だぶるばいせっぷす 新館

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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第127回【饗宴】エロスの行き着く先 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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人は愛されるためだけに行動する

ディオティマは、この『幸福になるために』という答えは、そのままエロスの役割にも当てはまり、美しさを求めるエロスは、幸福になりたいがために美しさを求めると言います。

エロスは幸福になるために愛情を求め、それを手に入れようとします。
これは、愛情そのものを手に入れることが最終目的なのではなく、それを手に入れることで自身が幸福になることが目標となり、それを維持し続けることを目指します。
そしてまたこの様な感情は、全ての人間が宿している感情ともいえます。

人が起こす全ての行動は『幸福になる』という最終目的を達成するための手段でしか無く、人が行動を起こす原因を辿れば、慈愛を求める欲求に行き着く。
つまり簡単に言い替えると、人は愛情を求める欲求によって全ての行動を起こすことになります。
愛情を求め、それによって行動を起こすという振る舞いは正しくエロスのものである為、人はエロスが宿ることではじめて、何かしらの行動を起こすことになります。

人は幸福になるために愛情をを手に入れようとし、そのために、お金を貯めたり体を鍛えたり勉強をしたり、社会的地位を高めようとしたりします。
愛情を手に入れる方法は1つではなく、人の価値観の数だけ存在するため、それぞれの人の考えによって様々な方法で試されますが、それらの行動の根本原因となっているのは、『幸福になりたい』という感情ということになります。
幸福になるためには愛されなければならない。愛されるためには、何かしらのことで他人よりも秀でていなければならない。 だから人は行動を起こすというわけです。

『愛する』という行動

この様に、エロスがもたらす愛情への欲求は人が起こす行動全てに関連しているのですが…
では人は、『愛情を手に入れたいから勉強をしよう』とか、『愛情のために体を鍛える!』といった感じで、いちいち『愛情を手に入れるために頑張る。』なんてことは言いません。別の言葉で表現しようとします。
何故かといえば、人が起こす様々な行動は細分化され、そのそれぞれに別々の名前がつけられているために、その名前ごとに違った言い回しで表現されるからです。

例えばクリエイターはものを作る人全般を指す言葉ですが、自分の職業を説明する際に単にクリエイターと名乗る人はいません。
何故ならクリエイターの範囲は広すぎて、それだけを言ったとしても他人には伝わらないからです。
その為クリエイターの方々は、彫刻家であったり映像クリエイターであったり画家であったり小説家と言った感じで、それぞれに割り当てられた言葉を使って他人に説明をします。

これらを頑張る全ての理由を探っていけば、最終的には『愛しているから』という原因に行き着くわけですから、彫刻であれ絵画であれ、行っているのは『愛する行動』と表現すれば良いわけですが、そんなことはしません。
『愛しているから』という動機を口に出して行動をするのは、恋愛に関する行動だけだけになります。
結果として愛情のための行動に、『恋人のため』であるとか『恋人を作るため』といった別の意味が付加されることになってしまい、愛するための行動が特別視されるようになっているけれども、大本を辿ると同じだということです。

『愛する』と『愛される』の違い

このエロスの定義や、エロスが人に宿った際にどの様に作用するのかといった事の解釈についてですが、サラッと聞くとなんとなく分かった気になりますが、実際には理解することが結構難しい話だと思います。
どのあたりが難しいのかというと、『愛する為に行う行動』と『愛されること』の違いです。
このプラトンが書いた饗宴という対話篇は、おそらく古代のギリシャ語で書かれていると思われますが、その古代ギリシア語では明確に言葉の定義が違うのかもしれませんが、日本語で考えると『愛するために行う行動』と『愛されること』は同じになります。

例えば、自分が好意を抱く人物がいたとして、その人間の愛を獲得しようと努力をして卓越した人間になったとしましょう。
その結果、好意を持つ相手が自分のことを好きになって愛してくれた場合、その人間は『愛される者』になります。 しかしディオティマは、エロスは常に欠乏状態であるため、愛される者ではないと言っています。
全ての人間にエロスが宿っていて、エロスが宿った人間は『愛される者』ではないとするのなら、いくら努力をしたとしても愛する人からの愛情を獲得することは出来ないことになります。

