だぶるばいせっぷす 新館

ホワイトカラーではないブルーカラーからの視点

【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第128回【饗宴】『有限』の克服 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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個人の不死性

個人としての人が不死性を求めるという点でいえば、名誉なども同じです。
名誉は、自分の分身である子供ではなく、自分自身の名前が未来永劫語り継がれることなので、個人の存在感や概念として不死性を帯びています。
例えば、今現在私は、このコンテンツを通してプラトンが書いた対話編を読み解いていますし、その対話編の中にはプラトンの師匠であるソクラテスが登場しますが、彼らは2000年以上前に生きていた人ですが、今現在でも、彼らの存在は大きいです。

おそらくですが、数十年や数百年後であっても、彼らは語り継がれるでしょう。
彼ら自身は名誉を求めて行動していたわけではないと思われるので、その他の人物も例に上げると、カエサルアレキサンダー大王なんて人物も、現代にまでその名前が語り継がれています。
現代でいえば、アメリカのトランプ大統領が、大統領選に負けてからも、歴代の大統領がやっていなかったようなことを次々に行って、影響力を発揮させて、人々の記憶に自分の名前を刻もうとしています。

では何故、彼らはその様な行動を取るのかというと、自身の存在の不死性を求めてです。
ディオティマは、彼らがとった行動が死後に一切語り継がれること無く、死ぬと同時に存在そのものが消えるとするのなら、彼らはそんな行動は取らないはずだと言います。
これはつまり、人々の記憶に刻み込まれるような行動を取ることで、自分が死んだ後も語り継がれ、それによって自分の存在そのものが不死になるから、彼らは名誉を求めて頑張るということです。

人の集合である『社会』の不死性

ディオティマは、これまでのまとめとして、この様な例え話を始めます。 社会を構築する人間にとって一番重要な知識は、その社会を継続させていくための知識である『正義』と『節度』となります。
これは、人間は単独で生きることは出来ず、生きていくためには社会をつくり、それを成立させなければならないからです。その社会を存続させるためには秩序が必要で、秩序が成立するためには、『正義』と『節度』が必要だということです。
この『正義』と『節度』を身に着けた人間が成人し、適齢期になると、その子供は子供を作ろうとします。

そのために、『優れた者』『美しい者』を探し、話をします。 自分が思う正義とはどのようなものなのか、節制とは何なのか。
自分の持つ価値観をさらけでし、互いを良い方向へと導こうと討論を重ねていきます。
この様にして高めあえる二人は、やがて愛し合って子供を作ることになりますが、その子供は、親である自分たちよりも美しく、不死に近い存在であるため、彼らは子供を優先して守ろうとします。

この子供というのは、先程から繰り返し言っていますが、物質的な人間の赤ん坊に限った話ではありません。何故なら、そのようにしてしまうと、エロスは男女間でしか成立しないからですその為、ここでいう子供とは、思想も含みます。
思想も含むとは、今回の例で言うなら、『正義』と『節度』を持つ2人の人間が互いに高め合うために価値観のすり合わせを行えば、単独では思いつかなかったような考えに到達するということです。
この『新たに生まれた考え』というのは、それを生み出すことになった それぞれの親が元から持っていた思想よりも尊重され、大切にされるということです。

正義と節度を持つ2人が討論を重ねることで、新たな価値観に到達し、その価値観を更にぶつけ合うことで、更に優れた価値観を得ていく。
この様なサイクルを重ねることで、多くの知識や徳を生み出したものは、尊敬され、未来永劫、語り継がれて、不死性を宿すこととなります。

エロスの第一段階

この様な状態が人が目指すべき道となりますが、人間は愚かであるため、誰もが最初からこの様な道を選択して行動することは出来ません。
その為、人は1段1段階段を登るようにして、成長していく必要があります。では実際に、どの様に段階を踏んで成長していけばよいのでしょうか。
ディオティマは、人間の恋愛に例えて、この説明を始めます。

