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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第112回【クリトン】脱獄 後編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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ソクラテスの説得

このくだりですが、読みようによっては、クリトンは自分たちのことを優先して考えているようにも思えます、しかし、実際にはそういう意味合いで、自分たちが批難される可能性を示したわけではないでしょう。
前回取り扱った『ソクラテスの弁明』でもそうでしたが、ソクラテスは、秩序の維持や正義、人を良い方向へと導くためであるのなら、自分の命も顧みずに行動してしまうような人です。
そんな彼に、『死にたくないでしょう? なら、一緒に逃げましょう。』といったところで、彼は絶対に言うことは聞いてくれません。

それなら、身内の人間が危害に合う可能性を示したり、子供を残して死ぬことそのものを無責任としてしまった方が、仲間や子供の為を思って逃げてくれる可能性が高いだろうと思って、提案したんだと思われます。

これを聞いたソクラテスは、『私は、今まで行動を起こす際には、安易に道を選ばずによく考えて、最善と思われる道を選んできたつもりだ』
その為、今回も安易に答えを出さずに、考え抜いた末に答えを出すと告げて、クリトンたちと、逃げるべきか、留まるべきかについて考えることにします。

大衆とは

クリトンは先程、ソクラテスを脱獄させなければ自分たちが皆から非難されると主張していたので、まず、大衆について考えていくことにします。
大衆というのは、時に数の暴力で威嚇したりして、個人を追い詰めることがあります。
この行動には、特に根拠がなく、感情に流されて起こすものが多いように思えます。 例えるなら、子供をお化けを使って怖がらせるように、一人の人間を追い詰めて面白がるという事は珍しいことではありません。

これは現代に生きる私達の社会を見渡してみても、よく分かります。
子供に限らず、大人の社会でもイジメはありますし、SNSなどを見てみれば、政治家や有名人の人達は、何をしても叩かれていたりします。
では、イジメをする子供や、有名人を叩く人達は、しっかりとした理由があって叩いているのかといえば、そんな事はないでしょう。 雰囲気に流されて、感情的になり、強い言葉で威嚇して憂さ晴らししていることが多いです。

犯罪が起こった際の、裁判結果を受けての大衆の主張も同じです。
多くの大衆は、その法律を深く勉強したわけでもなく、裁判を傍聴しに行ったわけでもなく、3行程度でまとめられているネットニュースの見出しを見て意見を言っているだけの人達です。
しかし、裁判官の方はというと、法律の知識もあり、実際にその判決に携わっているわけですから、その事柄について深く事情も知っていることでしょう。

多くの情報を持ち、専門的な知識を持つものが判決を下したわけですから、そこには、何かしらの意味や理由があるわけですが、多くの大衆は、そんな事は一切期にせずに、3行で書かれたニュースの見出しのみで批判します。
そして、批判している人達を見て、3行のニュースヘッドラインすらも見ずに批判する人達まで現れます。

大衆の意見

ソクラテスに死刑判決を下した裁判官たちも同じで、彼らは、場の雰囲気に飲まれて、引っ込みがつかなくなって有罪判決を下し、感情に流されて死刑を宣告してしまっただけです。
そこに、深い考察があるわけではありませんし、理性的な判断が行われたわけでもありません。
クリトンは、ソクラテスがこのまま死ねば、大衆によって責められると主張しますが、では、その大衆の意見というのは、聞かなければならないような意見なのでしょうか。

ソクラテスは以前、クリトンと共に対話をした際に、大衆についてというテーマで話したことがあるらしく、その時の話を振り返ります。
彼は『その時の結論としては、大衆の意見というのは、大部分が聴くに値しないことだけれども、全てが無駄というわけではなく、中には大切なことも含まれているというものでしたが、その話は、まだ有効か?
それとも、以前は、この結論に同意したけれども、私が死刑判決を下された後は状況が変わったので、無効になったのか?』といって、昔の議論をクリトンに確かめます。

これを聞かれている方の中には、『そういう事をいうから、殺されるんだぞ。』と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、彼からしてみれば、当然のことしか言ってないんです。
哲学のテーマというのは、私達の生活に密着しすぎている為に、専門家でなくとも、答えが分かったような気になるという分野の学問です。
何のために生まれて、何をして生きるのか、人生の到達点は何処なのかと言うのは、多くの人が答えを知った気になっていますし、その答えを否定されると、怒り出す人もいたりします。

聞く価値がない意見

しかし、別分野の学問として考えた場合はどうでしょうか。 例えば、物理学や数学の高レベルな学者に対して、民衆というのは学者以上の主張が出来るのでしょうか。
数学者や物理学者からすれば、民衆の主張する理論の大部分は聞くに値しない意見と言えます。
ソクラテスの主張していることも同じで、この時代、哲学の分野でソクラテス以上に物事を疑い、真実を求めて考え抜いた哲学者はいないと思われます。

そんな哲学者の彼からすれば、日々、生きる目的や人生の到達点について考えたこともない人間の主張は、大半が聴くに値しない事だと思っていても、おかしな話ではありません。
話を戻すと、クリトンは、『大衆の意見の大部分は聴くに値しない。』と答えます。

何故、敢えて、このようなことを聞いたのかというと、もし、クリトンの意見が変わっていたとするのならば、それはダブルスタンダードということになり、ポジショントークに過ぎません。
自分がいる立場によって基準が変わってしまうのであれば、ここでクリトンと話しても意味がないことになってしまいます。 何故なら、どれだけ論理的に答えたとしても、相手のその時の状況によって基準が変わるからです。
その様な人物が話しても真理に到達するはずがないので、対話そのものに意味が無くなることになります。

しかし、もし、ソクラテスが死刑になろうが無罪になろうが関係がなく、その答えが有効であるとするのなら、その意見は何かしらの普遍性を備えていることになるので、深堀りする意味が出てきます。
クリトンは、この立場においても『まだ有効』だとしたので、この結論を元に、考察を始めていくことにするのですが…
この続きは、また次回に話していこうと思います。

参考文献