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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第131回【饗宴】まとめ回(2) 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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アリストファネスの主張

今回も、プラトンが書いた対話篇、饗宴の『まとめ回』となっています。
前回までで、パイドロスとパウサニアス、そして、医者であるエリュクシマコスの主張を紹介してきました。
今回はそれに続いて、アリストファネス、アガトンの主張を観ていきます。

まず、喜劇作家のアリストファネスの主張ですが、彼は、人間が今の形になる前の太古の話を始めます。何故、この様な話をしだすのかと言うと、人と人が惹かれ合う根本的な原因を考えるためです。
これまでに紹介してきた3人の意見では、男女間であれ、同性同士であれ、人が惹かれ合うことは当然で、その前提すら疑わない状態で、既に存在しているエロスについてあれこれ考えて主張していました。
その為、そもそも人々が何故、惹かれ合うのかというのが謎のままでしたが、アリストファネスは、そこに踏み込むために、人の起源の話を始めます。

人類の起源

彼の話によると、太鼓の人類は今のように頭が1つで手足が2本ずつという形をしておらず、今の人間が背中合わせに2人くっついたような姿をしていたようです。
つまり、頭が2つで手足が4本ずつある様な姿をしていて、性別も、男女・男男・女女の3種類があったといいます。この性別ですが、先程、この太古の人類は今の人間が背中合わせに2人くっついたような姿と言いましたが…
そのくっついている人間が、男と女。女と女。男と男がそれぞれペアでくっついているものと理解してください。

この太古の人間は、今の人間と比べものにならない程の力を持っていたそうで、移動の仕方も現在の人間とは違い、手足を放射線状に目一杯伸ばして玉のようになり、その状態で転がりながら移動していたようです。
何故、転がりながら移動するのかというと、それぞれの性別は、男男が太陽。女女が月、そして男女が地球と、それぞれ起源とする星を持っていて、それを真似て球体になって回転しながら移動していたようです。
この太古の人間ですが、先程も説明したように今とは比べ物にならない程の力を持っていたため、恐れ多くも神々にも勝てるのではないかと思い込み、神に挑戦をします。

しかし結果として人間は、神々の足元にも及ばず、人々は神の力を見せつけられることになりました。
神々は、この時点で反乱を企てた人間を殲滅しても良かったのですが、そもそも実体を持たない神々は、人間から信仰されていないと その存在を保てないため、殲滅することは辞めました。
その代わりに、人間を真っ二つに分割することで、今のような手足が2本で頭が1つの状態にしました。 それにより、人は神々を恐れ崇める様になり、数も倍に増えて信仰のエネルギーもより多く手に入れることができるようになったという話です。

人がパートナーを求める理由

このようにして、今の姿の人間が生まれたわけですが、この人間は、強大な力を持っていた当時の事を本能レベルで忘れることが出来ず、昔の姿に戻りたいと潜在意識で思い続けています。
アリストファネスは、その思いが行動に現れた結果、相手を探し求め続けると主張します。
人がパートナーとして求める相手は、太古の昔に、男と女でつながっていた人間は、互いに異性を求めて、女性同士や男性同士でつながっていた人間は同性のペアを見つけ、1つになることで昔の力を取り戻そうとします。

この説は、一見すると滅茶苦茶なようにも思えますが、人々が何故、惹かれ合うのかという理由を説明しています。
人々がパートナーを求める理由として、子孫を残すためだと断言する方もいらっしゃるでしょうが、それでは、同性同士のカップルは成立しないことになります。
しかし実際問題として同性愛は存在し、一部の国や宗教は厳格に規制しているにも関わらず、この対話篇が書かれてから今現在までの数千年間、同性愛は存在し続けています。

わからないなら分からないなりに仮説を立てるというのは大切なことで、この意見はそれを行っているという点では聞くべき意見と言えるのでしょう。

神そのものを研究する

続いての主張を述べるのは、アガトンです。アガトンも、アリストファネスと同じ様に仕事で劇作家をしていますが、アリストファネスが喜劇だったのに対し、アガトンは悲劇作家です。
彼は、これまでにエロスについて賛美してきた者は、神が与えた祝福を受けた人間について話してきたのであって、神そのものを賛美したものはいないと指摘します。
これまでの主張を振り返ってみると、たしかに、エロスの生まれた順が早いとか、欲望の象徴であるエロスは、欲しているモノの善悪によって、天のアフロディーテと俗のアフロディーテに別れるとか…

いや、そうではなく、エロスは天と俗の2つに分かれず、本質は同じものなので、欲望をうまい具合に操作する技術を学べば、良い流れに持っていける。
その為、人間がすることは、欲望を操作できるようになるために、欲望そのものを分解して研究していくことの方で、結果として、学問が生まれたといった意見でした。
こうしてみると、たしかに、エロスがもたらす効果に対して褒め称えてはいますが、エロスそのものについては語られていません。

これまでに登場した者たちは、エロスは神で、美や慈愛という分野では究極の存在であるという前提があるため、敢えてこの部分に触れるとうことはしなかったのかもしれません。
しかしそれでは、権威主義の思考停止と同じです。 つまり、あの偉い教授が言っているんだから、それが絶対に正しいとして思考停止しているのと同じなのです。
例えば、古美術の偉い先生が、『この作品は素晴らしい』とお墨付きを与えたから、自分自身ではその作品の美しさに何も気づいていないのに、偉い先生を盲信して高い金を出して美術品を買うのと同じです。

評価者を評価する

この場合は、その美術品の美しさの基準は、偉いとされる先生に完全に依存しています。
逆に考えれば、その偉いとされている先生が実際には実力が全く無く、目が節穴だけれども、周りが盲目的で思考停止しているがために、みんなから偉いと思われているだけの人物だった場合、その美術品の価値は無いことになります。
何故なら、皆から煽てられているだけで、審美眼がない目が節穴の人物が良いといっているだけの品物だからです。

これはエロスも同じで、エロスを伴う行動を取ると神々が祝福してくれるから、エロスが伴った行為は美しいとか優れているという理論の組み方では、神々の評価が信用できない場合は、その前提が崩れてしまいます。
この様に理論を組み立てるのであれば、まず、前提となっている神が下す評価が絶対的に正しいことを証明してから出ないと、説得力がありません。
そこでアガトンは、何故、エロスや神そのものが優れていて卓越しているという事を、証明しようとします。

若いものは美しい

アガトンがいうには、エロスが尊い理由として、神の中で一番若く、故に美しいと主張します。
若いということは、神の中で一番最後に生まれたのかというと、そうではなく、神は概念的な存在であるため、人と同じ様な時空で過ごしてはいないため、時間と距離を取ることで年老いること無く過ごしてきたようです。
何故、一番若いと美しくなるのかというと、年老いたものが醜いという考え方があるからです。

経年劣化という言葉がありますが、物質であれ生物であれ、若い状態のものはそれだけで美しいという考え方は、どこの世界でも共通してあります。
例えば日本でも、寺院などの一部では、完成したときが一番美しいので、敢えて完成させないように柱を一本だけ逆さまにして取り付けて、永遠に完成しない状態で納品するというのがあるぐらいです。
この世に生まれたものは時間の経過と共に劣化して醜くなっていくため、逆に考えれば、その時間という概念そのものから距離をとっているエロスは、劣化せずに美しい状態をキープできていることになります。

参考文献