社会問題とされていた、ベトナム戦争に対する反対運動で集結する事で、元々は小さな炎でしか無かったものが、寄り集まることで勢いを増していく事になります。

反体制運動に対抗する体制と支持者

ですが、この運動に対して面白く思わないのが、批判されている体制側です。
この状態を放置しておけば、この勢いはより拡大し、取り返しのつかない状態へと発展していく可能性が合った為、政府は、急いで対策を取り始めます。
まず、反体制運動に対して強気の姿勢を見せている人物、ニクソン大統領を候補に立てて、大統領選を行いました。

この当時は、反体制運動が盛り上がっていたとはいっても、全体的な人数的には少数派でした。
その為、反体制運動やデモなどの運動にウンザリしていたサイレントマジョリティーは、ニクソン大統領に投票し、ニクソン政権が生まれました。

当選したニクソン大統領は、麻薬取締りを徹底的に行って、反体制運動に少しでも加担しているものを徹底的に逮捕する事で、反体制運動をしている人間=ならず者というイメージを世間に対して植え付け始めます。
そして多くの国民は、この政府の戦略に見事に乗る形で、反体制運動に対するイメージを悪化させていくことになります。
政府のこういったプロパガンダ的な政策が国民に受け入れられやすかったのは、実際に、運動参加者の質が下がっていた事も、大きな要因としてあったんだと思います。

というのも、この運動の火付け役となったイッピー達は、悪ふざけや派手な行動を積極的に行って、メディアに取り上げてもらう事で、自分たちの存在を世の中に知らしめるという戦略を取っていました。
この活動によって集まってくる人達というのは、信念だとか主張といったものを持つわけではなく、単純に、面白そうだとか格好いいといったファッション感覚で集まってくる人間が大多数なので、質そのものが低下してしまいます。
中には、社会問題や主張そっちのけで、悪ふざけや目立つことに重点を置き、仲間同士で競い合うように、悪ふざけやをエスカレートさせる人間も少なくなかったんでしょう。

そんなイッピーの行き着く先は、ハメを外しすぎて刑務所に行くか、有名人になってハリウッドに行くかと言われていたそうです。今でいうと、youtuberと同じ様なポジションと考えてもよいのかも知れません。
そんな人達なわけですから、それなりに多くの人達から既に反感をかっていた状態だったんです。その状態で、政府が活動家と犯罪者を結びつけた為、すんなり信じる人や信じたい人が多かったんでしょうね。

観光地化するヘイト・アシュベリー地区

またこの頃には、イッピー達の取った戦略のデメリット部分の存在感も増していきます。一つは、ヒッピーの聖地と言われている、ヘイト・アシュベリー地区の観光地化です。
イッピー達がメディアに向かって馬鹿騒ぎする事で、主張などはそっちのけで、ヒッピーという名称だけが有名になった結果、馬鹿騒ぎするヒッピー見たさに、彼らの聖地とされているヘイト・アシュベリー地区にも、観光客が集まりだします。
ヒッピー観光ツアーが組まれ、反政府運動に参加していない、『普通の人間』自称する人達が大型バスで訪れて、馬鹿騒ぎするヒッピーの総本山を観光する。 一般人にとってはサファリパークにでも行く感覚で、ヒッピーは見世物にされだします。

人が集まりだすと、その観光客目当てに商売する人間が生まれだし、この地区は、徐々に資本主義に呑み込まれていく事になります。
この地区に集まったヒッピー達の、元々の考えとしては、意識改革によって世の中の捉え方を変えていくというもので、ここに金は介在せず、行動や思想がメインとなっていたわけですが、この観光化によって、物事の基準がお金になり始めます。

この環境の変化の他にも、ヒッピーとして流入してくる層にも変化が出始めます。
イッピー達は、派手な行動や悪ふざけを行う事でメディアの注目を集めて、人を集めるという戦略を取ってきたわけですが、そんな戦略でマトモな人間が集まるわけはありません。
マスコミがピックアップするのは、悪ふざけやお祭り騒ぎだけですからね。
その結果、自分では何も行動を起こさず、考えることもなく、努力もしたくない。全ての原因を自分以外の外側に求めて、働かずに遊んで暮らしたいと思っている様な人間が、大量に集まってきたんです。

そういう人達には、志や目標などもない為、この地区の雰囲気も徐々に代わりだし、評判も落ちていく事となります。
そして、ヘイト・アシュベリー地区の環境が変わり、自分たちを見る周りの目が変わりだすと、LSDを常用しているこの地区の住人達にも変化が現れてきます。その変化とは、バッドトリップの急増です。

LSDでどの様なトリップをするのかというのは、ドラッグを服用する人間の精神状態に大きく関わってきます。
このコンテンツでメインで紹介しているティモシー・リアリーは、グッドトリップを誘発しやすいように、チベット死者の書を翻訳し、それを使用して儀式を行うセッションを開発しました。
ドラッグ服用者の精神をどれだけ安定させられるのか、そして、トリップに対してどのように向き合うのかというのは、トリップで神秘体験を得るのに重要な要素だったわけですけれども…その環境そのものが根本的に変化してしまいました。

政府は自分たちを敵対視していますし、周りの人間は、自分たちを犯罪者を見るような目で見ます。この様な環境で幻覚剤を使用すると、かなりの高確率でバッドトリップをしてしまうようです。
LSDのトリップは基本的に長く、数時間はトリップしっぱなしの状態になってしまうようです。 
幻覚剤によるバッドトリップによって、何時間も恐怖や不安といった感情に支配された人間は、大抵、周囲の人間にとって良くない行動を取ってしまいます。
こういう人達が急増する事で、街の治安は悪化し、評判は地に落ち、状況は、更に悪い方向へと変わっていきます。

反体制運動の参加者の質の低下

町には、バッドトリップから抜け出す為か、他の薬にも手を出した麻薬中毒患者で溢れる一方で、そのジャンキーを客とする、マフィアが大量に流入してくるようになります。
観光地化で、自分たちが動物園の動物のように扱われ、マフィアの流入によって、表も裏も資本主義に支配されてしまう。
こんな状況に耐えられなかったのか、元からいたヒッピーの人達は、ヘイト・アシュベリー地区から逃げ出し、町には、言い方は悪いですが、クズのような人間だけが残されます。

ヒッピーの聖地、ヘイトアシュベリーが崩壊しだして状況が悪化しだすと、今まで共闘していた反体制グループにも、綻(ほころ)びが出始めます。
まぁ元々が、取り扱う社会問題も考え方も違うもの同士だったものが、反体制運動を社会現象下する為に集まっただけに過ぎませんでしたからね。
勢いを増すイッピーや、それを生んだ母体となっているヒッピーに相乗りすれば、自分たちも勢いづくだろうと思って、勢いにタダ乗りしていただけだったので、その評判が悪くなると、一緒に活動する意味もなくなったんでしょう。

(つづく)
Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第35回【ヒッピー】ティモシー・リアリー(11) ~ムーブメントの終わり (前編)

【プログラミング】 python奮闘記 その18 ~重複部分をまとめる

無駄な部分を手直し

前回で、ようやく、思っていたとおりのツールが出来上がりました。
kimniy8.hatenablog.com
ただ、前回のコードを見直すと、結構、無駄な部分があったりするんですよね。。
という事で今回は、もう少しだけ短くなるように書き直そうと思います。

素人目に見ても『無駄だなぁ』と思う部分は、この部分でしょうか。

        # 身のボール紙の価格
        if cardboard_a:
            c_p = cp[0]
            if radio1 == 0:
               p_p = pp[0][0]
            elif radio1 == 1:
               p_p = pp[0][1]
            elif radio1 == 2:               
               p_p = pp[0][2]
            elif radio1 == 3:
               p_p = pp[0][3]

        elif cardboard_b:
            c_p = cp[1]
            if radio1 == 0:
                p_p = pp[1][0]

if文の中にif文を入れて、条件を細かく絞っているわけですが、この部分、よく見ると、無駄なんですよね。
というのも、cp[0]の場合は、ppリストの最初に指定する1つ目のリストも[0]となり、ラジオボタンの選択によって得られる値と、ppリストの2つ目の数字が合致している。
それなら、わざわざif文の中にif文を書かなくても、2つの変数を利用するだけで、紙の価格であるppリストは呼び出せそうですし、もし呼び出せるのなら、ifの中のifは完全に無駄ということになります。

重複部分をまとめる

では、具体的にどんな感じにすれば、cpのリスト番号とラジオボタンの戻り値であるradio1を利用できるんでしょうか。
ここで生きてくるのが、代入の知識です。
変数というのは基本的に、何らかの値が代入された値なので、どんな名前がついていようと、その中身は『値』なんですよ。
ということは、ラジオボタンのアクションによる戻り値が格納されている『radio1』は、ラジオボタンのアクションによって数値が変わる変数である為、わざわざ、『radio1』の値が0と同じ時は、ppリストの2番目の数字は『0』なんて記述はしてくても言い。
直接pp[0][radio1]と、リスト番号を指定する際に、変数である『radio1』を打ち込んでやれば良いわけです。

このように、『リスト呼び出しに変数を利用』すれば、先程のコードはこんな感じで短縮できます。

        # 身のボール紙の価格
        if cardboard_a:
            c_p = cp[0]
            p_p = pp[0][radio1]
        elif cardboard_b:
            c_p = cp[1]
            p_p = pp[1][radio1]

ifの中のifが無くなったことで、かなりのダイエットが出来て随分と短くなりましたが、まだ、無駄な部分がありそうです。
というのも、cpの数字とppの1つ目のリストの呼出番号が同じなので、同じ数字を共有できるようにするだけで、p_p…の部分も削除できそうです。
ではどうすれば良いのかというと、先程の応用で、cpとppの1つ目のリスト呼出番号を変数に代入し、その変数を使い回せばよいだけです。
早速書いてみましょう。

        # 身のボール紙の価格
        if cardboard_a:
            c_p_v = 0
        elif cardboard_b:
            c_p_v = 1
        elif cardboard_c:
            c_p_v = 2
        elif cardboard_d:
            c_p_v = 3
           
        # 蓋のボール紙の価格
        if cardboard_a_f:
            c_p_f_v = 0
        elif cardboard_b_f:
            c_p_f_v = 1
        elif cardboard_c_f:
            c_p_f_v = 2
        elif cardboard_d_f:
            c_p_f_v = 3
        
        c_p = cp[c_p_v]
        c_p_f = cp[c_p_f_v]
        p_p = pp[c_p_v][radio1]
        p_p_f = pp_f[c_p_f_v][radio2]

新たにc_p_vといった変数を作り、それぞれの変数を使って価格リストから値を呼び出せるようにしてみました。
2つのコードの最終行を見てみると、書き直す前が244行だったのに対して、書き直した後は179行と、かなりのダイエットに成功しました。
全く同じ動作をするツールでも、変数をうまく使う事で、かなり効率的に書ける事がわかりますよね。

では、これで完璧なプログラムなのかというと…
実は全くそんなことは無かったりします。
というのも、今回の書き方は、その都度その都度で必要な変数を新たに作って対処していった為、最終的にはかなり適当な感じの変数の名付け方になっていました。

また、オブジェクト指向というのは、一つのオブジェクトに対して様々なデータを付加していく事で、より複雑なプログラムも簡単にかけるようになる言語だと思うのですが、今回、その強みを全く活かせていません。
次回は、この反省を活かした形で、同じソフトをもう一度作り直してみようと思います。


最終的なコード

import tkinter

# ウィンドウ作成
root = tkinter.Tk()
root.title("見積もり")

# テキスト表示
frame1 = tkinter.Frame(root)
heading = tkinter.Label(frame1, text="お見積り")
heading.pack()

# テキストボックス表示
frame2 = tkinter.Frame(root)
box_width = tkinter.Entry(frame2, width=10, bd=4)
box_width.grid(column=0,row=0, padx=5)

box_length = tkinter.Entry(frame2, width=10, bd=4)
box_length.grid(column=1,row=0, padx=5)

box_height = tkinter.Entry(frame2, width=10, bd=4)
box_height.grid(column=2,row=0, padx=5)

box_height_f = tkinter.Entry(frame2, width=10, bd=4)
box_height_f.grid(column=2,row=1, padx=5)
# ボタン表示
askbutton = tkinter.Button(frame2, text="見積開始")
askbutton.grid(column=3,row=0, padx=5)

# ラジオボタン 紙の選択
frame5 = tkinter.Frame(root)

radio1_val = tkinter.IntVar()
radio1_val.set(0)
paper_a = tkinter.Radiobutton(frame5, text = "紙【a】", variable = radio1_val, value = 0)
paper_a.pack(side = tkinter.LEFT)
paper_b = tkinter.Radiobutton(frame5, text = "紙【b】", variable = radio1_val, value = 1)
paper_b.pack(side = tkinter.LEFT)
paper_c = tkinter.Radiobutton(frame5, text = "紙【c】", variable = radio1_val, value = 2)
paper_c.pack(side = tkinter.LEFT)
paper_d = tkinter.Radiobutton(frame5, text = "紙【d】", variable = radio1_val, value = 3)
paper_d.pack(side = tkinter.LEFT)

frame6 = tkinter.Frame(root)
radio2_val = tkinter.IntVar()
radio2_val.set(0)
paper_a_f = tkinter.Radiobutton(frame6, text = "紙【a】", variable = radio2_val, value = 0)
paper_a_f.pack(side = tkinter.LEFT)
paper_b_f = tkinter.Radiobutton(frame6, text = "紙【b】", variable = radio2_val, value = 1)
paper_b_f.pack(side = tkinter.LEFT)
paper_c_f = tkinter.Radiobutton(frame6, text = "紙【c】", variable = radio2_val, value = 2)
paper_c_f.pack(side = tkinter.LEFT)
paper_d_f = tkinter.Radiobutton(frame6, text = "紙【d】", variable = radio2_val, value = 3)
paper_d_f.pack(side = tkinter.LEFT)