つまり、恋愛が成就する可能性はなくなるわけですが、実際問題としてそんなことはないでしょう。では、どの様に解釈すればよいのか。

ハードルを乗り越え続ける人生

これは、私の勝手な解釈になるのですが、人というのは不完全な生き物なので、どれだけ努力しても全知全能になるわけではありません。
また、人の欲求というものに果はないので、好きになった相手に対する欲求というのもエスカレートしていきます。

つまり、努力して他のものと比べて優れた存在になったことで、相手からの好意をゲットして愛されるものになったとしても、相手の欲求はエスカレートしていくため、手に入れたからと安心してそこで止まってしまうと、相手は離れていくということです。
好きな相手をつなぎとめておこうと思うなら、相手から好意を抱かれる人間になったとしても、そこで歩みを止めず、エスカレートする相手の欲求に応えるように努力し続けなければならない。
その姿勢が、『愛される者』ではなく『愛する者』の姿勢ということなのかもしれません。

これまでをまとめると、人間の行動の原点となるのは、愛の化身であるエロスの性質であり『幸せになりたい』という願望になります。
この感情に支配された人間は、『美しいもの』や『良いもの』を永遠に自分のものにしたいと追い求めて行動を起こします。
永遠に自分のものにし続けるためには、相手のエスカレートする欲望に応え続けなければならないため、人は行動し続けることとなります。

『太古の人類』の否定

またディオティマは、アリストファネスが主張する太古の人類の話も否定します。太古の人類とは、現在の人間が2人くっついた姿をしていて、今よりも強大な力を持っていて神に挑戦した人類のことです。
アリストファネスは、元々1つの生命体だったものが2つの生命に分けられたため、元の1つの存在に戻ろうとして、人間は互いに惹かれ合うと主張しました。
しかしディオティマは、一つに戻りたいと思うかどうかは、切り離されたものの状態によると主張します。

例えば雪山で遭難して足が壊死してしまい、切り離さなければ死んでしまう状態になったとしましょう。
この状態で、元々1つの体だったのだから切り離さないで欲しい、切るぐらいなら死んだ方が良いと思う人がいるでしょうか。
また、切り離された壊死した足を再びつなげようと思うでしょうか。人が何かを補ってよいのは、現状と比べて良い状態になれるときだけで、元々1つのものだったからという理由だけで1つに戻りたいとは思いません。

エロスの最終到着定点

では次に、エロスが最終的に求める幸福とは、どのようなものなんでしょうか。これは結論からいえば、『子をなすこと』によって達成されます。
ここで、疑問に思われる方もいらっしゃると思います。というのも、この饗宴という対話編を取り扱う際に一番最初に注意としていったことに、ここで語られるエロスは同性愛を中心に語られると言っていたからです。
当然ですが、同性愛では子供が生まれることはないため、『子供を作ること』が幸福であるのなら、同性愛者は幸福には到達できないことになります。

ですが、ここで語られているのは物質的な、人間の子孫としての子供のことだけではありません。2つのものが重なり合うことで新たに生まれるもの全般も含みます。
何故、子を成す事が幸福につながるのかというと、人の人生は時間的に有限だからです。
先程から言っているとおり、人の欲望に果は無いので、エロスはいくら愛情を手に入れようと努力し続けたところで、その努力は永遠に続きます。しかし人は、永遠には生き続けることが出来ません。

しかし、子供を作ることで次世代にバトンを繋ぐことができれば、その有限であるはずの時間を克服することが出来ます。
この時間の克服のために、世代をまたいだ継承というものが重要になってきて、そのためには子供が必要になる。その子供を作ることが幸福につながるということです。
この子供を作るという部分については、もっと詳しい説明が必要になると思いますのが、その説明は次回にしていきます。

参考文献