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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第127回【饗宴】エロスの行き着く先 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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両極端な考え方

今回も、対話篇の『饗宴』の読み解きを行っていきます。
前回は、これまでにソクラテスが行ってきた両極端に答えを求めるという姿勢に対して、ディオティマが中間に存在するものも有ると説明をした回でした。
両極端な答えを求めるというのは、簡単に言えば『はい』か『いいえ』で答えを求める。『はい』の場合はAだ、『いいえ』の場合はBだと決めつける様な論法です。

例えば、アナタは全知全能ですか?と質問し、『いいえ』と応えると、『では、アナタは愚か者ですね。』といった感じで、賢者と愚か者しかこの世にいないと決めつける話し方です。
ソクラテスは、『既に持っているものを欲しいと思うものはいない。』という前提をまず置いて、エロスが美しいものを欲するのであればエロスは美しさを宿していないので、醜いものになってしまうと主張しました。
しかし、対話相手であるディオティマは、世の中はそんな両極端には出来ておらず、美しくも醜くもない中間的な存在が有ると主張します。

自分に足りないものを知っている人間

そして今回のテーマとなっているエロスという概念は、美や慈愛に関する知性と充足という概念に欠乏という概念を合わせたものなので、美や慈愛を獲得するための知性を持ちつつも、それが欠乏していくために、美や慈愛に対する欲望が消えないと主張します。
この世に全知全能の存在が有る場合、その者は新たに知識を手にれるための行動は行いませんが、逆に無知なものも、自分自身に知識が足りていないことが理解できていないため、何の勉強をしてよいのかが分からず、行動を起こしません。
しかし中間に位置する者は、全知全能では無いために知識が欠けていますが、無能ではないため、自分に足りない知識を自覚して、それを手に入れるためにやらなければならない事を理解し、行動して手に入れます

これは、身近なケースに当てはめて考えてみると分かりやすいと思います。 学校や会社で能力が低く、いつも注意されている人がいるとして、その人は、勉強や仕事の重要性や今やらなければならないことを理解しているのでしょうか。
こういう人に限って、上司や優秀な人のあら捜しをして悪口や陰口を叩いたりすることがありますが、彼らは賢く能力も有るから、自分よりも上の立場の人間を叩くのかといえば、必ずしもそうではありません。
自分が今どの地点にいるのかが理解できていないので、自分に非はないと思い込んで、その様な態度を取るんです。 自分自身に何が欠けているのが理解できていないため、その部分を補うために何をしてよいのかもわからず、無責任に他人を責めます。

では、どの様な人間が自ら知識を求めて行動するのかというと、自分に足りないものを知っていて、それをどの様にすれば補うことが出来るのかを知っている人間です。
自分で課題を設定してそれに取り組み、欠けているものを補ったり弱点を克服する事で一歩前に進む。 次はその進んだ地点を基準にして、次の課題を設定する。
両者を比べると、前者は無知であるために自分が良い方向へ進むのに何が必要なのかが分からず、故に何かを追い求めることはしませんが、後者は何をしなければならないかを知っているために、常に改善を行い続けます。

中間に存在する人

この両者を第三者の視点で見比べた場合、ソクラテスが最初に指摘したように『後者の人間は無能であるが故に努力している、本当に有能であれば、努力の必要なんて無い。』なんてことが言えるでしょうか。
ではこの後者の者は全知全能かと言えば、そんな事もいえないでしょう。全知全能であれば全ての知識を有しているため、知らない知識を求めて努力する必要はないからです。
なら、この人はどこにカテゴライズすれば良いのかというと、無能でも全知全能でもなく、中間に存在する人になります。

中間に存在している人は、無能な人と比べれば有能ですが、全知全能かといわれるとそうではないため、理想を目指して努力することになります。
自分に足りないものを見つけ出して課題とし、計画を立てて実行し、順調に達成できているかどうかをチェックし、進捗度合いや目標までの距離を確認して改善策を考える。
そして改善策が見つかれば、それを新たな計画に取り込んで実行する。

この様なサイクルを、plan,do,check,action の頭文字をとってPDCAサイクルなんて言ったりしますが、こうしたサイクルを回せる人は、世間一般では有能な人とされますが、カテゴリー的には中間の人となります。
この例え話では、勉強や仕事について話しましたが、これを『美しさ』に変換すれば、エロスの性質を理解しやすいでしょう。
エロスは美を追求する『愛するもの』であり、既に美を宿していて『愛されるもの』ではありません。

エロスの行き着く先

以上の説明を受けてソクラテスは、エロスの存在がどのようなものかを理解し納得したのですが、ではその存在が、人間にどのようなことをしてくれるのかがわかりません。
アガトンが主張したように、エロスがアレテーと同じ様な存在であれば、それを宿せば卓越した人間になることが出来るでしょう。
しかし、ディオティマが定義する様な中間のものであるエロスを宿したとして、人にはどの様な影響が出るのでしょうか。

この疑問に対してディオティマは、エロスが求めている『美しいもの』という概念を、『善い』という概念に変えて考えてみると、分かりやすいかもしれないと提案します。
繰り返しになりますが、ディオティマが主張するエロスの定義は、自分に足りない美しさを欲し、それを手に入れるために必要な知性を宿し、行動を起こして手に入れるというものです。
ではこれを、善いに変えるとどうなるかというと、『善いものを欲し、それを手に入れるために必要な知性を宿し、行動を起こして手に入れる。』というものに変わります。

では、この概念は何故、『善い』ものを欲し、良い存在になろうとするのか。
過去に取り扱った対話篇でもこの話題は繰り返し登場し、その度にソクラテスは、この様に答えていました。『幸福になるために。』

参考文献