# 答え表示
frame3 = tkinter.Frame(root)
ans_titl = tkinter.Label(frame3, text="一箱あたりの価格(税抜き)")
ans_titl.pack(side = tkinter.LEFT)
answer = tkinter.Label(frame3, text="円")
answer.pack(side = tkinter.LEFT)

# 内訳表示
frame4 = tkinter.Frame(root)
b_areax = tkinter.Label(frame4, text="ボール紙の身の横幅")
b_areax.grid(column=0,row=0, padx=5)
b_areay = tkinter.Label(frame4, text="ボール紙の身の縦幅")
b_areay.grid(column=1,row=0, padx=5)

b_areax_f = tkinter.Label(frame4, text="ボール紙の蓋の横幅")
b_areax_f.grid(column=0,row=1, padx=5)
b_areay_f = tkinter.Label(frame4, text="ボール紙の蓋の縦幅")
b_areay_f.grid(column=1,row=1, padx=5)

cardboard = tkinter.Label(frame4, text="【身】ボール紙の価格")
cardboard.grid(column=0,row=2, padx=5)
cardboard_price = tkinter.Label(frame4)
cardboard_price.grid(column=1,row=2, padx=5)

cardboard_f = tkinter.Label(frame4, text="【蓋】ボール紙の価格")
cardboard_f.grid(column=0,row=3, padx=5)
cardboard_price_f = tkinter.Label(frame4)
cardboard_price_f.grid(column=1,row=3, padx=5)

paper = tkinter.Label(frame4, text="【身】の紙の価格")
paper.grid(column=0,row=4, padx=5)
paperprice = tkinter.Label(frame4)
paperprice.grid(column=1,row=4, padx=5)

paper_f = tkinter.Label(frame4, text="【蓋】の紙の価格")
paper_f.grid(column=0,row=5, padx=5)
paperprice_f = tkinter.Label(frame4)
paperprice_f.grid(column=1,row=5, padx=5)

# Frame配置
frame1.pack()
frame3.pack()
frame2.pack()
frame5.pack()
frame6.pack()
frame4.pack()
# ボール紙の大きさ
def ask_click():
    b_hi = int(box_height.get()) # 箱の高さ
    b_hi_f = int(box_height_f.get()) # 箱の高さ
    b_wid = int(box_width.get()) # 箱の幅
    b_long = int(box_length.get()) # 箱の長さ
    b_tate = b_long + b_hi*2 # ボール紙の長さ
    b_yoko = b_wid + b_hi*2 # ボール紙の幅
    b_tate_f = b_long + 5 + b_hi_f*2 # ボール紙の蓋の縦
    b_yoko_f = b_wid + 5 + b_hi_f*2 # ボール紙の蓋の横
    
    # ラジオボタンの値取得
    radio1 = radio1_val.get()
    radio2 = radio2_val.get()

    # 紙の価格 paper plice
    pp=[[50, 65, 60, 70],[70, 100, 90, 110],[100, 135, 120, 160],[160, 235, 220, 280]]
    pp_f=[[50, 65, 75, 90],[70, 100, 115, 140],[100, 135, 160, 200],[160, 235, 285, 360]]
    
    # ボール紙の価格 cardboard plice
    cp=[40, 50, 70, 100]

    # 身のボール紙の種類
    cardboard_a = max(b_tate, b_yoko) <= 232 and min(b_tate, b_yoko) <= 222
    cardboard_b = max(b_tate, b_yoko) <= 354 and min(b_tate, b_yoko) <= 323
    cardboard_c = max(b_tate, b_yoko) <= 505 and min(b_tate, b_yoko) <= 354
    cardboard_d = max(b_tate, b_yoko) <= 748 and min(b_tate, b_yoko) <= 505

    # 蓋のボール紙の種類
    cardboard_a_f = max(b_tate_f, b_yoko_f) <= 232 and min(b_tate_f, b_yoko_f) <= 222
    cardboard_b_f = max(b_tate_f, b_yoko_f) <= 354 and min(b_tate_f, b_yoko_f) <= 323
    cardboard_c_f = max(b_tate_f, b_yoko_f) <= 505 and min(b_tate_f, b_yoko_f) <= 354
    cardboard_d_f = max(b_tate_f, b_yoko_f) <= 748 and min(b_tate_f, b_yoko_f) <= 505
    
    # NG要項
    if b_hi > 100 or b_hi < 20 or b_wid < 70 or b_long < 70 \
       or not(max(b_tate, b_yoko) <= 600 or min(b_tate, b_yoko) <= 450):
        answer["text"] = "申し訳ございませんが、弊社の設備では製造できません"
        
    else:                
        b_areay["text"] = "身のボール紙の身の縦" + str(b_tate) + "mm"
        b_areax["text"] = "身のボール紙の身の横" + str(b_yoko) + "mm"
        b_areax_f["text"] = "身のボール紙の蓋の縦" + str(b_tate_f) + "mm"
        b_areay_f["text"] = "身のボール紙の蓋の横" + str(b_yoko_f) + "mm"

        # 身のボール紙の価格
        if cardboard_a:
            c_p_v = 0
        elif cardboard_b:
            c_p_v = 1
        elif cardboard_c:
            c_p_v = 2
        elif cardboard_d:
            c_p_v = 3
           
        # 蓋のボール紙の価格
        if cardboard_a_f:
            c_p_f_v = 0
        elif cardboard_b_f:
            c_p_f_v = 1
        elif cardboard_c_f:
            c_p_f_v = 2
        elif cardboard_d_f:
            c_p_f_v = 3
        
        c_p = cp[c_p_v]
        c_p_f = cp[c_p_f_v]
        p_p = pp[c_p_v][radio1]
        p_p_f = pp_f[c_p_f_v][radio2]

        cardboard_price["text"] = str(c_p) + "円"
        cardboard_price_f["text"] = str(c_p_f) + "円"
        paperprice["text"] = str(p_p) + "円"
        paperprice_f["text"] = str(p_p_f) + "円"
        answer["text"] =str(c_p + c_p_f + p_p + p_p_f) + "円"
askbutton["command"] = ask_click            
# メインループ
root.mainloop()

【ゲーム紹介】 UNDERTALE

作品との出会い

ここ最近の動画配信サービスの充実によって、私は最近、テレビを観る機会が大幅に減っているのですが、そんな中でも観続けている番組の一つに、『勇者ああああ』という番組があります。
TVerなどでも観ることが出来るので、テレビアンテナを引いていない方でも観ることが出来る番組なので、観たことがない方で興味のある方は、観てみて欲しいのですが、その番組の中で、ゲーム紹介のコーナーがあります。

ここ数回は、ヤクザの親分と舎弟というキャラで漫才をしているペンギンズの舎弟キャラの方が出演されることが多いのですが、そのコーナーの中で、『UNDERTALE』という作品が紹介されたんです。
このコーナーは、あくまでもゲーム紹介という位置づけで、興味を持った方には是非、実際にプレイしてもらいたいというコンセプトで作られている為(その割には、ps1.ps2といった古いタイトルの紹介も多い)、基本的に、ネタバレしない方向での作りになっているのですが…
ゲームの面白さを伝えるには、核心部分を伝えなきゃ駄目だと思ったのか、視聴者には伏せる形で、司会のアルピーさんにだけ、ネタバレ有りで教えるという感じでの紹介になっていました。

その演出?と、それを聞いたアルピーさんのリアクションに興味をもつことになりました。


      

PS Storeのサマーセールで購入

興味を持ってから数日。
定期的にチェックしているps storeを覗いてみると、最大90%OFFのサマーセールが開催されていたので、何気なく覗いてみると…
興味を持って気になっていた『UNDERTALE』がセール対象に!

先ほど紹介した番組のコーナーでも、ゲームのプレイ動画は流れていたのですが、それを見た私は、勝手にファミコンのゲームだと勘違いしていたのですが…
どうやら、Steamで最近発売された海外ゲームのようで、それが日本語にローカライズされて、PS4でもプレイできるようになった作品だったようです。
しかも、元々の値段が1500円程度と安い!

先ほど紹介したリンクの値段が高いのは、DL販売で人気が出まくった事で、パッケージ化されて再販売され、その際に、特典などが付けられたからのようです。
実物や特典が欲しいという方は、パッケージ版を買うほうが良いのかもしれませんが、ゲームだけ楽しみたいという方は、ダウンロード販売がお得となっています。

誰も死ななくて良い やさしいRPG

さて、このゲームの説明に入っていくわけですが、このゲームのジャンルは、RPGです。
RPGといえば、ドラゴンクエストを始めとしたゲームが有名で、敵を倒して自分の分身である主人公を強くしていって、最終的には世界を支配している強大な敵を倒して、世界を救うというのが定番ですよね。
ですがこのゲーム。 『誰も死ななくて良い、やさしいRPG』を謳っていたりするんですよね。

最初の方で、ゲームプレイの方法を教えてもらうチュートリアルがあるのですが、そこで教えてくれるのは、モンスターと出会った際の対処の方法。
普通のゲームの場合、敵を攻撃して倒す事で、EXPを得て、それを貯めることでLvが上昇し、自身の分身であるキャラクターのレベルを上げていって、強敵を倒すのがセオリーなのですが、このゲームでは、他の方法でもやり過ごし方も教えてくれます。
その方法は、『行動』を起こす事で相手の戦意を喪失させて、戦線離脱させる方法です。

女神転生でいうところのTALKみたいなものですかね。
敵とコミュニケーションを取って仲良くなったり、敵が主人公に対して行為を持ったりする事で、敵が戦意を喪失。その状態で『みのがす』を選ぶと、そのまま戦闘が終了するというわけです。
ただ、この方法で戦闘を終了させてしまうと、報酬としてお金は手に入るのですが、EXPは入らないので、当然、Lvも上がりません…

このゲーム、『誰も死ななくて良い』と銘打っているので、基本的には『行動』を起こすことによって戦闘を回避し続けることも可能なのですが、そうなると、レベルはずっと1のまま。
実際にプレイすると、『Lv1の状態で、避けられない強敵が出てきてしまうとアウトになってしまう』という不安もあったりと、結構、考えさせられるシステムだったりします。

ちょっと変わった戦闘システム

このゲームですが、RPGで有りがちな、普通のコマンド選択型の戦闘システムとは全く違った戦闘システムとなっています。
どの様な戦闘システムかというと、こちらが攻撃する際には、タイミングを合わせてボタンを押す事でダメージが変化するシステム。
他のゲームで例えると、ゴルフゲームでスイングの強さを決定する際に、パワーゲージの中をバーが動き、そのバーをタイミングよく押すことで、飛距離が決まるというのがあると思いますが、あれと同じ様な感じです。

では、敵の攻撃はどんな感じなのかというと、弾幕シューティングになります。
自身のキャラクターのLifeを具現化したような赤いハートマークが画面中央のスペースに表示され、そのハートマークに向けて、敵が様々な攻撃をしてきます。
その攻撃を、ハートマークを操作する事で避け続ける事で、敵の攻撃を避けていきます。
被弾すると自身の体力が削られますが、全て避ける事ができれば、そのターンは無傷でやり過ごすことが出来ます。

正直、この辺りは、好き嫌いが分かれると思います。
というのも、シューティングなどが苦手な方の場合は、被弾しまくりでクリアーが出来ないというケースも出てくるからです。
普通のRPGのターン型のコマンド選択式の戦闘の場合は、大抵は敵の攻撃をくらいますが、Lvを上げたり装備を見直したりして打たれ強くなれば、それだけ倒れにくくなります。
しかしこのシステムの場合は、1ターンで何回の攻撃を食らうかは、プレイヤーの腕次第ということになります。

シューティングに慣れている人間は、苦もなく敵の攻撃を避け続けられるため、そもそもダメージを受けることはありませんが、下手な方の場合、最悪、1ターンで体力の大半を持っていかれて倒れるというケースもあるかもしれません。
敵によって攻撃パターンが決まっているので、覚えてしまえば大抵の人は避けることが出来るとは思いますが、慣れずに先に進めない方は、敵を倒してLvを上げて最大HPを上げるのか、敵を倒さずに頑張るのかを悩むことになるでしょう。

プレイしての感想

プレイを始めた時の最初の印象は、『なつかしい!』
以前にこのゲームをプレイしたわけではないのですが、ファミコンゲームの様なグラフィックと音楽に、小学生時代にゲームで遊んでいた記憶がよみがえり、懐かしい感じに浸れました。

次に感じたのは、どことなく、『moon』っぽいなという感じです。
『moon』は初代PlayStation時代のゲームで、今までのRPGにアンチテーゼを投げかけるような作品で、当時の私はかなりの衝撃を受けたゲーム。
簡単な物語としては、RPGで勇者を演じて遊んでいた子供が、何故か、ゲームの中に入ってしまうというストーリー。

何も分からず、自身も透明になっていて周りから見えない状態になって混乱しているところを、目の見えないお婆さんに救ってもらうところから始まります。
お婆さんに衣服を貸してもらい、透明だけれども、服によって周りから認識される状態になって、訪れた世界に飛び出してみると、そこには勇者という殺戮者が街の住人であるモンスターを殺しまくっている…
しかし、そんな世界に迷い込んだ主人公は、殺されたモンスターの幽霊に触ることで生き返らせることが出来るという能力を身に着けており、勇者が世界を壊しながら進んでいくのを、直しながら追いかけていくと言った感じのストーリーなのですが…

雰囲気やキャラクターといった世界観が独特で、漂う雰囲気が可愛らしくも悲しい感じで非常に良く、ゲームに込められたメッセージ性も非常に強く、印象にかなり残った作品だったんですよね。
この『moon』という作品と、非常に近い香りを感じたのが、今回紹介している『UNDERTALE』でした。