まず最初、人が若者であるとき。恋心をいだいて感情に突き動かされる場合というのは、大抵は、対象に対して外見的な美しさを見出したときです。
つまり、格好良いからとか美人だからという外見的な理由で、人の感情は揺れ動き、それを行動に移すようになります。
この際、若者のパートナーとなるものが、その若者を正しく導くことが出来るのであれば、その若者は浮気をせず、他のものには目もくれず、1つの体を愛すようになります。

特に初恋の相手などの場合は、自分が好きになった人間を、この人だけは特別だと思い込み、他の人間と恋人との間に明確に線を引き、その相手を特別視して盲目的に愛します。
しかし、ある程度の時間が経って冷静になってくると、他の体にも目がいきます。
というのも、この初期の段階では外見的美しさにのみ目がいっているため、自分が好きだと思った人と似たような外見や身体的特徴を持つ人も、同じ様に美しいと思うようになるからです。

また、精神的に若いうちは、熱しやすく冷めやすいところもあり、外見が好みだから好きになり、実際に付き合ってみらた、思っていたのと違ったということも多々あり、すぐにパートナーを変えてしまったりします。
この様にして、人は経験を重ねていきますが、その繰り返しの中で、身体的な美しさに共通の部分があることに気が付きます。
簡単に言えば、好きなタイプというものが分かってくるようになり、それを言語化出来るようになってくるということです。

エロスの第二段階

自分の好みの傾向がわかり、この様なパターンの外見であれば好みだということが分かってくると、1つ次の段階に進み、次第に、外見へのこだわりは無くなっていきます。
何故かというと、外見の姿形が内面を反映しているわけではないということが、経験によって理解できるからです。
経験の少ない私自身が偉そうに言える立場にはありませんが、恋愛経験が少ないと、外見が美しいから内面も美しいはずだと、無関係の2つをリンクさせて考えてしまいがちです。

しかし、経験を積んでいけば、同じ様な姿かたちをしていても、人によって正確や考え方が違うことに気が付き、互いの価値観といった内面同士が合うことの重要性に気が付き始めます。
最初は、自分の好みの外見で、尚且、自分と合う内面をしている人を探そうとしている人も、次第に、外見はそっちのけで、内面の方を重視するようになっていきます。
この内面も、人が正しく成長を続けている場合は、心が美しく、優れた知恵を持つものが尊いと思うように考えるようになります。

エロスの最終段階

優れた知恵や思想を持つものを愛すようになると、その者に受け入れられたいという想いや、受け入れられた後、その人と互いの思想をぶつけ合って討論することで、その人は更に成長を遂げます。
すると、その若者の意識は、愛し合っている自分たちという閉じた世界だけでなく、自分たちの外側を取り囲んでいる世界の方に目が行き始めます。
こうなると、今まで自分たち中心の狭い視野でしか見えていなかったものが、広い視野でみることが出来るようになり、この世界のありとあらゆる美しさの方に目が行き始めます。

こうして、あらゆる『美』を観察し、その情報を自分にインプットしてさらなる知識を蓄え、それを元にパートナーと討論を重ねて新たな思想を生み出し続けるものは、最終的に『美』そのモノに到達することになります。
ここで到達する美というのは、何かに宿ることで初めて認識できる、修飾語としての美ではありません。
時間が建てば、いずれ消滅してしまうようなものでも、地域が変われば価値観が変わってしまうものでも、何かに対する美といった相対的なものでもなく、絶対的な美です。

乱入者

このようにして、人は最初は肉体的な美という分かりやすいものを入り口にして、経験を重ねていくことで、絶対的な美である究極のエロスへと到達することが出来るというのが、ディオティマの主張です。
これで、饗宴に参加した人たち全ての主張は終わったのですが、ここでこの対話編は終わりではなく、アルキビアデスという人物が宴の噂を聞きつけてやってきて、一騒動起こすのですが、その話はまた次回にしていこうと思います。

参考文献