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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第126回【饗宴】エロスの誕生秘話 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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感覚的な世界

ここで登場する神々の世界と人間の世界を、この言葉のままに受け入れると、かなり宗教的な感じを受けてしまいますが、ここでプラトンが作品を通して伝えようとするイメージとしては、感覚的な世界と物質的な世界があるということでしょう。
目で見たり聞いたり触ることで直感的に理解できる世界と、一部の才能のあるものだけが到達することが出来る感覚的な世界があって、感覚的世界のことを神の世界といっているんだと思います。

これだけではイメージが伝わりにくいと思うので、対話篇に書かれている例を紹介すると…
先ほど説明したように、神の声や意思を聞いて知識を得て、それを皆に伝える事ができる才能を持つ人間の事を賢者と呼びますが、神の世界はこれだけでなく、肉体を通してもコンタクトを取ります。
例えば、一流の彫刻家や大工は、普通の人間が真似できないような技術を感覚的に身に着けて、実際に腕を振るうことが出来ます。

これは、技術的な仕事やスポーツなどをされた経験が有る方なら分かると思いますが、この様な体を使う分野の場合、教科書を読んで知識を得たからと言って、一流の職人や選手になれるわけではありません。
おそらくこれが正しいのだろうという感覚的なことを、反復作業を通じて身につけていきます。
普通の人間にとっては完成させることすら難しい彫刻ですが、ルネッサンス期の有名な芸術家であるミケランジェロは、彫刻は石の中に眠っている完成品を取り出す作業に過ぎないといっています。

既に完成品が石の中に埋まっているのだから、それを取り出すのに難しいことを考える必要はないとでも言いたいのでしょう。
しかし彫刻の素人が、この様な感覚的な説明を聞いたところで、石の中にある完成品を取り出せるようになるのかというと、なりません。
ですが、実際に技術を身に着けた側としては、その様にしか説明ができない状態に有ります。 この様な状態を、精霊を通じて感覚的な世界とつながったとしているのでしょう。この様な境地に到達した技術者は、技術に関わる賢者になります。

エロスの誕生秘話

次にディオティマは、エロスの誕生のきっかけとなる神話について話し始めます。
ここで注意ですが、この神話では、エロスとアフロディーテは別のものとして扱われています。

ディオティマがいうには、エロスが誕生する切欠となたのは、アフロディーテの誕生祭です。 この祭りには、叡智の女神メーティスとその息子である充足の神ポロスも出席して誕生を祝ったそうです。
この誕生祭は滞りなく進むと思われたのですが、祭りの終わり際になって、ペニアという貧乏神が呼ばれてもいないのに宴会の場に現れます。
この貧乏神ペニアは、自身が恵まれていないため、一発逆転を狙って酔いつぶれているポロスの寝込みを襲い、二人との間に子供を作ることに成功します。こうして誕生したのがエロスという神です。

エロスはアフロディーテの誕生祭が縁で生まれたということで、アフロディーテの従者にして下僕となります。アフロディーテは美の化身であるため、その従者であるエロスは、常に美を追い求める性質となります。
エロスはこの他にも、充足の神である父親ポロスと、その親であるメーティスの性質も併せ持つため、美しいものを知略を尽くして手に入れる能力を持ちます。
しかし、貧乏神である母親の性質も受け継いでしまっているため、手に入れた美しいものは指の間からすり抜けてしまい、最終的に無くなってしまいます。 これらの性質を併せ持つため、常に何かを求めてさまよい続けるのがエロスです。

神話の読み解き方

この神話での例え話ですが、前にも話したと思いますが、純粋に物語として読もうと思うと、本質を見失う可能性が有ります。
解釈の仕方としては、概念同士の位置関係や足し算引き算で考えるようにすると、理解しやすいと思います。

今回の場合でいうと、まず、美しさや愛情、慈しみという概念が大枠として存在して、その中に『知性』と欠けたものを補って満ち足りるという意味の『充足』と、常に満たされない状態である『貧乏』『欠乏』といった概念を集めます。
知性や充足、貧乏・欠乏という概念は、美しさや愛情、慈しみというアフロディーテという概念の大枠の中にあるため、それぞれがアフロディーテの属性を帯びることになります。
つまり、美しさや愛情、慈しみを手に入れるための知性と、それらを手に入れることで満足する充足という概念、美や慈愛が欠乏しているという概念になり、エロスはそれらをすべて備えている概念になるということです。

エロスという概念は、知性によって慈愛を獲得して一時的な満足感を得ることは出来るけれども、貧乏や欠乏という概念によってその満足感は失われるため、結果として常に慈愛を求める性質を持つことになります。
この様に定義されたエロスという概念を改めてみてみると、エロスは慈愛や美という概念を獲得する能力を持ち、一時的であれ満たされる為、醜い存在とはいえません。
しかし、欠乏という性質によって充足の状態を維持することが出来ないため、エロスは美や慈愛の究極的な存在かといえば、そうともいえず、結果として中間の存在となります。

愚か者と賢者

次に、ソクラテスがこれまで主張してきた両極端の概念について考えていきます。これまでの対話篇でもそうですが、ソクラテスはAで無いならBだという主張を続けていました。
今回の例で言えば、既に所有しているものを欲するものはいないため、美を欲しているエロスは美を所有していない。つまり、エロスは醜い存在だというのが、これに当たります。
この様な、美しくないものは全て醜い、賢者でなければ全て愚か者、この世界には相反する概念が存在するだけで、中間なんて存在しないという考えは、正しい主張なのでしょうか。

これに対してディオティマは、そんなことは無いとして、中間という存在が有るというのを説明するために、例え話を始めます。
例えば、全知全能の神という存在を定義した場合、その神は、新たな知識を手に入れるために勉強するなんてことはしないでしょう。なぜなら、この世のあらゆることについての知識を既に持っているわけですから、知らないものなんてものはありません。
無いものを見つけ出して身につけるなんてことは出来ないので、この全知全能の神が新たな知識を追い求めるなんてことはしません。

ではその正反対に属する、無知な者、愚か者についてはどうでしょうか。 知識を追い求めるために勉強をするのでしょうか。
結論から言うと、愚か者達も勉強なんてしません。 何故なら、愚か者はその愚かさ故に、知恵の存在を知りません。
愚か者は、自分自身は賢くもなく美しくもなく、何も満たされていないにも関わらず、自身に欠けているものが何かを知らないために、このままで良いという現状維持を選んでしまいます。

『中間の存在』は成長する

では、中間に存在する人はどの様な行動を取るのかというと、自分に足りないものを認識し、それを手に入れるためにはどの様にすれば良いのか、筋道を考えて行動に移していき、一歩ずつ確実に前に進んでいきます。
この者は全知全能ではないため、何かしらの欠陥を抱えていますが、無能ではないため、その欠陥と、どの様にすれば補えるのかを知っていて、行動に移すことが出来ます。
つまり、世間一般でいわれている有能な人というのは、ほぼ全てがこの中間に存在するとなります。

そして次にディオティマは、エロスとはなにの化身なのかを話していくのですが、その話はまた次回にしていきます。

参考文献