あまり語るとネタバレになってしまうので、詳しくはかけませんが…
謳い文句どおり『誰も死ななくて良い』を実践することで、優しい気持ちになれる作品です。

また、作品内では積極的に細かい設定などは語られませんが、様々なところに散りばめられた情報を自分で収集する事で、設定の全体像がわかってくると、結構、怖いところなんかも出てきたり。
その怖い部分も含めた全体的な設定を知ると、さらに、色んな事を考えさせられたりも…

紹介しておいて何なんですが、この作品は、できるだけ事前に情報を入れずに自身で体験した方が面白さが増すと思いますので、もし、興味を持たれた方は、サマーセール中に買ってプレイしてみてはいかがでしょうか。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第34回【ヒッピー】ティモシー・リアリー(10) ~ムーブメントの終わりの始まり(後編)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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youtubeでも音声を公開しています。興味の有る方は、チャンネル登録お願い致します。
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前編はこちら
kimniy8.hatenablog.com

世界を変える為に問題を生み出すイッピー

そして、問題を創り出し、その問題に対して抗議するというスタイルは、様々な団体を生み出し、それらの活動そのものがエスカレートしていくことになるんです。
今現在もそうですが、昔は、今以上に問題が存在していました。 男女の【扱いの差】などのジェンダー問題や、黒人差別を始めとした人種差別などは、今でも完全に解消しているとは言い難い状態ですが、当時はもっと酷い状態でした。
こういった、今までの社会が当然としてきた前提を問題視し、それに対して異論を唱え、新たな価値観を押し付けるグループが続出する事になります。

例えば、政治的な思惑から差別されて虐げられ、本来なら、守ってくれるべき警察官からも敵視されてきた黒人達が、警察官から黒人を守るために結成されたブラックパンサー党とかですね。
この集団は、共産主義民族主義というのを掲げて、武力による革命も視野に入れて、革命による黒人解放を目指したグループと言われています。
この様に、政治的な主張をして世の中を変えようとする集団の他にも、永遠の愛兄弟団の様に、幻覚剤による神秘体験を利用して団結する、カルト集団なども生まれ始めます。
名前だけでいえば、チャールズ・マンソンが創立したカルト集団なんかが有名ですね。

反体制派をまとめ上げるベトナム戦争

このようにして誕生した、政治団体やデモ集団、そしてカルト集団は、創立理念などは異なっていましたし方向性もバラバラだったわけですけれども…
反体制という部分では共通していた為、体制が行っている行動の中で一番わかり易い出来事に焦点を当てて、それを批判する部分で共闘し始めます。 それが、ベトナム戦争です。
ベトナム戦争は、アメリカが直接関係の無い、北と南のベトナム内での内戦だったんですが、南北に分かれている理由が共産主義か資本主義かというものだった為、
資本主義側にアメリカが、そして共産主義側にソビエトが手を貸す事で、代理戦争の舞台となりました。
そしてこの頃に開発されて普及しだしたテレビ報道によって、毎日のように戦争映像が家庭に流れ、民衆は、人の死というのを目の当たりにする日々を過ごしていました。

資本主義や共産主義という、経済的な考え方が違うというだけで殺し合いに発展し、テレビでは毎日のように人が死ぬ映像が流される。
そして、貧民層や黒人は経済的徴兵によって戦場に駆り出されて、その何割かは死体になって返ってくる。 正義なき戦争と呼ばれた、この出来事は、反体制派から一斉に批判を受けます。

またこの頃には、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活躍した、キング牧師の暗殺なども行われたことで、反政府運動は更に熱を帯びていく事になります。

そして活動が盛り上がり、社会現象にまでなって反体制の動きが盛り上がると、運動はブーム化して、その全体的な動きに何となく流されて集まってくる人達も出始めます。
『にわか』といえば良いのでしょうかね。 ヒッピーの根本的な思想はもちろん、イッピーの活動で新たに生まれたグループの主張も理解していない人達が、祭りに参加する様な感覚で、各グループやヘイト・アシュベリー地区に足を運ぶようになります。
これは、反体制運動がファッション化したと言っても良いのかも知れませんね。 反体制でいることに、また、その様な活動をする事が格好の良いこととされて、主張や活動内容がわからないままに、意識高い系の若者たちが流入していくことになります。

そして、反体制運動がピークに達する頃には、アメリカ大統領戦に『ピガサス』と名付けられた豚を立候補させようという所にまで発展します。この豚というのは、人間の体型的なことではなく、養豚場で飼育されている生物的な豚の事です。
そして当選の暁には、その豚を殺して食べてやろうというと宣言します。 この行動の意味合いとしては、私達民衆は、政治家という支配層に良いように扱われている、つまり、不当な扱いを受けている。
これは、弱者が権力者に食い物にされているのと同じことを意味するので、その逆をしてやろうという目論見です。
つまり、政治的に最高の権力を持っている豚を殺して、文字通り、食い物にしてやろうというメッセージが込められていたようです。

ウンターカルチャーに対する政府の対応

ただ、これで面白くないのは、批判されている政府側ですよね。
政府は、この反体制運動に対してカウンターを打つ為に、カウンターカルチャー側に対してネガティブキャンペーンを始めます。
その方法は、カウンターカルチャー側と悪者というイメージを結びつけるという方法です。

軽く説明すると、政府は先ず下準備を行う為に、ヒッピーの代名詞とも言える幻覚剤である、LSDを規制します。この規制によって、オーズリーという人物が逮捕されてしまったという話は、以前しましたよね。
そして政府は、『危険性が有るから禁止薬物に指定した麻薬を、今だに使い続ける人達がいる』として避難し、大々的な摘発などを行っていきます。

これは政府の常套手段で、過去にも人種差別を固定化する為に行われました。この例を軽く説明すると、大恐慌時代に治安が悪くなった際に、黒人やヒスパニック系の人達が多く住む地域で大々的なマリファナ禁止キャンペーンを行って、一斉に摘発を行います。
そして、一部の地域の摘発数を嵩上げすることで、黒人やヒスパニック系の住む人達が住む地域の犯罪率を、統計的に操作して上げる事で、治安が悪くなった原因をこの人達に押し付けたという過去が有るそうなんです。

これと同じ様に、まずLSDの規制を行った上で、それを使用している人で犯罪者、又は犯罪を犯していそうな人間を片っ端から捕まえて、LSD使用者と犯罪者という2つの存在を同一視させていったんです。
そして、LSD=犯罪という計算式を一般に浸透させた上で、ベトナム戦争に対する反戦運動を行っている人達と、LSD使用者を結びつけるんです。
つまりは、ベトナム戦争に対する反戦運動に参加している人間は、LSDで現実逃避をし、犯罪を犯すような人間だという烙印を押して、そのイメージを浸透させていったんです。

赤狩りニクソン

この戦略は見事にヒットし、サイレントマジョリティーに受け入れられることになります。 サイレントマジョリティーとは、積極的に主張や意見は言わないけれども、多数はの人たちの事で、逆の言葉がノイジー・マイノリティです。
ノイジー・マイノリティとは、声は大きくて存在感は有るけれども、少数派の人たちの事ですね。 サイレントマジョリティーの人達は、政府のプロパガンダに乗る形で、運動をしている人たちを犯罪者と結びつけて、ネガティブな感情を持ち始めます。
そして、そんな人達が選んだ大統領が、ニクソン大統領です。 前にも少し話しましたが、後に、ウォーターゲート事件で辞任することになる大統領なんです。

このニクソン大統領は、下院議員時代には『赤狩りニクソン』というニックネームで呼ばれる程に共産主義に対して厳しい姿勢をとっていた人です。
ヒッピーといえば、前に紹介したディガーズの様に共産主義を目指す人達も少なく無いわけですが、このヒッピー達と解りやすく敵対している人物が、国民によって大統領に選ばれました。

当選したニクソン大統領は、反体制運動をしている人達を積極的に取り締まる為に、様々な規制を行っていきます。
赤狩りと呼ばれる反共産主義運動はもちろんですが、その他にも、麻薬取締りの徹底化や、漫画や雑誌といったメディアや、アーティストたちが行う表現を制限する表現規制も行っていきます。
この表現規制の一環として、ジョン・レノンオノ・ヨーコ夫妻や、ジミー・ヘンドリックスなどの、ヒッピーの中でもメジャーで影響力の有る人物たちが、政府の監視下に置かれる事になっていきます。

これ以降、ヒッピー達によって一部で熱狂的に盛り上がったムーブメントは収束していくことになるのですが、その話は、また次回にしようと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第34回【ヒッピー】ティモシー・リアリー(10) ~ムーブメントの終わりの始まり(前編)

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
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前回までの振り返り  ~性質が変わるヒッピー

前回は、ヒッピーの性質そのものが徐々に変化してきたという話を中心にしてきました。
環境の変化は、ヒッピームーブメントの創始者的な存在であるリアリーを取り囲む環境にまで影響を与え始めます。
リアリーのパトロンであり投資家のヒッチコックは、自らの投資によってLSDの生産体制を確立しますし、リアリーを西海岸に誘致した永遠の愛兄弟団はドラッグの流通を担う事で、お金を稼ぐようになっていきます。

ヒッピーは、そもそもが 今まで前提とされていた価値観に疑問を持ち、そこからの脱却を第一の目標に置いていたわけです。
ヒッピーコミューンの一つ、ディガーズは、無料炊き出しやフリーストアー、無料の診療所の開設を行うことで、お金からの脱却を目指していたわけですが…
リアリーを取り囲む環境は、徐々に、資本主義という最も現実的なシステムに蝕まれていくことになります。

またその一方で、ヒューマンビーイン以降、イッピーと呼ばれる新たな層も誕生していきます。
この集団は、世の中に漠然とした不満を持つ層と、改革の為には、暴力をも 肯定する過激な反体制組織である新左翼が交わる事で生まれた集団です。
イッピーと呼ばれた集団は、反体制運動を拡大する為に、とにかく目立つ行動を取り始めます。
何故、この様な行動をとったのかというと、派手な行動を取り続けることによって、メディアの注目を集め、運動の参加者を増やす為です。

イッピー達の運動はドンドンと拡大していき、最終的には、ペンタゴンを包囲するところまで発展します。
そしてこの時、ペンタゴンを護衛する為に、銃を構えて威嚇していた兵士の銃に対して、デモの参加者の一人が、銃口に花を指すという行動で抵抗をします。
この行動は写真を通じて世間に大々的に発表され、フラワーパワーやフラワーチルドレンという名で有名になります。

お金でえられるものとは?

そして、この様な層が台頭してくる事によって、ヒッピーの性質は大きく形を変えられていきます。
この変化は表現がかなり難しいのですが、より現実的なものへの変化といえば良いのでしょうか…
ヒッピーというものが生み出された際の、【主張のコアの部分】というのは、常識と思っていたものからの逸脱というのものでした。

意識拡張によって、今まで当然と思っていたものが当然では無くなる。 その状態で、人間そのものや人生の本質的な部分を改めて見直すというのが、物事を考える上で中心にありました。
抽象的で分かりにくいと思うので、一つ、よく使われる例え話をします。

有るところに、朝から晩まで死に物狂いで働く、エリートビジネスマンがいました。
そのビジネスマンがプライベートを犠牲にして余りに働くので、不思議に思った人が、このビジネスマンに質問を投げつけました。
『貴方は何故、そこまで身を粉にして働くのですか?』と聴いたんですね。

そのビジネスマンは、質問に対して『この仕事を出来るだけ早く終えて、休暇を取って、旅行に出かけるんだよ。 ギリシャにでも行って、キレイな海を見ながら何日か釣りをしたいんだ。』って答えるんですね。
ビジネスマンにとってギリシャで釣りをする事は、多少の不自由と引き換えにしてでも体験したいことだったんでしょう。
一方その頃、ギリシャでは、無一文のホームレスが、する事がないので毎日、海に向かって釣り糸を垂らしていました… っと、こんな例え話が有るんです。

この例え話は、エリートビジネスマンが、自分の自由と引き換えにしてでも欲しいものを、ホームレスは一銭の金も支払わずに手に入れているという笑い話なんですが、この話には重要な事が結構含まれていますよね。
私達は、お金が絶対に必要だという価値観の中で生まれて育ってきていますが、何故、お金は必要なんでしょうか。
お金という価値だけを持つ存在が独り歩きしてしまったことで、人の行ってきた行動ではなく、お金の有無によって、社会によって人間の価値が決められてしまっているという状態になっているわけですが、これは、本当に正常な状態なんでしょうか。

こういったお金の話だけに限らず、先祖の代からやってはいけないと言われている行動や、そういうものだと決めつけられてきた価値観というものが存在します。
例えば、男のほうが女よりも、又は、黒人よりも白人のほうが偉いという価値観であったり、男は女が、又は女は男が好きと行った、異性同士の恋愛しか認めない価値観。
これらの考えは、昔から当然のように存在していますけれども…
その価値観は、本当に正しいのでしょうか。 

争いは何故起こるのか

この、昔からの常識的な価値観の決めつけに対して、疑うという行動。

そして、自分自身と宇宙とが一体化する、絶対的な存在を目視するといった、幻覚剤による意識拡張と呼ばれるものを体験することによって、そもそも前提や問題が無いという事に気がつくというのが、ヒッピー思想の本質だったと思います。
ビートルズがイマジンで歌っている事は、天国も地獄も、国と国との境界線も、自分のものや他人のものといった、所有という概念そのものも、そもそもが無いという事を主張しています。
あらゆる争いや問題は、そこに何かが有ると思い込むところから始まります。 所有という概念が有るから、奪ったり盗んだり、自慢したり羨ましがったりという概念が生まれます。
しかし、そんなものがそもそも無いのであれば、そこには何の争いも生まれません。 例えば土地なども、どこかの誰かが最初に、勝手に自分のものという主張をしたから、所有権を売る、買うという概念が生まれますが、元々は誰のものでもないんです。

