だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第129回【饗宴】真に美しいのはソクラテス 前編

広告

目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

▼▼Apple Podcast▼▼

podcasts.apple.com

▼▼Spotify▼▼

open.spotify.com

noteについて

noteにて、番組のサポートを受け付けています。応援してくださる方は、よろしくお願いします。
note.com

▼▼youtubeチャンネル登録はこちら▼▼

youtubeでは、音声コンテンツでは聞けないバックナンバーも聞くことが出来ます。
だぶるばいせっぷす - YouTubewww.youtube.com
youtu.be

前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

人間の最終到達地点

前回は、ディオティマの主張する、エロスを宿した人間の最終到達地点について話していきました。
簡単に振り返ると、ディオティマの主張するエロスの正体は、自分が欲しいと思うものを手に入れる知識を持ち、実際に手に入れることができる能力も持っているけれども、欲するものを手に入れた途端に、それは自分のもとを離れてしまう。
水や砂を手ですくっても、指と指の間からすり抜けて行くように、エロスは欲望を真に自分のものにすることは永遠に出来ないものでした。

この、欲するものが手に入れられないという部分については、本当に手に入れたものが離れてしまう場合と、欲しい物を手に入れてしまうと、興味が別のものに移ってしまうというケースがあります。
どちらにしても、エロスを宿した人間は永遠に満たされることはないわけですが、永遠に満たされることがないゆえに、人は永遠を求めます。
例えば、名誉を求めて、自分という存在が永続的に語り継がれ、概念として永遠にこの世に残ろうとしたり、他人と思想をぶつけ合うことで新たな価値の有る思想を作り出し、それを後世に残そうとします。

つまり、生物として自分が死んでしまったとしても、自分の存在が語り継がれたり、自分が生み出した思想やその一部がこの世界に残ることで、永遠にこの世に残ろうとするということです。
エロスが永遠に欲しい物を手に入れようとするのであれば、それを宿した人間側も時間という概念を超越して、自分という概念を永遠にこの世に留まることができれば、最終的には幸福に到達できる可能性があります。

究極のエロスへの段階

次にディオティマは、人間がエロスに到達する方法について語り始めます。彼女がいうには、人が究極のエロスに到達するためには、段階を踏んで行く必要があるといいます。
その段階を簡単に説明すると、まず、人が若者であるとき。これは精神的なものも含むと思いますが、その状態では、人は外見に惹かれます。 相手の内面をよく知らなかったとしても、外見だけで恋をして夢中になります。
ですが、仮に一目惚れした人に告白して付き合うことが出来たとして、その若者はそれで永遠に幸福になるのかというと、そうはなりません。

何故なら、エロスは永遠に欲望を追い続ける性質があるからです。人は、一度手に入れたものを再び手に入れようとはしないため、まだ手に入れていないモノを手に入れようとする欲望に支配されます。
そしてその過程で、自分が手に入れた恋人だけが美しい存在ではなく、他の人間であったとしても、美しい肉体は美しいと思うようになり、他の人間にも目が行きはじめます。
その様な状態では、恋人との関係もうまく行かないため、2人は分かれて、再び別の人を求めます。

昔の言葉に、『賢者は他人の経験に学び、愚者は自分の経験に学ぶ』なんて言葉がありますが、この様に、ひっついては他の人間に目移りして別れるということを繰り返していくうちに、人は外見よりも内面の重要さに気が付き始めます。
内面の良さとは、一言でいってしまえば、これまでに学んできたことを踏まえていうのであれば、魂にアレテーを宿しているかどうかです。

人は永遠を求める

精神に徳を宿す美しい精神を持つ人に惹かれる様になると、人はその美しい精神を持つ人に追いつき相応しい人間になろうと、また、知的好奇心から相手と討論をしようとします。

相手も同じ様に思い、こちらとの討論を望めば、2人の意見はシナジー効果によって新たな価値観に到達することになります。
いずれ、討論をする2人の意識は、2人が作り出す閉じた世界から飛び出し、自分たちを取り囲む外側の世界に向きだします。
世界に溢れる、ありとあらゆる美しいものを観察し、インプットした2人は、それを互いにアウトプットすることで、更に真の美に近づきます。

