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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第118回【饗宴】これからの『エロス』の話をしよう 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

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前回の放送で、ソクラテスは死刑判決を受けて亡くなってしまったわけですが、プラトンが書いた対話篇はまだ続き、その対話編の主人公もソクラテスとなっています。
そのため、このコンテンツでは、これから先もしばらくはソクラテスが活躍することになりますので、ご了承ください。

これからの『エロス』の話をしよう

今回から取り扱うことになる本は『饗宴』という作品で、エロスがテーマです。エロスというと、日本語では『エロい』といった性的な意味で使われることが多い言葉です。
ここで使われている言葉も、そういった意味合いを含んで入るのですが、完全に同じ意味かというと少し違い、『エロい』という意味も包含した、もっと広い概念として取り扱われています。
このコンテンツのこれまでの放送をお聞きになっている方にとっては、アレテーの中の『美』美しさについて説明しているといった方が伝わりやすいでしょうか。

『美しさ』はアレテーを構成するものの1つと考えられていますが、その『美しさ』のみに焦点を当てたのが、今回からのエピソードとなります。
今まで、このコンテンツを聞かれたことがない方は、『美しさなんて、誰でも既に知っているし、今更考える必要なんて無いだろう。』と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、そう思っておられる方は大抵、美しさについて理解していません。
というのも、美しさを始めとしたアレテーの正体というものは、数千年の時間をかけて天才たちが考え続けたのに、答えが出ていないからです。

『アレテー』というのは、最高善のことです。この最高善は人間の究極的な目的になるもので、人間はアレテーを手に入れる目的で生まれてきたとされています。
アレテーを手に入れることで人は幸福になることが出来るため、皆がその正体を追い求めているわけですが、数千年に渡って研究されているにも関わらず、未だに答えが出ていないものです。
美しさというのは、そのアレテーを構成しているものの1つとされているため、当然、多くの人が研究対象にしています。

なぜかといえば、経済でもなんでも同じなんですが、マクロ的なものを解明しようと思った場合に、その構成要素であるミクロを研究するというのはメジャーな方法だからです。
ミクロの積み重ねがマクロになるため、アレテーの正体がわからないのであれば、その構成要素を研究しようというのは王道なんです。
しかしアレテーは難解なもので、その構成要素の『美しさ』ですら、数千年の研究を経ても未だに解明出来ていません。にもかかわらず、今回始めて『美しさ』について考えた人が、答えにたどり着いているはずがないということです。

美しさという概念

では何故、美しさというのがそれほどまでに難解なのかというと、美しさは様々な要素を含んでいるからです。
美しさについて深く考えたことがない人が、『美しさとは何か』と尋ねられたとすれば、多くの人が、見た目の美しさについて語りだすことでしょう。
自分が好きな芸能人や、好きなアーティストの作品、あるいは、花や草木などの自然などを持ち出し、これが美しいものだと言って例を上げて説明するはずです。

しかしそれは、説明にはなっていません。過去に取り上げた対話篇『メノン』では、色や形の説明をする際に、説明するものの要素が入っているものを例として挙げても説明にはならないと指摘されていました。
例えば、色の説明をする際に、ポストを指差して『これは赤色』といったり、青空を指差して『これが青色』といったところで、説明にはならないということです。
なぜなら、色の説明をする際に『赤い色』といったところで、質問者は色がわからないため、当然、赤い色も理解できません。目が見えない人に色の説明をすることを考えてもらえばわかりますが、その説明では伝わりません。

美しさについても同じで、『美しさ』というものが分からないという人に対して、美しさが内包されているであろう物体を見せたところで、説明にはなりませんし、それが本当に美しいものかどうかの証明すら出来ません。
ここで求められているのは、形容詞としての美しさではなく、美しさそのものについての説明だということです。
かなり分かりにくいと思うので、もう少し説明すると、私達が言葉として使う『美しさ』は、何かを形容する際に使われる言葉なので、『美しさ』という言葉は、対象物に依存した使われ方となります。

例えば、目の前に花があるとして、その花をアナタの主観で美しいと感じる場合。その美しさを他人に説明する際には、これは『美しい花』だと説明するでしょう。
では、その説明は美しさの説明になっているのかといえば、なっていません。 『美しい』という言葉は花を修飾するために使われているだけで、美しさそのものの説明にはならないということです。
『この花はどの様に美しいのか、何故、美しいのか』を語り尽くしたとしても、それは花の説明をしているだけで、何物にも依存しない『美しさ』そのものの説明になることはありません。

では、独立した『美しさ』とは何なのか。それを考えていくのが、対話篇のテーマとなります。

饗宴で語られる愛情について

この『饗宴』は、対話篇ということになってはいますが、今までのように対話を行いながら物事の本質を掘り下げていくという感じの構成にはなっていません。
当時のギリシャで主流となっているいくつかの説を、複数人の登場人物の持論として紹介し、それに対して最後にソクラテスがそれぞれの主張に対する反論と、自身の主張を行う形で構成されています。

ここで一つ注意が必要なのですが、エロスとは基本的に性的なものも含む愛情や、それに伴う美しさのことを指すのですが、ここで取り上げられているのは、成人男性が未成年の男の子に抱く愛情をエロスとし、それが何故尊いのかについて語られています。
では何故、同性愛が尊いのか。 これは、誤解を恐れずに言えば、こちらの方が愛情を考える上では純粋だからです。

もう少し説明を加えると、男女間で抱く愛情と同性愛との決定的な違いは、子供が作れるか作れないかです。
日本に限らず多くの国では、自分の血筋を残すとか家系を残すというのが重要視されますし、それが文化に組み込まれていることも珍しくありません。
この様な文化の中で男女間の恋愛を見ると、単純に相手が好きか嫌いかだけでなく、子供を残したいという本能的な部分や文化的な価値観で感情が揺さぶられてしまいます。

もちろん、子供を作りたいといった本能的な感情もエロスの一部とは考えられますし、実際にエロスには、そういった感情も要素として含まれています。
しかし、『子供を作りたい』という思いとパートナーに対して愛情を注ぐ行為とを比べると、全く同じかと言われると、そうではないという気がしないでしょうか。
今回のように『エロス』についてだけ考えるとする場合には、そういった別の要素はノイズになりかねないため、敢えて外して同性愛に限定して『尊い』と主張しているのだろうと思われます。

これは、私の推測もかなり入っているため、専門家の意見を聞くと違った主張が出てくるかもしれませんし、私自身も、今後学習を続けていく中で意見が変わるかもしれませんが、こういう考え方もあるというのを抑えておいてください。


参考文献