ヒッピーの大本の主張は、自分の意識を変えることで世の中の見方その物を変えるというもので、リアリーが主張するように、意識拡張によって現実の前提となっているものからドロップ・アウトすれば、それだけで改革はなされるものでした。

ただ、この思想そのものが難解なのか、多くの人達には理解されず、ヒッピームーブメントの方向性は、自分の内面を変えることではなく、自分の外側を取り巻く世界を変える方向へと進んでいってしまいます。
自分を取り巻く外側の世界を変える為に、人々は反体制集会を開いてはデモを起こします。そして、より多くのメンバーを集めるために、とにかく目立つ行動を行い、メディアに取り上げられるように工夫するという方向に変わっていきます。

ヒッピーとイッピーの違い

ここで、両者の何が違うのかが分からなくて、混乱されるかたも結構多いと思います。というのも、両者ともに、主張を言葉に変換すると、同じ事を主張しているからです。
元々のヒッピーもイッピー達も、両者共、国の境界線であるとか善悪の基準、男女や人種といった差別や、資本主義特有の所有という考えははくだらないと考えていますし、それらの差を無くす方向で運動をしています。
ですが、この両者の主張が決定的に違うのは、ヒッピー達は問題が無いと主張しているのに対し、イッピー達は問題を創り出しているところです。

ヒッピー達が目指したのは、意識拡張からの悟りの境地で、その境地に達したのであれば、今までの前提となっている価値観は崩れ去る為、問題そのものが無い状態になります。
その状態に、出来るだけ多くの人類を連れていきたいという一心で、リアリーは【チベット死者の書】を復刻させましたし、LSD製造者のスカリーは無料提供を提案しました。

ですが、新左翼グループと交わることによって生まれたイッピー達は違います。
例えば、この世には【男女差別】という問題があるという事を先ず掲げて、この問題を出来るだけ多くの人達に知らしめる為に運動を行います。
そして社会問題化させることで、前提となっている価値観その物を、新たな価値観で塗り替える事を目的としています。

この手法の場合、価値観の差や問題というのは残り続ける為、価値観の変化に伴って、争いは残り続けます。つまり、塗り替えられた価値観は、別の新たな価値観によって塗り替え続けられるということです。
つまりは、犬を食べる習慣がある国に対して、犬をペットとして飼う習慣のある国が喧嘩を売る。
価値観の押しつけに成功したとしても、次は、首輪を付けて犬を飼う人達に対して、動物は人間の奴隷じゃないと主張している人達が、争いを仕掛けるという事になるわけです。
これは価値観の押し付け合いになる為、どこまで行っても争いがなくなる事はありません。

ただ、どちらが分かりやすいのかというと、イッピー達の行動の方が分かりやすいですよね。 
今現在、冷遇されている人達は、自分の置かれている状態を問題化して解消する為に運動してくれている人達を見ると、応援したくなりますし、活動に参加したくなりますよね。
宇宙との一体感とか言われても、イマイチ、ピン!と来ませんし、問題 自体を無いことにして、現実を新たな価値観で捉え直せと言われても、現状で差別されて冷遇されている状態の人たちにとっては、それも難しいでしょう。
結果として、ヒッピー・ムーブメントは、イッピー達の反体制運動に飲み込まれていくことになります。
(後編につづく)
[htt(p://kimniy8.hatenablog.com/entry/2018/08/01/211312:embed:cite]

『みたらし祭』 と 『キューバサンド』

先週の話になりますが、京都の下鴨神社で行われた『御手洗祭(足付け神事)』(みたらし祭)に行ってきました。
『みたらし祭』という名前から、『団子的な何か?』と思われる方も多いかと思いますが、みたらし団子の語源がこの祭り。
みたらし祭と聞いて、団子の祭り?と聞いてしまうのは、映画『マッドマックス』を観て、『北斗の拳にインスパイアされて創ったん?』と聞いてしまうようなものなので、注意が必要です。
f:id:kimniy8:20180727201751j:plain
『みたらし祭』というのは、糺の森(ただすのもり)というところで冷水の中を歩いていくという祭りなんですが、『みたらし団子』は、その糺の森にある御手洗池(みたらしのいけ)の水泡を模して作られたという説があるお菓子です。
みたらし団子 - Wikipedia

この祭り、元々は、地元の人しか来ないような超ローカルな祭りで、私が小学生の頃は屋台も『みたらし団子』の1軒しか出ていませんでした。
また開催日も、土用の丑の日とその後1日の2日ぐらいしか開催していかなった記憶がある祭りなのですが…
ここ最近は集客に力を入れまくっていて、普通に屋台も出まくりで、開催日も、7月20日~29日までの10日間も開催されてたりします。
f:id:kimniy8:20180727201812j:plain
また、私が小学生のに行った際には、神社に行って水の中を歩いて帰るだけの祭りで、特に参加費なんかもなかったように記憶しているんですが、最近では、参加料をとってたりします。
まぁ、神社って木造で、建て替え費用なんかもかかるんでしょうし、頑張って営業しているんでしょうね。

この祭りですが、何故行くことになったのかというと、私が愛聴している『BS@もてもてラジ袋』というネットラジオを主催している、ぶたお氏が、祇園祭の後祭を観に京都に来るという連絡を受けたからです。
moteradi.com
その際に、私が以前から『一度は行っておくべき!』と進めていた飲食店に行きたいという連絡を受けたので、それなら、その飲食店の近くで開催されている、『みたらし祭』に参加してみませんかと誘ってみたところ、『行ってみたい』という返答を頂いたので、行くことにしました。

みたらし祭

私にとっては数年ぶりの『みたらし祭』だったのですが、結構、色んな所がグレードアップしている感じ!
昔は150円だったと記憶している祭りの参加料は300円になってるし、足つけが終わった後に貰う水の横には、今まではなかった賽銭を投げ込むザルが置かれている。
帰り道には、湧き水を容器に入れたものが500円で売られたりと、色んな所でお金が落とせる感じ…

まぁ、神社の建て替え費用なんかもかかるしね。 
それに下鴨神社は、京都市内でも結構北の方に位置していて、世界文化遺産とはいえ、普段から参拝客が多いというわけでもない。
みたらし祭や葵祭流鏑馬といった、『ここぞ!』というイベントで稼がないと、やっていけないのかもしれません。

それに、冷静になって感が得れば、祭りに参加できるという体験が300円というのは、別にボッタクリってほどでもないですしね。

という事で、入場料を払って参戦ですよ。
入り口のところで、竹串に刺さったロウソクを渡され、特に説明設けないままに、それを持って坂を下っていく…
入り口に入ってすぐに、赤い橋をくぐっていく辺りが、結構良い感じですよね。
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水に入るということで、ジーパンを余裕を持って、膝の直ぐ下ぐらいまでまくりあげて入ったのですが、意外に深くてジーパンが水に濡れそうに。
この祭りには何度か参加したことがあるのですが、数年おきの参加という感じなので、水位は毎回忘れてたりするんですよね。。 もっと記憶力が良くなりたいです。

僕はギリギリ濡れなかったのですが、一緒に参加した ぶたお氏は、水に入ってから再度、捲り上げる自体に追い込まれていました。僕が水位を記憶しておけば、注意も促せただろうに、申し訳ない。
水に入って歩いていくと、当然のことですが、足元がかなり涼しく、水によって空気も冷やされているのか、猛暑を一瞬忘れられて良い感じ。300円払ったかいがあるんじゃないかと一瞬思わせてくれる気持ちよさが心地よい。
しばらく進んでいくと、所々に火が燃えているところがあり、皆がそこで、入口で渡されたロウソクに火を付けているので、僕たちも真似して火をつける。
風がキツく、何度も火が消えそうになりながらも、ゴールを目指して歩く様は、ぶたお氏曰く、ジョジョ第五部のギャング入団試験のようでした。
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なんとかロウソクの火を守り抜き、無事にゴール。
祭りへの参加を終えた後は、本来の目的である、『一度は行っておくべき!』と進めた飲食店へ向かいました。

アンティシェンエ

店の名前はアンティシェンエ。場所は、下鴨神社の西側にある下鴨本通を挟んだ向かい側です。
この店は、繁華街にあるわけでも無いのに、どこからともなく人が集まってくる人気店で、店の広さ自体もそこまで広く無い為、タイミングが合わなければ入ることが出来ないお店。
ただ今回は、事前に ぶたお氏から『リスナーさんと共に行きたい』というメールを貰っていたので、昼ぐらいに店側にメッセージを送って、テーブルを一つ空けてもらって置いたので、安心して向かいました。

店に到着すると、私達の為に空けられたテーブル以外は全て埋まっている状態。
オープン間もない時間のはずなのに、かなりの盛況ぶりに改めて、『予約しておいて良かったぁ』と一安心。

暑い外を歩いてきたので、取り敢えず、みんなでビールを注文!と行きたいところですが、この店の凄いところは、ビールサーバーがかなりの数あって、メーカー違いの様々なビールを取り揃えているところ。
普通のbarやパブでも、2~3のビールサーバーを設けているところはありますが、大抵のところは、メーカーを揃えなければ嫌がられたりします。
つまり、サーバーが3つあっても、メーカーは揃えなきゃ駄目だから、選ぶメーカーによって銘柄も決まってくるという事

でもこの店は、メーカーが違う銘柄を取り揃えているんですよね。これも、営業努力の結果なのでしょうか。
置いてあるビールとしては、『よなよなエール』『ギネス』『オリオン』『バス・ペールエール』『ブラックアイル各種』と、シードルの『ストロングボウ』など。
ブラックアイルに関しては、自身で輸入に関わったりして導入したようで、日本では、ドラフトではあまり呑むことが出来ないものだったりします。

和達が注文したのは、1杯目がブラックアイルのIPAで、2杯目がブラックアイルのオートミールスタウト。
どちらも、かなり個性がある味わい深いものでした。
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そんなビールのアテとして頼んだのが、まずはフィッシュアンドチップス。
ぶたお氏にこの店を薦めた理由は、フィッシュアンドチップスが好きというのを知ったのがキッカケで、好物であるなら、是非、この店のフィッシュアンドチップスも食べてほしいと思って薦めたので、一品目は必然的にこれになりました。

そして二品目は、キューバサンド。
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映画の、『シェフ 三ツ星フードトラック始めました』で作られていたサンドイッチにインスパイアされて作ったというボリューム満点のサンドイッチ。
これでもか!というぐらいにチーズが入っていて、4分の1カットされていたものだけでも、ボリューム的にはマクドのチーズバーガー異常なんじゃないかと思わせるぐらいの食べごたえ!

そして最後は、ベーコンステーキを注文して、この日は終了。
この店は、一皿あたりの量が多いので、一人一品ぐらいを頼んでシェアするぐらいが丁度よいんですよね。
気になるお会計は、一人あたり3500円。
ビールが2杯と入っても、一杯がパイントなので600ほど入っている為、2杯で1L超え。それに料理まで食べてこの値段は、結構、クオリティーも含めた本来の意味でのコスパとしては、かなり良い方だと思いますよ。

これを読まれている方で近くに訪れた際は、行ってみてはいかがでしょうか?

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第33回 【ヒッピー】ティモシー・リアリー(9) ~オレンジ・サンシャイン

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回の放送では、ヘイト・アシュベリー地区で活動するサンフランシスコ・オラクル誌が開催した音楽フェス、ヒューマン・ビーイン後に、ヒッピームーブメントに関わる人達の関係がどの様になっていったかについて、簡単に説明していきました。
ヒッピーというのは、もともと様々な思想を持った人達がLSDという幻覚剤によって、つながりを持っていただけだったのですが、そのバラバラの思想を一つにまとめあげようとして、音楽フェスが行われたわけですが…
結果としては、自分達に確固たる主張がある人達の間では、意思の疎通が行われることはなく、
その一方で、社会に対して漠然と不満を持ってはいるけれども、自分の主張がない人たちは新左翼の思想に触れ、何となく漠然とした思想の元にまとまることになります。

そしてこの流れがキッカケとなって、反政府的な政治活動がブームになったんですね。これは、アメリカに限ったことではなく、日本でもそうですよね。
日本でも、反政府的な学生運動がブーム化しましたし、政治的な主張を持たない人達は、主張を持つ人達からノンポリなんて呼ばれてましたよね。
自分達の置かれている立場に対して、漠然とした不満を持っている、そして、その原因を作っているのは政府側に原因が有るという考え方によって、反政府的な考え方が一部で流行し始めたんです。

このあたりから、ヒッピームーブメントが、徐々におかしな方向に動き出してしまいます。
ヒッピームーブメントは、元々の出発点としては、皆が当然と思い込まされていた前提をぶち壊そうという活動を、文化面から行う事がメインの活動でしたよね。
前進となったビート・ジェネレーションは、ポエムを通して高度管理社会に対して抵抗していましたし、ヒッピー達は、LSDが見せる幻覚によって、現実を前提とした価値観に異議を唱えてきました。

そして、その活動から、サイケデリック文化が生まれました。 芸術が生まれ、音楽が生まれ、ファッションが生まれ、新たなライフスタイルが提唱されました。
過去から継続している価値観に縛られて、頭を押さえつけられてきた若者たちは、そのサイケデリックカルチャーに可能性を見出して、一部の意識が高い若者たちがヒッピーコミューンに流れていったわけです。
繰り返すようですが、元々の活動としては、今までにない考え方や新たな文化を提唱する、または実践する事で、人々の考え方やライフスタイルそのものに変化を与えようという趣旨で始まった事なのですが、
ヒューマン・ビーイン以降、ヒッピー達の質が変わってくるんです。

