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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第124回【饗宴】美しさを欲するエロスは美しいのか 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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パイドロス・パウサニアス・エリュクシマコスの主張

今回も、対話篇『饗宴』の読み解きを行っていきます。
これまでに、5人の人物による『エロスが何故素晴らしいのか。』についての考察を聞いてきました。
それぞれの主張を簡単にまとめると、パイドロスの主張としては、愛情であるエロスのために代償を支払う行為は美しく、神すらもその行動を称賛するが、一方でエロスに対して代償を惜しむ行為は醜く、軽蔑されると主張しました。

次にパウサニアスは、エロスには良いエロスと悪いエロスの2種類存在し、エロスに支配されたものが何に心を奪われているのかで、それが変わると言います。
人を好きになる場合、相手が持っている何らかのものに心を奪われるから好きになるわけですが、これが、金や財産や相手の体といったものを目的とした場合は、俗のアフロディーテに属するとして軽蔑されます。
一方で、知性や勇気や節制といった相手が持つ徳性に惹かれてアプローチした場合、このエロスは天のアフロディーテに属することとなり、周囲からも応援されるようになります。

相手に対して求愛するという同じ行動をしていたとしても、最終的に求めているものが俗物なのか徳性なのかで、その行動の善悪は決定してしまう。
これは、目的の善悪によって行動の善悪が決定するという事で、重要なのは何を目的に据えるのかということだという主張です。

これに対してエリュクシマコスは、エロスを欲求を操作して調和を生み出す技術と定義した上で、善悪に分かれるのは、まず行動で、行動の善悪が結果として目的の善悪につながると主張します。
先程のパウサニアスの主張では目的が重要視されていて、それを達成する手段でしか無い行動は、目標の属性によって善悪が振り分けられるというものでしたが、その意見とは逆となっています。
何故、逆の意見が出てきたのかというと、おそらく、この世には目標がはっきりしないものが多数存在するからでしょう。

例えば人間は、種としてこの世に誕生しているわけですから、そこにはこの種が誕生した目的が有るはずですし、人間個人としても、この世に生まれてきた以上は目的があって生まれてきているはずです。
しかし、その目的を認識できている人間はいません。 古代ギリシャでは、人は幸福になることが目的であろうと仮定し、それに必要なのはアレテーだと定義しましたが、そのアレテーは未だにどのようなものかがハッキリとは定義できていません。
つまり、目的がわからないということです。目標がわからないということは、当然、その善悪も判別できないため、先程のパウサニアスの主張は、人間には当てはめることができなくなってしまいます。

そこで、手段である行動の方に善悪の基準があり、良い行動を積み重ねることによって良い目的に到達することが出来るとすることで、その問題を解決しようとしたのでしょう。

アリストファネスの主張

次いでアリストファネスですが、人と人は何故惹かれ合うのかというのを、根本的なところから考えなければならないとして、太古の人類というもの出してきます。
太古の人類は、今の人間が2人くっついた様な姿をしていて、強大な力を持っていたけれども、自分たちの力を過信して神に挑戦したことで神の怒りをかってしまい、ゼウスによって2つに引き裂かれて、今のような姿になったと主張します。
急に毛色が変わり、昔話のようなテイストの話になってしまっていますが、これはこれで重要な考え方です。

動物の中には、群れや社会を作らない動物もたくさんいますが、人間は誰かを求める性質が有るために、群れや社会を作りますし、その社会の中でパートナーとなるべき人を探そうとしますし、見つければ満足感や充実感を得るという事実が有ります。
ではこれは、子供を作るために本能がそうさせているのかというと、そういうわけでもありません。なぜなら、女同士や男同士のカップルが存在するからです。 
もし、子供を産むためだけの生物的な本能が原因であれば、子供が生まれる男女間のカップルしかいないことになりますが、実際にはそうなってはいません。

であるのなら、そこには子供を作って種として繁栄するという以外の何らかの理由があるはずで、そうして考えられたのが太古の人類という設定です。
もともと1つだったものが、何らかの形で無理やり引き離されたので、もう一度、元の完全体の姿に戻ろうとしているとすることで、何故か理由わわからないけれども惹かれ合う人の気持を説明したのでしょう。

アガトンの主張

そして前回取り扱ったのが、アガトンの主張です。
アガトンは、これまでに行われてきた主張というのは、人間の目的や行動について神がどの様な評価を下すかという点で語られていたけれども、その議論よりもまず、神がどの様に優れているのかについてハッキリさせないといけないと主張します。
これは例えば、絵画の評価をする際に、評価者が誰もが認める審美眼を持っている場合には、その評価は信用できるけれども、何の実績もなく、どこの馬の骨とも分からない人間が評価したとしても、その評価には意味がないということです。

先に主張を述べた4人は、暗黙のうちに『神は素晴らしい存在だ』という前提を置いて、『その素晴らしい神でも称賛するのだから、エロスを伴った行為は素晴らしい。』と結論づけていました。
神々の存在が絶対で、その存在を疑えば不敬罪で訴えられる可能性がある国で議論をしているわけですから、神の素晴らしさを語るまでもなく共有するというのは普通のことなんでしょうけれども…
それでもアガトンは、同じ素晴らしいと結論を置くにしても、どの様に素晴らしいのかをハッキリさせなければならないと考えたのでしょう。

アガトンがいうには、エロスが介在すれば、あらゆる同意は円滑に進み、そこに争いが発生することはないと言います。
エロスとは、相手を愛おしく思う気持ちであり、慈しみの心であるため、その気持を宿した人間は、愛おしい人間に対して無理難題を押し付けることはありません。
また相手も同じくエロスを宿していれば、愛する人からの提案は聞き入れようと努力するため、両者は争うことなく同意することになります。

この範囲を拡大し、全ての人達が同意出来るようなルールを作れば、それは法律となります。
エロスが介在することで作られた法律は全国民の同意によって生まれ、皆がルールを守るため、そこには正義がやどり、こうして生まれた国は秩序有る平和な国になります。

またエロス自身が欲望の王であり、全ての欲望を従えている為、最大級の節制となります。
この他にも、勇気や知性も支配下に置いているため、エロスは最高善であるアレテーと近い存在とも考えられるので、エロスは偉大だと主張します。

これらの意見を受けて、次に、ソクラテスが主張を行います。

参考文献