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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第126回【饗宴】エロスの誕生秘話 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。

美の化身が美を求めるはずがない

前回は、ソクラテスが饗宴で行われているゲームの前提が自分が思っていたものと違うとして、難癖をつける回でした。
その中でもソクラテスは、アガトンの『複数の徳性を従えて、全ての人から称賛されているエロスは美しさを求めているため、この世界は美しくなろうとする。』という主張の『エロスは美しさを求めている。』という部分がおかしいと指摘しました。

これのどこが変なのかというと、人は、欲しい物を手に入れて充実感や満足感を得ると、同じものは欲しいと思わないからです。
何故、人の感情がエロスの行動に関係しているのかというと、エロスは人という存在に依存しているからです。
人が、何かしらのものを欲しいと思ったり愛したり慈しんだりする感情を神格化させたものがエロスなので、エロスという神は単独で存在することが出来ないからです。

エロスが人の感情に依存している存在ということは、エロスの振る舞いは人が思い感じる事がベースとなる為、人が『既に手に入れたものを欲しいとは思わない。』と思うのであれば、エロスもその様に思うはずです。
では、この前提を置いた上でもう一度、『エロスは美しさを求めている。』という文を見直してみると、エロスは美しさを宿していないことがわかります。
なぜなら、既に究極の美しさを宿しているのであれば、さらなる美しさを求めるなんてことはしないからです。 エロスが美しさを求めるのは、完全な美しさをまだ手に入れていないからです。

中間の存在

これは、一見すると屁理屈のようにも思える主張ですが、論理的に考えてみると、否定もできず筋も通っていそうな主張です。これに対して指摘された側のアガトンは、納得してしまいます。
この様な指摘をソクラテスが行った理由としては、自身も過去に同じようなことを考えていて、その様に主張もしていたけれども、その意見をディオティマというエロスを極めたとされる女性に正されてしまったからです。
どの様に正されたのか。 彼女がいうには、ソクラテスやアガトンの主張では、この世には両極端の概念しか存在しないことになってしまいます。

例えば、美しいもの以外は全て醜いもの。 賢者以外は全て愚か者といった具合に、究極の存在が1つあり、それ以外は全て駄目という100か0しか無いことになります。
しかし実際にはそんなことはありません。 賢い者と愚か者は独立してバラバラに存在しているわけではなく、両者にはその中間が存在します。

これは、偏差値などで考えると分かりやすいかもしれません。
偏差値だけで頭の良さが図れるとは思いませんが、一応の目安にはなると思いますので偏差値で考えてみると、偏差値というのはそれぞれを相対評価して、自分自身が全体のどれぐらいの位置にいるのかを確認するための数値です。
もし、ソクラテスの言うような両極端の概念しか存在しないのであれば、自分が全体のどれぐらいの位置にいるかなんて考えそのものが無くなります。

テストの点数でいうのであれば、100点を取るものと0点を取るものしかいないことになるので、賢いか馬鹿かの2つに分かれることになってしまいます。
しかしそんなことはなく、実際には中間のものが存在します。以上のことを踏まえた上で、エロスについて考えていくと、エロスが美しさを求めるからと言って、必ずしも醜いとはいえないことになります。
つまり、エロスは相対的には美しいが絶対的な美を持っていない中間的な存在だということです。

不完全な神

しかし、これに納得ができないソクラテスが『神は究極の概念を神格化したものだから全ての人から称賛されているはずなのに、その神が中途半端な存在ということが有るえるのですか?』と質問を投げかけます。
これに対しディオティマは、『全ての人から称賛されているというが、ここに、エロスを神として信じていない人間が2人もいるじゃないか。 それは、私とソクラテス、お前だ。』と言い放ちます。
ソクラテスは神を信じていないと不敬罪で訴えられて死刑判決が下された人物ですが、自分自身では神の存在を疑っていないと思い込んでいるので、この発言が理解できないため、その理由を訪ねます。

するとディオティマは、『神という存在はどのようなものだろうか。 アナタは全ての神々は幸福で美しい存在だと思いませんか? それとも神々の中には、何かしらが欠けているために美しくもなく幸福でもない者がいると思いますか?』と問いかけます。
これにソクラテスは、『全ての神々は美しく、幸福を手にしている存在だ。』と答えます。これは言い換えれば、神は絶対的なものなので欠けているものはなく、満足感と充実感を常に得ていて幸福だと言っているのと同じです。
しかしこの答えは、ソクラテスがディオティマに尋ねた疑問に反した答えとなります。

その疑問とは、『エロスが真に美しい存在であるのならば、エロスは美を求めないはず。美を追求するということは、自身が美しさを手に入れていない状態だから、つまりは醜いからではないのか。』という疑問です。
この疑問を言い替えると、エロスは美しさが欠けているから美を求める行動を取る。これは、自身に欠けているものを補うために行動している事と同じで、満足感を感じていない、幸福とはいえない状況といえます。

これを短くまとめると、『エロスは自身に美しさが無いため、美しさを追い求めている不幸な神』ということになってしまいます。

ダイモニア

人の感じ方としては、憧れのものを手に入れたいと努力している状態こそが幸福だと考える方も多いでしょうけれども…
この場で語られている幸福の定義とは、欲しい物を手に入れて満足感や充実感を得ている状態のことなので、エロスは、自身が欲しいと思っている『美しさ』を手に入れられていない状態となるため不幸となります。

ソクラテスは、『全ての神は美しく、幸福を手にしている存在。』と定義する一方で、『エロスは美しさを追い求めている。』といってしまっているので、エロスは神々には含まないと言っているのと同じことになります。
つまりソクラテスは、先程ディオティマが指摘したとおり、エロスを神の一員としては認識しておらず、称賛もしていないということになります。
自分はエロスを神だとし、尊敬していると思っていたソクラテスは、それが思い込みだったと思い知らされ、ディオティマにエロスの正体を尋ねることにします。

これに対しディオティマは、『エロスは神と人間の間を取り持つ存在である精霊(ダイモニア)である。』と答えます。
ダイモニアとは、過去に扱った対話篇『ソクラテスの弁明』にも登場しましたが、神と人とをつなぐメッセンジャー的な役割を持つものです。
古代ギリシャでは、神と人間とは次元が違いすぎて、直接コンタクトが取れないと思われていました。

しかし実際には、神の声を聞くといわれている巫女が存在しています。では彼女たちは、神の声が聞けるのかというと、聞けません。
そこの登場するのが精霊で、この者達は神と人間との間を通訳のように取り持つことで、人間と神との対話を成立させます。
では、この精霊がいれば、誰でも神とコンタクトが取れるのかというと、そういうわけでもなく、精霊を通じて神の声を聞くには一種の才能が必要で、その才能を持つものが、巫女や占い師や司祭や預言者と呼ばれたようです。

神の世界と人間界には大きな隔たりが存在しますが、この精霊がメッセンジャーの役割を果たすことで、2つの世界を1つにまとめているようです。

参考文献