これは、流入してくる人達の質が変わってきたからというのが、大きな理由なんだと思います。
ヒューマン・ビーインそのものが、マスコミを利用して多くの人に存在を知らしめて、メンバーを増やすという目的が有った為、幅広い層に訴えた結果、志を持たないような人まで呼び寄せてしまう事になったんです。
これは、私の偏見も入っていますけれども、主張を持たずに、何となく集まる人達というのは、自分自身で考えたり調べたりといった事はあまりせずに、都合の良い意見を鵜呑みにしたりしがちです。

そんな人達の前に、『今、自分達が社会的弱者に追い込まれて打ちひしがれているのは、自分達が悪いのではなく、システムを牛耳っている奴らが悪いからだ!』って感じの意見いう人が現れると、つい、その流れに乗ってしまったりしがちじゃないですか。
その他には、単純にヒッピー思想を誤解する人達ですよね。 ヒッピーの生活が、単純に働かなくて良いとか、ドラッグをやって自由に行動すれば良いといった感じで、働かずに楽が出来ると思い込んで集まってきた人達も、一定数いました。
そういう人達がコミュニティーの中に大量に流入してくる事によって、コミュニティーの質そのものが下がっていって、それに引きずれる様な形で、今まであったコミューンの方向性も、変わってきます。

この影響は大きく、ティモシー・リアリーの周辺にも影響を及ぼし始めます。例えば、永遠の愛・兄弟団と、リアリーのパトロンであるヒッチコックもそうです。
では、どの様に変化していったのかというのを、当時の流れを少し詳しく追ってみていきましょう。

この永遠の愛・兄弟団は、ティモシー・リアリーの主張に共感し、西海岸で活動をしていたカルト集団で、東海岸を追われたティモシー・リアリーに対して、西海岸で生活が出来るように援助したという話を以前にしたと思います。
このカルト集団は、教祖がLSDによって人生を大きく変えられたということで、LSDを信仰して、オーズリーという人物からLSDを仕入れて市場に流すという活動を行って、団体の維持活動費を捻出したいたのですが…
前にも話した通り、オーズリーは67年に逮捕されてしまいます。

この後を継ぐ形で、ティム・スカリーという人物が手を上げて、LSDの研究と製造を引き受けようとするのですが… スカリーはまだ若いため、研究設備も費用もないんですよ。
そこで、資産家であるヒッチコックに出資を求めるのですが、その際に、スカリーは一人の人物と引き合わされることになります。その人物が、ニコラス・サンドです。
2人は協力する形で、純度の高いLSDである『オレンジサンシャイン』を生み出すのですが、ここで、意見が別れます。

というのも、ティム・スカリーは、LSDによる神秘体験によって獲得できる悟りの境地と言うものを心の底から信じていて、世界中の人間がLSDを服用して悟りを開く事で、本当の平和というものが訪れると信じている様な、純粋な人間だったんです。
スタンスとしてはリアリーと同じで、純粋に世の中を良い方向に改革したいと思っていましたし、LSDがその有効な手段であるなら、それを積極的に使っていこうという考えの持ち主ですね。
その為、スカリーは、自分たちが製造したLSDは、欲しいと思う人であれば無料で配布すべきだし、それだけではなく、積極的に広めていくべきだと考えていました。

その一方でニコラス・サンドは、自身が研究して製造したLSDをモーターサイクルギャングと呼ばれているヘルズ・エンジェルズに販売委託する様な人物でした。
サンドにとってはLSDはもっと現実的なもので、簡単に言えば金儲けの道具だったんでしょうね。

とはいってもサンドは、心理学や東洋思想と言うものに理解を示し、自身もそれに没頭した経験があり、LSDの神秘体験が起こす奇跡を全く信じていなかったわけではありませんでした。
というのもサンドは、リアリーがまだ東海岸のミルブルックで研究をしている時代に、ヒッチコックに誘われて、リアリーに会い、共に研究を行っていた人物だったからです。
その為、LSDによって得られる神秘体験は理解していましたし、それが人間にとって重要な事だという理解はしていたんでしょう。

ただ、スカリーのように少年のような気持ちを持つ純粋な人間ではなく、もう少し大人だったという事なんでしょう。
その為、LSDを無料配布するというスカリーの提案に対しては、『人間は、無料で貰ったものに対しては敬意を払わない』というもっともらしい理由をつけてあっさり却下しました。
これは、サンドだけの意見ではなく、投資家であるであるヒッチコックも同じだったようです。 スカリーに研究費という名目で資金提供をしましたが、その目的は世界の改革ではなく、LSDの売却益というリターンを求めてだったからでしょう。

この辺りの出来事なんですが、サンシャイン・メイカーズというタイトルで映画化されています。
実際のスカリーとサンド本人が出演し、当時の古い映像なども交えながらインタビューに答えるという映画で、当時、何を考えて行動をしていたのかといった事を話していたりもするので、興味の有る方は見てみてください。
Netflixも見れたと思います。

ここで、スカリーと後の二人の意見は割れるわけですが、研究費がなくて独立することが出来ないスカリーには選択の余地はなかったのか、スカリーとサンドは共同で生産体制を確立し、オレンジサンシャインの大量生産と安定供給を行います。
安定供給されたLSDは兄弟団が流通させ、この薬物は瞬く間に世界へ広がります。 そして、この薬物は、ヒッピー思想に没頭している若者たちだけでなく、単純に現実逃避したい層にまで広まっていくことになります。
その現実逃避したい層というのが、ベトナム戦争に駆り出された軍人たちです。 彼らは、直接恨みもない現地の人間を殺しに行かなければなりません。そしてその内、自分の仲間が相手に殺される。
そして、自分も殺されるかもしれないという恐怖と、仲間を殺されたという恨みから、殺し合いにのめり込んでいく。 これも、一時的な衝動で殺し合うのではなく、その状態で長期間過ごさないといけない。

こんな状態では、正気を保つ事そのものが難しいですし、正気を維持し続ける事で壊れてしまうという事もあるでしょう。 文字通り、現実逃避する事で、兵士たちは地獄のような毎日をやり過ごしていたようです。
これは、漫画のバナナフィッシュの冒頭を読むと分かりやすいかもしれませんね。
ただ、兵士というのは戦場に行ったっきりではなく、戻ってきます。 映画、ランボーの主人公もそうですよね。 ベトナムからの帰還兵は、戦場で覚えてしまったドラッグを、帰国したからといって忘れられるのかといえば、そうではありません。

アメリカに帰還してからも、ドラッグを使った時の高揚感などが忘れられない人間は少なくなく、帰還兵の何割かはその後もドラッグを買い続けます。
スカリーやサンド達によってドラッグの生産体制が完成し、永遠の愛兄弟団によって流通網が確立する。そこに、ビーインで膨れ上がったヒッピーやベトナム帰還兵といった大量の顧客が流れ込むことで、
ドラッグは一つの産業になり、巨大なビジネスへと変わっていきます。
これらの流れを簡単に言うなら、目指すべき理想として始まった運動を、徐々に資本主義が蝕み始めたと言った感じなんでしょうかね。 
精神の開示であったり、今までの認識を根本的に変えることで、世界の感じ方を変えるという理想を現実が侵食し始めていったんでしょう。
政府や警察は、これらの動きに対して兄弟団を、構成員750人からなるドラッグで稼ぐヒッピーマフィアとして、警戒しだす事になります。

ちなみにですが、この、警察や政府の動きなんですけれども、単純にドラッグが蔓延するのを防ぐ為とか、そういった純粋な正義から行動したのではないようにも思えます。
というのも、この1967年という年は、反政府運動がかなり活発になってきている時代なんですね。 この様な動きが、より活発化しないためにも規制したかったというのが、一番大きな理由だったんでしょう。

活発化する反政府運動について、もう少し詳しく説明していきますと、この当時は、ビーインによって集まった不満を持つ若者たちが新左翼達と結びついて、その中間的な存在が生まれています。

つまり、新左翼のように、改革を早めるためであれば暴力も辞さないと言った過激思想と、ヒッピー達が唱えているラブ・アンド・ピースという平和思想を合わせたような人達で、デモ活動のような運動を積極的に行う人達ですね。
イッピーとも呼ばれる人達なんですが、政治的で反体制的な活動をするけれども、暴力沙汰は起こしたくないという人達が台頭してくるんです。
ヒッピーとの大きな違いというのは、ヒッピーが意識拡張によって、人間の内面的な改革を行うことで、自分自身の世界に対する味方を変えようとしたのに対して、イッピーは、自分たちの内面ではなく、
外側を取り囲む世界を、意識改革によって改革しようと考える人達です。
そして、その手段として、政治的で反体制的な活動というのを、目立つ形で行うことで、民衆の注目を浴びるというというのを目的として活動していました。

ヒューマンビーインの活動がそうであったように、目立つ行動を行って、民衆の目を引く事によって、政治的なメッセージをより多くの人間に伝えたり、自分たちを支持するサポーターであったり、
一緒に活動してくれる同士を増やしていくという戦略を積極的に取っていく団体ということです。
真面目に主張を行うだけではなく、時には羽目を外して突拍子もない事を行ったり、馬鹿馬鹿しいことや悪ふざけを行うことで、メディアの注目を得ようとする。
そして、メディアが半ばおちょくる形でテレビなどを通して紹介する事によって、存在を知らしめて、活動に参加する人達を増やして、活動を大きくしていくという事を狙っていくって感じですね。

ここで、バカげたことや悪ふざけをして、支持者や同士が集まるのかと疑問を持つ人もいらっしゃると思いますが、この件に関しては、今の私達の生活を注意深く観てもらえば理解できると思いますが…集まるんです。
今の状態の例を上げてみると、例えば、馬鹿な行動を取るyoutuberは、バカにされているだけなのかというと、そうでもないですよね。 馬鹿な行動を取って一時的にでも有名になれば、フォロワーを増やすことが出来ます。
そしてフォロワーの一部はファンになり、SNSなどを通して積極的に拡散していきます。この構造では、フォロワーが増えれば増えるほど、影響力も増せることになります。

炎上芸と呼ばれているものも、これに当たりますよね。 一見すると暴論のようにしか見えないタイトルを付けた本を出版したりだとか、Twitterでつぶやくなどの行動をを行って、人の注目を集めて、表面的にしか理解していない人達から、あえて批判を受ける。
これによって有名になって拡散していくと、物事を表面的にしか読み取れない人達に対して、読解力が人並みにある人達や、信者と呼ばれる発信者に強く共感している人達が、発信者の気持ちを代弁する形で、文章の本質部分に焦点を当てて反論をしだします。
こうなることで、信者とアンチと呼ばれる批判しかしない人達の間で論争が起こり、問題が大きくなっていき、今までは、その問題や発信者に興味がなく、知らなかった人達まで、問題や発信した人に対して興味をもつようになる。

これが本の場合であれば、直接、売上につながるでしょうし、Twitterの場合だと、フォロワー数を稼ぐことが出来、次に問題発言をした際に炎上させやすくなります。
そして、一定数のフォロワーを稼ぐことに成功すれば、インフルエンサーとして有名になり、仕事にも直結するようになっていきます。
ただ、これはネット環境が有る現在の話であって、ヒッピーが活躍した時代というのは、主なメディアが新聞や雑誌、テレビぐらいしかありません。
その中でも、テレビというのは一番観られることが多く、影響力も高いと考えられるので、行動を取る際に一番優先する事は、テレビ受けする事になったのでしょう。

テレビが発達しだした時期に目立つことを行って、テレビに取材させる事で、自分たちの活動をデフォルメして世間に幅広く伝える事で、世の中に対して漠然と不満を持つ層を集める。
そして、膨れ上がった人員を導入して、更に目立つことを行う事で、ニュースに飢えたマスコミは食いつく。この連鎖によって、反政府運動というのが社会現象化していくんですね。

そして、この67年の10月には、イッピーにとって象徴的な出来事である、ペンタゴンの包囲作戦というのが行われます。
このペンタゴンの包囲作戦というのは、ベトナム戦争に対する反対運動・反戦運動の一つで、アメリカが起こす戦争の象徴的な場所である国防総省ペンタゴンを、反対派の人達が結集し、大人数でペンタゴンその物を手を繋いで取り囲むという作戦です。
取り囲んだ後に、ペンタゴンに向かって1万本の花を上空からばら撒くといった儀式的なもので、主催者のアビー・ホフマンは、この儀式によってペンタゴンを浮上させ、悪い魂を浄化させようとしたそうです

イッピーらしい言い回しですが、暴力の象徴であるペンタゴンを平和の象徴である花に塗り替えようというメッセージを込めた計画だったんでしょうね。

ただ実際には、その動きを事前に察知していた軍関係者によって、花を上空からばら撒く為の飛行機のパイロットを抑えられてしまった為に、この試みは失敗し、その現場に大量の花だけが届けられるという状態になってしまいました。
まぁ、当然といえば当然ですよね。 飛行機でバラ撒かれるのが花ではなく、爆薬などの危険物であれば、ペンタゴンが破壊されてしまう可能性が有ります。 あらゆる危険を排除する為にも阻止するというのは、当然の行動といえます。
ただその結果として、反戦運動としては歴史的に見ても象徴的な出来事が起こってしまう事になります。 有名な、フラワーパワーだとかフラワーチルドレンといった言葉を生み出した、あの出来事です。

ペンタゴン包囲作戦は、ペンタゴンを取り囲むデモ隊に対し、ペンタゴンを護衛する軍人が銃を向けて威嚇し続けるという状態に陥るわけですが、一人のヒッピーが、計画通りバラ撒かれることなく現地に届けられた花束の花を拾い上げ、軍人が構える銃口に差し込みます。
このシーンは、ウォッチメンという映画の冒頭部分でも、象徴的に描かれていますよね。 この瞬間をとらえた写真は、新聞や印刷報道、文学や作曲に与えられる権威としての賞であるピューリッツァー賞に『フラワー・パワー』と名付けられてノミネートされるまでになります。
そして参加者はフラワーチルドレンと呼ばれ、花のイメージと平和が強く結び付けられることになります。

