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【Podcast #だぶるばいせっぷす 原稿】第115回【クリトン】命をかけた願い 前編

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目次

注意

この投稿は、私が配信している Podcast番組『だぶるばいせっぷす ~思想と哲学史』で使用した原稿です。
放送内容は、私が理解した事を元に行っています。ご了承ください。

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前回のリンク

kimniy8.hatenablog.com

今回も、前回までと同じように、プラトンが書いた対話篇、クリトンの読み解きを行っていきます。
対話篇の朗読を行うわけではなく、作品の要約を行った上で、私自身が解釈した解説を付け加えるという形式でコンテンツを作っていますので、内容に興味を持たれた方は、原作を読まれることをお勧めします。

クリトンの説得

前回までの話の振り返りを少ししていくと、死刑判決を受けて刑が執行されるのを待つソクラテスの元へ、親友のクリトンが訪れて、『死刑が執行される前に、一緒に逃げよう。』と脱獄することを勧めてきます。
クリトンがソクラテスに脱獄を進める一番の理由としては、彼に生き延びて欲しいからなんですが、しかし、それをそのままソクラテスに伝えたところで、彼は聞き入れないでしょう。
そこでクリトンはソクラテスに対し、『この牢屋では、大掛かりな脱獄計画などなくても、少しのカネを看守に渡すだけで逃げることができる。この状況で君を見殺しにしたら、私達が大衆から責められる。

また、君には子供がいるが、その子供はまだ小さいではないか。
親は、子供が一人前になるまで面倒を見なければならない義務があるが、君はその義務を放棄して、一人で死のうというのか?』といった感じで、ソクラテスが死んでしまうと周りが困ると言って説得しようとします。

これに対してソクラテスは、『その大衆は、そもそも正論を言っているのか。 彼らの言うことは正しいことなのか?』と聞き返します。
なぜなら、死刑判決を下し、今まさに彼の命を奪おうとしている存在もまた、大衆だからです。
大衆は、自分自身で死刑判決を下し、一人の人間を法の下に殺そうと決めたのに、いざ、死刑が執行されれば『何故、脱獄させなかったんだ?』と死刑囚の仲間を攻め立てる。そんな彼らに、正義はあるのだろうか?とソクラテスは疑問を返します。

国家と法律

この行動だけをみても民衆が深く考えて行動していないことは明白なのですが、その民衆が支持している答えだから確実に間違っていると断言するのも乱暴です。
そこでソクラテスは、クリトンと話し合うことで双方が納得できる答えを出し、その答えに従うと主張します。 つまり、討論の結果が脱獄すべきと出れば、クリトンに従って逃げるけれども、そうでなければ処刑されるということです。
こうして討論が始まることになるのですが、クリトンの方はというと、何から初めて良いのかがわかりません。

そこでソクラテスは、もし、法律と国家が人格を持っていて討論に参加してきたとするのならば、この様なことを言うのではないか?として、国家と法律とソクラテスとで架空の討論を始めます。
クリトンは、もし、その討論の方向性に納得できなければ反論を言えばよいし、逆に討論の方向性に納得ができるのであれば、それを受け入れて欲しいということです。
こうして、国家と法律とソクラテスとの間で討論が行われることになります。

法律の言い分としては、そもそも人は無秩序の中では生きていくことはできず、ルールに守られていなければ繁栄することはできないと主張します。
法律とは単なる規制ではなく、国家が定める婚姻制度や相続、義務教育や医療体制によって人は守られているし、そのルールの枠組こそが国家と言えます
人は国家によって安心できる生活を送ることができているにも関わらず、自分に不都合なことがあったからという理由だけで、国家が定めた法律を無視するという行為は、果たして正当な行為と言えるのでしょうか。

冤罪

ソクラテスは、国家や法律からこの様に尋ねられたとすれば、言い返す言葉がないと答えます。
ソクラテスに限らず、国家に属している人間は、その国家の定めるルールによって守られながら日常生活をしています。 その恩恵を受けているのであれば、ルールに反した際には刑罰は受け入れるべきです。

ですがここで、本当にそうなのかと疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。
というのも、法律やそれによって作られたシステムが私達を守っているというのはその通りなのですが、それを運用しているのは、神様でも完全に構築されたAIでもなく、人間です。
人間が運用している以上、そこにはエラーが生じる可能性は捨てきれません。

例えば、警察官が容疑者を捕まえた際に、その容疑者を犯人にしたいからという理由で、検察が証拠を捏造するということもあるでしょう。
逆に犯人側が、無罪を主張するために嘘の供述や、アリバイ・証人を用意するということもあるでしょう。そして、それらの証拠を見比べて判断を下すのも人間です。
この裁判官が嘘を見抜けずに、間違った判断をすることも大いにあるでしょう。 犯罪者を無罪としたり、無罪のものを有罪だと決めつける冤罪がそれに当たります。

更新し続けるシステム

今回のソクラテスの裁判で言えば、証拠や論理の話でいえば無罪です。 しかし、裁判中の態度が良くなかったからという感情的な理由だけで死刑判決が下されているので、不当な判決が下されている可能性が高いです。
であれば、裁判結果を受け入れずに逃げるというのも、一つの手です。 幸いにも、ソクラテスには一定の支持者がいますし、死刑判決を下した裁判官たちは、その支持者から責められているかも知れません。
こういう状態であれば、ソクラテスが逃げてくれた方が大勢の人たちが安心できる可能性すらあります。

この状態でも逃げるべきではないのでしょうか。明らかにシステムに欠陥があるのに、そのシステムが出した答えを受け入れなければならないのでしょうか。
ソクラテスが言うには、それでも、法律は守らなければならないと言います。
なぜなら、ソクラテスが住んでいる国のシステムには、改善するためのシステムも内包されているからです。

国家や、それを成立させている法律というのは、一度決められれば絶対に変えることができない、神から授かった十戒の様なものではなく、時代に合わせて変化させていくものです。
時代に合わなくなった法律は廃案にし、時代に沿った法律を作っていく。この様にしてシステムは、常に更新され続けているという特徴があります。
つまり、もし、システムに重大な欠陥がある事がわかったのであれば、それを修復するための法改正を行っていくというのが、正しい国のあり方です。

参考文献