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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第114回【クリトン】国家と法律 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

今回も、前回までと同じように、プラトンが書いた対話篇、クリトンの読み解きを行っていきます。
対話篇の朗読を行うわけではなく、作品の要約を行った上で、私自身が解釈した解説を付け加えるという形式でコンテンツを作っていますので、内容に興味を持たれた方は、原作を読まれることをお勧めします。
この対話編ですが、かなり短いためか、大抵の場合は、前に読み解きを行った『ソクラテスの弁明』を買うと、付いてきます。

ソクラテスの弁明自体が、1冊読み切りで漫画化されていたりもするんですが、その内容も、ソクラテスの弁明とクリトンを合わせたような内容になっていたりします。
その為、クリトンの内容に興味を持たれた方で対話編をお探しの方は、クリトンとセットになっているソクラテスの弁明を購入することをお勧めします。

無責任な大衆

前回の話を簡単に振り返ると、親友のソクラテスが刑罰によって死んでしまうことに耐えられなかったクリトンが、『君を見殺しにすると、私や仲間たちが市民から非難されるので、脱獄して欲しい。』と持ちかけます。
しかしソクラテスは、『市民達に責められるというが、彼らの主張する事は正しいことなんだろうか?』と疑問を投げかけます。
ソクラテスに言わせれば、大半の市民は、アレテーについて考えたことすら無いのに、その答えを知った気になっている無知な存在です。

アレテーについて考えたこともないということは、市民達はそれを構成している『正義』や『美しさ』、善悪を見極める分別なども理解していないし、その能力も持ち合わせていません。
そんな彼らが、『友達のソクラテスを見殺しにするなんて、君は酷い奴だな!』とクリトンを責め立てたとしても、その行動に正義が宿っているかどうかは怪しいものです。
何故なら彼らは、正義のなんたるかを今までの人生で考えたことが無いからです。

何が正義かを考える場合、正義について自分は無知だと認めるところから始めなければなりませんが、市民たちは、正義の本質を知っていると思いこんでいるので、更に深く考えるなんてことはしません。
そんな思考停止した者達から『非難されるのが怖いから』という理由だけでは、脱獄する正当な理由にはなりません。
しかし、今回のクリトンの提案は『脱獄する』か『脱獄しない』かの2択であるため、市民たちの圧力に負けて脱獄するという選択肢が、確実に間違っているかどうかはわかりません。

もしかすると、アレテーを知らない市民たちの行動が、偶然にも正しい道を指し示している可能性も捨てきれないからです。

大衆の意見は正しいのか

そこでソクラテスは、クリトンとこのテーマについて考える事で、どちらの選択を選べばよいのかを考えようと提案します。
これにクリトンが同意し、『アテナイ人によって死刑判決をくだされたソクラテスが、彼らの同意なしに脱獄する行為は正しい行為なのか、それとも不正行為なのか』をテーマに考えていくことになります。

ソクラテスは、2人で考えた結果がもし、『脱獄するほうが良い』という結論が出た場合は、クリトンに従って脱獄する事を約束します。
しかし、脱獄が不正行為であるという結論が出た場合は、脱獄することをせず、この場に留まって死を受け入れるとクリトンに伝えます。
なぜなら、仮に、ここにとどまり続けることで拷問や死刑という残酷な仕打ちを受けたとしても、それらの仕打ちは、自ら不正行為に手を染めることに比べれば、遥かにマシなことだからです。

クリトンは、この提案に同意しますが、考えると言っても具体的に何から始めればよいのかわからないと言い出したので、ソクラテスは、討論の切り口を与えるためにも自らの考えを話し始めます。

不正行為は行ってはいけないのか

ソクラテスはまず、最初に前提条件の確認を行います。
その前提条件とは、『不正行為は絶対に行ってはいけないことかどうか。』ということです。
これは、特に理由がない場合、不正行為を行ってはいけないというのは当然のことですが、もし仮に、不正を行っても仕方がないような理由がある場合、それでも不正行為は許されないのかということです。

ソクラテスとクリトンは、過去に何度もこのテーマについて考えたことがあるらしく、その際に出た答えとしては『いかなる場合であったとしても不正行為はしてはならない。』というものでした。
しかしクリトンの今回の主張は、この結論を覆すことになりかねない主張ともいえます。
ソクラテスは、このクリトンの主張の変更に対して、『今まで何度も話し合った結果出た、いかなる場合であっても不正行為は行ってはならない。という結論は、覆すべきなんだろうか。今まで話し合ってきた時間は、無意味なものだったんだろうか?

それとも、これまでの討論は無駄ではなく、やはり、どのような状態に置かれようとも、不正は行ってはいけないんだろうか?』と、これまでの前提の確認を改めて行います。
なぜなら、普段のなにもない環境で話し合った際に出た一般論と、自分の大切な人の命が危険にさらされている状態で出された結論では、クリトンの中で意見が変わってしまっている可能性があるからです。
これに対してクリトンは、『不正行為はいかなる場合であったとしても、行ってはならない』という意思をハッキリとさせます。

この返答により、不正行為はいかなる場合であったとしても行ってはならないという前提が確認できました。
この前提にたてば、仮に自分が不正行為の被害にあった場合でも、報復として不正行為を働いてはいけないことになります。

理不尽に対して対抗しても良いのか

次に、この不正行為と似たような概念である害悪を不正行為に置き換えて考えてみます。
もし、他人から害悪を押し付けられようとした場合に、これに対して抵抗することも、相手の害悪に対して防御のために害悪を行うことも否定しなければならないのでしょうか。
少しわかりにくいので具体的な例で説明すると…

自分が何もしていないにも関わらず、誰かが急に殴りかかってきた場合に、これに抵抗するために相手を押し返したり、攻撃は最大の防御として相手を殴っておとなしくさせるといったことは、やってはいけないのでしょうか。
ソクラテスが何故、わざわざ不正行為を害悪に置き換えて、何度も同じことを確認するのかというと不正行為を害悪に変えた場合には、意見を変える人間が多いからです。
例えば、現代の多くの国の法律の場合、急に襲われた際に反撃するのは正当防衛となるので、秩序を乱すことにはなりません。 もちろん、やりすぎると過剰防衛になりますが、適切な範囲であれば認められています。

これを聞かれている方の多くも、急に攻撃されたのであれば、自分の身を守るために攻撃するのは正当な理由になるので、反撃しても問題はないと考える方は多いのではないでしょうか。
当時のギリシャも同じで、このように考えるものが多かったようですが、『自分の身を守るため』といった条件がついていれば、相手に危害を加えることは正当な行為なんでしょうか。
それとも、相手に害悪を与えてはいけないという主張は、正当防衛すら許されない強いものなんでしょうか。

参考文献