日本のロックでも、やたらと『花』という単語が登場したり、CDジャケットやPVに花を登場させたりもしますよね。 世界の果てに花束をとかね。
ロックといえば、反抗であったりアウトロー的な格好良さなんかを全面に押し出しているイメージがありますが、そのロックミュージックが何故、花というアイテムを使いたがるのかというのが、このエピソードを知ると、理解しやすいと思います。

この出来事が各メディアで取り上げられる事で、イッピー達の思惑通り、反体制運動は多くの人を吸収して加熱していくことになります。
これによって、ヒッピーを取り囲む環境は更に変化していくわけですが、その話はまた、次回にしようと思います。

銀行って必要なんだろうか

ここ最近、こんな事を思う事が多くなってきた。
『銀行って、本当に必要なんだろうか?』と

私は、得意先への振込や給料の引き出しなどで、月に2回ほど銀行に行く機会があるのですが、銀行に赴くたびに、そう思ってしまうんです。
例えば銀行での振込ですが、何故か、30分ほど待たされる。
支払先が大量だからとかそういった理由ではなく、2件で合計40万程度の支払いなのにも関わらず、待ち時間を含めずに30分ほど待たされるんです。

今の様にITが進んだ時代で、先客も無く順番待ちも無い状態で、何で、たった2件の振込に30分もかかるのか。
ミスがないように何度も見直したとしても、そこまでかかる意味がわからない上に、年に2回ほどは銀行側の手違いでミスが起こったりするので、本当に意味が分からない。

こういう事を書くと、『ネット経由で自分で手続きすればいいだろう!』とお叱りを受けるかもしれないんですが…
私の取引している銀行は、ネット経由で操作できるようにする為には月々600円。 年間で7200円程の手数料を別途、徴収してきたりするんです。
この仕組も意味が分からない。

銀行側からしてみれば、当座を持っている人間、全員にネット口座をもたせて、支払い・振込などの手続きを自分たちでやってもらえば、銀行の窓口業務も減らせるんだから、人件費的にも助かるはず。
こちらとしても、いつでも当座の動向を確認できるので、便利ということになります。
しかし、銀行側の戦略としては、窓口業務を絶対に死守したいのか、そういう業務が残るように動いているとしか思えない行動をとっています。

また、社会全体としてみても、銀行の存在価値がドンドンと失われていっているように思えます。
そもそも、銀行業務というものは、預金者からお金を預かって、資金を必要としている企業に又貸しすることで、利ざやを得るというのが本文のはずです。
その為に必要なのは、当然、企業の把握のはずなんですよね。

その為に、昔は、取引先への支払いや、従業員給与支払いの為の引き出しといった用事があると、銀行の営業マンが訪れて、その業務を引き受けるついでに世間話などをして、様々な業種の情報を仕入れていたりしていました。
しかしその習慣も、私の取引している地銀は『業務の効率化』を名目にして廃止。『用事があるなら、そっちが銀行まで足を運べ』と通達してきて、月に2回ほど銀行に通わなければならない様になりました。
こちらとしては、劇的に手間が増えたわけでもないので、それはそれで良いのですが、結果として銀行は、自分が取引している企業の実態を、決算書などの数字でしか判断できなくなったように思えます。

先程も、銀行の本来の仕事というのは金貸しだと書きましたが、適切に金を貸すために必要なのは、企業の実態の把握ですよね。
例えば、銀行の顧客のAという会社が、ある製品や加工をしてもらいたいと業者を探していた場合、銀行は、自分の顧客でその要望に答えられるB社を紹介する事で、企業同士を結びつけることが出来ます。
そして、B社の仕事量が増えて、追加で設備投資が必要になって資金が必要になった場合は、当然、B社は仕事を紹介してもらったメインバンクに資金調達をお願いする。

銀行側は、A社とB社の企業の実態も決算書も把握しているわけですから、その設備投資が成功するかどうかの見極めもやりやすい。
結果として、三社全てが得をするという状況が生まれるわけで、こうした繋がりが連鎖していけば、経済も発展しやすい状態になります。

しかし、実際の銀行が行っている行動は、外回りの営業の廃止。
何故、このような事が行われているのでしょうか。 私の知り合いが、私のメインバンクとは別の地銀で働いているので、機会を見つけて聴いてみると、驚きの理由がありました。

その理由とは、企業の銀行に対する信用力が高すぎるからだそうです。
銀行というのは、わずかでも金を貸している企業には決算書の提出を求めて、財務状況などを把握しています。それだけでなく、社会的な地位も高いようで、それに伴って信用が高い状態に有るようなんです。
そんな銀行が、仮に、企業同士を結びつけてトラブルが発生したとしたら、その苦情が銀行にまで来てしまう可能性が有る。
それは面倒くさ過ぎるので、企業同士の仲介はやらないんだそうです。

つまり、A社がネット等を使って、自分で取引先を探した場合は、何かトラブルが起こっても自己責任。仮に相手が不渡りを起こしたとしても、それは銀行の責任ではなく、A社の責任だから、銀行の誰かが責任を取るなんてことはない。
しかし、A社とB社の仲介を銀行がしてしまうと『あの業者を紹介したのは銀行だろ! あなた方にも責任があるのでは?』といわれかねないし、銀行内でも誰かが責任を取らされる。
それが嫌なので、そういったリスクを回避する為にも、紹介はしないし、紹介しないのであれば、企業の実態把握は無駄になるので、外回りの営業もリストラするという事。

すべての銀行が、この様な後ろ向きの営業をしているわけではないでしょうけれども、こう考えている銀行も結構多いようです。
ここで疑問が起こるのが、では、銀行は何で稼いでいるのかというところです。

先程も書いた通り、銀行は積極的な融資は行わずに、数字だけで判断するわけですが、数字が健全な企業は、そもそも現金を必要としていません。
今の大手企業の動きを見てみてもわかりますが、どこの企業も、積極的な投資は避けて、利益は内部留保という形で溜め込んでいます。
行く宛の無い優良企業の資金は、有利子負債などの利払い負担がかかる債務を圧縮する為に使わますから、貸出需要は激減し、銀行業務のメインである、利ざや抜きが行なえません。

一時期は、預金者の利息を限りなくゼロに近づけて、国の借金である国債を買い漁ることで、何とか利ざや抜きを行っていましたが…
それも、黒田日銀総裁に変わってからは、通用しません。 黒田氏は、市場に流れている国債を、日銀がお金を刷って買い取るという金融政策を積極的に行った為、市場からは買える国債量が激減し、国債を買って利ざやを稼ぐという行為が封じられてしまいました。

更にその上、マイナス金利政策まで導入されてしまうしまつ。
マイナス金利を簡単に説明すると、日銀の仕事は紙幣を刷るだけではなく、銀行の銀行という仕事もあります。
つまり、銀行から当座の預金を預かったり、といった感じの業務も行っているのですが、その預り金に対してマイナス金利が適応されるということ。
これは、日銀に対して銀行がお金を預けると、今までは銀行が利息がもらえていたのに、マイナス金利下では逆に利息を支払わなければならないということ。

預金者からお金を預かって、それに対して利息を払う。でも、そのお金の使いみちが無いので日銀に預けておくと、日銀にも利息を取られる…
銀行からすると手足を縛られているような、地獄のような環境なわけですが、そんな銀行が、なんとか打ち立てた収益の柱というのが『手数料』

保険であったり、投資信託であったり、ATM手数料であったり、振込手数料であったり…
お金に関するありとあらゆる所から、手数料を取ることを主軸にし始めたんです。

で、ここで思うわけですよ。
『銀行の役目って、もう終了したんじゃない?』って

今の中国や北欧を見てみてもわかりますが、今どき決済や現金引き落としに対して、人が手間暇かけた上に高い手数料を取るなんて、ナンセンスですよね。
これからの決済は間違いなく、キャッシュレスの方向に向かうでしょう。
キャッシュレスの方向に向かうということは、ATMもいらないし、支払いもスマホを通じてアプリ上で終わらせるなんてのが当たり前になるわけで…

こんな状態で『手数料を主軸にして!!』とかいわれても、こちらとしては、『あなた達がいるから、キャッシュレス化が始まらないんじゃないの?』と思ってしまう。
むしろ一刻も早く潰れてくれたほうが、手数料地獄から開放されて可処分所得が増える上に便利な世の中になるんじゃないかとすら思ってしまう。

また、キャッシュレス化の恩恵というのも見逃せない。
現金が必要ないという事は、単にお金を刷る手間と輸送の手間が省けるだけではない。小売店はお釣りの心配をして両替に行かなくても良いし、客としても、タクシーに乗る際に小銭を作るなんて事をしなくても良い。
決済に現金を使わないということは、各店に現金が無いということなので、当然、現金目当ての強盗もなくなる。

色んな人達の『しなくて良い仕事』が減る上に、犯罪まで減る可能性があるんだけれども、『銀行の収益の柱が手数料収入だから』キャッシュレス化が実現しない様にも思えてしまう…
ということで、タイトルに戻るわけですが、銀行って、必要なんでしょうかね。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第32回 【ヒッピー】ティモシー・リアリー(8) ~ビーイン後に新たに生まれた価値観

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回の放送では、サンフランシスコ・オラクルという雑誌が企画・開催し、1967年に行われたヒューマン・ビーインというイベント。
そして同じくオラクルが、サイケデリック文化に造詣の深い人物たちを集めて、ビーイン後に企画した、会議について話していきました。

簡単に説明をすると、ビーインという企画その物が、それぞれ考え方の違うヒッピーコミューンの考え方の統一を狙ったイベントでした。
このイベント後に改めて、ヒッピー文化に深い理解を示している知識人を集め、現状を把握しようとしたのが、その後の『ドロップアウトであるべきか 新左翼であるべきか』という会合でした。

ヒッピー文化の主張の大本は、中央集権から分散型社会へ、そして、平和主義、非暴力、フリーセックスといったものが基本的な考え方となり、発展していったのですが…
その後、この運動は様々な考え方をする団体を取り込んでいき、大きな社会現象へと発展していくことになります。
その中でも目立ち始めたのが、新左翼集団だった為、この様なタイトルが付けられた会合が、ビーインの主催者によって企画されたのでしょう。

ドロップアウトとは、今まで常識とされていた社会から抜け出すという様な意味合いがあります。
中央集権的であったり資本主義であったり、それを前提とした大量生産・大量消費社会や、経済拡大の為の侵略戦争など、これまで前提となっていた社会からの離脱ですね。
この離脱の手段として、今までにない価値観の提示であったり、今まで否定してきた文化の再評価、これは、帝国主義の名のもとに滅ぼされた民族の文化の見直しなどですね。
シャーマニズムであったりヨーガやアロマテラピー等の、他の文化の見直しなどと捉えて良いでしょう。
今まで前提とされていた価値観が間違っていて、それを改革する必要は有るけれども、それをテロなどの暴力ではなく、対抗する文化をぶつけることによって変えていこうという考え方で良いと思います。

その一方で新左翼は、より早い改革を望んだ一派と捉えて良いと思います。
そもそも左翼というのは右翼の逆で、その右翼というのは保守という意味合いが有るので、今までの流れを継続していく右翼に対して、時代の変化と共に考え方を変えていくべきというのが左翼と呼べれています。
こういった意味合いなので、今までのシステムに対して不満を持ち、その社会のシステムから自らドロップ・アウトしようと活動しているヒッピーその物も、考え方としては左翼です。

では、左翼と新左翼とは何が違うのかというと、その違いは、理想を実現する為のスピードと、その行動に有ります。
現在の世界の政治を見てもわかりますが、どの時代にも、左翼勢力というのは存在します。日本でも、基本的には自民党が政権を握り続けていますが、共産党といった今までの流れに反発するような政党は存在します。
アメリカでも同じで、システムを運営している側だから、全ての政治家が保守的なのかというと、そうでもなく、当時のアメリカにも左翼的な主張をしている政治家や団体は存在しました。

正攻法で改革を望むのであれば、この様な人達を皆で応援して、与党にしてしまうというのも、一つの方法です。
しかし新左翼の考え方は、これら従来の左翼は権力にしがみつき、戦わない左翼であるとして批判し、認めなかったんですね。
穿った見方をすれば、政治家として申し訳程度の比率で存在している共産党議員は、右翼政党からすると、絶対に政権は取れないけれどもガス抜きとしては利用価値があるという位置づけの人間で、捉え方によっては、権力側で役割を担っている人間とも見れます。

ガス抜きとして権力側に飼われているだけの存在なので、同士ではないという事なんでしょう。
そういう今までの左翼に対して新左翼というのは、自らは戦闘的左翼または革命的左翼であるして、スピードを重視した革命を目指す為、過激な直接行動をもじさないような考え方です。
簡単にいえば、実際に武器を持って立ち上がり、システムに対して革命を起こそうという集団です。 

この様な、理想を実現するためには暴力行為を辞さない人達と、暴力行為そのものを否定して、新たな文化や価値観を定着させることで、民衆の意識そのものを根本的に変えていく事を目指したリアリー達とは、意見が一致することも無かったんですね。
簡単にいえば、新左翼から見れば、ヒッピー達は、大層な理想だけを掲げるけれども、行動を起こさない口だけの腰抜けに見えますし、ヒッピーから見れば、暴力行為を辞さない新左翼達は、問題の本質が見えてないという事になるんでしょう。
物事を考える前提の時点で意見が別れている為、いくら議論を重ねても平行線をたどるだけで、分かり合えることはなかったんでしょう。