こうして生み出された理論は、それを生み出した2人が例え死んだとしても、他の人たちの心を動かし、心を動かされた人たちがその理論を組み込んだ形で独自の理論を生み出すことで、要素としてはこの世に永遠に残り続けることになります。
つまり、美という概念に人一人の人生で到達できなかったとしても、到達しようと行動した痕跡はこの世に残すことが出来、それを利用した他の者が更に先に考えを進めていくということです。

アルキビアデス

ここまでが、前回に話したことですが、このディオティマの主張をソクラテスが代弁したところで、饗宴の場にアルキビアデスという人物が乱入してきます。
アルキビアデスは正式に招待されたわけでもなく、しかも泥酔している状態で押しかけてきたので、まさしく乱入してきたという感じです。

このアルキビアデスという人物ですが、関係性としてはソクラテスの弟子のような存在であり、ソクラテスの弁明でソクラテスが訴えられることになった原因の1人だったりします。
前にも少し話したと思いますが、忘れている方も多いと思いますので、今回、もう一度アルキビアデスの話をしますと、彼はソクラテスのことを賢者だと思って尊敬し、彼に近づいて知恵を授けてもらおうとした人物です。
どのようにして知恵を授けてもらおうとしたのかというのは、この対話編にも書かれているのですが、色仕掛けです。

アルキビアデスというのは男性ですが、ソクラテスよりもかなり若く、見た目も美しい青年だったため、それを利用して、ソクラテスから知恵を聞き出そうとします。
というのも当時のギリシャでは、髭が生える前の少年が自分の体を対価として、年上の人間から知恵を得るという習慣があったからです。
この習慣が、古代ギリシャではジェンダー問題で今現在よりも進んでいるなんて一部で言われていたりする理由ですが、実際にはこの習慣は、髭が生えるまでの少年と知恵の有る年上の男性との愛情が日常化していただけなので・・・

その関係性が、少年の髭が生えた後も続いていると、異常とされていたりしたようです。
とはいっても、髭が生え揃った男性同士のカップルもいて、この饗宴内でもその様なカップルがいたりするので、今と同程度には進んでいたのかもしれません。

ソクラテスとアルキビアデス

話を戻すと、アルキビアデスは美しい容姿をした青年で、その美しさに自身でも気がついていたため、それを利用して、ソクラテスの寝室に裸で忍び込み、寝床に潜り込んで誘惑したりしています。

しかし、ソクラテス自身はアルキビアデスはソクラテスのことを過大評価しているとし、その誘惑は失敗に終わります。
この出来事によって、アルキビアデスはソクラテスに恥をかかされたような形になり、ソクラテスに対して怒りと愛情が入り混じったような複雑な感情を抱くようになります。
もう少し具体的にいうと、ソクラテスが自分の誘惑に乗らなかったことで、プライドが傷ついた一方で、ソクラテスの事を賢者だとして尊敬はしているので、表面上では嫌っているけれどもソクラテスを尊敬しているといった感じです。

この饗宴という対話篇の中にも、その辺りのことは詳しく書かれていて、アルキビアデスは口調そのものはソクラテスに辛く当たるような事をいっていますが、話す内容を詳しく聞くと、ソクラテスをベタ褒めしていたりします。
例えば優れた音楽の演奏家は、楽器を使うことで人々を魅了することが出来ます。優れた技術を持つものが優れた楽譜を元に演奏することで、多くの人はその音楽に聞き惚れて、動くことができなくなってしまうでしょう。
まちなかで演奏していれば、通行人は歩みを止め、人だかりができると思いますが・・・

アルキビアデスは、ソクラテスが、それと同じことを楽器を使わずに行うことができると主張します。ソクラテスが街頭で演説をすれば、道行く人は足を止め、その演説内容に聞き惚れます。
アルキビアデスも例外ではなく、強い意志で持って抵抗しなければ、ソクラテスの演説を永遠に聞き続けてしまうだろうと言います。
そして、アテナイには過去から今まで、それと同等の演説をできるものはいないと断言します。


参考文献