またビーインその物の存在を、疑問視する人達も出てきます。 その一派は、第28回でも紹介した、ディガーズです。

ディガーズの根本的な考え方というのは、そもそもが、ヒューマン・ビーインを企画したサンフランシスコ・オラクル誌と違います。
ラクルがビーインを開催した目的は、それぞれバラバラの思想を持ったヒッピーコミューンの意思を統一するためと言いましたが、それだけではなく、ヒッピームーブメントという活動が有るということを、
大規模なイベントを開くことで、世間に広める目的もあったんです。
数万人が集まる大規模なイベントを行えば、ニュースに飢えたマスコミは放って置いても取材に来ますし、新聞やTVを通して、ヒッピーという人達の存在をより多くの人達に知らしめることが可能です。

新聞やテレビなどの各種メディアを通して、ヒッピーという存在を知った人々が運動に流れ込み、流れ込んだ人々が更に身近な人達に思想を伝えていけば、その人数は指数関数的に増えていく可能性も有ります。
規模が大きくなればなるほど、各種メディアでの取扱も大きくなります。 世の中に対する影響力を大きくする事で、それを後ろ盾とした発言力も大きくなると思ったんでしょう。

それに対してディガーズの根本的な考え方というのは、マネーゲームからの脱却です。その為に、自らが行動して、食料の無料配布や物資の開放といった事を、率先して行ってきたわけですが…
そんなディガーズの考え方の対極に位置するのが、マスコミですよね。 マスコミは、商品・サービスを販売したい企業をスポンサーにする事で番組作りを行って、視聴率を稼ぐことで、広告枠をより高く販売する仕事です。
いってみれば、マスコミとは大量生産大量消費社会をより促進させる為の装置で、そんなマスコミの玩具にされてコンテンツを提供するという事は、マネーゲームに加担する事を意味するので、許せないことだったんでしょう。

また、グレイトフル・デッドのような象徴となるスターを担ぎ出して宣伝をするという行為にも、異論があったようです。
メディアの露出や、有名人の起用というのは、消費社会の象徴となっているテレビなどで使い古された手法ですが、単純にそのテレビ的な手法が気に入らないというだけではなく、問題はそれによって集まってくる人達の質ですね。
思想やそれに伴う活動というのは、本当に理解して集まってくれる人間というのは、どれだけ集まってきたとしても、邪魔にはなりません。むしろ、同じ考えの同志が増えるのは、喜ばしいことでしょう。

ただその一方で、テレビなどのメディアで知って集まってくる様な人たちというのは、どうなんでしょうか。
その様な人たちすべてがそうだと言うつもりはありませんが、そうして集まった人達の多くが、活動に参加することが格好いいからという、ファッションとしての動機で集まって来る為、元からいた人達にとっては邪魔でしかありません。
こうした、思想の根本的な部分を理解していない人を大量に集めたとしても、現場が混乱するだけですし、ファッションとして集まった人達は、ブームが去ると同時に去っていくので、意味が無いと考えたんでしょうね。

この様に、自分達で考えて行動する人達のそれぞれの主張は食い違うという状況で、ビーイン後にそれらが統一されることもありませんでした。
結果としてビーイン後は、それぞれのコミューンはそれぞれの道を進んでいくこととなるんですけれども、このあたりややこしいのが、その一方で、自分達の確固たる意志や主張を持たない人達は別で、
この人達は打ち解け合って融合し、新たな価値観を作っていくことになるんですよね。
その新たな価値観とはどういったものなのかというと、難しい言葉を使って格好良くいうと、これまで常識となって世界を引っ張って来たブルジョワ的価値観と、プロテスタント的労働倫理観からの開放ですね。

ブルジョワ的価値観とは何なのかというところから説明していくと、ブルジョワジーという言葉は生まれた時代が古く、その後、時代が移り変わる毎に意味合いも変わってきていますので、一概にはいえないんですが…
ここでいうブルジョワ的価値観とは、資産階級のことですね。 昔は、王様と一部の貴族が領地を支配するという封建制度によって収められていた国が多いのですが、市民革命によってその構造は変わり、身分制度による階級というのは無くなります。
ですが産業革命以降、土地を支配する貴族という領主に変わって、金によって土地や工場を所有し、そこで働く労働者を支配する、資本家という新たな階級が登場することになるのですが、ブルジョワ層とはこの産業資本家という資産階級の事を指します。
ブルジョワ的価値観とは、資本家がお金という資金を投下し、その投下された資金で労働者を雇う事によって、投資資金をより増殖させていくという価値観の事と考えて良いと思います。

プロテスタント的労働倫理とは、キリスト教の一部であるカルヴァン主義をベースにした考え方です。 ここでは詳しい説明はせずに、ざっくりとした説明だけをします。
まず、プロテスタントですが、宗教改革によってカトリックから分派した宗教で、分裂した後、多くの人達が新大陸であるアメリカに移り住んだので、アメリカの考えのベースとなっていると考えても良いかもしれません。
その肝心な考え方なのですが、従来の考え方と大きく違う部分は、お金の捉え方です。

そもそも、プロテスタントというのは、カトリック教会のお金に対する姿勢が気に入らないということで、革命が起こって生まれた宗派です。
それまでのキリスト教というのは、魂を救済してほしければ、教会に多額の寄付をしなさいという感じでお金を集めまくって、豪勢な教会を建てて、有名な画家の宗教画を飾るという感じで、浮世離れした空間を演出することで、信者を集めてきました。
その行動が行き過ぎて、最終的には、仮に罪を犯したとしても、教会が発行する免罪符という御札を買えば救われるというところまで落ちてしまうんですね。

その様な教会の行動に異論を唱えたのがルターという人物で、教会の無駄遣いを否定して、本来、有るべきキリスト教に戻そうとして生まれてのがプロテスタントです。
カトリック教会では貼り付けにされたキリスト像を掲げていますが、キリスト教は本来、偶像崇拝は禁止です。この教義を厳密に解釈すると、キリスト像を崇拝す事は教義に反することになりますので、像は置かないし崇拝もしません。
当然、豪華な内装や高価な宗教画なども置かないという感じで、本来の教えを忠実に行おうとして始まりましたので、お金のに対する考え方についても、一部で考え方を改めることになります。

キリスト教の従来の考え方としては、お金を貯め込む事はそれ自体が罪悪とされていたので、お金を多く得た人というのは恵まれない人に施す事で、その罪から逃れられるという考え方でした。
お金というのは、その性質上、一箇所に集まる傾向があり、多くのお金を持つ人には、更に多くのお金が集まってくるようになります。
キリスト教は、神の前では人は平等だと謳っているわけですが、貧富の差が決定的となると平等とはいえず、お金によって上下関係が生まれてしまうことになります。
それを防ぐ為にも、教義によって再分配を促そうという工夫をしていたのでしょう。

その一方でカルヴァン主義は、神は全能であるのだから、当然、未来のことも見通せると考えます。
神が未来のことも見通せるのであれば、神に愛されるべき善人は、死んだ後ではなく、自分達が生きている人生の中で祝福を与えてくれるはずだと考えます。
では、どのような祝福を与えてくれるのかというと、どんなものでも手に入れる事が出来るお金をたくさん与えてくれる。つまり荒っぽい言い方をすると、金持ちというのは善人で、神から祝福された存在であるという事ですね。

では、貧乏人は悪人で、神から見放されているのかというと、そうではなく、善行。つまり、一生懸命働いてお金を貯める事で、神に救済されることになる。
つまり信者の全てが、個人と社会全体に対して役に立つことを行うことで、その活動を行ったものには自然とお金が集まってくる。逆に、働かない怠惰なものは社会に貢献しないので、神からも見放されるという事です。
人は自分が望まないサービスは使わないし、お金も払いたくないと思うので、お金を得るという事は、それだけ多くの人から必要とされている行動を行ったという事になるので、社会に貢献している善人だという考え方なんでしょう。

新たに生まれた階層のブルジョワ層と呼ばれる資本家は、自己資金を投資することによって新規事業を立ち上げて、労働者を雇う。
雇われた労働者は、働いた時点で日当や時給がもらえる為、安定した収入を得ることが出来る一方で、資本家は事業が失敗するリスクを取るので、成功した際は、相当な利益も得ることが出来る。
その新規事業が、本当に社会が欲しているサービスを提供しているのであれば、皆がお金を出してサービスを利用してくれるので、事業は成功しますし、投資家はお金を得ることで神から救済される。

ブルジョワ的価値観とプロテスタント的労働倫理、この2つを踏まえた上で生まれる社会がどういうものかというのをイメージすると、それは現状の資本主義社会ということになりますよね。

この2つでワンセットになっている価値観に乗っかる形で、アメリカというのは成長してきたわけですが、よくよく考えてみると、この前提にはおかしなところが有りますよね。
例えば、現状の日本を想像してもらうと分かりやすいと思いますが、親会社・元請け、言い方はなんでも良いのですが、上流に有る会社が、下請け、孫請け等に事業を丸投げして、利益だけピンはねするという状況が、現在の労働環境の問題としてあります。
では、ピンはねしている中間業者は、神によって祝福されているからお金が得られるのでしょうか?搾取している側が善人で、搾取されている人間は自業自得の悪人なんでしょうか。

この価値観を受け入れられない、資本主義によって追い詰められた人達、つまり貧民層は、再分配を行わない巨大資本や富裕層が悪いんじゃないかということで、団結し始めるんですね。
簡単に言ってしまうと、社会的地位もなく、金銭的な余裕もない。でも、自分自身の主張を持っているわけでも目指している方向が有るわけでもない。
ただ、漠然と世の中に対して不満は持っているけれども、何をどうして良いのかわからない若者たちというのが、ビーインなどを通して、新左翼という存在を知り、彼らが掲げる共産主義的な思想に傾倒していったということなんでしょうね。

という事で、ビーイン関連の話をまとめると、オラクル誌はライブ活動などのイベントを通してヒッピーコミューン達の意思の疎通をはかりたかったんですが、確固たる意思を持つ人達が分かり合う事は無かったんですね。
ただ、その楽しそうなイベントと、そのイベントが掲げる新たな価値観や新時代の到来といったものに引き寄せられた、資本主義に疑問を持っていた若者たちの一部は、新左翼達と知り合うことで、価値観を融合させていくことになります。
注意としては、価値観が融合しただけで、多くの若者達が新左翼の一員となって過激な行動に走ったというわけではないということなんですけどね。

これまでの前提となっている社会からのドロップアウト、このドロップアウトも、リアリーが主張しているような高いレベルのものではなく、特に思想も持たず、社会に対して反発してみて、時にはデモに参加してみるといった人達といえば良いんでしょうかね。
悪い言い方をすれば、反社会的な思想がブームになるといいますか・・・ 真面目に働くよりも、そんな社会からドロップ・アウトして、ドラッグをやりながらフラフラして過ごす。
そんな生活を肯定するために、ヒッピーや新左翼達の主張で理論武装をして、言い訳にする。 そんな人達が各地で行われたイベントによって急増しだしたと捉えても良いのかもしれません。

この様な感じでヒッピームーブメントは、その上流にいる人達の意思疎通は行われなかったのですが、下流に位置する人達は似たような思想を共有して、団結し始めるという状態になっていったようです。
そして、この流れが、このムーブメントの終わりの始まりとなるわけですが、その話はまた、次の機会に話したいと思います。

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿 】第31回【ヒッピー】ティモシー・リアリー(7) ~ドロップアウトであるべきか 新左翼であるべきか

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。
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前回の簡単な振り返りから始めていきたいと思いますが、前回は、1967年を中心とした話をしていきました。
ハーバードで教員をしていたリアリーが、大学を追われてニューヨークへ行き、そこでも活動がしづらくなってカルフォルニアに移ってきたのがこの年です。
そしてこの年に、リアリーの研究に大いに興味をもっていた、ヒッピー達が集う地区のヘイト・アシュベリー地区で出されていた、サイケデリック文化を紹介する雑誌、サンフランシスコ・オラクル誌の企画で、ヒューマン・ビーインが行われます。

このヒューマン・ビーインは、メインテーマに人間性の回復を掲げ、その手段としての、幻覚剤による意識拡張や平和、フリーセックスを肯定するヒッピー達の集会です。
大規模な音楽フェスで、LSD無しでもトリップできる空間を作るのを目的として開催されたようですね。
メインテーマである人間性の回復とは、当時の中央集権的な管理社会に対する反発です。 生きる為にシステムを利用するのではなく、システムを効率よく回す為に人が機械のように利用されて消耗されていく。
全ての価値観がお金に置き換わり、社会に住む人達が人間らしさを忘れてしまっている状況の事で、それを前提とした社会からドロップ・アウトした人達による反抗ともいえるのかもしれません。

この音楽フェスは大成功を収め、この活動を指示する人達によって、同じ様なイベントが各地で開催される事となり、最終的に、ウッドストック音楽祭にまで発展します。
それと共に、この文化は国中に、そして国を超えて世界にまで広がっていき、若者を中心にこの文化は浸透していくことになります。この文化に影響を受けた人達を、『フラワー・チルドレン』や『フラワーチャイルド』と呼びます。
愛の象徴として花を身につけるこの人達は、戦争反対を訴え、最終的にはペンタゴンを取り囲んで抗議行動を行うわけですが、その鎮圧に駆けつけた兵士に銃を突きつけられた際、暴力ではなく、銃口に花を指す事で抗議した出来事でも有名ですよね。

この様に、ヒューマン・ビーインは社会に対して大きな影響を与え、その後、その動きは全国各地に広がっていくわけですが、今回は、ヒューマン・ビーイン直後から流れを追っていくことにします。
このヒューマン・ビーインですが、サイケデリックカルチャーの影響を受けて雨後の筍のように生まれた、考え方が微妙に、中には大きく違ったヒッピーコミューン達の意思統一を行うために開催されました。

当時のヒッピーコミューンというのは、平和主義者・非暴力主義者はもちろん、アーティストであったり、中央集権に反対する人達であったり、黒人たちに対する差別や偏見を止め、黒人に人権を求める公民権運動。
その他にも、ヘルズ・エンジェルスの様なバイカーや、ディガーズのように理想的な共産主義を目指すものや新左翼
といった感じで、サイケデリックカルチャーに影響を受けたという共通点は有るものの、スタンスは大きく違っていたんですね。

この統一を図ろうと企画されたイベントが、先程も言いましたが、ヒューマン・ビーインだったようです。
このビーイン後に、イベントを企画したサンフランシスコ・オラクル誌の呼びかけによって、討論会が開催されます。会議の題材は、『ドロップアウトであるべきか、新左翼であるべきか』と言うもの。、

この呼びかけに応えて集まったのが、一人は哲学者のアラン・ワッツさんです。この方は、前にも名前を出した事があると思いますが、アメリカに東洋思想を広めたことでも有名な方だそうです。
その他には、ゲーリー・スナイダー、この方は、アレン・ギンズバーグなどとも交流のある詩人であるとともに、自然保護活動家としても活動されている方で、
1956年~68年の期間の大半は日本の京都で過ごした方だそうです。 日本に滞在時には、宮沢賢治の作品である『春と修羅』の翻訳などもしていたようです。そして最後に、ティモシー・リアリーです。

この会議で、リアリーの意見は他の参加者の意見と全く噛み合わずに、終了してしまったようです。
というのも、ここでリアリーが主張した意見というのは、『重要なのはドロップ・アウトすることで、それさえ行えば、革命はなされる』というものだったんですね。
これは、私の解釈でしかないのですが、リアリーが言いたかったことというのは、ベトナム戦争に対する反戦運動や、システムに対する反発や、共産主義のような新たなシステムの創設といったものは、目指すものではないという事なんでしょう。

リアリーのこれまでの行動や主張を思い出して欲しいのですが、リアリーが一貫して主張していることは、悟りの境地を体験するという事のみなんですね。
幻覚剤による意識拡張によって、宇宙と個人とが完全に混ざり合う体験を得ることが重要なことで、主義や主張といったものは、今起こっている様々な問題の根本的なものではないという事なんでしょう。
このコンテンツの第15回~19回で、ブッダの思想を紹介していますが、ブッダも似たような事を言っていましたよね。

重要なのは、この世や自分という存在が、そもそも無いということを体験として知る事が重要で、それを体験してしまえば、他の事は然程重要ではないんですよ。
というのも、中央集権であったり、搾取であったり、国同士の殺し合いであったり、それらを実行しているシステムというのは、そこに携わる人が有ると思い込んでいるから有るものであって、本来は無いものだからです。
本来は無い存在であるものを有るように扱っていて、有るように扱っているものの不具合を見つけ出して修正するというのは、意味がわからないですよね。

例えば、これを聞いている皆さんの前に、何かを成し遂げる為の機械があると仮定します。実際には何もなくて、ただの空間だけが存在しているのですが、とにかく有ると妄想します。
その機械の不具合を更に妄想して、その不具合を改善する為に、更に改善方法を妄想するというのは、意味のない行動ですよね。
リアリーが主張していることはそういう事で、そもそもシステムなんて存在しないのに、皆がそのシステムをあると思い込んで盲信していて、そのシステムの改善策を考えるという行動その物が、滑稽だということなんでしょう。

アニメ作品で、ガンダムユニコーンという作品が有ります。その中で、似たようなことが主張されているので、それを例に説明してみます。
結構前の作品なので、いまさらネタバレもないとは思うのですが、まだ観ていなくて情報を入れたくない人は、ここで一旦止めて、観てから聞くようにお願いします。良いでしょうか。

ガンダム作品の世界観を簡単に説明しておくと、まず最初に、地球上の人口が爆発的に増えていって200億人を突破し、地球のキャパを完全に超えてしまった為に、地球自体の限界が来てしまったという状態になります。
そこで人類は、人間を宇宙に送ることで地球の人口を減らそうとするわけですが、大部分の人間は、地球という住み慣れた土地から離れたくないという思いが強く、思ったように地球人口は減らせませんでした。
そのままでは困るので、地球連邦の上層部の人間は不公平がないように、地球に住む人類全員が宇宙に旅立って、地球を休息させようと提案します。

その意見を聞き入れた多くの人は宇宙に旅立っていったのですが、地球の人口が40億人程度まで低下したところで、地球連邦は宇宙脱出計画を中止することになります。
こうなると、最初に地球連邦の主張を聞き入れた人達は詐欺にあったようなもので、地球側に言いくるめられて捨てられたようなものなんですが、それだけでは終わりません。
スペースコロニーに移り住んだ人達は、地区の代議士は自分達の投票によって決められますが、代表権を持った人は地球連邦から指名されたものが天下りのようにやってくる為、自分達の住む地域でありながら、地球側にコントロールされる状況になります。
中央集権のシステムですね。 これに反発を起こしたスペースコロニーの一つが、独立戦争を仕掛けたというのが、初代ガンダムの話です。

ガンダムユニコーンは、この戦争から数年たった後の話という設定の物語です。
この物語の中で、仮面を付けたフル・フロンタルという人物が登場します。 この人物は、地球連邦のやり方に反対する思想を持つ人物なのですが、この人物の思想というのが、リアリーの思想に近いんです。
このフル・フロンタルの主張というのが、武力によるシステムの変更と言ったものではなく、地球連邦を無視するという方法なんです。

地球連邦は、全てのスペースコロニーの代表を指名する権利を持っていますし、経済の中心に存在します。
しかし、実際の構造を観てみると、経済規模は全スペースコロニーと地球とで比べた場合、スペースコロニーの経済規模のほうが遥かに大きい。
技術力も製品の生産能力も地球を圧倒する存在なので、地球を無視した形での経済圏を構築してしまえば、つまり、地球という存在を無いものとして扱えば、わざわざ地球からの独立を力で奪い取る必要はないということです。

これを、現在の社会に照らし合わせて考えてみましょう。
現代社会は、確かに、政治家や資本家によってシステムが都合良く作られ、彼らの良いように運用されています。

しかし、実際の経済規模から見てみればどうでしょうか。 一人の資本家が使う消費額と、40億人の労働者。どちらの消費が大きいでしょうか。
ものを作る企業があって10%の管理職がいたとして、その10%の管理職がこなしている仕事量と、現場で働いている90%の労働者がこなしている仕事量、どちらが多いのでしょうか。
現代社会は中央集権的といいますが、政治家や資本家だけで、この世のシステムを回すことは出来るんでしょうか?

こう考えた時に、現在の中央集権的なシステムが駄目だから、それを改変してより良いものにすべきだとするのでは、根本的な解決にはなりません。
ではどうするのが良いのかというと、権力が集まってくるという中央その物を、無視してしまえばよいわけです。 つまり、システムなんて無い事に気が付き、その様に皆が振る舞うだけで、システムというのは簡単に崩壊します。

例えば、資本主義は、皆が考え方を変えるだけで、簡単に崩壊してしまいます。
資本主義が成り立つのは、皆がお金に価値があると思い込んでいるからです。 どんな嫌な奴の命令であったとしても、札束で頬を叩かれるを言うことを聴いてしまう。
そういう一人ひとりの行動が、資本主義という本来は存在しないシステムが、まるで存在するかのように錯覚させます。

しかし、嫌な奴が札束を積んで命令してきた時に、『お前の言うことは聞きたくない』と皆がいえば、その嫌われている資本家の財力という力は、跡形もなく消えてしまいます。
リアリーの言っていることというのは、そういうことなんですね。
中央集権であったり、国が起こした戦争であったり、資本主義システムであったり、そういったものが実在しているかのように振る舞っているのは、皆がそのシステムが有ると思いこんでいるからなんです。
この思い込みを取り払って、そんなものは存在しないと皆が思うだけで、これらのシステムは簡単に崩壊します。

例えば、北朝鮮将軍様アメリカのトランプが喧嘩をして、両国の間で宣戦布告がされ、開戦したとしましょう。
しかし、ここで実際に武器を手にとって、実際に現地に赴いて殺し合いをするのは、将軍様でもトランプでもなく、両国の市民達です。
この両国の軍人たちが、『2人の喧嘩のために、何故、自分達が命をかけて戦わないといけないのか?』と疑問を持ち、一斉に軍隊を辞めたとしたら、そもそも戦争が起こりません。

両国のトップは、振り上げた拳を下げられない状態になり、結果、二人で殴り合いの喧嘩をする事になるかもしれませんが、その喧嘩によって、数百万、数千万の人間が死ぬということはなくなります。
そして、その喧嘩によって何らかの決定が行われたとしても、その決定を皆が無視すれば、喧嘩の勝敗がどうなたとしても、その勝負に意味はなくなります。権力というのは、それを支える下の人達が存在して始めて成り立つもので、
下に付き従う人達が、権力というものが有ると思いこんでいるから存在し続けられるわけです。
下で働く人間が、権力の存在を無視してしまえば、その瞬間から、上に立つ人間の立場というものは無くなります。
リーダーというのは、下で働く人間からリーダーだと信任されてはじめてリーダーとして存在できるのであって、リーダーという肩書があったとしても、誰も言うことを聞かないのであれば、その人間に権力はありません。

つまりは、リアリーの言う通り、『ドロップ・アウトしさえすれば、全ては成される』ということです。
確かにリアリーの主張するとおり、現実世界に有るシステムやルールなんて、それが有ると信じている人間が存在するから存在できているわけで、言ってしまえば神のような形而上の物でしかありません。
ただ、何故、こんな形を持たないものが、まるで実態があるかのように存在しているのかというと、リアリーの主張するような世界にするよりも、ルールを作った方が早かったからなんでしょう。

例えばお金ですが、それぞれの人間の間で信用関係を構築するよりも、何故かわからないけれども信用が付加されている紙切れである紙幣を使った方が、効率は上がります。
全ての人間同士で、どの行動をやってよいのか、または駄目なのかといった事を信頼関係の元で共有するよりも、法律で決めた方が理解しやすいです。
それぞれの人間がそれぞれの考えを元に、自分勝手に動くだけでは成し得ない事も、組織を作って大人数で取り組めば実現可能だったりします。

ではリアリーは、こんな事も分からないような人物だったのでしょうか。
おそらくリアリーは、このような事をわかった上で、それでも主張していたんだと思います。では何故、この様な主張をしたのかというと、幻覚剤のトリップにその可能性を見出したからでしょう。
キリスト教的な視点でいえば神との邂逅、東洋思想的にいえば、宇宙と個人との一体感や悟りといった神秘体験を、人類皆が経験すれば、その共通の神秘体験を元に、分かり合えると思ったのかもしれません。

というのもリアリーは、これまでの自身の研究によって、その様な現場を目撃してきたからです。
例えば、再犯率が高い刑務所の囚人に対して幻覚剤を投与して、神秘体験をさせる事で行動を変化させて、その結果、再犯率の低下を実現させるとかですね。
その他にも、元バイカーで犯罪を繰り返していたグループが、神秘体験を通して考え方を改める事で『永遠の愛兄弟団』へと変化し、その団体にリアリーは助けてもらっています。

リアリーが主張するドロップアウトとは、東洋思想の考え方で言うところの仏陀になるという事で、有ると思いこんでいる現実の世界や、その中に存在するシステムが幻であるという事に気が付き、本当の意味で目覚めるということを指しているんでしょう。
自分を他人のように感じ、自分自身を本当の意味で客観視する。そして、それを観察している自分自身も、宇宙というこの世の全てと混ざり合う体験をする。
それを皆が体験する事によって、共通の価値観を共有する事で、今あるシステムの代わりになると考えたんでしょう。

先程例に出した、ガンダムの設定でもそうですよね。 宇宙に捨てられてスペースノイドと呼ばれた人達は、地球という限定された空間から解き放たれたことによって、今までにない期間が発達するというのが、反乱軍の思想でした。
ニュータイプと名付けられたその能力は、地球という重力に体を縛られ、人々が近いところで群れて暮らしているという環境から脱した状態で始めて発達する能力で、この能力によって、人々は誤解なく理解し合うことが出来るとされています。

そもそも、この世に法律や、それを破った際の罰則、組織やルールといったシステムが必要なのは、人々がそれぞれ考えていることが理解できないから必要なものです。
お金というものがあれば、人間関係において互いに信頼関係がなかったとしても、お金という信用を物質化したツールによって関係を補う事が出来ます。
同じルールに従っているという前提があれば、そのルール内においては価値観を共有することが出来ます。

でもそういったシステムは、人々が誤解なく理解し合うことができれば、必要のないものとなります。
人々が同じ価値観を共有して、誤解なく理解し合う。これによって、人類全体が現実からドロップアウトする事ができれば、それだけで改革はなされるということだったんでしょう。

ただこの主張は、そう簡単に受け入れられるものではありません。 というのも、誤解なく分かり合う為には、他人の主観を誰の目からも観察することが必要になってくるわけですが、仮に幻覚剤のトリップによって共通の価値観を共有できたとしても、
他人の主観を観察することも誤解なく理解することも不可能です。
結果として、リアリーの主張はこの場では完全に理解されることはないのですが、その事実が、リアリーの主張の難しさを物語っていますよね。
何故なら、この会議に集まったのは、このムーブメントに対して異議を唱えている人達ではなく、同じビーインというイベントに参加し、その活動を肯定的に捉えていた人達だったからです。
にも関わらず、リアリーの主張は誤解なく理解される事が無かったわけですから。

この物別れが象徴するように、ヒッピームーブメントに参加した人たちの意見は、ビーインをキッカケにして一丸となるという事は無かったのですが、関係は、更にややこしい状態になっていく事になるのですが、それはまた別の機会にしようと思います。